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2026年7月5日日曜日

短冊CDの日2026


 2023年から展開されていた『短冊CDの日』のキャンペーン・イベントも今年で4回目となり、7月7日”七夕の日”に開催される。 
 このキャンペーンは1988年に8cmサイズのCDを短冊型パッケージにしたシングルCDが生産開始されて35周年となった、2023年から展開されている『短冊CDの日』のイベントであり、密かなブームの兆しを見せているのだ。
 1990年代に青春時代を送った世代にとっては懐かしく、デジタル配信で育った令和の若い世代にとっては、この8cmサイズのCDのフォーマットは、アナログ盤やカセットテープと同様に音楽産業のリバイバル・ブームと言えるのだ。

 今月1日に弊サイトで吉田哲人のインタビューを掲載したばかりの、イエスハッピー!/吉田哲人の『I Saw The Light』もこのキャンペーンにエントリーしている作品なので未読の方はチェックしよう。


関連記事
★イエスハッピー!/吉田哲人『I Saw The Light』
吉田哲人リリース・インタビュー>記事はこちら

 
 ここでは『短冊CDの日 2026』にエントリーされて、7月7日に同時リリースされる中から、弊サイトのカラーや筆者の好みやで選出した作品を中心に紹介したいと思う。各作品の文末に予約リンク先を付けているので、筆者の解説で興味を持った読者は入手して聴いてほしい。

●短冊CDの日2026 Supported by Pococha公式サイト:https://tanzaku-day.jp/



sommeil sommeil と なんちゃらアイドル 
『9月の海はクラゲの海』(NRSD-3176)

  まずは2人組アイドルグループ”sommeil sommeil(ソメイユ・ソメーユ)”と”なんちゃらアイドル”の2組のコラボレーションによる、ムーンライダーズの「9月の海はクラゲの海」(『ドント・トラスト・オーバー・サーティー』収録1986年)カバーから取り上げたい。
 4月23日にリリースされたばかりの岡田徹氏トリビュートアルバム『Adventures in Modern Recording by TOHRU OKADA』でも覚和歌子 with Life Goes Onが取上げていたが、ライダーズ史上屈指の美しさを誇るこのメロディは、巧みな歌唱力で歌い上げるタイプの曲では決してない。例えるならフェデリコ・フェリーニ監督『道』(1954年)でのジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の生き方に通じる純粋無垢な歌唱が似合うのだ。そしてその直向きさが聴く人の心を強く打つ。掛け値なしに名曲とはそういうものなのだ。


 ここでのカバー・ヴァージョンは、sommeil sommeilのnemumiと夢乃なこ、なんちゃらアイドルの御茶海(みさみ)マミとあおはるが、4人のユニゾンと各々のソロパートに分けてボーカルを取っており、その無垢な歌声を聴かせている。編曲と演奏は1989年に結成されたベテラン・バンドのスキップカウズのリーダーでギタリストの遠藤肇が担当し、モジュレーションが効いたギターリフを中心に、岡田徹へのシンパシーが感じされるサウンドを構築している。
 カップリングにはsommeil sommeilがなんちゃらアイドルの「PansyとDaisy」(同名7インチシングル/2020年)、なんちゃらアイドルの方はsommeil sommeilの「夕立クロニクル」(『Re:relation』収録/2025年)をトレードしカバーしているのがユニークだ。バックトラックはそれぞれのオリジナルを流用しているようだが、ボーカルの声質やキャラクターが異なるのでファンは楽しく聴けると思う。
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平野友里
『MICKEY』(NRSD-3174)

 昨年PRINCESS PRINCESSの「世界でいちばん熱い夏」と渡辺美里の「恋したっていいじゃない」カップリング・カバーで短冊CDをリリースしたアイドル・シンガーのゆり丸こと平野友里は、今回Great Hunting主宰で敏腕A&Rマンの加茂啓太郎のプロデュースにより、アメリカの女性シンガーで振付師のトニー・バジル(Toni Basil)が1982年に大ヒットさせた「MICKEY」をタイトル・ソングとしてカバーしている。
 またカップリングは平野友里のセルフ・プロデュースで、小室哲哉の作編曲とプロデュースでヒットしたhitomiの「CANDY GIRL」(1995年)を取り上げている。前者は加茂が発掘したクリエイターのZuuun、後者はマイクロスターの佐藤清喜が編曲と演奏及びプログラミングを担当しており、いずれのサウンドもダンス・ミュージックとして優れているのでDJ諸兄は必携だろう。
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 なんちゃらアイドルや平野友里とレーベルメイトで、同日に短冊CDをリリースする他のアーティストも触れておこう。シンガー・ソングライターのルカタマと、伝説のガールズバンド“マサ子さん”のボーカルまゆたんで結成された女性2人組ユニットTAMAYURAMは、昨年の『bye-bye, tape echo』に続き、1980年代子供番組「どきんちょ!ネムリン」のテーマ曲をカバーした『ぴんく ピンク PINK』(NRSD-3175)をリリースする。
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 前出の『Adventures in Modern Recording by TOHRU OKADA』にも参加した、富士山ご当地アイドルグループで井出ちよのソロユニットというべき3776(みななろ)は、昨年の『さよなら渦巻きの中の私』も音楽性が高かったが、今年の『六四』(EXTE-3776)も変拍子と巧みなギターカッティングを持つ実験作ポップスで音楽通を唸らせるだろう。
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松永天馬
『唇まで8センチ / 背中まで45分』(NRSD-3172)

 そして最後に紹介するのは、前衛ポップロックバンド、アーバンギャルドのリーダーでボーカルの松永天馬がソロ名義で『唇まで8センチ / 背中まで45分』をリリースする。
 両A面扱いであるがメインタイトル曲は、本キャンペーンの短冊CDのサイズである8cmから着想されたと思しき松永による作詞と、音楽プロデューサーでソングライターの佐々木喫茶(ささき きっさ)が作編曲した書き下ろしの新曲である。
 作家や詩人の肩書を持つ松永の歌詞の世界は、エスプリが効いた言葉の選び方やダブルミーニングの使い方もプロフェッショナルな仕事で、佐々木による1980年代中期のYAMAHA DX7などのアタックの強いFM音源系シンセサイザー・ベースやブルースハープを模したリード・シンセのリフ等々、懐かしくも新しいエレクトロポップ・サウンドにマッチしている。主役である松永のボーカルもBPMが変化しまくるこの曲でピッチや表現力など申し分なく、正にこの短冊CDキャンペーンのアンセム(Anthem)として相応しい完成度なのだ。


 両A面のカップリングは、井上陽水がソングライティングして沢田研二(以降:ジュリー)に提供した「背中まで45分」(1983年)のカバーである。ジュリーにとっては38枚目のシングルで、同曲のシングル・ヴァージョンの編曲を担当したのは、嘗てりりィのバイバイ・セッション・バンドやナイアガラ・レーベルのセッションにも参加していたベーシストの吉田建で、彼が率いるエキゾティクスがジュリーのバックバンドだった時期(1981年~1984年)でもあった。当時のニューウェイヴ・サウンドとの親和性が高い時期でも知られ、ジュリーとエキゾティクス、それを許容したプロデューサー加瀬邦彦(元ザ・ワイルドワンズのリーダー)の先見性の高さは、音楽界の最前線を生き抜いてきた一流の嗅覚と言えよう。
 ここでのカバー・ヴァージョンの編曲と演奏及びプログラミングは、アーバンギャルドのサポート・キーボーディストも務めるシンセサイザー奏者の杉山圭一で、陽水の独特な歌詞世界に流れているデカダンスでアンニュイなイメージを巧みに演出している。オリジナルの編曲はシングルVer:吉田健、アルバム『MIS CAST』収録Ver:白井良明(ムーンライダーズ)と各人の異なるセンスによって制作されていたが、杉山は更に個性的なサウンドを追求している。それはエキゾチックなミッドテンポのポリリズムやフィル・マンザネラ(Phil Manzanera)に通じるギター・サウンド、空間の隙間を活かしたミックスで施したサウンドで、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)の最終作『Avalon』(1982年)を彷彿とさせて、実に素晴らしいカバーになったと一聴して魅了されてしまった。
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 なお松永天馬が率いるアーバンギャルドは、彼らが主宰する恒例のミュージック・フェスティバル「鬱フェス」を9月に開催するので、興味を持った読者は是非参加してほしい。
 同フェスにはバンドの二枚看板である松永と浜崎容子を中心に交流を持つ、神聖かまってちゃんや大槻ケンヂなど個性的な著名アーティストやバンドが多くゲスト出演し、弊サイトでもお馴染みの才女シンガー・ソングライターのフレネシの出演も決定している。
関連記事
浜崎容子/『フィルムノワール』>記事はこちら
★フレネシ記事一覧>記事はこちら  


アーバンギャルドpresents
 鬱フェス 2026

◎日時:2026年9月21日(月・祝)
開場 14:00 / 開演:14:30~

◎会場:CLUB CITTA’(神奈川県):アクセスはこちら

◎出演者
アーバンギャルド

◎ゲスト出演者
神聖かまってちゃん
大槻ケンヂ(オーケンギャルド)
挫・人間
色々な十字架
東京メルヘン倶楽部
フレネシ
水中、それは苦しい
赤いくらげ
絵恋ちゃん
古山菜の花
カラコルムの山々
AIR-CON BOOM BOOM ONESAN

◎イープラス先行チケット予約:こちらをクリック


(テキスト:ウチタカヒデ

2026年4月12日日曜日

フレネシ★ライブ At The 全日本テルミンフェス★レポート 


 昨年10月に活動を再開し、弊サイトでもお馴染みのシンガーソングライターのフレネシが、3月28日に全日本テルミンフェスで11年振りのライブをおこなったので、遅ればせながら紹介したい。


 まずこの全日本テルミンフェスについて説明するが、2005年にテルミン教室「テルミン大学」を開校し、日本国内でその普及に尽力するテルミン奏者の街角マチコ氏が主宰して、同大学の開校10周年の2015年から2017年まで定期開催していた世界でも稀な音楽フェスで、名誉会長は元ラーメンズでアーティスティックな活動でも知られるタレントの片桐仁が務めている。
 今回は9年振りとなる第4回で、ジャンルを超えたミュージシャン達のライブをはじめ、学際情報学の博士号を持ちメディアアーティストとして著名な落合陽一のインタビュー映像、編集者兼作家ながら怪談語り手としても知られる吉田悠軌まで出演するという、メディアカルチャー・イベント的側面も持っているのだ。会場は都内渋谷区代官山のUNITと晴れたら空に豆まいての2会場で開催され、開場の15時半から16組(リモート出演含め)の演奏からグランドフィナーレまで5時間を超える長丁場で繰り広げられた。

(女優兼音楽家のん氏からの祝い花と/撮影者:三宅芳夫)

 本稿の主役であるフレネシのステージは、”晴れたら空に豆まいて”において中盤の18時からのスタートで、開演前から椅子席とスタンディング客含め会場の最大キャパ(約200名)を完全に埋めて、入場規制のアナウンスがあったほどであった。
 定刻より少し遅れ、フレネシが登場する。サポート・メンバーには昨年10月にリリースしたフォースルバム『ナサリ―』が好評の無果汁団のショック太郎と、フレネシの所属事務所 ”乙女音楽研究社” を主宰する川島イタルの2名というミニマムな編成である。また後半スペシャルゲストとして本フェス主催者の街角マチコが参加している。
 セットリストに各演奏者のマークを付けているので参照して読んでほしい。

(全ライブ写真撮影者:野中麻実子)

セットリスト(2026年3月28日)
ローウィッツアーク(『キュプラ』収録/2009年)☆◎ 
nero(『キュプラ』収録/2009年)☆◎
除霊しないで(配信シングル/2025年10月)☆◎
Cloud Bossa(『ドルフィノ』収録/2013年)☆◎
運動音痴(配信シングル/2026年3月)☆◎
おやすみルナモス(配信シングル/2025年12月)☆◎★
silly joke(『ゲンダイ』収録/2012年))☆★
(収録アルバム及びシングルジャケット/曲順で上段左→下段左→)

☆フレネシ:ボーカル、シンセサイザー(microKORG)、
 アコースティックピアノ
◎ショック太郎(無果汁団):アコースティックピアノ
◎川島イタル(乙女音楽研究社主宰) :スティールパン、パーカッション、
 アコースティックギター、コーラス
★スペシャルゲスト~街角マチコ(全日本テルミンフェス主宰):テルミン 



 幕が開き「こんばんは、フレネシです」のMCが。11年の長い間待ちわびたファン達からの拍手が会場に鳴り響く。そして「この時間がずっと続いてくれたら嬉しいな。ある女友達とのエピソード」のMCから始まる冒頭曲は「ローウィッツアーク」。
 ショック太郎はグランドのアコースティックピアノ、川島はスティールパンを演奏し、リズムセクションのバックトラックをバックに歌うフレネシの歌声は、ブランクを感じさせないアンニュイで唯一無二なものだった。ファンが選ぶベストソングにも入るこの曲は、バックビートを強調した変則ポルカのリズムに、自身のエピソードをシニカルでユーモラスに描いている。またタイトルの「ローウィッツアーク」は“希少な大気光学現象”という気象学用語だが、音楽業界におけるフレネシの立ち位置を現わしているようで興味深い。
 当日ステージでのフレネシは、白のバンドカラーシャツ・ワンピースに、ミントグリーンのエプロン・ワンピースを重ねるというレイヤード・スタイル(本人談)で、ロリータ帽子を被り、まるでルノアールやモネの絵画から飛び出してきた少女のような衣装で目を惹いた。バックの2人も白シャツに黒のパンツというフレンチ・カフェのギャルソン風で、今日のステージに相応しい出で立ちである。


 続く「nero」もファーストソロアルバム『キュプラ』収録で、こちらは一転してクールでエスプリの効いた歌詞を持ち、ボサノヴァ・フィールのコード進行とグルーヴが渋谷系以降のアーティスト然としていて人気が高い。ここでショックは同じくアコピをプレイし、川島はコンパクトコンガ(別名トラベルコンガ)と呼ばれるヘッドのみで胴部が無いコンガとシェイカー、ウィンドチャイムまで担当している。
 とにかくクールなサウンドとフレネシのウィスパーボイスのコントラストがこの曲の最大の魅力であるが、間奏のシンセ・ソロまで彼女自身がプレイしている。愛用しているmicroKORGのエレピ系プリセットで、巧みなソロ・プレイは聴き応えがあった。



 3曲目は昨年10月の活動再開宣言のタイミングで、シングルとして配信リリースした「除霊しないで」だ。MCではそんな活動再開のきっかけとなった、クリープハイプの長谷川カオナシ氏のソロアルバムへの参加、NegiccoのMegu氏のシングル曲提供のオファーについて触れた後「11年振りに書いた曲が、なんでこんな曲なのかなっていうの、自分でもよく分からないのですけど・・・(苦笑)。まだ三途の川は渡らないぞ」と紹介されイントロのオケが流れてくる。前曲同様の楽器編成で、ここでもフレネシはシンセ・ソロを弾いている。楽曲的にはゼロ年代且つフレネシ・サウンドであり、心霊写真として写ったお化けが現世に未練を残しているというテーマがユニークであり、このような視点で世界を編み出せるのは彼女ならではある。

 ライブのスタートからフレネシは、ステージ下手に横向きパフォーマンスしていたためか、4曲目の前には上手側の客席に挨拶をするという心遣いがあった。MCではフレネシTシャツを着てライブ観戦するファンに触れて感謝したり、Megu氏にプレゼントされたと思しきグッズのドリンクボトルで、ライブ中愛飲しているスロートティー(ハーブティーの一種)を紹介して勧めるなど、ファンサービスのトークも大事にしていた。
 そんなリラックスした雰囲気の中で始まるのが「Cloud Bossa」だった。ここでは川島はアコースティックギターでボッサのリズムを刻み、ショックのアコピと共にこの曲を支えていた。この曲は活動休止前の最終アルバム『ドルフィノ』収録曲で、フレネシ・サウンドの中でもオーセンティックなボサノヴァで、フレネシのボーカルはアストラッド・ジルベルトよろしくサウンドに溶け込んでいた。



 後半に入ると、最新シングル「Undo-Onchi」が演奏される。乙女音楽研究社主宰の川島がソングライティングしたこの曲は、”運動音痴”というユニークなテーマの歌詞を持っているが、曲自体は60年代イタリアン映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネやピエロ・ピッチオーニに通じる欧州ラウンジ・ラテンのテイストを持っていて、彼の非凡なセンスを感じさせる。ショックは優雅なピアノをプレイし、川島はコンパクトコンガとこの曲に欠かせない独特なコーラスでサポートする。主役のフレネシのボーカルは童女のようなひたむきさを持ち、1コーラス目のサビからは歌詞に合わせてアンブレラを開き、間奏では片手でシンセ・ソロまで披露する器用さを観させてくれた。



 そして本ステージのハイライトである。今回のフェス主宰者であるテルミン奏者の街角マチコがスペシャルゲストとして、フレネシから呼ばれて登場する。ターコイズブルーの七分袖ワンピースがすらりとした美しい長身にマッチして、ただならぬ神秘性を醸し出していた。彼女は2001年に日本におけるテルミン演奏の第一人者である竹内正実氏に師事し、わずか4年後には自身の教室「テルミン大学」を設立して、長年テルミンの普及に尽力しており、令和日本のクララ・ロックモアと呼べる存在なのだ。

 そんな街角をゲストに迎えて演奏されたのは、昨年12月にリリースされた「おやすみルナモス」で、スタジオ・レコーディングにもテルミンで参加して話題になっていた。ここでの演奏陣はピアノのショックとアコースティックギターの川島に、ワルツ・パターンのドラムやリバース・ノイズなどSEを含むバックトラック、そしてボーカルとは異なる複旋律をテルミンで演奏する街角である。クラシカルなマイナーキーのバラードを無垢に歌い上げるフレネシの姿は非常に印象的で、彼女の楽曲群の中では「メルヘン」(同名アルバム収録/2010年)に通じるヨーロピアン哀愁歌としてファンの心に残ったのではないだろうか。なおこの「おやすみルナモス」終了後にショックと川島はステージからはける。



 あっという間にラストになってしまったが、7曲目は『ゲンダイ』収録の「silly joke」である。ここではフレネシはピアノに移動して弾き語りするスタイルとなり、街角はテルミンでオブリガードと間奏のソロでサポートする。


 三連符コードのピアノで演奏される愛らしいこの曲は、初期ユーミンや大貫妙子に通じる淡い乙女感覚と一人称英語歌詞のラブソングだ。間奏のえも言われぬテルミン・ソロを演奏し終えると街角は静かにステージをはけて、完全にフレネシのソロ弾き語りとなる。
 このロンリネスな曲が持つ、ひしひしとした乙女の孤独感とオーバーラップして、後ろ髪を引かれる雰囲気でステージを締め括った演出は実に素晴らしかった

 最後にフレネシのソロ活動再開後初の記念すべきステージの総括として、11年の活動休止期間中にこの日を待ちわびていた熱心でストロングなファン、そして新たに加わったニュー・ファンを魅了して、今後も彼女の世界に浸っていきたいと再認識させた、極めてエクセレントなステージであった。

(全ライブ写真撮影者:野中麻実子)


フレネシ・プロフィール

Sound Palette by frenesi 

8歳で、ささやき声しか出なくなる。20歳で衝動的に音楽活動を開始し、大学卒業までの2年間に50曲余りを作曲。
2009年6月、乙女音楽研究社からリリースした初のフルアルバム『キュプラ』が、HMV インディーズチャート1位、カレッジチャート1位を獲得し注目を集める。
その後、『メルヘン』『ゲンダイ』『ドルフィノ』の3枚のアルバムを発表したのち、2014年12月27日のワンマンライブ「フレネシ学園 伝説の終業式」をもって活動を無期限休止。
2020年にストリーミング配信が開始されたことで海外の音楽ファンを中心に新たな注目を集め、 累計再生回数は数千万回に達し 「渋谷系のビョーク」とも称される。
2025年10月31日に11年ぶりの新作『除霊しないで』を発表し活動再開を宣言、さらには12月22日に『おやすみルナモス』を発表し、大きな話題を呼んでいる。
★フレネシofficial site:こちらをクリック
◎関連記事「テルミンフェスのこと」:こちらをクリック
◎最新配信シングル「Undo-Onchi」 amazon


(設問作成、本編テキスト:ウチタカヒデ
















2025年9月6日土曜日

モヒートを片手に ― 楽園の味と追悼の夏

 今年の夏、筆者が手にするグラスには、ただの冷たい飲み物以上の意味がある。Brian Wilson が刻んだ旋律と和声は、単なる音楽を超え、人生の喜びや悲しみ、そして希望を織り込んだ時間の証だ。そんな Brian を追悼する気持ちが、筆者の胸の奥で小さな炎のように揺れている。「追悼の一杯」のためには、音楽の原点に立ち返る必要がある。――夏だ、海だ、そして The Beach Boys――。そう思い至ったとき、自然に頭に浮かんだのは、Mike Love が手がけるラム酒「Club Kokomo Spirits」だった。The Beach Boys のサウンドが生まれた California の海辺と、Carib 海の楽園を繋ぐ、甘くスパイシーな香りを宿すラム酒こそ、Brian への敬意を込める「追悼の一杯」にふさわしい。

 「Club Kokomo Spirits」は、San Diego に拠点を置くLove家による家族経営のラム酒ブランドだ。添加物を使わず手作業でブレンドした「Artisanal White Rum」など、こだわりのラインナップを展開している。特に「Artisanal White Rum」は、2024年の San Francisco コンペティションでダブルゴールドを受賞するなど、高い評価を得ている。




Kokomoのサビ歌詞部分をもじった意匠もニヤリとさせる

ここにMikeの名前が確認できる

 Mike と Kokomo は、もはや切り離せない関係にある。この曲は実質 Brian 抜きで制作された象徴的ヒットだからだ。ファンの中には「Kokomo!Brian なしの The Beach Boys?追悼なのにちょっと不謹慎じゃない?」と眉をひそめる人もいるだろう。だが、事実は事実。
 1988年の「Kokomo」は Brian はレコーディングに参加していない。それでも全米はこの曲で南国にトリップしたのだ。まさに「Brian なしでも The Beach Boys は The Beach Boys」的現実に、ファンは笑うしかない。ちなみに Brian は、ちゃっかりテレビ番組『Full House』に出演し、「Kokomo」の一節を歌うというファン心をくすぐる小さな悪戯も忘れない。そしてスペイン語バージョンでは、ようやく Brian も参加している。まるで「ほら、僕もいるんだよ」とニヤリと笑うかのようだ。

Full Houseでの出演シーン

 筆者は早速、ホワイトラム入手し、これをベースに使った自家製モヒートを作った。ミントの香りとライムの爽快感がラムの甘みと絶妙に絡み合い、一口ごとに「Aruba, Jamaica, ooh I wanna take ya…」のメロディーが頭の中で響く。ハチミツやパイナップルのほのかな余韻が追いかけるたび、Brian の音楽と、彼が描いた夏の海辺の光景が、グラスの中で生き返るかのようだ。一口飲めば、ラムの甘く厚みのある香りが鼻腔を満たす。ハチミツのようなコクと、パイナップルやマンゴーの余韻が南国の風を運ぶ。ミントの爽やかさとライムの酸味が軽やかに絡み、まるで「Kokomo」の歌詞に登場する島々を渡っているかのようだ。炭酸水の泡は海のさざ波のように口の中で踊り、後味はリズミカルで、ついもう一口、もう一口と手が伸びる。


……いや、待てよ、これは音楽誌の記事のはずでは?読者諸氏には、Brian Wilsonを追悼しつつ、いつの間にか筆者がCaribグルメ評論家に変身してしまった奇妙な現象を笑っていただきたい。モヒート片手に音楽を語るつもりが、気づけば南国の香りと甘いラムの余韻でページを埋め尽くしている。ああ、これぞ追悼の妙技、いや、モヒートの魔力かもしれない。

 Mike Love のラム酒と「Kokomo」の象徴性は、単なる音楽とカクテルの楽しみを超え、1980年代の Florida 南部と Carib 海政策とも微妙に絡む。Reagan–Bush 政権下での Carib 海政策は、経済支援や軍事プレゼンスを通じて地域を「米国の裏庭」と位置付けた。Mike Love は、文化的には「南国の夢」をアメリカ社会に浸透させる役割を果たしていたと言えるだろう。「Kokomo」という楽園のイメージは、無意識のうちにこの地政学的文脈ともリンクしていたのだ。「Kokomo」が生まれる数年前、Carib 海は楽園とはほど遠い、地政学的な火薬庫だった。1979年の Nicaragua 革命、そして Grenada の親 Cuba 政権樹立。ソ連と Cuba の影響力が、アメリカ合衆国の喉元である「裏庭」にまで及ぶ事態に、Reagan 大統領は強い危機感を抱いていた。その答えが、強硬な反共産主義政策である。具体的な発露が、1983年10月の Grenada 侵攻だ。米国人医学生の保護を名目に、米軍は電光石火の作戦で軍事クーデター政権を打倒。世界に、Carib 海における共産主義の拡大は容認しないという断固たる意志を示した。

 The Beach Boys と Reagan 政権は運命的に結びつく。内務長官 Watt が独立記念日のコンサートに The Beach Boys を「ロックは不健全」として出演禁止にしたのだ。これに激怒したのは、大統領本人とファーストレディ Nancy、そして Bush 副大統領だった。「彼らは私の友人だ」「The Beach Boys は米国の象徴だ」。大統領自らの一声で決定は覆り、バンドは White House の「お墨付き」を得た。フロントマン Mike はもともと保守的な共和党支持者として知られ、この一件で The Beach Boys は単なるサマー・ソングの作り手から「健全で愛国的な米国」を体現する文化的アイコンへと昇華した。

 さらに、文化的ソフトパワーの裏側には経済的“土台”もあった。Reagan が1983年に打ち出した Caribbean Basin Initiative(CBI)は、Carib 諸国への米国市場無関税アクセスを認め、共産主義の浸透を経済的に封じ込める意図があった。Bush(父)政権もこれを継承し、1989年11月には「CBIはこの地域の安定と民主化の推進力だ」と再表明している。

 「Kokomo」のヒットから1年余りが過ぎた1989年12月20日、未明。大Bush大統領の命令一下、米軍によるパナマ侵攻作戦、コードネーム「Just Cause」が開始された。目的は、麻薬取引への関与を深め独裁者として君臨していたNoriega将軍の排除と、米国人の保護、そしてPanama運河の安全確保である。 公式記録ではPanama現地の米南方軍が作戦行動を開始したこととなっているが、後方支援物流部隊が米南部から行動開始する。彼らが目指すのは、カリブ海の南端、Panama。ここで、私たちは地図を広げ、戦慄すべき事実に直面する。 「ココモ」が歌い上げた楽園の地図と、後方支援物流部隊が辿った経路が、不気味なほど重なり合うのだ。 たとえば、"Aruba" (アルバ)----Panamaの目と鼻の先に浮かぶ島----のように、まるで軍事小説のように、ヒットソングが歌い上げたリゾート地のリストが、超大国の軍事作戦におけるチェックポイントをなぞっている。もちろん、これは作戦計画者が「Kokomo」を聴いてルートを決めたわけではない。地理的な必然が生んだ、恐るべきシンクロニシティであるが、この偶然は、1980年代の米国の無意識がカリブ海をどのように捉えていたかを、何よりも雄弁に物語っているのではないか。 「Kokomo」が歌うCarib海は、アメリカ人にとって安全で楽しい「遊び場」だった。そしてパナマ侵攻のルートもまた、その「遊び場」の秩序を乱す邪魔者(Noriega)を排除するための、いわば「庭師」が通る道筋だった。米国民が「Kokomo」を口ずさみ楽園への旅に夢を馳せているとき、その同じ空と海を使って、軍隊は「裏庭」の掃除に向かっていた。 楽園への甘い旅路と、正義を掲げた軍事介入。二つの物語は、Caribの太陽と硝煙の匂いが混じり合う中で、表裏一体となって存在していたのだ。
 KokomoとCarib海政策を並べると、すぐに「ほら出た陰謀論」と身構える人がいる。だが、はっきり言っておこう──The Beach BoysがCIAの極秘部門と結託していたわけでもなければ、リゾートソングが米国外交の暗号文書だったわけでもない。そんなものは全てナンセンスだ。
 むしろ現実はもっと単純で、もっと皮肉だ。アメリカの政治家や官僚が何百ページもかけてCarib海政策を練り上げても、人々の頭に残るのはKokomoのコーラス一節。陰謀どころか、世界の印象を動かしたのは音楽そのものだ。つまり「大仰な戦略よりも、一曲のポップソングのほうが効いた」という笑うしかない現実。考えてみれば、陰謀論は常に「裏に何かがある」と囁く。しかしKokomoには裏などない。表から堂々と「Aruba, Jamaica…」と歌い上げる、その単純さこそが力になった。だから陰謀論を広める必要など一切ない。むしろ陰謀論を持ち出すこと自体が、この曲の効力を過小評価している。

 Key Largo のすぐそばにある豪邸、Mar-a-Lago は Donald Trump の別荘で、Palm Beach に位置する。114室を誇る宮殿のような建物はスペイン風ルネサンス様式の装飾で覆われ、壁には金箔、ホールには大理石、庭には噴水が並ぶ。1985年に Trump が買収して以来、単なるリゾートではなく「もうひとつの White House」と化し、各国首脳を迎える外交舞台としても使用された。2024年末、次期大統領として返り咲いた Trump を祝うべく、政財界やセレブが集まったその場に、Mike Love も登場。南国ムードを持ち込み、“Florida 流カーニバル”の空気を演出した。そして翌年1月20日、Trump は就任初日から、Gulf of Mexico を「Gulf of America(アメリカ湾)」に改称する大統領令に署名。執務室の壁には Reagan の肖像画が掲げられた。

 あの夜の Mar-a-Lago。Mike が「Kokomo」を歌ったかどうか、帰依するBush 家から伝授された CBI 継続の指南を Trump に行ったのか、真相は定かではない。だが、想像してみる――「Aruba, Jamaica…」のフレーズがいつの間にか「Mar-a-Lago, Gulf of America…」の大合唱に変化し、拍手喝采のうちにモヒートの氷が溶けていた光景を........

 Mar-a-Lagoでのライブ、次期(当時)大統領閣下は後ろ姿

 楽園は遠くの島だけにあるわけではない。Brian Wilson を追悼しつつも、耳に残る軽やかなコーラスと、口に広がるラムの香りの中にだって見つけられる。モヒートを一口飲めば、過去の歴史も、The Beach Boys の陽気な旋律も、Mike が汗をかきながら大統領閣下に指南したかもしれない CBI の陰謀も、すべてグラスの中に溶け込む――いや、溶け込みすぎて頭が軽く揺れるくらいだ。
 グラスを傾け、歴史の残響や政治的陰謀にまで思いを巡らせられたなら、今この瞬間、海辺の楽園も Florida の別荘も、グラスの中の小さな Carib 海も、すべてがひとつにつながる。そして何より Brian Wilson の笑顔を思い出せば、甘いラムの余韻も少しほろ苦く、でも愛おしくなる。さあ、耳と舌と心で旅に出よう――現実は現実で面倒でも、グラスの中では、少しだけ自由で、少しだけ陽気になれるのだから

(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2025年4月16日水曜日

映画『BAUS 映画から船出した映画館』


映画を観る前のタイトルからの想像と、観た後とで、こんなにイメージの変わる映画があっただろうか。そうか、そうきたかと、にやりとしたくなる場面も。そして、バウスシアターを愛した人だけの映画でもなかった。むしろ、誰のこころにもあって、記憶のどこかに潜んでいる何かを思い起こさせるような共感の物語。

 



  映画を観る前と後とでイメージが変わったなと思う要素はいくつかあって、そのひとつが、説明的なセリフやシーンが少ない、ということだった。それはもう、潔いまでの少なさだった。そして、小さな記憶のかけらがひとつひとつ、大切に積み重ねるように綴られていることも。

  映画で描かれていたのは、吉祥寺の地で、映画館、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の物語。この家族にとって、映画館は家業だったということになる。それだけに、映画や映画館への思いも大きかっただろうし、経営を続けていく苦労も並大抵のことではなかったはずだ。兄弟や家族が中心となって経営するとなれば、遠慮もないから、言い合いになるようなこともあったかもしれない。時代が時代でもある。昭和のはじめから、戦争の時代を経て、戦後、人々の生活スタイルも街も娯楽もガラガラと大きく変貌した時代。90年という長い年月の間には、家族のあり方も変わる。山あり谷あり、濃密な内容と展開を、なんとなく想像していた。

 しかし違った。出会いや決断、ひょんな一夜、戦争の悲惨さ、家族の日常も、生と死も、大きな感情として表されるのではなくて、静かに進行していた。本当に必要なものだけを残して、削ぎ落とした感じ。大事な場面ほど、言葉が少なかった気さえする。

さて、タイトルにある「BAUS」とは、かつて吉祥寺(東京都武蔵野市)にあって、映画はもちろん、演劇、音楽ライブ、落語など型にも枠にもはまらず上演し、観客からも作り手からも愛された劇場「バウスシアター」のこと。2014年5月31日、惜しまれつつ閉館した。



 その歴史をさかのぼると、大正141925)年に創設された「井の頭会館」にいきつく。村の有志約100人が出資して、村の娯楽場としてつくられ、映画をはじめ、浪曲や浪花節などの興行も行っていたそうだ。この映画のなかで、支配人のセリフとして、「みんなここに来て、映画を観て、明日またがんばるための英気を養うんだ」というようなことが語られていた。まだ吉祥寺村と呼ばれていた時代。大正12年に起きた関東大震災で被害の大きかった地域から逃れてきた人も多く、吉祥寺村周辺の人口は急増したというが、まだまだ店などは少なく、娯楽らしい娯楽もなかったようだ。そんな時代に、人々がお金を出し合ってつくった場所は住民にとって大切な場所であったと想像できる。

 そして、昭和3(1928)年頃、この井の頭会館で働くようになったのが、本田ハジメとサネオの兄弟。吉祥寺の地で、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の、最初のふたり、である。兄弟は、「あしたを見つけにいく」と、故郷青森を飛び出し、東京に向かい、なぜか吉祥寺村にたどり着いたのだった。

 映画自体が、必要なものを残して、きっぱりと削ぎ落とした展開になっているのに、私があれこれ説明してどうする……()。まぁ、ここまでは、ざっくりと。  

※映画パンフレットの表紙。鈴木慶一さん演じるタクオがたばこのけむりをくゆらす場面は、映画のなかで印象的につかわれる。裏表紙の右下には、井の頭会館で弁士をつとめる兄のハジメの裏方として蓄音機でレコードをかける若き日のサネオ。このシーン、好きだなぁと思っていたら、表紙にも使われていた。 



手と音が語るもの

  もう1つ、気になったのは「手」の表現だった。説明的なセリフやシーンの少ない映画だったと先述したが、その分、登場人物の「手」が多くを語っていた気がする。

 中でも特に印象に残っているのは、武蔵野映画劇場(後に吉祥寺ムサシノ映画)の初日の場面だっただろうか、小学生のタクオと母のハマが並んで座って映画を観る場面でのこと。ふたりは手をつないでいる。ハマは優しい表情で目を閉じる。それだけなら、母と子のほほえましい場面なのだが、そのあとカメラがつながれた手にズームアップしたのだ。そしてハマは、つないだ手を優しくぎゅっとする。お母さん、ここにいるよ、大丈夫だよ、とでも言うように。

大人の手と小さな子どもの手がつながれている画像は、世の中にあふれている。検索すれば、山ほど出てくるし、とてもほほえましいものだ。

でもなぜか、この映画の流れのなかで、つながれた手がアップになった瞬間、胸騒ぎがした。そして予感は当たってしまった。その場面のあと、ハマは倒れ、亡くなってしまうのだった。

 ちなみにこの母子ふたりの場面にはセリフはなかった。短いシーンだが、セリフをつけようと思えば、つけられると思う。でもやっぱり、ここにセリフはいらないんだ。

あるいは、なんの場面だったか、ある小雨の降る夜、井の頭公園に来たサネオが、井の頭池に近づき、池に手を入れようとするシーンがあった。でも、池に手を入れる直前に傘がすっと差し出される。ハマとタクオがサネオを迎えに来たのだと思う。たぶんサネオを心配して。他にも、水に手を入れようとする場面が何度かあって、それもとても気になっている。

 

 映画を観たあとプログラムを読んだら、米倉伸さん(撮影)の寄稿の中に、手の表現について書かれている部分があった。

 甫木元空(うきもとそら)監督から「今回はできれば〝手〟を撮りたい」と提案があり、米倉さんも同じことを考えていたこともあって、話し合いを進め、全編にわたって様々な〝手〟のアクションを捉えていくことを選んだのだそうだ。そうか、だから手が印象的に画面に映る場面が多かったのか、と腑に落ちた。

  手そのものの表現というだけではなく、「この映画の中には〝何かを受け渡す〟という行為をもって語られる物語や、人々の関係性が多くある。社長からサネオへ、サネオからタクオへと引き継がれていく映画館、時を超えて引き継がれるアルバム、細かなことで言えばチケットをもぎる行為や、池のほとりに座り込むサネオに差し出される傘だってそうだろう」(プログラム・米倉伸さん寄稿より引用)。

 

そういうことで言うと、音と音楽もそうだ。挿入歌の中で、ある1曲が、アレンジを変えて何度か使われていて、それがとても印象に残った。メロディはとても優しく、シンプル。シンプルなだけに、アレンジによって曲のイメージは大きく変わり、意味合いも変わっていることが、よくわかったからだ。

 

ドレミミ- ミレ#ミファ ミ-レ-

シドレレ- レド#レミ レ-ド-

 

何度か流れる中で特に印象的だったのは、音楽を担当した大友良英さんによるエレキギターの演奏だった。歪んだ音。

以前、音楽は映画に一番近い構造を持っている、と、何かで読んだことがある。どちらも時間の軸の上につくる構造物。たとえば、映像が静かな動きをしている時に、音楽がドーンとつくと、映像に別の意味が生まれてくる。その逆パターンもあるだろう。登場人物のこころを表したり、補ったり、包み込んだり、作品の精神世界を大きく表現したり。大友さんが弾くエレキギターの音を、どう聴くか。

 

 先に、説明的なセリフやシーンが少なく、本当に必要なものだけを残して削ぎ落とした感じ、と書いたが、だからこそ響いてくる一言があったり、手の表現や音、音楽のつき方といった、言葉ではない部分の表現が雄弁で、とても豊かな感情につつまれた映画だった。



※2014年5月、バウスシアターが閉館するのに合わせて発行された『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』(ラスト・ハウス実行委員会編/株式会社boid刊)

 

 このWebVANDAでのコラムは、ひょんな縁がきっかけで書くことのなったのだが、実は、私はバウスシアターで映画を観たことがない。バウスタウン、バウスシアターという名前は「ぴあ」などの情報誌で知っていて、気になる映画館ではあって、結婚して吉祥寺の近くに引っ越してきたときには、何度かバウスシアターの前まで行ったこともあるのだが、ついに映画を観ることのないままに、閉館してしまった。

 そんな私が、バウスの映画の話を書いてもいいのだろうか。ネットやSNSには、「よく通いました」「バウスシアターは私の青春でした」といった言葉が並び、内心、ちょっと不安もあった(だから、途中からはバウス映画関係のネットものは見ないことにした)。

でもそんな不安は、映画を観終えたときには、さっぱりと無くなっていた。「バウスを愛した人だけの映画でもなかった」などの冒頭リードの文章は、この映画を観た直後の正直な気持ちだ。

 

それと、最初のほうで、「BAUS」について、「かつて吉祥寺にあった映画館バウスシアターのこと」と書いたが、映画の内容などを思い出しながらこうして原稿を書いているうちに、これはバウスシアターだけのことではなくて、BAUS的なもの、井の頭会館以降ずっと引き継がれてきて、そして〝映画づくり〟として今も続いている精神性や遺伝子のようなものを表しているのではないか、と思うようになった。だから、「バウスシアター」ではなくて「BAUS」なのだろう。違うかな。でも、それは観た人がそれぞれ思えばいいことかもしれないね。

 


井の頭公園と吉祥寺、そして自転車

  2025年3月22日。映画+監督舞台挨拶を観終わって、吉祥寺オデヲンを出る。土曜日夕方の吉祥寺は、人であふれていた。映画館を出てその雑踏の中に入っていったとき、なんだか映画のエンドロール映像の続きの中に自分がいるようで、奇妙な気持ちになり、思わずきょろきょろと周囲を見まわしてしまった。そして、そうだ、井の頭公園を通って帰ろう~と思い、吉祥寺駅を通り抜けて、公園のほうへ。 

井の頭公園手前のカフェでコーヒーを飲んでから公園に行ったら、すっかり夕暮れの空色になってしまった……。この日はまだ東京のソメイヨシノは開花前で、いつものゆったりとした週末夕方の井の頭公園という感じ。 井の頭公園の正式名称は「井の頭恩賜公園」という。大正6(1917)年5月1日開園。公式ページはこちら

※井の頭公園には園内の一画にバードサンクチュアリがあって、高さのある金網で区切られ、人間が決して入れないようになっている。そうした安心できる場所もあるし、武蔵野三大湧水池の1つに数えられる井の頭池もあることから、公園には数多くの種類の鳥がいる。井の頭公園のこうした取り組みは、本当に大事にしたい。池だけではなく、木々にも、普段あまり目にしない鳥たちがとまっているので、井の頭公園に行くことがあったら、ぜひ、静かに観察してみてくださいね。

 

 映画の中で登場人物たちは、よく井の頭公園を歩いていた。この映画は過去と現代を行ったり来たりするが、その過去のシーンでは、兄弟で、家族で、ときにひとりで、公園を歩く場面が数多くあった。家族の日常にとって、吉祥寺における映画館経営という家業にとっても、井の頭公園が大きな存在だったことが伝わってきた。

それは現代の場面にも受け継がれ、鈴木慶一さん演じる、年を重ねて白髪になったタクオも公園に来ていた。しかもその場面は、バウスシアターが閉館する最後の日という設定で、タクオは家族の写真アルバムを開いたり、公園の中を歩いたりして過ごしていた。

そういえば、自転車に乗って来ていたな。池のまわりの道を自転車を押してのんびり歩いていたり、停めた自転車にまたがって、なぜか全力でこいでいる場面もあった。あれは何だったのかな、タクオは井の頭公園で何を思っていたのだろう……なんていうことを考えながら公園を歩いていたら、下の写真の場所で、右のほうからギーコギーコと古い自転車の音が聞こえてきた。 

※写真だとわかりにくいが、けっこう急な坂道。


井の頭公園は、まわりを囲む道から池に向けて、急な下り坂になっている。アップダウンの多い公園だ。そこを、現代のタクオと同世代くらいの男性がギーコギーコと大きな音をたてて自転車をこいできて、通り過ぎていったので、おぉ~と思う。近所に住む人だろうか。慣れた坂道なのかもしれない。映画の中で現代のタクオも自転車で公園に来ていたけど、本物の拓夫さんも自転車で公園にいらっしゃるのかしら……(バウスシアターの総支配人であり、バウス閉館後は本田プロモーションBAUSの代表。本映画の原作『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』の著者)。

 

 そして、映画が終わりに近づいたころ、タクオの携帯に電話がかかってきて、短い会話を交わすとタクオは自転車に乗り、颯爽と公園を後にする。行き先はバウスシアター。閉館する最後の日。

それまで、アルバムをめくり、池のまわりを歩き……タクオのこころが井の頭公園から離れられないような感じもあったが、自転車に乗るときの顔は、やわらかですっきりとした表情だった。この日、井の頭公園に来て、長い時間を、ひとり、公園で過ごし、気持ちに区切りがついたのだろうか。……いや、〝ひとり〟じゃない、か。もう会うことは叶わなくても心に抱き続ける大切な人たちと、向かう先には映画館を一緒に守り続けてきた仲間たちがいる。

 

 バウスシアターは終わりの日を迎えたが、でも、街は変化し続け、「BAUS」も続いていることを映画を観た私たちはわかっている。そして、同じように、いろいろな街や人のこころにも大切な何かは消えることなくちゃんとあることも。

 

 余談

  昭和に入ると、吉祥寺、三鷹周辺の人口は急増する。鉄道が敷設されたこと、関東大震災で被災した人が移住してきたなどが主な理由だが、東京市内に比べると自然豊かで空気がきれいで、土地も安かった。あるいは、不況が時代を圧迫し、東京の中心部では思想統制などがきびしくなっており、特に文士などは、そうした場所から逃げるように移り住むケースもあったようだ。山本有三がそうだ。太宰治の場合はそれとはちょっと違うが、昭和14年、井の頭公園の裏手(住所でいうと三鷹村下連雀)に引っ越してきた。偶然にも、本田ハジメ・サネオ兄弟と同じ、青森出身である。また、「ちいさい秋みつけた」「夏の思い出」の作曲家として知られる中田喜直もこのあたりに住んでいた。「ちいさい秋みつけた」のメロディは井の頭公園を散歩している時に生まれたそうだ。園内にはピアノの形をした歌碑もある。

 鉄道の駅ができたなどの理由だけでは、映画や音楽、文学といった文化を発信するような街にはならなかっただろう。この街には何か、人々を引き寄せる魅力があったわけで、それが「井の頭公園」という「場」だった気もする。ハジメ・サネオ兄弟が吉祥寺に流れ着いたのも、案外、そうした見えない力のようなものに導かれたのかもしれない。

 

映画『BAUS  映画から船出した映画館』のCASTや上映館など詳しい情報は公式サイトでお確かめください。


●関連書籍

『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』ラスト・バウス実行委員会編 株式会社boid 2014年5月

『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』本田拓夫著 文藝春秋企画編集部 2018年12月



大泉洋子

フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区・目黒区のタウン誌、雑誌「アニメージュ」のライター、「特命リサーチ200X」「知ってるつもり?!」などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』『樹木図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』など。編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。

 



2025年3月20日木曜日

ヤギの見つめた音楽の記憶〜1966年のフィルム・ミステリー〜San Diegoそして『Pet Sounds』

        

  昨年数枚のポジフィルムを手に入れたことから、筆者の驚くべき発見の旅が始まった。ポジフィルムには、1966年の日付が記されており、スキャンしてみると数匹のヤギが写っていた。何の変哲もない動物園の風景と思いきや、そのヤギたちの姿には妙な既視感があった。しばらく考えていると、あるアルバムのジャケットが脳裏をよぎった——The Beach Boysの名作『Pet Sounds』だ。 
 さらに思いを巡らせると、筆者はSan Diego動物園グッズを長年収集してきたが、その中でも特に敷地内の子供向けエリアの写真は、滅多に目にすることがなかった。その場所が、正に『Pet Sounds』の撮影場所そのものであって、このポジフィルムの中に現れる場所と一致するのではないか?
 筆者は、今まさに何かを掴みかけているような感覚に包まれながら、さらなる証拠を追い求めることとなる。『Pet Sounds』のジャケット写真といえば、メンバーたちがヤギに餌を与えているシーンで有名だ。この写真はSan Diego動物園で撮影されたと言われているが、筆者が手にしたポジフィルムのヤギたちと見比べると、どこかで見たような個体がいた。ひょっとすると、このヤギは同時代に存在し、The Beach Boysのジャケットに登場したヤギと何らかの関係があるのではないか? この仮説を裏付けるために、筆者はさらに深く調査を進めた。
 ここにきて、さらに深く掘り下げる必要がある―ポジフィルムの撮影場所が、果たして「Pet Sounds」のジャケット画像と一致するのか? この疑問が頭から離れず、再度ジャケットを手に取る。そして、そのヒントを探す旅が始まった。 
 「Pet Sounds」のジャケット。誰もが一度は目にしたことがある、あの象徴的な画像。何度も何度もその細部を見つめながら、筆者は少しずつ、ある一致点を見つけ始めた。ジャケットの左隅、あの細かい部分に、思いもよらぬヒントが隠されていたのだ。 
 ポジフィルムをもう一度見返すと、その中の一枚に、 まるでその屋根の柄が重なるような瞬間が現れる。あの畜舎の屋根の模様が、ポジフィルムのある部分の柄と不思議なほど一致しているではないか――。これはSan Diego動物園のものに間違いない。 それから、ジャケット写真のアウトテイクを入手し、そこに写っているヤギの特徴と、筆者のポジフィルムに収められていたヤギの特徴を比較した。耳の形、角の長さ、毛の色合い、体格……細かく照らし合わせると、やはり一致する可能性が高い個体がいることに気づいた。 
 オリジナル画像のトリミング前の状態で、『Pet Sounds』の撮影時のヤギたちの写真を再確認してみる。最初に見たときは、明確な答えを見つけられずにいた。しかし、何かが引っかかる――その記憶の片隅に、ふとある個体が浮かんだのだ。
画像A左端の白黒ヤギ

 アウトテイク画像を見てみよう。 画像Aをじっくりと見つめ直してみると、そこに見覚えのあるヤギの姿があった。いや、もしかしたらこれこそが、筆者が探し求めていた個体ではないか?と感じた瞬間だった。
画像B右端の白黒ヤギ

 そのヤギの毛皮の模様は、他のどのヤギとも明らかに異なり、目を引く特徴があった。そして、その特徴的な毛皮の模様をよく見てみると、画像Bにも酷似する個体がいた――これが決定的なヒントだ。 

筆者蔵のポジフィルム

 ここで筆者の中に浮かんだ仮説は、撮影がどの順番で行われたのかを考慮したものだ。Al、Mike、Dennis、Brian、Carl――彼らの立ち位置を踏まえると、撮影はおそらくB→Aの順番で進められたに違いない。ヤギは、まずAlに向かって突進し、次にその動きがBrianとCarlの間に向けられる。そして、最終的にこのヤギは、Brianに撫でられているのだ。 
  San Diego動物園を訪れたThe Beach Boysだが、彼らの訪問は決して穏やかなものではなかった。当時の新聞記事によると、彼らは新アルバム『Our Freaky Friends』(後に『Pet Sounds』に変更)のジャケット写真を撮影するために動物園を訪れた。 記事には、撮影中に動物たちがストレスを感じ、動物園の広報担当者Bill Seatonが「動物たちはストレスで壊れそうだった」とコメントしたことが記されている。特に、メンバーがヤギやゾウ、ゴリラとポーズを取る際、動物たちが慌てていた様子が報じられていた。最終的に、動物園側はThe Beach Boysの訪問を「もう歓迎しない」とまで言い切ったという。
The Beach Boysの行状を報道した
当時の地方紙記事

 San Diego動物公園とWilson一族には、音楽の世界では知られざる歴史的な繋がりがある。数代前、Wilson一族はアメリカ中部から西部への移住を決意し、SanDiego近郊に葡萄畑を開くことに挑戦した。しかし、厳しい土地条件と経済的な困難に見舞われ、彼らの試みは残念ながら失敗に終わった。その結果、Wilson家は尻尾を巻いて故郷に戻ることになったという。 しかし、この失敗の歴史には一つの皮肉が待っていた。葡萄畑の近くには、後にSan Diego動物公園の姉妹施設となるサファリパークが開業している。そして、その「仇の地」であるSan Diegoが、後にWilson一族にとって重要な舞台となったことは、まさに運命的な出来事だった。 Wilson家の歴史を受け継いだBrianは、父祖の失敗した地であるSanDiegoを舞台に、音楽の名作『Pet Sounds』を生み出した。Brianは、父祖が苦しんだ土地を逆に、自らの芸術的表現の場として活かしたのだ。このアルバムは、彼の音楽的才能だけでなく、Wilson家の歴史に対する一種の復讐のような意味も込められているのかもしれない。 さらに興味深いのは、Wilson家の辛酸を舐めた葡萄畑が、Brian自身も関わったアルバム『Orange Crate Art』のパッケージに使われているという事実だ。このアルバムは、BrianとVan Dyke Parksの共同制作によるもので、Wilson家の過去を象徴するかのように、葡萄畑の写真がジャケットに使われている。 
1904年当時のThe Wilson grape ranch

 このように、Wilson家の歴史とSan Diegoは、Brianの音楽と深い繋がりを持っている。父祖の失敗した地が、彼にとっての創作の源泉となり、名作『Pet Sounds』という音楽的な遺産を生み出したことは、まさに皮肉であり、また感動的でもある。Wilson一族の歴史が音楽を通じて新たな意味を持つ瞬間は、音楽ファンにとっても、また新たな視点を提供してくれる。
 
  筆者は長年にわたってSan Diego動物公園関連のグッズを細々と収集してきたが、その中でも特に秀逸なのが1965年のパンフレットだ。

 このパンフレットに使用されている書体がCooper Blackであり、『Pet Sounds』のデザインワークに何かしらの影響を与えているのは明らかである。 Cooper Blackは、20世紀初頭に生まれた特徴的な書体で、太く丸みを帯びたデザインが特徴だ。この書体は再び注目され、特にポップカルチャーや音楽業界で多く使用されるようになった。『Pet Sounds』のアルバムジャケットに採用されたロゴフォントの印象と、緑を基調にした1965年のSan Diego動物園パンフレットのデザインには共通点が多く、The Beach Boysのデザインチームが何らかの形でこのパンフレットからインスピレーションを得た可能性は否定できない。
左下が撮影場所のChildren's Zoo

      
      Children's Zoo拡大図:右上に件の畜舎らしきものが確認できる

 筆者の脳裏に残る、あのひっかかる点。まだ解決しきれていない、このヤギの謎がどうしても気になる。何度も再チェックし、再調査を繰り返す中で、 筆者はついにそれを見つけた――いや、むしろそれが私を見逃すはずがなかったのだ。 何かで見たような気がする、その姿。何度も見返すうちに、ある記憶が蘇った。それは、「Sub Pop」からリリースされたシングル盤(1996年 SP363)のジャケットだ。あのシングル盤に使われていたヤギが、ポジフィルムに写っているヤギと一致しているのではないか? 白黒のヤギの後ろ姿が中心となるそのジャケット。写真のディテールは異なれど、そのヤギの輪郭や毛皮の模様、そしてその存在感が、ポジフィルムに映るヤギの姿と最終的に重なった。まさにこれこそが、筆者が探していた「何か」だった。 そして、その全体像が徐々に明らかになってきた。

 撮影の順番を考慮してみると、筆者は次第にその流れを辿り始めた。順番としては、「Sub Pop 画像→画像b→画像a」の流れだ。まるでそれが 一つのストーリー となって進行するかのように、ヤギの姿が変化していく。特に注目すべきは、Sub Pop画像のアングルがそのヤギの最も特徴的な角度を捉えており、そこから次第にヤギの動きが視覚的に繋がっていく。 ここで重要なのは、このヤギの動きだ。最初に「Sub Pop」のジャケットで撮影されたこのヤギが、次第に動きながらカメラの前に移動し、そして最終的に「画像a」のアングルに辿り着く。これらの写真が、単に個別に存在しているわけではなく、まさに 一つの流れ として機能しているのだ。 これからも、歴史に埋もれた小さな発見が、意外な形で名作と結びつく瞬間があるかもしれない。まるで音楽の中に隠された一音が、新たな意味を持つように、過去の記録もまた、私たちに新しい物語を語りかけてくれるのではないだろうか。

近年発見されたCBSのニュースフィルム
ここにもいた