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2026年6月2日火曜日

回り出す絵、回り続ける音― Pet Sounds 60周年、 Zoetrope を選んだわけ

  2026年5月11日、Hollywood の名物、円塔状の Capitol Tower の頂きに、"Pet Sounds" と染め抜かれた一旒の旗が、五月の空に颯爽と翻っていた。塔の下では、ジャケットの緑と黄を敬意をこめてあしらった記念ケーキがシャンパンとともにふるまわれ、Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston が、新たに認定されたダブル・プラチナのプラークを UMe 会長 Bruce Resnikoff から受け取った。三人の Wilson 兄弟――Brian、Carl、Dennis――はもうそこにいない。代わりに、それぞれの遺族が祝杯をあげていた。兄弟は逝き、しかしその音はなお生きている。60年という歳月が、それを静かに証している。

 
Capitolリリースによるリール動画
今回のセレモニーの一部が見られる
Pet Sounds ケーキやクッキーも紹介されている

   

Carnie WilsonのFacebookリール動画
今回のセレモニーにも供されたPet Soundsクッキーの紹介
Los AngelesのSweet E's Bake Shop製とのこと

  1966年5月16日にリリースされた本作は、当時米国では冷ややかに迎えられ、Billboard のアルバム・チャートで最高10位にとどまった。RIAA のゴールド認定にいたっては、なんと2000年まで待たされている。要するに、世間がこれを傑作と気づくのに34年かかったということだ。

 もっとも、その34年のあいだに気づいた人々はいた。Paul McCartney は「Pet Sounds を聴いてないやつなんているのかい? そりゃ音楽の素養が抜けてるってことだよ」とまで言い、George Martin は「Pet Sounds なくして Sgt. Pepper は生まれなかった」と認めている。The Beatles の頭脳が二人がかりで脱帽しているのに、世間はヒットチャート10位程度の記憶で止まっていた、というわけだ。その60周年を、Capitol/UMe は複数のヴァイナル・エディションで迎えた。

まず、音にうるさい御仁が真っ先に手を伸ばすであろう本命が二種。

 Vinylphyle Edition(2LP)は、LP1 に1966年のモノ、LP2 に Brian Wilson 監修・Mark Linett による1996年ステレオ・ミックスを収める。Sterling Sound の Joe Nino-Hernes がアナログ・テープからカットし、RTI が180g 盤にプレス。初回3,000枚、厚紙にプリント紙を貼り合わせた、当時の LP のような重厚な見開きジャケット。これに4面の冊子と Howie Edelson の新規ライナーが付く。
 この Vinylphyle がモノと1996年ステレオを一枚ずつ収めているのも、いかにもこの企画らしい配慮である。同じアルバムでありながら、1966年のモノと、Brian Wilson 監修のもと Mark Linett が1996年に手がけたステレオとでは、音像の置きどころも、声の溶け合い方も微妙に異なる。とりわけ God Only Knows の終結部のように、幾重にも重ねられたコーラスが渦を巻く箇所では、その差はちょっとした聴きどころになる。どちらが正解ということではない。一枚の傑作が二つの姿で並んでいる――そう思って聴き比べるのが、この二枚組の楽しみ方だろう。
 一方、その上をさらに行こうとするのが Definitive Sound Series(1LP、6,000枚個別ナンバリング)である。メッキ工程を省く One Step 方式を用い、Bernie Grundman Mastering の Chris Bellman がカット、Neotech VR900 D2 の180g 盤にプレスし、一枚ごとに製造工程を記した認証書まで付く。だが、この盤の白眉は音源にまつわる物語のほうだ。Pet Sounds には世界に四百近いプレス違いが存在し、どれが最良の音かはコレクターの間で長らく語り草だった。
 なかでも別格とされてきたのが、1970年代初頭に Brother Records から出た一枚――新作の Carl and the Passions『So Tough』との2枚組として、1972年に世に出たプレスである。当時 The Beach Boys は Capitol との和解で、1965年以降の旧譜の版権を10年間取り戻していた。Pet Sounds をはじめとする Capitol 時代の名盤を、Brother/Reprise が改めて市場に出せる立場になったのである。その第一弾の再発が、なぜか新作 So Tough との抱き合わせだった。続けて1974年には Friends と Smiley Smile、Wild Honey と 20/20 と、Capitol 旧譜を二枚一組で立て続けに再発していく。Pet Sounds はその一連の Capitol 旧譜再発の最初の弾として、たまたまあの透明な音質で世に出たのだった。

 Mike Love は後年、この抱き合わせを「バンドの新生戦略を台無しにする思いつきだった」と苦々しく振り返っている。もっとも、その新生戦略そのものも、わずか二年後に皮肉な形でひっくり返される。1974年、Capitol が古いヒット曲を集めて出した編集盤 Endless Summer が、なんと全米一位、155週チャート滞在、三百万枚突破の大爆発。Brother/Reprise で革新的な新作を作るより、Capitol の再発ベスト盤の方がはるかに儲かる、という皮肉な現実が突きつけられた。あれほど抱き合わせを罵った当の Capitol 作品群が、いまやバンドの皮肉な救世主に化けたのである。売れる、と分かった途端、罵詈雑言は感謝の辞に化ける――業界とはそういう場所だ。

 制作チームは資料を漁るうち、「Reprise Master」と記された一本のアナログ・テープを掘り当てた。Brother Records 作品を配給していたのが Reprise だった、その符牒であるという。Chris Bellman が照合すると、収録時間もカタログ番号もぴたりと一致した。DSS チームによれば、半世紀ものあいだ、ほとんど誰の耳にも触れぬまま眠っていた、あの伝説のプレスの大元のテープだという。それを起こした、コレクター垂涎の一枚である。

 制作の舞台裏に興味が向く向きには、Pet Sounds Sessions Highlights(2CD / 2LP、黒盤と white/green splatter の二種)。1997年の4枚組ボックス『The Pet Sounds Sessions』から、25曲のオルタネイト・テイク、ア・カペラ、トラッキング・セッションを抜き、そのすべてをヴァイナル初収録した。Howie Edelson による新規ライナーと詳細なセッショノグラフィが付く。

 そして Zoetrope vinyl(1LP)。ターンテーブルの上で回転させると、盤面の絵が「動いて見える」picture disc である。ジャケットにも一工夫あって、あの子ヤギたちの部分だけ、印刷の質感がほかと違っている。収録はモノ・ミックス。先の本命二種とは別系統の音源と思しく、音質を競う盤ではないが、Brian が選んだ「モノ」という姿勢そのものは保たれている。

 真空管プリアンプを灯し、往時のオンボロ大衆機プレーヤーをだましだまし動かしては、古い盤の音を楽しんできたのが筆者である。読者の多くは、そんな筆者が買うのは Vinylphyle か DSS のいずれかだろう、と予想されていたに違いない。お察しの通り、と言いたいところだが、今回ばかりは予想を裏切ることになる。筆者が取り寄せたのは、よりによって picture disc――盤を回せば絵が動き出すという、あの色物の Zoetrope vinyl だったのである。もっとも、収められているのはモノ・ミックス。色物の見た目に反して、Brian がこのアルバムに与えた「モノで聴かせる」という根本の姿勢だけは、ちゃんと押さえてある。
 だが、ここで一度立ち止まる。そもそも Pet Sounds は、整った modern jazz を静謐なオーディオ・ルームで味わうように、180g 重量盤を高級カートリッジで丁重にトレースして聴くべきレコードなのだろうか。否、である。これは1966年の米国の十代が、安物のポータブル・プレーヤーにセラミック・カートリッジを載せ、針圧などお構いなしにガンガン鳴らして聴いた音楽だ。ハイ出力のセラミック型が中域を前へ押し出す、あの少々歪んで、しかし生々しい音――そこでこそ、このアルバムに封じ込められた若者の屈折した情念の塊が、むき出しのまま絞り出されてくる。それが本筋の聴き方だった。高音質を謳う精緻なリマスター盤は、その情念をいったん澄んだガラスの向こうに整理し直してしまう。美しいが、Pet Sounds が本来鳴っていた場所からは、ほんの少しだけ遠い。
 だからこそ、なのである。Zoetrope vinyl は、音質の純度を競う土俵から最初に降りている。針が落ちた瞬間に絵が回り、音と視覚が回転の上で一致する――その玩具じみた仕掛けは、高級機の前に正座して拝聴するのではなく、十代がレコードを一個の物として面白がり、夢中で回した、あの聴き方の記憶に近い。今回ばかりは、音の純度ではなく、回り続ける物体としての体験を、そして情念がまだ整理される前の生々しさを、選んだのである。
盤は、まもなく届いた。


 Zoetrope 盤のジャケットは、あの子ヤギたちの部分だけ、ほかと違う質感に仕上げてある。撫でてみると、ヤギの背中だけが指の腹にざらりと立ち上がってくる、その手の凝りようだ。

Carl Brianあたりのヤギたちの質感が少し違う

 内袋から円盤を抜き、明かりにかざしてみる。盤面には、はっきりと幾つもの像が刻みつけられている。「Sloop John B」のプロモーション映像のグループの姿、「Good Vibrations」の有名な映像で見た作業中の Brian、レコーディング中の Dennis、同じく Mike――The Beach Boys 史の名場面が、円盤の一枚にぐるりと並んでいるのである。盤を裏返せば、こちらは一転して文字の意匠で、Pet Sounds の四文字が一面びっしりと敷き詰められている。儀式めいた手つきで、筆者は表を上にして、それをターンテーブルに載せた。



 33回転。盤は回り始める。途端、緑をベースに、名場面の色という色がそれぞれに混じり合って、目の前で渦を巻きはじめた――これはこれで一個の抽象画として美しいのだが、肝心の絵は像を結ばない。当然だった。zoetrope の像は素眼では決して立ち上がらない。少しずつ異なる絵が次々と目の前を過ぎ、残像が互いに重なって、色の渦に溶けてしまうからだ。本物の zoetrope は、回転する筒の壁に細いスリットを切ってあって、覗き穴がそのスリットを通る一瞬だけ絵を見せ、あいだは闇に隠す。そうやって連続を細切れに分けることで初めて、絵は動き出す。盤面に絵を刻んだこの picture disc も理屈は同じで、回転に同期した「途切れ」がなければ、絵は像を結ばない。古典的な解は暗室でストロボを焚くこと。だが、もっと手軽な解が現代にはある。筆者は微笑しながらスマホを取り出した。真空管プリの灯を背に、スマホを動画撮影モードに切り替え、画面越しに盤面を覗き込む。スマホの画面は、毎秒およそ30フレームの早さで更新されていく。一枚一枚のフレームが、回転する盤の異なる瞬間を切り取り、画面上で連続再生される――それはまさに、回転筒のスリットを覗き込むのと同じ仕掛けである。シャッターが回転を細かく刻んだ瞬間、画面の中で、静止していたはずの像がぬるりと動き出した。セラミック・カートリッジで若者の情念を絞り出してきたはずの男が、磨き上げた機材ではなく、手のひらの板きれ越しに、レコードの上で踊る絵を覗き込んでいる。
これはこれで、悪くない儀式だった。

 

  回転する盤の上で、当時の声がよみがえる。この60周年に合わせ、いまも歌い続けるメンバーたちが当時を語った記事がいくつも出ている。なかでも米 Variety 誌や AP 通信(いずれも2026年5月)は、記念式典の前後に Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston へ取材し、Pet Sounds をめぐる証言を引き出していた。取材中、Al Jardine は Hollywood のランドマークの上階の窓の外をカモメが舞っているのに目をとめ、太平洋までがこのアルバムを祝福しているようだ、と笑ったという。そして Al Jardine は、「Sloop John B」誕生のくだりをこう語っている。バンドを始めた頃から、自分はフォークソングをやりたかった――と。もっとも、その願いはなかなか叶わなかった。そもそも The Beach Boys がサーフィンの歌で売り出したのは、サーファーだった Dennis Wilson のひと声がきっかけだったという。自分たちはサーフィンをやっているのだから、その歌を作ればいい、と。それがそのままバンドの看板となり、フォークの出番はずっと後回しにされてきた。それでも Al は諦めず、もとは "The Wreck of the John B" と呼ばれていたこの曲を Brian に持ちかけ、「コードをひとつ足そう、ハーモニーを広げられる、このフォークソングを The Beach Boys の曲にできる」と説いた、と。そして、1958年にこの曲を吹き込んだ Kingston Trio を自レーベルに抱えていた Capitol Records に感謝する、とも言い添えた。それがこの好機を与えてくれたのだ、と。
 Al が言う「コードをひとつ足す」とは、控えめな言い方である。その実、半世紀以上にわたって語り継がれてきた逸話は、もう少し具体的だ。フォーク好きの Al が、ピアノに向かう Brian に Kingston Trio 版を弾いてみせたところ、Brian は「Kingston Trio は得意じゃない」とにべもなかった。それでも諦めず、Al は原曲のままでは「通用しない」と見た。三つの和音だけで素朴に進むフォークの、サブドミナント(IV)からトニック(I)へ明るく戻る、その素直な解決の途中に、Al は二度の短和音(ii)をひとつ滑り込ませた。長調の中に、半瞬だけ短調が翳る。IV → I という単純な往復を、IV → ii → I という三角形の寄り道へと変えたのだ。たったそれだけの工夫で、平板だった折り返しに「ふっ」とした陰影が生まれ、ヴォーカルがコーラスを広げる余地ができた。あの「I wanna go home...」を支える独特の哀切は、この一つの ii から始まっている――そう The Beach Boys 流に組み替えてみせ、翌日には Brian がスタジオへ呼んでいた、というのが Al 自身の証言であり、ライナーノーツにも刻まれた定説である。素朴な海の歌が、わずか一日で、あの緻密なポップ・コーラスの傑作に化けたのである。
 その Brian の凄みは、Mike Love の有名な皮肉に裏返って残されている。完成途中の音を聴かされた Mike が、こんなものは誰の耳に届くんだ、と Brian に向かって言ったというのである――「犬の耳にでも届くのか?(The ears of a dog?)」と。バンド内随一の売れ線派だった Mike にとって、Brian が踏み出したこの内省的で実験的な領域は、売れる The Beach Boys の方程式から外れた危なっかしい寄り道に見えていた。だからこその「犬の耳か?」だったわけだが、揚げ足取りのつもりだったろうこの一言を、Brian はかえって気に入ってしまう。録音の幕切れには、Brian の愛犬 Bananaと Louieの吠える声が、過ぎゆく汽笛とともに忍ばせてある。アルバム名は Pet Sounds――ペットの音、と決まった。もっとも、誰がこの題を発案したかは諸説あって、Brian は「Mike のあの皮肉が着想源だった」と語り、当の Mike は「犬が吠えていたから自分が『Pet Sounds と呼ぼう』と言ったのだ」と譲らない。どちらが正しいかは、もう確かめようがない。確かなのは、犬の声と一枚の名盤が、互いに名を貸し合っていたという事実だけである。以来 Mike は Brian を「Dog Ears」――犬の耳――と呼ぶようになった。他の人間には聴き取れぬものまで録音から拾い、ついでにメンバーの不純な思考まで聴き分けてしまう、というわけだ。ついでに Mike は、当時のスタジオでの Brian を「Stalin of the Studio(スタジオのスターリン)」とも呼んでいたと、後年笑いながら振り返っている。完璧主義の独裁者、ということなのだろう。商売の物差しで毒づいた男と、その物差しに収まらぬ耳をもった男――皮肉が逆向きに刺さってアルバムの題になったのだから、世の中、わからないものである。
アルバムの商業的失敗は、Brian に深い影を落とした。Mike Love は振り返る――あれほど多くを注ぎ込み、あれほど力を尽くしたのだから、Capitol Records のあの冷淡な扱いに、彼が打ちのめされなかったはずがない、と。

 Bruce Johnston の加入経緯は、本人の口にかかるとあっけないほど身も蓋もない。「僕は Columbia Records の A&R マンだった。Mike が電話してきたのは、業界の人間を一通り知っていたからだ」。レコード会社の内側で新人を発掘し、プロデュース・アレンジ・契約を取りまとめてきた男――その業界知識ごとバンドに呼ばれた、というわけだ。1965年加入の彼は、Pet Sounds 録音のほんの少し前に合流したばかりで、60年後のいまもなお「新参者」と冗談半分にからかわれる。六十年経って「新参者」――こうなるともう、終身名誉新参者と呼んでさしあげるべきだろう。とはいえその「新参者」は、全13曲からなる Pet Sounds のうち、6曲ほどでバッキング・ヴォーカルに加わっていたとされる。ゴールド認定が2000年まで遅れた理由を問われると、Bruce は元 A&R マンの顔に戻った。Capitol がつけたと言っていた宣伝予算は、Pet Sounds ではなく別のところに流れていたのだ――そう皮肉まじりに種明かしをしてみせる。今でこそ「Pet Sounds は名盤」と讃えているが、内側ではドル箱の別の盤に予算をつぎ込んでいた、業界の二枚舌。商売とは、つまりそういうものなのだ、と。A&R マン時代に、レーベルがどう数字を粉飾し、どう旧譜を黙殺し、どの口実でプロモ予算を新譜の弾に付け替えるか、ラジオを回すための袖の下――いわゆるペイオラ――が誰の懐にどう流れるか、そのえげつない裏側を散々見せられてきた男の言葉だけに、説得力がある。
もっとも RIAA の記録をたどると、真相はもう少し間が抜けていて、そのぶん可笑しい。そもそも RIAA は、レーベルが全出荷記録を添えて正式に申請しないかぎり、指一本動かさない。ところが Capitol は、肝心のその書類をどこかへやってしまっていた。数年越しでようやく申請にこぎ着けたかと思えば、出荷履歴を掘り起こせずに取り下げる始末。結局2000年、直近15年分の数字だけをかき集めて、ようやく再申請に漕ぎつけた。逆算すれば、この不朽の名盤は34年かけて50万
枚――年に1万5千枚ずつ、つまり一日およそ40枚という、実に慎ましいペースでゴールドに到達したことになる。同じ2000年2月、R&B 歌手 Angie Stone(2025年に他界)のデビュー作 Black Diamond は、発売わずか4か月でゴールドに認定されていた。同じ月の認定リストに、片や4か月、片や34年。だが、この不思議な数字は統計のいたずらに過ぎない。RIAA が数えるのはレコード会社から店舗へ「出荷」された枚数で、客がレジでいくら買ったかは映らない仕組みになっているからだ。一方、Billboard 誌のチャート集計元として知られる SoundScan という別の追跡会社は、1991年から全米の小売店のレジ・バーコードをスキャンして、実際にレジを通った枚数を数えてきた。その数字をひもとくと、Pet Sounds は1991年からの九年間だけで21万枚も売れていた。要するにこの傑作は、売れていなかったのではない。誰かの机の引き出しの奥で、自分を証明する一枚の書類が見つかるのを、34年間ただ黙って待っていたのである。

 60年が過ぎた。針を落とせば、肉眼には見えぬ絵が盤の上で回り出し、回転の中から Wouldn't It Be Nice の最初の一音が立ち上がるなんて、とっても素敵なことじゃないか?。Brian の耳だけが聴いていた音は、いまも止まることなく回り続けている。私はその回転を、ただ眺めていたかったのだ。


2026年4月7日火曜日

Thank you, baby. ― Bruce Johnston


 2026年3月、Bruce JohnstonはThe Beach Boysのツアー活動に区切りをつけると表明した。Rolling Stone誌への声明に感傷はなかった。「私の長いキャリアの第三章を始める時が来た。曲は永遠に書き続けられる、次に何が来るか聴いてほしい」。ソングライティングへの本格回帰を高らかに宣言した上で、もう一つの新たな活動として講演も視野に入れていることを明かした。かつてCary Grantが俳優業を退いた後、企業や大学で自らの人生経験を語る講演に活路を見出したことをヒントに、John Stamosの助けを借りながらその構想を温めているという。「これはさよならではない、またすぐ会おう」その言葉通り、7月のHollywood Bowlへの特別出演も予告されている。
 思いがけず始まった61年の旅は、今度は自らの手で次の扉を開けることで締めくくられた。静かで、どこか穏やかな区切り、まるで一曲を書き終えた作曲家が最後の和音を確かめるような、落ち着いた身の引き方であった。

 彼の作品の中に、「Thank You, Baby」という一曲がある。初めての恋が実らないと知りながら、それでも感謝を口にする、いつかは終わりが来ても、相手への感謝だけが残る。損得を超えた場所にある感情を、Johnstonは20代の初めに書いていた。その言葉が、半世紀以上のキャリアを経た引退の局面では、音楽と聴衆への静かな告白として別の響きを帯びる。
 Bruce Johnstonという人物の歩みもまた、この歌にどこか似ている。華やかな中心に立つというより、誰かの隣で音楽を支え、関係を築き、そして必要な時には静かに身を引く。その姿勢は、1960年代Los Angelesの制作現場において、数えきれないほどの仕事を通じて形づくられていった。

だからこそ、その音楽が形を取り始めた最初の地点に立ち返ってみたい。

 これから語られつつある「第三章」を理解するためには、彼がまだ無名の青年としてスタジオの扉を叩き続けていた時代――すなわち第一章――を見つめ直す必要がある。そこには成功の物語というより、関係を築き、技術を磨き、音楽の中で自分の位置を見出していった、一人の青年の静かな成長が刻まれている。
 話は1942年6月27日、Illinois州Peoriaまで遡る。「Florence Crittenton Home」というシングルマザー支援施設で、一人の赤ん坊がWilliam Baldwinという名で生を受けた。実母はGeorgia州Madison出身のティーンエイジャーだった。出自については長らく議論の対象となってきたが、後に本人がインタビューで「私はPeoriaで生まれ、養子に出された」と明言している。
 生後わずか3ヶ月。シカゴのWilliam & Irene Johnston夫妻に引き取られたその子は、「Bruce Arthur Johnston」という新しい名前を与えられた。ここから、一つの伝説が静かに動き出す。
 養父Williamは只者ではなかった。全米最大の薬局チェーン「Walgreen」のエグゼクティブ・バイス・プレジデントを務めた後、Justin Dartらと共に西海岸へ移りRexallを設立、社長の座に上り詰めた人物だ。1954年、Rexall本社の移転に伴い一家はLos Angelesの高級住宅街Bel Air(15461 Mildred Drive)の邸宅へ移住する。この特権的な環境こそが、Bruceに最高峰の教育と、ハリウッドという魔窟への黄金の切符を同時に手渡すことになった。Bel Airの邸宅と最高峰の教育環境が約束されたBruceに、次の転機が訪れるのに時間はかからなかった。
 Interlochen Arts Campとは、1928年に音楽教育者Joseph E. MaddyがMichigan州北部の湖畔に創設した、アメリカ最初の芸術系サマーキャンプである。当初はNational High School Orchestra Campの名で出発し、全米から選抜された若い音楽家たちが夏の数週間を共に過ごしながら本格的な演奏活動を行う場として設計された。その後、音楽に加えて演劇、視覚芸術、舞踊、映像へとプログラムが拡充され、1991年にInterlochen Arts Campへと改名。現在に至るまで、グラミー賞受賞者162名を含む世界屈指の芸術教育機関として名声を保ち続けている。Norah Jones、Josh Groban、そのBruceらが同じ地を踏んでいる。アメリカの主要オーケストラの奏者の約10パーセントがInterlochenの出身者だというデータが、このキャンプの水準の高さを端的に示している。1955年、13歳のBruceは上記プログラムでひと夏を過ごす。本格的なオーケストラの演奏を間近で聴き、同世代の音楽的才能に囲まれたこの体験は、後にTerry Melcherをして「10分あれば『Rhapsody in Blue』を弾きこなすが、上手すぎて商業的でない」と評させるほどの技術の源泉となった。

 ところが1956年9月、University High School(Uni High)に入学したBruceに異変が起きる。クラシック専門局KAFCを聴く傍ら、出力わずか250ワットの黒人専用ラジオ局KGFJに心を奪われたのだ。Hunter HancockやHuggy Boyといった伝説的DJが放つ未知のR&Bは、退屈な白人ポップスとはまるで別の宇宙の音楽だった。Bruceはこの「Rock'n Rollする人々」の音楽に急速に傾倒していく。
 そして運命の出会いが通学バスの中で起きる。近所に住む1歳年上のJan Berry、(後のJan & Dean)との邂逅である。Janという人間を理解するには、まずその頭脳の規格外ぶりを知る必要がある。IQは150以上、記録によっては180とも伝えられる天才で、後にJan & Deanでヒットを連発しながらUCLAで医学部進学課程を修了し、1963年には実際に医学部に入学している。
 Janという人間は、二つの顔を持っていた。
 学校の印刷室を使って公式レターヘッドを偽造し、架空のラジオ局「KJAN」を堂々と名乗る。各レコード会社に「プロモ盤を送れ」と要請する手紙を送りつけ、毎日200枚もの新譜を無料で手に入れ、余った分は友人に配った。しかしそのJanが、ガレージのオープン・リール録音機の前に座ると、まるで別人のように音と格闘し始めるのだった。14歳のBruceはこの落差に、何か決定的なものを嗅ぎ取った。
 二人が結んだ取り決めは傑作だった。「JanがBruceの宿題を代行する代わりに、放課後はBruce宅の豪華なグランドピアノをJanが弾き放題」という物々交換の密約である。Bel Airの邸宅の一室で繰り広げられたこの密室セッションこそ、後に世界を席巻するカリフォルニア・サーフ・サウンドの、最初にして最も目立たない発火点となった。
 高校生の傍ら、BruceはSandy Nelson、Kim Fowleyらとバンド「The Sleepwalkers」を結成する。なんとライバル校のFairfax High SchoolからPhil Spectorをギタリストとして借り出すほどの勢いを見せた。Uni HighがBel AirやWestwoodといった富裕白人層の子弟が通う学校であるのに対し、Fairfax Highは戦後にLA東部から移住してきたユダヤ系中産階級の街に根ざした学校だった。地理的には隣り合いながら、その社会的背景はまるで異なるそのライバル校から、後に『Wall of Sound』で時代を塗り替えるPhil Spectorまで引き抜いた、この時点でのBruceの立ち位置がいかに特別だったかがわかる。
 1958年の夏、BruceはLA周辺のダンスホールやショーを転々としながら有名無名問わず多くの歌手のバックを務めた。時にはEverly Brothersのバックでピアノを弾き、テレビ番組ではEddie Cochranが「Summertime Blues」を歌う傍らでやはりピアノを担当した。ギターの曲をピアノで弾くという奇妙な体験だったと本人は振り返っている。中でも最も頻繁にバックを務めたのが、デビュー間もないRitchie Valensだった。「Come On Let's Go」が全米42位のスマッシュヒットを記録し、まさにスターへの階段を駆け上がろうとしていた時期のRichieと、BruceはEl Monte Legion Stadiumなど各地のステージを共にした。1959年2月、Ritchieは飛行機事故で17歳の生涯を閉じる。あの夏の共演が、Bruceにとって彼の生きた姿を知る最後の記憶となった。
 Janとの密室セッションが少年の野心に火を点けたとすれば、その炎を一気に燃え上がらせたのは、1958年2月に起きたある惨劇だった。


1958年2月1日。この日付を覚えておいてほしい。

 University Highの生徒だったJan BerryとDean Torrenceを中心とした人種混合ボーカルグループ「The Barons」に、伴奏として参加していたのがBruce Johnston(ピアノ)、Sandy Nelson(ドラム)、Dave Shostac(サックス)の3人だった。 3人の訪問先はJohn Dolphinの事務所だった。Dolphinは黒人音楽界の大物プロモーターだが、その傘下レーベルRecorded in Hollywoodからは、5年前の1953年にMurry Wilson――後にThe Beach BoysのBrianの父として知られる人物――の楽曲がリリースされていた。BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。
自作のデモテープを手に、その事務所を訪れた15歳のBruceは、とんでもない惨劇の唯一の目撃者となる。印税トラブルを抱えた26歳の作家Percy Ivyが、Bruceの目の前でDolphinを5発の銃弾で射殺したのだ。Dolphinは泡を吹き、倒れ込んだ拍子にヒーターのスイッチが入るという地獄絵図の中で絶命した。
 驚くべきはここからだ。親友のSandy Nelsonが警察を呼ぶために走り出し、現場に静寂が訪れたその空白の数分間、Bruceはなんと銃を持ったままのIveyに向かってこう言い放ったという。

「刑務所から出てきたら、ぼくと一緒に曲を作ってレコーディングして一発当てよう!」

 15歳、死体が転がる部屋の中で、次のビジネスを語る少年。後に「ハリウッドの好青年」と呼ばれる男の中に、目的のためには手段を選ばない生粋のプロデューサー体質が完全に覚醒した瞬間だった。この異常なまでの胆力と商魂こそが、彼を単なるミュージシャンの枠に収まらない存在へと押し上げていく最初の証明だった。
 BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。そしてもう一つ、驚くべき事実がある。引き金を引いたその男、Percy Ivy自身もまた、同じ時代にThe Hollywood Flamesへ楽曲を提供していたソングライターだった。1953年、7-11 Recordsから出た78回転盤のB面「Baby, Pretty Baby」——作曲者欄にはIvyの名が刻まれている。Murryが同じグループに曲を書き、Bruceがその事務所に曲を売り込みに来た。殺された男も、引き金を引いた男も、そして15歳の目撃者も、全員が同じ磁場に引き寄せられていたのだ。ロサンゼルスの音楽史とはそういうものだ。
15歳でその胆力を証明したBruceは、高校生の傍ら音楽の現場へ深く踏み込んでいく。
 1959年、Sandy Nelsonの「Teen Beat」録音セッションでBruceが下した決断は今も語り草だ。録音された音が「ありきたりで、全く個性がない」と判断したBruceは、突如として履いていた靴を脱ぎ捨てると、グランドピアノの弦の中に力任せに突っ込んだのである。この即興の「靴によるミュート」が生み出した、鈍い打楽器のような未体験のサウンドが全米チャート4位の大ヒットを牽引した。靴一足で時代の音を変えた男、それがBruce Johnstonだ。
 さらにArwin、Martといった独立系レーベルでの活動を通じて、Bruceは業界の生々しい裏側を全身で吸収していく。録音日より前に業界誌にレビューが掲載される杜撰な書類工作。AFM(全米音楽家連盟)の規約を潜脱した非公式録音を、事後の書類工作で合法の体裁に整える仕組み。10代にして彼は、音楽が「芸術」であると同時に、書類一枚で権利が書き換えられる「冷酷な商品」であることを骨の髄まで理解した。のちのColumbia時代に巧みに活用される「制度の隙間を突く感覚」は、この時期に磨かれたものだ。
独立系レーベルで業界の生々しい裏側を吸収したBruceは、17歳でさらに大きな舞台へと歩を進める。
 17歳でBob Keene率いる「Del-Fi Records」のスタッフとなったBruceは、才能を全方位で解き放つ。事故死したRitchie Valensの遺作ライブ盤の編纂から、18歳での黒人歌手Ron Holdenの全権プロデューサー就任まで、何でもこなした。
 圧巻はUCLAのSigma Piフラタニティハウスで行われた「パジャマ・パーティー」だ。入会したばかりの18歳の新入生Bruceが数人の仲間を引き連れて演奏しに現れ、パジャマ姿の男女がどんちゃん騒ぎを繰り広げる狂乱の中、Del-FiのボスBob Keaneが録音機材を持ち込んでライブ収録を敢行した。事前にBruceからこのパーティーの「ワイルドさ」についてさんざん聞かされていたKeaneが、その熱気ごと売り物にしようと目論んだのだ。この音源は、Bob Keaneの「流行を安く、素早く、何度でも売り飛ばす」という荒々しいマーケティングによって、「The Surf Stompers」など様々な名義で世界中へ輸出された。挙句の果てに、別のバンド『The Centurions』のアルバムが、Bruceの『Surfer's Pajama Party』とほぼ同一のジャケット・同一のカタログ番号で発売されるという混乱まで生じた。プレス工場のミスとも言われるが、権利が軽視される日常を象徴する出来事だった。権利が軽視される日常の中で、Bruceは「世間の流行をいかにパッケージ化して利益に変えるか」という実戦的なマーケティング感覚を完全に体得した。自分の権利が踏みにじられる経験を積み重ねたからこそ、後にColumbia時代に報酬の抜け道を周到に設計できたとも言える。
 Del-Fiでの経験がBruceに業界の骨格を教えたとすれば、次に彼を待っていたのはその骨格に肉を盛る相棒との出会いだった。


 さて、物語に一人の重要な人物が登場する。Terry Melcherだ。

 Doris Dayの息子というだけで語られがちな人物だが、それは大きな誤りだ。1962年4月、20歳のTerryはColumbia Recordsの「マネジメント・トレイニー(経営研修生)」として週給55ドルのオフィスボーイからキャリアをスタートさせた。仕事の内容は文字通りニューヨークの街中を駆け回る雑用係だった。だが彼は雑用に甘んじず、上司を説得してDon KirshnerのAldon Musicに入り浸る許可を得た。そこでCarole King、Barry Mann、Gerry Goffinたちの職人芸を毎日間近で見学し、ヒット曲の骨格を体に刻み込んでいった。
 2ヶ月の研修後、1962年6月に西海岸のA&R担当へ異動。そして1963年1月、弱冠20歳でColumbia RecordsのアソシエイトA&Rプロデューサーに昇進する。当時のColumbia Recordsは、Andy Williamsに代表されるジャズ、クラシック、大人向けポップスの老舗として名声を持つ一方、急拡大する若者向けロックンロール市場への対応では完全に出遅れていた。西海岸の重役Irving TownshendがTerryに期待したのは、ティーン向けシングル市場の開拓という明確な使命だった。
 BruceのUni HighがBel AirやWestwoodの富裕住宅街を学区とするのに対し、TerryのBeverly Hills Highは超高級住宅地Beverly Hillsに位置する学校だ。同じ西LA地区の富裕校同士でありながら、学校間のプライドはむしろそれゆえに激しかった。
 一方Bruceとは、「あっちの学校(Beverly Hills High)の連中は全員ろくでなしだ」と反目し合っていた過去がある。それがスタジオに入った途端、二人は最強の制作ユニットへと変貌した。メジャーの潤沢な予算を「音楽大学」のように使い、ラジオのヒット曲を完コピすることで最新の録音技術とヒットの法則を独習していった。覆面グループ「The Hot Doggers」、自身のソロアルバム『Surfin' 'Round the World』、そして大ヒット連発の「The Rip Chords」――成果は次々と世に放たれた。BruceはTerryの母Doris Dayに楽曲「Falling」を提供し、絶大な信頼も獲得した。
 Terry がColumbiaのスタッフとして先に籍を置き、The Rip Chordsの「Here I Stand」をプロデュースしたのは1962年末のことだった。シングルはBillboard 51位に滑り込み、手応えをつかんだ。後年Bruceはこう振り返っている。「Terryがうまくやってくれて、私を雇う許可を取り付けてくれた」。こうして1963年、BruceはColumbia Records Hollywood のスタッフ・プロデューサーとして正式に着任する。自ら売り込んだのでも、重役の椅子を引き継いだのでもない。友人の信頼と、スタジオでの実績が、その扉を開けたのだった。
 Terryと継父Marty Melcherの間には、長年の緊張があった。Terryが自分の力でヒットを連発し始めると、Martyはそれを嫉妬した。ある日、二人は口論になった。Martyが吐き捨てた。「お前の曲を持って出て行け」。会計士が呼ばれ、Martyの会社Daywin MusicがTerryに支払うべき金額として345,000ドルの小切手が差し出された。Terryはそれを受け取ると、できる限り細かく引き裂いた。そして破片をMartyの顔めがけて投げつけ、こう言った。「これが、あんたと過ごした年月すべてへの礼だ」。後にTerryはこう振り返っている。「あれが転換点だった。345,000ドルの小切手を顔に投げつけられる人間なら、一人前だと思ったのだろう。あれ以来、彼は私を子ども扱いしなくなった」。
 1963年10月15日の夜、Columbia Records西海岸スタジオで歴史的なセッションが出来上がった。プロデューサーはTerryとBruce。表向きはThe Rip Chordsの公式メンバー――Phil Stewart、Arnie Marcus、Rich Rotkin、Ernie Bringas――名義のセッションだったが、スタジオで実際に歌ったのはTerryとBruceの二人だけだった。リードをTerryが、象徴的なファルセットをBruceが担い、ハーモニーは多重録音で積み重ねた。こうして全米チャート4位の大ヒット「Hey Little Cobra」が誕生した。
 後にErnie Bringasはこう記している。「The Rip ChordsにおけるTerry Melcherの存在は、The Beach BoysにおけるBrian Wilsonの存在に等しい。ただしBrianと違い、Terryは自分がメンバーでないグループのために歌っていた」。1964年1月23日、初期メンバーのPhilとErnieは補足契約への署名を強いられた。「The Rip Chordsという名前の全権利を放棄する」という内容だった。実質的な主導権は完全にTerryとBruceの手に渡った。
 バックを務めたのはSteve Douglas(サックス)、Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(パーカッション)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Glen Campbell、Bill Pitman、Tommy Tedescoら、後にWrecking Crewと呼ばれる伝説的な集団だ。この時点で彼らは既に一堂に集っていた。

ここで、思わず声に出して笑ってしまうエピソードを紹介しなければならない。

 後年のファンとの会話の中で、Bruceはさらりとこう言い放った。「あの曲の一部は、ゴミ箱に頭を突っ込んだ状態で録音したんだ」。
 笑い話ではない。これは大真面目な、当時最先端の音響工学だった。
考えてみてほしい。1963年のスタジオにデジタル・リバーブなど存在しない。音に残響を加えたければ、物理的な空間を使うしかなかった。廊下の端で歌う、タイル張りのトイレを借りる、あるいはコンクリートの打ちっぱなしの部屋に向かってマイクを向ける......それが当時の「エフェクト」の全てだった。Sam Phillipsがスラップバック・エコーをテープの遅延で生み出し、Phil Spectorが巨大なエコーチェンバーを使って音を神話的なスケールに膨らませていた、まさにその時代の話だ。そしてBruceが選んだのは、スタジオの隅に転がっていたゴミ箱だった。頭を突っ込む。歌う。ゴミ箱の筒が独自の共鳴を作り出す。
この工夫が最も際立って聴こえるのが、曲の中盤に炸裂する「Shut 'em down」の一節だ。Bruceがファルセットではなく低く押し出すように歌うこのフレーズに、ゴミ箱の壁が生み出す独特のアンビエンスが乗っている。当時のリスナーには何がどうなっているのか全くわからなかったはずだ。それでも耳は正直で、「何かが違う」と感じさせる音がラジオから流れてきた。全米チャート4位という数字が、その判断の正しさをあとから証明した。
「Teen Beat」のセッションでは靴をグランドピアノの弦に叩き込んでユニークなサウンドを生み出し、「Hey Little Cobra」ではゴミ箱を音響装置に変えた。
録音技術そのものも、当時の二人を苦しめ続けた。「Hey Little Cobra」の多重録音は、現在では考えられないほど過酷な工程を経ている。当時主流だった3トラック・レコーダーには同期録音機能(セルシンク)がなかったため、一度録音したトラックをさらに別の3トラック・テープに移し、その上に新たな演奏を重ねるという「ピンポン録音」(バウンス録音)を繰り返すしかなかった。問題は、このダビングを重ねるたびに音が劣化していくことだ。テープからテープへコピーするたびに、高域が失われ、ノイズが蓄積し、最初に録音した時のあの「パンチ」が少しずつ削れていく。続く「Three Window Coupe」の制作では、この問題がさらに深刻な形で二人を直撃した。「3トラックから別の3トラックへ、何度もダビングを繰り返すうちに、録音のたびに音が一枚ずつ剥がれ落ちるように、あの『パンチ』は完全に死んでしまった」とBruceは振り返る。それでも彼はトラックを丸ごと録り直すまで諦めなかった。ゴミ箱とピンポン録音という原始的な道具立ての中で、Bruceは「どんな音が鳴っているか」という一点に向かって自分を研ぎ澄ませていった。

 スタジオの創意工夫で音を作り上げる一方、BruceはColumbia社内でも抜け目なく動いていた。AFMの契約書にはBruceの名前は演奏ミュージシャンとして記載されていない。それでも実質的なセッション・リーダーとして機能した彼は、巧妙な方法で報酬を得る仕組みを作り上げた。Columbia内部資料(Artist Contract Card)には、一晩のセッションでSteve Douglas(本名Steve Kreisman)に数千ドル単位の「編曲料(arr.)」が計上されている。しかしAFMの契約書には「編曲なし(No Arr.)」と手書きされ、続いてSteve自身のイニシャルと思われる「SDR」が記されている。「編曲者が存在しない」ことへの本人確認なのか、それとも彼が実質的な編曲者であることの証明なのか?この矛盾は今も謎のままだ。実際にはBruceとTerryが決めたアレンジの報酬が、Steveを名義上の受取人として経由し、彼らへ還流していた可能性が高い。BruceとTerryはColumbia社員であったためアーティストが受け取るロイヤリティを手にすることができず、この「制度の抜け道」が事実上の報酬となっていた。
Bruceは後年こう語っている。「Columbiaからの給料は微々たるものだったが、高額な編曲料の請求書を会社に提出した。印税が入らない代わりに数千ドルの編曲料を作り、その金でHawaiiへ飛び女の子たちと遊んでいた。まだドラッグが蔓延する前の話だ」。
Del-Fi時代にその感覚を体に刻み込んだBruceが、今度はColumbia Recordsというメジャーの機構の中でそれを洗練させていた。ある意味で、これは彼のキャリアを通じた一貫したテーマだった。報酬の仕組みが巧妙に設計される一方で、「Hey Little Cobra」の誕生をめぐる作詞クレジットの真相は、今なお霧の中にある。

作者は元Teddy BearsのCarol Connors(本名Annette Kleinbard)と弟M.H. Connorsだが、著作権上は半分しか権利がない、その裏側には少なくとも三人の別の人物が絡み合っている。
Gary Usherの証言から始めよう。Carolが彼の元に歌詞の断片を持って現れたとき、彼女が持っていたのは混乱した数行の歌詞だけだった。Usherはそれを整理し、決定的なサビ「Hey little Cobra, don't you know you're gonna shut 'em down」を書き上げ、彼女にTerry Melcherを紹介した。後にMelcherから「素晴らしい曲を手に入れた」と電話があった際、Garyは自分の関与を明かした。「要するにこれはTerry、Bruce、そして僕の3人で書いたようなものだ」と伝えたというが、クレジットに彼の名前が乗ることはなかった。TerryはBruceに電話した。「勢いがあるうちにRip Chordsのレコードにしないといけない。Columbiaのリリースのうち、ヒットチャート番組でかかったロックンロールはうちらの一曲目の売上が5万枚、二曲目が9万枚。それ以外は皆無だ」。翌日にはスタジオに入り、二人は文字通り午後から夜通しでレコードを仕上げた。
一方、Carol自身の話はさらに劇的だ。恋人のAC Bristolを大破させた彼女は、修理の相談でCarroll Shelbyのオフィスへ乗り込んだ。Shelbyとは1959年のLe Mans24時間レースを制した伝説のレーシングドライバーで、引退後はFordのエンジンを英国製シャシーに積んだ「Cobra」を世に送り出した人物だ。「CobraのフロントをBristolの後部に付けられないか」という突拍子もない依頼に、Shelbyは腹を抱えて笑い、こう言った。「1位になったら、何とかしてやる」。曲はチャート4位まで駆け上がり、ShelbyはCarolに約束通りCobraを1台贈呈した。さらにShelbyのLe Mans遠征にも同行し、当時FordのHigh Performance部門の責任者だったLee Iacoccaとも顔を合わせることになった。一方Terryは録音の条件として出版権の50パーセントを継父Martyの会社Daywin Musicに収め、残る50パーセントはCarolと弟MarshallのVadim Musicが保持した。才能だけでは扉は開かない。ヒットの代償は著作権で払う!それが当時のLA音楽業界の作法だった。
さらに笑えるエピソードがある。Brian WilsonとJan Berryは後日、Carolの元へ激怒した様子で現れ、こう言い放ったという。「この曲は女が書いたものだということは最初からわかった。Cobraをギアをニュートラルにしてゴールラインまで惰性で走るなんて、実際にはできないからな」。Carolは「だから何? 誰が気にするのよ」と一蹴したという。
クレジットの謎を残したまま、BruceとTerryの制作活動は次のターゲットへと向かう。1964年夏のことだ。

 1964年夏、人気下降気味だったスターPat Booneの再起をかけ、BruceとTerryはBrian Wilson作の「Little Honda」をプロデュースすることになった。Patは当時Las Vegasのホテルで公演中だったため、Terryはトラック収録を終えたテープを携えてLas Vegasへ飛んだ。
Terryはこう語る。「Patのショーが終わるのを待ってスイートルームへ向かった。彼が着替えている間、部屋のラジオから「ただいまチャート急上昇中!」と紹介されながら流れてきたのは、ライバルGary UsherがThe Hondells名義で放った、まったく同じ「Little Honda」だった。Patはそれが自分がこれから録音する曲だとも気づかず鼻歌で合わせている。まずいことになったと思った」。
結果はThe Hondellsの圧勝。「5,000ドルの制作費がふっ飛んだ」とTerryは真っ青になった。しかしGary側はこの顛末を後年楽しそうに語り継いでいる。「TerryはLas Vegasの大通りを車で走っているとき、ラジオから僕のThe Hondells版が流れてくるのを耳にして、先を越されたことの衝撃にハンドルを取られそうになり、同時に心臓が止まるかと思ったそうだ。」
だが負けたままでは終わらないのがこの二人だ。Garyが先にヒットを出すと、Terryは傲然と言い放った。「このガキが!俺より先にヒットさせやがって、何でもいいから曲を持ってこい。俺の手にかかれば何でもチャートに叩き込んでやる」。Garyが持ってきた一曲が「Comin' On Too Strong」だった。仲間内で「ガキ」と呼び合う二人が始めた賭けの結末は痛快だった。TerryはWayne Newtonに歌わせたが、実際にWayneが歌ったのは全体の1/4以下。残りのサビ、ハーモニー、バックコーラス、ファルセットの全てをBruceとTerry自身が多重録音で埋め尽くした。Garyは断言する。「あれはWayneの名を借りた実質的な『Bruce & Terry』のレコードだった」。
ところが、曲がヒットチャートを上昇し始めると、Wayneは恐怖に駆られて師匠のBobby DarinとCapitol Recordsへ駆け込み、「せっかくヒットしてるんだけど、このレコードのプロモーションを止めてくれ」と懇願した。スタジオの魔術で構築されたこのサウンドを、ライブで再現することなど自分には不可能だと分かっていたからだ。Terryはさらりと付け加える。「BobbyとWayneは実際にはお互いをまったく嫌い合っていた」。これが当時のL.A.音楽界の日常だった。

 そのL.A.スタジオ世界の黄金時代は、しかし1965年を境に急速に様相を変えていく。
 その変化は、スタジオの外から一本の電話という形でやってきた。
1965年4月7日、The Beach Boysはツアーの途上でNew Orleansに到着していた。
そのとき、Glen Campbellから一本の電話が入る。内容はきわめて実務的だった。これ以上ツアーに同行できないというのである。すでに約束していたThe Righteous Brothersのバックの仕事と日程が重なり、どうしても動けなくなったのだった。
 バンドにとってそれは突然の欠員であり、しかも次の公演は目前に迫っていた。代役を探す時間はほとんど残されていない。こうした状況のなかで、Mike LoveはLos AngelesにいたBruceに電話をかける。だがその用件は、いきなり加入を打診するものではなかった。彼が最初に口にしたのは、むしろ業界仲間に向けるような問いだった。
「誰か代わりに来られる人間を知っているか?」
 Bruceはこの電話を後年、「本当に急な話だった」と振り返っている。彼らは「昨日にでも欲しかった」ほど切迫していたという。彼の頭にまず浮かんだのは、若いミュージシャンのEd Carterだった。しかし彼は学業の都合で動けない。候補者は消えた。代替案もない。
そのとき、Bruceは一歩前に出る。
 「誰も見つからないなら、ぼくが行くよ。」
 それが彼の判断だった。ベースは弾けなくはないが、ピアノなら弾ける。ハーモニーも歌える。何より、今必要なのは完璧な人材ではなく、すぐに舞台に立てる人間だった。
こうして彼は急遽New Orleansへ飛ぶ。そして二日後の4月9日、ステージに立つことになる。準備は整っていなかった。衣装すら間に合わず、彼が身につけていたのはAl Jardineの予備のズボンだったという。サイズは合っていなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
 その夜、Bruceはエレキピアノを担当しつつ、Brian Wilsonのファルセット・パートを歌った。一方、Jardineがベースへ回り、編成を維持する。こうしてバンドは、即席の再配置によって公演を成立させたのである。
 しかしステージに出た瞬間、彼を迎えたのは歓声ではなく問いだった。
 客席から叫び声が上がる。

「Brianどこいったー?」

 Bruceはそのときの心境を率直に語っている。石を投げられるかもしれないと思った、という。それほどまでに、当時のBrianはグループの象徴だった。それでも演奏は続き、観客の熱狂はやがて彼を包み込んでいった。最初は圧倒されたが、その反応こそが彼を舞台の上に踏みとどまらせた。
 この人選について、Brian自身は後に「理にかなっていた」と語っている。彼はBruceを以前から知っており、Terry Melcherと共にレコード制作をしていたことも承知していた。ファルセットの声質が似ていること、演奏能力が高いこと、そして何より、追い詰められた状況のなかで即座に対応できる人物だったことが、その判断の根拠だった。
 ただし、この時点でBruce自身はまだ「正式メンバーになった」とは考えていなかった。ツアーを終えてスタジオに呼ばれ、「次のアルバムで歌ってみないか」と言われたときも、彼はなおColumbia Recordsの仕事を続けていたし、Brianがいつか再びツアーに戻る可能性を疑っていなかったのである。
 振り返れば、Bruce Johnstonの加入は制度的な決定というより、一つの出来事の連鎖だった。一本の電話から始まり、欠員が生じ、代わりが見つからず、そして本人が前に出た。その積み重ねが結果として、あの立ち位置を生み出したのである。
 それは計画された加入ではなかった。
 むしろ、現場を止めないための即断が、歴史を形づくった瞬間だったと言えるだろう。
それにしても、この加入はいかにも静かなものだった。Columbia Recordsとのアーティスト契約が障壁となり、Bruceは1967年のアルバム『WILD HONEY』まで正式メンバーとしてアルバムジャケットにクレジットされることができなかった。『PET SOUNDS』の裏ジャケットにはツアーメンバーとして写真が掲載されたが、それはあくまで添え物に過ぎなかった。1965年の『SUMMER DAYS』撮影時には「カメラマンの隣に立っていた」と本人が語るほどの周縁的な立場だった。それでも当時の公式コンサートブックレットは、この新顔をこう紹介している。「Beverly Hillsが、ついにHawthorneにやって来た!」山の手Bel Airで育ったこの男と、下町Hawthorne育ちのWilson一家との組み合わせを、一言で言い表した言葉である。

 1965年6月16日、Terry はColumbiaのスタジオに馴染みの顔ぶれを集めた。Hal Blaine、Glen Campbell、Larry Knechtel、いわゆるThe Wrecking Crewの精鋭たちだ。彼らはほんの数ヶ月前、まったく同じようにTerryに招集されていた。あのとき録音されたのは、The Byrdsのデビュー・シングルである。
 しかし今回のセッションで彼らが臨む仕事は、Bruce & Terryの新曲「Four Strong Winds」だった。Ian Tysonが書いたこのフォーク・チューンを、TerryはThe Byrdsと同じミュージシャンに、The Byrdsと同じ楽器編成かつ方法論で録音しようとしていた。
 その意図を、Terry自身が明快に語っている「あれは『Mr. Tambourine Man』の直後だったよ。俺は『よし、しばらくこの路線でいこう』と思ったんだ」。
 証言の正確さは、日付が証明する。The Byrdsの「Mr. Tambourine Man」がシングルとしてリリースされたのは1965年4月12日。それがBillboard Hot 100の頂点に達したのは6月26日のことだ。Bruce & Terryのセッションが行われた6月16日は、奇しくもThe Byrdsのファースト・アルバム『Mr. Tambourine Man』のリリース(6月21日)のわずか5日前にあたる。つまりTerryは、あのサウンドが絶頂に向かう瞬間を正確に見極め、その波に乗ろうとしていた。
 ここで注目すべきは、TerryがThe Byrdsの「外側」からそのサウンドを模倣しようとしていたのではない、という点だ。彼はThe Byrdsのプロデューサー当人であり、あの12弦Rickenbackerの響きを自らの手で生み出した張本人だった。すなわち「Four Strong Winds」のセッションにおいてTerryがやったことは、他者の作品を参照することではなく、自分自身の仕事を別の文脈に移植することだった。
 その結果として完成した「Four Strong Winds」は、The Byrdsの響きを継承する12弦ギターを核に据え、7月2日のオーバーダビング・セッションではMort Garsonの指揮のもと弦楽器と管楽器が加えられ、豊かでふくよかなプロダクションへと仕上げられた。リードはTerry、ハーモニーはBruce。ただしBruceはこの時期、The Beach Boysとのツアーと録音に拘束されており、6月のセッションには参加したものの、7月のオーバーダビングには不在だった。
 それにしても、このシングルにはもう一つ見逃せない文脈がある。The Rip Chordsはすでにシーンから消えていた。サーフ、車、ピカピカの天気、そういった意匠は使い果たされ、Bruce & Terryというデュオの看板だけが残っていた。Terryはその看板を、迷わず新しい時代の音で塗り替えた。選ばれたのはフォークとカントリーの香りを持つ曲たちであり、それをThe Byrdsの方法論で録音するという戦略だった。しかしTerryには、この時期すでにより大きな仕事が待ち構えていた。Paul Revere & The Raidersとの共同作業がいよいよ本格的な成果を上げ始めており、同年12月には「Just Like Me」がBillboard 11位のTop 20ヒットとなる。Bruce & Terryというユニットは、彼のキャリアにおいて徐々に中心から外れてゆく運命にあった。
 「Four Strong Winds」のセッション記録には、Bruce Johnstonがセッション・リーダーとして244.04ドル――通常の2倍のギャラ――を受け取ったことが明記されている。The Beach Boysとの二重生活を送りながらも、Bruceはこの6月のセッションにはきちんと顔を出していた。その存在が、この曲の完成度を支えたことは疑いない。

 The Byrdsのサウンドが時代を塗り替えていく一方で、BruceとTerryはColumbiaスタジオの奥に潜む別の武器に手を伸ばしていた。

Columbiaのスタジオには、知る者だけが知る秘密があった。

 クローゼットの奥に、巨大な機械が眠っていた。エンジニアたちはその存在を頑なに隠し、TerryとBruceが扉を開けようとするたびに「お二人には関係ない」と遮った。しかし二人は食い下がった。押し問答の末にようやく明かされた正体はL.A.初の8トラック録音機だった。
 Duke Ellingtonのために特別製造されたこの機器は、クラリネットとサックスの音を分離するという、エンジニアたちに言わせれば「非常に退屈な」目的のために作られた。ほとんど使われないまま、コードを束ねられてクローゼットに押し込められていた。
 「当然、ぼくらは引っ張り出して使い始めた」とBruceは語っている。「The Rip Chordsの頃に同期録音なしで何十回も音を重ねるという問題を抱えていたから。だからうまくいったんだ」。
 ところで、この8トラック機器を最初に実作品へ活用したのはいつのことだったのか?ここで興味深い食い違いが浮上する。
 Terryは「Mr. Tambourine Man」、すなわち1965年1月に録音されたThe Byrdsのデビュー・シングルが最初だと主張している。しかしBruceの記憶は異なる。8トラックを最初に使った作品を問われた彼は、こう答えた「たぶん『Summer Means Fun』と『Carmen』、そして本当に素晴らしいのに日の目を見なかった曲たちだと思う」。


The Sandpipers、デビュー・アルバムGuantanamera(A&M、1966年)
「Carmen」を収録し、Billboard Top LPs 13位を記録。
Bruce & Terryがチャートに届かなかった曲は、
こうして別の声で蘇った


 いずれもThe Byrdsのデビュー以前――あるいは少なくとも同時期――の作品である。Bruceの証言が正しければ、8トラック機器はThe Byrdsのセッションよりも早い段階から、すでにBruce & Terryの仕事に密かに持ち込まれていたことになる。
 二人の記憶はなぜ食い違うのか。あるいはどちらが正しいのか。今となっては確かめようがないが、この齟齬そのものが一つの事実を示唆している。8トラックとの格闘は、どちらにとってもそれほど日常的で、境界線の曖昧な体験だったのだ。革命はいつも、当事者が気づかないうちに始まっている。
 いずれにせよ、1965年10月22日のセッションで「Come Love」に8トラックが全面的に活用されたことは疑いない。Terryはこの日、30名以上のミュージシャンをColumbiaのスタジオに招集した。ハープシコード(Lincoln Mayorga)、ハープ(Verlya Mills)、Julius Wechterのパーカッション。Sid Sharpが束ねる弦楽セクションには、Bill Kurasch、Leonard Malarsky、Harry Bluestone――Los Angelesでも指折りの奏者たちが並んだ。ブラスにはLouis Blackburn、Tony Terran、Aubrey、"Tex"Bouck。Larry Marksが指揮台に立ちオーケストレーションを仕切った。
 Phil Spectorが証明したように音は重ねるほど、別の次元に達する。8トラックはその夢を、一気に現実に引き寄せる道具だった。そしてTerryには、4ヶ月前の「Four Strong Winds」セッションで多重録音の可能性に改めて目覚めていた経験があった。
 ただしエンジニアたちの抵抗は、この日も続いていた。Bruceの証言はあまりにも鮮烈だ
「ミキシング・コンソールに触ろうとすると、エンジニアたちはササッと機器をシャットダウンして部屋を出ていくんだよ。本当に変だった」。
 Alan and Marilyn Bergmanの作詞、Larry Marksの作曲による「Come Love」は、その闘いの末に完成した。ハープシコードの粒立ち、弦の厚み、ブラスのアクセント......それらが8トラックによって初めて相互干渉なく積み重ねられ、「音の壁」が築かれた。Terryが「持てる技をすべて注ぎ込んだ」と評されるだけのことはある、まさに力業の極致だった。
 Terryはのちにこう語っている。「『Come Love』は、Alan and Marilyn Bergmanが書き始めた頃に最初に録音された曲の一つだったと思う。その後『Windmills Of Your Mind』でアカデミー賞を受賞するとは、当時は思わなかったね」。歴史とはこういうものだ。誰が何者になるかは、後にしかわからない。
 批評家たちは反応した。Cash Boxは「Best Bet」、Record Worldは「4 Star Pick」「盛り上がりに盛り上がるバラード。二人は磁力のように聴衆を引き込む」と称えた。しかしアメリカの主要ラジオ局は沈黙した。全国規模のヒットには届かなかった。
 しかし太平洋の向こうで、奇跡が起きた。1966年4月から5月にかけて、香港のチャートでTop 10入りを果たしたのだ。L.A.のクローゼットから引き出された機器が生んだ音が、誰も予期しない場所で聴衆を見つけた。なおこのセッションにBruceは参加していない。彼はThe Beach Boysの仕事(BurbankのNBC-TVスタジオでのAndy Williams Show収録)に拘束されていたが、そのThe Beach Boysの現場でさえBruceの席にはBrian Wilsonが座っていた。Bruce & Terryにも、The Beach Boysにも、完全に属さない宙ぶらりんな状態、それが1965年秋のBruceの立ち位置だった。


 振り返れば、Bruce & Terryの音楽的軌跡は、ひとつの方向へと着実に動いていた。サーフィン、車、西海岸のライフスタイル.....初期の意匠が費消されていくにつれ、二人のサウンドはMORへと重心を移し、ストリングスや管楽器によるオーケストレーションを纏い、ハーモニーはより甘く、より厚いものへと変わっていった。「Come Love」のあの30人編成のセッションは、その到達点のひとつだった。意図したわけではない。ただ、より豊かな音を求めて手を伸ばし続けた結果として、二人は後にソフトロックと呼ばれるジャンルの設計図を、誰よりも早く引いていたことになる。

             
 1966年5月、Bruceは『PET SOUNDS』のプロモーションのためロンドンに滞在していた。元BeatlesパブリシストでThe Beach Boys担当となったDerek Taylorが約15本のインタビューをセッティングするかたわら、Keith Moon(The Who)をBruceに引き合わせた。
 二人はたちまち意気投合し、古くからの怪友Kim Fowleyも加わってEssex州RomfordへTony Rivers And The Castawaysのライブを観に繰り出した。The Beach Boysの楽曲をレパートリーに持つこのグループをBruceが気に入ったからだ。ステージに引っ張り上げられたBruceは、ベースを手渡されて途方に暮れた。「ぼくはどっちかといえばピアノ弾きなんだけど」そう言ったところでステージにピアノはない。複雑なベース・ラインを持つ「The Little Girl I Once Knew」では固まり、一方でKeith Moonのドラムは「繊細さ」とは無縁の全力投球。曲が終わるたびにTony Riversが「Keith MoonとBruce Johnstonに拍手を!」と言おうとすれば、Keithは間髪入れず「次は何やる?あ、その曲知ってるから叩かせろ!」
そのまま演奏は続いた!
 ここにも一つの妙縁がある。Kim FowleyはBruceのUniversity High School時代の旧友であり、二人はともにThe Sleepwalkersで活動した仲だった。そのFowleyは、Bruceより一足早く英国に渡り、1964年から現地のバンドを手がけることで独自の英国コネクションを築いていた。後にSlade、Soft Machine、Familyといった名前で知られることになる若手グループたちとの仕事がその証左である。BruceがロンドンでKeith Moonと意気投合したとき、隣にいたのは偶然にも、誰よりも早くこの街の空気を知っていた男だった。

しかしこの夜には、より大きな物語への扉が隠されていた。

 Romfordから戻ったある夜、BruceはWaldorfホテルのスイートでパーティーを開いていた。廊下でKeith Moonと話していると、Kim Fowleyが「戻ってきた方がいい。The Beatlesの二人がいて、Pet Soundsを聴きたがっている」と告げた。

部屋にいたのはJohn LennonとPaul McCartneyだった。

 Bruceは持参していた『PET SOUNDS』をかけた。一度では終わらなかった。Paulたちは二度、三度とかけ直すよう求めた。Bruce自身の証言によれば、その夜は約4時間、何度も繰り返して聴いた。「みんな、素晴らしい映画を観終わったときのように『Wow』となって、ただそれが最高を意味するとわかっていた」。
なお皮肉なことに、仲介役のKeithは、この音楽にそれほど反応しなかった。彼はThe Beach Boysの初期のサーフ・サウンドの方が好みだった――とBruceは後に苦笑いしながら明かしている。
 この夜が何を生んだか。Paulは後に繰り返し、明確に証言している――「Sgt. Pepper'sを録音する際に考え始めた大きなきっかけは、基本的に『Pet Sounds』だった」。The Beatlesの担当プロデューサーだったGeorge Martinも「『Pet Sounds』なしに『Sgt. Pepper's』は生まれなかった」と断言した。Rubber SoulがPet Soundsを生み、Pet SoundsがSgt. Pepper'sを生んだ、ロック史上最も有名な連鎖反応の触媒となったのは、Keith MoonとBruce JohnstonのLondonにおけるWaldorfの一夜だった。
そしてその出発点に、Romfordのあの爆笑ライブがあった。

1966年6月 KRLA-Beat誌記事    プロデュース予定だったが.....

 興奮冷めやらぬBruceはRomfordから戻った後、記者たちにこう宣言していた。「ぼくはプロデューサーに戻る!Tony Rivers And The Castawaysで仕事をする。きっとヒットを出させる!」。しかし実際は何も実現しなかった。Tonyたちは自力で「God Only Knows」のカヴァーを仕上げ、1966年7月22日――The Beach Boysのオリジナルと同日――にリリースした。Melody Makerチャートで46位。The Beach Boysのヴァージョンは2位だった。

 「God Only Knows」におけるBruceの役割は、一般に思われているより遥かに大きい。Carlがリードを歌い、BrianとBruceがハーモニーを担当したこの曲は、当初Marilyn、Diane、Terry Melcherを含む大人数で録音されていた。しかしBrianは過剰と判断し、Carl・Brian・Bruceの3声部に絞り込んだ。「God Only Knowsには3声部しかない――あれほど有名なBeach Boysの曲の中で唯一の例だ」とBruce自身が語っている。

 そしてコーダこそ、Bruceらしさが最も光る瞬間だ。長いセッションの末にCarlが疲れて帰宅し、残ったのはBrianとBruceの2人だけだった。Brianはエンディング・セクションのトップとボトムのパートを自ら歌い、ミドルをBruceに任せた。あの甘く繊細なコーダは、Bruceなしには存在しなかった。「彼が2つのパートを歌い、私が真ん中を歌った」——Bruceはその夜のことをそう振り返っている。加入から1年も経たない新参者が、Beach Boys史上最も美しいと言われる曲の核心部分を支えていたのだ。なお、このコーダにはひとつの注記が必要だ。モノ原盤ではコーダの冒頭でBrianがCarlのリードを引き継ぎ、BruceとBrianが交互に重なっていく。しかし1996年のステレオ・ミックスでは、Carlが後日同じマルチトラックに上書き録音したためBrianのパートが失われており、コーダ冒頭はCarlの声で始まる。Brianの痕跡は、モノ原盤の中に静かに刻まれている。



 「Thank You, Baby」という曲は、Bruce Johnstonが書いた楽曲のなかでも、とりわけ不思議な生命力を持つ一篇である。Bruce & Terryのオリジナルは時代の波に飲まれたかもしれないが、この曲そのものは静かに、しかし確実に、さまざまな歌い手の声を借りて生き続けた。ここではその足跡を、録音の年代順に辿ってみたい。


Graham Bonney(1967年1月) UK Columbia 45rpm DB-8111

Produced by Bruce Johnston and Graham Bonney

Arranged by Bruce Johnston and Arthur Greenslade


 カヴァー列伝の時系列を正確に辿るならば、その第一走者はイギリス人シンガーGraham Bonneyでなければならない。Bruceが「Thank You, Baby」をBonneyと共に再録音したのは1966年末、Londonのスタジオでのことだ。アレンジはBruceとArthur Greensladeが共同で担当し、プロデュースはBruce自身とBonneyの連名。つまりこのヴァージョンは、作者が自ら海を渡り、異国の歌い手のために腕を振るったという点で、このカヴァー列伝の中でも特別な位置を占める。翌1967年1月、シングルはUK Columbiaレーベル(DB-8111)から英国でリリースされた。英国の音楽プレスはこの盤を好意的に迎え、Melody Maker(1967年1月14日付)はBonneyを才能豊かな好感度の高いシンガーと評し、楽曲をすぐれたビート・バラードと位置づけた上で、The Beach Boysとの関連性がヒットへの追い風になりうると期待を示した。しかし実際には、ラジオからもリスナーからもほとんど反応を得られないまま、シングルは静かに消えていった。華やかな批評と冷淡な市場――この皮肉な対比は、Bruce & Terry時代のアメリカでの経験と、どこか重なって見える。



Claudine Longet(1970年5月)

LP RUN WILD, RUN FREE(A&M SP-4232)収録、Track 6/Side 2

Arranged and Produced by Nick DeCaro


 フランス生まれの歌姫Claudine Longetが「Thank You, Baby」をカヴァーしたのは1970年のことだ。A&Mレーベルにとって最も洗練されたアーティストのひとりであった彼女のために、アレンジャーのNick DeCaroは楽曲をきわめて繊細に仕立て上げた。Nickの手になるアレンジは、原曲のもつ素朴な温かさを、より室内楽的な親密さへと昇華している。注目すべきは、このLonget版とのちのRod McKuen版の二版のみが、作曲クレジットにDinee Dudleyの名を刻んでいる点だ。出版社表記はDaywin Music, Inc.(BMI)であり、他の多くのヴァージョンがArtists Music, Inc.(ASCAP)を使用しているのと対照的である。




The Captain And Tennille(1972年2月)

LP SONG OF JOY(A&M SP 4570)収録、Track 3/Side 2

Produced by Daryl "The Captain" Dragon and Toni Tennille


 The Captain And Tennilleによるカヴァーは1972年2月のアルバム SONG OF JOY に収録された。Toni Tennilleの歌声は、ポップスの文法に忠実でありながら、どこか説教壇から語りかけるような真摯さをあわせ持っている。後に彼らが「I Write The Songs」「Disney Girls」といったJohnston作品を積極的に取り上げることになる。作曲クレジットは「Bruce Johnston」単独、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。Bruceの名のみを刻んだこのシンプルな表記が、以後の「標準型」となっていく。


Rod McKuen(1972年5月)

LP ODYSSEY(Warner Bros BS 66383)収録、Track 3/Side 1

Produced by Rod McKuen


 詩人・作曲家・歌手という三つの顔を持つRod McKuenのカヴァーは、このシリーズの中で最も個性的な変種である。Rodはただ歌っただけではなく、楽曲の冒頭に新たなヴァースを書き加え、各所の歌詞にも手を入れた。その「改作」の対価として、クレジットには「Rod McKuen-Bruce Johnston-Dinee Dudley」の三名が並び、出版社もDaywin Music, Inc.とMcKuen自身のSalvation Musicの連名となっている――Salvation Musicという社名は、McKuenが救世軍の宿泊所で生まれたという出自に由来する、いかにも詩人らしい命名である。



Andy Williams(1976年5月)

LP ANDY(Columbia OC 34299)収録、Track 3/Side 1

Produced by Larry Brown


 かつてColumbia Recordsの屋台骨を支えたAndy Williamsがこの曲を手がけたのは、1976年のことだ。Johnstonもまた同時期に同じColumbia傘下でソロ活動を展開していたことを思えば、この符合はいかにも意味深長に映る。Larry Brownのプロデュースは堅実そのもので、Andyの成熟した声の魅力を無駄なく引き出している。クレジット表記は「B. Johnston」と略記され、出版社はArtist Music, Inc.(ASCAP)。



Bruce Johnston(1976年5月)

LP GOING PUBLIC(Columbia PC 34459)収録、Track 3/Side 1

Produced by Gary Usher


 作者自身によるセルフ・カヴァーは、このカヴァー列伝の白眉である。Gary Usherのプロデュースのもと、Bruceは全ヴァージョン中最長となる4分23秒をかけて、この曲を徹底的に「自分のもの」として再構築した。Andy Williamsのヴァージョンと同じ月に、同じColumbia Recordsからリリースされたという事実もまた興味深い。GOING PUBLIC には「I Write The Songs」「Disney Girls」とともにこの曲が並んでいる。Bruceの作家的自己像を語る上で欠かせない三曲が、一枚のアルバムに揃っているのだ。クレジットは「B. Johnston」、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。

                                        

Rosemary Clooney(1977年)

LP NICE TO BE AROUND(UAS 30008)収録、Track 5/Side 1

Arranged and Produced by Del Newman


 1950年代からポップスとジャズの双方で活躍し、長いキャリアを誇るRosemary Clooneyが、この曲をUKでひっそりと録音していた事実は、多くのリスナーにとって発見であろう。Del Newmanのアレンジは、Londonのスタジオ録音らしい品のよさに満ちている。出版社表記も演奏時間も盤面には記載されていないこの版は、「Thank You, Baby」の大西洋横断の証人として、ディスコグラフィー上に静かに佇んでいる。

                                

                                      

Trevor Chance(1978年)

LP LOVE IS(LP1)収録、Track 2/Side 2

Produced by Gordon Smith。UK(Simon Records)

 このリストの末尾を飾るのは、UKのSimon Recordsという小さなレーベルからリリースされたTrevor Chanceのヴァージョンである。作曲者名のクレジットは「Johnson」――"t"が抜け落ちたまま刻まれており、大西洋を渡るうちに名前がひとつ削られてしまったかのようだ。Gordon Smithのプロデュースによるこの録音の詳細は現在も不明な部分が多いが、LA生まれの一篇のポップ・ソングが、1978年のロンドンで名もなき歌手によって歌われていたという事実それ自体が、この曲のもつ静かな普遍性を雄弁に物語っている。

 八つの声が時代を超えて「Thank You, Baby」を歌った。Bruce & TerryがColumbia Recordsのスタジオで生み落としたこの小さな宝石は、まずBruce自身の手によってロンドンへと渡り、Graham Bonneyの声を借りて英国デビューを果たした。その後Claudine Longetのフランス的エレガンスとなり、Toni Tennilleの真摯な誠実さとなり、Rod McKuenの詩人的再解釈となり、やがて作者自身の手によって最も豊かな形へと結晶した。そして再び海を渡り、名前の綴りを間違えられながらも、ロンドンの片隅で歌われ続けた。一曲の歌の生涯とは、かくも豊かなものである。与えられた時間に感謝しながら、自ら静かに幕を引く。それがこの曲の真髄だとすれば、61年間ステージに立ち続け、自らの手で次の扉を開けたBruce Johnstonもまた、音楽とファンに向けて同じ言葉を贈ることができるだろう。

Thank you, baby.



詳細ディスコグラフィは 
佐野氏作成 2017/08/30記事Favorite Musician 全音源コレクティング第3回を参照されたい。

出典
Stephen McParland著
Bull Sessions With The Big Daddy: 
Interviews with Those Who Helped Shape The California Sound
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s VOL.1
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s.VOL.2

2026年2月13日金曜日

We Gotta Groove – Brian’s Back!の真実と、その音が生まれた場所–


   
  1976年、The Beach Boysのツアー告知や広告に踊った「Brian’s Back!」という言葉は、当時のロック・シーンにおいてきわめて異例なキャッチコピーだった。新曲でも新作でもなく、「Brianが戻ってきた」こと自体が最大の商品価値として打ち出されたのである。それは同時に、Brian Wilsonという存在が、いかに長く“不在”だったかを物語っている。
    1960年代中葉以降、彼はステージから退き、スタジオに引きこもり、やがて精神的にも音楽的にも崩壊と再生を繰り返す存在となった。『SMiLE』の挫折以降、バンドは「Brian不在でも前に進むバンド」として存続してきたが、ファンもメディアも“いつか戻ってくる天才”の幻想を捨てきれずにいた。1975年末、その幻想に現実味を与えたのがEugene Landyによる24時間管理プログラムだった。この治療によってBrianは確かに安定し、社交性を取り戻し、そして何よりも再び音楽を量産し始める。


 重要なのは、ここでの「回復」が必ずしも健全な回復ではなかった点だ。Landyの管理下でBrianは強烈なプレッシャーと期待にさらされ、「Brianが戻った」という物語は、本人の内面よりも先に周囲によって作られていった。1976年夏、Brianは久々のツアー復帰を果たすが、観客は彼の現在地よりも「天才の帰還」という物語を見に来ていた。その延長線上に生まれた『15 Big Ones』は、そこそこ商業的に成功を収めたが、その内容はファンやメンバーに複雑な反応を引き起こした。求められている“復活した天才”と、彼自身がやりたい“個人的で衝動的で管理されない音楽”。この内面のねじれこそが、当時の彼の音楽の核心にある。
 また、1970年代後半という時代背景と、このアルバムが放つ異様なまでの「ズレ」がある。
1977年といえば、世界はEaglesが描く洗練された「Hotel California」の憂鬱に浸り、一方でパンクの衝動やディスコの狂騒が世間を焼き尽くそうとしていた。そんな中、Brianが提示したのは、最新鋭の洗練でもなければ、破壊的な怒りでもなかった。彼が差し出したのは、重厚なアナログシンセが奏でる、狂った子供部屋のBGMだった。
 『Love You』を聴いてまず耳を打つのは、粘り気のある、時に「下品」とも形容されるほど図太いシンセサイザーの音色だ。かつての『Pet Sounds』でオーケストラを自在に操った指揮官は、ここでは一人スタジオに籠もり、おもちゃを手にした子供のようにシンセのノブを弄り倒した。 その結果生まれた音像は、洗練とは程遠い。低音はブヨブヨと波打ち、メロディはまるで遊園地の壊れたアトラクションのように不規則に跳ねる。この洗練の完全な放棄こそが、当時の批評家を困惑させている。
 かつての天使のようなファルセットはここにはない。長年の喫煙と不規則な生活によって、Brianの歌声は低く、掠れ、時に吠えるような野太い質感へと変貌していた。 しかし、その「ボロボロになった大人の声」で「惑星(Solar System)」や「テレビ司会者(Johnny Carson)」への素朴な愛を歌うという異常なコントラストが、このアルバムに唯一無二の切なさを与えている。この居心地の悪さの正体は、この「老いた肉体」と「退行した精神」が同居する、Brian Wilsonという人間の生々しすぎる実像そのものなのだ。
 その内面をあらわにした一例が『I Wanna Pick You Up』である。本作は甘美なポップソングの体裁をとりながら、成熟したパートナーを徹底的に赤ちゃん扱いする描写で、聴き手に強烈な生理的違和感を突きつける。体を洗い、足を拭うといった乳幼児への身体的介護を連想させる歌詞は、慈しみを超え、対象の主体性を剥奪する幼児化の様相を呈している。現代の倫理的視点で見れば、相手を無力な存在として固定化し、ケアを通じて支配欲を充足させるこの構図は極めて不均衡で危うい。「抱き上げられない現実」を認めつつ「心の中で抱き上げる」と歌う執着は、相手を完全に管理可能な存在として定義したいというエゴイスティックな願望の露呈に他ならない。この違和感の正体は、Brianが抱えた孤独の深淵であり、自らの救済のために他者を「無力な存在」へと作り替えようとする愛の恐ろしさそのものである。※1
 当時のThe BeachBoysは、世間からは「永遠の夏」を歌うノスタルジーの象徴として求められていた。そんな中、Brianがこの奇作を持って現れたことは、バンドにとってもファンにとっても一種のテロ行為に近かった。 『Love You』は、ヒッピー・ムーブメントの残滓からも、パンクの喧騒からも、ディスコの快楽からも完全に切り離された「孤島」だった。Brianは時代の潮流に乗り遅れたのではない。最初から、彼は自分だけの時間軸の中に、自らを閉じ込めてしまったのだ。
  このボックスが暴き出したのは「天才の完成された遺産」ではない。そこにあるのは、時代に背を向け、ボロボロの声で、無機質に鳴り続けるシンセ音に救いを見出そうとした、ひとりの男の孤独なつぶやきである。

 『SMiLE』から『Love You』へ、一本の線で結ぶ再解釈

The Beach Boys - We Gotta Groove (Visualizer)

 長らくThe Beach Boys史の中で、「未完の大作」と「奇妙で幼稚なカルト作」として正反対の位置に置かれてきた『SMiLE』と『Love You』。だが、この二枚を断絶ではなく一本の線として聴いたとき、まったく別の風景が立ち上がる。
 『SMiLE』でBrianが目指したのは、音楽によって世界を説明することだった。米国建国神話、歴史、自然、共同体。そのすべてを断片化されたモジュールとして組み上げ、編集によって巨大な構造体を作ろうとしたのである。しかし、その構想はあまりに過剰で、持続不可能だった。『SMiLE』の崩壊とは、単なるアイデアの失敗ではなく、「世界全体を背負おうとした」ことの限界だったと言える。
 約10年後に現れた『Love You』は、その反動のように見えるが、実際には重要な「方向転換」であった。Brianがここで捨てたのは音楽的野心ではなく、「説明しようとする意志」である。構造は極端に縮小され、言葉は幼児化し、楽曲は短い反復の中で完結する。しかしその内側では、『SMiLE』と同じ思考が脈打っている。断片化、反復、感情の宙づり、意味より響きを優先する態度。これらは形を変え、『Love You』の中に確かに息づいているのだ。
 『SMiLE』が世界を外側から捉えようとした音楽だとすれば、『Love You』は自分の内側だけを見つめた音楽である。Brianはもはや神話を必要としない。テレビ司会者、ベッド、恋心、その日の気分といった極めて私的な題材が、そのまま音楽になる。スケールは縮んだが、純度は高まった。ここにあるのは未処理の感情を未処理のまま鳴らすという、極端に誠実な表現だ。
 Brianは「Good Vibrations」の成功を経て、楽曲を最初から最後まで順番に書くのではなく、30秒から1分程度の「Feel」を大量に録音し、後でそれらをパズルのように組み合わせるモジュラー・アプローチを確立した。彼は音のテクスチャーや雰囲気を、それ自体で完結した一つの「制作単位」として扱っていたのである。 この思考は『Love You』へと直結している。かつての膨大なオーケストラによる「Feel」は、ここでは簡素なシンセサイザーの「執拗な反復(ループ)」へと姿を変えた。「Ding Dang」や「Let Us Go On This Way」に見られる、同じ衝動を別角度から叩き続ける手法。それは、断片を愛でるBrianのモジュラー思考が、一切の虚飾を剥ぎ取られ、剥き出しのまま提示された姿といえる。
 両作に共通するのは、ヴァース〜コーラスという伝統的な起承転結からの逸脱だ。『SMiLE』が各セクションを唐突に切り替えることで未知の風景を提示したように、『Love You』もまた、展開を拒絶するかのような短絡的なリフレインによって聴き手を迷宮へと誘う。そこにあるのは物語を語るための音楽ではなく、響きのテクスチャーそのものを提示する態度だ。音楽が時間軸に沿った進行を止め、その場に留まり続けるような「静止したダイナミズム」は、Brianがこの二つの頂点でのみ到達した特異な境地である。
 『SMiLE』の「Wonderful」等に見られた、高度な和声語法と童謡のような言葉の乖離。この「構造の複雑さ」と「意味の単純さ」のねじれこそが、Brianのアイデンティティだ。『Love You』の「I’ll Bet He’s Nice」の複雑な転調や、「The Night Was So Young」の解決を拒むコード進行。これらが子供の独白のような歌詞と密着して響くとき、そこにはフィルターなしの、無垢なBrianが露出する。
 モジュラー思考と言えば聞こえはいいが、単なるネタ切れや構成力の欠如ではないかということもあるかもしれない。確かに、かつての多層的なオーケストレーションに比べれば、あまりに短絡的なリフレインの連続に、ブライアンの才能の枯渇を見てしまうのは否定できない。 しかし、もしそれがネタ切れの結果だとしても、その『行き詰まり』を隠さず、そのまま音にしてしまう潔さこそが、この時期のブライアンの凄みなのだ。


『Love You』を「縮小されたSMiLE」として読む

 表層の音色や語彙を超えて、そこには『SMiLE』の中核的な発想が形を変えて生き残っている。
「Let Us Go On This Way」:セクションの唐突な切り替えや循環するコード進行、発展せずに同じ衝動を別角度から叩くメロディ。これはかつてのモジュール思考の極端な簡略化である。
「The Night Was So Young」:ベースラインが感情を牽引し、安定しないコードとメロディが常に“途中”の感覚を保つ。これは感情を解決しないまま宙づりにする『SMiLE』的叙情性の純化と言える。
「I’ll Bet He’s Nice」:幼児的な独白のような歌詞と、異様なほど洗練され転調の多い和声の乖離。意味は単純だが構造は複雑というBrian独特のねじれが露出している。

このボックスセットは、完成されたアルバムを単に並べたものではない。 幻のアルバム『Adult/Child』の「もしも」を追体験し、『Love You』の歪(いびつ)な純真さを解剖し、そしてカセットテープに吹き込まれた天才の独り言に耳を澄ます。
ここにあるのは名曲の羅列ではなく、Brian Wilsonという迷宮の「未加工の地図」である。以下に、その膨大なディスク内容の全貌と、各パートが持つ音楽的意義を詳しく見ていこう。

 DISC 1の核となるのは、2025年最新リマスターが施された『Love You』本編だ。近年の過度な音圧意識のミックスとは一線を画し、テープが持つ本来のダイナミクスを尊重したマスタリングが光る。シンセサイザーのざらついた質感や重厚なベースの響きが、不自然に削られることなく耳に届く。無理にクリアにしすぎず、当時の録音現場の空気を守り抜いた誠実な仕上がりだ。Disc 1後半のアウトテイク集では、その多くに当時のミックスを採用するという大胆な手法が取られている。これは現代の視点で整えられた音ではなく、Brianが当時スタジオで聴いていたであろう「その瞬間の音」に立ち会う体験を優先した結果だろう。
 「Sherry She Needs Me」特筆すべきはこの曲の収録だ。2013年の『Made in California』で聴けたヴォーカル追加版はどちらかといえば、資料的価値の高さという意味で貴重だった。本作では1976年当時にもし正式リリースされたらどうなったか?という原初の姿が、余計な現代的補正がなく、当時のエコー処理・定位が生々しい荒削だが純度の高い音質で収められている。この時代ならではの瑞々しさと切なさが同居する響きを体験できるのは、ファンにとって格別の喜びと言える。「Ruby Baby」や「Marilyn Rovell」、「Lazy Lizzie」といった楽曲群が、1976年当時の生々しい質感で蘇る。
 最新ミックスされた「We Gotta Groove」は、長年欠落していたリード・ヴォーカルが本来あるべき位置に据えられ、ついに完成形を見た。ザクザクとしたリズムと地鳴りのようなチャント風コーラスが絡み合う様は、この時期のBrianの力強さを証明して余りある。また、アルのリードによる「Love Is A Woman」、奇妙だが楽しい長尺ギター・イントロ付きの「Johnny Carson」などの別テイク群も秀逸だ。
 ディスクの掉尾を飾る「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’」は、今回のオリジナル・ミックス。Phil Spectorの畏敬と、Brian独自の狂気的なまでの音の厚みが、かつてない明瞭さで迫ってくる。
 このセッションに詳しいファンなら、「Hey Little Tomboy」が収録されていないことに気づくだろう。まず、レコード会社とBrian Wilsonの管理団体がおそらく最も優先したのは、Brianという個人の尊厳を守ることだった。『Adult/Child』制作時のBrianは「大人と子供の境界」が崩壊していた。この曲に含まれる「膝の上に座らせる」といった、現代の基準では性的搾取と直結する描写を「Brian Wilsonの芸術」として再提示することは、彼のレガシーに拭い去れない泥を塗るリスクがあると判断されたのだろう。つまり、楽曲を削除することは、彼を「加害者」的な視線から守るための、苦渋の選択だったと思われる。

   Disc 2の幕開けを飾るのは、幻のアルバム『Adult/Child』セッションから厳選された9曲のオリジナル・ミックスだ。この素材は長年にわたり、マニアの間で多種多様な音源クオリティやミックスが入り乱れる形で流通してきた。それだけに、あえて当時のミックスを体系的な形で提示した今回の判断は、実に素晴らしいと言わざるを得ない。そこにはBrian特有のメロディ感覚や和声の妙が随所に息づいてはいる。しかし、何より必要だったのは、これこそが一切のフィルターを通していない「濾過されていないBrian Wilsonそのもの」なのだ。
「Life Is For The Living」は本作の中でも目立つ一曲であり、このアルバムがしばしば「ビッグバンド作品」と誤解される理由でもある。とはいえ、全体の感触はむしろ『Love You』に近い部分も多い。テンポ修正された「It’s Over Now」も収録されている。「Still I Dream Of It」は1993年以来初の公式リマスターとなり、明らかに音質が向上している。
 「New England Waltz」は、オリジナル・ミックス群の最後に配置されているが、これまで劣悪な音質でしか聴けなかった音源が、ようやくまともな形で聴けるようになった。
続いて「Life Is For The Living」「Deep Purple」「It’s Over Now」「Still I Dream Of It」のバッキング・トラックが収録される。後半3曲は2025年ミックスで、特に充実した選曲だ。

Disc 2の後半は、この時代の多種多様な楽曲が散りばめられ、主役の座がCarlとDennisへと引き継がれていく。
   Carlの熱狂的なファンならば、このDennisの名曲「Holy Man」に吹き込まれたCarlのガイド・ヴォーカルは諸手を挙げて歓迎するだろう。ほぼ全編をスキャット的な歌唱でなぞっており、そのミックスの仕上がりは素晴らしい、の一言に尽きる。続くCarlの未発表曲2曲のうち、「Carl’s Song #1 (It Could Be Anything)」もレアな一曲だ。「Surf’s Up」から『Carl & The Passions』期に至る彼の最良の瞬間が結晶化したような楽曲で、ここでも瑞々しいガイド・ヴォーカルが深い余韻を残す。一方の「Carl’s Song #2」は、後に『L.A. (Light Album)』へ収録される「Angel Come Home」の原型にあたる。ヴァースやブリッジはほぼ形を成しているが、あの特徴的なサビがまだ生まれていない制作途中の姿を捉えている。
    Dennisはここで、70年代半ばの彼らしい壮大なサウンドを2曲提示している。「String Bass Song」は、後に『Pacific Ocean Blue』に結実する「Rainbows」の萌芽であり、二部構成の「10,000 Years Ago」は、前半が『Bambu』期の「Are You Real」へと繋がり、後半はMikeも制作に関与した「10,000 Years Ago」そのものの形をとっている。
   また、Brianによる1977年版「Gimme Some Lovin’」にも注目したい。近年の90年代以降のソロ作品を彷彿させるアプローチとなっており、彼が特定のモチーフやリフを反復し、再構築していく創作過程を追えるのは非常に興味深い。Marilynが歌う「Honeycomb」は、優しくも切ない仕上がりだ。独唱から始まり、徐々に伴奏が重なっていく構成も実に美しい。
 Disc 2の終幕を飾るのは、1975年に録音された「In The Back Of My Mind」のデモ・新ミックスである。かつて『No Pier Pressure』の限定特典として陽の目を見た音源だが、今回ついに正式収録となった。ライナーノーツが記す通り、Brianの歌唱とTandyn Almerのピアノで綴られるこの音源は、アルバムの締めくくりにふさわしい深い感慨を抱かせる。

 Disc 3の幕を開けるのは、いわば「もうひとつの『15 Big Ones』」とも呼ぶべき音源群だ。マニアックな聴き手であれば、本作に『15 Big Ones』のオリジナル・テイクが丸ごと収録されていない事実に、一瞬の戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、シリーズが深まるにつれて対象がより先鋭的なファン層へと移行するなか、既発のアルバムを型通りに再録することに拘泥しないという、確固たる編集方針がここには貫かれている。
 「Just Once In My Life」の鮮烈な新ミックスを合図に、アルバム本編からは漏れたオールディーズ・カヴァーが次々と繰り出される。「Mony, Mony」「Running Bear」「Shake, Rattle And Roll」「On Broadway」「Sea Cruise」……いずれも音質の見違えるような向上には驚かされるばかりで、エンジニアであるやSaezの手腕には、ただただ舌を巻く。中でも「On Broadway」は、Alのリード・ヴォーカルを堪能できる逸品だ(邪魔な観客SEが排されているのも最高だ)。さらに「Chapel Of Love」や「Short Skirts」もリミックスが施されたことで、その真価を改めて世に問う仕上がりとなっている。
 また、「TM Song」「Rock And Roll Music」「Solar System」の3曲は、にコーラス付きバッキング・トラックでの収録。特筆すべきは「Solar System」で、最終的にヴォーカルのみが残る構成へと移行していく様は、実に壮麗というほかない。
 「Had To Phone Ya」と「Mona」のミックスはユニークだ。曲が進むにつれ、楽器が増減しボーカルが出たり消えたりする、制作の時系列を再現した構成。とりわけ「Mona」のエンディングは秀逸で、簡素なシンセサイザーと歌声が美しく溶け合いながらエンディングに向かっていく。
 聴きどころはまだ続く。「Just Once In My Life」のバッキング・トラックは音場が劇的に広がりを見せ、「Let Us Go On This Way」ではCarlのリードを前面に押し出した別ミックスを聴くことができる。また、Bill Hinscheがリードを取る「Honkin’ Down The Highway」や、エディットされる前の生々しいセッション風景を伝える「Ding Dang」など、資料的価値と音楽的感動が同居したトラックが並ぶ。そして、圧巻なのはやはり「The Night Was So Young」のヴォーカル・オンリー版だろう。その純度の高い響きの美しさを再認識させられる。「Let’s Put Our Hearts Together」には未発表のコーダが付け加えられており、古風で甘美なハーモニーがいつまでも続いていくかのような錯覚に陥る。
 ラストを飾るのは、カセット・デモ。 長年知られていたテープだが、長年マニアの間で語り継がれてきたプライベート録音の究極の復元である。かつてない鮮明なリアリティで蘇ったその音場からは、Brianが紡ぎ出す旋律の魔法に、Mikeが魂を奪われている様子が克明に伝わってくる。思わずハミングで寄り添い、感極まったように称賛の言葉をこぼすビジネスマンではなく朋友としてのMike。その剥き出しの反応は、ビジネスとしての「復活」という虚飾を剥ぎ取った先に残る、真の巨匠の閃きの記録に他ならない。
 しかし、この親密な芸術的瞬間に冷や水を浴びせたのが、あまりにも非情な現実――シングル「Honkin' Down the Highway」の歴史的爆死であった。前年に全米5位のヒットを飛ばしていたグループが、チャート100位圏外という前代未聞の惨敗を喫したのである。
この結果を危惧したMikeは、ビジネスとしての冷徹な判断を下す。「これ以上Brianの奇行に付き合えばバンドは持たない」と確信した彼は、主導権を変更。Brianが次に完成させていた、未発表アルバム『Adult/Child』を「売れない」と一蹴し、お蔵入りへと追い込む。
本作を境に、バンドは新らしいアイディアで勝負する表現者としての看板を下ろし、過去の栄光をなぞる「懐メログループ」へと舵を切ることとなる。Brianは再び深い隠遁の淵へと沈み、ファンにとっては長きにわたる「冬の時代」が始まった。
ブックレットには、完全なセッショノグラフィーが収録されており、テープ形式に至るまで詳細に記録されている。

 完成度や成功といった既存の物差しでは、この時期の音楽を測ることはできない。しかし、このボックスセットに収められた音源は、復活という名の狂騒の裏側で、ひとりの作曲家が何を掴み、何を捨てようとしたのかを克明に伝える、あまりに切実な痕跡だ。The Beach Boysが単なるポップ・グループではなく、ひとりの天才の魂の生存記録であるならば、このセットは彼らの歴史の中で最も人間味に溢れ、そして最も美しい証言集となるだろう。

P.S Top画像はAI生成画像である、あくまでシャレ・戯れに過ぎず、実在のスタジオ風景とは無関係であることを申し添える。


※1 編集部補足:歌詞の解釈については、作者であるBrian Wilson本人の1976年の発言に沿ったものであり、執筆者の主観的考察だけではないのでご留意願いたい。以下引用。

"The song is descriptive of a man who considers this chick a baby, and he says, 
"Well, you still have a baby in you. You're still like a baby to me. You just sorta have that thing and I want to pick you up." Even though she's too big to pick up, of course. 
But he wants to; he wants to pretend she's small like a baby: He really wants to pick her up!"


2026年1月4日日曜日

2025年の収穫 Хелп Ме,Рохнда

    2025年、筆者のThe Beach Boys音盤収集遍歴において一大イベントが起きた。それが、肋骨レコードとの出会いだ。この不思議なレコードは、単なる音楽の記録にとどまらず、それは、歴史の産物であり、音楽への情熱が凝縮された証でもあった。
肋骨レコードは、1950年代以降のSoviet時代に生まれた密造品だ。当時、Soviet当局は西側の音楽を「退廃的」として徹底的に規制していた。Elvis PresleyやThe Beatlesのようなアーティストたちの音楽も当然禁止され、秘密裏に音楽を手に入れたいという欲求を持った音楽愛好者たちは、禁断の方法に手を染めた。それが、レントゲンフィルム—つまり、病院で廃棄されたX線写真を使ってレコードを作る方法だった。
塩化ビニールやシェラックのようなレコードの材料は政府によって物資の割り当てが統制され、一般市民には手に入れることができなかった。だが、レントゲンフィルムは可燃性を嫌う医療機関によって捨てられており、柔軟性があり音の溝を刻むことができた。音楽愛好者たちはこれを巧妙に活用し、政府の目を逃れて音楽を密かに再生した。この肋骨レコードには、驚くべきストーリーが込められている。フィルムの上に刻まれた音は、再生すれば必ずしもクリアではなく、すぐに劣化してしまう。しかし、その音質の不完全さ、そしてその背景にある反抗の精神が、筆者にとってこのレコードをただの音楽以上の存在にしている。
肋骨レコードを知ったのは、欧州人主催のヴィンテージオーディオ愛好者が集まるSNSだった。最初は真空管数点に混じって投稿された謎めいた肋骨レコードの画像のみだった。やがてその佇まいに魅了され、もっと知りたくなった。調査を進めるうちに、「UkraineにThe Beach Boysの肋骨レコードが存在する」という情報を掴み、そこから驚くべき展開が始まった。
所有者の親戚は旧ソ連時代、Leningrad(現Saint Petersburg)の内務省で市街の風紀取り締まりを担当していた。その仕事は「社会の秩序を守る」という立派な使命だ。最初はもちろん真面目に取り締まりをしていたが、時が経つにつれてカセットテープの密造が広まり、西側音楽の進化がますます加速する中で、押収された肋骨レコードの音楽は、まるで過去の遺物のような存在になっていった。西側の先鋭的で刺激的な音楽が登場するたびに、これらのレコードは“古びた音”としてすぐに色褪せ、当局から見ても、もはや「時代遅れのサウンド」となっていった。
当初は、「西側の音楽を取り締まることこそが国家のため」と信じて、何かと肋骨レコードを押収したものの、途中からはその音楽がもはや「珍しい戦利品」ではなくなり、上司に報告しても「そんなのどうでもいい」と一蹴される始末。しばらくすると、なんだかんだ理由をつけて、押収されたレコードは親戚に押し付けられ、すべて自宅に持ち帰らされることとなった。
洋の東西を問わず無許可著作物の摘発に熱心に取り組んでいたその姿勢は立派であったが、上司からの評価は一切得られず、結局その努力は報われることなく終わった。結果的に家の一角に「西側音楽のゴミ屋敷」ができあがったのだ。
その後親戚は郷里Ukraineに帰ることなった。ところが、予想もしない展開が待ち受けていた。静かな田舎町で、溜まっていた肋骨レコードたちが、まさかの「大ヒット」の兆しを見せ始めたのだ。都市部ではとっくに時代遅れ扱いされていたそのレコードたちが、なぜかこの町では若者たちに大歓迎されることに。西側音楽への渇望が根強く残っていたとはいえ、これほどまでに時代に取り残されていた音楽が、まるで「逆転の発想」でウケるとは思いもしなかった。
都市部のトレンドとは完全にズレていたが、田舎町で若者たちは「これぞ欲しかった!」と言わんばかりに、まるで宝物を手に入れたかのように喜んでいたのだ。「これはちょっとした商売になるかも」と、親戚は肋骨レコードを農作物や酒類と交換していったそうである。しかし、悲しいかな、The Beach Boysだけはまったく人気が出なかった。もちろん、彼が求めていたのは儲け話だが、「American Band」の代表格のはずのThe Beach Boysが田舎でまるで無名のように扱われ、最後まで売れ残っていた。そうした経緯の後、所有者から物々交換という形で肋骨レコードを手に入れることができた。その交換材料は、百円ショップで購入したアニメグッズ数点と、日本製コンデンサー1ダース。
音楽を聴く上で、何を基準に選ぶべきか──それは実に奥深い。筆者が選んだカートリッジは、最新のハイエンドシステムからすれば、間違いなく格下の選択だろう。しかし、今回はあえてその「格下」を選んだ。そう、筆者が手にしたのは、欧州のポータブルプレーヤーやジュークボックスに使われていたクリスタルカートリッジ。現代のオーディオ基準から見ると、音質は正直言って劣る。レンジが狭く、音の解像度も粗い。しかし、だからこそ、このカートリッジには特別なエネルギーが宿っている気がした。肋骨レコードの再生にこれを使うことで、その「エネルギー」が不完全さと相乗効果を生むのではないかと感じた。セラミックカートリッジ特有の高出力、そして中域に集中する音圧。これが肋骨レコードの歪んだ音質と合わさることで、ただの音質ではなく、音楽が持っている本来のエネルギーを引き出せるのではないか。そんな思いを胸に、再生を始めることにした。



レントゲンフィルムでできたレコード──これほどまでに不安定な響きがあるだろうか?それはまるで過去と現在の間をつなぐ架け橋のようだ。初めて手にしたそのレコードをターンテーブルに乗せる瞬間、胸が高鳴る。
だが、見た目からして予想はついていた──フニャフニャだ。
レントゲンフィルムだから当然だが、あの柔らかさは思っていた以上に心もとない。フィルムそのものが、普通のレコードよりもずっとやわらかいのだ。下敷きが必要!
ここで、やはり東西の邂逅を狙って、下敷きに選んだのはオリジナルのCapitol盤。


これで少しは安定感が増すだろう、と目論む。が、現実は想像よりもやや厳しい。
中央のスピンドルの穴、これがまたかなりアバウトだ。


一説によると火のついたタバコで穴を開けたらしい。普段のレコードならば、ピタリと中央に収まるところ、今回のフィルムでは遊びが大きい。慎重に中央に合わせてみる。しかし、これがまた妙にワクワクする。
拡大してみると音溝は端正な出来である

いざ、再生の準備が整い、針を落とす──が、なんと第一回目は針が滑って再生されない。まさに予想外。これはただのレコード再生ではない、これはまるで実験のようなものだ。
経験から分かっている。針圧をもっとかけなければならない、そうだ、少し多めに──数度の試行錯誤を経て、ついに決定的な瞬間が訪れる。オーディオ評論家なら絶対に怒り狂うような針圧、まるでSP盤のような重量数10gをかけると、ついにあの声が響き出す。
最後はもう一枚の下敷きとスタビライザーで
押さえ込みアームの重量も加えて安定

Alの歌声と、Brianのあのファルセットが、音の乱れの先から、まるで夢のように浮かび上がる。そして、確信する。これはシングルヴァージョンだと。
音質は確かに荒削り、だが、間違いなくあの有名な『Help Me, Rohonda』のあのメロディ、あのリズムが、寸分の狂いもなく蘇ってきた。まさに、時を超えた音楽の奇跡。
ノイズ越しに、筆者はまるでタイムマシンに乗ったかのように、60年前の当時の抑圧体制下の若者と向き合っていた。
この肋骨レコード、ただの音楽メディアではない。まさに歴史の一部を直接耳で感じることができる、まさに「音楽史」の断片を手にしたような気分だ。再生を繰り返すたびに、ますますその不安定さが愛しく、またその不完全さが心地よくも感じられる。無骨で不器用なその音が、どこか人間的な温もりを持っていて、まるで当時の音楽愛好者たちの情熱がそのまま残っているかのようだ。手に入れた肋骨レコードは、音質はまさに「骨伝導」で伝わってくるような、荒削りなものだ。それでも、その音の中に秘められた「反体制的な情熱」を感じ取ることができる。そこにはただの音楽だけではなく、その時代に生きる人々の「自由を求める叫び」が込められていた。音楽がただの娯楽や趣味ではなく、歴史的背景を持つ強烈な表現であることを、改めて実感させられた。肋骨レコードは、単なるレコードの一形態ではない。歴史的な意味を持ち、かつてのSoviet市民たちの勇気ある行動を今に伝えるアート作品でもあるのだ。

    筆者のオーディオに対する考え方は、他のオーディオ愛好者とは少し異なるかもしれない。一般的にはオーディオ機器は「音楽を聴く」ための装置として捉えられがちだが、筆者にとってそれは単なる再生装置以上の意味を持っている。それは、音楽という「エネルギー」を真に感じ取るための道具であり、音楽が持つ力強いメッセージを伝えるための手段でもある。音楽を聴く行為は、ただ音を耳で受け取ることだけではなく、その背後にある「物語」や「情熱」を感じ取ることにあると思う。だからこそ、筆者はオーディオ機器を、過去の記憶を蘇らせるための装置、ひいては歴史を感じ取るための道具として捉えている。
オーディオ機器に求めるものは、単に高音質であったり、精密な再生能力を持っていることではない。確かに、精緻な音質や解像度の高い再生は魅力的であるが、それだけでは十分ではないと考えている。音楽を真に感じるためには、その音の背後にある「エネルギー」を捉えることが大切だ。オーディオ機器は、そのエネルギーを伝える「媒介」として存在し、音楽が持つ真のパワーを引き出すための装置でなければならない。
これまでの音楽再生議論は、主に「DECCAのffss」や「Blue Noteの深溝」など、ハイファイ文脈における高音質が中心に語られてきた。確かに、オーディオファイル的な精密な音質を追求することは重要な視点ではある。しかし、筆者が感じる音楽再生の魅力は、それだけにとどまらない。音楽がその本来の力を発揮し、時代を変革した要因には、日常的に使われた「ジュークボックスで流れるシングル盤」や「家庭用のポータブルプレーヤーで鳴る歌謡曲」といった、大衆音楽の真髄が存在している。
その音の中には、まさにエリート主義的なEQカーブの整合性を超えた「音の野生」が宿っていた。音質が粗雑であっても、その「エネルギー」は純粋で、音楽そのものが持つ本質的な力強さが伝わってきた。モノラル再生では、現代のオーディオ機器における「完璧な音」を追求するのではなく、あえて粗削りな音質の中に宿る「本物のエネルギー」を感じ取ることができる。それこそが、音楽が持つ本当の力を引き出す鍵だと筆者は信じている。


また、筆者が選んだクリスタルカートリッジというカートリッジも、この考え方に通じるものがある。クリスタルカートリッジは、現代のオーディオ基準では「安価でレンジが狭く、音質が劣る」と見なされがちだ。しかし、このカートリッジで再生される音楽が放つエネルギーこそが、当時の大衆音楽—Rock'n'Roll、歌謡曲、ポップス—の力強さを支えていた。そのカートリッジ特有の高出力とエネルギーが集中した中域の「塊」のような音。それが、歪んだヴォーカルや情念を、ハイファイな繊細さ以上に生々しく、力強く届けていた。
時代を動かした音楽のエネルギーは、まさにその時代の録音機器が絞り出した「悲鳴」のようなものであり、そのエネルギーこそが音楽を生き生きとしたものにしていた。今日のハイエンドオーディオ機器でいくらその音を再生しても、当時の「格下」とされるオーディオセットで生み出されていた音楽のエネルギーには及ばない。それは、音質だけではなく、音楽に込められた「感情」や「歴史」の一部だからだ。
筆者は最近の初期盤ブームに一石を投じたい。確かに初期盤を購入することは、貴重な音楽体験をする手段の一つである。しかし、初期盤だからといって必ずしも高音質が得られるわけではない。その当時、音楽はどのようなオーディオセットで再生され、どんなエネルギーが込められていたかを理解することこそが大切だ。今日の高性能なオーディオ機器で再生することも一つのアプローチだが、初期盤やその時代の機器でしか感じられない「エネルギー」を伝える音を知ることの方が、音楽の本質に迫るための重要な鍵となる。
肋骨レコードのような、音質が荒削りで不完全なレコードを聴くことこそ、筆者にとって最も純粋な音楽体験であり、音楽の本質を再確認する手段だ。その音には、ただの娯楽や趣味を超えた、歴史的背景を持つ強烈な表現が込められている。音楽が「単なる音」ではなく、その時代や文化、そして人々の心情を反映したものだと、改めて実感させられる。
オーディオ機器に対する筆者の考えは、音楽の過去と未来を繋ぐ架け橋となるべきだと信じている。音楽を「聴く」という行為を超え、その背後にある「エネルギー」や「情熱」を感じ取ることこそが、オーディオの未来における本質的な役割だと感じている。そして、これからのオーディオの在り方は、高音質の再生を追求するだけではなく、その音楽が持つ深いエネルギーをいかに伝えるかにかかっているのだ。

(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2025年9月6日土曜日

モヒートを片手に ― 楽園の味と追悼の夏

 今年の夏、筆者が手にするグラスには、ただの冷たい飲み物以上の意味がある。Brian Wilson が刻んだ旋律と和声は、単なる音楽を超え、人生の喜びや悲しみ、そして希望を織り込んだ時間の証だ。そんな Brian を追悼する気持ちが、筆者の胸の奥で小さな炎のように揺れている。「追悼の一杯」のためには、音楽の原点に立ち返る必要がある。――夏だ、海だ、そして The Beach Boys――。そう思い至ったとき、自然に頭に浮かんだのは、Mike Love が手がけるラム酒「Club Kokomo Spirits」だった。The Beach Boys のサウンドが生まれた California の海辺と、Carib 海の楽園を繋ぐ、甘くスパイシーな香りを宿すラム酒こそ、Brian への敬意を込める「追悼の一杯」にふさわしい。

 「Club Kokomo Spirits」は、San Diego に拠点を置くLove家による家族経営のラム酒ブランドだ。添加物を使わず手作業でブレンドした「Artisanal White Rum」など、こだわりのラインナップを展開している。特に「Artisanal White Rum」は、2024年の San Francisco コンペティションでダブルゴールドを受賞するなど、高い評価を得ている。




Kokomoのサビ歌詞部分をもじった意匠もニヤリとさせる

ここにMikeの名前が確認できる

 Mike と Kokomo は、もはや切り離せない関係にある。この曲は実質 Brian 抜きで制作された象徴的ヒットだからだ。ファンの中には「Kokomo!Brian なしの The Beach Boys?追悼なのにちょっと不謹慎じゃない?」と眉をひそめる人もいるだろう。だが、事実は事実。
 1988年の「Kokomo」は Brian はレコーディングに参加していない。それでも全米はこの曲で南国にトリップしたのだ。まさに「Brian なしでも The Beach Boys は The Beach Boys」的現実に、ファンは笑うしかない。ちなみに Brian は、ちゃっかりテレビ番組『Full House』に出演し、「Kokomo」の一節を歌うというファン心をくすぐる小さな悪戯も忘れない。そしてスペイン語バージョンでは、ようやく Brian も参加している。まるで「ほら、僕もいるんだよ」とニヤリと笑うかのようだ。

Full Houseでの出演シーン

 筆者は早速、ホワイトラム入手し、これをベースに使った自家製モヒートを作った。ミントの香りとライムの爽快感がラムの甘みと絶妙に絡み合い、一口ごとに「Aruba, Jamaica, ooh I wanna take ya…」のメロディーが頭の中で響く。ハチミツやパイナップルのほのかな余韻が追いかけるたび、Brian の音楽と、彼が描いた夏の海辺の光景が、グラスの中で生き返るかのようだ。一口飲めば、ラムの甘く厚みのある香りが鼻腔を満たす。ハチミツのようなコクと、パイナップルやマンゴーの余韻が南国の風を運ぶ。ミントの爽やかさとライムの酸味が軽やかに絡み、まるで「Kokomo」の歌詞に登場する島々を渡っているかのようだ。炭酸水の泡は海のさざ波のように口の中で踊り、後味はリズミカルで、ついもう一口、もう一口と手が伸びる。


……いや、待てよ、これは音楽誌の記事のはずでは?読者諸氏には、Brian Wilsonを追悼しつつ、いつの間にか筆者がCaribグルメ評論家に変身してしまった奇妙な現象を笑っていただきたい。モヒート片手に音楽を語るつもりが、気づけば南国の香りと甘いラムの余韻でページを埋め尽くしている。ああ、これぞ追悼の妙技、いや、モヒートの魔力かもしれない。

 Mike Love のラム酒と「Kokomo」の象徴性は、単なる音楽とカクテルの楽しみを超え、1980年代の Florida 南部と Carib 海政策とも微妙に絡む。Reagan–Bush 政権下での Carib 海政策は、経済支援や軍事プレゼンスを通じて地域を「米国の裏庭」と位置付けた。Mike Love は、文化的には「南国の夢」をアメリカ社会に浸透させる役割を果たしていたと言えるだろう。「Kokomo」という楽園のイメージは、無意識のうちにこの地政学的文脈ともリンクしていたのだ。「Kokomo」が生まれる数年前、Carib 海は楽園とはほど遠い、地政学的な火薬庫だった。1979年の Nicaragua 革命、そして Grenada の親 Cuba 政権樹立。ソ連と Cuba の影響力が、アメリカ合衆国の喉元である「裏庭」にまで及ぶ事態に、Reagan 大統領は強い危機感を抱いていた。その答えが、強硬な反共産主義政策である。具体的な発露が、1983年10月の Grenada 侵攻だ。米国人医学生の保護を名目に、米軍は電光石火の作戦で軍事クーデター政権を打倒。世界に、Carib 海における共産主義の拡大は容認しないという断固たる意志を示した。

 The Beach Boys と Reagan 政権は運命的に結びつく。内務長官 Watt が独立記念日のコンサートに The Beach Boys を「ロックは不健全」として出演禁止にしたのだ。これに激怒したのは、大統領本人とファーストレディ Nancy、そして Bush 副大統領だった。「彼らは私の友人だ」「The Beach Boys は米国の象徴だ」。大統領自らの一声で決定は覆り、バンドは White House の「お墨付き」を得た。フロントマン Mike はもともと保守的な共和党支持者として知られ、この一件で The Beach Boys は単なるサマー・ソングの作り手から「健全で愛国的な米国」を体現する文化的アイコンへと昇華した。

 さらに、文化的ソフトパワーの裏側には経済的“土台”もあった。Reagan が1983年に打ち出した Caribbean Basin Initiative(CBI)は、Carib 諸国への米国市場無関税アクセスを認め、共産主義の浸透を経済的に封じ込める意図があった。Bush(父)政権もこれを継承し、1989年11月には「CBIはこの地域の安定と民主化の推進力だ」と再表明している。

 「Kokomo」のヒットから1年余りが過ぎた1989年12月20日、未明。大Bush大統領の命令一下、米軍によるパナマ侵攻作戦、コードネーム「Just Cause」が開始された。目的は、麻薬取引への関与を深め独裁者として君臨していたNoriega将軍の排除と、米国人の保護、そしてPanama運河の安全確保である。 公式記録ではPanama現地の米南方軍が作戦行動を開始したこととなっているが、後方支援物流部隊が米南部から行動開始する。彼らが目指すのは、カリブ海の南端、Panama。ここで、私たちは地図を広げ、戦慄すべき事実に直面する。 「ココモ」が歌い上げた楽園の地図と、後方支援物流部隊が辿った経路が、不気味なほど重なり合うのだ。 たとえば、"Aruba" (アルバ)----Panamaの目と鼻の先に浮かぶ島----のように、まるで軍事小説のように、ヒットソングが歌い上げたリゾート地のリストが、超大国の軍事作戦におけるチェックポイントをなぞっている。もちろん、これは作戦計画者が「Kokomo」を聴いてルートを決めたわけではない。地理的な必然が生んだ、恐るべきシンクロニシティであるが、この偶然は、1980年代の米国の無意識がカリブ海をどのように捉えていたかを、何よりも雄弁に物語っているのではないか。 「Kokomo」が歌うCarib海は、アメリカ人にとって安全で楽しい「遊び場」だった。そしてパナマ侵攻のルートもまた、その「遊び場」の秩序を乱す邪魔者(Noriega)を排除するための、いわば「庭師」が通る道筋だった。米国民が「Kokomo」を口ずさみ楽園への旅に夢を馳せているとき、その同じ空と海を使って、軍隊は「裏庭」の掃除に向かっていた。 楽園への甘い旅路と、正義を掲げた軍事介入。二つの物語は、Caribの太陽と硝煙の匂いが混じり合う中で、表裏一体となって存在していたのだ。
 KokomoとCarib海政策を並べると、すぐに「ほら出た陰謀論」と身構える人がいる。だが、はっきり言っておこう──The Beach BoysがCIAの極秘部門と結託していたわけでもなければ、リゾートソングが米国外交の暗号文書だったわけでもない。そんなものは全てナンセンスだ。
 むしろ現実はもっと単純で、もっと皮肉だ。アメリカの政治家や官僚が何百ページもかけてCarib海政策を練り上げても、人々の頭に残るのはKokomoのコーラス一節。陰謀どころか、世界の印象を動かしたのは音楽そのものだ。つまり「大仰な戦略よりも、一曲のポップソングのほうが効いた」という笑うしかない現実。考えてみれば、陰謀論は常に「裏に何かがある」と囁く。しかしKokomoには裏などない。表から堂々と「Aruba, Jamaica…」と歌い上げる、その単純さこそが力になった。だから陰謀論を広める必要など一切ない。むしろ陰謀論を持ち出すこと自体が、この曲の効力を過小評価している。

 Key Largo のすぐそばにある豪邸、Mar-a-Lago は Donald Trump の別荘で、Palm Beach に位置する。114室を誇る宮殿のような建物はスペイン風ルネサンス様式の装飾で覆われ、壁には金箔、ホールには大理石、庭には噴水が並ぶ。1985年に Trump が買収して以来、単なるリゾートではなく「もうひとつの White House」と化し、各国首脳を迎える外交舞台としても使用された。2024年末、次期大統領として返り咲いた Trump を祝うべく、政財界やセレブが集まったその場に、Mike Love も登場。南国ムードを持ち込み、“Florida 流カーニバル”の空気を演出した。そして翌年1月20日、Trump は就任初日から、Gulf of Mexico を「Gulf of America(アメリカ湾)」に改称する大統領令に署名。執務室の壁には Reagan の肖像画が掲げられた。

 あの夜の Mar-a-Lago。Mike が「Kokomo」を歌ったかどうか、帰依するBush 家から伝授された CBI 継続の指南を Trump に行ったのか、真相は定かではない。だが、想像してみる――「Aruba, Jamaica…」のフレーズがいつの間にか「Mar-a-Lago, Gulf of America…」の大合唱に変化し、拍手喝采のうちにモヒートの氷が溶けていた光景を........

 Mar-a-Lagoでのライブ、次期(当時)大統領閣下は後ろ姿

 楽園は遠くの島だけにあるわけではない。Brian Wilson を追悼しつつも、耳に残る軽やかなコーラスと、口に広がるラムの香りの中にだって見つけられる。モヒートを一口飲めば、過去の歴史も、The Beach Boys の陽気な旋律も、Mike が汗をかきながら大統領閣下に指南したかもしれない CBI の陰謀も、すべてグラスの中に溶け込む――いや、溶け込みすぎて頭が軽く揺れるくらいだ。
 グラスを傾け、歴史の残響や政治的陰謀にまで思いを巡らせられたなら、今この瞬間、海辺の楽園も Florida の別荘も、グラスの中の小さな Carib 海も、すべてがひとつにつながる。そして何より Brian Wilson の笑顔を思い出せば、甘いラムの余韻も少しほろ苦く、でも愛おしくなる。さあ、耳と舌と心で旅に出よう――現実は現実で面倒でも、グラスの中では、少しだけ自由で、少しだけ陽気になれるのだから

(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2025年6月15日日曜日

California Dreamland

  

 もしも米国音楽の地図に、ひときわ眩い光を放つ地点があるとすれば、それは間違いなくCaliforniaの海辺、波打つ西海岸にあるだろう。そしてその座標を指し示す星のひとつが、Brian Wilsonという存在だ。だが、その煌きは決して最初から祝福されていたわけではない。むしろその原点は、土埃舞う中西部にあった。Wilson一族は、移ろいやすい気候と単調な農業に苦しむ中西部の片隅から、新天地を求めて西へ向かった。米国の理想――自由、解放、再出発――それを信じた家族の、汗と涙の旅路だった。
California。それは楽園の象徴だった。しかし、現実はどうだ。そこに待っていたのは、経済的苦境、社会の冷淡さ、そして家族内部の圧力だった。Brianの父、Murry Wilsonは、自らの音楽的な夢に未練と期待を持ちながら、家庭にもその執念を託す。厳格で、時に暴力的な教育方針のもと、少年Brianはただ音に救いを求めた。ピアノの前、ビーチの風、AMラジオ。そこに彼だけのユートピアを築き始めた。だが、その逃避は甘美なものばかりではなかった。若くして名声を得たBrianは、60年代中頃から重度の精神疾患に苦しむようになる。統合失調症的な症状、幻聴、不安障害。そしてそれを和らげようとした薬物依存。音楽の天才として評価される裏側には、孤独と混乱に苛まれる青年の姿があった。
Brianの音楽は、単なるポップではない。1960年代、大英帝国から押し寄せた「British Invasion」が米国音楽界を席巻する中で、彼の存在は異質だった。彼は“反撃”しようとしたのではない。自分だけの音の宇宙を築くことで、英国勢の陰に色褪せない米国音楽の魂を示したのだ。『Pet Sounds』はまさにその象徴。コード進行は複雑で、多彩なハーモニー。動物の鳴き声や管弦楽とロックンロールコンボの層が交錯し、当時の若者(特に英国人)たちは「音楽って、こんなに広くて深かったのか」と目を見開いた。だが、Brianの世界は、ただ未来に向かって突き進むものではない。その音楽には、両親から影響を受けた戦前の米国ポピュラー音楽の遺伝子が、色濃く流れている。George GershwinやIrving Berlinの哀愁と洗練、Boogie-Woogieの溌剌さ、Doo-Wopの甘やかかつ滑稽なハーモニー、Jazzの自由な精神。彼の楽曲には、米国の音楽史が縦横に編み込まれ、重層的な音の物語が展開される。同時にそれはまるで、家族の歴史を語るような音楽だ。苦難の道を歩んできたWilson家の旅路。希望を胸に西へ進んだ彼らの軌跡は、米国建国の神話と重なる。その神話の続きを、Brianは音で描いた。『Smile』は完成に多くの年月と協力を要したが、まさに“西へ進んだ米国”が辿り着いた精神の地平を音にしたものだと言っていい。

彼の音楽に耳を澄ませば、そこには明るさと哀しみが混じり合う。主旋律の中に潜む切なさ。コーラスの重なりによって生まれる奥行き。転調とコード進行がもたらす予測不能の展開。そこには、愛というものの不確かさと、それでも信じようとする意志が込められている。恋のときめきと、失われた少年期のノスタルジアが交錯する。サーフィンと波の下に隠された、父との確執、兄弟との葛藤、精神的な苦悩。すべてが「音楽」という形で再構築されていく。まるで、人生そのものが一つの交響曲となって流れているかのようだ。
また、兄弟たちとの関係も彼の創作に大きな影響を与えた。Carl Wilsonの包容力あるボーカル、Dennis Wilsonの野性的でロマンチックな感性。これらはBrianの繊細な作曲に対する理想的な対位法となり、The Beach Boysというユニットの総体的な表現力を高めた。一方で、家族だからこその軋轢も存在し、それが時にグループの亀裂を生む原因ともなった。

今日、Brian Wilsonの音楽は改めて再評価され、若い世代にとっても新たな発見の対象となってきた。その理由は、彼の作品が単に懐かしさやノスタルジーに訴えかけるものではなく、音楽という手段を通して人間の感情、記憶、そして再生を描いているからだ。Brianの音楽は、私たちに問いかける——人生の痛みをどう乗り越え、どのように希望へと変えていくか。
Brian Wilsonは、単なる天才ではない。彼は、一族の歴史と米国の理想、ポピュラーミュージックの可能性と限界の狭間で、孤独にして壮大な戦いを繰り広げてきた存在だ。音楽という武器で、彼は“戦った”のではない。“語り” “許し”、そして“夢を見た”。Brianの出自と重なる米国西海岸という土地も、彼の音楽性を語る上で欠かせない。太平洋の広がり、陽光、そして新天地としての自由。西海岸は常に、米国人の理想と幻想が交差する場所であった。Brianはそこに現実と幻想の境界を曖昧にするような音楽を描き出し、西海岸の風土と精神を音に変えた。

そしてその夢は、時代を超えて今も響き続けている。今、彼の残した音を聴く時、我々はもう一度、米国という国の魂に触れているのかもしれない。希望、苦悩、家族、自由、敗北、そして再生――Brian Wilsonの音楽には、これらすべてが宿っている。西へ進んだ者たちが見た、果てなき空と水平線。その先に、彼の音楽が広がっている。その才能は人間の限界を超え、音楽を通して世界の構造を再構成するような力を持っていた。しかしその光のような才能ゆえに、同時に、この世界で生きることの苦しみも広く受け入れざるを得なかったのだろう。この世にただ一瞬だけBrianだけに聞こえてきた、幻のようなハーモニー。Brian Wilsonは、何かに選ばれた存在だった、それは、本当は天上に居るべき存在が、すこしだけ私たちのために降りてきてくれたのか?
80年余りの生涯は長いようで、しかし本人にとっては、この現世の衆生へ天上の調を響かせんとする「発声練習」のためのわずかな旅だったのかもしれない。

──そして最後に、このコラムを締めくくるにあたって、どうしても触れずにはいられない一点がある。それは、Brian Wilsonが一生心の底から愛した“食べ物”が、何だったのか──それを筆者が探り出せなかったことである。
いや、ピアノの前でうつむきながら「Surf’s Up」のコードを爪弾くBrianに、「一番好きな食べ物は?」などと尋ねるのは、あまりに場違いで無粋だ。しかし、その一言をこそ、誰かが聞いておけばよかった。サンドイッチだったのか?それともミルクシェイク?はたまた、ひと口頬張ればHawthorne Boulevardで車を駆け抜けた青春が蘇るような、西海岸特製バーガー、いやいやRoger Christianと夜を徹して語り合った際パクついたアイスクリーム・サンデーだったのか?──。
今となっては、それも永遠の謎である。
Brianの音楽は、あらゆるコード進行と情感、リズムと音色の選択によって、私たちに人生の奥行きを教えてくれた。しかし彼の胃袋が最も欲した一品──それだけは、音楽の中にすら残されていない。
ああ、それさえ聞いておけば、彼の魂をもうひと匙、味わえたかもしれないのに。
けれど──だからこそ、永遠の謎がまた一つ、彼の神秘の一部として私たちの心に刻まれるのかもしれない。

Your imagination running wild!

California Dreamland - A Tribute to Brian Wilson

Selection:MaskedFlopper,  Takahide Uchi(WebVANDA)

If there were a single spot on the musical map of America that gleamed more brightly than the rest, it would surely lie upon the sun-drenched shores of California, along the undulating edge of the western coast. One of the stars to mark that sacred coordinate is, without question, the figure of Brian Wilson. Yet his brilliance was not born of immediate blessing. Rather, its origin lay in the dust-choked hinterlands of the American Midwest. The Wilson family, wearied by the capricious weather and the monotony of agricultural toil, ventured westward in search of renewal. The American ideals of freedom, release, and new beginnings shimmered before them as a guiding light, their journey steeped in sweat and sorrow.

California was to be the promised land. And yet, what awaited was not paradise, but economic hardship, societal indifference, and mounting pressure within the family itself. Brian's father, Murry Wilson, having laid aside his own musical aspirations, channeled that frustrated passion into his household. Under his stern, at times violent, regime, young Brian sought solace in sound alone. At the piano, by the seaside, through the crackling of magic transistor radio, he began constructing a utopia of his own design. But this escape was no untroubled reverie. Attaining fame in his youth, Brian would soon find himself beset by profound mental afflictions. Schizophrenic episodes, auditory hallucinations, and crushing anxiety took their toll, further complicated by the lure and subsequent dependence on narcotics. Behind the image of the musical prodigy was a young man besieged by loneliness and confusion.

His music, then, is no mere confection of pop. Amidst the so-called "British Invasion" of the 1960s, wherein English bands stormed the American soundscape, Brian Wilson emerged as a singular force. Not by retaliation, but through the forging of his own sonic cosmos, he preserved the essence of American musical spirit. The album Pet Sounds stands as the very embodiment of this endeavour. Its harmonic complexity, its symphonic interplay of animal calls, orchestration, and rock instrumentation, left listeners—particularly the British—utterly astounded. "So music," they thought, "can reach such depths and breadths."

Yet Brian's musical vision was not merely futuristic. It bore within it the DNA of pre-war American popular music—the melancholy and elegance of Gershwin and Berlin, the exuberance of boogie-woogie, the sweet and ludicrous harmonies of doo-wop, the liberty of jazz. His compositions wove the American musical lineage into a multidimensional tapestry. At once, it resembled the chronicling of a family history. The journey of the Wilsons westward in pursuit of hope mirrors the very mythos of America itself. And Brian, in turn, drew out that myth in tones and melodies. Smile, though taking years and many hands to reach fruition, was nothing less than the spiritual frontier that America found upon arriving at the western edge.

Listen closely, and one hears in his music a mingling of brightness and sorrow. A melancholy nested in the melody, a depth revealed in the layered vocals, an unpredictability wrought by modulation and harmonic divergence. It is music suffused with the uncertainty of love and the wilful insistence upon believing in it nonetheless. The flush of young romance collides with the nostalgia of a lost "in my childhood". Beneath the surfboards and shimmering waves lie unresolved tensions with his father, fraternal conflict, and inner despair—all transfigured into music. As though life itself had become a symphony.

His brothers, too, exerted profound influence on his creations. Carl Wilson's tender voice and Dennis Wilson's wild, romantic spirit formed a counterpoint to Brian's delicate craftsmanship. Their union lent The Beach Boys a unique expressive power. Yet familial bonds are double-edged; the very closeness that birthed beauty also gave rise to fracture.

Today, Brian Wilson's work is experiencing a renewed appreciation, even among younger generations. This owes not to mere nostalgia, but to the fact that his music, through rhythm and harmony, engages with the full range of human sentiment: memory, emotion, and renewal. His songs ask us, again and again: how do we bear life's pain, and by what grace do we transform it into hope?

Brian Wilson is not simply a genius. He is a man who waged a vast and lonely battle at the intersection of familial legacy, American ideals, and the boundaries of popular music. He did not so much fight with music as he spoke with it, forgave through it, and dared to dream. The West Coast, his spiritual and geographical home, is crucial to understanding his voice. The Pacific's expanse, the ceaseless sun, the land of liberty—this coast has always been the site where America lays its hopes and illusions. Brian blurred the line between dream and reality, turning that coast's atmosphere into sound.

And that dream continues to echo across time. As we listen to his music today, we might feel we are once more touching the soul of a nation: its hopes, sorrows, kinships, freedoms, failures, and rebirths. The endless sky and horizon seen by those who journeyed west—Brian's music dwells just beyond them. His gift seemed to transcend the human, as though he reconfigured the structure of the world through music. Yet that very luminosity may have exacted a terrible price: to bear the pain of living in this world while channelling another.

That ineffable harmony heard by him alone, in a moment not meant for earth. Brian Wilson was, perhaps, a being chosen by something beyond, descending briefly from heaven to share with us his sound. His eighty-odd years upon this earth, for all their length, may have been naught but a fleeting sojourn—a mere vocal warm-up for performing the celestial.

—And as we bring this reflection to a close, one point remains unresolved, stubbornly lingering. Namely: what was the one food that Brian Wilson loved above all others? Alas, this author has failed to unearth the answer.

To ask such a question—"What is your favourite food?"—of Brian Wilson, head bowed over a piano, softly playing the chords of "Surf's Up"—is surely inapt, graceless even. Yet someone ought to have asked it. Was it a sandwich? A milkshake? A west-coast hamburger redolent of youth speeding down Hawthorne Boulevard"Fun,Fun,Fun"? An ice cream sundae shared with "Hot Rod head"Roger Christian during a night of fervent conversation?

We shall never know. That morsel of knowledge is lost to time.

His music teaches us the intricacies of life through every chord progression, every timbre, every emotional turn. But his truest craving—his deepest hunger—remains beyond the stave. Had we known, -wouldn' it be nice?-perhaps we might have tasted one final spoonful of his soul.

But then again—perhaps mystery is part of the divinity. And thus, one more eternal enigma is folded into the myth of Brian Wilson, never to be dispelled.

Your imagination running wild!

(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)