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2026年6月13日土曜日

Johnny Kidd & The Piratesについて

  

 Johnny Kidd & The Piratesといえば、"元祖パブロック"や、"ビートルズ登場以前のロックンロール" と言われ、Guess Who? やThe Whoなどにもカバーされた「Shakin' All Over」のヒットがとても有名だ。海賊ルックでカットラスを振り回すライブパフォーマンスは圧巻だったという。映像がほぼ残っていないのは残念に思う。シングル音源、未発表音源が集められたベスト盤を聴いてみると、メンバーの交代が多かったこともあってか、まさにパブロックの元祖というような曲もあればマージービートの影響が強い曲、オーケストラを加えた曲など様々。パブロックの他、ロカビリー、パンク、ガレージ周辺への影響は今でも大きいように見える。

Shakin' All Over Johnny Kidd & The Pirates

 1950年代後半、ジョニー・キッド(本名: フレデリック・アルバート・ヒース)は、The Five Nuttersなどいくつかのスキッフルバンドに所属し、ペンキ職人をしながら作曲活動も行っていたそうだ。The Five Nutters時代の未発表デモ「Shake, Rattle & Roll」「She’s My Blood Red Beauty」も2015年にリリースされている。(Moochin' About – MOOCHIN12)

 ジョニー・キッドと、マネージャーだったガイ・ロビンソン作の「Please Don't Touch」はJohnny Kidd & The Piratesのデビュー曲になるのだけれど、それ以前にこの曲はThe Bachelors(アイルランド出身の同名バンドとは異なる)に提供され、EMIのパーロフォン・レーベルからリリースされていたようだ。ジョニー・キッドは、その提供をきっかけに知り合ったEMIのHMVレーベルのマネージャー、ウォルター・J・リドリーからレコーディングテストを受けるように勧められて合格したことでHMVレーベルと契約する。そして1959年に自分達の「Please Don't Touch」をレコーディング、リリースした。この時、レコーディング名としてJohnny Kidd & The Piratesと名付けられた。オリジナルメンバーはリードボーカルのジョニー・キッド、リードギターのアラン・キャディ、リズムギターのトニー・ドハーティ、ベースのジョニー・(フルーツ)ゴードン、ドラムのケン・マッケイ。そしてマイク・ウエストとトム・ブラウンがバックコーラスとなる。実際にはHMVと契約していたのはジョニー・キッドのみで、他メンバーはセッションミュージシャンとしての起用だったよう。その後の活動期間中、把握しきれないほどメンバーの交代や追加のセッションミュージシャンの起用がある。

 3枚のシングルをリリースした後、The Piratesはアラン・キャディを残して再編成されクレム・カッティーニ(ドラム)、ブライアン・グレッグ(ベース)が加わった。4枚目のシングルは最大のヒットとなった「Shakin' All Over」で、もともとはB面収録を予定して作られた曲だった。スキッフル歌手のチャス・マクデヴィットの店Frieght Train Coffee Barの地下で、コーラの木箱に座って6分程で完成させたそうだ。バンドでファーストテイクを録った翌日、ゲスト参加したジョー・モレッティ(Vince Taylor and His Playboysの「Brand New Cadillac」への参加でも知られる)がリードギターと、ライターを弦に当てて鳴らした音をオーバーダビングした2テイク目で完成した。想像以上の出来栄えだったためA面に変更され、1960年にリリースされるとイギリスチャート1位のヒットとなった。

 ここからさらに3枚のシングルをリリースするもヒットは難しく、The Piratesの3人はバンドを離れてColin Hicks & The Cabin Boysに加入、後には「テルスター」のヒットで有名なThe Tornadosとして成功した。ジョニー・キッドはバックバンドを失い落胆していたけれど、新たにもともとThe Redcapsというバンドにいたジョニー・パットー(ギター)、ジョニー・スペンス(ベース)、フランク・ファーリー(ドラム)が加わり活動は継続した。

 1962年のこの頃、ジョニー・キッドはソロ名義でのシングルをリリースしている。クライヴ・ウェストレイク作で、マイク・サムズ・シンガーズのコーラスとオーケストラをフィーチャーした「Hurry On Back To Love」は、彼らの経歴の中で注目されることは少ないけれど、これはこれでとても魅力的だと思う。

Hurry On Back To Love / Johnny Kidd

 The Piratesは新体制となったものの、ジョニー・パットーが体調不良で脱退したため、ジョニー・スペンスとフランク・ファーリーは旧友のミック・グリーンを誘った。このミック・グリーンを加えたラインナップはJohnny Kidd & The Piratesの黄金時代と言われることも多く、Dr. FeelgoodやThe Who、The Rolling Stonesなど後世に大きな影響を与えている。このラインナップでリリースされた最初のシングルは1962年、アーサー・アレキサンダーのカバー、「A Shot Of Rhythm & Blues」だ。B面はボ・ディドリーのカバー「I Can Tell」。

I Can Tell / Johnny Kidd & The Pirates

 1963年になると、マージービートブームの影響を強く受け、この時のマネージャー、ゴードン・ミルズが作曲した「I'll Never Get Over You」をリリースした。これはイギリス4位のヒットとなった。B面は、ジョニー・キッドとミック・グリーン作の「Then I Got Everything」。

 同年、ゴードン・ミルズ作の「Hungry For Love」、B面はベン・E・キングのカバー「Ecstasy」のシングルをリリース。これらと同日に録音していたリトル・ウォルターのカバー「My Babe」と、エドウィン & アルヴィン・ジョンソン作の「Castin' My Spell」はThe Piratesのソロシングルとして1964年にリリースされた。

 次のシングルは、ナポリ民謡の「サンタ・ルチア」に英詞をつけてアレンジした「Always and Ever」だった。そしてB面曲の「Dr. Feelgood」は、70年代の代表的なパブロックバンドDr. Feelgoodの名前の由来にもなった、傑作のひとつとして語られる曲だ。

 しかしこの頃からは、以前のキャバーン・クラブなどでのライブと異なり、ブラックプールで犬の出し物の後にライブをさせられるなど、退屈なショーが続きミック・グリーンはうんざりしていたそう。1964年の「Jealous Girl」のリリースを最後に彼は脱退し、Billy J. Kramer With The Dakotasに加入した。ジョニー・スペンスとフランク・ファーリーはバンドに残り、ギタリストが何人か加入脱退を繰り返すも失敗続きだった。

 1965年、カナダのバンドGuess Who? が「Shakin' All Over」をカバーし、大ヒットする。カナダで1位、アメリカで20位を記録した。Guess Who? はもともとChad Allan And The Expressionsというバンドだったのだけれど、当時カナダのバンドは興味を持たれにくかったため、レコード会社はこのシングルをGuess Who? の名義で偽装し、ブリティッシュ・インヴェイジョンに紛れたバンドであるかのように見せかけてプロモーションした。「Shakin' All Over」が大ヒットしたことで、その後もこの名前が定着してしまったそうだ。後にクエスチョンマークをとり、The Guess Whoとなった。この年、本家のJohnny Kidd & The Piratesも「Shakin' All Over」の新バージョンをリリースしているのだけれど、注目されることはなかったようだ。

 ミック・グリーン脱退後に4枚のシングルがリリースされ、その最後はジョニー・キッドのソロ名義で1966年にリリースされた「It's Got To Be You」だった。バックにジョニー・ハリス編曲のオーケストラ、バックボーカルにはThe Marionettesが参加し、ヒットを見込んでいたもののチャートインしなかった。

 この後バンドは解散し、落ち込んだ生活を送っていたジョニー・キッドが音楽活動そのものを辞めることも考えていた時、ジョニー・キッドに雇われていたオルガン奏者レイ・ソーパーが、ジョニー・キッドのファンだったベーシスト、ニック・シンパー(後にDeep Purpleに加入)に連絡をとる。ニック・シンパーは同じくJohnny Kidd & The Piratesファンのロジャー・トゥルース(ドラム)とミック・スチュワート(ギター)に連絡し、新しいThe Piratesとしてジョニー・キッドを誘った。彼らの演奏が素晴らしく、元気をとり戻したジョニー・キッドは再びツアーを開始する。もともとはソロに転向する予定で、黄金期のメンバー、ミック・グリーン、ジョニー・スペンス、フランク・ファーリーにThe Piratesを名乗る権利を許可していたため、(このThe Piratesの活動は2000年代まで続いた)ジョニーキッドの新しいバンドはJohnny Kidd & The (New)Piratesと呼ばれた。再び観客からの期待も高まり始めた最中だった。1966年10月、移動中のジョニー・キッドとニック・シンパーが乗っていた車が衝突事故を起こす。2人は病院に搬送され、ニック・シンパーは一命をとりとめる。しかしジョニー・キッドは病院到着時に死亡が確認された。最後のシングルになった「Send For That Girl」はジョニー・キッドの死後にリリースされた。


参考・参照サイト:

http://www.adiebarrett.co.uk/johnnykidd/index.htm

https://www.allmusic.com/artist/johnny-kidd-the-pirates-mn0000239961#biography

http://forgottenbands.blogspot.com/2009/10/red-e-lewis-redcaps-then-red-cats.html?m=1


執筆者・西岡利恵
60年代中期ウエストコーストロックバンドThe Pen Friend Clubにてベースを担当。



【リリース】

■ 2026年3月18日発売
2枚組 NEWアルバム
『Songularity - ソンギュラリティ』

   【全曲試聴トレーラー】
       
【LIVE】

■2026年6月20日(土)
名古屋・鶴舞KDハポン
【Songularity Tour 2026 in NAGOYA】

■2026年9月26日(土)
渋谷LOFT HEAVEN
【Add Some Music To Your Day】

チケット予約











2026年6月2日火曜日

回り出す絵、回り続ける音― Pet Sounds 60周年、 Zoetrope を選んだわけ

  2026年5月11日、Hollywood の名物、円塔状の Capitol Tower の頂きに、"Pet Sounds" と染め抜かれた一旒の旗が、五月の空に颯爽と翻っていた。塔の下では、ジャケットの緑と黄を敬意をこめてあしらった記念ケーキがシャンパンとともにふるまわれ、Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston が、新たに認定されたダブル・プラチナのプラークを UMe 会長 Bruce Resnikoff から受け取った。三人の Wilson 兄弟――Brian、Carl、Dennis――はもうそこにいない。代わりに、それぞれの遺族が祝杯をあげていた。兄弟は逝き、しかしその音はなお生きている。60年という歳月が、それを静かに証している。

 
Capitolリリースによるリール動画
今回のセレモニーの一部が見られる
Pet Sounds ケーキやクッキーも紹介されている

   

Carnie WilsonのFacebookリール動画
今回のセレモニーにも供されたPet Soundsクッキーの紹介
Los AngelesのSweet E's Bake Shop製とのこと

  1966年5月16日にリリースされた本作は、当時米国では冷ややかに迎えられ、Billboard のアルバム・チャートで最高10位にとどまった。RIAA のゴールド認定にいたっては、なんと2000年まで待たされている。要するに、世間がこれを傑作と気づくのに34年かかったということだ。

 もっとも、その34年のあいだに気づいた人々はいた。Paul McCartney は「Pet Sounds を聴いてないやつなんているのかい? そりゃ音楽の素養が抜けてるってことだよ」とまで言い、George Martin は「Pet Sounds なくして Sgt. Pepper は生まれなかった」と認めている。The Beatles の頭脳が二人がかりで脱帽しているのに、世間はヒットチャート10位程度の記憶で止まっていた、というわけだ。その60周年を、Capitol/UMe は複数のヴァイナル・エディションで迎えた。

まず、音にうるさい御仁が真っ先に手を伸ばすであろう本命が二種。

 Vinylphyle Edition(2LP)は、LP1 に1966年のモノ、LP2 に Brian Wilson 監修・Mark Linett による1996年ステレオ・ミックスを収める。Sterling Sound の Joe Nino-Hernes がアナログ・テープからカットし、RTI が180g 盤にプレス。初回3,000枚、厚紙にプリント紙を貼り合わせた、当時の LP のような重厚な見開きジャケット。これに4面の冊子と Howie Edelson の新規ライナーが付く。
 この Vinylphyle がモノと1996年ステレオを一枚ずつ収めているのも、いかにもこの企画らしい配慮である。同じアルバムでありながら、1966年のモノと、Brian Wilson 監修のもと Mark Linett が1996年に手がけたステレオとでは、音像の置きどころも、声の溶け合い方も微妙に異なる。とりわけ God Only Knows の終結部のように、幾重にも重ねられたコーラスが渦を巻く箇所では、その差はちょっとした聴きどころになる。どちらが正解ということではない。一枚の傑作が二つの姿で並んでいる――そう思って聴き比べるのが、この二枚組の楽しみ方だろう。
 一方、その上をさらに行こうとするのが Definitive Sound Series(1LP、6,000枚個別ナンバリング)である。メッキ工程を省く One Step 方式を用い、Bernie Grundman Mastering の Chris Bellman がカット、Neotech VR900 D2 の180g 盤にプレスし、一枚ごとに製造工程を記した認証書まで付く。だが、この盤の白眉は音源にまつわる物語のほうだ。Pet Sounds には世界に四百近いプレス違いが存在し、どれが最良の音かはコレクターの間で長らく語り草だった。
 なかでも別格とされてきたのが、1970年代初頭に Brother Records から出た一枚――新作の Carl and the Passions『So Tough』との2枚組として、1972年に世に出たプレスである。当時 The Beach Boys は Capitol との和解で、1965年以降の旧譜の版権を10年間取り戻していた。Pet Sounds をはじめとする Capitol 時代の名盤を、Brother/Reprise が改めて市場に出せる立場になったのである。その第一弾の再発が、なぜか新作 So Tough との抱き合わせだった。続けて1974年には Friends と Smiley Smile、Wild Honey と 20/20 と、Capitol 旧譜を二枚一組で立て続けに再発していく。Pet Sounds はその一連の Capitol 旧譜再発の最初の弾として、たまたまあの透明な音質で世に出たのだった。

 Mike Love は後年、この抱き合わせを「バンドの新生戦略を台無しにする思いつきだった」と苦々しく振り返っている。もっとも、その新生戦略そのものも、わずか二年後に皮肉な形でひっくり返される。1974年、Capitol が古いヒット曲を集めて出した編集盤 Endless Summer が、なんと全米一位、155週チャート滞在、三百万枚突破の大爆発。Brother/Reprise で革新的な新作を作るより、Capitol の再発ベスト盤の方がはるかに儲かる、という皮肉な現実が突きつけられた。あれほど抱き合わせを罵った当の Capitol 作品群が、いまやバンドの皮肉な救世主に化けたのである。売れる、と分かった途端、罵詈雑言は感謝の辞に化ける――業界とはそういう場所だ。

 制作チームは資料を漁るうち、「Reprise Master」と記された一本のアナログ・テープを掘り当てた。Brother Records 作品を配給していたのが Reprise だった、その符牒であるという。Chris Bellman が照合すると、収録時間もカタログ番号もぴたりと一致した。DSS チームによれば、半世紀ものあいだ、ほとんど誰の耳にも触れぬまま眠っていた、あの伝説のプレスの大元のテープだという。それを起こした、コレクター垂涎の一枚である。

 制作の舞台裏に興味が向く向きには、Pet Sounds Sessions Highlights(2CD / 2LP、黒盤と white/green splatter の二種)。1997年の4枚組ボックス『The Pet Sounds Sessions』から、25曲のオルタネイト・テイク、ア・カペラ、トラッキング・セッションを抜き、そのすべてをヴァイナル初収録した。Howie Edelson による新規ライナーと詳細なセッショノグラフィが付く。

 そして Zoetrope vinyl(1LP)。ターンテーブルの上で回転させると、盤面の絵が「動いて見える」picture disc である。ジャケットにも一工夫あって、あの子ヤギたちの部分だけ、印刷の質感がほかと違っている。収録はモノ・ミックス。先の本命二種とは別系統の音源と思しく、音質を競う盤ではないが、Brian が選んだ「モノ」という姿勢そのものは保たれている。

 真空管プリアンプを灯し、往時のオンボロ大衆機プレーヤーをだましだまし動かしては、古い盤の音を楽しんできたのが筆者である。読者の多くは、そんな筆者が買うのは Vinylphyle か DSS のいずれかだろう、と予想されていたに違いない。お察しの通り、と言いたいところだが、今回ばかりは予想を裏切ることになる。筆者が取り寄せたのは、よりによって picture disc――盤を回せば絵が動き出すという、あの色物の Zoetrope vinyl だったのである。もっとも、収められているのはモノ・ミックス。色物の見た目に反して、Brian がこのアルバムに与えた「モノで聴かせる」という根本の姿勢だけは、ちゃんと押さえてある。
 だが、ここで一度立ち止まる。そもそも Pet Sounds は、整った modern jazz を静謐なオーディオ・ルームで味わうように、180g 重量盤を高級カートリッジで丁重にトレースして聴くべきレコードなのだろうか。否、である。これは1966年の米国の十代が、安物のポータブル・プレーヤーにセラミック・カートリッジを載せ、針圧などお構いなしにガンガン鳴らして聴いた音楽だ。ハイ出力のセラミック型が中域を前へ押し出す、あの少々歪んで、しかし生々しい音――そこでこそ、このアルバムに封じ込められた若者の屈折した情念の塊が、むき出しのまま絞り出されてくる。それが本筋の聴き方だった。高音質を謳う精緻なリマスター盤は、その情念をいったん澄んだガラスの向こうに整理し直してしまう。美しいが、Pet Sounds が本来鳴っていた場所からは、ほんの少しだけ遠い。
 だからこそ、なのである。Zoetrope vinyl は、音質の純度を競う土俵から最初に降りている。針が落ちた瞬間に絵が回り、音と視覚が回転の上で一致する――その玩具じみた仕掛けは、高級機の前に正座して拝聴するのではなく、十代がレコードを一個の物として面白がり、夢中で回した、あの聴き方の記憶に近い。今回ばかりは、音の純度ではなく、回り続ける物体としての体験を、そして情念がまだ整理される前の生々しさを、選んだのである。
盤は、まもなく届いた。


 Zoetrope 盤のジャケットは、あの子ヤギたちの部分だけ、ほかと違う質感に仕上げてある。撫でてみると、ヤギの背中だけが指の腹にざらりと立ち上がってくる、その手の凝りようだ。

Carl Brianあたりのヤギたちの質感が少し違う

 内袋から円盤を抜き、明かりにかざしてみる。盤面には、はっきりと幾つもの像が刻みつけられている。「Sloop John B」のプロモーション映像のグループの姿、「Good Vibrations」の有名な映像で見た作業中の Brian、レコーディング中の Dennis、同じく Mike――The Beach Boys 史の名場面が、円盤の一枚にぐるりと並んでいるのである。盤を裏返せば、こちらは一転して文字の意匠で、Pet Sounds の四文字が一面びっしりと敷き詰められている。儀式めいた手つきで、筆者は表を上にして、それをターンテーブルに載せた。



 33回転。盤は回り始める。途端、緑をベースに、名場面の色という色がそれぞれに混じり合って、目の前で渦を巻きはじめた――これはこれで一個の抽象画として美しいのだが、肝心の絵は像を結ばない。当然だった。zoetrope の像は素眼では決して立ち上がらない。少しずつ異なる絵が次々と目の前を過ぎ、残像が互いに重なって、色の渦に溶けてしまうからだ。本物の zoetrope は、回転する筒の壁に細いスリットを切ってあって、覗き穴がそのスリットを通る一瞬だけ絵を見せ、あいだは闇に隠す。そうやって連続を細切れに分けることで初めて、絵は動き出す。盤面に絵を刻んだこの picture disc も理屈は同じで、回転に同期した「途切れ」がなければ、絵は像を結ばない。古典的な解は暗室でストロボを焚くこと。だが、もっと手軽な解が現代にはある。筆者は微笑しながらスマホを取り出した。真空管プリの灯を背に、スマホを動画撮影モードに切り替え、画面越しに盤面を覗き込む。スマホの画面は、毎秒およそ30フレームの早さで更新されていく。一枚一枚のフレームが、回転する盤の異なる瞬間を切り取り、画面上で連続再生される――それはまさに、回転筒のスリットを覗き込むのと同じ仕掛けである。シャッターが回転を細かく刻んだ瞬間、画面の中で、静止していたはずの像がぬるりと動き出した。セラミック・カートリッジで若者の情念を絞り出してきたはずの男が、磨き上げた機材ではなく、手のひらの板きれ越しに、レコードの上で踊る絵を覗き込んでいる。
これはこれで、悪くない儀式だった。

 

  回転する盤の上で、当時の声がよみがえる。この60周年に合わせ、いまも歌い続けるメンバーたちが当時を語った記事がいくつも出ている。なかでも米 Variety 誌や AP 通信(いずれも2026年5月)は、記念式典の前後に Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston へ取材し、Pet Sounds をめぐる証言を引き出していた。取材中、Al Jardine は Hollywood のランドマークの上階の窓の外をカモメが舞っているのに目をとめ、太平洋までがこのアルバムを祝福しているようだ、と笑ったという。そして Al Jardine は、「Sloop John B」誕生のくだりをこう語っている。バンドを始めた頃から、自分はフォークソングをやりたかった――と。もっとも、その願いはなかなか叶わなかった。そもそも The Beach Boys がサーフィンの歌で売り出したのは、サーファーだった Dennis Wilson のひと声がきっかけだったという。自分たちはサーフィンをやっているのだから、その歌を作ればいい、と。それがそのままバンドの看板となり、フォークの出番はずっと後回しにされてきた。それでも Al は諦めず、もとは "The Wreck of the John B" と呼ばれていたこの曲を Brian に持ちかけ、「コードをひとつ足そう、ハーモニーを広げられる、このフォークソングを The Beach Boys の曲にできる」と説いた、と。そして、1958年にこの曲を吹き込んだ Kingston Trio を自レーベルに抱えていた Capitol Records に感謝する、とも言い添えた。それがこの好機を与えてくれたのだ、と。
 Al が言う「コードをひとつ足す」とは、控えめな言い方である。その実、半世紀以上にわたって語り継がれてきた逸話は、もう少し具体的だ。フォーク好きの Al が、ピアノに向かう Brian に Kingston Trio 版を弾いてみせたところ、Brian は「Kingston Trio は得意じゃない」とにべもなかった。それでも諦めず、Al は原曲のままでは「通用しない」と見た。三つの和音だけで素朴に進むフォークの、サブドミナント(IV)からトニック(I)へ明るく戻る、その素直な解決の途中に、Al は二度の短和音(ii)をひとつ滑り込ませた。長調の中に、半瞬だけ短調が翳る。IV → I という単純な往復を、IV → ii → I という三角形の寄り道へと変えたのだ。たったそれだけの工夫で、平板だった折り返しに「ふっ」とした陰影が生まれ、ヴォーカルがコーラスを広げる余地ができた。あの「I wanna go home...」を支える独特の哀切は、この一つの ii から始まっている――そう The Beach Boys 流に組み替えてみせ、翌日には Brian がスタジオへ呼んでいた、というのが Al 自身の証言であり、ライナーノーツにも刻まれた定説である。素朴な海の歌が、わずか一日で、あの緻密なポップ・コーラスの傑作に化けたのである。
 その Brian の凄みは、Mike Love の有名な皮肉に裏返って残されている。完成途中の音を聴かされた Mike が、こんなものは誰の耳に届くんだ、と Brian に向かって言ったというのである――「犬の耳にでも届くのか?(The ears of a dog?)」と。バンド内随一の売れ線派だった Mike にとって、Brian が踏み出したこの内省的で実験的な領域は、売れる The Beach Boys の方程式から外れた危なっかしい寄り道に見えていた。だからこその「犬の耳か?」だったわけだが、揚げ足取りのつもりだったろうこの一言を、Brian はかえって気に入ってしまう。録音の幕切れには、Brian の愛犬 Bananaと Louieの吠える声が、過ぎゆく汽笛とともに忍ばせてある。アルバム名は Pet Sounds――ペットの音、と決まった。もっとも、誰がこの題を発案したかは諸説あって、Brian は「Mike のあの皮肉が着想源だった」と語り、当の Mike は「犬が吠えていたから自分が『Pet Sounds と呼ぼう』と言ったのだ」と譲らない。どちらが正しいかは、もう確かめようがない。確かなのは、犬の声と一枚の名盤が、互いに名を貸し合っていたという事実だけである。以来 Mike は Brian を「Dog Ears」――犬の耳――と呼ぶようになった。他の人間には聴き取れぬものまで録音から拾い、ついでにメンバーの不純な思考まで聴き分けてしまう、というわけだ。ついでに Mike は、当時のスタジオでの Brian を「Stalin of the Studio(スタジオのスターリン)」とも呼んでいたと、後年笑いながら振り返っている。完璧主義の独裁者、ということなのだろう。商売の物差しで毒づいた男と、その物差しに収まらぬ耳をもった男――皮肉が逆向きに刺さってアルバムの題になったのだから、世の中、わからないものである。
アルバムの商業的失敗は、Brian に深い影を落とした。Mike Love は振り返る――あれほど多くを注ぎ込み、あれほど力を尽くしたのだから、Capitol Records のあの冷淡な扱いに、彼が打ちのめされなかったはずがない、と。

 Bruce Johnston の加入経緯は、本人の口にかかるとあっけないほど身も蓋もない。「僕は Columbia Records の A&R マンだった。Mike が電話してきたのは、業界の人間を一通り知っていたからだ」。レコード会社の内側で新人を発掘し、プロデュース・アレンジ・契約を取りまとめてきた男――その業界知識ごとバンドに呼ばれた、というわけだ。1965年加入の彼は、Pet Sounds 録音のほんの少し前に合流したばかりで、60年後のいまもなお「新参者」と冗談半分にからかわれる。六十年経って「新参者」――こうなるともう、終身名誉新参者と呼んでさしあげるべきだろう。とはいえその「新参者」は、全13曲からなる Pet Sounds のうち、6曲ほどでバッキング・ヴォーカルに加わっていたとされる。ゴールド認定が2000年まで遅れた理由を問われると、Bruce は元 A&R マンの顔に戻った。Capitol がつけたと言っていた宣伝予算は、Pet Sounds ではなく別のところに流れていたのだ――そう皮肉まじりに種明かしをしてみせる。今でこそ「Pet Sounds は名盤」と讃えているが、内側ではドル箱の別の盤に予算をつぎ込んでいた、業界の二枚舌。商売とは、つまりそういうものなのだ、と。A&R マン時代に、レーベルがどう数字を粉飾し、どう旧譜を黙殺し、どの口実でプロモ予算を新譜の弾に付け替えるか、ラジオを回すための袖の下――いわゆるペイオラ――が誰の懐にどう流れるか、そのえげつない裏側を散々見せられてきた男の言葉だけに、説得力がある。
もっとも RIAA の記録をたどると、真相はもう少し間が抜けていて、そのぶん可笑しい。そもそも RIAA は、レーベルが全出荷記録を添えて正式に申請しないかぎり、指一本動かさない。ところが Capitol は、肝心のその書類をどこかへやってしまっていた。数年越しでようやく申請にこぎ着けたかと思えば、出荷履歴を掘り起こせずに取り下げる始末。結局2000年、直近15年分の数字だけをかき集めて、ようやく再申請に漕ぎつけた。逆算すれば、この不朽の名盤は34年かけて50万
枚――年に1万5千枚ずつ、つまり一日およそ40枚という、実に慎ましいペースでゴールドに到達したことになる。同じ2000年2月、R&B 歌手 Angie Stone(2025年に他界)のデビュー作 Black Diamond は、発売わずか4か月でゴールドに認定されていた。同じ月の認定リストに、片や4か月、片や34年。だが、この不思議な数字は統計のいたずらに過ぎない。RIAA が数えるのはレコード会社から店舗へ「出荷」された枚数で、客がレジでいくら買ったかは映らない仕組みになっているからだ。一方、Billboard 誌のチャート集計元として知られる SoundScan という別の追跡会社は、1991年から全米の小売店のレジ・バーコードをスキャンして、実際にレジを通った枚数を数えてきた。その数字をひもとくと、Pet Sounds は1991年からの九年間だけで21万枚も売れていた。要するにこの傑作は、売れていなかったのではない。誰かの机の引き出しの奥で、自分を証明する一枚の書類が見つかるのを、34年間ただ黙って待っていたのである。

 60年が過ぎた。針を落とせば、肉眼には見えぬ絵が盤の上で回り出し、回転の中から Wouldn't It Be Nice の最初の一音が立ち上がるなんて、とっても素敵なことじゃないか?。Brian の耳だけが聴いていた音は、いまも止まることなく回り続けている。私はその回転を、ただ眺めていたかったのだ。


2026年4月7日火曜日

Thank you, baby. ― Bruce Johnston


 2026年3月、Bruce JohnstonはThe Beach Boysのツアー活動に区切りをつけると表明した。Rolling Stone誌への声明に感傷はなかった。「私の長いキャリアの第三章を始める時が来た。曲は永遠に書き続けられる、次に何が来るか聴いてほしい」。ソングライティングへの本格回帰を高らかに宣言した上で、もう一つの新たな活動として講演も視野に入れていることを明かした。かつてCary Grantが俳優業を退いた後、企業や大学で自らの人生経験を語る講演に活路を見出したことをヒントに、John Stamosの助けを借りながらその構想を温めているという。「これはさよならではない、またすぐ会おう」その言葉通り、7月のHollywood Bowlへの特別出演も予告されている。
 思いがけず始まった61年の旅は、今度は自らの手で次の扉を開けることで締めくくられた。静かで、どこか穏やかな区切り、まるで一曲を書き終えた作曲家が最後の和音を確かめるような、落ち着いた身の引き方であった。

 彼の作品の中に、「Thank You, Baby」という一曲がある。初めての恋が実らないと知りながら、それでも感謝を口にする、いつかは終わりが来ても、相手への感謝だけが残る。損得を超えた場所にある感情を、Johnstonは20代の初めに書いていた。その言葉が、半世紀以上のキャリアを経た引退の局面では、音楽と聴衆への静かな告白として別の響きを帯びる。
 Bruce Johnstonという人物の歩みもまた、この歌にどこか似ている。華やかな中心に立つというより、誰かの隣で音楽を支え、関係を築き、そして必要な時には静かに身を引く。その姿勢は、1960年代Los Angelesの制作現場において、数えきれないほどの仕事を通じて形づくられていった。

だからこそ、その音楽が形を取り始めた最初の地点に立ち返ってみたい。

 これから語られつつある「第三章」を理解するためには、彼がまだ無名の青年としてスタジオの扉を叩き続けていた時代――すなわち第一章――を見つめ直す必要がある。そこには成功の物語というより、関係を築き、技術を磨き、音楽の中で自分の位置を見出していった、一人の青年の静かな成長が刻まれている。
 話は1942年6月27日、Illinois州Peoriaまで遡る。「Florence Crittenton Home」というシングルマザー支援施設で、一人の赤ん坊がWilliam Baldwinという名で生を受けた。実母はGeorgia州Madison出身のティーンエイジャーだった。出自については長らく議論の対象となってきたが、後に本人がインタビューで「私はPeoriaで生まれ、養子に出された」と明言している。
 生後わずか3ヶ月。シカゴのWilliam & Irene Johnston夫妻に引き取られたその子は、「Bruce Arthur Johnston」という新しい名前を与えられた。ここから、一つの伝説が静かに動き出す。
 養父Williamは只者ではなかった。全米最大の薬局チェーン「Walgreen」のエグゼクティブ・バイス・プレジデントを務めた後、Justin Dartらと共に西海岸へ移りRexallを設立、社長の座に上り詰めた人物だ。1954年、Rexall本社の移転に伴い一家はLos Angelesの高級住宅街Bel Air(15461 Mildred Drive)の邸宅へ移住する。この特権的な環境こそが、Bruceに最高峰の教育と、ハリウッドという魔窟への黄金の切符を同時に手渡すことになった。Bel Airの邸宅と最高峰の教育環境が約束されたBruceに、次の転機が訪れるのに時間はかからなかった。
 Interlochen Arts Campとは、1928年に音楽教育者Joseph E. MaddyがMichigan州北部の湖畔に創設した、アメリカ最初の芸術系サマーキャンプである。当初はNational High School Orchestra Campの名で出発し、全米から選抜された若い音楽家たちが夏の数週間を共に過ごしながら本格的な演奏活動を行う場として設計された。その後、音楽に加えて演劇、視覚芸術、舞踊、映像へとプログラムが拡充され、1991年にInterlochen Arts Campへと改名。現在に至るまで、グラミー賞受賞者162名を含む世界屈指の芸術教育機関として名声を保ち続けている。Norah Jones、Josh Groban、そのBruceらが同じ地を踏んでいる。アメリカの主要オーケストラの奏者の約10パーセントがInterlochenの出身者だというデータが、このキャンプの水準の高さを端的に示している。1955年、13歳のBruceは上記プログラムでひと夏を過ごす。本格的なオーケストラの演奏を間近で聴き、同世代の音楽的才能に囲まれたこの体験は、後にTerry Melcherをして「10分あれば『Rhapsody in Blue』を弾きこなすが、上手すぎて商業的でない」と評させるほどの技術の源泉となった。

 ところが1956年9月、University High School(Uni High)に入学したBruceに異変が起きる。クラシック専門局KAFCを聴く傍ら、出力わずか250ワットの黒人専用ラジオ局KGFJに心を奪われたのだ。Hunter HancockやHuggy Boyといった伝説的DJが放つ未知のR&Bは、退屈な白人ポップスとはまるで別の宇宙の音楽だった。Bruceはこの「Rock'n Rollする人々」の音楽に急速に傾倒していく。
 そして運命の出会いが通学バスの中で起きる。近所に住む1歳年上のJan Berry、(後のJan & Dean)との邂逅である。Janという人間を理解するには、まずその頭脳の規格外ぶりを知る必要がある。IQは150以上、記録によっては180とも伝えられる天才で、後にJan & Deanでヒットを連発しながらUCLAで医学部進学課程を修了し、1963年には実際に医学部に入学している。
 Janという人間は、二つの顔を持っていた。
 学校の印刷室を使って公式レターヘッドを偽造し、架空のラジオ局「KJAN」を堂々と名乗る。各レコード会社に「プロモ盤を送れ」と要請する手紙を送りつけ、毎日200枚もの新譜を無料で手に入れ、余った分は友人に配った。しかしそのJanが、ガレージのオープン・リール録音機の前に座ると、まるで別人のように音と格闘し始めるのだった。14歳のBruceはこの落差に、何か決定的なものを嗅ぎ取った。
 二人が結んだ取り決めは傑作だった。「JanがBruceの宿題を代行する代わりに、放課後はBruce宅の豪華なグランドピアノをJanが弾き放題」という物々交換の密約である。Bel Airの邸宅の一室で繰り広げられたこの密室セッションこそ、後に世界を席巻するカリフォルニア・サーフ・サウンドの、最初にして最も目立たない発火点となった。
 高校生の傍ら、BruceはSandy Nelson、Kim Fowleyらとバンド「The Sleepwalkers」を結成する。なんとライバル校のFairfax High SchoolからPhil Spectorをギタリストとして借り出すほどの勢いを見せた。Uni HighがBel AirやWestwoodといった富裕白人層の子弟が通う学校であるのに対し、Fairfax Highは戦後にLA東部から移住してきたユダヤ系中産階級の街に根ざした学校だった。地理的には隣り合いながら、その社会的背景はまるで異なるそのライバル校から、後に『Wall of Sound』で時代を塗り替えるPhil Spectorまで引き抜いた、この時点でのBruceの立ち位置がいかに特別だったかがわかる。
 1958年の夏、BruceはLA周辺のダンスホールやショーを転々としながら有名無名問わず多くの歌手のバックを務めた。時にはEverly Brothersのバックでピアノを弾き、テレビ番組ではEddie Cochranが「Summertime Blues」を歌う傍らでやはりピアノを担当した。ギターの曲をピアノで弾くという奇妙な体験だったと本人は振り返っている。中でも最も頻繁にバックを務めたのが、デビュー間もないRitchie Valensだった。「Come On Let's Go」が全米42位のスマッシュヒットを記録し、まさにスターへの階段を駆け上がろうとしていた時期のRichieと、BruceはEl Monte Legion Stadiumなど各地のステージを共にした。1959年2月、Ritchieは飛行機事故で17歳の生涯を閉じる。あの夏の共演が、Bruceにとって彼の生きた姿を知る最後の記憶となった。
 Janとの密室セッションが少年の野心に火を点けたとすれば、その炎を一気に燃え上がらせたのは、1958年2月に起きたある惨劇だった。


1958年2月1日。この日付を覚えておいてほしい。

 University Highの生徒だったJan BerryとDean Torrenceを中心とした人種混合ボーカルグループ「The Barons」に、伴奏として参加していたのがBruce Johnston(ピアノ)、Sandy Nelson(ドラム)、Dave Shostac(サックス)の3人だった。 3人の訪問先はJohn Dolphinの事務所だった。Dolphinは黒人音楽界の大物プロモーターだが、その傘下レーベルRecorded in Hollywoodからは、5年前の1953年にMurry Wilson――後にThe Beach BoysのBrianの父として知られる人物――の楽曲がリリースされていた。BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。
自作のデモテープを手に、その事務所を訪れた15歳のBruceは、とんでもない惨劇の唯一の目撃者となる。印税トラブルを抱えた26歳の作家Percy Ivyが、Bruceの目の前でDolphinを5発の銃弾で射殺したのだ。Dolphinは泡を吹き、倒れ込んだ拍子にヒーターのスイッチが入るという地獄絵図の中で絶命した。
 驚くべきはここからだ。親友のSandy Nelsonが警察を呼ぶために走り出し、現場に静寂が訪れたその空白の数分間、Bruceはなんと銃を持ったままのIveyに向かってこう言い放ったという。

「刑務所から出てきたら、ぼくと一緒に曲を作ってレコーディングして一発当てよう!」

 15歳、死体が転がる部屋の中で、次のビジネスを語る少年。後に「ハリウッドの好青年」と呼ばれる男の中に、目的のためには手段を選ばない生粋のプロデューサー体質が完全に覚醒した瞬間だった。この異常なまでの胆力と商魂こそが、彼を単なるミュージシャンの枠に収まらない存在へと押し上げていく最初の証明だった。
 BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。そしてもう一つ、驚くべき事実がある。引き金を引いたその男、Percy Ivy自身もまた、同じ時代にThe Hollywood Flamesへ楽曲を提供していたソングライターだった。1953年、7-11 Recordsから出た78回転盤のB面「Baby, Pretty Baby」——作曲者欄にはIvyの名が刻まれている。Murryが同じグループに曲を書き、Bruceがその事務所に曲を売り込みに来た。殺された男も、引き金を引いた男も、そして15歳の目撃者も、全員が同じ磁場に引き寄せられていたのだ。ロサンゼルスの音楽史とはそういうものだ。
15歳でその胆力を証明したBruceは、高校生の傍ら音楽の現場へ深く踏み込んでいく。
 1959年、Sandy Nelsonの「Teen Beat」録音セッションでBruceが下した決断は今も語り草だ。録音された音が「ありきたりで、全く個性がない」と判断したBruceは、突如として履いていた靴を脱ぎ捨てると、グランドピアノの弦の中に力任せに突っ込んだのである。この即興の「靴によるミュート」が生み出した、鈍い打楽器のような未体験のサウンドが全米チャート4位の大ヒットを牽引した。靴一足で時代の音を変えた男、それがBruce Johnstonだ。
 さらにArwin、Martといった独立系レーベルでの活動を通じて、Bruceは業界の生々しい裏側を全身で吸収していく。録音日より前に業界誌にレビューが掲載される杜撰な書類工作。AFM(全米音楽家連盟)の規約を潜脱した非公式録音を、事後の書類工作で合法の体裁に整える仕組み。10代にして彼は、音楽が「芸術」であると同時に、書類一枚で権利が書き換えられる「冷酷な商品」であることを骨の髄まで理解した。のちのColumbia時代に巧みに活用される「制度の隙間を突く感覚」は、この時期に磨かれたものだ。
独立系レーベルで業界の生々しい裏側を吸収したBruceは、17歳でさらに大きな舞台へと歩を進める。
 17歳でBob Keene率いる「Del-Fi Records」のスタッフとなったBruceは、才能を全方位で解き放つ。事故死したRitchie Valensの遺作ライブ盤の編纂から、18歳での黒人歌手Ron Holdenの全権プロデューサー就任まで、何でもこなした。
 圧巻はUCLAのSigma Piフラタニティハウスで行われた「パジャマ・パーティー」だ。入会したばかりの18歳の新入生Bruceが数人の仲間を引き連れて演奏しに現れ、パジャマ姿の男女がどんちゃん騒ぎを繰り広げる狂乱の中、Del-FiのボスBob Keaneが録音機材を持ち込んでライブ収録を敢行した。事前にBruceからこのパーティーの「ワイルドさ」についてさんざん聞かされていたKeaneが、その熱気ごと売り物にしようと目論んだのだ。この音源は、Bob Keaneの「流行を安く、素早く、何度でも売り飛ばす」という荒々しいマーケティングによって、「The Surf Stompers」など様々な名義で世界中へ輸出された。挙句の果てに、別のバンド『The Centurions』のアルバムが、Bruceの『Surfer's Pajama Party』とほぼ同一のジャケット・同一のカタログ番号で発売されるという混乱まで生じた。プレス工場のミスとも言われるが、権利が軽視される日常を象徴する出来事だった。権利が軽視される日常の中で、Bruceは「世間の流行をいかにパッケージ化して利益に変えるか」という実戦的なマーケティング感覚を完全に体得した。自分の権利が踏みにじられる経験を積み重ねたからこそ、後にColumbia時代に報酬の抜け道を周到に設計できたとも言える。
 Del-Fiでの経験がBruceに業界の骨格を教えたとすれば、次に彼を待っていたのはその骨格に肉を盛る相棒との出会いだった。


 さて、物語に一人の重要な人物が登場する。Terry Melcherだ。

 Doris Dayの息子というだけで語られがちな人物だが、それは大きな誤りだ。1962年4月、20歳のTerryはColumbia Recordsの「マネジメント・トレイニー(経営研修生)」として週給55ドルのオフィスボーイからキャリアをスタートさせた。仕事の内容は文字通りニューヨークの街中を駆け回る雑用係だった。だが彼は雑用に甘んじず、上司を説得してDon KirshnerのAldon Musicに入り浸る許可を得た。そこでCarole King、Barry Mann、Gerry Goffinたちの職人芸を毎日間近で見学し、ヒット曲の骨格を体に刻み込んでいった。
 2ヶ月の研修後、1962年6月に西海岸のA&R担当へ異動。そして1963年1月、弱冠20歳でColumbia RecordsのアソシエイトA&Rプロデューサーに昇進する。当時のColumbia Recordsは、Andy Williamsに代表されるジャズ、クラシック、大人向けポップスの老舗として名声を持つ一方、急拡大する若者向けロックンロール市場への対応では完全に出遅れていた。西海岸の重役Irving TownshendがTerryに期待したのは、ティーン向けシングル市場の開拓という明確な使命だった。
 BruceのUni HighがBel AirやWestwoodの富裕住宅街を学区とするのに対し、TerryのBeverly Hills Highは超高級住宅地Beverly Hillsに位置する学校だ。同じ西LA地区の富裕校同士でありながら、学校間のプライドはむしろそれゆえに激しかった。
 一方Bruceとは、「あっちの学校(Beverly Hills High)の連中は全員ろくでなしだ」と反目し合っていた過去がある。それがスタジオに入った途端、二人は最強の制作ユニットへと変貌した。メジャーの潤沢な予算を「音楽大学」のように使い、ラジオのヒット曲を完コピすることで最新の録音技術とヒットの法則を独習していった。覆面グループ「The Hot Doggers」、自身のソロアルバム『Surfin' 'Round the World』、そして大ヒット連発の「The Rip Chords」――成果は次々と世に放たれた。BruceはTerryの母Doris Dayに楽曲「Falling」を提供し、絶大な信頼も獲得した。
 Terry がColumbiaのスタッフとして先に籍を置き、The Rip Chordsの「Here I Stand」をプロデュースしたのは1962年末のことだった。シングルはBillboard 51位に滑り込み、手応えをつかんだ。後年Bruceはこう振り返っている。「Terryがうまくやってくれて、私を雇う許可を取り付けてくれた」。こうして1963年、BruceはColumbia Records Hollywood のスタッフ・プロデューサーとして正式に着任する。自ら売り込んだのでも、重役の椅子を引き継いだのでもない。友人の信頼と、スタジオでの実績が、その扉を開けたのだった。
 Terryと継父Marty Melcherの間には、長年の緊張があった。Terryが自分の力でヒットを連発し始めると、Martyはそれを嫉妬した。ある日、二人は口論になった。Martyが吐き捨てた。「お前の曲を持って出て行け」。会計士が呼ばれ、Martyの会社Daywin MusicがTerryに支払うべき金額として345,000ドルの小切手が差し出された。Terryはそれを受け取ると、できる限り細かく引き裂いた。そして破片をMartyの顔めがけて投げつけ、こう言った。「これが、あんたと過ごした年月すべてへの礼だ」。後にTerryはこう振り返っている。「あれが転換点だった。345,000ドルの小切手を顔に投げつけられる人間なら、一人前だと思ったのだろう。あれ以来、彼は私を子ども扱いしなくなった」。
 1963年10月15日の夜、Columbia Records西海岸スタジオで歴史的なセッションが出来上がった。プロデューサーはTerryとBruce。表向きはThe Rip Chordsの公式メンバー――Phil Stewart、Arnie Marcus、Rich Rotkin、Ernie Bringas――名義のセッションだったが、スタジオで実際に歌ったのはTerryとBruceの二人だけだった。リードをTerryが、象徴的なファルセットをBruceが担い、ハーモニーは多重録音で積み重ねた。こうして全米チャート4位の大ヒット「Hey Little Cobra」が誕生した。
 後にErnie Bringasはこう記している。「The Rip ChordsにおけるTerry Melcherの存在は、The Beach BoysにおけるBrian Wilsonの存在に等しい。ただしBrianと違い、Terryは自分がメンバーでないグループのために歌っていた」。1964年1月23日、初期メンバーのPhilとErnieは補足契約への署名を強いられた。「The Rip Chordsという名前の全権利を放棄する」という内容だった。実質的な主導権は完全にTerryとBruceの手に渡った。
 バックを務めたのはSteve Douglas(サックス)、Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(パーカッション)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Glen Campbell、Bill Pitman、Tommy Tedescoら、後にWrecking Crewと呼ばれる伝説的な集団だ。この時点で彼らは既に一堂に集っていた。

ここで、思わず声に出して笑ってしまうエピソードを紹介しなければならない。

 後年のファンとの会話の中で、Bruceはさらりとこう言い放った。「あの曲の一部は、ゴミ箱に頭を突っ込んだ状態で録音したんだ」。
 笑い話ではない。これは大真面目な、当時最先端の音響工学だった。
考えてみてほしい。1963年のスタジオにデジタル・リバーブなど存在しない。音に残響を加えたければ、物理的な空間を使うしかなかった。廊下の端で歌う、タイル張りのトイレを借りる、あるいはコンクリートの打ちっぱなしの部屋に向かってマイクを向ける......それが当時の「エフェクト」の全てだった。Sam Phillipsがスラップバック・エコーをテープの遅延で生み出し、Phil Spectorが巨大なエコーチェンバーを使って音を神話的なスケールに膨らませていた、まさにその時代の話だ。そしてBruceが選んだのは、スタジオの隅に転がっていたゴミ箱だった。頭を突っ込む。歌う。ゴミ箱の筒が独自の共鳴を作り出す。
この工夫が最も際立って聴こえるのが、曲の中盤に炸裂する「Shut 'em down」の一節だ。Bruceがファルセットではなく低く押し出すように歌うこのフレーズに、ゴミ箱の壁が生み出す独特のアンビエンスが乗っている。当時のリスナーには何がどうなっているのか全くわからなかったはずだ。それでも耳は正直で、「何かが違う」と感じさせる音がラジオから流れてきた。全米チャート4位という数字が、その判断の正しさをあとから証明した。
「Teen Beat」のセッションでは靴をグランドピアノの弦に叩き込んでユニークなサウンドを生み出し、「Hey Little Cobra」ではゴミ箱を音響装置に変えた。
録音技術そのものも、当時の二人を苦しめ続けた。「Hey Little Cobra」の多重録音は、現在では考えられないほど過酷な工程を経ている。当時主流だった3トラック・レコーダーには同期録音機能(セルシンク)がなかったため、一度録音したトラックをさらに別の3トラック・テープに移し、その上に新たな演奏を重ねるという「ピンポン録音」(バウンス録音)を繰り返すしかなかった。問題は、このダビングを重ねるたびに音が劣化していくことだ。テープからテープへコピーするたびに、高域が失われ、ノイズが蓄積し、最初に録音した時のあの「パンチ」が少しずつ削れていく。続く「Three Window Coupe」の制作では、この問題がさらに深刻な形で二人を直撃した。「3トラックから別の3トラックへ、何度もダビングを繰り返すうちに、録音のたびに音が一枚ずつ剥がれ落ちるように、あの『パンチ』は完全に死んでしまった」とBruceは振り返る。それでも彼はトラックを丸ごと録り直すまで諦めなかった。ゴミ箱とピンポン録音という原始的な道具立ての中で、Bruceは「どんな音が鳴っているか」という一点に向かって自分を研ぎ澄ませていった。

 スタジオの創意工夫で音を作り上げる一方、BruceはColumbia社内でも抜け目なく動いていた。AFMの契約書にはBruceの名前は演奏ミュージシャンとして記載されていない。それでも実質的なセッション・リーダーとして機能した彼は、巧妙な方法で報酬を得る仕組みを作り上げた。Columbia内部資料(Artist Contract Card)には、一晩のセッションでSteve Douglas(本名Steve Kreisman)に数千ドル単位の「編曲料(arr.)」が計上されている。しかしAFMの契約書には「編曲なし(No Arr.)」と手書きされ、続いてSteve自身のイニシャルと思われる「SDR」が記されている。「編曲者が存在しない」ことへの本人確認なのか、それとも彼が実質的な編曲者であることの証明なのか?この矛盾は今も謎のままだ。実際にはBruceとTerryが決めたアレンジの報酬が、Steveを名義上の受取人として経由し、彼らへ還流していた可能性が高い。BruceとTerryはColumbia社員であったためアーティストが受け取るロイヤリティを手にすることができず、この「制度の抜け道」が事実上の報酬となっていた。
Bruceは後年こう語っている。「Columbiaからの給料は微々たるものだったが、高額な編曲料の請求書を会社に提出した。印税が入らない代わりに数千ドルの編曲料を作り、その金でHawaiiへ飛び女の子たちと遊んでいた。まだドラッグが蔓延する前の話だ」。
Del-Fi時代にその感覚を体に刻み込んだBruceが、今度はColumbia Recordsというメジャーの機構の中でそれを洗練させていた。ある意味で、これは彼のキャリアを通じた一貫したテーマだった。報酬の仕組みが巧妙に設計される一方で、「Hey Little Cobra」の誕生をめぐる作詞クレジットの真相は、今なお霧の中にある。

作者は元Teddy BearsのCarol Connors(本名Annette Kleinbard)と弟M.H. Connorsだが、著作権上は半分しか権利がない、その裏側には少なくとも三人の別の人物が絡み合っている。
Gary Usherの証言から始めよう。Carolが彼の元に歌詞の断片を持って現れたとき、彼女が持っていたのは混乱した数行の歌詞だけだった。Usherはそれを整理し、決定的なサビ「Hey little Cobra, don't you know you're gonna shut 'em down」を書き上げ、彼女にTerry Melcherを紹介した。後にMelcherから「素晴らしい曲を手に入れた」と電話があった際、Garyは自分の関与を明かした。「要するにこれはTerry、Bruce、そして僕の3人で書いたようなものだ」と伝えたというが、クレジットに彼の名前が乗ることはなかった。TerryはBruceに電話した。「勢いがあるうちにRip Chordsのレコードにしないといけない。Columbiaのリリースのうち、ヒットチャート番組でかかったロックンロールはうちらの一曲目の売上が5万枚、二曲目が9万枚。それ以外は皆無だ」。翌日にはスタジオに入り、二人は文字通り午後から夜通しでレコードを仕上げた。
一方、Carol自身の話はさらに劇的だ。恋人のAC Bristolを大破させた彼女は、修理の相談でCarroll Shelbyのオフィスへ乗り込んだ。Shelbyとは1959年のLe Mans24時間レースを制した伝説のレーシングドライバーで、引退後はFordのエンジンを英国製シャシーに積んだ「Cobra」を世に送り出した人物だ。「CobraのフロントをBristolの後部に付けられないか」という突拍子もない依頼に、Shelbyは腹を抱えて笑い、こう言った。「1位になったら、何とかしてやる」。曲はチャート4位まで駆け上がり、ShelbyはCarolに約束通りCobraを1台贈呈した。さらにShelbyのLe Mans遠征にも同行し、当時FordのHigh Performance部門の責任者だったLee Iacoccaとも顔を合わせることになった。一方Terryは録音の条件として出版権の50パーセントを継父Martyの会社Daywin Musicに収め、残る50パーセントはCarolと弟MarshallのVadim Musicが保持した。才能だけでは扉は開かない。ヒットの代償は著作権で払う!それが当時のLA音楽業界の作法だった。
さらに笑えるエピソードがある。Brian WilsonとJan Berryは後日、Carolの元へ激怒した様子で現れ、こう言い放ったという。「この曲は女が書いたものだということは最初からわかった。Cobraをギアをニュートラルにしてゴールラインまで惰性で走るなんて、実際にはできないからな」。Carolは「だから何? 誰が気にするのよ」と一蹴したという。
クレジットの謎を残したまま、BruceとTerryの制作活動は次のターゲットへと向かう。1964年夏のことだ。

 1964年夏、人気下降気味だったスターPat Booneの再起をかけ、BruceとTerryはBrian Wilson作の「Little Honda」をプロデュースすることになった。Patは当時Las Vegasのホテルで公演中だったため、Terryはトラック収録を終えたテープを携えてLas Vegasへ飛んだ。
Terryはこう語る。「Patのショーが終わるのを待ってスイートルームへ向かった。彼が着替えている間、部屋のラジオから「ただいまチャート急上昇中!」と紹介されながら流れてきたのは、ライバルGary UsherがThe Hondells名義で放った、まったく同じ「Little Honda」だった。Patはそれが自分がこれから録音する曲だとも気づかず鼻歌で合わせている。まずいことになったと思った」。
結果はThe Hondellsの圧勝。「5,000ドルの制作費がふっ飛んだ」とTerryは真っ青になった。しかしGary側はこの顛末を後年楽しそうに語り継いでいる。「TerryはLas Vegasの大通りを車で走っているとき、ラジオから僕のThe Hondells版が流れてくるのを耳にして、先を越されたことの衝撃にハンドルを取られそうになり、同時に心臓が止まるかと思ったそうだ。」
だが負けたままでは終わらないのがこの二人だ。Garyが先にヒットを出すと、Terryは傲然と言い放った。「このガキが!俺より先にヒットさせやがって、何でもいいから曲を持ってこい。俺の手にかかれば何でもチャートに叩き込んでやる」。Garyが持ってきた一曲が「Comin' On Too Strong」だった。仲間内で「ガキ」と呼び合う二人が始めた賭けの結末は痛快だった。TerryはWayne Newtonに歌わせたが、実際にWayneが歌ったのは全体の1/4以下。残りのサビ、ハーモニー、バックコーラス、ファルセットの全てをBruceとTerry自身が多重録音で埋め尽くした。Garyは断言する。「あれはWayneの名を借りた実質的な『Bruce & Terry』のレコードだった」。
ところが、曲がヒットチャートを上昇し始めると、Wayneは恐怖に駆られて師匠のBobby DarinとCapitol Recordsへ駆け込み、「せっかくヒットしてるんだけど、このレコードのプロモーションを止めてくれ」と懇願した。スタジオの魔術で構築されたこのサウンドを、ライブで再現することなど自分には不可能だと分かっていたからだ。Terryはさらりと付け加える。「BobbyとWayneは実際にはお互いをまったく嫌い合っていた」。これが当時のL.A.音楽界の日常だった。

 そのL.A.スタジオ世界の黄金時代は、しかし1965年を境に急速に様相を変えていく。
 その変化は、スタジオの外から一本の電話という形でやってきた。
1965年4月7日、The Beach Boysはツアーの途上でNew Orleansに到着していた。
そのとき、Glen Campbellから一本の電話が入る。内容はきわめて実務的だった。これ以上ツアーに同行できないというのである。すでに約束していたThe Righteous Brothersのバックの仕事と日程が重なり、どうしても動けなくなったのだった。
 バンドにとってそれは突然の欠員であり、しかも次の公演は目前に迫っていた。代役を探す時間はほとんど残されていない。こうした状況のなかで、Mike LoveはLos AngelesにいたBruceに電話をかける。だがその用件は、いきなり加入を打診するものではなかった。彼が最初に口にしたのは、むしろ業界仲間に向けるような問いだった。
「誰か代わりに来られる人間を知っているか?」
 Bruceはこの電話を後年、「本当に急な話だった」と振り返っている。彼らは「昨日にでも欲しかった」ほど切迫していたという。彼の頭にまず浮かんだのは、若いミュージシャンのEd Carterだった。しかし彼は学業の都合で動けない。候補者は消えた。代替案もない。
そのとき、Bruceは一歩前に出る。
 「誰も見つからないなら、ぼくが行くよ。」
 それが彼の判断だった。ベースは弾けなくはないが、ピアノなら弾ける。ハーモニーも歌える。何より、今必要なのは完璧な人材ではなく、すぐに舞台に立てる人間だった。
こうして彼は急遽New Orleansへ飛ぶ。そして二日後の4月9日、ステージに立つことになる。準備は整っていなかった。衣装すら間に合わず、彼が身につけていたのはAl Jardineの予備のズボンだったという。サイズは合っていなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
 その夜、Bruceはエレキピアノを担当しつつ、Brian Wilsonのファルセット・パートを歌った。一方、Jardineがベースへ回り、編成を維持する。こうしてバンドは、即席の再配置によって公演を成立させたのである。
 しかしステージに出た瞬間、彼を迎えたのは歓声ではなく問いだった。
 客席から叫び声が上がる。

「Brianどこいったー?」

 Bruceはそのときの心境を率直に語っている。石を投げられるかもしれないと思った、という。それほどまでに、当時のBrianはグループの象徴だった。それでも演奏は続き、観客の熱狂はやがて彼を包み込んでいった。最初は圧倒されたが、その反応こそが彼を舞台の上に踏みとどまらせた。
 この人選について、Brian自身は後に「理にかなっていた」と語っている。彼はBruceを以前から知っており、Terry Melcherと共にレコード制作をしていたことも承知していた。ファルセットの声質が似ていること、演奏能力が高いこと、そして何より、追い詰められた状況のなかで即座に対応できる人物だったことが、その判断の根拠だった。
 ただし、この時点でBruce自身はまだ「正式メンバーになった」とは考えていなかった。ツアーを終えてスタジオに呼ばれ、「次のアルバムで歌ってみないか」と言われたときも、彼はなおColumbia Recordsの仕事を続けていたし、Brianがいつか再びツアーに戻る可能性を疑っていなかったのである。
 振り返れば、Bruce Johnstonの加入は制度的な決定というより、一つの出来事の連鎖だった。一本の電話から始まり、欠員が生じ、代わりが見つからず、そして本人が前に出た。その積み重ねが結果として、あの立ち位置を生み出したのである。
 それは計画された加入ではなかった。
 むしろ、現場を止めないための即断が、歴史を形づくった瞬間だったと言えるだろう。
それにしても、この加入はいかにも静かなものだった。Columbia Recordsとのアーティスト契約が障壁となり、Bruceは1967年のアルバム『WILD HONEY』まで正式メンバーとしてアルバムジャケットにクレジットされることができなかった。『PET SOUNDS』の裏ジャケットにはツアーメンバーとして写真が掲載されたが、それはあくまで添え物に過ぎなかった。1965年の『SUMMER DAYS』撮影時には「カメラマンの隣に立っていた」と本人が語るほどの周縁的な立場だった。それでも当時の公式コンサートブックレットは、この新顔をこう紹介している。「Beverly Hillsが、ついにHawthorneにやって来た!」山の手Bel Airで育ったこの男と、下町Hawthorne育ちのWilson一家との組み合わせを、一言で言い表した言葉である。

 1965年6月16日、Terry はColumbiaのスタジオに馴染みの顔ぶれを集めた。Hal Blaine、Glen Campbell、Larry Knechtel、いわゆるThe Wrecking Crewの精鋭たちだ。彼らはほんの数ヶ月前、まったく同じようにTerryに招集されていた。あのとき録音されたのは、The Byrdsのデビュー・シングルである。
 しかし今回のセッションで彼らが臨む仕事は、Bruce & Terryの新曲「Four Strong Winds」だった。Ian Tysonが書いたこのフォーク・チューンを、TerryはThe Byrdsと同じミュージシャンに、The Byrdsと同じ楽器編成かつ方法論で録音しようとしていた。
 その意図を、Terry自身が明快に語っている「あれは『Mr. Tambourine Man』の直後だったよ。俺は『よし、しばらくこの路線でいこう』と思ったんだ」。
 証言の正確さは、日付が証明する。The Byrdsの「Mr. Tambourine Man」がシングルとしてリリースされたのは1965年4月12日。それがBillboard Hot 100の頂点に達したのは6月26日のことだ。Bruce & Terryのセッションが行われた6月16日は、奇しくもThe Byrdsのファースト・アルバム『Mr. Tambourine Man』のリリース(6月21日)のわずか5日前にあたる。つまりTerryは、あのサウンドが絶頂に向かう瞬間を正確に見極め、その波に乗ろうとしていた。
 ここで注目すべきは、TerryがThe Byrdsの「外側」からそのサウンドを模倣しようとしていたのではない、という点だ。彼はThe Byrdsのプロデューサー当人であり、あの12弦Rickenbackerの響きを自らの手で生み出した張本人だった。すなわち「Four Strong Winds」のセッションにおいてTerryがやったことは、他者の作品を参照することではなく、自分自身の仕事を別の文脈に移植することだった。
 その結果として完成した「Four Strong Winds」は、The Byrdsの響きを継承する12弦ギターを核に据え、7月2日のオーバーダビング・セッションではMort Garsonの指揮のもと弦楽器と管楽器が加えられ、豊かでふくよかなプロダクションへと仕上げられた。リードはTerry、ハーモニーはBruce。ただしBruceはこの時期、The Beach Boysとのツアーと録音に拘束されており、6月のセッションには参加したものの、7月のオーバーダビングには不在だった。
 それにしても、このシングルにはもう一つ見逃せない文脈がある。The Rip Chordsはすでにシーンから消えていた。サーフ、車、ピカピカの天気、そういった意匠は使い果たされ、Bruce & Terryというデュオの看板だけが残っていた。Terryはその看板を、迷わず新しい時代の音で塗り替えた。選ばれたのはフォークとカントリーの香りを持つ曲たちであり、それをThe Byrdsの方法論で録音するという戦略だった。しかしTerryには、この時期すでにより大きな仕事が待ち構えていた。Paul Revere & The Raidersとの共同作業がいよいよ本格的な成果を上げ始めており、同年12月には「Just Like Me」がBillboard 11位のTop 20ヒットとなる。Bruce & Terryというユニットは、彼のキャリアにおいて徐々に中心から外れてゆく運命にあった。
 「Four Strong Winds」のセッション記録には、Bruce Johnstonがセッション・リーダーとして244.04ドル――通常の2倍のギャラ――を受け取ったことが明記されている。The Beach Boysとの二重生活を送りながらも、Bruceはこの6月のセッションにはきちんと顔を出していた。その存在が、この曲の完成度を支えたことは疑いない。

 The Byrdsのサウンドが時代を塗り替えていく一方で、BruceとTerryはColumbiaスタジオの奥に潜む別の武器に手を伸ばしていた。

Columbiaのスタジオには、知る者だけが知る秘密があった。

 クローゼットの奥に、巨大な機械が眠っていた。エンジニアたちはその存在を頑なに隠し、TerryとBruceが扉を開けようとするたびに「お二人には関係ない」と遮った。しかし二人は食い下がった。押し問答の末にようやく明かされた正体はL.A.初の8トラック録音機だった。
 Duke Ellingtonのために特別製造されたこの機器は、クラリネットとサックスの音を分離するという、エンジニアたちに言わせれば「非常に退屈な」目的のために作られた。ほとんど使われないまま、コードを束ねられてクローゼットに押し込められていた。
 「当然、ぼくらは引っ張り出して使い始めた」とBruceは語っている。「The Rip Chordsの頃に同期録音なしで何十回も音を重ねるという問題を抱えていたから。だからうまくいったんだ」。
 ところで、この8トラック機器を最初に実作品へ活用したのはいつのことだったのか?ここで興味深い食い違いが浮上する。
 Terryは「Mr. Tambourine Man」、すなわち1965年1月に録音されたThe Byrdsのデビュー・シングルが最初だと主張している。しかしBruceの記憶は異なる。8トラックを最初に使った作品を問われた彼は、こう答えた「たぶん『Summer Means Fun』と『Carmen』、そして本当に素晴らしいのに日の目を見なかった曲たちだと思う」。


The Sandpipers、デビュー・アルバムGuantanamera(A&M、1966年)
「Carmen」を収録し、Billboard Top LPs 13位を記録。
Bruce & Terryがチャートに届かなかった曲は、
こうして別の声で蘇った


 いずれもThe Byrdsのデビュー以前――あるいは少なくとも同時期――の作品である。Bruceの証言が正しければ、8トラック機器はThe Byrdsのセッションよりも早い段階から、すでにBruce & Terryの仕事に密かに持ち込まれていたことになる。
 二人の記憶はなぜ食い違うのか。あるいはどちらが正しいのか。今となっては確かめようがないが、この齟齬そのものが一つの事実を示唆している。8トラックとの格闘は、どちらにとってもそれほど日常的で、境界線の曖昧な体験だったのだ。革命はいつも、当事者が気づかないうちに始まっている。
 いずれにせよ、1965年10月22日のセッションで「Come Love」に8トラックが全面的に活用されたことは疑いない。Terryはこの日、30名以上のミュージシャンをColumbiaのスタジオに招集した。ハープシコード(Lincoln Mayorga)、ハープ(Verlya Mills)、Julius Wechterのパーカッション。Sid Sharpが束ねる弦楽セクションには、Bill Kurasch、Leonard Malarsky、Harry Bluestone――Los Angelesでも指折りの奏者たちが並んだ。ブラスにはLouis Blackburn、Tony Terran、Aubrey、"Tex"Bouck。Larry Marksが指揮台に立ちオーケストレーションを仕切った。
 Phil Spectorが証明したように音は重ねるほど、別の次元に達する。8トラックはその夢を、一気に現実に引き寄せる道具だった。そしてTerryには、4ヶ月前の「Four Strong Winds」セッションで多重録音の可能性に改めて目覚めていた経験があった。
 ただしエンジニアたちの抵抗は、この日も続いていた。Bruceの証言はあまりにも鮮烈だ
「ミキシング・コンソールに触ろうとすると、エンジニアたちはササッと機器をシャットダウンして部屋を出ていくんだよ。本当に変だった」。
 Alan and Marilyn Bergmanの作詞、Larry Marksの作曲による「Come Love」は、その闘いの末に完成した。ハープシコードの粒立ち、弦の厚み、ブラスのアクセント......それらが8トラックによって初めて相互干渉なく積み重ねられ、「音の壁」が築かれた。Terryが「持てる技をすべて注ぎ込んだ」と評されるだけのことはある、まさに力業の極致だった。
 Terryはのちにこう語っている。「『Come Love』は、Alan and Marilyn Bergmanが書き始めた頃に最初に録音された曲の一つだったと思う。その後『Windmills Of Your Mind』でアカデミー賞を受賞するとは、当時は思わなかったね」。歴史とはこういうものだ。誰が何者になるかは、後にしかわからない。
 批評家たちは反応した。Cash Boxは「Best Bet」、Record Worldは「4 Star Pick」「盛り上がりに盛り上がるバラード。二人は磁力のように聴衆を引き込む」と称えた。しかしアメリカの主要ラジオ局は沈黙した。全国規模のヒットには届かなかった。
 しかし太平洋の向こうで、奇跡が起きた。1966年4月から5月にかけて、香港のチャートでTop 10入りを果たしたのだ。L.A.のクローゼットから引き出された機器が生んだ音が、誰も予期しない場所で聴衆を見つけた。なおこのセッションにBruceは参加していない。彼はThe Beach Boysの仕事(BurbankのNBC-TVスタジオでのAndy Williams Show収録)に拘束されていたが、そのThe Beach Boysの現場でさえBruceの席にはBrian Wilsonが座っていた。Bruce & Terryにも、The Beach Boysにも、完全に属さない宙ぶらりんな状態、それが1965年秋のBruceの立ち位置だった。


 振り返れば、Bruce & Terryの音楽的軌跡は、ひとつの方向へと着実に動いていた。サーフィン、車、西海岸のライフスタイル.....初期の意匠が費消されていくにつれ、二人のサウンドはMORへと重心を移し、ストリングスや管楽器によるオーケストレーションを纏い、ハーモニーはより甘く、より厚いものへと変わっていった。「Come Love」のあの30人編成のセッションは、その到達点のひとつだった。意図したわけではない。ただ、より豊かな音を求めて手を伸ばし続けた結果として、二人は後にソフトロックと呼ばれるジャンルの設計図を、誰よりも早く引いていたことになる。

             
 1966年5月、Bruceは『PET SOUNDS』のプロモーションのためロンドンに滞在していた。元BeatlesパブリシストでThe Beach Boys担当となったDerek Taylorが約15本のインタビューをセッティングするかたわら、Keith Moon(The Who)をBruceに引き合わせた。
 二人はたちまち意気投合し、古くからの怪友Kim Fowleyも加わってEssex州RomfordへTony Rivers And The Castawaysのライブを観に繰り出した。The Beach Boysの楽曲をレパートリーに持つこのグループをBruceが気に入ったからだ。ステージに引っ張り上げられたBruceは、ベースを手渡されて途方に暮れた。「ぼくはどっちかといえばピアノ弾きなんだけど」そう言ったところでステージにピアノはない。複雑なベース・ラインを持つ「The Little Girl I Once Knew」では固まり、一方でKeith Moonのドラムは「繊細さ」とは無縁の全力投球。曲が終わるたびにTony Riversが「Keith MoonとBruce Johnstonに拍手を!」と言おうとすれば、Keithは間髪入れず「次は何やる?あ、その曲知ってるから叩かせろ!」
そのまま演奏は続いた!
 ここにも一つの妙縁がある。Kim FowleyはBruceのUniversity High School時代の旧友であり、二人はともにThe Sleepwalkersで活動した仲だった。そのFowleyは、Bruceより一足早く英国に渡り、1964年から現地のバンドを手がけることで独自の英国コネクションを築いていた。後にSlade、Soft Machine、Familyといった名前で知られることになる若手グループたちとの仕事がその証左である。BruceがロンドンでKeith Moonと意気投合したとき、隣にいたのは偶然にも、誰よりも早くこの街の空気を知っていた男だった。

しかしこの夜には、より大きな物語への扉が隠されていた。

 Romfordから戻ったある夜、BruceはWaldorfホテルのスイートでパーティーを開いていた。廊下でKeith Moonと話していると、Kim Fowleyが「戻ってきた方がいい。The Beatlesの二人がいて、Pet Soundsを聴きたがっている」と告げた。

部屋にいたのはJohn LennonとPaul McCartneyだった。

 Bruceは持参していた『PET SOUNDS』をかけた。一度では終わらなかった。Paulたちは二度、三度とかけ直すよう求めた。Bruce自身の証言によれば、その夜は約4時間、何度も繰り返して聴いた。「みんな、素晴らしい映画を観終わったときのように『Wow』となって、ただそれが最高を意味するとわかっていた」。
なお皮肉なことに、仲介役のKeithは、この音楽にそれほど反応しなかった。彼はThe Beach Boysの初期のサーフ・サウンドの方が好みだった――とBruceは後に苦笑いしながら明かしている。
 この夜が何を生んだか。Paulは後に繰り返し、明確に証言している――「Sgt. Pepper'sを録音する際に考え始めた大きなきっかけは、基本的に『Pet Sounds』だった」。The Beatlesの担当プロデューサーだったGeorge Martinも「『Pet Sounds』なしに『Sgt. Pepper's』は生まれなかった」と断言した。Rubber SoulがPet Soundsを生み、Pet SoundsがSgt. Pepper'sを生んだ、ロック史上最も有名な連鎖反応の触媒となったのは、Keith MoonとBruce JohnstonのLondonにおけるWaldorfの一夜だった。
そしてその出発点に、Romfordのあの爆笑ライブがあった。

1966年6月 KRLA-Beat誌記事    プロデュース予定だったが.....

 興奮冷めやらぬBruceはRomfordから戻った後、記者たちにこう宣言していた。「ぼくはプロデューサーに戻る!Tony Rivers And The Castawaysで仕事をする。きっとヒットを出させる!」。しかし実際は何も実現しなかった。Tonyたちは自力で「God Only Knows」のカヴァーを仕上げ、1966年7月22日――The Beach Boysのオリジナルと同日――にリリースした。Melody Makerチャートで46位。The Beach Boysのヴァージョンは2位だった。

 「God Only Knows」におけるBruceの役割は、一般に思われているより遥かに大きい。Carlがリードを歌い、BrianとBruceがハーモニーを担当したこの曲は、当初Marilyn、Diane、Terry Melcherを含む大人数で録音されていた。しかしBrianは過剰と判断し、Carl・Brian・Bruceの3声部に絞り込んだ。「God Only Knowsには3声部しかない――あれほど有名なBeach Boysの曲の中で唯一の例だ」とBruce自身が語っている。

 そしてコーダこそ、Bruceらしさが最も光る瞬間だ。長いセッションの末にCarlが疲れて帰宅し、残ったのはBrianとBruceの2人だけだった。Brianはエンディング・セクションのトップとボトムのパートを自ら歌い、ミドルをBruceに任せた。あの甘く繊細なコーダは、Bruceなしには存在しなかった。「彼が2つのパートを歌い、私が真ん中を歌った」——Bruceはその夜のことをそう振り返っている。加入から1年も経たない新参者が、Beach Boys史上最も美しいと言われる曲の核心部分を支えていたのだ。なお、このコーダにはひとつの注記が必要だ。モノ原盤ではコーダの冒頭でBrianがCarlのリードを引き継ぎ、BruceとBrianが交互に重なっていく。しかし1996年のステレオ・ミックスでは、Carlが後日同じマルチトラックに上書き録音したためBrianのパートが失われており、コーダ冒頭はCarlの声で始まる。Brianの痕跡は、モノ原盤の中に静かに刻まれている。



 「Thank You, Baby」という曲は、Bruce Johnstonが書いた楽曲のなかでも、とりわけ不思議な生命力を持つ一篇である。Bruce & Terryのオリジナルは時代の波に飲まれたかもしれないが、この曲そのものは静かに、しかし確実に、さまざまな歌い手の声を借りて生き続けた。ここではその足跡を、録音の年代順に辿ってみたい。


Graham Bonney(1967年1月) UK Columbia 45rpm DB-8111

Produced by Bruce Johnston and Graham Bonney

Arranged by Bruce Johnston and Arthur Greenslade


 カヴァー列伝の時系列を正確に辿るならば、その第一走者はイギリス人シンガーGraham Bonneyでなければならない。Bruceが「Thank You, Baby」をBonneyと共に再録音したのは1966年末、Londonのスタジオでのことだ。アレンジはBruceとArthur Greensladeが共同で担当し、プロデュースはBruce自身とBonneyの連名。つまりこのヴァージョンは、作者が自ら海を渡り、異国の歌い手のために腕を振るったという点で、このカヴァー列伝の中でも特別な位置を占める。翌1967年1月、シングルはUK Columbiaレーベル(DB-8111)から英国でリリースされた。英国の音楽プレスはこの盤を好意的に迎え、Melody Maker(1967年1月14日付)はBonneyを才能豊かな好感度の高いシンガーと評し、楽曲をすぐれたビート・バラードと位置づけた上で、The Beach Boysとの関連性がヒットへの追い風になりうると期待を示した。しかし実際には、ラジオからもリスナーからもほとんど反応を得られないまま、シングルは静かに消えていった。華やかな批評と冷淡な市場――この皮肉な対比は、Bruce & Terry時代のアメリカでの経験と、どこか重なって見える。



Claudine Longet(1970年5月)

LP RUN WILD, RUN FREE(A&M SP-4232)収録、Track 6/Side 2

Arranged and Produced by Nick DeCaro


 フランス生まれの歌姫Claudine Longetが「Thank You, Baby」をカヴァーしたのは1970年のことだ。A&Mレーベルにとって最も洗練されたアーティストのひとりであった彼女のために、アレンジャーのNick DeCaroは楽曲をきわめて繊細に仕立て上げた。Nickの手になるアレンジは、原曲のもつ素朴な温かさを、より室内楽的な親密さへと昇華している。注目すべきは、このLonget版とのちのRod McKuen版の二版のみが、作曲クレジットにDinee Dudleyの名を刻んでいる点だ。出版社表記はDaywin Music, Inc.(BMI)であり、他の多くのヴァージョンがArtists Music, Inc.(ASCAP)を使用しているのと対照的である。




The Captain And Tennille(1972年2月)

LP SONG OF JOY(A&M SP 4570)収録、Track 3/Side 2

Produced by Daryl "The Captain" Dragon and Toni Tennille


 The Captain And Tennilleによるカヴァーは1972年2月のアルバム SONG OF JOY に収録された。Toni Tennilleの歌声は、ポップスの文法に忠実でありながら、どこか説教壇から語りかけるような真摯さをあわせ持っている。後に彼らが「I Write The Songs」「Disney Girls」といったJohnston作品を積極的に取り上げることになる。作曲クレジットは「Bruce Johnston」単独、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。Bruceの名のみを刻んだこのシンプルな表記が、以後の「標準型」となっていく。


Rod McKuen(1972年5月)

LP ODYSSEY(Warner Bros BS 66383)収録、Track 3/Side 1

Produced by Rod McKuen


 詩人・作曲家・歌手という三つの顔を持つRod McKuenのカヴァーは、このシリーズの中で最も個性的な変種である。Rodはただ歌っただけではなく、楽曲の冒頭に新たなヴァースを書き加え、各所の歌詞にも手を入れた。その「改作」の対価として、クレジットには「Rod McKuen-Bruce Johnston-Dinee Dudley」の三名が並び、出版社もDaywin Music, Inc.とMcKuen自身のSalvation Musicの連名となっている――Salvation Musicという社名は、McKuenが救世軍の宿泊所で生まれたという出自に由来する、いかにも詩人らしい命名である。



Andy Williams(1976年5月)

LP ANDY(Columbia OC 34299)収録、Track 3/Side 1

Produced by Larry Brown


 かつてColumbia Recordsの屋台骨を支えたAndy Williamsがこの曲を手がけたのは、1976年のことだ。Johnstonもまた同時期に同じColumbia傘下でソロ活動を展開していたことを思えば、この符合はいかにも意味深長に映る。Larry Brownのプロデュースは堅実そのもので、Andyの成熟した声の魅力を無駄なく引き出している。クレジット表記は「B. Johnston」と略記され、出版社はArtist Music, Inc.(ASCAP)。



Bruce Johnston(1976年5月)

LP GOING PUBLIC(Columbia PC 34459)収録、Track 3/Side 1

Produced by Gary Usher


 作者自身によるセルフ・カヴァーは、このカヴァー列伝の白眉である。Gary Usherのプロデュースのもと、Bruceは全ヴァージョン中最長となる4分23秒をかけて、この曲を徹底的に「自分のもの」として再構築した。Andy Williamsのヴァージョンと同じ月に、同じColumbia Recordsからリリースされたという事実もまた興味深い。GOING PUBLIC には「I Write The Songs」「Disney Girls」とともにこの曲が並んでいる。Bruceの作家的自己像を語る上で欠かせない三曲が、一枚のアルバムに揃っているのだ。クレジットは「B. Johnston」、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。

                                        

Rosemary Clooney(1977年)

LP NICE TO BE AROUND(UAS 30008)収録、Track 5/Side 1

Arranged and Produced by Del Newman


 1950年代からポップスとジャズの双方で活躍し、長いキャリアを誇るRosemary Clooneyが、この曲をUKでひっそりと録音していた事実は、多くのリスナーにとって発見であろう。Del Newmanのアレンジは、Londonのスタジオ録音らしい品のよさに満ちている。出版社表記も演奏時間も盤面には記載されていないこの版は、「Thank You, Baby」の大西洋横断の証人として、ディスコグラフィー上に静かに佇んでいる。

                                

                                      

Trevor Chance(1978年)

LP LOVE IS(LP1)収録、Track 2/Side 2

Produced by Gordon Smith。UK(Simon Records)

 このリストの末尾を飾るのは、UKのSimon Recordsという小さなレーベルからリリースされたTrevor Chanceのヴァージョンである。作曲者名のクレジットは「Johnson」――"t"が抜け落ちたまま刻まれており、大西洋を渡るうちに名前がひとつ削られてしまったかのようだ。Gordon Smithのプロデュースによるこの録音の詳細は現在も不明な部分が多いが、LA生まれの一篇のポップ・ソングが、1978年のロンドンで名もなき歌手によって歌われていたという事実それ自体が、この曲のもつ静かな普遍性を雄弁に物語っている。

 八つの声が時代を超えて「Thank You, Baby」を歌った。Bruce & TerryがColumbia Recordsのスタジオで生み落としたこの小さな宝石は、まずBruce自身の手によってロンドンへと渡り、Graham Bonneyの声を借りて英国デビューを果たした。その後Claudine Longetのフランス的エレガンスとなり、Toni Tennilleの真摯な誠実さとなり、Rod McKuenの詩人的再解釈となり、やがて作者自身の手によって最も豊かな形へと結晶した。そして再び海を渡り、名前の綴りを間違えられながらも、ロンドンの片隅で歌われ続けた。一曲の歌の生涯とは、かくも豊かなものである。与えられた時間に感謝しながら、自ら静かに幕を引く。それがこの曲の真髄だとすれば、61年間ステージに立ち続け、自らの手で次の扉を開けたBruce Johnstonもまた、音楽とファンに向けて同じ言葉を贈ることができるだろう。

Thank you, baby.



詳細ディスコグラフィは 
佐野氏作成 2017/08/30記事Favorite Musician 全音源コレクティング第3回を参照されたい。

出典
Stephen McParland著
Bull Sessions With The Big Daddy: 
Interviews with Those Who Helped Shape The California Sound
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s VOL.1
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s.VOL.2

2026年2月21日土曜日

Jim Croceについて


 ジム・クロウチの「Operator」を初めて聴いた時、優しいメロディと輪郭のはっきりした心地いい歌声に聴き惚れた。電話をかけるには交換手(Operator)に繋いでもらう必要があった時代。交換手へ語りかけながら、過去の恋人に電話をしようかしまいか、心境が変化していく様子が歌われている。5枚あるスタジオアルバムのうち、初ヒットとなった3作目『You Don't Mess Around with Jim』(ABC Records-ABCX756)からのシングル曲だ。

Operator / Jim Croce

 ペンシルベニア州南フィラデルフィア出身のジム・クロウチは、幼い頃からアコーディオンを演奏したり、様々なジャンルの音楽を聴いて育ったそうだ。ヴィラノバ大学に進学してからはヴィラノバ・スパイアーズというサークルで音楽活動を行い、審査員として参加した音楽コンテストの出演者イングリッド・ジェイコブソンを誘って彼女とデュオでの活動も行った。1965年の卒業後は陸軍州兵に入隊し、訓練生活を送りながら音楽活動も続けていたそう。翌年、クロウチとイングリッドは結婚し、この時両親からの結婚祝い金で500枚自主制作されたのが最初のアルバム『Facets』だ。

 兵役の任務が解かれた1968年、大学の友人でもある音楽プロデューサーのトミー・ウエストの勧めで夫妻はニューヨークへ移住し、キャピトルレコードからデュオでのアルバム『Jim & Ingrid Croce』(Capitol Records-ST-315)をリリース。しかし商業的には恵まれず、ニューヨークでの生活にも疲れた2人はペンシルベニア州リンデルの田園地帯に移り住むことにした。ここでのクロウチは工事現場の作業員やトラック運転手など様々な仕事で生計を立てていたそうだ。この生活の中で出会った人々は、後の曲作りのテーマとして登場しているらしい。

 1970年になって、大学の友人で音楽プロデューサーのジョー・サルヴィオロから紹介されたシンガーソングライターのモーリー・ミューライゼンとパートナーを組みABCレコードと契約。この頃息子が生まれたクロウチは決意を新たに再びニューヨークへ向かい、ミューライゼンをリードギターに、トミー・ウェストとテリー・キャッシュマンのプロデュースでアルバムを制作する。こうして1972年4月にリリースされたのがヒットアルバムとなった『You Don't Mess Around with Jim』だ。収録曲のひとつ「Time In A Bottle」は息子のために書かれた曲だそう。この時から、全米中をツアーしてまわる多忙な日々が始まった。ツアーと並行してレコーディングも進められ、ABCレコードでの次のアルバム『Life and Times』』(ABC Records-ABCX756)は1973年1月にリリースされた。このアルバムからのシングル曲「Bad, Bad Leroy Brown (邦題: リロイ・ブラウンは悪い奴)」は2週連続全米1位を獲得。フランク・シナトラやドリー・パートンにもカバーされた。クイーンの「Bring Back That Leroy Brown」という曲で歌われているのは、このクロウチの「Bad, Bad Leroy Brown」の歌詞に登場する悪党リロイ・ブラウンのことだ。

 1973年9月20日、クロウチとミューライゼンはルイジアナ州ナケテシュにある、ノースウェスタン州立大学でのコンサートを終え、翌日のテキサス州シャーマンのコンサートに向かうところだった。しかしナケテシュの空港で2人が乗り込んだ小型チャーター機は、離陸した直後に木に激突し6人の乗客全員が死亡。ジム・クロウチは30歳、モーリー・ミューライゼンは24才という若さで突然この世を去った。シングル曲「I Got A Name」がリリースされる日の前日の事故だったそうだ。11月には、これまで『You Don't Mess Around with Jim』の中の1曲だった、息子のための曲「Time In A Bottle」がシングルカットされ、全米1位を獲得する。そして事故の1週間前にレコーディングを終えていた、「I Got A Name」を含む同名のアルバム『I Got a Name (邦題: 美しすぎる遺作)』(ABC Records-ABCX797)が1973年12月にリリースされ、「I Got A Name」の他、「I'll Have To Say I Love You In A Song」、「Workin' at The Car Wash Blues」がヒットを獲得した。

Workin' at The Car Wash Blues / Jim Croce

 その後も、生前未発表だったデモ音源やライブ音源などがいくつかリリースされているのだけれど、最近知って興味深かったのは2003年リリースのコンピレーションアルバム『Home Recordings: Americana』(Shout!Factory-DK30266)で、この音源は1967年に自宅のキッチンテーブルで、ウォーレンサック製のオープンリール式テープレコーダーを使って録音されたものだそうだ。

The Wall / Jim Croce (Harlan Howard カバー)
『Home Recordings: Americana』


参考・参照サイト

https://jimcroce.com/

https://web.archive.org/web/20090813083353/http://www.philly.com/inquirer/local/20090810_Croces_capture_time_in_a_bottle.html

https://web.archive.org/web/20100611020306/http://www.pabook.libraries.psu.edu/palitmap/bios/Croce__Jim.html

https://www.rhino.com/article/happy-45th-jim-croce-i-got-a-name

https://agreenmanreview.com/music-2/jim-croces-have-you-heard-jim-croce-live-and-home-recordings-americana/


執筆者・西岡利恵
60年代中期ウエストコーストロックバンドThe Pen Friend Clubにてベースを担当。



【リリース】

■ 2026年3月18日発売
2枚組 NEWアルバム
『Songularity - ソンギュラリティ』

「Harbinger」(『Songularity』)Official PV













■ 2026年2月20日〜配信中
『Songularity - ソンギュラリティ』
先行シングル第一弾「California Again」
(ショートMV)













■ 2026年2月20日
先行シングルCD4作 同時発売
(ペンパルレコード通販にて販売)

先行シングル4作
4週連続 配信
2/20「California Again」
2/27「Got To Be Rock And Roll」
3/6「Grow」
3/13「Lily’s Smile」

【LIVE】

[Songularity - ソンギュラリティ]
レコ発ワンマンツアー

■2026年4月25日(土・昼)
東京・渋谷LOFT HEAVEN

■2026年5月2日(土)
大阪・天満橋RAW TRACKS

■2026年6月20日(土)
名古屋・鶴舞KDハポン

チケット予約









































2026年2月13日金曜日

We Gotta Groove – Brian’s Back!の真実と、その音が生まれた場所–


   
  1976年、The Beach Boysのツアー告知や広告に踊った「Brian’s Back!」という言葉は、当時のロック・シーンにおいてきわめて異例なキャッチコピーだった。新曲でも新作でもなく、「Brianが戻ってきた」こと自体が最大の商品価値として打ち出されたのである。それは同時に、Brian Wilsonという存在が、いかに長く“不在”だったかを物語っている。
    1960年代中葉以降、彼はステージから退き、スタジオに引きこもり、やがて精神的にも音楽的にも崩壊と再生を繰り返す存在となった。『SMiLE』の挫折以降、バンドは「Brian不在でも前に進むバンド」として存続してきたが、ファンもメディアも“いつか戻ってくる天才”の幻想を捨てきれずにいた。1975年末、その幻想に現実味を与えたのがEugene Landyによる24時間管理プログラムだった。この治療によってBrianは確かに安定し、社交性を取り戻し、そして何よりも再び音楽を量産し始める。


 重要なのは、ここでの「回復」が必ずしも健全な回復ではなかった点だ。Landyの管理下でBrianは強烈なプレッシャーと期待にさらされ、「Brianが戻った」という物語は、本人の内面よりも先に周囲によって作られていった。1976年夏、Brianは久々のツアー復帰を果たすが、観客は彼の現在地よりも「天才の帰還」という物語を見に来ていた。その延長線上に生まれた『15 Big Ones』は、そこそこ商業的に成功を収めたが、その内容はファンやメンバーに複雑な反応を引き起こした。求められている“復活した天才”と、彼自身がやりたい“個人的で衝動的で管理されない音楽”。この内面のねじれこそが、当時の彼の音楽の核心にある。
 また、1970年代後半という時代背景と、このアルバムが放つ異様なまでの「ズレ」がある。
1977年といえば、世界はEaglesが描く洗練された「Hotel California」の憂鬱に浸り、一方でパンクの衝動やディスコの狂騒が世間を焼き尽くそうとしていた。そんな中、Brianが提示したのは、最新鋭の洗練でもなければ、破壊的な怒りでもなかった。彼が差し出したのは、重厚なアナログシンセが奏でる、狂った子供部屋のBGMだった。
 『Love You』を聴いてまず耳を打つのは、粘り気のある、時に「下品」とも形容されるほど図太いシンセサイザーの音色だ。かつての『Pet Sounds』でオーケストラを自在に操った指揮官は、ここでは一人スタジオに籠もり、おもちゃを手にした子供のようにシンセのノブを弄り倒した。 その結果生まれた音像は、洗練とは程遠い。低音はブヨブヨと波打ち、メロディはまるで遊園地の壊れたアトラクションのように不規則に跳ねる。この洗練の完全な放棄こそが、当時の批評家を困惑させている。
 かつての天使のようなファルセットはここにはない。長年の喫煙と不規則な生活によって、Brianの歌声は低く、掠れ、時に吠えるような野太い質感へと変貌していた。 しかし、その「ボロボロになった大人の声」で「惑星(Solar System)」や「テレビ司会者(Johnny Carson)」への素朴な愛を歌うという異常なコントラストが、このアルバムに唯一無二の切なさを与えている。この居心地の悪さの正体は、この「老いた肉体」と「退行した精神」が同居する、Brian Wilsonという人間の生々しすぎる実像そのものなのだ。
 その内面をあらわにした一例が『I Wanna Pick You Up』である。本作は甘美なポップソングの体裁をとりながら、成熟したパートナーを徹底的に赤ちゃん扱いする描写で、聴き手に強烈な生理的違和感を突きつける。体を洗い、足を拭うといった乳幼児への身体的介護を連想させる歌詞は、慈しみを超え、対象の主体性を剥奪する幼児化の様相を呈している。現代の倫理的視点で見れば、相手を無力な存在として固定化し、ケアを通じて支配欲を充足させるこの構図は極めて不均衡で危うい。「抱き上げられない現実」を認めつつ「心の中で抱き上げる」と歌う執着は、相手を完全に管理可能な存在として定義したいというエゴイスティックな願望の露呈に他ならない。この違和感の正体は、Brianが抱えた孤独の深淵であり、自らの救済のために他者を「無力な存在」へと作り替えようとする愛の恐ろしさそのものである。※1
 当時のThe BeachBoysは、世間からは「永遠の夏」を歌うノスタルジーの象徴として求められていた。そんな中、Brianがこの奇作を持って現れたことは、バンドにとってもファンにとっても一種のテロ行為に近かった。 『Love You』は、ヒッピー・ムーブメントの残滓からも、パンクの喧騒からも、ディスコの快楽からも完全に切り離された「孤島」だった。Brianは時代の潮流に乗り遅れたのではない。最初から、彼は自分だけの時間軸の中に、自らを閉じ込めてしまったのだ。
  このボックスが暴き出したのは「天才の完成された遺産」ではない。そこにあるのは、時代に背を向け、ボロボロの声で、無機質に鳴り続けるシンセ音に救いを見出そうとした、ひとりの男の孤独なつぶやきである。

 『SMiLE』から『Love You』へ、一本の線で結ぶ再解釈

The Beach Boys - We Gotta Groove (Visualizer)

 長らくThe Beach Boys史の中で、「未完の大作」と「奇妙で幼稚なカルト作」として正反対の位置に置かれてきた『SMiLE』と『Love You』。だが、この二枚を断絶ではなく一本の線として聴いたとき、まったく別の風景が立ち上がる。
 『SMiLE』でBrianが目指したのは、音楽によって世界を説明することだった。米国建国神話、歴史、自然、共同体。そのすべてを断片化されたモジュールとして組み上げ、編集によって巨大な構造体を作ろうとしたのである。しかし、その構想はあまりに過剰で、持続不可能だった。『SMiLE』の崩壊とは、単なるアイデアの失敗ではなく、「世界全体を背負おうとした」ことの限界だったと言える。
 約10年後に現れた『Love You』は、その反動のように見えるが、実際には重要な「方向転換」であった。Brianがここで捨てたのは音楽的野心ではなく、「説明しようとする意志」である。構造は極端に縮小され、言葉は幼児化し、楽曲は短い反復の中で完結する。しかしその内側では、『SMiLE』と同じ思考が脈打っている。断片化、反復、感情の宙づり、意味より響きを優先する態度。これらは形を変え、『Love You』の中に確かに息づいているのだ。
 『SMiLE』が世界を外側から捉えようとした音楽だとすれば、『Love You』は自分の内側だけを見つめた音楽である。Brianはもはや神話を必要としない。テレビ司会者、ベッド、恋心、その日の気分といった極めて私的な題材が、そのまま音楽になる。スケールは縮んだが、純度は高まった。ここにあるのは未処理の感情を未処理のまま鳴らすという、極端に誠実な表現だ。
 Brianは「Good Vibrations」の成功を経て、楽曲を最初から最後まで順番に書くのではなく、30秒から1分程度の「Feel」を大量に録音し、後でそれらをパズルのように組み合わせるモジュラー・アプローチを確立した。彼は音のテクスチャーや雰囲気を、それ自体で完結した一つの「制作単位」として扱っていたのである。 この思考は『Love You』へと直結している。かつての膨大なオーケストラによる「Feel」は、ここでは簡素なシンセサイザーの「執拗な反復(ループ)」へと姿を変えた。「Ding Dang」や「Let Us Go On This Way」に見られる、同じ衝動を別角度から叩き続ける手法。それは、断片を愛でるBrianのモジュラー思考が、一切の虚飾を剥ぎ取られ、剥き出しのまま提示された姿といえる。
 両作に共通するのは、ヴァース〜コーラスという伝統的な起承転結からの逸脱だ。『SMiLE』が各セクションを唐突に切り替えることで未知の風景を提示したように、『Love You』もまた、展開を拒絶するかのような短絡的なリフレインによって聴き手を迷宮へと誘う。そこにあるのは物語を語るための音楽ではなく、響きのテクスチャーそのものを提示する態度だ。音楽が時間軸に沿った進行を止め、その場に留まり続けるような「静止したダイナミズム」は、Brianがこの二つの頂点でのみ到達した特異な境地である。
 『SMiLE』の「Wonderful」等に見られた、高度な和声語法と童謡のような言葉の乖離。この「構造の複雑さ」と「意味の単純さ」のねじれこそが、Brianのアイデンティティだ。『Love You』の「I’ll Bet He’s Nice」の複雑な転調や、「The Night Was So Young」の解決を拒むコード進行。これらが子供の独白のような歌詞と密着して響くとき、そこにはフィルターなしの、無垢なBrianが露出する。
 モジュラー思考と言えば聞こえはいいが、単なるネタ切れや構成力の欠如ではないかということもあるかもしれない。確かに、かつての多層的なオーケストレーションに比べれば、あまりに短絡的なリフレインの連続に、ブライアンの才能の枯渇を見てしまうのは否定できない。 しかし、もしそれがネタ切れの結果だとしても、その『行き詰まり』を隠さず、そのまま音にしてしまう潔さこそが、この時期のブライアンの凄みなのだ。


『Love You』を「縮小されたSMiLE」として読む

 表層の音色や語彙を超えて、そこには『SMiLE』の中核的な発想が形を変えて生き残っている。
「Let Us Go On This Way」:セクションの唐突な切り替えや循環するコード進行、発展せずに同じ衝動を別角度から叩くメロディ。これはかつてのモジュール思考の極端な簡略化である。
「The Night Was So Young」:ベースラインが感情を牽引し、安定しないコードとメロディが常に“途中”の感覚を保つ。これは感情を解決しないまま宙づりにする『SMiLE』的叙情性の純化と言える。
「I’ll Bet He’s Nice」:幼児的な独白のような歌詞と、異様なほど洗練され転調の多い和声の乖離。意味は単純だが構造は複雑というBrian独特のねじれが露出している。

このボックスセットは、完成されたアルバムを単に並べたものではない。 幻のアルバム『Adult/Child』の「もしも」を追体験し、『Love You』の歪(いびつ)な純真さを解剖し、そしてカセットテープに吹き込まれた天才の独り言に耳を澄ます。
ここにあるのは名曲の羅列ではなく、Brian Wilsonという迷宮の「未加工の地図」である。以下に、その膨大なディスク内容の全貌と、各パートが持つ音楽的意義を詳しく見ていこう。

 DISC 1の核となるのは、2025年最新リマスターが施された『Love You』本編だ。近年の過度な音圧意識のミックスとは一線を画し、テープが持つ本来のダイナミクスを尊重したマスタリングが光る。シンセサイザーのざらついた質感や重厚なベースの響きが、不自然に削られることなく耳に届く。無理にクリアにしすぎず、当時の録音現場の空気を守り抜いた誠実な仕上がりだ。Disc 1後半のアウトテイク集では、その多くに当時のミックスを採用するという大胆な手法が取られている。これは現代の視点で整えられた音ではなく、Brianが当時スタジオで聴いていたであろう「その瞬間の音」に立ち会う体験を優先した結果だろう。
 「Sherry She Needs Me」特筆すべきはこの曲の収録だ。2013年の『Made in California』で聴けたヴォーカル追加版はどちらかといえば、資料的価値の高さという意味で貴重だった。本作では1976年当時にもし正式リリースされたらどうなったか?という原初の姿が、余計な現代的補正がなく、当時のエコー処理・定位が生々しい荒削だが純度の高い音質で収められている。この時代ならではの瑞々しさと切なさが同居する響きを体験できるのは、ファンにとって格別の喜びと言える。「Ruby Baby」や「Marilyn Rovell」、「Lazy Lizzie」といった楽曲群が、1976年当時の生々しい質感で蘇る。
 最新ミックスされた「We Gotta Groove」は、長年欠落していたリード・ヴォーカルが本来あるべき位置に据えられ、ついに完成形を見た。ザクザクとしたリズムと地鳴りのようなチャント風コーラスが絡み合う様は、この時期のBrianの力強さを証明して余りある。また、アルのリードによる「Love Is A Woman」、奇妙だが楽しい長尺ギター・イントロ付きの「Johnny Carson」などの別テイク群も秀逸だ。
 ディスクの掉尾を飾る「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’」は、今回のオリジナル・ミックス。Phil Spectorの畏敬と、Brian独自の狂気的なまでの音の厚みが、かつてない明瞭さで迫ってくる。
 このセッションに詳しいファンなら、「Hey Little Tomboy」が収録されていないことに気づくだろう。まず、レコード会社とBrian Wilsonの管理団体がおそらく最も優先したのは、Brianという個人の尊厳を守ることだった。『Adult/Child』制作時のBrianは「大人と子供の境界」が崩壊していた。この曲に含まれる「膝の上に座らせる」といった、現代の基準では性的搾取と直結する描写を「Brian Wilsonの芸術」として再提示することは、彼のレガシーに拭い去れない泥を塗るリスクがあると判断されたのだろう。つまり、楽曲を削除することは、彼を「加害者」的な視線から守るための、苦渋の選択だったと思われる。

   Disc 2の幕開けを飾るのは、幻のアルバム『Adult/Child』セッションから厳選された9曲のオリジナル・ミックスだ。この素材は長年にわたり、マニアの間で多種多様な音源クオリティやミックスが入り乱れる形で流通してきた。それだけに、あえて当時のミックスを体系的な形で提示した今回の判断は、実に素晴らしいと言わざるを得ない。そこにはBrian特有のメロディ感覚や和声の妙が随所に息づいてはいる。しかし、何より必要だったのは、これこそが一切のフィルターを通していない「濾過されていないBrian Wilsonそのもの」なのだ。
「Life Is For The Living」は本作の中でも目立つ一曲であり、このアルバムがしばしば「ビッグバンド作品」と誤解される理由でもある。とはいえ、全体の感触はむしろ『Love You』に近い部分も多い。テンポ修正された「It’s Over Now」も収録されている。「Still I Dream Of It」は1993年以来初の公式リマスターとなり、明らかに音質が向上している。
 「New England Waltz」は、オリジナル・ミックス群の最後に配置されているが、これまで劣悪な音質でしか聴けなかった音源が、ようやくまともな形で聴けるようになった。
続いて「Life Is For The Living」「Deep Purple」「It’s Over Now」「Still I Dream Of It」のバッキング・トラックが収録される。後半3曲は2025年ミックスで、特に充実した選曲だ。

Disc 2の後半は、この時代の多種多様な楽曲が散りばめられ、主役の座がCarlとDennisへと引き継がれていく。
   Carlの熱狂的なファンならば、このDennisの名曲「Holy Man」に吹き込まれたCarlのガイド・ヴォーカルは諸手を挙げて歓迎するだろう。ほぼ全編をスキャット的な歌唱でなぞっており、そのミックスの仕上がりは素晴らしい、の一言に尽きる。続くCarlの未発表曲2曲のうち、「Carl’s Song #1 (It Could Be Anything)」もレアな一曲だ。「Surf’s Up」から『Carl & The Passions』期に至る彼の最良の瞬間が結晶化したような楽曲で、ここでも瑞々しいガイド・ヴォーカルが深い余韻を残す。一方の「Carl’s Song #2」は、後に『L.A. (Light Album)』へ収録される「Angel Come Home」の原型にあたる。ヴァースやブリッジはほぼ形を成しているが、あの特徴的なサビがまだ生まれていない制作途中の姿を捉えている。
    Dennisはここで、70年代半ばの彼らしい壮大なサウンドを2曲提示している。「String Bass Song」は、後に『Pacific Ocean Blue』に結実する「Rainbows」の萌芽であり、二部構成の「10,000 Years Ago」は、前半が『Bambu』期の「Are You Real」へと繋がり、後半はMikeも制作に関与した「10,000 Years Ago」そのものの形をとっている。
   また、Brianによる1977年版「Gimme Some Lovin’」にも注目したい。近年の90年代以降のソロ作品を彷彿させるアプローチとなっており、彼が特定のモチーフやリフを反復し、再構築していく創作過程を追えるのは非常に興味深い。Marilynが歌う「Honeycomb」は、優しくも切ない仕上がりだ。独唱から始まり、徐々に伴奏が重なっていく構成も実に美しい。
 Disc 2の終幕を飾るのは、1975年に録音された「In The Back Of My Mind」のデモ・新ミックスである。かつて『No Pier Pressure』の限定特典として陽の目を見た音源だが、今回ついに正式収録となった。ライナーノーツが記す通り、Brianの歌唱とTandyn Almerのピアノで綴られるこの音源は、アルバムの締めくくりにふさわしい深い感慨を抱かせる。

 Disc 3の幕を開けるのは、いわば「もうひとつの『15 Big Ones』」とも呼ぶべき音源群だ。マニアックな聴き手であれば、本作に『15 Big Ones』のオリジナル・テイクが丸ごと収録されていない事実に、一瞬の戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、シリーズが深まるにつれて対象がより先鋭的なファン層へと移行するなか、既発のアルバムを型通りに再録することに拘泥しないという、確固たる編集方針がここには貫かれている。
 「Just Once In My Life」の鮮烈な新ミックスを合図に、アルバム本編からは漏れたオールディーズ・カヴァーが次々と繰り出される。「Mony, Mony」「Running Bear」「Shake, Rattle And Roll」「On Broadway」「Sea Cruise」……いずれも音質の見違えるような向上には驚かされるばかりで、エンジニアであるやSaezの手腕には、ただただ舌を巻く。中でも「On Broadway」は、Alのリード・ヴォーカルを堪能できる逸品だ(邪魔な観客SEが排されているのも最高だ)。さらに「Chapel Of Love」や「Short Skirts」もリミックスが施されたことで、その真価を改めて世に問う仕上がりとなっている。
 また、「TM Song」「Rock And Roll Music」「Solar System」の3曲は、にコーラス付きバッキング・トラックでの収録。特筆すべきは「Solar System」で、最終的にヴォーカルのみが残る構成へと移行していく様は、実に壮麗というほかない。
 「Had To Phone Ya」と「Mona」のミックスはユニークだ。曲が進むにつれ、楽器が増減しボーカルが出たり消えたりする、制作の時系列を再現した構成。とりわけ「Mona」のエンディングは秀逸で、簡素なシンセサイザーと歌声が美しく溶け合いながらエンディングに向かっていく。
 聴きどころはまだ続く。「Just Once In My Life」のバッキング・トラックは音場が劇的に広がりを見せ、「Let Us Go On This Way」ではCarlのリードを前面に押し出した別ミックスを聴くことができる。また、Bill Hinscheがリードを取る「Honkin’ Down The Highway」や、エディットされる前の生々しいセッション風景を伝える「Ding Dang」など、資料的価値と音楽的感動が同居したトラックが並ぶ。そして、圧巻なのはやはり「The Night Was So Young」のヴォーカル・オンリー版だろう。その純度の高い響きの美しさを再認識させられる。「Let’s Put Our Hearts Together」には未発表のコーダが付け加えられており、古風で甘美なハーモニーがいつまでも続いていくかのような錯覚に陥る。
 ラストを飾るのは、カセット・デモ。 長年知られていたテープだが、長年マニアの間で語り継がれてきたプライベート録音の究極の復元である。かつてない鮮明なリアリティで蘇ったその音場からは、Brianが紡ぎ出す旋律の魔法に、Mikeが魂を奪われている様子が克明に伝わってくる。思わずハミングで寄り添い、感極まったように称賛の言葉をこぼすビジネスマンではなく朋友としてのMike。その剥き出しの反応は、ビジネスとしての「復活」という虚飾を剥ぎ取った先に残る、真の巨匠の閃きの記録に他ならない。
 しかし、この親密な芸術的瞬間に冷や水を浴びせたのが、あまりにも非情な現実――シングル「Honkin' Down the Highway」の歴史的爆死であった。前年に全米5位のヒットを飛ばしていたグループが、チャート100位圏外という前代未聞の惨敗を喫したのである。
この結果を危惧したMikeは、ビジネスとしての冷徹な判断を下す。「これ以上Brianの奇行に付き合えばバンドは持たない」と確信した彼は、主導権を変更。Brianが次に完成させていた、未発表アルバム『Adult/Child』を「売れない」と一蹴し、お蔵入りへと追い込む。
本作を境に、バンドは新らしいアイディアで勝負する表現者としての看板を下ろし、過去の栄光をなぞる「懐メログループ」へと舵を切ることとなる。Brianは再び深い隠遁の淵へと沈み、ファンにとっては長きにわたる「冬の時代」が始まった。
ブックレットには、完全なセッショノグラフィーが収録されており、テープ形式に至るまで詳細に記録されている。

 完成度や成功といった既存の物差しでは、この時期の音楽を測ることはできない。しかし、このボックスセットに収められた音源は、復活という名の狂騒の裏側で、ひとりの作曲家が何を掴み、何を捨てようとしたのかを克明に伝える、あまりに切実な痕跡だ。The Beach Boysが単なるポップ・グループではなく、ひとりの天才の魂の生存記録であるならば、このセットは彼らの歴史の中で最も人間味に溢れ、そして最も美しい証言集となるだろう。

P.S Top画像はAI生成画像である、あくまでシャレ・戯れに過ぎず、実在のスタジオ風景とは無関係であることを申し添える。


※1 編集部補足:歌詞の解釈については、作者であるBrian Wilson本人の1976年の発言に沿ったものであり、執筆者の主観的考察だけではないのでご留意願いたい。以下引用。

"The song is descriptive of a man who considers this chick a baby, and he says, 
"Well, you still have a baby in you. You're still like a baby to me. You just sorta have that thing and I want to pick you up." Even though she's too big to pick up, of course. 
But he wants to; he wants to pretend she's small like a baby: He really wants to pick her up!"


2025年10月4日土曜日

Shel Naylor 「One Fine Day」

 前回の記事で触れた、『キンクト!~キンクス・ソング&セッションズ 1964~1971(PCD17745)』に、シェル・ネイラーの「One Fine Day」という、キンクスのギタリストのデイヴ・デイヴィスが提供した曲が収録されている。ザ・ベンチャーズの「Walk Don't Run」の影響を受けて作られた曲だそうだ。フリークビートのコンピレーション『The Freakbeat Scene』(Decca-772 467-6)(Deram-844 879-2)にも収録されているので、そこから知られることの方が多いのかもしれない。

One Fine Day / Shel Naylor

 この「One Fine Day」を歌うシェル・ネイラーというのはどういう人物なのか気になって調べてみると、70年代に人気のあったノベルティ・バンド、ルーテナント・ピジョンの中心人物として知られているロブ・ウッドワードが60年代初期に使用していた別名義だそうだ。

Mouldy Old Dough / Lieutenant Pigeon

 英国中部コヴェントリー出身のロブ・ウッドワードは17歳の時、キンクスやトロッグスのマネージャーとして知られるラリーペイジが開催していた、オーキッドボールルームでの新人発掘コンテストに参加。グランプリを受賞し、この時の賞品だったデッカレコードとのレコーディング契約が決まったそうだ。当時ラリー・ペイジは、リバプール・サウンドに匹敵する "コヴェントリー・サウンド" なるものを生み出そうと、地元の才能ある人材を集めていたらしい。プロデューサーとして、シェル・タルミー、マイク・ストーンを説得して参加させていた。"シェル・ネイラー" というのはラリー・ペイジが名付けたそうで、シェル・タルミーへのトリビュートの意味合いがあるよう。

 シェル・ネイラー名義では2枚のシングルがリリースされている。初のシングルはアーヴィング・バーリンのポピュラーソング「How Deep Is The Ocean」(Decca F.11776)。B面は「La Bamba」。「One Fine Day」は翌年の1964年にリリースされたものだ。この演奏には、後にレッドツェッぺリンとなるジミーペイジとジョン・ポール・ジョーンズが参加している。ドラムはおそらく、キンクスの「You Really Got Me」などの演奏でも知られるセッションドラマーのボビー・グラハムではないかと言われている。冒頭に書いた通り、作曲はデイヴ・デイヴィスだけれど、シングル盤にクレジットされたスペルには誤りがあり、"Davies"ではなく"Davis"になっている。B面は「It's Gonna Happen Soon」という曲で、エジソンライトハウス「恋のほのお」などで有名なセッションシンガーのトニー・バロウズ、英国の著名なソングライター、ロジャー・グリーナウェイ、J. Brooksの3人が作曲者にクレジットされている。J. Brooksについては詳しい情報が見あたらなかった。

 「One Fine Day」には、1965年にラリー・ペイジが結成したラリー・ペイジ・オーケストラによるバージョンも存在する。こちらが収録された『Kinky Music』(Decca LK4692)は、キンクスのヒット曲をインストゥルメンタルアレンジしたアルバムで、キンクスに無断で制作したことで裁判沙汰になったそう。このラリー・ペイジ・オーケストラでもジミー・ペイジとジョン・ポール・ジョーンズが参加している。

One Fine Day / The Larry Page Orchestra



【LIVE】

2025年11月23日(日) 東高円寺UFO CLUB
The DROPS New 7inch Single “Get On A Train” Release Party!
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リリース

■ベストアルバム第二弾『Best Of The Pen Friend Club 2018-2024』
(試聴トレーラー)

■カバーアルバム『Back In The Pen Friend Club』
(試聴トレーラー)

8thアルバム『The Pen Friend Club』
(試聴トレーラー)


現在、2枚組NEWアルバム
​[Songularity - ソンギュラリティ]​ 制作中