2026年7月5日日曜日
短冊CDの日2026
2026年4月12日日曜日
フレネシ★ライブ At The 全日本テルミンフェス★レポート
まずこの全日本テルミンフェスについて説明するが、2005年にテルミン教室「テルミン大学」を開校し、日本国内でその普及に尽力するテルミン奏者の街角マチコ氏が主宰して、同大学の開校10周年の2015年から2017年まで定期開催していた世界でも稀な音楽フェスで、名誉会長は元ラーメンズでアーティスティックな活動でも知られるタレントの片桐仁が務めている。
2025年9月6日土曜日
モヒートを片手に ― 楽園の味と追悼の夏
今年の夏、筆者が手にするグラスには、ただの冷たい飲み物以上の意味がある。Brian Wilson が刻んだ旋律と和声は、単なる音楽を超え、人生の喜びや悲しみ、そして希望を織り込んだ時間の証だ。そんな Brian を追悼する気持ちが、筆者の胸の奥で小さな炎のように揺れている。「追悼の一杯」のためには、音楽の原点に立ち返る必要がある。――夏だ、海だ、そして The Beach Boys――。そう思い至ったとき、自然に頭に浮かんだのは、Mike Love が手がけるラム酒「Club Kokomo Spirits」だった。The Beach Boys のサウンドが生まれた California の海辺と、Carib 海の楽園を繋ぐ、甘くスパイシーな香りを宿すラム酒こそ、Brian への敬意を込める「追悼の一杯」にふさわしい。
「Club Kokomo Spirits」は、San Diego に拠点を置くLove家による家族経営のラム酒ブランドだ。添加物を使わず手作業でブレンドした「Artisanal White Rum」など、こだわりのラインナップを展開している。特に「Artisanal White Rum」は、2024年の San Francisco コンペティションでダブルゴールドを受賞するなど、高い評価を得ている。





Full Houseでの出演シーン
筆者は早速、ホワイトラム入手し、これをベースに使った自家製モヒートを作った。ミントの香りとライムの爽快感がラムの甘みと絶妙に絡み合い、一口ごとに「Aruba, Jamaica, ooh I wanna take ya…」のメロディーが頭の中で響く。ハチミツやパイナップルのほのかな余韻が追いかけるたび、Brian の音楽と、彼が描いた夏の海辺の光景が、グラスの中で生き返るかのようだ。一口飲めば、ラムの甘く厚みのある香りが鼻腔を満たす。ハチミツのようなコクと、パイナップルやマンゴーの余韻が南国の風を運ぶ。ミントの爽やかさとライムの酸味が軽やかに絡み、まるで「Kokomo」の歌詞に登場する島々を渡っているかのようだ。炭酸水の泡は海のさざ波のように口の中で踊り、後味はリズミカルで、ついもう一口、もう一口と手が伸びる。

The Beach Boys と Reagan 政権は運命的に結びつく。内務長官 Watt が独立記念日のコンサートに The Beach Boys を「ロックは不健全」として出演禁止にしたのだ。これに激怒したのは、大統領本人とファーストレディ Nancy、そして Bush 副大統領だった。「彼らは私の友人だ」「The Beach Boys は米国の象徴だ」。大統領自らの一声で決定は覆り、バンドは White House の「お墨付き」を得た。フロントマン Mike はもともと保守的な共和党支持者として知られ、この一件で The Beach Boys は単なるサマー・ソングの作り手から「健全で愛国的な米国」を体現する文化的アイコンへと昇華した。
さらに、文化的ソフトパワーの裏側には経済的“土台”もあった。Reagan が1983年に打ち出した Caribbean Basin Initiative(CBI)は、Carib 諸国への米国市場無関税アクセスを認め、共産主義の浸透を経済的に封じ込める意図があった。Bush(父)政権もこれを継承し、1989年11月には「CBIはこの地域の安定と民主化の推進力だ」と再表明している。
「Kokomo」のヒットから1年余りが過ぎた1989年12月20日、未明。大Bush大統領の命令一下、米軍によるパナマ侵攻作戦、コードネーム「Just Cause」が開始された。目的は、麻薬取引への関与を深め独裁者として君臨していたNoriega将軍の排除と、米国人の保護、そしてPanama運河の安全確保である。 公式記録ではPanama現地の米南方軍が作戦行動を開始したこととなっているが、後方支援物流部隊が米南部から行動開始する。彼らが目指すのは、カリブ海の南端、Panama。ここで、私たちは地図を広げ、戦慄すべき事実に直面する。 「ココモ」が歌い上げた楽園の地図と、後方支援物流部隊が辿った経路が、不気味なほど重なり合うのだ。 たとえば、"Aruba" (アルバ)----Panamaの目と鼻の先に浮かぶ島----のように、まるで軍事小説のように、ヒットソングが歌い上げたリゾート地のリストが、超大国の軍事作戦におけるチェックポイントをなぞっている。もちろん、これは作戦計画者が「Kokomo」を聴いてルートを決めたわけではない。地理的な必然が生んだ、恐るべきシンクロニシティであるが、この偶然は、1980年代の米国の無意識がカリブ海をどのように捉えていたかを、何よりも雄弁に物語っているのではないか。 「Kokomo」が歌うCarib海は、アメリカ人にとって安全で楽しい「遊び場」だった。そしてパナマ侵攻のルートもまた、その「遊び場」の秩序を乱す邪魔者(Noriega)を排除するための、いわば「庭師」が通る道筋だった。米国民が「Kokomo」を口ずさみ楽園への旅に夢を馳せているとき、その同じ空と海を使って、軍隊は「裏庭」の掃除に向かっていた。 楽園への甘い旅路と、正義を掲げた軍事介入。二つの物語は、Caribの太陽と硝煙の匂いが混じり合う中で、表裏一体となって存在していたのだ。
KokomoとCarib海政策を並べると、すぐに「ほら出た陰謀論」と身構える人がいる。だが、はっきり言っておこう──The Beach BoysがCIAの極秘部門と結託していたわけでもなければ、リゾートソングが米国外交の暗号文書だったわけでもない。そんなものは全てナンセンスだ。
むしろ現実はもっと単純で、もっと皮肉だ。アメリカの政治家や官僚が何百ページもかけてCarib海政策を練り上げても、人々の頭に残るのはKokomoのコーラス一節。陰謀どころか、世界の印象を動かしたのは音楽そのものだ。つまり「大仰な戦略よりも、一曲のポップソングのほうが効いた」という笑うしかない現実。考えてみれば、陰謀論は常に「裏に何かがある」と囁く。しかしKokomoには裏などない。表から堂々と「Aruba, Jamaica…」と歌い上げる、その単純さこそが力になった。だから陰謀論を広める必要など一切ない。むしろ陰謀論を持ち出すこと自体が、この曲の効力を過小評価している。
Key Largo のすぐそばにある豪邸、Mar-a-Lago は Donald Trump の別荘で、Palm Beach に位置する。114室を誇る宮殿のような建物はスペイン風ルネサンス様式の装飾で覆われ、壁には金箔、ホールには大理石、庭には噴水が並ぶ。1985年に Trump が買収して以来、単なるリゾートではなく「もうひとつの White House」と化し、各国首脳を迎える外交舞台としても使用された。2024年末、次期大統領として返り咲いた Trump を祝うべく、政財界やセレブが集まったその場に、Mike Love も登場。南国ムードを持ち込み、“Florida 流カーニバル”の空気を演出した。そして翌年1月20日、Trump は就任初日から、Gulf of Mexico を「Gulf of America(アメリカ湾)」に改称する大統領令に署名。執務室の壁には Reagan の肖像画が掲げられた。
あの夜の Mar-a-Lago。Mike が「Kokomo」を歌ったかどうか、帰依するBush 家から伝授された CBI 継続の指南を Trump に行ったのか、真相は定かではない。だが、想像してみる――「Aruba, Jamaica…」のフレーズがいつの間にか「Mar-a-Lago, Gulf of America…」の大合唱に変化し、拍手喝采のうちにモヒートの氷が溶けていた光景を........
楽園は遠くの島だけにあるわけではない。Brian Wilson を追悼しつつも、耳に残る軽やかなコーラスと、口に広がるラムの香りの中にだって見つけられる。モヒートを一口飲めば、過去の歴史も、The Beach Boys の陽気な旋律も、Mike が汗をかきながら大統領閣下に指南したかもしれない CBI の陰謀も、すべてグラスの中に溶け込む――いや、溶け込みすぎて頭が軽く揺れるくらいだ。
グラスを傾け、歴史の残響や政治的陰謀にまで思いを巡らせられたなら、今この瞬間、海辺の楽園も Florida の別荘も、グラスの中の小さな Carib 海も、すべてがひとつにつながる。そして何より Brian Wilson の笑顔を思い出せば、甘いラムの余韻も少しほろ苦く、でも愛おしくなる。さあ、耳と舌と心で旅に出よう――現実は現実で面倒でも、グラスの中では、少しだけ自由で、少しだけ陽気になれるのだから
(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)
2025年4月16日水曜日
映画『BAUS 映画から船出した映画館』
映画を観る前のタイトルからの想像と、観た後とで、こんなにイメージの変わる映画があっただろうか。そうか、そうきたかと、にやりとしたくなる場面も。そして、バウスシアターを愛した人だけの映画でもなかった。むしろ、誰のこころにもあって、記憶のどこかに潜んでいる何かを思い起こさせるような共感の物語。
しかし違った。出会いや決断、ひょんな一夜、戦争の悲惨さ、家族の日常も、生と死も、大きな感情として表されるのではなくて、静かに進行していた。本当に必要なものだけを残して、削ぎ落とした感じ。大事な場面ほど、言葉が少なかった気さえする。
さて、タイトルにある「BAUS」とは、かつて吉祥寺(東京都武蔵野市)にあって、映画はもちろん、演劇、音楽ライブ、落語など型にも枠にもはまらず上演し、観客からも作り手からも愛された劇場「バウスシアター」のこと。2014年5月31日、惜しまれつつ閉館した。
そして、昭和3(1928)年頃、この井の頭会館で働くようになったのが、本田ハジメとサネオの兄弟。吉祥寺の地で、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の、最初のふたり、である。兄弟は、「あしたを見つけにいく」と、故郷青森を飛び出し、東京に向かい、なぜか吉祥寺村にたどり着いたのだった。
映画自体が、必要なものを残して、きっぱりと削ぎ落とした展開になっているのに、私があれこれ説明してどうする……(笑)。まぁ、ここまでは、ざっくりと。
手と音が語るもの
中でも特に印象に残っているのは、武蔵野映画劇場(後に吉祥寺ムサシノ映画)の初日の場面だっただろうか、小学生のタクオと母のハマが並んで座って映画を観る場面でのこと。ふたりは手をつないでいる。ハマは優しい表情で目を閉じる。それだけなら、母と子のほほえましい場面なのだが、そのあとカメラがつながれた手にズームアップしたのだ。そしてハマは、つないだ手を優しくぎゅっとする。お母さん、ここにいるよ、大丈夫だよ、とでも言うように。
大人の手と小さな子どもの手がつながれている画像は、世の中にあふれている。検索すれば、山ほど出てくるし、とてもほほえましいものだ。
でもなぜか、この映画の流れのなかで、つながれた手がアップになった瞬間、胸騒ぎがした。そして予感は当たってしまった。その場面のあと、ハマは倒れ、亡くなってしまうのだった。
ちなみにこの母子ふたりの場面にはセリフはなかった。短いシーンだが、セリフをつけようと思えば、つけられると思う。でもやっぱり、ここにセリフはいらないんだ。
あるいは、なんの場面だったか、ある小雨の降る夜、井の頭公園に来たサネオが、井の頭池に近づき、池に手を入れようとするシーンがあった。でも、池に手を入れる直前に傘がすっと差し出される。ハマとタクオがサネオを迎えに来たのだと思う。たぶんサネオを心配して。他にも、水に手を入れようとする場面が何度かあって、それもとても気になっている。
映画を観たあとプログラムを読んだら、米倉伸さん(撮影)の寄稿の中に、手の表現について書かれている部分があった。
甫木元空(うきもとそら)監督から「今回はできれば〝手〟を撮りたい」と提案があり、米倉さんも同じことを考えていたこともあって、話し合いを進め、全編にわたって様々な〝手〟のアクションを捉えていくことを選んだのだそうだ。そうか、だから手が印象的に画面に映る場面が多かったのか、と腑に落ちた。
そういうことで言うと、音と音楽もそうだ。挿入歌の中で、ある1曲が、アレンジを変えて何度か使われていて、それがとても印象に残った。メロディはとても優しく、シンプル。シンプルなだけに、アレンジによって曲のイメージは大きく変わり、意味合いも変わっていることが、よくわかったからだ。
ドレミミ- ミレ#ミファ ミ-レ-
シドレレ- レド#レミ レ-ド-
何度か流れる中で特に印象的だったのは、音楽を担当した大友良英さんによるエレキギターの演奏だった。歪んだ音。
以前、音楽は映画に一番近い構造を持っている、と、何かで読んだことがある。どちらも時間の軸の上につくる構造物。たとえば、映像が静かな動きをしている時に、音楽がドーンとつくと、映像に別の意味が生まれてくる。その逆パターンもあるだろう。登場人物のこころを表したり、補ったり、包み込んだり、作品の精神世界を大きく表現したり。大友さんが弾くエレキギターの音を、どう聴くか。
先に、説明的なセリフやシーンが少なく、本当に必要なものだけを残して削ぎ落とした感じ、と書いたが、だからこそ響いてくる一言があったり、手の表現や音、音楽のつき方といった、言葉ではない部分の表現が雄弁で、とても豊かな感情につつまれた映画だった。
※2014年5月、バウスシアターが閉館するのに合わせて発行された『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』(ラスト・ハウス実行委員会編/株式会社boid刊)
このWebVANDAでのコラムは、ひょんな縁がきっかけで書くことのなったのだが、実は、私はバウスシアターで映画を観たことがない。バウスタウン、バウスシアターという名前は「ぴあ」などの情報誌で知っていて、気になる映画館ではあって、結婚して吉祥寺の近くに引っ越してきたときには、何度かバウスシアターの前まで行ったこともあるのだが、ついに映画を観ることのないままに、閉館してしまった。
そんな私が、バウスの映画の話を書いてもいいのだろうか。ネットやSNSには、「よく通いました」「バウスシアターは私の青春でした」といった言葉が並び、内心、ちょっと不安もあった(だから、途中からはバウス映画関係のネットものは見ないことにした)。
でもそんな不安は、映画を観終えたときには、さっぱりと無くなっていた。「バウスを愛した人だけの映画でもなかった」などの冒頭リードの文章は、この映画を観た直後の正直な気持ちだ。
それと、最初のほうで、「BAUS」について、「かつて吉祥寺にあった映画館バウスシアターのこと」と書いたが、映画の内容などを思い出しながらこうして原稿を書いているうちに、これはバウスシアターだけのことではなくて、BAUS的なもの、井の頭会館以降ずっと引き継がれてきて、そして〝映画づくり〟として今も続いている精神性や遺伝子のようなものを表しているのではないか、と思うようになった。だから、「バウスシアター」ではなくて「BAUS」なのだろう。違うかな。でも、それは観た人がそれぞれ思えばいいことかもしれないね。
井の頭公園と吉祥寺、そして自転車
※井の頭公園手前のカフェでコーヒーを飲んでから公園に行ったら、すっかり夕暮れの空色になってしまった……。この日はまだ東京のソメイヨシノは開花前で、いつものゆったりとした週末夕方の井の頭公園という感じ。 井の頭公園の正式名称は「井の頭恩賜公園」という。大正6(1917)年5月1日開園。公式ページはこちら。
※井の頭公園には園内の一画にバードサンクチュアリがあって、高さのある金網で区切られ、人間が決して入れないようになっている。そうした安心できる場所もあるし、武蔵野三大湧水池の1つに数えられる井の頭池もあることから、公園には数多くの種類の鳥がいる。井の頭公園のこうした取り組みは、本当に大事にしたい。池だけではなく、木々にも、普段あまり目にしない鳥たちがとまっているので、井の頭公園に行くことがあったら、ぜひ、静かに観察してみてくださいね。
映画の中で登場人物たちは、よく井の頭公園を歩いていた。この映画は過去と現代を行ったり来たりするが、その過去のシーンでは、兄弟で、家族で、ときにひとりで、公園を歩く場面が数多くあった。家族の日常にとって、吉祥寺における映画館経営という家業にとっても、井の頭公園が大きな存在だったことが伝わってきた。
それは現代の場面にも受け継がれ、鈴木慶一さん演じる、年を重ねて白髪になったタクオも公園に来ていた。しかもその場面は、バウスシアターが閉館する最後の日という設定で、タクオは家族の写真アルバムを開いたり、公園の中を歩いたりして過ごしていた。
そういえば、自転車に乗って来ていたな。池のまわりの道を自転車を押してのんびり歩いていたり、停めた自転車にまたがって、なぜか全力でこいでいる場面もあった。あれは何だったのかな、タクオは井の頭公園で何を思っていたのだろう……なんていうことを考えながら公園を歩いていたら、下の写真の場所で、右のほうからギーコギーコと古い自転車の音が聞こえてきた。
※写真だとわかりにくいが、けっこう急な坂道。
井の頭公園は、まわりを囲む道から池に向けて、急な下り坂になっている。アップダウンの多い公園だ。そこを、現代のタクオと同世代くらいの男性がギーコギーコと大きな音をたてて自転車をこいできて、通り過ぎていったので、おぉ~と思う。近所に住む人だろうか。慣れた坂道なのかもしれない。映画の中で現代のタクオも自転車で公園に来ていたけど、本物の拓夫さんも自転車で公園にいらっしゃるのかしら……(バウスシアターの総支配人であり、バウス閉館後は本田プロモーションBAUSの代表。本映画の原作『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』の著者)。
そして、映画が終わりに近づいたころ、タクオの携帯に電話がかかってきて、短い会話を交わすとタクオは自転車に乗り、颯爽と公園を後にする。行き先はバウスシアター。閉館する最後の日。
それまで、アルバムをめくり、池のまわりを歩き……タクオのこころが井の頭公園から離れられないような感じもあったが、自転車に乗るときの顔は、やわらかですっきりとした表情だった。この日、井の頭公園に来て、長い時間を、ひとり、公園で過ごし、気持ちに区切りがついたのだろうか。……いや、〝ひとり〟じゃない、か。もう会うことは叶わなくても心に抱き続ける大切な人たちと、向かう先には映画館を一緒に守り続けてきた仲間たちがいる。
バウスシアターは終わりの日を迎えたが、でも、街は変化し続け、「BAUS」も続いていることを映画を観た私たちはわかっている。そして、同じように、いろいろな街や人のこころにも大切な何かは消えることなくちゃんとあることも。
鉄道の駅ができたなどの理由だけでは、映画や音楽、文学といった文化を発信するような街にはならなかっただろう。この街には何か、人々を引き寄せる魅力があったわけで、それが「井の頭公園」という「場」だった気もする。ハジメ・サネオ兄弟が吉祥寺に流れ着いたのも、案外、そうした見えない力のようなものに導かれたのかもしれない。
●関連書籍
『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』ラスト・バウス実行委員会編 株式会社boid 2014年5月
『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』本田拓夫著 文藝春秋企画編集部 2018年12月
フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区・目黒区のタウン誌、雑誌「アニメージュ」のライター、「特命リサーチ200X」「知ってるつもり?!」などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』『樹木図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ
日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』など。編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。
2025年3月20日木曜日
ヤギの見つめた音楽の記憶〜1966年のフィルム・ミステリー〜San Diegoそして『Pet Sounds』








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