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2021年4月21日水曜日

近藤健太郎:『Begin』(*blue-very label* / blvd-016)リリース・インタビュー

 
 ポップス・バンドthe Sweet Onions(スウィート・オニオンズ)のリーダーで、シティポップ・ユニットThe Bookmarcs(ブックマークス)の活動でも知られる、近藤健太郎が初のソロ・シングルを7インチ・アナログ盤で5月1日にリリースする。 
 2組の作品で聴かれるサウンドとはまた異なる、歌そのものを大切にしたこのソロ・プロジェクトを大いに歓迎したい。今回の共同プロデューサーにはthe Sweet Onionsのサポート・ミュージシャンなどを務めていた及川雅仁氏を迎えており、マスタリングは弊サイトでも評価しているマイクロスターの佐藤清喜氏が務めている。
 ここでは昨年12月の『マッカートニーIII(McCartney III)』の対談レビューも記憶に新しい近藤に、この初のソロ・シングルについて聞いてみた。筆者による各曲の印象についても触れて語り合っているので、このインタビューと共に近藤に選曲してもらったプレイリストを聴きながら読んで欲しい。



~「近藤さんのソロ、うちでリリースしませんか?」と
  メッセージが届きびっくり~ 

●まずはソロ活動に至った動機を聞かせて下さい。

◎近藤健太郎(以下 近藤):以前から作り溜めていた曲が沢山ありまして、自分の責任で自由に表現した作品を一度作ってみたいと、ずっとぼんやり考えていました。そんな中、blue-very labelの中村さんが曲を聴いてみたいと言ってくれて、無邪気に何曲も送りつけてしまいました。
ある日LINEで、「近藤さんのソロ、うちでリリースしませんか?」とメッセージが届きびっくり。本当に嬉しかったです。

●blue-very labelの中村さんからのお誘いが切っ掛けなんですね。そもそも自分でもインディーズ・レーベルphilia records(フィリア・レコーズ)を主宰しているから、自社レーベルのリリースを増やして盛り上げたいと考えるのが普通だと思うんです。敢えて外部のレーベルからリリースするというのは、中村さんの熱心なアプローチに応えたということですか?(笑)
またこのソロ活動について、the Sweet Onionsのパートナーで同じくレーベル運営をしている高口(大輔)君からはどのような意見が出たでしょうか? 

◎近藤:そんなそんな、応えたなんて恐縮です。本当にありがたいお話です。送った曲に対して、いつも心のこもった感想をくれてとても励みになっていたので、こちらこそよろしくお願いしますと、中村さんに委ねました。 高口君にはソロをやることになった経緯や、自分の気持ちや思いを長い文章にして送りました(笑)。最初びっくりした様子でしたが、「近藤さんのソロ聴いてみたい!応援するよ」と言ってくれて嬉しかったです。


 
近藤健太郎 (kentaro kondo) Begin Music Video

 ~「Begin」は曲が出来た瞬間からフレンチホルンが
  頭の中で鳴っていたんです~

●今回収録した3曲ですが、各曲をソングライティングした時期とモチーフなどがあれば教えて下さい。

◎近藤:「Begin」は13年前くらいに作った曲です。The Beatlesの「For No One」で聴けるフレンチホルンや、「Mother Nature’s Son」の印象的なフレーズ、英国的なメロディに影響を受けつつ、ロックな要素も取り入れてみました。歌詞はリリースが決まり、いよいよ書かねばと、悩みに悩んで完成しました。
「American Pie」は、4年前にnote(コンテンツ配信用のプラットフォーム)にデモをアップ。曲と歌詞、ほぼ同時に出来上がりました。ストレートなロック、もしくはマージービート的アプローチと言いますか、この曲はそれを意識した曲調に仕上がったかと思います。
「Heaven」は8年前くらいにピアノで作った曲です。出来た時はちょっと暗いなぁ、でもJohn Lennonの「Oh My Love」みたいで良いかもと思いつつも、ずっと封印していたのですが、今回レコーディングするにあたり、出だしのメロディをガラッと作り変えてみました。まるで別の曲に生まれ変わったかのようで、この曲と新鮮に向き合うことが出来ました。歌詞は「Begin」同様、今年になってまとめ上げました。 

●タイトル曲の「Begin」のポールっぽさは、歌に寄り添うアコギやホルンのオブリガートに滲み出ていると思います。イントロからヴァースのアコギの基本コード進行にもそれは言えているけど、ファースト・インプレッションではトレイシー・チャップマンの「Baby Can I Hold You」(『Tracy Chapman』収録/1988年)を彷彿させて、直ぐに鷲掴みにされたのね。さり気なく心に忍び込んでくる、ジェントリーな健太郎サウンドというか。(笑)13年も前の曲なんですね。 
同じポール色でも「American Pie」は正しくマージービートにフォーク・ロックの匂いがするバンド・サウンドになっているのが面白いですね。及川(雅仁)さんの12弦ギターのアルペジオがサウンドの要になっていますが、アレンジ面でもリクエストしましたか?
「Heaven」は一転してピアノを中心にしたバラードですね。ヴァースのメロディをモディファイした成果が出ているんだと思いますが、この曲同様のパターンで完成させてリリースした曲というのはこれまでにあったでしょうか? それと「Begin」もですが、曲先で歌詞を捻り出すコツはなんでしょうか? 

◎近藤:「Baby Can I Hold You」は知らなかったので聴いてみました。なるほど!じわじわと心に染み入る、本当に素敵な曲ですね。嬉しいです。「Begin」は曲が出来た瞬間からフレンチホルンが頭の中で鳴っていたんです。今回生で録音することが出来て幸せです。
「American Pie」はまさに及川君と一緒に制作する切っ掛けとなった曲なんですよ。
noteにあげたデモはベースレスだったのですが、ある日突然及川君から「noteにアップしていた曲がとてもよかったので、勝手にベースを入れてみちゃいました。よかったら聴いてみてください」と、音源付きのメールが届きました。聴いてみたらもう最高で、すぐに及川君に返信。ベース入りの音源をnoteに再アップしました(笑)。
軸となるギターのフレーズは、当初のデモの段階からあったので、そこはまず忠実に再現しつつ、12弦のアイデアも含めて及川君がさらに発展させてくれました。ロック色を強めたかったので、歪みのエレキギターを僕が弾いて、全体のグルーブも力強くミックスしてもらいました。
ちなみに「American Pie」の1st Demoは、初回特典のCD-R『Demo Tracks Vol.1』に収録したので、是非聴き比べて欲しいです。 
今回の「Heaven」のようなパターン、実はわりとあります。しばらく寝かせて、いや、何年も寝かせて(笑)、今の気分に合ったメロディや歌い方に到達することは多々ありますね。アレンジに関しては、特にどこか幻想的なドラムの音色やパターンが、まさに今の自分の感覚にぴったり寄り添ってくれた感じがして、先程も述べたように、新しい歌に生まれ変わった気がしてとても満足しています。 歌詞に関しては、基本いつも曲先なんで、あらためてコツというとすぐに思い浮かばないのですが、歌にいかにフィットするか、誰にでもわかりやすい印象的な単語を必ず入れてみる、そんなことを気にかけながら書いています。あとは先にタイトルを決めてしまい、そこからイメージを膨らませて作っています。

●改めて「American Pie」のデモを聴きましたが、ギター・リフ自体はデモの時点からあったんですね。それを12弦で発展させるという案は正解ですね。余談ですが、この特徴的なリフを聴くとビートルズの「Ticket To Ride」や「If I Needed Someone」、ザ・バーズだったら「Mr. Tambourine Man」や「All I Really Want To Do」などフォーク・ロックの文脈の印象が強く、後のギター・ポップへの影響力を感じさせますよ。僕はリアルタイムで12弦というとXTCの「Senses Working Overtime」や「Funk Pop A Roll」でしたけど(笑)。 
また寝かしてモディファイさせた「Heaven」の話も興味深いです。デモ集に収録されたピアノだけのバージョンでその世界観は完成されていると思います。 
曲先での歌詞作りの点ですが、以前The Bookmarcs(ブックマークス)のインタビューでその工程は聞いていたのですが、一人でソングライティングする際も基本同じだったんですね。人それぞれだと思いますが、よくシンガーソングライターは歌詞と曲が同時に湧き出てくるというミラクルなパターンもあるそうで、そんな体験はなかったですか? 

◎近藤:フォーク・ロックの文脈からギター・ポップへ。まさにそうですよね。あげていただいた曲、どれも大好きです。あと「American Pie」は、トム・ハンクス主演の映画「すべてをあなたに」の主題歌「That Thing You Do!」の世界観にも影響を受けています。楽曲のみならず、楽しげでちょっぴりレトロな雰囲気の歌詞にしてみました。ちなみに曲の出だしは一瞬あれです(笑)。The Beatlesの「Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band - Reprise」。ポールのライブでこの曲を何度となく体感していまして、あの高揚感を自分なりに再現したいと思いました。
そしてこの曲は先程も述べたように、歌詞と曲が同時に湧き出た作品です。自分にとってはミラクルですね。他はどうだろう、同時に出来ることはあまりないのですが、曲と一緒に最初に思い浮かんだフレーズが核となり、そのまま形になることはよくあります。



 ~僕のやりたいことを汲み取って、理解してくれるところ
                からスタートしました~

●今回共同プロデューサーの及川雅仁さんについてですが、どういった活動歴がある方でしょうか?また近藤君との関係性も聞かせ下さい。

◎近藤:及川くんはリカロープさんのプロデューサーとして知られていて、常盤ゆうさんへの楽曲提供とプロデュース等もしています。また沢山のバンドでサポート奏者としても活躍しています。ここ数年はThe Carawayのライブサポートをされていて、ギターやキーボードを弾いています。 
及川君とは出会って10年以上経ちますが、僕のバンド、the Sweet Onionsではベース・サポートでお世話になっています。また僕と高口君(the Sweet Onionsのメンバー)でサウンドプロデュースしたシンガー、藍田理緒さんのアルバムのレコーディングにも参加してくれました。穏やかで控えめな性格でありながら、芯が通っていて、人の良いところをさりげなく引き出してくれる、優しく才能溢れる人です。

●成る程、豊かな人間性と才能を持ち合わせた方なのですね。これまでにthe Sweet Onionsの高口君やThe Bookmarcsの洞澤徹君といった方々と楽曲やアルバム作りをしてきた訳ですが、お二人とは異なるカラーで特筆すべきポイントはなんでしょうか? 

◎近藤:今まではバンド、またはユニットのメンバー同士という関係性、今回は共同のプロデューサーという間柄なので、作り方や関わり方が根本的に違いますよね。なので、異なるカラーで特筆すべきポイントという問いにはちょっとお答えしかねます(笑)。
バンドのメンバーだと、ある意味エゴをぶつけ合ったり、それぞれの意見を尊重しながら、お互いのカラーが混ざり合って作品が生まれていきます。それは本当に素敵な関係だと思います。ソロにおいては、まず僕が描いていた明確なイメージがあって、及川君がその僕のやりたいことを汲み取って、理解してくれるところからスタートしました。
音楽的な趣味も本当に近いので、お互いが理想とするゴールに向かって、楽しく制作することが出来たのは大変ありがたいことだなと思っています。

●レコーディングの時期はいつ頃だったでしょうか? またその際のエピソードを聞かせて下さい。

◎近藤:正式なレコーディングは2020年の12月から今年の2月中旬まで。それまでは及川君とデモのやり取りをしてイメージを固めていきました。ボーカルや楽器を録音する際には、及川君の的確なマイキングと、録り音に対しての適切なジャッジがとても助けになりました。
ピアノのレコーディングも楽しかったです。生のピアノで録音するのは初めてだったのですが、及川君はとても褒め上手なので、上手くなったと錯覚してしまい、気持ちよく弾くことが出来ました(笑)。 
生のフレンチホルンとフルートの録音もまた格別でした。レーベルの中村さんにも立ち会ってもらって、演奏を依頼したお二人(まりんさん、まあやさん)が奏でる美しい音色に、すっかり魅了されてしまいました。
またボーカル録音は、自分なりに細かいところまで拘ったつもりです。一度完成したものの、1曲どうしても気になってしまう箇所があり、もう一度スタジオに入りたいと及川君に連絡したこともあります。ありがたいことに快く応じてくれて、おかげさまで納得いくものが作れました。 

●レコーディング期間はコロナ禍でもあったので苦労されたと思いますが、及川さんのアーティストの視線に合わせたきめ細かいプロデュース・ワークに助けられたようですね。
ゲスト・ミュージシャンは近藤君の知り合いの方でしょうか?
また完成後(マスタリング前のファイナル・ミックス後?)のやり直しというのは、ジャッジしている状況で変わりますから仕方ないという気がします。

◎近藤:ゲストのお二人はレーベルの中村さんのご紹介で知り合いました。長く吹奏楽団に所属されていて、本当に楽器を演奏するのが楽しそうなので、こちらも思わずウキウキしてしまいました。録音が予定より早く終わった日、お二人がディズニーの「Beauty and the Beast」をオーボエとフレンチホルンで奏でてくれたのは、楽しい思い出です。


~「Heaven」を作るときにあらためて聴き直し、
  その素晴らしさに感涙~

●ソングライティングやレコーディング期間中、イメージ作りで聴いていた曲10曲を挙げて、各曲についてその理由も聞かせて下さい。

■For No One / Paul McCartney
 (『Give My Regards To Broad Street』/ 1984年)
◎「Begin」はポールが84年に再演したこちらのバージョンに影響を受けています。

■From Prying Plans Into The Fire / Tamas Wells
(『A Plea En Vendredi』/ 2006年)
◎シンプルで暖かなアコースティックサウンドと優しいハーモニー。この曲を聴いていると、ついギターを手にしてハミング、曲を作りたくなってしまいます。そして10年以上前に、この曲を教えてくれた友を思い出します。

■Probabilmente / Fitness Forever(『Personal Train』/ 2018年)
◎Elefant Recordsからリリースしているイタリアのバンド。空に広がる爽やかなメロディとハーモニー。ギターポップテイストでソフトロック。やはりどうしても惹かれてしまいます。こちらも曲作りの参考にと、いつもお世話になっている方が教えてくれた曲です。

■Parachute / Sean Lennon(『Friendly Fire』/ 2006年)
◎ナイーブで内省的な世界観。実はソロを作るにあたり、無意識に最も影響を受けていたのはショーン・レノンだったりします。

■Cast No Shadow / Duncan Browne(『Duncan Browne』/ 1973年)
◎美しくて繊細で優しくて。こんな風に唄い奏でることが出来たらなぁと。

■She’s Got a Way / Billy Joel(『Cold Spring Harbor』/ 1971年)
◎どうしても『Piano Man』が注目されがちですが、『Cold Spring Harbor』はやはりビリーの原点。「Heaven」を作るときにあらためて聴き直し、その素晴らしさに感涙。

■Live It Up / Wouter Hamel (『BOYSTOWN』/ 2019年)
◎こんな風に歌えたら・・・と、現在活動している中で一番憧れるシンガーはこの方。叶わぬ夢ですが。最新アルバムの中からピアノバラード曲。よく聴いています。

■Mexican Wine / Fountains Of Wayne
(『Welcome Interstate Managers』/ 2003年)
◎美メロなロック、パワーポップも大好物です。ソロアルバムではこんなテイストの曲もいくつか披露できたらなと。

■Where Does the World Go to Hide / Utopia
(『Deface The Music』/ 1980年)
◎誰もがビートルズに憧れている。だって、仕方ないじゃないか。

■Hibi / うつくしい日々 / Eriko Uegaki(『Unclouded』/ 2020年)
◎メモを取ったり、日記を書いたりするような感覚で、日々曲をスケッチしてみたい。誰に聴かせるわけでもなく。家での時間が増えてから、より音楽に向き合うことが出来ました。このアルバムは、そんな毎日にそっと寄り添ってくれた作品です。



●年内にはファースト・ソロアルバムのリリースも予定しているとか。 今後のソロ活動への抱負と、本作『Begin』のアピールをお願いします。

◎近藤:引き続き焦らず、じっくり音源作りに励んでいきたいと思います。自分が素直に好きだ、ずっと聴きたいと思える作品を残していきたいです。
『Begin』はレコードに収録の3曲は勿論、先に触れましたが、初回特典のCD-Rや、ミニソングブック(詩集)も含めて、トータルで楽しんでもらえたら嬉しいです。 ジャケット、写真、MV等、デザイナーのFumika Arasawaさんのアートワークのおかげで、音や歌詞の世界観がより鮮明になりました。是非手に取ってみてください。

●ソロアルバムのリリースは期待しています。初回特典CD-R『Demo Tracks Vol.1』の中で個人的には、小林しのさんに提供した「Large Gate」(『SPLIT EP SERIES VOL.3』収録 / 2020年)のセルフカバーが特に素晴らしかったです。初回特典ということで、直ぐに予約しないといけませんね。
ジャケットやインナー・スリーヴなどアートワークもこれまでのthe Sweet OnionsやThe Bookmarcsとは異なるアプローチで、新たな近藤健太郎の魅力がアピール出来たと思いますよ。

初回特典CD-R『Demo Tracks Vol.1』

◎近藤: そう言っていただけると本当に嬉しいです。少し気が早いですが、ソロアルバムに収録する曲の選別を及川君とすでに進めております。
初回特典のDemo Tracksは何と8曲入り。この中からアルバムで正式に披露する曲もあるかもです。
演奏、ミックスも初めて1人で全部手掛けたので(一部を除いて)そこも暖かい耳で聴いていただけたら(笑)。
ミニソングブックは特典に収録されている曲の歌詞が散りばめられております。重ねてになりますが、僕の初のソロ作品「Begin」をよろしくお願い致します。


Disques Blue Very予約サイト:

 (設問作成・編集・テキスト:ウチタカヒデ

2016年3月24日木曜日

ビーチ・ボーイズの初来日コンサートは1966年ではなく、その2年前の1964年に米軍キャンプで行われていた!


 皆さんご存じのとおり、ビーチ・ボーイズの初来日公演は1966年、ブライアン・ウィルソンの代わりにブルース・ジョンストンが参加して行われましたが、実は、今まで誰も言及していないので知られていませんが、1964年(※1963年説もあり。後述)に米軍キャンプに慰問で訪れ、コンサートをしていました。その模様を基地内で見ていた日本の方がいましたので、貴重な証言を伺ってみましょう。私の先輩である田中幸男さんが、その羨ましい体験をされた「証人」です。

Q:いつ、どこで行われたのでしょうか?

A:福岡の板付空軍基地の白木原ベースです。日本では「Surfin’ USA」のヒットで知られてきた頃です。あの事はベトナム戦争が激しくなってきた頃で、来日する多くのミュージシャンが米軍基地で慰問公演をしていました。場所はAirmens Clubです。米軍ベースには将校用のOfficers Clubと下士官用のNCO Clubもあるのですが、ビーチ・ボーイズと年齢が近いということで一般兵隊用のAirmens Clubになったのだと思います。

Q:どうやって見ることができたのですか?

A:当時高校生だった僕は、アメリカ人の友人に誘われてAirmens Clubのライブに見に行けました。もちろん慰問だからフリーです。

Q:公演の記憶はいかがですか。

A:当時の日本では曲が流行ってもバンドやメンバーに関する詳しい情報が手に入らなかったので、そのライブに誰がいたのかよく覚えていませんが、大きな男がギターを弾いていたのとボーカルが帽子を被っていたのを覚えています。後から思うとあの大男がブライアンで、帽子頭がマイクだったのでしょう。その他にも2~3人いたような。

Q:なるほど。まだビーチ・ボーイズのレコードが1964年まではリアルタイムでリリースされてもいないし、ヒット曲も分からない時でしたよね。その中で覚えていらっしゃるのは?

A:その時歌った曲で記憶しているのは大ヒットした「Surfin’ USA」の他には、アメリカで流行っていても日本では全然知られていない曲が多数あったはずで、僕で曲名が分かった曲は少ない。デル・シャノンの「Runaway」、チャック・ベリーの「Johnny B.Goode」、レイ・チャールズの「What’d I Say」まで歌っていました。

Q:公演時間とか服装はどうでしたか

A:3040分程度で曲数は覚えていません。ストライブのシャツだったような気もしますが、レコードのジャケットで見た後付けの知識かもしれません。

Q:ライブの印象はどうでしたか?

A:ライブで聴くとギターが思ったより下手だったり、PAが悪いのかボーカルの声が全然通らなかったり、レコードで聴くよりは出来が悪かったけど、それなりに楽しめました。

 

注:マイク・ラブのビルボード・ジャパンでのインタビューで、「1964年に来た時にホテルのロビーで日本の児童にひながなをおしえてもらったことを鮮明に覚えているよ」と言っていたので1964年としましたが、田中さんの当初の記憶は1963年でした。そしてマイクの「日本に初めて来た時の僕たちのジャンルは「エレキ・ギター」だった」という言葉、このAirmens Clubの曲目から推測されるのは、音楽的には1963年の方が有力かなと言う感じです。ちなみに「ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー」に1963年、1964年に米軍慰問で日本に行ったという記述はなく、1964年はスケジュールがぎっしり書かれていたので、隙間のある1963年の可能性が強い気がします。 (佐野邦彦)

2001年12月2日日曜日

Rod McBrien インタビュー


 みなさんお待ちかね、Salt Water Taffy で知られる Rod McBrien 氏のインタビュー全文を公開します。
 Rod 氏は同時に Discography も送ってくださり、それによってさらに素晴らしいレコードを見つけられました。
 このインタビューではまだ Rod のワークスのほとんどが分からなかったため、Joy を単独の質問項目にするなど、今となっては奇異な部分があります。入手したレコードをもとに、さらにこの後、Rod氏に質問を続けていきたいと思っておりますのでお楽しみに。
 なお Discography については来年のVANDA28号に掲載しますので、本誌をご覧ください。
(VANDA佐野邦彦


Q1.
あなたのバイオグラフィについて教えてください。

私が最初に作曲し、レコーディングしたのは、高校生の時だ。数人の素晴らしいミュージシャンが私のホームタウンであるニューヨークの Amityville や、その近所にいたんだ。その連中とともに、私が集めたか、もしくは、私がその中の一人だったバンドがいくつかあったんだ。The Tornadoes が最初にレコーディングをしたグループだ。メンバーは Mike Consi、Terry Ketcham、Hal Schad、Bill Gildersleeve と私だった。みんな高校の同級生だ。

ある日、ぼくたちはみんな学校を辞めて夢をかなえるため都会へと進出したんだ。もちろん、それはヒット・レコードを作るためだ。Brill Building のブロードウェイの1650番や1697番で、とにかく当時ぼくたちは誰かにぼくらのデモを聴いてほしくて、アポなしで突撃しまくったんだ。そんな時に幸運は訪れた。幸運にも Jim Gribble という当時結構いけてるグ ループをマネージメントしていた人の目に止まったんだ。彼はとてもぼくらのことを気に入ってくれて、レコーディング・マネージメントを引き受けてくれたんだ。Terry Ketcham と入れ替わりで Joe Venetucci がグループに加わり、ぼくたちは次のレコードを Jim Gribble と Stan Vincent のプロデュースの元、The Long Island Soundsというグループで録音したんだ。レコードは Down Records からリリースされた。George Goldner の立ち上げた新しいレーベルで、その名の通り、落ちていってしまったレーベルだった。確か記憶では、ぼくらが最初で最後のリリースだった。

ぼくの音楽業界でのはじめてのフルタイム仕事は Ultra-Sonic Recording Studio での見習いのオーディオエンジニアとしてだった。Ultra-Sonic は Long Island に出来たばかりのスタジオだった。そこのオーナーのBill Stahl と親しくなって幾つかのデモをとらせてもらった、そして彼に頼んで雇ってもらったんだ。マイクや機材ののセッティング、スタジオの掃除やセッションの後の灰皿の掃除なんかをやったね。でも、ぼくはすぐにやり方を覚えて自分でセッションを受け持つようになったんだ。初めて George "Shadow" Morton に会ったのも、 ぼくのエンジニアとして初めての No.1 ヒットになったShangri-Las の "Leader of The Pack" も、このUltra-Sonicでの事だった。John Linde と Pete Antell に会ったのもここだしThe Valrays がレコーディングキャリアを開始したのもの、やっぱりこの Ultra-Sonicだった。

ぼくはレコードセールスの印税や、アドヴァンス料金、契約金などに頼っていてはダメだと早いうちから学んだんだ。だからこそエンジニアとして長い事続けていられて、収入も得る事が出来ている。1964-1965年頃に6ヶ月だけ the U.S. Coast Guard Band に居た。そこから帰って間もなくニューヨークで最初の仕事の依頼が来たんだよ。

Brooks Arthur はニューヨークで一番のエンジニアで僕の良き指導者だった。プロデューサーの Hugo (Peretti) & Luigi (Creatore) は RCA レーベル からRouletteレーベル に移ってきたばかりだった、だから Roulette Studio を運営するのにエンジニアが必要だった。Brooks は僕が適任だと思って僕にやらせてくれた。Ted Daryll に出会ったのも The Eastern Scene が結成されたのも、正に Roulette 的な偶然だった。

Roulette から Allegro Recording Studios へぼくは移った。Allegroは60's には最も熱かった沢山のヒットソングがレコーディングされたスタジオだ。そこは Laurie Records の所有物でヘッドエンジニアは Bruce Staple だった。60's の後半にぼくはそこでエンジニアとして数年を過ごした。Dion, The Chiffons, Tommy James & The Shondells, The Royal Guardsmen, Mitch Ryder & The Detroit Wheels, The Critters, The Innocence, The Tradewinds, Bobby Bloom や The Tokens 等がその頃録音された人たちだ。Allegro は 1650 Broadway(Brill Buildingがあった場所)という音楽業界では有名な場所に位置し、その下に僕たちはいたんだ。そこでは地下鉄(=おそらく上記のアーティストのこと)行き来する音なども当時聞こえた。そこでの録音のクオリティーには直接影響はしなかったけど、まあでも、音楽がないとレコーディングの方向性も決めれないからね。

何年かのうちに Brooks Arthur が自身のスタジオ Century Sound を立ち上げ、ぼくをセカンドエンジニアとして迎えてくれた。このスタジオは長続きはしなかったけが、ぼくはここで Neil Diamond, The Grateful Dead, Jimi Hendrix, Janis Ian, The Boxtops, The Jaggerz, Bobby Rydell and Jimmy Darren 等のヒットソングを録音した。

たくさんのスタジオで長い間エンジニアとして働いてきたけど、今ぼくはニューヨークのアパートメントに小さなスタジオを持っていて主に自分の作品の為にエンジニアとして働いている。そしてこのスタジオでは少ないけども顧客がいて Jimmy "The Wiz" Wisner が利用してくれるし、最近では Randy & The Rainbows や Paul Evans が利用してくれてぼくもそれをエンジニアとして手伝った。

70's のはじめにぼくはコマーシャル業界が有益である事に気付いて Rod McBrien Productions を作って Coca-Cola, Miller Beer, Pizza Hut, Campbell's Soup, Special Olympics, Claritin, Kodak, Burger King などに CM ソングを書いている。これでぼくはアカデミー賞の広告部門やその他のたくさんの賞を獲得したりもしている。

ぼくの会社はレコード業界や広告に音楽を提供する会社なんだ。ぼくはアメフトのOrange Bowl や Fiesta Bowl にも書いたし、国や国際的なイベントの為にも曲を書いた、例えば The Vietnam Women’s Memorial の為に Crystal Gayle に提供したし、The Women's Memorial に提供した曲は Kenny Rogers and Patti Austin が歌った。1997年にはアメリカ空軍50周年記念の為に "Above and Beyond" も書いた。

Q2 : a.
ポップミュージックに興味を持ったきっかけは

最初は祖母の影響だ。私が幼稚園生だった頃、母親は日中仕事に出かけ、その間は祖母が自分の面倒を見てくれていた。祖母はテレビを所有していなかったが、とても大きなフロアに置くタイプのラジオを所有していた。私が覚えている限りでは、その大きなラジオは一日中つけっぱなしで、「Make Believe Ballroom」が私が一番良く覚えている番組で、未だにオープニングのタイトル曲を歌える。そのラジオは今ではラジオとしての役目を果たすことはできないが、それらの思いでとして、今はぼくのリヴィング・ルームの家具となっている。

Q2 : b.
そしてあなたの当時お気に入りのアーティストは誰でしたか?

シンガーでは Frankie Laine と Perry Como がパッと頭に浮かぶね。ぼくの祖母の家の近所に Frankie Lane という人が住んでいたんだ。もちろん、Frankie Laine とは違う人物なんだけど、だから、Frankie Laine が最初に頭に浮かんだのかなあ。

ティーンエイジャーの頃は、Elvis Presley、Little Richard、Dion and The Belmonts、Chuck Berry、The Cleftones、Johnny Ray、The Skyliners、Bobby Darin、The Del Vikings、The Coasters etc. まだまだこんか感じで続くよ(笑)。

Q3.
音楽業界に入るきかっけは何ですか?

音楽から感じる愛、そしてビジネスとしてエクサイティングなところかな(つい最近 A&E Network 紙で読んだんだけど、60年代初頭の音楽ビジネスのシーンの中心はニューヨークシティのBrill Buildingや1650 Broadwayだったって書いてあったんだ。ほんとその一部に関われたことが光栄だし、うれしいよ)。それで最初のレコーディングセッションの時にハマってしまったんだ。これがぼくがやりたいことだって。音楽で暮らせていければ最高だってね。音楽を作曲する側プロデュースする側、実際に演奏する側、エンジニアリングする側、こんなんじゃあ、本職は見つかる訳ないよね。でもこれ以上のこともないよ。こんなところが理由かなあ。後、自分はこの業界に向いていると思ってたし。

Q4.
あなたの最初の仕事は何でしたか?

最初に曲を書いたのは4年生の時だった。良く覚えているんだけど、譜面に曲を書きたくてたまらなかったんだけど、ドラマーだったし、譜面にどう書き込むのか何てことはサッパリ分からなかったんだ。リズムやビートは良く分かっていたんだけどね。それで従兄弟の Alan が助けてくれたんだ。彼はあまり上手でないアコーディオン・プレイヤーだったんだけど、音階や音を譜面に書き留めるなんてことに関しては問題なかったね。でもその時作った楽譜はもう何年もどこかへいってしまって、見つかっていないんだ。

最初にレコーディングに携わったのは R&M Records からの TheTornadoes による "That's My Girl" と "Round House" だ。メジャーレーベルでの最初の仕事はメジャー放送もされた Cameo Records からのThe Valrays による "Get A Board" だ


Q5.
The Eastern Scene と Pebbles & Shells が Salt Water Taffy 以前のあなたの仕事と思われますが、
実際にはどういったグループだったのですか。教えて下さい。

Ted Darryl が "Let Me Be More Than Friends Tonight" という曲を世の中に発表する前に聞かせてくれたんだ。ぼくはとても気に入り、これはスマッシュヒットするだろうと思った。確か、Ted 自身が The Lovin' Spoonful に書いた曲だ。しかし、ぼくが提案したんだ、ぼくたちのグループを結成しててぼくら自身でプロデュースしようと。The Lovin' Spoonful にあげることや、他の人に上げることなんて忘れてさ。だって、この曲はとてもヒットしそうだったんでレコード作ろうよって。それで Ted は合意してくれたんだ。ぼくは John Giametta を、そして Ted は Jimmy Strassberg を誘い、それでグループができて、レコードを作れる体制が整ったんだ。

ぼくらの友人 Reid Whitelaw がグループをマネージメントして、レコード契約をする役として招集された。Reid は Amy Records の Freddy DeMann と契約をしてきてくれた(Freddy はその後、マドンナのマネージャーにまで上り詰めた人物だ)。Reid はグループをペンシルバニア州の Scranton へテレビ番組のため送り込み、その同じ州にオハイオ州の Cleveland での Up Beat TV Show というテレビ番組までアレンジしてくれた。 Scranton までは車で行けたのだが、 Cleveland へは飛ばなければならなかった。もちろん、この時はぼくらが最初に飛行機に乗った瞬間だったのだが。この週の The Up Beat Show にはもう一つの注目のグループが来ていた。The Temptations だ。

この旅がとても記憶に残っているのが、ぼくらの旅費にかかった費用を取り戻すために、Reid が Up Beat の他にぼくらを地元のナイトクラブへのブッキングしていた事なんだ。ぼくらはハウスバンドとして Go-Go Girls と一緒にクラブで演奏をしたんだ。でも問題があって、"Let's Be More Than Friends" 以外の持ち曲は4、5曲しかなかったんだ。おまけに "Let's Be More Than Friends" はダンスミュージックじゃなかったし。これがおおまかな The Eastern Scene の流れかな。


 グループの写真を見つけたんだ。存在しないと思っていたんだけど。この写真で興味深いのは Ted Daryll、John Giametta も僕もこの4番目に写っている男を思い出せないんだ。もしかしたら、ぼくの昔の友人で Long Island から来た Ron DeMarinoかもしれないけど、確かじゃあないね。
 もう一方の Pebbles & Shells はよく 60 年代に多く見られた本当の意味でのスタジオグループだ。ミュージシャンは皆、スタジオミュージシャンで、歌のパートは全てぼくだった。ぼくは本当に "Let's Be More Than Friends Tonight" という曲がお気に入りで、The Eastern Scene で成功しなかったものの、再度レコーディングしたんだ。ぼくは念のためいざお呼びがかかってもまた On The Road (旅:ライブ活動を目的とした旅) できる様、メンバーを4人用意していたんだ。ぼくらは新しいグループとして、業界向けの写真も用意してた。実際には集まってリハーサルなんてことは、ほとんどしなかったけどね。

Q6.
Ted Daryll について教えて下さい。

Ted Darryll は偉大な友達でもあり、偉大なソングライターだ(Jay & The Americans の "She Cried" は彼らの最初のヒット曲であり、Ted の最初のヒット曲でもあった)。ぼくらは 1966 年に Roulette Records で出会った。私が Roulette Records のスタジオで働くことになった頃、Ted は Big 7 Music という Roulette Records の違うセクションでスタッフソングライターとして働いていた。ぼくらはすぐに意気投合し、The Eastern Scene を結成するに至ったんだ。グループの最初で最後のリリースとなった Amy Records からの "Let's Be More Than Friends Tonight" も Ted の作曲だ。そして、Daryll-McBrien としての最初のコラボレーションとなったのが "Baby You're Everything" だ。この曲は The Joe Cuba Sextet のために書かれ、彼らによってレコーディングされた。確か 1972-1973 年辺りでの出来事だった。この年まではぼくらが一緒に作曲した唯一の曲だ。ぼくらはちょうど今新しいプロジェクトをプロデュースしていて、ほぼ全ての曲を手掛けていて、それらはレコーディング済みだ。とてもいい出来だよ。


Q7.
Casualeers について教えて下さい。

The Casualeers はぼくのホームタウンでもある Amityville, New Yorkからのコーラスグループだ。正確には 'Friendly Village' という Long Island 出身で、New York City から 40 マイル東の街だ。Arnold Davis、Ollie Johnson、Peppy DuBois と Mike Furr(:中学校のオーケストラでぼくと一緒にドラムを叩いていた)からなるグループだ。 ぼくの生涯の友 Neal Hollander がマネジャーを勤めた完全なホームタウンベンチャーだった。

John Giametta とぼくは、"Dance, Dance, Dance" という曲を書いた。ぼくらはこの曲がとても良くできたと確信していた。後はちゃんとこの曲とマッチするアーティストを捜し出し、録音するだけだと。ぼくらはこの曲を The Casualeers でプロデュースして世に送り出したい旨を Neal に伝え、彼もぼくらのアイデアを気に入ってくれた。Neal は The Casualeers とリハーサルする機会を作ってくれて、ぼくらは希望のアーティストと巡り会えた。

John とぼくがスタジオに入ってレコードをプロデュースできる様、ぼくは友達の The Shangri-Lasで知られる George "Shadow" Morton に資金面で都合をつけてもらえるよう頼んだ。レコードは Roulette Records から発売された。

その同じ年、1967 年に John とぼくはもう2枚のレコードを作曲・プロデュースし The Casualeers と共に制作した。"You Better Be Sure" B/W "Open Your Eyes"、"Come Back To My Arms" B/W "When I'm In Your Arms" の2枚だ。今回は Laurie Records からのリリースだった。Ernie Maresca 氏と仕事ができて幸運だった。

Q7.
Casualeers について教えて下さい。

The Casualeers はぼくのホームタウンでもある Amityville, New Yorkからのコーラスグループだ。正確には 'Friendly Village' という Long Island 出身で、New York City から 40 マイル東の街だ。Arnold Davis、Ollie Johnson、Peppy DuBois と Mike Furr(:中学校のオーケストラでぼくと一緒にドラムを叩いていた)からなるグループだ。 ぼくの生涯の友 Neal Hollander がマネジャーを勤めた完全なホームタウンベンチャーだった。

John Giametta とぼくは、"Dance, Dance, Dance" という曲を書いた。ぼくらはこの曲がとても良くできたと確信していた。後はちゃんとこの曲とマッチするアーティストを捜し出し、録音するだけだと。ぼくらはこの曲を The Casualeers でプロデュースして世に送り出したい旨を Neal に伝え、彼もぼくらのアイデアを気に入ってくれた。Neal は The Casualeers とリハーサルする機会を作ってくれて、ぼくらは希望のアーティストと巡り会えた。

John とぼくがスタジオに入ってレコードをプロデュースできる様、ぼくは友達の The Shangri-Lasで知られる George "Shadow" Morton に資金面で都合をつけてもらえるよう頼んだ。レコードは Roulette Records から発売された。

その同じ年、1967 年に John とぼくはもう2枚のレコードを作曲・プロデュースし The Casualeers と共に制作した。"You Better Be Sure" B/W "Open Your Eyes"、"Come Back To My Arms" B/W "When I'm In Your Arms" の2枚だ。今回は Laurie Records からのリリースだった。Ernie Maresca 氏と仕事ができて幸運だった。


Q8
John Giametta 氏について教えて下さい。

John Giametta は偉大なソングライターであり、ぼくの最初の作曲パートナーだ。ぼくのディスコグラフィからも分かる通り、ぼくたちはたくさんの曲を一緒に書いた。John は同じく、The Valrays、Salt Water Taffy そして The Eastern Scene のメンバーだ。

John とぼくは、100年以来の仲だ。ほんと古くからの友達で The Valrays での早い時期に一緒に U.S. Coast Guard Reserves に加わっ た。もちろん "Buddy Plan" だった。とんだ相棒プランだろ?ぼくが新兵訓練基地に加入した時も John より二ヶ月早く参加したけど、二人とも Coast Guard Band に所属していたから一緒の時期に退役したんだ。

The Valrays として Cameo Records からリリースされたぼくらの最初の2 枚のシングルの作曲・プロデュースは John Linde と Pete Antell だ が、United Artists Records からリリースされた次のシングルにあたる"It Hurts Doesn't It Girl" の作曲・プロデュースは John とぼくだ。そして The Casualeers と Salt Water Taffy でのリリースの全てを一緒にプロデュースした。ほぼ録音された全ての曲だ。




Q9.
アレンジャーの Meco Monardo について教えて頂けますか。

Meco とは、New York City に移り住んで結構すぐに知り合ったんだ。ぼくの友人 Charlie Brockner(Bass Player/Arranger)に紹介してもらったのが最初だった。Meco と Charlie は Eastern School Of Music で一 緒だったんだ。Meco はとてもいかしたトロンボーン奏者で、アレンジャー希望としてこの業界へ入ってきたんだ。そして、ぼくはその頃ソングライターとしてプロデューサーとして成功することに四苦八苦してた。既にいくつかのプロジェクトがあったが、丁度二人とも出だしだったんだ。一緒に作業を始める様になった最初の頃、お金がなくてプロダクションを合併させたりしてた頃に Meco はアレンジメントをぼくのために書いてくれて、トロンボーンなどのダブ処理などをしてくれ、ブラス系のパートを完成させてくれた。The Casualeers の "Dance, Dance, Dance,"、The Valrays の "It Hurts Doesn't It Girl," が本当の意味での最初の仕事だった。ちゃんとお金が二人に支払われた仕事だったという意味で。

Meco は数年間ぼくが選び続けたアレンジャーだった。彼はとても才能のあるアレンジャーで、いくつものぼくの制作物にに素晴らしい貢献をしてくれた。そしていくつかのレコードを一緒にプロデュースした。Kama Sutra レーベルからの Joy による "Next Year (Bashana Habana)"、 Bell Records からの Corky Hale による "More Than You Know" などだ。そしてもちろん、Meco は Gloria Gaynor とたくさんのヒットを生み出し、そして彼自身のインストゥルメンタルヒットである"Star Wars Theme"も生み出した。ぼくは Meco のプロダクションでシンガーとしてもフィーチャーされ、RSO Records からの The Star Wars Christmas Album や、Millennium レーベルからの The Cantina Band による "Summer '81" 等に参加した。


Q10.
The Valrays は、Salt Water Taffy の一部だったのですか。

The Valrays の録音に参加した最後の男性陣は John Giametta、Bob Musac、Phil Giarratano と自分だった。その内の3人がそのまま JanieBrannon と Kathy Butler Weinberg と共に The Salt Water Taffy を結成するに至ったんだ。




Q11.
どうやって、The Salt Water Taffy は結成されたのですか?

他の 60 年代のグループ同様に、The Salt Water Taffy はスタジオグループとして、最初は始まったんだ。どういう意味かというと、参加していたシンガーは全員スタジオのプロのシンガーだったということだ。当時じゃ珍しいことではなく、最初に曲なんかが出来上がっていて、それを歌うためにアーティストを捜し出し、録音するというパターンだ。

John Giametta とぼくが "Finders Keepers" を作曲し、レコードを作成するために Mel という名前のシンガーでプロデュースしプロジェクトを進めた。ごめん、Mel の名字が思い出せないんだ。当時ぼくがオーディオエンジニアとして働いていた Allegro Studios で録音をした。Meco Monardo がアレンジメントで助けてくれて、Artie Kaplan がバンドを招集した。次の日ぼくはその出来た曲を持って、二階を訪ねたんだ(二階がちょうど Allegro と同じで Buddah のオフィスだったんだ。 1650 Broadway ね。)。もちろん、Buddah Records の社長 Neil Bogart に成果を聞いて貰うためだ。Neil は以前から友人で、いつでも彼に評価して貰えたんだ。Neil はとても曲を気に入ってくれたのだが、歌い手を気にいって貰えなかった。彼はぼくに「歌い手を変えろ、急いでリリースしよう」と言っただけだった。

ぼくはスタジオミュージシャンのグループを招集し、再度 "Finders Keepers." を録音した。Tommy PiccardoことTommy West がリードボーカルを勤めた。Neil Bogart が約束してくれた通り、レコードがリリースされた。Buddah でのシングルの業績が良かったため、グループが結成された。John Giametta、Phil Giarratano とぼく、そして、美しい 2 人の女性たちでだ。Janie Brannon は Florida 州 Tallahassee 出身で、 Kathy Butler Weinberg は Oklahoma 州の Pond Creek の出身だ。彼女たちは丁度 New York に出てきたばかりで、The Salt Water Taffy の最初のスターティングメンバーに加わったんだ。



Q12.
The Salt Water Taffy のメンバーについて教えて頂けますか。

The Salt Water Taffy はスタジオグループとして始まり、時と場合によってはスタジオシンガーが様々なレコーディングに加わったが、必ずグループのレコードを作るのに参加したのが、John Giametta、Phil Giarratano、Janie Brannon、Kathy Butler Weinberg とぼく Rod McBrien だ。しかし、The Salt Water Taffy のメンバーは年を重ねる事に移り変わっていき、グループが存続し続けた間に居続けたオリジナルメンバーは、Phil Tano と Kathy Butler の二人だ。一瞬でも The Salt Water Taffy に居た人たちは、Tom Brannon、Sam Dalessio、Sarah Daly、Osa Danem、Terry Stallings、Bobbie Jacobson、Mary Lou Gilbert Scott、Bob Waite そして Al Messenger だ。

Q13.
彼らは今、どうしているのですか。

John Giametta は Long Island に住んでいて、保険のビジネスで成功し、結婚して、二人の子供がいる。もちろん、今でも曲を書いている。Phil Giarratano は Florida 州の Boca Raton で暮らしている。彼は、当時のままの腕で今も歌っていて、曲を書くのに毎日忙しい日々を送っている(The Salt Water Taffy は一つの恋のキッカケとなった。Philと Kathy が結婚したんだ。現在は別れてしまっているけどね)。Janie Brannon は結婚して、Tallahassee に戻ってきて、未だに教会で歌っているよ。Kathy Butler は Oklahoma 州の Pond Creek にティーンエイジャーの娘と戻ってきて、学校で先生をしている。そして、ぼく、Rod McBrien は、未だに音楽を制作している。New York City に住んでいて、自分の会社、Rod McBrien Productions を運営している。オリジナルの音楽を作ることに特化した会社だ。それから、それから....。

Q14.
The Salt Water Taffy はどんなグループにしたかったのですか。

ぼくたちは、自分たちを Fifth Dimension の白人グループ版だと思っていた。どちらのグループにも三人の男性と二人の女性がいたしね。でも、ぼくたちのシングルは全てバブルガムロックだったけど、ぼくらは、ボーカルのアレンジメントにとても気を使っていたんだ。そうなる様に努力してたんだけどね。だから、とても Fifth Dimension とは似てるかなあ

Q15.
The Salt Water Taffy の中でのお気に入りのナンバーを教えて下さい。

"Finders Keepers" だね。あれが全て始まりだったからね。"Finders Keepers" がなかったら The Salt Water Taffy は存在しなかったよ。当時の Buddah Records の社長の Neil Bogart がとても気に入ってくれて、ぼくにグループとレコードを作るチャンスをくれた曲だからね。

Q16.
何故後半、 Buddah Records ではなく、United Artists、Metromedia からリリースされたのですか。

Buddah Records が、ぼくらに興味がなくなって、レーベルから降ろされた時、"Summertime Girl" をぼくが自身のお金でプロデュースして、マスターを United Artists に売ったんだ。でも別に何も起こらなかったから、それらのマスターを返してもらう様に交渉して取り戻し、結果、再度 Metromedia からリリースされたって訳さ。


Q17.
最初の頃の The Salt Water Taffy のリードヴォーカルが最初にレコーディングされたものと変わった様にと聞こえますけど、これは何故ですか。

いい耳をしてるね。最初のレコードの "Finders Keepers" ではニューヨークのスタジオシンガーである Tommy Piccardo が歌っていたんだけど、ちゃんとグループを作って Phil Giarratano がメインで歌うように なったんだ。

Q18.
その後に The Goggles に参加しましたけど、どんな経緯で参加されたのですか。

Audio Fidelity Records の Ed Newmark が土曜日の朝の the Mattel Children's Theater シリーズの番組の為に(The Monkees みたいなショウね。)バンドを丁度作ろうとしていたんだ。それが最終的に The Goggles となったんだけど、そのオーディションで歌って演奏できる人をを探していたんだ。だからギターを演奏して参加したんだ。

そして友達の Reid Whitelaw がこのオーディションの事を聞いて、僕のためにオーディションをアレンジしてくれたんだ。それに僕は合格して友達の David Spinozza も引き込んで、役者の Jessica Harper と Mark Lockhart を入れてグループにしたんだ。Guy Fraumeni のプロデュースで Audio Fidelity に一時間番組用のシングルとアルバムを一枚レコーディングした。番組は約束通りにNBC でオンエアされて、これが毎週の番組として取り上げてくれる事を願ったんだけどダメだった。でも The Goggles の曲は "Take A Giant Step" という番組で毎週土曜日の朝に放送され続けた。


Q19.
Joy についてはどう思っていましたか?

繰り返しになるけど、Joy もまたニューヨークでは一番のミュージシャンとシンガーのスタジオグループに所属していた。それはどんな風に始まったかというと、ニューヨークのエリアでイスラエルの旅行会社のとってもキャッチーな "Bashana Habana" という、ニューヨークの人なら誰でも知ってて口ずさむ広告曲が有ったんだ。だれのアイデアかは忘れたけど Meco Monardo と僕で一晩で詩を書き上げてレコーディングしたんだ。元曲はイスラエルで録音されたと思うんだけど、僕達のヴァージョンはホントにコマーシャルのにそっくりだった。レコーディングしてすぐに Kama Sutra Records と契約してリリースした、その曲は成功したけどグループをつなぎ止めるだけの成功はしなかった、だから写真すら残ってないんだ。
.

Q20.1972 年から 1975年の Liquid Smoke と Dottie West にクレジットが出て来るまで、音楽の最前線で名前を見なくなってしまったのですけど、その間は何をしていたのですか?

なんか、僕が雲隠れでもしてたみたいな風じゃない?
1972年から1975 年の間に Coca-Cola、Miller Beer、Exxon そして Buick(車メーカー)なんかの広告用の音楽の作曲とプロデュースを積極的にやっていた。1973年には Estelle Levitt の "Isn't It Lonely Together" で Annua American Song Festival を獲得したし、RCA に Stark & McBrien としてこの頃に録音をした(ディスコグラフィ見てね)。
Q21.
それから、今までの仕事を教えて下さい。

今でも広告音楽を積極的にやっている。出来れば、新年の Fiesta Bowl Championship でショウをやりたいと思っている。Ted Daryll と一緒にやっている、美人で若い Okko Saito という日系アメリカンシンガーとのプロジェクトに夢中になってる所だ。どう?こういうのもいい感じでしょ?そして今、一番大きな進行中のプロジェクトは The World War II Tribute Album だ、このアルバムは戦争に当時の曲を今のアーティストがパフォーマンスするという企画のアルバムで 2004 年の the WWII Memorial に合わせるように調整中なんだ。

"Light A Candle, Say A Prayer" という曲も丁度書いたんだ、僕らの国に対しての攻撃に影響されて、特に数週間前に目撃したあの日の事を。友達の Darryl Tookes とそれをレコーディングしてアメリカ国内でリリースしようとしているんだ。

Q22.
今まで振り返って好きなアーティスト、影響を受けたアーティストをおしえてください。

僕は今まで自分が聞いた全ての音楽に少なからず影響を受けてきていると思っている。コンテンポラリー・ライターは全てそうだとぼくは思っている。常に "フレッシュ" で "新しく"、"異なる" 様に挑戦していきたいし、そう有りたいと考えている。実際今はそうだし。でもある一定の境界線は越えていないけどね。それを越えない様にしているんだ。例えば、今のチャートのトップを賑わせている女の子たちの音楽を聞いてみると、どれも似たように聞こえない?つまりライター、プロデューサーとして少なからずぼくも聞いた物の全てから影響を受けているんだよ。

Q23.最後にもう一つ質問です。あなたが "After School" という映画に関わっているらしいのですが、いかがでしょう?
他にも関わっている映画はありますか?

凄いね!どこからこの映画の事を探して来たの?長い間隠そうとしてきていたんだけど、聞かれたからには...。

ソングライターでプロデューサーの John Linde と僕が数年前に脚本を書くのを手伝ったんだ。殆どの名前は忘れてしまったけど、僕らは他にも何本か書いたよ。"Rockstar and The Brooklyn Dodger" というのは上手くいったんだ、まだ製作はされていないけど、注目を集めているよ、期待して待っていてよ。

ぼくたちが脚本書きにハマっていた頃にフロリダから来た映画の製作に興味を持っていた紳士を、共通の友人だったプロデューサーの Ross Testagrossa を通じて紹介されたんだ。フロリダの紳士はアイデアを持っていてそれを脚本として書かせる為に僕らを雇ったんだ。僕らは脚本の技術を得る為の良い機会だと思ったし、お金も貰えるはずだったので引き受けたんだよ。その話は元々 "Before God" というタイトルで酷いものだったよ。でもジョンと僕は出来る限りの事をやったよ、あの状況からしたら素晴らしい脚本が出来たと思っているよ。

その脚本は僕らの手を離れてから大きく変わっていった、僕達にはその脚本の映画作成に対してのクリエイティヴな権限は無かったし、実際の所は誰にもコントロールの権利なんて無かったから。確か最初は"Return to Eden" というタイトルだったのに"After School" に代えられていた。ほんとに腹立たしい映画だよ、これを見るのは時間の無駄だよ。フロリダの紳士はイカサマ師だったよ、僕達にスクリーンのクレジットにのせてくれたけど、役立たずだったし、お金もくれなかったし。
君がこの映画について触れなかったら、絶対にこのインタビューでは取り上げたくなかった話題だよ。ったく腹立たしい!!

映画音楽は幾つか書いたしプロデュースもした、 Kevin Kline, Susan Sarandon、Danny Aiello and Harvey Keitel が出演した"The January Man," や Sherman Hemsley、Burt Young、Judy Landers and Karen Black の "Club Fed" や Audrey Landers and Jerry Orbach の"California Casanova" の音楽なんかを手掛けたな。


インタビュー:佐野 邦彦(Kunihiko Sano/VANDA)
英訳・和訳・意訳:岩井 信 (Shin Iwai), 福原 努 (Tsutomu Fukuhara)



1999年7月22日木曜日

Brian Wilson インタビュー(1999年7月11日)

 ビーチボーイズ(The Beach Boys)のブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)へ1999年7月11日の来日時、帝国ホテルにてインタービューを敢行した。

 新曲中心のアルバムとしては88年の『Brian Wilson』から10年、実質上のセカンド・ソロ・アルバム『Imagination』が昨年に発売されたのは記憶に新しい。間に『Sweet Insanity』という幻のアルバムがあったものの、およそ10年サイクルでしかフル・アルバムを発表できなかったブライアンが、まさかソロ・ツアーを やるなど思いもしなかった。そのソロ・ツアーが実際にアメリカで行われたと聞いても、それはスペシャル・イベントで続かないだろう、ましてや日本に来るな んて想像もしなかったが、日本公演が発表となり、にわかに騒然となった。
 Web VANDAのBBSも以降、ブライアン来日の書き込み一色になる。ああ、こんなに多くの人が待っていたんだと嬉しく思って見ていたが、本当に来るんだろう か、ドタキャンもあるのではと、一抹の不安を抱えて「その日」を待っていた。
     

 そんな中、来日発表の時からバーン・コーポレーションの椎名さんには、『Beach Boys Complete』の改訂版用にブライアンのインタビューが取れないかと頼んでいた。椎名さんよりBMGへ話が行き、BMG側は基本的にOKとのこと、あとはブライアン次第ということになる。
 そして来日の2週間前、招聘先とブライアン側とのミーティングで結論が出るということになり、遂にブライアン側の OKのサインが出る。やった!と喜んだものの、インタビューは15分という制限が付いたため、もうこうなっては、枝葉末節なことでも聞きたいことを聞いてしまおうと、全体の流れをある程度無視して質問を13問に削る。通訳はWebVANDAのShinnieこと岩井さん、質問事項をメールして英訳を頼み、いよいよインタビューの7月11日がやってきた雨まじりの日曜日、BMGの人との待ち合わせの1時間前の11時半に、私と岩井さん、椎名さんで集まり、簡単なミーティングをする。そして滞在するホテルへ向かうと、少しロビーで待たされたあと、ブライアンの滞在する部屋の前まで案内される。

 ここで打ち合わせなどワンクッションと思いきや、「どうぞブライアンが待っていますので」いきなり部屋の中へ通されてしまう。「えーそりゃないよ、心の準備っていうものが」と心の中でつぶやきながら部屋に入ると、いきなりソファに座ったブライアンの姿が目に飛び込んできた。
 圧倒的な存在感。オーラを発しているかのようだ。ブライアンは視線を机の上に落とし、その表情は堅い。上はアロハでリラックスした格好だったが、いかにも神経質そうで、緊張が走る。スタッフに声をかけられ、ブライアンはやっと我々を見た。
 あわてて握手をするが、ブライアンは手を添えただけで力はまったく伝わらず、温かい手の温もりだけが感触として残った。
 岩井さんが我々を紹介するが、私のところでにこやかにほほ笑んだ長身の男性が握手にやってきた。デビッド・リーフ、『Good Vibrations Box』の解説を書いたり、『The Beach Boys』という本も書いた、有名な音楽ライターだ。『The Beach Boys Complete』を見てとても気に入ってもらえたようで、私がそのライターということで、挨拶にきてくれたのだ。ブライアンも『The Beach Boys Complete』をペラペラめくり、66年の日本公演の写真を興味深げに眺め、ひとこと"Good"そしてインタビューが始まる。
 ここからの話は『Beach Boys Complete』の改訂版をご覧いただきたい。 ブライアンは始終無表情ながら、質問には必ず答えてくれた。カート・ベッチャーの事を聞いた時には、カート関連の曲をずっと集めている私が知らない曲をブライアンは歌い出した。また作曲方法について聞いた時も「Back Home」「California Girls」の一節を歌うなど、かなり誠実に答えてくれたのだと思う。ビーチボーイズに影響を受けたミュージシャンとして「カート・ベッチャー、アソシエイション、そしてフォー・シーズンズ」(あえて入れてみたのだが)と聞いたら、ブライアンは目を向いて「フォー・シーズンズだって?」。やばいと思ったそのとたん岩井さんが「いや、カート・ベッチャーとアソシエイションです」と言い直し、事なきを得た事もあった。ブライアンは途中で水を飲んでいたが、そのグラスを持つ手は細かく震えており、体調は万全ではないようだった。
 インタビューが終わり、向こうの方から記念撮影はどうとアプローチしてくれる。その際ブライアンは我々の肩にすっと手を回してくれたが、これには驚いた。


 そしてみんな手持ちのCD(雨が降っていたのでLPを持ってきた人はいない)にサインをしてもらったが、私が日本のみの企画の『The Beach Boys Single Collection』、これは自分がシングル・ヴァージョンのマスター探しに奔走したものなので記念にと思って出すと、デビッドがすっと来て、そのボックスを手に取って中身を出してマネージャーとしばらく話をしていたのが印象的だった。
 最後に江村さんからもらったEMレコードのCDを4枚持っていき、ブライアンにこのCDはすべてトニー・リヴァースのワークス(ブライアンとトニーはイギリスのコンベンションで会ったことがある)だと言って渡すと、はじめて嬉しそうに笑顔を見せた。やはりブライアンが関心があるのは音楽なんだなと、納得のリアクションだった。

 
 その後ブライアンはサングラスをかけ、メリンダ、デビッド、あとマネージャーなどと連れ立って部屋を出ていった。行く先はHMV数寄屋橋店でのサイン会。 BMGの人に誘われ、我々もHMVでのサイン会を見ていくことにする。
 椎名さんはブライアン側のフラッシュ禁止という条件での暗い室内で高感度フィルム撮影に不安があったので、フィルムを買って撮影再チャレンジとなる。

 HMVではすでに人垣が何重にもできていた。そして抽選で当たったサインをもらえる50人が並んでいる。そしてブライアン登場。大変な歓声だ。机にはマイクが並べられていたのでブライアンは挨拶でもするのかなと思ったが、椅子に座ったブライアンは通訳に一言。「ではもうサインを始めましょう」と、すぐにサイン会が始まる。
 『Pet Sounds』や『Good Vibrations』のボックス、『Pet Sounds』『Imagination』のジャケットが多かったが、『Surfin' Safari』や『Stack-O-Tracks』を持ってくる人もいる。デビッドが何度もブライアンに耳打ちして、ブライアンの後ろでスタッフが打ち合わせを始めた。この隙に、『Pet Sounds』と『Good Vibrations』のボックスを裏表に組み合わせた知能犯が表にサインをもらうとすぐに裏返しにしてもうひとつサインをもらう。さらにスタッフが目を離していることをいいことにカバンからパンフレットを出して都合4つもサインをもらっていった。ブライアンも嫌そうにまだやるのみたいな顔をしていたが、いったいこの図々しい奴は誰だったのだろう。そして主催者から、ブライアンの好意でここにいるすべての人にブライアンが握手をしたいと、突如握手会に変わる。見に来ていた人はラッキー。
 こうしてHMVでの取材は終わり、私はデビッドに『Beach Boys Complete』を送る約束をして、会場を後にした。インタビュー、サイン会という実務での中心は明らかにデビッドで、インタビューでは「そうだねブライアン」と何度も声をかけていたし、サイン会で繰り返された耳打ちなど、デビッドの指示と助言でブライアンが動いていたのはほぼ間違いないだろう。

 翌12日は、東京での初日である。9日の大阪公演は大いに盛り上がったそうで、ブライアンは日本が一番僕を歓迎してくれていると始終上機嫌だったと、昨日呼び屋さんから聞いていた。これは当然、東京も盛り上がらないと。自分の席は真ん中の8列目と絶好のロケーションで、これはいい。よく見ると斜め前は萩原健太さん。
 まずは15分程度の自伝風の映画が上映され、気分がゆったりと落ち着いていく。そして映画が終わると同時に「The Little Girl I Once Knew」のイントロ。ブライアンの姿に大歓声が起こった。もちろん総立ち、夢に見たこの一瞬がやってきたと、心は躍る。ファルセットのリードを全面的に担当したジェフリー・フォスケット、そしてワンダーミンツのハーモニーは完璧で、今までみた過去2回のビーチ・ボーイズのライブでのハーモニーなど比較にもならないクオリティだ。
 2曲目の「This Whole World」では途中のアカペラがレコードと同じに再現され、これも嬉しい。ブライアンはマイクのパートを基本的に歌う。中音域でふらつく時があるが、これだけの長丁場を、大きな声で歌い続けることができたのは、以前では考えられない復活ぶりだ。歌詞はキーボードの前の2つのプロンプターで密かに写しだされているので間違うことはない。「Don't Worry Baby」「Kiss Me Baby」「In My Room」「Surfer Girl」と素晴らしいバラードが続き、ここではみんな座って聴いていたが、「California Girls」から再び立ち上がり、ビートの効いた「Do It Again」で大いに盛り上がる。「I Get Around」では観客が正確にレコードと同じハンドクラップをしていて、みんなにわかファンじゃないことが伝わってくる。「Let's Go Away For Awhile」「Pet Sounds」とブライアン抜きのインストもなかなか良く、演奏力もかなりのものだった。
 途中15分の休憩が入って「Wouldn't It Be Nice」からスタート。このキーでの入り方は今のブライアンには難しいようで、出だしは怪しかったが、コーラスが始まると一気にレコードと同じハーモニーに包まれていく。「Sloop John B」でも途中のアカペラ・パートがきちんと再現され、ファンを喜ばせた。そして「Darlin'」。ブライアンがこの名曲を歌うということでさらに盛り上がる。そして今名盤として再評価が最も高まっている『Sunflower』、このアルバムは私がビーチ・ボーイズを聴き始めた時の最新盤でこのアルバムによってビーチ・ボーイズの虜になっていた恩人のようなレコードだが、この中から「Add Some Music To Your Day」を披露(そのかわりに「This Could Be The Night」は外れた)してくれた。ゆったりとして暖かいハーモニーに聴き惚れたのは私だけではあるまい。ブライアンがリードを取る「God Only Knows」は、聴く人間を敬虔な気持ちにさせる力がある。名曲とは正にこういうものだ。「Good Vibrations」はレコードと寸分違わずに演奏し、ビーチ・ボーイズでの観客に歌わせるヴァージョンとは違って新鮮だった。そして「Help Me Rhonda」でさらに盛り上がる。
 アンコールは2回あり、1回目は「Caroline No」から始まり「Fun Fun Fun」まで4曲続くが、ベストは「All Summer Long」。その陽気な雰囲気とポジティブな歌声は、それまでのブライアンには感じられなかったもので、私の回りでもベスト・ナンバーという人が多い名演だ。そして2回目は弾き語りで「Love And Mercy」。ブライアンの歌声には表情があり、感動的なエンディングだった。
 このコンサートでは他に「Your Imagination」「Lay Down Burden」「South American」と3曲のソロでのナンバーがあるが、どれもブライアンの歌声は文句なしだった。それは自分が今、歌えるキーで曲を作っているからであって、ブライアンは今を生きるミュージシャンなんだということを実感させてくれる。確かにブライアンの音程は不安定なことがあるし、ぶっきらぼうな歌い方をする。そこのあたりを批判する人もいるが、ブライアンに何を望んでいるのだろう。
 私のような長年、ブライアンを見守ってきたファンにとっては、新曲を出すことから始まって、ここまで人前で歌えるようになっただけでも嬉しいのに、ワンダーミンツらの好サポートでレコードと同じハーモニー、サウンドがステージで再現されたことで十分満足だった。

 14日にもコンサートに行ったが、すべてにぐっとよくなっていた。ブライアン自身も余裕が出て来ているようで、途中で「東京読売巨人軍」のハッピを来て登場し、「Tokyo Giants」のMCに大喝采のシーンもあった。
 全日行った萩原さんは「どんどん良くなっている。今日が最高じゃない」と言っていたが、その言葉を裏付けるように、閉演後に行ったバック・ステージでは、萩原さんはダリアンに今日はニューヨークと並んで最高のコンサートだったと言われたそうだ。ブライアンとメリンダ、デビッドはすぐに部屋から出てしまってホテルへ帰っていってしまったが、残ったワンダーミンツとジェフリーを囲んで、何度も記念撮影が行われていた。 

 こうしてブライアンのソロ・ツアーはあっという間に終わってしまった。ブライアンの口から聞いたところでは、次は「ロックンロール・アルバム」だとか「アンディ・パレイ・セッション」、さらに「ライブと新曲」という3種のアルバムが企画に上がっているようだ。 リプリーズ/カリブのリイシューも年内に予定されている。
 ポジティブになったブライアンが再び日本に来ることも夢ではないだろう。マイクとブルースらと共にのビーチ・ボーイズとしての活動にも期待したい。

(佐野邦彦)