2021年3月2日火曜日

【追悼 フィル・スペクター特集】追悼対談 ~ ウワノソラ'67 角谷博栄


 60年代初期から70年に掛けて、自ら設立したフィレス・レコードで革新的レコーディング手法”ウォール・オブ・サウンド”を駆使し、ヒット・ソングを生み出した偉大なプロデューサー、フィル・スペクター(Phil Spector)が、現地時間の1月16日午後6時35分に収監先のカリフォルニア州立刑務所内で、新型コロナウイルスによる合併症により逝去された。享年81歳だった。 

 定期誌VANDA及び弊サイト読者には説明不要だが、60年代のロック、ポップスでフィルの革新的手法の影響を受けたミュージシャンは少なく無い。その代表格はブライアン・ウィルソンであることは、先月のコラム【Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷】を読んで頂ければ理解されるだろう。ハル・ブレインジョー・オズボーンなど名うてのミュージシャン達を配したThe Wrecking Crew(レッキングクルー)による演奏と共に、この時代を象徴したサウンドは永遠に音楽ファンの心に残るだろう。
 日本でフィルの影響が強いミュージシャンとして大滝詠一氏が筆頭に挙がるが、ここではその大滝氏のナイアガラ・サウンドを経由し、ウォール・オブ・サウンドをオリジナル楽曲で昇華させたアルバム『Portrait in Rock'n'Roll』(UWAN-001 / 2015年)をクリエイトしたウワノソラ'67(=ウワノソラ)の角谷博栄と、フィル・スペクターを追悼しウォール・オブ・サウンドの魅力についての対談をお送りする。なお昨年角谷がNegiccoのKaedeに提供した「さよならはハート仕掛け」(『秋の惑星、ハートはナイトブルー。』収録)など良質なガールポップの源流としてもフィルの存在は極めて大きく、再評価すべき存在なのだ。
 文末には角谷と筆者が各自選曲した、【フィル・スペクター・ソング・ベスト10】と【ウォールオブサウンド・フォロワー・ソング・ベスト10】を掲載しサブスクでプレイリスト化したので、聞きながら読んで頂きたい。

『Portrait in Rock'n'Roll』 / ウワノソラ'67 

角谷博栄 

●先ずはフィル・スペクターの訃報の一報を知った時はどういう感情が沸きましたか? 

◎角谷博栄(以下角谷): とても寂しい気持ちでいっぱいになりました。 ご冥福をお祈りいたします。 

●フィルはラモーンズの『End Of The Century』(79年)の後、80年以降表立った活動をしていない状態でした。
60年代末生まれの僕でも後追いで、80年代初期に大滝詠一氏や山下達郎氏のラジオ番組をガイドにそのアーカイブを聴き漁っていたという状況です。僕よりかなり若く、80年代後半生まれの角谷君にとって、フィル・スペクターって何者なんだ?ということになると思うんですが、ウォール・オブ・サウンドを聴くようになった経緯を聞かせて下さい。 

◎角谷:きっかけは親父が持っていたアメリカのオールディーズのオムニバスやジョン・レノンのアルバムだった気がします。同時に達郎さんの「ヘロン」(1998年 / フィルの影響下にある編曲)なども流れていて。そういう家庭だったので小学生の頃から自然と好きで聴いておりました。
中学や高校になると達郎さんのラジオや大滝さんを聴いているうちにまた自然と繋がっていった感じです。全くリアルタイムな世代ではないのですが、青春時代の音のように感じています。

●成る程、当時そのオールディーズのオムニバス・アルバム、またジョンの各アルバム(『ジョンの魂』、『Imagine』、『Some Time In New York City』、『Rock 'N' Roll』)の中でも特にフィル・スペクターのサウンドとして意識した曲はなんでしょうか?
また今回フィルが手掛けたベスト10を選んでもらいましたが、その思い入れについて聞かせて下さい。

 『Rock 'N' Roll』 / John Lennon 

◎角谷:意識した曲は小学生時代に聴いていたアルバムにはありませんが、ウワノソラ’67のアルバムのタイトルは実はジョン・レノンの『Rock 'N' Roll』(1975年)からヒントを得ました。ちなみに”Portrait in“の部分は、編曲に手を貸してもらっていた深町君の家にレコードで飾ってあったビル・エヴァンス・トリオの『Portrait in Jazz』(1959年)からヒントを得ました。
幼い頃に聴いていた曲は、これはフィルの曲だ!としての認識は全くなかったのですが、根底にはその初期体験が無意識の上でずっと流れています。『Rock 'N' Roll』のアルバムでは、’67ではありませんが、ウワノソラ1st(『ウワノソラ』HRVD-004 / 2014年)の「ピクニックは嵐の中で」という曲の編曲面でとても影響を受けました。

以下【フィル・スペクター・ソング・ベスト10】で選曲した各曲について。

1 Spanish Harlem / Ben E.King(1961年) 
プロデュースがリーバー=ストーラーで作曲がリーバーとフィル。ギターがフィル・スペクターの作品です。こういったリーバー=ストーラーの現場での仕事がフィルに影響を与えていることが分かります。エコーが独特で心地よく素晴らしいですよね。とても好きな曲です。

2 Oh Yeah, Maybe Baby / The Crystals(1962年) 
ベースとキックの置き方が「Be My Baby」前夜という感じがしますね。メロも好きです。 ところで、誰もが嬉しいフィルの印象的なカスタネット・アレンジはどこから影響されたのか、フィルのアイデアだったのかふとした時にいつも気になっています。

3 Hold Me Tight / The Treasures(1963年) 
レノン=マッカートニーの作詞作曲の曲です。ビートルズバージョンより僕は断然好みなのです。大滝さんの「白い港」にも通じるリズムが印象的なアレンジです。

4 Girls Can Tell / The Crystals(1991年 / レコーディング:63年) 
エリー・グリーンウィッチ&ジェフ・バリー、フィルの作曲で、アレンジがジャック・ニッチェというタッグで出来た名曲です。誰にも突っ込まれたことがないので自分から言うのもという感じですが、’67のある曲でかなり影響を受けています。

5 Do I Love You? / The Ronettes(1964年) 
初めてこの曲を再生した時にイントロだけで、”ハイ好き~!”となった人は多かったのではないのでしょうか。今でもその感動が聴くたびに蘇ります。リアルタイムで聴いていた人はきっともう70歳以上の方なのでしょうか・・・。羨ましい限りです。 アンダース&ポンシア、フィルの作曲でアレンジがジャック・ニッチェの曲です。

6 Unchained Melody / The Righteous Brothers(1965年) 
言わずと知れたメガメガヒット曲です。ポップスのスタンダードです。 こんなに甘くて甘くて甘いロマンティックな曲が世の中にあって良いのでしょうか。良いのです。最高です。映画「ゴースト/ニューヨークの幻」(1990年)の轆轤を回すシーンではロマンティックな雰囲気をより盛り上げていて印象的でしたね。曲といいますか、エコー感はあまりフィルっぽくないのですが、前述のオムニバスにも入っていて小学生の頃から親しんでいた曲なので選んでみました。

7 (I Love You) For Sentimental Reasons
  / The Righteous Brothers(1965年) 
元々は1945年。今から76年前にリリースされたものがオリジナルです。ナット・キング・コールのカバーが一番有名だと思います。何かフィルの8分の6拍子の曲を選びたく、大体好きなのでどれを選んでもといった感じだったのですが、ウワノソラ’67の「雨降る部屋で」を作るとき影響を受けた事を思い出し選んでみました。

8. This Could be The Night / The Modern Folk Quartet
 (1991年 / レコーディング:65年) 
作曲のハリー・ニルソンがブライアン・ウィルソンに捧げる曲として書いた曲です。 僕がこの曲を初めて聴いたのは達郎さんのカバーでした。とても好きな曲です。 何といってもアクセントになっているエレキ・ギターのボトルネック奏法!かなりクールです。

9. Ballad of Sir Frankie Crisp / George Harrison(1970年)  
ジョージのこの曲が収録したアルバムはもう本当に大好きすぎていまして。どの曲を選んでも最高なのですが、エレキの鉄弦の響きが僕には痺れてしょうがないこの曲を選んでみました。 そういえば、年末にレンタルして観た、マーティン・スコセッシ監督のジョージのドキュメンタリーは最高でした。フィルも登場します。4時間ありますがおススメです!

10. Angel Baby / John Lennon(1986年 / レコーディング:73年) 
60年リリースのRosie & The Originalsのカバーです。その後ジョンの『Rock 'N' Roll』のアルバム時にレコーディングされリリースされず、お蔵入りで十数年後にリリースという経緯があるようです。コード進行は4コードの循環のみ。大らかな時代があったのですね。4コードでもメロディがどんどん変わっていき魅了されてしまう3分間を作っているのです。
大好きすぎて前述にもありますが、ウワノソラの1stで影響されています。とにかくこのブラスのアルペジオな旋律にこのクールすぎるエコー。そしてジョンのボーカル。 洗練さと泥臭さと切なさが僕にとっては黄金比率な曲です。永遠の憧れです。 


 ●ウワノソラ'67の『Portrait in Rock'n'Roll』では、角谷君が敬愛していた大滝詠一氏を追悼するというコンセプトで製作したアルバムのようでしたが、ナイアガラ・サウンドのルーツとしてフィレスの匂いも強かった訳で、熱心に聴き込んでいたと思います。アルバム冒頭でリード曲の「シェリーに首ったけ」のイントロは、フィルが手掛けたダーレン・ラヴの「Stumble And Fall」(64年)のオマージュをしていますね。この曲をアレンジした際は多羅尾伴内(大滝詠一)の背後にジャック・ニッチェを意識していたとか?

 
シェリーに首ったけ / ウワノソラ'67 

 Stumble And Fall / Darlene Love 

◎角谷:当然意識はしていました。アルバムとしても曲としても多大に影響はあります。 ちなみに””大滝詠一氏を追悼するというコンセプトで製作した”というものとはちょっと違うと僕は思っています。”ただ田舎の大学生が想いを馳せて作っただけのもの”であって、そんな大それたものでもおこがましいものでも無いように思っております。
もちろん大滝さんへの想いも十分にありましたが、亡くなる前から制作は進めていまして。誰も知らず誰も聞かない。もうそれでいいと。この作品で音楽を作ることは最後になるかもなぁと思いながら作っていましたので。実のところそんな余裕なんてものはなく、ただただ最後にやってみたかったという気持ちが一番大きかったのです。 

●「シェリーに首ったけ」のアレンジでは、ナイアガラ経由のフィレス・サウンドの影響として、特に意識した点はありますか?
ホーン・セクションはテナー・サックスが2管、バリトンとアルト、トロンボーンが各1管の編成ですが、ミックスであるとか。 また2015年にインタビューした際は、同時録音出来ない分をダビングしたということでしたが、ドラムとピアノは2回、エレキ及びアコースティック・ギター、12弦ギターは合計20本分、打楽器類も20回オーバー・ダビングを施したと。カスタネットは5人で同時演奏したりと、そのレコーディングに対する姿勢には敬服するばかりですよ。

◎角谷:管楽器に関しては、ダブル以上は確実に録音しています。ドラムは「シェリーに首ったけ」がダブリング、「Station No.2」と「Hey×3・Blue×3」はツインです。カスタネットは5人ではなく50回のオーバー・ダビングです。夜の23時ぐらいに大学に忍び込んで、朝に他の学生が登校してくるまで永遠に録音していた日が何日かありました。「おはようみんな、僕はこれから帰って寝るよ」と。
フィルのようにモノラルではありませんが、リファレンスとして聴いていました。

「Station No.2」のPro Tools(プロ・ツールス)の
マルチトラック画面(91トラック使用している) 

●オーバーダブを50回は偏狂的かも知れない(笑)。でもその様なレコーディングにトライした志は、大滝氏がウォール・オブ・サウンドをオマージュしようとした精神に通じますよ。
ウォール・オブ・サウンドの特徴として、同じパート(スコア上も)を複数のプレイヤーで同時録音して音圧を出すというパブリック・イメージが強いですからね。この他にアレンジ面やレコーディング方法で参考にしたポイントはありましたか?

◎角谷:レコーディング方法ではいくつかあったと思いますが、アコギのバッキングに関してですと、友人から違う種類のものを10本ぐらい搔き集めてきて同じことを演奏したりしていました。そこに12弦ギターやガットギターも隠し味で同じ演奏で入れたりと。あとは3カポにしてCをAで演奏したり、マイクも違うものを用意して、マイク距離や位置、ゲインなどを変えて厚みを出そうと試みたりしておりました。製作費も生活費もほとんど無かったのですが、できる範囲で色々な事を試していました。具体的な参考は思い出せないのですが、自分のセレクトしていた音楽は何度も何度も聴きこんでいた記憶はあります。
フィルの音圧に関してですが、僕は音圧に惚れて聴いていたわけではないので、そこにあまり影響はない気がしています。というよりは低音から高音にかけての楽器の周波数の壁、そして濁りの迫力と美しさ、メロディライン、アメリカがイケイケだった頃のアメリカンドリームな雰囲気、エコーを含めた当時の録音物のサウンド感等に惚れていました。周波数や濁りを音圧というなら音圧なのかもしれません。アナログではなくCD音源で聴いていた事も純粋な音圧を意識できなかった&意識しなかったのかもしれません。アイドル視に似た気持ちもありました。

『Portrait in Rock'n'Roll』レコーディング風景 

●ハードディスク・レコーディングが主体になって、プラグイン・アプリやエフェクターで過去の様々なサウンドがシュミレーション出来る時代に、敢えて生楽器で試行錯誤している姿勢に脱帽するばかりです。そんな探求をさせてしまった、フィルのウォール・オブ・サウンドの魅力が読者にも伝わったと思います。
僕としてはウワノソラ'67名義で、また作品を作って欲しいと思っているんだけど、そんなプランはないですか?7インチ・シングルでもいいので。 

◎角谷:”ウォール・オブ・サウンド”に影響を受けた作品になるかはまだ分かりませんが、新作は作りたいとは思っています。頑張ります。


●その前に『Portrait in Rock'n'Roll』のアナログ化も熱望しています。
以前から一部ファンからも要望されていたと思いましたが、実現に向けての状況はどうでしょうか? 

◎角谷:当時は本当にメンバーもエンジニアも20代前半の仲間達で作っておりまして、ミックスを直したい気持ちがあり何度も挑戦したのですが、若さゆえの情念の部分などが失われてしまったりと試行錯誤を続けております。リリースできるならリマスタリングのみで、というのが今のところ最良とは考えています。 

●アナログ用のリミックスは既に試みていたんですね。近い未来にアナログ・LPとしてのリリースを期待しています。

◎角谷:ありがとうございます。頑張ります。


 (サブスク・プレイリストは登録楽曲のみ)
 
【勝手に選ぶ・フィル・スペクター・ソング・ベスト10】
◎角谷博栄 
1 Spanish Harlem / Ben E.King(1961年)
2 Oh Yeah, Maybe Baby / The Crystals(1962年)
3 Hold Me Tight / The Treasures(1963年) 
4 Girls Can Tell / The Crystals(1991年 / レコーディング:63年) 
5 Do I Love You? / The Ronettes(1964年) 
6 Unchained Melody / The Righteous Brothers(1965年) 
7 (I Love You) For Sentimental Reasons
  / The Righteous Brothers(1965年) 
8 This Could be The Night / The Modern Folk Quartet
 (1991年 / レコーディング:65年) 
9 Ballad of Sir Frankie Crisp / George Harrison(1970年)
10 Angel Baby / John Lennon(1986年 / レコーディング:73年)

●ウチタカヒデ
1 Dr. Kaplan's Office / Bob B. Soxx & The Blue Jeans(1962年) 
2 A Lonely Girl's Prayer / The Paris Sisters(1962年) 
3 Then He Kissed Me / The Crystals(1963年) 
4 Walking In The Rain / The Ronettes(1964年)
5 You've Lost That Lovin' Feelin'
 / The Righteous Brothers(1964年)
6 Long Way To Be Happy
 / Darlene Love(1991年 / レコーディング:65年)
7 I'll Never Need More Than This / Ike & Tina Turner(1967年)
8 Isn't It A Pity / George Harrison(1970年) 
9 To Know Her Is To Love Her / John Lennon
  (1986年 / レコーディング:73年) 
10 In And Out Of The Shadows / Dion(1975年) 



【ウォールオブサウンド・フォロワー・ソング・ベスト10】
◎角谷博栄 
1 Be My Man / Jody Miller(1965年) 
2 See My Baby Jive / Wizzard(1973年)
3 Ooh I Do / Lynsey De Paul(1974年)
4 雨は手のひらにいっぱいさ / シュガーベイブ(1975年) 
5 Born to Run / Bruce Springsteen(1975年) 
6 二人は片思い / ポニーテール(1976年) 
7 白い港 / 大滝詠一(1982年) 
8 Someday / 佐野元春(1982年)
9 もう一度 / 竹内まりや(1994年)
10 Don’t Forget The Sun / The Explorers Club(2008年) 

●ウチタカヒデ
1 Don’t Worry Baby / The Beach Boys(1964年)
2 New York's A Lonely Town / The Trade Winds(1965年) 
3 All Strung Out / Nino Tempo & April Stevens(1966年) 
4 I Wish It Could Be Christmas Everyday / Wizzard(1973年)
5 Say Goodbye To Hollywood
  / Ronnie Spector And The E-Street Band(1977年) 
6 青空のように /大滝詠一(1978年)
7 Don't Answer Me / The Alan Parsons Project(1984年) 
8 ハートのイアリング / 松田聖子(1984年) 
9 Your Lies / Shelby Lynne(1999年)
10 シェリーに首ったけ / ウワノソラ'67(2015年) 



『Portrait in Rock'n'Roll』ウワノソラ'67 HP・オンラインストア 

 (2月12日テキストにて / 設問作成・編集・文:ウチタカヒデ)

2021年2月19日金曜日

【追悼 フィル・スペクター特集】To Know Him Was To Love Him ~ Phil Spector (1939-2021) 第1回


 去る1月16日に逝去された偉大なプロデューサー、フィル・スペクター(Phil Spector)。弊サイトでは氏の追悼特集を2か月に渡ってお送りする。
 初回はBB5研究家のMasked Flopper氏によるコラム【Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷】の第1回。


 2021年1月18日、かの人は生を終える。音の壁を築き上げた後、壁に囲まれた 隠棲生活の果ての終の住処はコンクリートの壁の向こうにある医療刑務所の房、 それは往時に采配を振るったGold Star studioの約10分の1の広さであり、またそ の父が排ガス自殺を遂げた車両の広さに匹敵した。

 地球上のコロナ禍における死者数は200万人を超えたという、Phil Spector もその中に含まれる。死して第二級殺人罪服役囚であったことは免れないが、 この疫病の犠牲者の一人として哀悼を捧げる。
 欧米メディアはこの死の報道における見出しの表現に戸惑いが見られる。 もっとも大きかったのは英国BBCで、速報の見出しで当初
 
"Talented but flawed producer Phil Spector dies aged 81"
 (Phil Spector 81歳で逝く 名声と汚点を残して) 

から間もなく殺人事件犠牲者への配慮か、

 "Pop producer jailed for murder dies at 81."
(81歳で逝く ポップ・プロデューサーそして殺人罪で服役) 

へと編集されていた。
 著名人のSNSにおいても積極的に弔慰を表す記事は 少なく、もっともSpectorの影響を受けているであろう、The Beach Boys からも言及がない。Al JardineのツイートでSpectorへの哀悼が確認できる が、「殺人事件の犠牲者及び遺族などへの配慮もすべき」と指摘する返信も 受けており、他のミュージシャンも慎重に言葉を選び発信している。

 今回はThe Beach Boysの影響を多大に与えたPhil Spectorの足跡を追悼 を込めて振り返ってみることとする。 
 Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷は、

①(1963年~1964年)習作期 
②(1965年~1966年)United Western Recordersでの独自サウン ド確立

の二期に別れる。 
 ①②に渡って共通しているのはWall of Soundの技法である、この基本 技法について鍵になるのはスタジオ内の機器でありもっとも重要な役割を果たすミキシング・コンソールだ。実はGold Star StudioとBrianが一時根城としたUnited Western Recordersには共通点がある。それぞれカスタム メイドではあるが中身はUniversal Audio社の610が基本になっている。

それぞれのコンソールの原型となった
Universal Audio社の610モジュール

 左:Gold Star                 右:United Western Recorders

映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』で
再現されたコンソール
エンジニア役で出演したMark Linettは実際に
The Beach Boysのリマスターで有名な現役エンジニアだ

 これらコンソールの機能はスタジオ内のマイクを拾った信号をミックスし、そこからの出力信号はテープデッキが録音する。
 上の画像から分かるように出力が三系統となっている。これは当時のデッキの トラックが3つであることを意味した。

Gold Starでの録音風景
コンソール隣のデッキが3トラックであることがわかる
左隣はマスター用モノトラック 

 Wall of Soundの最大の魅力となっているエコーはどう処理されているのだろう。
 エコー成分はもちろんこのコンソールから得ることはできない、Gold Starには エコーチェンバーといわれるエコー専用室があるのだ。エコーチェンバーを 用いるのは当時でもありふれた処理ではあるが、Gold Starの場合、音響効果を意 識し設計されており、その壁面の塗装方法まで慎重に計算されているのである。
 アタック音に対して発する独特の反響音と倍音は他のスタジオでは得られない 魅力がある。 

 Bee GeesのMaurice Gibbが
訪問した当時のエコーチェンバー

 それでは録音開始 
まずはスタジオ内のマイクが拾った音声は
コンソールの入力へ
ここで入力音声のピークの調整、フィルターによる音質の調整
デッキの入力へ 

 が、基本的な流れだが、これでは普通の録音と変わらないGold Star Studioの魔法の一つであるエコーを加えよう。
 コンソールにはもう一つ出力があり、指定したトラックの信号をエコーチェンバー へ流れるように指定すれば、ここから出る音声が上記のエコーチェンバー内に設置 したスピーカーへ繋がっていてエコーチェンバー内へ流すようになっているのだ。その音響をエコーチェンバー内に立てたマイクが拾い再びコンソールへ返すように なっている。

実際の録音風景でおさらいしよう 
<実機は失われているため、現存する機種から類推したものである>


スタジオ内各所にセッティングしたマイクからの音声は
①のノブを回してピークを調整         
②のスイッチで出力先を決定          
③のノブを回すと音声がエコーチェンバーへ流れ、
エコーがかかる
④は②で決まった出力先の音の大小を調整し、  
全体のバランス調整を行う

1966年ニュースフィルムでSonny and Cherの
レコーディング風景に映ったGold Starのコンソール
④のノブが色分けされているのがわかる、
各パートのバランス調整を容易にするためであろう
ノブの数から入力が12あり、スタジオ内には少なくとも
12本のマイクが立てられていることがわかる

 コンソールの段階でのいわゆる「壁」を築くには③と④の生音とエコーのバランス そして④で3つのトラックにまとめる際のそれぞれのバランスを調整することが鍵となるのだ。
 さらに「壁」の基礎工事で重要な要素はマイクの位置だ。

とあるセッションからの画像だが、画像中でも8ヶ所に
マイクがセッティングされていることが分かる。

 同じセッションの別の角度からだが、
アップライトベース奏者がいる
したがってマイクがもう一ヶ所セッティングされていることが
想像できる また、ホーン・セクションは全員で一本となっている。 

 電気ハープシコード?の隣にはピアノ奏者2人
(髭の人物はLeon Russell) 
おそらく一本ずつセッティングされていると思われる。 

 上記の画像から確認できるようにコンソールの入力数(12)に対応した マイク数がセッティングされている。 
 ホーン・セクションのように全体で一本もあれば ドラムではスネア付近とキックのあたりにそれぞれマイクを立てる場合もある。
 ここから分かる技法は、
●ホーン・セクションの様に周囲の音と被りながらルームマイクの様に、空間でミックスさせた音をマイクで拾う方法で生まれる、奥行きのある浮遊感のある音。
●楽器に近接して周りの音を取り込みながら、生音に近いエッジのある音
(ドラムは二本も割り振っている為か、「壁」を突き破るドラマティックな効果がある)
 マイクの特性によりマイクの距離で音質も変化するので、イコライジングの効果もあり事前のマイクのセッティングで全体のバランスや音のトーンを決定しているモヤモヤした音とエッジの効いた音とのバランス、そしてコンソールで加えるエコー が大きな距離感を加え視聴者にダイナミズムをもたらしているのだ。 

 それではThe Beach Boysのサウンド形成の変遷に移ろう。

①(1963年~1964年)習作期
初期のキーとなるソングライティングにおける二人のパートナーといえば、
Gary Usher・・・・地元の凡百あるマイナーレーベルとの付き合いや
         契約、スタジオワーク、曲作りなどの業界の経験
Bob Norberg ・・・実家から出奔後のルームメイトのみならず、
         自宅録音でのコーラスワークを始めとする
         技法の実験の数々に寄与。
         The Crystals『He's a Rebel』をBrianに薦め、
         Spectorに開眼させる。
 
 これら二者の才能に加えてBrianがさらに望むものがあった「ヒットを出す」ノウハウである、それに丁度打って付けの人物が現れる。
その名はJan Berry

左端がJan Berry

 Janは自分のグループJan & Deanから全米チャートヒットをいくつも持っていた上にアイドル的ルックスに加え、スタジオワーク(総務・経理)や楽曲の全パートのアレンジ、スコア作成までも手がけアレンジャーであり現場ではプロデューサーとして仕切り、多方面の役割を熟知していた。
 同時にJanはBivery Hills近郊の高級住宅街Bel Air出身であり、西海岸のライフスタイルを満喫するJanの存在は、労働者の多い住宅街出身のBrianにとって眩しく見えたのであろう。 
 東海岸で流行のダンス・ミュージックに対抗して、西海岸から発信するヒットのアイディアを探していたJanにとってBrianの存在こそうってつけの才能だった。
 以前からライブでも共演する仲であったが、間も無く両者はソングライティングでのパートナーとなりその作品『Surf City』の制作に1963年3~4月取りかかり、見事同年7月に全米1位となる。タイトル『Surf City』の舞台は奇しくもBrianの父祖が西海岸移住当時困窮を極めた頃の暮らしを想起させる場所である。
 同曲の制作ではWrecking Crewの面々が動員され、特筆すべきはHal BlaineとEarl Palmer両者のツインドラムによる力強いリズムを中心とするどっしりとしたサウンドだ。前年Bob Norbergから薦められたThe CrystalsにはじまるSpectorのサウンドにBrianは関心を抱いていたと思われるが、Spectorサウンドの影響の前段階としてBrianのスタジオワークにJanは大きな影響を残している。
 また、Janは東海岸のBrill Buildingサウンドの総本山Aldon Music系列の会社と作家兼プロデューサーとして契約関係にあった。
 『Surf City』の作者にBrianが名を連ねるということは、ほんの数年前までは素人の音楽好きに過ぎなかったBrianがラジオで親しんで聴いていたBrill Buildingサウンドの、その当事者の一員へと変身を遂げたことを意味する。
 5月にカバーではあるが『Surfin U.S.A』、7月に共作ではあるが自らペンをとった『Surf City』のヒットはさらにBrianの自信を深めることに繋がった。

 1963年 7月楽曲『Back Home』(Brian Wilson/Bob Norberg作)のセッションではGary Usher、Bob Norbergから得たノウハウに加え『Surf City』のセッションで得た経験を加え、それまでのスカスカな演奏からどっしりとしたサウンドへと移行していることが分かる。
 具体的には、リズムが前のめりのガレージ・サウンドからミドルテンポの跳ねたものへと移行する事であり、それは演奏技術の未熟なDennisではリズムキープが困難であることを意味した。
 Brianは早期のこのサウンドの自らのバンドへの移植を断念し、バンド外のアーティストへの提供で実験することに決めたようだ。

 
Back Home / The Beach Boys

1963年6月14日 Gold Star studioでの
セッション・シートである。
Brianにとっては初のGold Star体験でもある。

 参加者は Hal Blaine(ドラム)、David Gates(ピアノ)、Jay Miglioli(サックス)、Steve Douglas(サックス)、Carol Kaye(ベース)でWrecking Crewご一同様といった面々だ。
 聴こえてくる音もSpectorの音に近くBrianもご満悦であっただろう、アレンジ面でもどっしりしたサウンドを意識していることがよくわかる。
ヴォーカルとコーラスの処理は重ね音りしているところは、Bob Norbergとの共同 生活の頃よく研究していたテクニックだ。
同曲はリリースまでに13年かかり1976年発表LP『15 Big Ones』に改作されたものが収録されている。同LP収録曲全15曲中『Chapel Of Love(作曲にSpector)』『Talk To Me(オリジナルはJoe Senecaだが、SpectorプロデュースによるJean DuShonのカバーもあり)』『Just Once In My Life(Spector作曲)』が収録されておりSpector愛あふれる選曲となっている。

Run-Around Lover / Sharon Marie(1963)

 同日に録音された『Black Wednesday』は後に『Run-Around Lover』に改題しシングル盤(Sharon Marie、プロデューサーはBrian)のリリースに繋がる。 Brianの得意とする内省的なバラードからあえてエモーショナルな曲調を志向していることがよくわかる内容となっている。
 バッキングはWrecking Crewが手堅くまとめているが、やや一本調子でまだBrian流の「壁」が見えてきていない。

 また、この『Back Home』セッションの9日前にBrianを生涯に渡ってノックアウトし続ける、SpectorによるThe Ronnettes『Be My Baby』のセッションが行われていた。
 多くのBrian/The Beach Boys/の評伝類での通説では『Be My Baby』でSpectorに開眼し、それからあしげくSpectorの元に通った云々となっているが、多くの資料から既にSpectorの楽曲やWrecking Crewとの交流があったことは事実である。
 『Be My Baby』が大きなインパクトをBrianにもたらしたのは間違いない、おそらくそれは内心「Jan以上の存在」と心肝寒からしめ、それまでヒットで鼻高々だったBrianのプライドをへし折りSpectorを畏怖し追随することに繋がったのだろう。 

映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』
カットされたシーン(Spectorとの出会い) 

No-Go Showboat / The Beach Boys

 また、同年9月にアルバム『LIttle Deuce Coupe』レコーディングセッションがあり、そのうち『No-Go Showboat』は他のアルバム収録曲と比較して重厚なサウンドとコードチェンジ多用により、リスナーへドラマティックな印象を与えている。またこの辺りからドラムのチューニングを低めにしてスネアとタムを同時に叩く奏法を採用している、これはHal Blaineの影響だ。
 『Back Home』のセッションと楽器の構成が似通っており、さらに進化させてWall Of Soundを志向した証左である。『Be My Baby』がBrianに与えた影響の大きさの一端がよくわかる一曲。

The One You Can't Have / The Beach Boys 

 同時期に行われた再びGold Star studioでのThe Honeys『The One You Can't Have』セッションのサウンドは、『Be My Baby』から受けたインパクトの大きさが現れている。ドラムとキーボードにかかったエコーが楽器の一体感を強調しドラムのバランスが大きくよく聞くとツインドラム(実際はオーバーダビング)でドラムに厚みを持たせている、これはJan Berryの影響が大きい。
 ただし、『Back Home』の方が中低域のキーボードとホーン・セクションの絡みがもっと厚くなっているが、こちらではキーボードはドラムにほとんど隠れていてホーン・セクションはほぼ生音のデッドな音となっている。
 ドラムサウンドの音作りで時間切れとなり他のパートがおろそかになった趣もあるが、生前Gold StarのエンジニアであったLarry Levineの証言によるとBrianは、ホーン・セクションは楽器ごとにマイクを立ててダイレクト音を好んだとの証言もあり、Brian流Wall Of Soundの技法と見てもいいのかもしれない。

Drive-In / The Beach Boys

 同年10月のUnited Westernでのセッションでは『Little Saint Nick』に加え『Drive-In』の録音が行われた。翌年アルバム『All Summer Long』へ収録されることとなる。
 同アルバム収録曲の軽快さと比べて重めの趣がある理由は『Back Home』~『No Go Showboat』セッションからの流れで捉えれば共通項はWall Of Soundの音像であり、いよいよ自らのバンドへの移植を開始した様子がわかる。

I Do / The Beach Boys

『I Do』のセッション・シート 

 同年11月R.C.A Victor studioでの楽曲『I Do』のセッションでは、
Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(ドラム)、Jimmy Bond(ベース)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Al Delory(ピアノ)、Howard Roberts(ギター)、Bill Pitman(ギター)、Tommy Tedesco(ギター)、Jay Miglioli(サックス)、Steve Douglas(サックス)、Plas Johnson(サックス)
他が参加し『Back Home』の頃の倍以上のミュージシャンが動員され、Brianへの信頼や才能をが高まっていることを感じさせる。Spectorのセッションからそのまま抜け出してきてもおかしくない豪華な顔ぶれである。
 『The One You Can't Have』と同様にツインドラム(これもオーバーダブ)が用いられている。
 『The One You Can't Have』に見られた中域の不足は、今回はギターのストロークとキーボードをシンクロさせたことから生まれる楽器間の音色のブレンドで解消し、ドラムもリズムキープというより全体が一体化し壁の装飾と化している。淡々としたドラムのビートに絡むハンドクラップやタンバリンなどのパーカッシブな音の組み合わせも素晴らしい。
 何から何までSpector直系の音作りで、Brianの能力の高さと成長がよくわかる一曲。

Thinkin' Bout You Baby / Sharon Marie 
 
 1963年最後の12月のセッションで『Thinkin' Bout You Baby』 (後に『Daril'』へ改作)の出来は習作期の一年を締めくくるのにふさわしい作品となっている。(ただしヴォーカル録りは翌年となる)
 冒頭から最後まで流れ続ける幾重にも重なったギターストロークの入力レベルはピークレベルギリギリに抑えて強いコンプレッションがかかり、次第にキーボードの音色と一体化していく。さらに浮遊感あるエコーいっぱいのストリングスがかぶさりドラムはかすかに聞こえ、リズムをキープしているのは、キックとウッドブロックにヴィブラスラップだけだ。Wall Of Soundほぼ免許皆伝といっても過言でない仕上がりだ。
 ユニークなパーカッションの選択は、Spectorのセッションによく通ったBrianならではの着眼点だろう。その刻むビートは、バイヨンやハバネロ由来のラテンビート。
 そう、それは『Be My Baby 』のイントロと同じビートであり、Spectorの師匠筋Leiber-Stollerの楽曲の系譜に繋がる。
  「壁」がとうとう、見えてきた。 

 <1964年編へ続く>

(text by MaskedFlopper / 編集:ウチタカヒデ)

2021年2月12日金曜日

中塚武と videobrother:『TOKIO / 走れ正直者』(unchantable recoerds / UCT 034)


 2016年の7thアルバム『EYE』を弊サイトで紹介した、クリエイター兼シンガー・ソングライターの中塚武(なかつか たけし)が、沢田研二の代表作「TOKIO」をリアレンジ・カバーして7インチ・シングルで2月24日にリリースする。
 中塚はQYPTHONEのリーダーとして、98年にドイツのコンピレーション・シリーズ『SUSHI4004』でデビュー後2004年にソロに転じ、CM音楽、テレビドラマや映画のサウンド・トラック制作等のクリエイターとして活動を開始する。同時にシンガー・ソングライターとしてもこれまでに7枚のオリジナル・ソロアルバムをリリースしており、QYPTHONE時代からの独自性を貫いている希なミュージシャンなのだ。 

 最新作は各ジャンルで活躍中のバンドとのコラボレーション・シリーズの初回ということで、5管のホーン・セクションを含む8人編成のジャズバンド、ビデオブラザー(videobrother)と組んでいる。このバンドは在日ファンクを率いる浜野謙太(俳優活動もしている)やギタリストの仰木亮彦、トロンボーンのジェントル久保田を排出したことで知られる、和光大学のジャズ研究会“グリーン・キャタピラーズ・ジャズ・オーケストラ”が母体となって結成され、その高度な演奏力からライブ毎に多くの動員を誇っている。
 メンバーはリーダーでソプラノ兼テナー・サックスの山田宣人を筆頭に、テナー・サックスのルッパ(Ruppa)、トランペットのチャンケン、トロンボーンの鈴木ストライクのホーン隊4名に、サポートとしてバリトン・サックスのカネモト"MOCK”タカヒロが加わる。リズム隊はギターのコウノハイジ、ベースの山本ケイイチ、ドラムの田嶋トモスケで構成され、主にこの8人で活動しているのだ。
 ジャケットにも触れておくが、このアートワーク・イラストは、大人気マンガ『DJ道』で知られる漫画家兼DJのムラマツヒロキが担当しており、中塚とビデオブラザーのメンバーを独特の勢いあるタッチで描いている。
 このイラストだけでも『DJ道』愛読者の所有欲をそそるであろう。

  
   
TOKIO / 中塚武と videobrother

 ここからはこのシングル収録曲の解説をお送りする。タイトル曲はご存じの通り、沢田研二の80年のヒット・シングル「TOKIO」のカバーである。オリジナルは糸井重里の作詞と、当時沢田のプロデューサーだった加瀬邦彦(元ザ・ワイルドワンズのリーダー)の作曲で、編曲はミカバンド解散後サディスティックス在籍時から多くのセッションでファーストコール・ベーシストだった後藤次利が担当していた。グラムロックとディスコ・ファンクを軸にテクノを加味したハイブリッド・サウンドにより、同年の日本レコード大賞・編曲賞を受賞している。
 ここでは中塚とビデオブラザーの共同アレンジにより、ツイストのリズムにディック・デイル直系のハードなギター・リフ、切れのあるホーン・セクションをフューチャーした、全く新しいサウンドでリメイクしている。このカバーを聴いたら、ジュリーのオリジナルを思い出せないであろう突飛なアプローチで多くの昭和歌謡ファンが脱帽するだろう。音圧がある7インチという特性から、現役DJである中塚本人やアートワークを担当したムラマツによるDJプレイでもフロアを沸かせることは間違いない。

 
走れ正直者 / 中塚武と videobrother

 カップリングの「走れ正直者」は、国民的人気アニメ『ちびまる子ちゃん』(原作:さくらももこ)のエンディング・テーマ曲(1991年4月〜1992年9月)で西城秀樹の歌唱で知られており、原作者のさくらによる作詞、当時ヒットメーカーだった織田哲郎が作編曲を担当していた。
 このオリジナルもスカ・テイストはあったが、ここではテンポをより高速化して、縦横矛盾に暴れ回るホーン・セクションのビッグバンド・アレンジにより、格段に聴き応えのあるサウンドにモディファイしてしまっている。
 主役の中塚も西城を意識したシャウター振りが溜まらなく、「TOKIO」での歌唱同様にシンガーとしてのアイデンティティを確立したようだ。
 このように新たな中塚武ワールドは、ビデオブラザーとのコラボレーションによるサウンドを聴いただけで、次作も期待出来ると確信した。
 数量限定の7インチ・シングルなので、解説を読んで興味を持った音楽ファンは、リンク先のオンラインショップ等で予約して入手することをお勧めする。


(ウチタカヒデ)

2021年2月3日水曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(浅田美代子)

  通称「となりのミヨちゃん」こと浅田美代子は当時(今も?)都内でも屈指のお嬢様学校、東京女学館高等学校に在籍していたお嬢様のひとり。そんな彼女が芸能界入りするきっかけとなったのは芸能事務所からのスカウトだった。当然ながら身内は反対、更に芸能界入りを簡単に許諾する校風もなく、人気番組『時間ですよ!』の新人オーディションの結果で芸能界入りを認めることになった。そのオーディションへのに応募は25,000人に及ぶも、見事に栄冠を勝ち取り、シンデラ・ガールとして1973年芸能界デビューしている。

 そして同年、この番組内で挿入歌として彼女自身(天地真理も)歌っていた<赤い風船>で歌手デビューを果たす。ただ当時の彼女の歌唱力はNHKの歌番組に出演するためのオーディションを5回も落ちるほどだった。とはいえ、この曲を手がけたのは「歌い手ファースト」が信条のヒット・ソングのマエストロ筒美京平で、そんな彼女でも無難に歌いこなせるシンプルなものだった。
 そのデビュー曲は初登場2位、翌週には1位に駆け上がっている。その記録は1980年に近藤真彦が<スニーカーぶる~す>で初登場1位を記録するまで破られないほどのものだった(女性歌手の初登場1位は1990年内田有紀<TENCAを取ろう!~内田の野望>この曲も筒美作)。またセールス実績も50万枚に迫るほどで年間10位という華々しいもので、一躍トップ・アイドルの一人となった。


 そんな当時の彼女に人気は、デビュー年に冠番組『ひーふー美代ちゃん』(東京12チャンネル;現テレビ東京)をもつほど絶大なものだった。とはいえ、歌手“浅田美代子”としては相変わらずで、後に清水ミチコ等の歌モノマネ定番としてずっといじられることになる絶好のターゲットだった。

  にもかかわらず、1975年までにトップ10に2曲(<ひとりっ子甘えっ子>(10位、14.5万枚)、<しあわせの一番星>(7位、22.1万枚))を送り込んでおり、彼女を代表する上位三曲が全て筒美作品だったというのも最高のデビューが飾れた要因だろう。またトップ20ヒットも4曲あり、そのうちのひとつ1974年の<じゃあまたね>(12位;9.1万枚)楽曲提供者が1977年に結婚する吉田拓郎だったのはファンには恨めしい出来事だったはずだ。
 彼女はたくろうとの結婚を機に早々と引退の道を選び多くのファンを嘆かせたが、1983年には破局となり、それを機に芸能界に女優としてカム・バックしている。
 その後の彼女の役どころは映画作品では「釣りバカ日誌7」以降のみち子さん役等、2019年には故樹木希林初企画の作品となった『エリカ38』で45年ぶりの主演。またテレビでもNHK連続テレビ小説『花子とアン』など数多くの作品に出演し、幅広く活躍を続けている。 
 またいっぽうでは、明石家さんまのバラエティ番組などに、天然キャラとして欠くことのできない存在となっている。

  また彼女は歌手としてもカムバックしており、その第1作は1992年、嘉門達夫とのデュエット<デュエット替え唄メドレー>(28位:6.1万枚)で、バラエティ番組で見せていた天然キャラが引き立つ傑作ナンバーだった。



『第1回リサイタル・ライブ』 1974年12月10日 
CBS/SONY / Epic/ECLL-8  / オリコン 50位  0.4万枚 

<第一部 ミュージカル「美代子18歳・秋」>①オープニング、②しあわせの発見、③すれちがいの青春、④対立、⑤みんなは兄弟、⑥君は今、⑦18歳・秋、
<第二部 ヒット・パレード>⑧赤い風船、⑨私の宵待草、⑩恋は真珠いろ、⑪しあわせの一番星、⑫ひとりっ子甘えっ子、⑬虹の架け橋、⑭じゃあまたね、⑮春の坂道

 1974年9月15日、東京芝郵便貯金ホールでの模様を収録したもの。この時期はリリースされたシングルがすべてトップ20にランクされるほど絶大な人気を保っており、この会場でも熱狂的ファンの野太い歓声が飛び交い、いかにもトップ・アイドルのコンサートらしいものとなっている。
 アナログ片面がオリジナル・ミュージカルだった。当時はいずみたくのヒット・ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』が、南沙織とフォーリーブスによって再演(1973年)され話題になっており、そのタイミングもあって美代子も挑戦したのかも知れない。
 来場者にとってミュージカルの体験はまたとない絶好の機会だっただろうが、ファンにとってはオリジナル・ヒットを中心としたB面はがお目当てだったのはいうまでもないだろう。  


 
『美代子のページ』 1976年2月25日
CBS/SONY / Epic/ECLL-16  /  オリコン 圏外 

①Overture、②I Can't Give You Anything (スタイリスティックス:1975)、③Proud Mary(クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(以下C.C.R.):1969/ アイク&ティナ・ターナー:1971)、④Medley・赤とんぼ(Chorus; Time Five)/赤い風船/一番星みつけた/しあわせの一番星/叱られて/ひとりっ子甘えっ子、⑤この胸にこの愛に、⑥MAMMA、⑦Medley・ A. Top Of The World(カーペンターズ:1972/1973) / B. Jambalaya(On The Bayou)(ハンク・ウィリアムス:1952 / カーペンターズ:1973)/C.忘れていた朝(赤い鳥:1969)、⑧Medley・ A.  Early In The Morning(クリフ・リチャード:1969/ヴァニティ・フェア:1969) / B. Breakfast At Tiffany’s)(ヘンリー・マンシーニ:1961) / C. 虹の架け橋 / D.  Sugar Town(ナンシー・シナトラ:1967) / E. I Will What For You Top(ダニエル・リカーリ:1964)、⑨想い出のカフェテラス、⑩20才の出逢い 

 このセカンド・ライブは1975年12月7日東京芝郵便貯金ホールでのもの。ファースト・ライヴとは打って変わって洋楽カヴァーが多く収録されており、ジャケット裏面のスナップに見られるように、彼女のノリノリぶりが微笑ましい。
 まず、派手なオープニングに続く最新ヒット②は英語詞のまま歌っており、よほどのお気に入りだったように感じる。続くティナ・ターナー調の③は訳詞が美代子本人と、彼女の弾けた意気込みも伝わってくる。
 自身のヒット曲はさらりとメドレーにしてファン・サービス程度に止めているのは、「私だってこんなに歌えるのよ!」という自負の表れだろうか。 
 さてそんな自負をうかがわせるカヴァー曲について触れておくと、まず⑦のカーペンターズ・メドレーは無難な選曲だが、興味深いのは⑧のメドレーだ。まず<A>は日本での大ヒットを反映した選曲で岡田富貴子の訳詞がぴったりはまっている。続く<B>は女優気分のダイアログが良い雰囲気を醸し出している。続く<D>は彼女にお似合いの好選曲だ。そしてラストの<E>はなかにし礼の訳詞が可愛いだけではない大人びた美代子を演出している。バック・バンドのノリも好演奏で、会場の「ミヨちゃ~ん」コールに本人の気分もアゲアゲ。 
 なお、76年は新曲(⑩はこのアルバムのみ収録の未発表曲)のリリースもなく、これ以降は企画物しかリリースされていない。つまり、この作品が実質的にアイドル時代の浅田美代子ラスト・アルバムとなった。
 とはいえここでのパフォーマンスはそんな雰囲気は微塵も感じさせないほどエネルギッシュな内容で、コアなファンには最高のプレゼントになったはずだ。  

<カヴァー収録曲について> 
②I Can't Give You Anything  
 邦題:愛がすべて。1971年に<You're a Big Girl Now>でデビューしたスタイリスティックスの1975年発表第5作『Thank You Baby』収録の18枚目シングル。本国では51位に終わるも、全英では3週連続1位年間6位という大ヒット。ヴァン・マッコイによる<Love Is The Answer>をモチーフとしたき煌びやかでメロディアスなサウンドは、当時の日本のディスコで<ザッツ・ア・ウェイ/K.C.&ザ・サンシャイン・バンド>や<The Hastle/ヴァン・マッコイ>などと並びヘビロテ状態だった。結果日本での最大ヒット(20位、21.6万枚)になっている。

③Proud Mary 
 C.C.R.初のミリオン・ヒット(全米2位)で代表曲のひとつ、セカンド・アルバム『Bayou Country』(69年)に収録。なお、1971年にはアイク&ティナ・ターナーが大ブレイク作『Live At Carnegie Hall』よりシングル・カットされ、こちらもミリオン・ヒット(全米4位)を記録し、ティナを語る上で欠くことの出来ない曲となっている。 

⑦<A> Top Of The World 
 カーペンターズの4作『A Song For You』(1972)の収録曲で、日本では本国に先がけ独自にシングル・カットされ大ヒットした。米国では1973年リリースの初ベスト・アルバム『The Singles: 1969–1973』に、リアレンジされたヴァージョンが収録され、このテイクがシングル・カットされ彼らにとって2曲目の全米1位となった。 

⑦<B> Jambalaya(On The Bayou)
 カントリー界の大御所ハンク・ウィリアムスが1952年カントリー・チャート1位(全米20位)に送り込んだ名曲。後にニッティ・グリッティ・ダート・バンドが『All the Good Times』(1972)、1973年にはC.C.R.解散後にジョン・フォガティが発表した『The Blue Ridge Rangers』に収録され話題となった。日本やイギリスではカーペンターズ第5作『Now & Then』に収録されたカヴァーが独自にシングル・カットされ大ヒットとなっている。 

⑦<C>忘れていた朝 
 1971年7月に発表した赤い鳥の6枚目のシングル(26位、12.7万枚)で代表曲の一つ。 

⑧<A> Early In The Morning 
 邦題:しあわせの朝。1969年、クリフ・リチャードの来日記念盤として発売され、日本で大ヒット(4位、34.1万枚)。なおこの曲は<夜明けのヒッチハイク(Hictch’ Ride)>(全米5位)のヒットで知られるヴァニティ・フェアとの競作で、英米では彼らに軍配(全米12位)が上がった。なお、クリフにとっては日本での最大ヒットという経緯もあり、来日公演では必ず披露するお約束のナンバーだ。 

⑧<B> Breakfast At Tiffany’s 
 邦題:ティファニーで朝食を。『ローマの休日』(1953)でアカデミー賞主演女優賞を獲得し、ビッグスターとなったオードリー・ヘップバーンの代表作に数えられる1961年発表のパラマウント映画主題歌。作者は『The Pink Punther』でも知られるヘンリー・マンシーニ。 

⑧<D> Sugar Town  
 邦題:シュガータウンは恋の町。“ザ・ヴォイス”フランク・シナトラの愛娘ナンシーが1966年に全米5位を記録した大ヒット。ちなみにこの年、ナンシーは<にくい貴方(These Boots Are Made For Walking)>、翌1967年には父とのデュエット<恋のひとこと(Somethin' Stupid)>を全米1位に送り込み、人気のピークを迎えている。 

⑧<E>I Will What For You Top 
 邦題:シェルブールの雨傘(原題『Les Parapluies de Cherbourg』)は1964年にジャック・ドゥミ監督によって制作されたフランス映画で、第17回カンヌ国際映画祭で最高の栄誉であるパルム・ドール(Palme d'Or)を受賞。この主題歌はダニエル・リカーリが劇中で歌っているが、ナナ・ムスクーリ版も有名。日本では元トワ・エ・モア白鳥英美子のテイクがよく知られている。

(鈴木英之)

2021年1月23日土曜日

DEAF SCHOOL:『PARIGI MY DEAR』(CA VA? RECORDS / HAYABUSA LANDINGS INC. / HYCA-8014)

 
 昨年11月に一色萌(ひいろもえ)のソロデビュー・シングルのカップリング・カバー曲として、43年の歳月を経て「TAXI」をリレコーディングした、リバプール出身のパブロック/パワーポップ・バンド、デフ・スクール(Deaf School)が最新コンピレーション・アルバム『PARIGI MY DEAR』を日本独占で1月27日にリリースする。
 本アルバム・リリースに先行して13日に配信された新曲「WHERE DO WE GO FROM HERE?」をフューチャーし、2010年のシングル曲「SURVIVOR SONG」、現在廃盤となっているミニ・アルバム『Enrico + Bette xx』(2011年)の全5曲と、日本のみでリリースされた『Launderette』(2015年)から6曲の計13曲をメインに、ボーナス・トラックとして「WHERE DO WE GO FROM HERE?」のエクステンデッド・バージョン、冒頭で紹介した一色萌によるカバーでリレコーディングされた「TAXI」(初CD化!)など、合計17曲収録しているお得盤なのだ。
 

 昨年の一色のレビューでも紹介したデフ・スクールは、英国ロック・マニア垂涎と言うべき伝説的存在で、73年イギリスのリバプール・アートカレッジの学生達を中心に結成された。
 70年代のパンク・ムーヴメント前夜のパブロック、モダンなパワーポップ・バンドの先駆者として知られている彼らは、アートカレッジ出身者特有の強烈な個性と才能のあるメンバー達が多く在籍したことで、ワーナー・レコードと契約し76年に『2nd Honeymoon』でデビューする。元アップル・レコード重役のデレク・テイラーがA&Rマンを務めるバックボーンもあり、その後も『Don't Stop the World』(77年)、『English Boys/Working Girls』(78年)と合計3枚のオリジナル・アルバムをリリースするが、大きな成功には至らず78年にバンドは解散してしまう。 

 その後ギタリストでメイン・ソングライターだったクライヴ・ランガーは、エンジニアのアラン・ウィンスタンリーとプロデューサー・チームとして、マッドネスの『One Step Beyond...』(79年)を皮切りにデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの『Too-Rye-Ay』(82年)、エルヴィス・コステロの『Punch The Clock』(83年)等数多くの名作を制作しており、手掛けたアルバムやシングルは400枚を超える。
 ソングライターとしてもコステロの「Shipbuilding」(83年)を共作で手掛けてヒットさせたのはよく知られる。熱心な英国ロック・マニアには知られるが、この曲にいたく感動したティアーズ・フォー・フィアーズ (Tears for Fears)のローランド・オーザバルは「I Believe」を書き、全世界で約1000万枚をセールスした『シャウト(Songs from the Big Chair)』(85年)に収録する。このような経緯からローランドは、クライヴに次作『The Seeds of Love』(89年)のプロデュースを依頼するが、リード曲「Sowing the Seeds of Love」のレコーディング方法を巡って衝突して結局決裂してしまう。アーティスト型のプロデューサーとのワークスにはよくあるパターンといえるが、80年代英国ロック界におけるクライヴの影響力を垣間見られる興味深いエピソードである。

 デフ・スクールのメンバーに話を戻すが、ベースのスティーヴ・リンジーは、79年にニューウェイヴ・バンドThe Planets(ザ・プラネッツ)を結成して、2枚のアルバムをリリースし、レゲエのビートをロック的解釈で取り入れて注目され、日本でもムーンライダーズや一風堂にも大きな影響を与えていえる。その後スティーヴはプロデューサーとして活動し、ビリー・ブラッグやハウスマーティンズ等が所属したインディーズ・レーベルGo! Discsではジェネラル・マネージャーを務めている。

 解散から10年後の88年にはオリジナル・メンバーがほぼ集結しリユニオン・ライヴを開催している。その模様は同年リリースされた『2nd Coming Liverpool '88』で聴くことが出来る。更に2006年の再集結後は現在に至るまで断続的に活動を続けており、『Enrico + Bette xx』(2011年)、『Launderette』(2015年)、『Let's Do This Again Next Week』(2017年)と3枚のアルバムをリリースしているのは頼もしい。
 なおこのリユニオン期間中96年にオリジナル・ドラマーのティム・ウィテカーが死去し、2010年には個性的なヴォーカリストだったエリック・シャークが亡くなっている。
 本作に参加しているオリジナルの現役メンバーは、2名のヴォーカリスト、エンリコ・キャデラック(本名:スティーブ・アレン)と紅一点のベット・ブライトに、ギタリストのクライヴとベーシストのスティーヴ、キーボーディストのマックス・リプル、サックスのイアン・リッチー(セッションマンとしてBB5の『The Beach Boys』(85年)からRウォーターズの『Radio K.A.O.S.』(87年)等々に参加)、そして現在のドラマーのグレッグ・ブレイデンの7名である。


 ここからは本作『PARIGI MY DEAR』の収録曲の中から筆者が気になった主な曲の解説をお送りする。
 冒頭の「WHERE DO WE GO FROM HERE?」はコロナ禍が始まった昨年にリモート・レコーディングされた新曲で、70年代のデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックに通じるロマンティシズム溢れるロック・ナンバーだ。テンポアップして熱気を帯びていくグルーヴにはとてもリモートとは思えないリズム・セクションの結束力を感じさせる。ソングライティングはエンリコとスティーヴの共作である。

 
WHERE DO WE GO FROM HERE? / DEAF SCHOOL 

 スティーヴのベース・ラインがモータウン(H=D=H)・テイストな「YOU TURN AWAY」は、ノーザン・ソウルを好んでいたらしいクライヴの作曲、エンリコの作詞による疾走感のあるダンスナンバーだ。エンリコとベットのヴォーカルの掛け合いにはデフ・スクールらしさを強く感じる。この曲が収録された『Enrico + Bette xx』のドラマーは、パンクバンドCrackoutの元メンバーだったニコラス・ミラードが務めている。
 一転して古き良き英国ロックの荘厳さが漂う「LIVERPOOL 8」は、メンバー達の出身地であるリバプールという街のライフスタイルを描いている。プロコル・ハルムの匂いがする瞬間もあるが、リード・ギターのトーンは過剰にエフェクティヴで全体のサウンド的には支離滅裂な部分はある。だがそんな折衷感覚がアートカレッジ出身者ゆえの美学なのだろう。この曲が収録された『Launderette』から現ドラマーのグレッグに交代している。

 この編集盤でセレクトされた楽曲の中でも特に筆者好みなのが、続く「BROKEN DOW ARISTOCRATS」(『Launderette』収録)である。ペーソス溢れるエンリコの歌詞の世界とクライヴの巧みな作曲能力が結晶していて、サザン・ソウルを英国風ポップに解釈したこのサウンドは、コステロやスクイーズ (Squeeze)のファンなら共感してくれるだろう。またこの曲のMVでは当時来日公演で訪れた東京の街角やライヴ会場で撮影されたシーンを中心に構成されている。

 
BROKEN DOW ARISTOCRATS / DEAF SCHOOL 

 本作中最も大作の「GOODBYE TO ALL THAT」(『Enrico + Bette xx』収録)は、エンリコとクライヴにスティーヴの3名がソングライティングした組曲で6分49秒にもおよぶ。ドラマティックなヴァースと大サビはクライヴの作曲で、中間部で転調するパートはスティーヴが手掛けている。このブリッジが始まる転回は10ccを想起させて英国ロック・マニアにはニヤリとする。またマックスの美しいピアノとイアンのソプラノ・サックスがこの曲を格調高く演出しているのも聴き逃せない。
 2010年のシングル「SURVIVOR SONG」は、オリジナル・メンバーでヴォーカリストだったエリックへの追悼ソングで、彼が生前書いた歌詞にクライヴがカントリー調の曲をつけている。ユーモアと哲学が共存する歌詞の世界で、「サバイバルの曲を歌うのは、僕かも知れないし、君かも知れない」というパンチラインをエンリコが歌っているのが心に響く。

 ボーナス・トラックにも触れておこう。「WHERE DO WE GO FROM HERE?」のエクステンデッド・バージョンは、間奏部にイアンのサックス・ソロをフューチャーしてオリジナルより1分ほど長い。
 初期アルバムからのデモ・バージョンは2曲で、ファースト・アルバム『2nd Honeymoon』(76年)を代表する「WHAT A WAY TO END IT ALL」と、サードの『English Boys/Working Girls』(78年)からは「MORNING AFTER」で、いずれも曲の骨格とアレンジの方向性は最終ヴァージョンと同じであり、デモというよりリハ・テイクという内容だ。
 また目玉となる一色萌により日本語カバーされた「TAXI」は、現メンバーでリレコーディングされたバックトラックを使用しているが、サックス・パートのみセッションで多忙だったイアンに代わり、名手の本間将人がダビングしている。
 オリジナルではエリックが担当していたナレーションと今回の日本語訳詞は、伝説のバンド“シネマ”のベーシストで“ジャック達”のリーダーである一色進(いっしき すすむ)氏によるもので、英日のB級(良い意味で)ロック・ファンには嬉しい限りだ。
 往年のデフ・スクールのファンは元より、一色萌を切っ掛けに彼らを知った音楽ファンも本作を直ぐに予約して聴いて欲しいと願うばかりだ。

 (ウチタカヒデ)

 

2021年1月15日金曜日

The BuckaroosのDon Richについて

 普段は【ガレージバンドの探索】というコラムを書いているけれど、ガレージロックしか聴かないというわけでもなく、その時々で好きだと思ったものを聴いていて少し前にカントリー音楽に興味をもった。

 あまりないパターンかもしれないけれど、そのきっかけはガレージだった。【ガレージバンドの探索・第四回】で取り上げたDownliners Sectはガレージ、R&Bとして括られるようなバンドにも関わらず、一枚カントリーのアルバムを出している。そのアルバムはあまり人気が高くなく、私もあまりしっかりと聴いてはいなかったけれど、記事を書く機会に原曲も合わせて聴いてみた。その中でとても気に入った曲がHarlan Perry Howard作曲の「Above & Beyond」だった。この曲を歌っているカントリーシンガーBuck Owensにもとても惹かれた。Buck Owensはカントリー歌手として多くのヒット曲で有名だけれど、よく知られるのはThe Beatlesがカバーした「Act Naturally」かもしれない。「Act Naturally」の原曲はずっとBuck Owens And The Buckaroosだと思っていたのだけれど、もとはカントリーミュージシャンJohnny Russellの曲のようだ。

 Buck Owens And The Buckaroosについて調べてみると、そのサウンドはベイカーズフィールドサウンドと呼ばれる種類のカントリーだそうで、Chet Atkinsなどが開始したナッシュビルサウンドのライバルにあたるらしい。このベイカーズフィールドサウンドのスカッとする陽気さが好きだ。そしてBuck Owens以上に興味をもったのが彼のバックバンドThe BuckaroosのリーダーDon Rich。ギター、フィドル、テナーコーラスなど多くの役割をこなす。快活なテレキャスターのサウンド、朗らかな歌声を聴いていると最高に気分がいい。

(左)Don Rich (右)Buck Owens

 1941年、ワシントン州オリンピアで生まれたDon Richは幼い頃からフィドルやギターを弾いていたそうだ。高校生の頃、Blue Cometsというロックンロールバンドを結成し地元のレストランなどで演奏していた。1958年にタコマのSteve’s Gay ’90sでBuck Owensにフィドル奏者としてスカウトされ、始めは大学進学のために断ったものの1年後大学を中退してバンドに参加することを決断。フィドルを演奏した最初のトラックが「Above & Beyond」だそうだ。


 Don Richがリードギターを担当している1963年リリースの「Act Naturally」以降はギタリストとしても活躍していき、Buck OwensとDon Richは相棒のようなお互いなくてはならない関係を築いていく。しかし人気バンドとして成功するも、1974年Don Richは32歳の若さでバイク事故により他界した。

 2000年にSundazedからリリースされている『Country Pickin': The Don Rich Anthology』(SUNDAZED SC11091)では、Don Richが関わった多くの作品の中でも、彼の歌や演奏がメインとなるものが集められている。



【文:西岡利恵