2025年6月4日水曜日

Candy Opera:『The Patron Saint of Heartache』『45 Revolutions Per Minute & Rarities』

『The Patron Saint of Heartache』

 『45 Revolutions Per Minute & Rarities』 

 オブスキュアなネオアコースティック・バンドとして知られるイギリスの Candy Opera(キャンディ・オペラ)が、2020年のリユニオン後のファースト・アルバム『The Patron Saint of Heartache』(Ca Va? Records/Hayabusa Landings / HYCA-8089)と、2018年にリリースされた2作品の発掘音源集『45 Revolutions Per Minute & Rarities』(HYCA-8090)に日本独自のボーナス・トラックを追加して5月28日に新装リイシューしたので紹介する。また今年3月に『Strange Village』をリリースしたばかりのシンガーソングライター、近藤健太郎氏からのコメントも特別に掲載する。 

 まずキャンディ・オペラのプロフィールに触れておく。彼らは1982年にリヴァプールのケンジントンで、メイン・ソングライターのPaul Malone(ポール・マローン/以降マローン)を中心に結成されたネオアコ・バンドだ。同時期に同じリヴァプールで活動し日本でもよく知られたThe Pale Fountains(ペイル・ファウンテンズ)やスコットランド出身のAztec Camera(アズテック・カメラ)、またニューカッスル出身のPrefab Sprout(プリファブ・スプラウト)に通じるサウンドをはじめ、マローンのボーカルもプリファブのパディ・マクアルーンの声質を彷彿とさせていた。
 当時人気だったThe Pogues(ポーグス)やThe Go-Betweens(ゴー・ビトウィーンズ)といったバンド達のライブでオープリング・アクトにも抜擢され、イギリス国内の音楽誌でも取り上げられるようになる。そのようなジャーナリストからの評価によりEMIやGO DISCS!といったメジャー・レコード会社から契約オファーもあったが、メンバー脱退などの事情もありそれを固辞し、デモ音源のみ残して1993年に解散した。
 それから25年後の2018年、ドイツ・ベルリンの”Firestation Records”が彼らのデモ音源を気に入り、18曲収録したコンピレーション『45 Revolutions Per Minute』(FST 154)、続いて同じ年には未発表の11曲収録の『Rarities』(FST 162)をそれぞれリリースしている。このコンピの評判により、キャンディ・オペラはバンドとしてリユニオンすることになり、全て新曲を収録した事実上のファースト・オリジナル・アルバム『The Patron Saint of Heartache』(TURN73D)をドイツ・ユッヘンのレーベル”A Turntable Friend”からリリースして、完全復活するというミラクルをやってのけたのだ。このような奇跡的復活を果たせたのも、彼らの才能を眠らせておかなかったFirestation RecordsやA Turntable FriendのA&Rマンの手腕と言えるだろう。

現バンド・メンバー

 今回日本での新装リイシュー盤では、『The Patron Saint of Heartache』に3曲のボーナス・トラックを追加した全17曲、『45 Revolutions Per Minute』と『Rarities』を2枚組としてカップリングし、『Rarities』のディスクにボーナス・トラック1曲を追加し、これまでオブスキュア=世に埋もれ、詳細不明だった彼らのプロフィールについても解説されたブックレットが、それぞれ付属されているのでファンにとってはありがたい。

  ここでは各アルバムで筆者が気になった主要曲の解説をしていく。
 リユニオン後のファースト・アルバム『The Patron Saint of Heartache』は、ボーカル兼ギターのマローンを中心に、ギターのKen Moss(ケン・モス/元Shack)とBrian Chin Smithers(ブライアン・チン・スミザーズ)、ベースのFrank Mahon(フランク・マホン)、ドラムのAlan Currie(アラン・カリー)、キーボードとパーカッションのGary O'Donnell(ゲイリー・オドネル)の6名編成でレコーディングされており、プロデュースはバンド名義になっている。エンジニアリングとミックスは主にTom Roach(トム・ローチ)で、2曲のみAbbey Road StudiosでビートルズをはじめParlophone やApple Recordsのリイシュー・アルバムのリマスタリングを多く手掛けたGuy Massey(ガイ・マッセイ)がミックスを担当している。

  収録曲はそのマッセイがミックスした冒頭の「These Days Are Ours」から完成度が高く、躍動的ビートを繰り出すリズム隊にアルペジオとカッティングを複数ダビングしたギター・トラック、シルキーなシンセ・パッドが空間を埋めたサウンドは結成当時からスタイルを引き継いでいる。また実体験と言える人生賛歌的歌詞を書いたマローンの歌声も、繊細ながらエモーショナルで25年のブランクを感じさせる衰えはなく、今でもバンドの顔になっている。
 この曲ではキャンディ・オペラと同郷で、ジュリアン・コープが率いたThe Teardrop Explodes(1978~1982年)のキーボーディストだったポール・シンプソンがバッキング・ボーカルで参加しており、マローンのボーカルを支えている。 

 
These Days Are Ours / Candy Opera

  続く「Tell Me When The Lights Turn Green」もマッセイのミックスで、イントロから両チャンネルで聴こえるギター・アルペジオが美しいバラードで、メロディにはシカゴ・ソウルの匂いもする。この曲でアディショナル・キーボードとタンバリンもプレイしているドラマーのカリーは、第一期Candy Opera解散時メンバーだが、その後90年代にはFishmonkeymanというインディーズ・ギターポップ・バンドに所属しアルバム2枚とシングル6枚をリリースしている。
 リアルタイムでプリファブ・スプラウトを愛聴していた筆者が最も反応したのが、「Start All Over Again」だ。プリファブの『Jordan: The Comeback』(1990年)収録曲に通じるポジティブなメロディと不毛の愛を綴った歌詞、よくミキシングされたギターやシンセサイザーの配置と空間系エフェクターの処理が効いたサウンドは、一聴して好きになれずにいられない。

 
Start All Over Again / Candy Opera

 
 全編アコースティック・セットの演奏による「Five Senses Four Seasons」は英国トラッド系フォークに通じ、無垢な歌詞とよく溶け合い、コーダではアカペラになるという構成で美しい曲だ。コーラス4名の内クレジットされている女性のAmy Mahonは、ベーシストのマホンの妻か姉妹かも知れないが、そんなアットホームな雰囲気もこの曲の良さである。 
 「Real Life」も『Steve McQueen』(1985年/米国盤タイトル『Two Wheels Good』)の頃のプリファブに通じる曲調とサウンドを持ち、アルバム中盤にこんな良曲が収録されているのが嬉しい。シャウト系の高域になるとパディ・マクアルーンに酷似するマローンの声質も好きになってしまう。 
 一転してホーン・セクションとコンガ、女性コーラス2名が加わったファンク・サウンドの「Rise」は、『The Cost of Loving』(1987年)時代のThe Style Council(スタイル・カウンシル)に通じていて、このバンドの多様性を垣間見れる。作曲クレジットがメンバー全員の名義になっているので、こういったブラック・ミュージック趣向を持つメンバーが主導しているのだろう。

Paul Malone 

 本編ラストの「Crazy」は、リラックスしたビートとは裏腹に、都市開発により変わり果てていく風景を狂気じみていると嘆く歌詞のコントラストが興味深い。ここでは「These Days Are Ours」同様、元The Teardrop Explodesメンバーでマローンの友人らしきポール・シンプソンが再びバッキング・ボーカルで参加しており、ヴァースではほぼデュエットしている。マリアッチなトランペットを加えたサウンドや、コーダでハチロクのロッカバラード風になる構成もよく練られている。
  なおボーナス・トラックはオリジナルのドイツ盤収録の「Gimme One Last Try」「There Is No Love」に加えて、日本新装リイシュー盤では、「These Days Are Ours -Piano Version」「Wide Open Spaces」「She Won’t Let You Down」の3曲が追加収録されている。特に本作リードトラックの「These Days Are Ours」の ピアノ・ヴァージョンは、同曲のデモに近いヴァージョンと推測されるのでファンは必聴だろう。 


89~93年頃のバンド・メンバー

 続いてキャンディ・オペラの第一期(1982~1993年)のデモ音源を発掘したコンピレーションと、未発表曲集を日本独自に2枚組で新装リイシューした『45 Revolutions Per Minute & Rarities』について解説する。 バンド結成時キャンディ・オペラのメンバーは、マローンとモス以外にベースのMike Wiggins(マイク・ウィギンズ)、ドラムのIan Haskell(イアン・ハスケル)だった。このラインナップのデモは本作DISC1『45 Revolutions Per Minute』に4曲収録されている。 
 ポーグスやゴー・ビトウィーンズとのライブ共演でイギリス国内の評価が高くなっていった1985年には、マローンとハスケル以外のメンバーが脱退し、その後も幾度かのメンバー・チェンジを経て、89年にはマローンの他、ギター、キーボード等マルチプレイヤーのブライアン・チン・スミザーズ、ベースのフランク・マホン、ドラムのアラン・カリーという新体制でバンドを継続した。この頃は前説明の通り、EMIやGO DISCS!といったメジャー・レコード会社からのオファーもあったが契約に至らず、1993年に解散したという。このあたりの経緯はブックレットの解説に詳細が記載されているので、興味を持った音楽ファンは入手して読んでみて欲しい。 
 本作中1988~89年にレコーディングされた楽曲は録音状態が良く、デモとは思えない完成度なのでその中から中心に解説したい。
 DISC1冒頭の「What A Way To Travel」はシャッフル・ビートの軽快なギターポップで、デジタル・シンセサイザーのエレピやパッドの音色からローバジェットで製作された感はあるが、それが味となってプリファブの『Swoon』(1984年)や『Protest Songs』(1989年/レコーディング:1985年)に通じる。とにかく曲の良さとマローンの歌声が光っている。

 
What A Way To Travel / Candy Opera


 続く「The Good Book And The Green」も前曲と同メンバーによる爽やかなギターポップで、マホンとカリーのリズム隊による安定した演奏と、チン・スミザーズによるギターとキーボードの的確なプレイが、マローンのボーカルをサポートしている。
 4曲目の「Fever Pitch」は「What A Way To Travel」と同時期にレコーディングされた曲で、曲調やアレンジ共に初期プリファブ度が高く、サウンドの構築方法も参考にしていたのではないかと思える。
 「Time」では一転してロックンロール・サウンドで、チン・スミザーズによる荒削りなギター・ソロが聴ける。ローバジェットなデモ音源のコンピレーションのため、レコーディング・スタジオとエンジニアの違いで、この手のサウンドは他の曲とドラムの鳴りが大きく異なる筈であるが、マスタリングでよく補正されている。 
 結成時メンバーのレコーディング曲の中で最も可能性を感じたのは「Diane」で、ボサノヴァのリズムを持ったギターポップだ。1985年当時この様な曲を書いていた英国ミュージシャンは、スタイル・カウンシル全盛期のポール・ウェラーか、アズテック・カメラのロディ・フレイム、そしてプリファブのパディ・マクアルーンしかいなかったのではないだろうか。マローンの歌声にも若さを感じる。

 DISC2の『Rarities』は、『45 Revolutions Per Minute』や『The Patron Saint of Heartache』未収録のレアトラック集で、「What A Way To Travel」や「Rise」のデモ・ヴァージョン、「Nine Times Out Of Ten」「Fever Pitch」のライブ・ヴァージョンなどレアな音源が聴ける。
 未発表で秀逸な曲は「I Can See For Miles」で、初期スティーリー・ダンにも通じた不可思議で洗練さを感じさせるコード進行とメロディは一聴して虜になった。この曲はマローンのソングライティングにカリーが作曲で手助けし、プロデュースとエンジニアリングもカリーが担当している。演奏もマローンによるギター以外の全ての楽器をカリーがプレイしてるので、この時代からカリーはマローンにとっては不可欠な音楽的パートナーだったと推測する。

I Can See For Miles / Candy Opera


 スティーリー・ダン繋がりでは、冒頭曲の「Las Americanos」のイントロのギターリフは「Don't Take Me Alive」でヴァースは「Green Earrings」(共に『The Royal Scam』収録/1976年)だったり、「Between A Rock And A Hard Place」では全体的に「Do It Again」(『Can't Buy A Thrill』収録/1972年)を意識しているのが感じられる。これは1980年代中頃から90年代初期に掛けておこった”スティーリー・ダン症候群(Steely Dan Syndrome)”と捉えていいだろう。スティーリーのウォルター・ベッカー自身がプロデュースしたChina Crisis(チャイナ・クライシス)やノルウェー出身のFra Lippo Lippi(フラ・リッポ・リッピ)の直系から、ソングライティングやサウンドに影響が垣間見えるプリファブのパディ・マクアルーンやDanny Wilson(ダニー・ウィルソン)など。またサウンドはその影響下ではないが、スティーリーの代表曲をバンド名にしたDeacon Blue(ディーコン・ブルー)などこの時期にイギリスを中心に多く出現していたので、マローンとカリーも同胞だったと考えられる。
 これらの未発表曲はセンスや音楽性こそ高いのだが、キャンディ・オペラ本体とはスタイルが異なるので、あくまでマローンとカリーの趣味ユニットの音源と捉えていいかも知れない。いずれにしても、埋もれてしまうには惜しい才能であることは間違いないので、今回日本で新装リイシューされたことは非常に意義があるのだ。



【ミュージシャンズミュージシャン・推薦コメント】

 高校時代、季節はいつだったか忘れてしまったが、ある雑誌で遊佐未森さんが紹介していたPrefab Sproutの『From Langley Park To Memphis』のジャケットを目にした。同じ頃偶然に、近所の音楽に詳しい大学生のお兄さんから、こういうのも聴いてみなよと貸してくれたアルバム『STEVE McQUEEN』のカセットテープ。なんだか運命を感じて、ガチャガチャっと慌ただしくデッキの再生ボタンを押した。当時の自分が今まで聴いたことのない毛色、なんとも甘味な音楽がスピーカーから部屋全体に広がり、僕はすっかり魅了されてしまった。

 Candy Operaを聴いた瞬間、あの頃のトキメキ、高揚感、そして心がヒリヒリする感覚を思い出した。ネオアコというジャンルを知って、当時は意味もなく優越感に浸っていたものだ。なんとなく素敵な自分(笑)、妄想は全開だ。青く儚い世界。捻くれているくせに美しいものを求めていた。

 Candy Operaはリヴァプールのバンド。80年代に活躍していたにも関わらず、メジャーからの誘いを固辞していたそうだ。バンド名や活動スタイル、そして繊細な音楽から、美意識と一筋縄ではいかない瑞々しいオーラが満載だ。時代を超えて届いた奇跡の作品。今、出会えてよかった。
近藤健太郎(The Bookmarcs / the Sweet Onions)

◎近藤健太郎プロフィール:The Bookmarcs、the Sweet Onions、Snow Sheep、ソロで活動中。
それぞれボーカル、ギター、ピアノ、作詞、作曲等を担当。 
ラジオ番組『The Bookmarcs Radio Marine Café』(マリンFM)のナビゲー ター。『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-mix)準レギュラーとして出演中。
自主レーベルphilia recordsを主宰。CDリリース、イベント企画、また他アーティ ストへの楽曲提供やサウンドプロデュースも手掛けている(小林しの、藍田理緒 etc)。
2025年3月5日、ソロとして初のフル・アルバム『Strange Village』をリリース。



 最後にプリファブ・スプラウトとスティーリー・ダンを偏愛する筆者による詳細解説と、近藤健太郎氏のコメントを読んで、興味を持った弊サイト読者や音楽ファンは是非入手して聴いて欲しい。

(テキスト:ウチタカヒデ
















2025年5月25日日曜日

涙の中の音楽史:From Jimmy with Tearsの背景を追う

    


 音楽史には、商業的に成功を収めなかった名曲や、記録に残らなかったがその後に再評価された楽曲が数多く存在する。それらの多くは、時の流れに埋もれてしまったが、その裏には深い謎や隠れた才能が隠れていることが少なくない。その中でも1963年に録音されたThe Honeysの「From Jimmy with Tears」は、The Beach Boysファンの間でも話題になることは少なかった。この曲は、あの伝説的なJack Nitzscheが手掛け、The Honeysのセッションで録音されたものだが、リリースされることになったものの、商業的にはほとんど評価されることなく、時の流れに消えていった。

1963年5月16日付けのセッション・シート
リーダー欄にはJack Nitzche
Capitol側にはNick Venetのサインが確認できる

1963年5月13日、The HoneysはLos AngelesのCapitol Recordsでセッションを行った。セッションには、当時の音楽シーンで名を馳せたミュージシャンが集結していた。Hal Blaine(ドラム)David Gates(ベース)Leon Russell(ピアノ)Glen Campbell(ギター)といった錚々たる面々が参加し、そのセッションをまとめたのがアレンジャーのJack Nitzscheだった。Jackは一時にPhil Spectorの右腕と称されるほどの音楽的才能を持つ人物で、弊誌読者にはご存知の通り彼が手掛けた楽曲には後の音楽シーンに多大な影響を与えたものが数多くある。そのセッションで録音された「From Jimmy with Tears」は、シングルとしてリリースされたが、その商業的成功はほとんどなかった。シングル盤のA面には、Brian Wilson(The Beach Boys)が手掛けた名曲「The One You Can Have」が収録されており、この曲は確かにその後も高く評価されることとなった。しかし、同じシングルに収められた「From Jimmy with Tears」は、時の流れとともにほとんど忘れ去られた存在となってしまった。

当時の参加ミュージシャン一覧
Russell Bridges=Leon Russell

「From Jimmy with Tears」の楽曲そのものは、いささか平板なポップ・チューンと感じられるかもしれないが、その中に潜む西海岸特有のコンテンポラリーな雰囲気やアレンジの妙が光る。若きLeon Russellのキーボードの妙もいい味を出している。作曲家としてクレジットされたのはBuddy KayeとLeroy Glover。この二人の名前は、1960年代の音楽シーンにおいてはすでに広く知られた存在であった。Buddy Kayeは、Brill Building界隈の名作詞家としてその名を馳せており、彼の作詞による「Till the End of Time」はPerry Comoによってヒットし、10週連続トップを記録した。また、1962年にPat Booneによって発表された「Speedy Gonzales」もBuddyが手掛けた作品であり、世界的に大ヒットを記録している。その後、Buddyはブラジルや欧州などにも足を運び、Antônio Carlos JobimやCharles Aznavourといった世界的アーティストの楽曲に英詞をつけ、名曲を生み出していった。日本でも人気のあったテレビドラマ『かわいい魔女ジニー (I Dream of Jeannie)』のテーマ曲の歌詞も手がけており(ただし、2ndシーズン以降のみが歌入だ。一番有名なインスト版は多くのHip Hop系アーティストにサンプリングされている)その他にも、Cliff Richardの映画『Summer Holiday』のテーマソング「The Next Time」や、Dusty Springfieldの「All Cried Out」などのヒットを生み出している。

一方、Leroy GloverはR&Bやガール・グループ関連の音楽で活躍していたキーボーディストで、The Shirellsの「Foolish Little Girl」のオルガン演奏は印象的だ。また、1960年代前半からは、Feldman-Goldstein-Gottehrerのガール・グループ作品のアレンジャーとしても知られており、その音楽的背景からも「From Jimmy with Tears」がガール・グループ・サウンドを念頭に置いて作られた可能性が高いことがうかがえる。


1963年上半期にリリースされた楽曲の中から、Buddy Kayeのクレジットによる曲を洗い出してみると、いくつかの楽曲が次々と明らかになった。その中で、目を引いたのが「From Joanie with Tears」というタイトルの一曲だった。このタイトルを目にした瞬間、思わず息を呑んだ。なぜなら、その曲は「From Jimmy with Tears」とほとんど同じ曲に思えたからだ。タイトルが異なるだけで、実は中身は同じなのではないか? それとも、単なる偶然がもたらしたものなのか?その疑問が湧き上がった。さらに調査を進める中で、新たな事実が浮かび上がった。1963年4月25日になんと「From Joanie with Tears」という楽曲が登記されていたのだ。この日付が、まさにJack Nitzscheセッションの直前であったことを考慮すれば、これが「From Jimmy with Tears」と同一の曲である可能性は非常に高いのではないかと感じられた。しかし、シングル盤には「From Jimmy with Tears」としてクレジットされているのに、なぜか「From Joanie with Tears」というタイトルが公式に登記されている。この奇妙な事態、どうしても説明がつかない。これは単なる偶然だったのか、それとも意図的な変更があったのか?

                                                  
From "Jimmy" With Tearsのシングル盤の
クレジットも同じR.F.D.Music名義だ。
異名同曲の可能性が高まる

同時代のKaye-Glover作品だがやはりR.F.D.Music名義


このタイトルの違いは、いったい何を意味しているのか?その理由が解明されるまで、この謎は解けそうにない。それが商業的な理由から来るものなのか、アーティスト側の意図が反映されたものなのか、それともレコード会社の戦略的な動きだったのか?どの線を辿っても、背後には何か深い意図が隠されているような気がしてならない「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」――たった一文字の違いが、音楽の歴史の中でどれほど大きな意味を持つのか。それを解き明かすことで、この謎の先に潜む物語が少しずつ姿を現すのだろうか。それとも、このまま未解決のまま時の彼方に消えていくのだろうか。おそらく、Buddy KayeはIan Flemingの小説『From Russia with Love』(1957)からインスパイアを受け、「From Jimmy with Tears」という楽曲タイトルを思いついたのだろう。映画化も決定していたこの小説は、1963年下半期に公開された映画『From Russia with Love』によって世界的な注目を集め、大ヒットを記録することになる。この楽曲がリリースされた1963年は、まさに映画『From Russia with Love』の公開年であり、映画自体が大きな社会的・文化的現象となっていた。映画の公開とともに、James Bondというキャラクターは一気に世間の注目を集め、その後も続々と007映画が公開される中で、映画のテーマや関連するメディア、音楽などが一体となった流行が生まれていた。その映画の影響は多方面にも及び、同名の曲が一斉に注目されることを期待したかもしれない。しかし、残念ながら「From Jimmy with Tears」は、その流行の波に乗り損ねた、どころか波さえも掴むことは叶わなかった。

「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」が異名同曲であると仮定した場合、その視点の違いが与える意味は非常に興味深い。まず、言うまでもなく、「Jimmy」と「Joanie」はそれぞれ男性名と女性名である。これにより、同じメロディと歌詞が、実はまったく異なる感情の流れを生み出すことになるのだ。「From Jimmy with Tears」の場合、タイトルに示される「Jimmy」は男性名であり、歌詞の中で語られる手紙は、恐らくその男性から女性へのものだろう。涙に濡れた手紙は、恐らく男性が自らの感情を女性に向けて吐露する形を取っていると考えられる。彼が涙を流して送る手紙というのは、決して軽いものではなく、深い悲しみや後悔、愛情を込めたものであることが多い。つまり、受け取る側である女性は、その男性の感情を受け入れ、そこに込められた痛みや愛情を感じ取る立場になる。一方で、「From Joanie with Tears」のタイトルが示すのは、女性名「Joanie」からの視点だ。ここでは、手紙を送るのが女性であり、受け取るのが男性だという構造になる。女性が涙に濡れた手紙を送るとなると、そこには「Jimmy」とはまた異なる感情が込められているだろう。女性が涙を流して送る手紙というのは、男性に対して哀しみや寂しさ、もしくは別れの決断を告げる場面が多いのではないか。女性の涙は、男性にとってある種の告白のように感じられるかもしれないし、手紙を受け取った男性は、女性の真摯な想いを受け入れつつも、その深さに圧倒されることだろう。この視点の違いが生み出す感情のコントラストは、同じメロディを使っていても、全く異なる物語が紡がれることを意味する。つまり、同じ曲が男女の視点で歌われることによって、聴き手に与える印象や解釈が大きく異なるのだ。「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」のタイトルの違いは、単なる名前の変更に過ぎないように見えるかもしれないが、その背後にある視点の違いは、歌詞や曲の感情的な方向性を大きく変える可能性がある。もしこの2曲が本当に同一の曲であり、ただタイトルだけが異なっているのであれば、その背後に隠されたテーマの違いを見逃すわけにはいかない。「From Jimmy with Tears」は、男性の苦悩と哀しみを受け止める女性視点であるとすると、「From Joanie with Tears」は、女性の悲しみや哀愁を受け止める男性視点を描いたものになる。この視点の変化により、リスナーが感じ取る情感は根本的に異なるものになるだろう。男性が涙を流して手紙を送る場面と、女性が涙を流して手紙を送る場面では、その受け取る側の感情や反応もまた、全く異なるものとして描かれるだろう。こうした視点の交替は、楽曲に対する理解を深める上で非常に重要だ。もしBuddy Kayeがこの2つのバージョンを意図的に作り分けたのであれば、それは歌詞やメロディに込められた感情の深さを異なる形で表現したかったからに違いない。

1960年代初頭、アメリカの音楽シーンには「Joanie」という名前で活躍した女性たちがいた。Joan BaezとJoanie Sommersだ。二人は異なる音楽スタイルで名を馳せた。
Joan Baezは、1960年代初頭に登場したフォークシンガーで、彼女の歌声は単なる音楽の枠を超えた社会的メッセージを持っていた。彼女の歌詞は反戦や公民権運動を強く支持し、時代の波に乗った。彼女の音楽は、当時の若者たちにとって、音楽以上のものを意味していた。それは、ただのエンターテイメントではなく、政治的な立場を明確に示す手段だったのだ。Joan Baezはその後も長いキャリアを持ち続け、フォーク音楽の代表的存在として、また社会運動のシンボルとして広く認識されている。
Joanie Sommersはポップ音楽シーンで一世を風靡したアーティストだった。彼女の代表作は1962年に発表された「Johnny Get Angry」。この曲は、彼女の明るく軽快な歌声が特徴的で、若者文化の中で非常に人気を博した。曲の内容は、女性が恋人に「もっと感情を表してほしい」と願うというもので、当時のティーンエイジャーにとって共感を呼ぶ歌詞だった。「Johnny Get Angry」は、まさにその時代の空気を象徴するような一曲であり、Joanie Sommersを一躍スターに押し上げた。彼女の歌声には、ポップスならではの元気で明るい雰囲気があり、60年代のティーンエイジャーたちにとって、まさに青春の象徴だったと言える。
二人のJoanieの音楽は、まったく異なるジャンルに属していた。Joan Baezはフォークと社会的メッセージを絡めた音楽で多くの支持を集め、社会的な変革を訴えかけた。一方で、Joanie Sommersはティーンポップの世界で、軽やかでキャッチーなメロディと共に、恋愛をテーマにした歌詞で多くの若者たちの心を掴んだ。二人の名前が共通して「Joanie」とあったことが、60年代の音楽シーンでのひとつの面白い偶然だが、彼女たちの影響力はそれぞれのスタイルで異なり、どちらも時代を象徴する存在だった。
「Johnny Get Angry」の歌詞は、女性が恋人に対して「もっと感情を見せてほしい」と願う内容で、多くの若者が共感を覚えた。それまでの歌詞においても「愛」や「恋愛」をテーマにしたものが多かったが、Joanie Sommersは少しユニークな視点で、感情的に表現を求める女性像を描いた。「Johnny Get Angry」は、リリース後すぐに大ヒットとなり、ポップシーンで強い印象を残す一曲となった。しかし、こうしたヒット曲にはしばしば「アンサーソング」が登場するという音楽業界の慣習があった。
この年、まもなくしてそのアンサーソングが登場することになった。1962年、同じく「Joanie」をタイトルにしたアンサーソング「Joanie Don’t Be Angry(Harmon 1009/1962)」が登場した。歌ったのは男性シンガーのVinnie Monte。この曲は、Joanie Sommersの「Johnny Get Angry」とは対照的に、男性の視点から反応したものだった。



アンサーソングの特徴は、元の曲の歌詞やテーマを逆手に取る形で、別の視点を提供する点にある。1950年代から1960年代にかけて、特にポップ音楽の世界では、ヒット曲に対する反応として数多くのアンサーソングが生まれた。「Johnny Get Angry」の場合もその例外ではなく、その逆転の発想から生まれたのが「Joanie Don’t Be Angry」だった。当時、アンサーソングは単なる歌の応答だけでなく、ファンにとってのエンターテイメントの一環として楽しむべきものだった。このような形態は、リスナーが同じテーマに対して異なる解釈を楽しめる余地を生み出し、音楽シーンにさらなる盛り上がりをもたらした。

さて、妄想的な仮説をひとつ立ててみると、「From Joanie with Tears」がもしかしたら、当時のアンサーソングの流れを意識して作られたのではないか、という考え方もできる。つまり、Joanie Sommersの「Johnny Get Angry」に対する男性視点の返答として、「From Joanie with Tears」が生まれたのではないかという仮説だ。Joanieの名前や涙にまつわるテーマが共通していることを考えると、この曲があの時代に特有のアンサーソングとして意図的に作られた可能性もあるだろう。証拠はないが、同じ1962年にリリースされた「Joanie Don't Be Angry」と同じく「From Joanie with Tears」が生まれたのであれば、当時のアンサーソング文化を反映した面白い一例として位置付けられることだろう。
さらに妄想を広げてみると、「From Joanie with Tears」が男性視点のアンサーソングとして作られたのであれば、その歌い手としてThe Beach Boysが考えられた可能性があるのではないか。1960年代初頭、The Beach Boysは音楽シーンで急成長を遂げ、特にプロデューサーNick Venetの手腕によってバンドは大きな成功を収めていた。しかし、当時のThe Beach Boysはユニークで個性的な音楽性が特徴であり、特にリーダーのBrianはユーモア好きな人物として知られていた。

この時期(1963年)、The Beach Boysは「Surfin’ USA」(1963年初春)という大ヒットを放ち、サーフィンブームとともにその名を広めたが、Brianは次々とノヴェルティ色の強い楽曲をリリースすることに対して難色を示したのではないかとも考えられる。というのも、音楽シーンでは「Surfin’ USA」の成功を追い風にし、似たような楽曲が続くことが予想されたが、Brianはその後の楽曲に対してより深みのある音楽性や異なるアプローチを求めていのたが事実である。しかしながら、Brianのユーモアを取り入れつつ、当時の音楽シーンにおけるユニークなアンサーソングの流行に乗る形で、この楽曲がバンドにとって新たな挑戦となったかもしれない。
結局、Brianはその後の曲においてノヴェルティ色を避け、より成熟しつつ革新的な音楽スタイルに移行していった。結果的に、「From Joanie with Tears」がThe Beach Boysの手に渡ることはなく、代わりに別のグループ、例えばThe Honeysのようなアーティストに提供されることとなったと考えると、この一連の流れには音楽業界の商業的な戦略とアーティストとしてのBrianのビジョンが大きく影響していたのだろう。このような妄想的視点から考えると、「From Joanie with Tears」がもしかしたら改題され、歌われることとなった経緯を探ることは、1960年代の音楽シーンにおける文化や創造性の動向を理解する手がかりとなるだろう。そして、もしThe Beach Boysがこの曲を歌っていたとしたら、どのようなアレンジや解釈が加わっていたのかを想像するのも、また音楽ファンにとっては魅力的な楽しみ方の一つであるに違いない。もちろん、これはあくまで仮説であり、時代考証そっちのけのシャレの一環として捉えるべきだが、それでも時代背景を踏まえた上で、このような流れがあったのではと想像することは非常に興味深い。

史実からの視点では、1963年の秋、The HoneysのアルバムリリースがNick Venetによって計画されていた。だがこの時期、The Beach BoysとVenetとの関係はすでに険悪なものとなっていた。プロデューサーとしての立場を巡る対立が深刻化し、最終的にNick VenetはCapitol Recordとの関係そのものも危機にあった。その瞬間、The Beach Boysの音楽制作は一時的に空白期間に突入した、Billboardの10月19日付の記事がその決定的な瞬間を報じる。

「Nick Venet Capitol Recordとの契約終了か」。

NickとThe Beach Boysとの一件を報じた
1963年10月19日付けBillboard記事
(後日NickはCapitolとはつかず離れずの関係になるのだが.....)

音楽業界の中で、Nickの離脱は瞬く間に広まり、The Beach Boysの未来がどうなるのか、多くの関心が集まった。この短い空白期間を経て、The Beach Boysの新たな担当A&RとしてKarl Engermannが登場。ここからが、Brian Wilsonが音楽的な舵取りを完全に握る転機となった。プロデューサーとしての権限がBrianの手に移ると、The Beach Boysのサウンドは急激に進化し、音楽的な革新の時代が始まったのだ。
そして、1963年12月上旬。The Honeysのシングル「The One You Can't Have / From Jimmy With Tears」(Capitol 5093)がリリースされる。このシングルの特筆すべき点は、A面「The One You Can’t Have」のプロデュースがBrian Wilsonのクレジットで行われたことだ。つまり、この時点で(既に徐々にだがBrianが主導権を取りつつあったが)Brianがプロデューサーとしての足掛かりを得るとともに、The Honeysのサウンドにもその革新が反映されることとなった。まさにこの時期、The Beach Boysは大きな転換期を迎えていた。Nick Venetの離脱から新たなプロデューサー体制への移行、そしてBrian Wilsonの手による音楽的進化。The Honeysのシングルは、ただのシングルにとどまらず、Brian Wilsonの音楽的成長を象徴する重要な一歩として記憶されるべき瞬間だったのだ。この時期のThe Beach Boysとその周辺の動きは、音楽史においても非常に興味深い章であり、Brianの革命的な音楽が形作られる過程を感じ取ることができる貴重な時間だった。その中で、The Honeysのシングルは単なるヒット作に留まらず、音楽業界における大きな転換を物語る象徴的な一枚となったのである。
The Honeysは商業的な理由や様々な背景によりアルバムリリースもなく、結局世に出ることはなかった。その後、彼女たちはSurfin/Hot Rodをテーマにした音楽や、ガールグループのバックコーラスとして地道に活動を重ねたが、注目を集めることはなく、無名のまま日々が過ぎていった。それからやっと6年後の1969年、待望の次作シングル『Tonight You Belong To Me / Goodnight My Love(Capitol 2454)』がリリースされるも、それもまた広くは知られることなく、ひっそりと消えていった。The Honeysの活動は、まるで「裏方」として音楽業界に埋もれていったかのような印象を与える。確かに一見すれば、その歩みは「涙の歴史」のようにも感じられるだろう。しかし、彼女たちの音楽には今もなお独特の魅力が息づいており、その存在感は後世にわたって静かに影響を与え続けているのだ。


(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2025年5月13日火曜日

青野りえワンマンライブ

 2023年10月15日にサード・アルバム『TOKYO magic』をリリースした、シンガー・ソングライターの青野りえが、6月20日(金)にワンマンライブを開催するので紹介する。
 同アルバムのプロデュースを手掛けたThe Bookmarcsのメンバーで作編曲家の洞澤徹をバンマスに、2023年11月に開催された『TOKYO magic』発売記念ワンマンライブと同じ、手練なミュージシャン達とのライブなので期待が持てるのは言うまでもない。
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【関 連 記 事】 






◎『TOKYO magic』リリース・インタビュー







◎『Live in Tokyo 2022』レビュー





◎『Rain or Shine』リリース・インタビュー






【青野りえワンマンライブ】 

開催日】2025年6月20日(金)

 【会場】渋谷gee-ge
東京都渋谷区宇田川町3-10 いちごフィエスタ渋谷4F
TEL 03-6416-3468

【時間】OPEN 19:00 / START 19:30

【料金】予約¥3,500 (+1drink)/当日¥4,000 (+1drink)
【出演】青野りえ(Vo.)

洞澤徹(G.)伊賀航(B.)北山ゆう子(Dr.)佐藤真也(Pf.)




[青野りえ★プロフィール]
都会的なメロウ感と、無垢な透明感を併せ持つ歌声のシンガー。
沖井礼二(TWEEDEES/ ex.Cymbals)のソロプロジェクトFROGにゲストボーカルで参加。ゲーム音楽での歌唱、コーラス、CMナレーション等、様々なレコーディング・ライブで活躍している。
2017年、関美彦プロデュース、伊賀航、北山ゆう子、井上薫(ブルー・ペパーズ)ら参加の1st.ソロアルバム『PASTORAL』リリース。同じく、関美彦プロデュースの2ndアルバム『Rain or Shine』を2022年にリリース。2023年、The Bookmarcs洞澤徹プロデュースの3rdアルバム『TOKYO magic』をリリース。 ジャパニーズAOR/シティポップ・ファンの注目を着実に集めている。

(テキスト:ウチタカヒデ