ラベル コラム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル コラム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年11月1日日曜日

登録番号1081112(後編)

 



後編を書き上げようとしていた10月28日、Florida州のWalt Disney Worldが出演者の変更を発表した。テーマパークEPCOTで毎年秋に開かれる食とワインの祭典では、連日コンサートが組まれる。11月11日と12日には「The Beach Boys featuring Stamos」が出るはずだったが、その出演が「John Stamos and the California Sound」に替わるという。報道によれば、Mikeの体調が理由だ。California Soundは、Mike抜きのThe Beach Boysの演奏陣ではないかとも報じられたが、顔ぶれはStamosの側からもバンドの側からも明らかにされていない。一方、11月13日のVirginia州Bristolの公演は、The Beach Boysの名のまま予定に残っている。Mikeが立てない舞台に、その名は掲げられなかった。名乗る許諾が、Mikeという一人に結びついた契約だからだろう。名前は誰のものか?前編で投げかけた問いは、いまも目の前で動いている。

前編は、三つの作品群が一つの扉の前に集まったところで筆を置いた。1969年に父Murryが売り払った歌、2020年にバンドの会社が手放した歌、そしていとこを訴えた男の歌。行き着く先は、Santa Monica、Colorado Avenue 2105番地である。扉を開けてみよう。そこにいたのは、拍子抜けするほど大きな主だった。

Universal Music Publishing Group。

世界有数の音楽出版社、Universalの出版部門の事務所である。通りを挟んだ2220番地には、親会社Universal Music Groupの本社が建つ。しかもこの主は、物語の最初から舞台にいたではないか。1969年にMurryから歌を買ったIrvingも、1993年にMikeが歌を譲る書類を交わしたRondorも、グループ会社であり、結局2000年に丸ごとUniversalが買収した。父に売られた歌も、バンドの会社が売った歌も、いとこを訴えた男の歌も、半世紀を経て同じ窓口に集まっていたのである。もっとも、種を明かせば驚くには当たらない。持ち主が誰であれ、世界中から印税を集める実務を大手に任せるのが主流となっているからだ。Iconicの名を冠した出版社の連絡先までこの番地なのは、そのためだ。ちなみに、配信の複製の許可も2021年からThe MLCという団体の一括の許可にまとめられている、本稿では同社の資料を楽曲の権利の配分で参考にしている。
本当の謎は、もう一つの扉の先にいる。前編の最後に予告したこれから登場する、見慣れない会社は、誰が、何のために作ったのか?


ここから先は、いわば答え合わせだ。その前に、道具をそろえておこう。一曲の歌には、少なくとも五つの権利とお金の流れがからんでいる。

一つ目は商標。The Beach Boysという名前やアルバムの題名を、看板として使う権利だ。前編で追った登録番号1081112がこれにあたる。
二つ目は著作権。本稿では、歌そのもの、つまり曲と詞の権利を指す。持ち主は出版社と呼ばれ、レコードにも映画にもCMにも「この曲を使ってよい」と許可を出す。
三つ目は原盤。録音そのものの権利である。同じ歌でも、どの演奏をいつ誰が録ったかで、持ち主が変わる。レコードが売れると、原盤からは歌い演奏した側にもお金が払われる。日本で歌唱印税と呼ばれるものだが、名前に印税とついていても、歌の著作権ではなく原盤から出るお金である。本稿では紛れないように、これを演奏者の取り分と呼ぶ。
四つ目は印税。歌が流れたり売れたりするたびに支払われるお金で、本稿では著作権から生まれる分をこう呼ぶ。印税は、大まかに言って二つに割れる。一つは、著作権の持ち主である出版社に入る出版社の取り分。
もう一つが五つ目の、作家の取り分である。前編で作家印税と呼んだものだ。歌を作った本人に届く分で、著作権を出版社に譲っても、作家自身が売らないかぎり残る。この五つは、それぞれ別の相手の手に渡りうる。ここから先は、手がかりが出てくるたびに、それが五つの箱のどれに入るのかを確かめながら進もう。

もう一つの扉にたどり着くには、まず一つの仕組みを知っておきたい。米国の著作権法では、作家は若いころに手放した著作権を、長い年月の後に取り戻せる。無名のうちに結んだ不利な契約に、一生縛られないための制度だ。本稿では「権利回復」と呼ぶ。この権利は、前もって手放すと約束しても無効とされる。一曲の著作権を一つの部屋にたとえよう。昔手放した部屋も、「何年何月何日に返してください」と通知すれば、その日に返ってくる。ただし、返るのは持ち主の座だけで、印税の大半は戻らない。明け渡す前の約束、たとえば昔のレコードに曲を使わせた約束は生き続け、そのレコードから上がる出版社の取り分は、元の出版社が受け取り続けるからだ。ただし、米国の配信の分は、2024年から扱いが変わった。この点は、のちほど詳しく見る。作家の取り分は、譲った後も作家に払われ続けているので、取り戻すまでもない。この仕組みには、1978年という壁がある。米国の著作権法は、その年の1月1日に生まれ変わった。壁の手前、1977年までの譲渡は、著作権が生まれてから56年で取り戻せる。壁の向こう、1978年以降の譲渡は、譲ってから35年で取り戻せる。同じ作家の歌でも、どちら側にあるかで時計が違うのだ。細かな決まりもいくつかある。共作なら、戻るのは自分の持分だけだ。戻るのは米国内の権利に限られる、と長く考えられてきたが、今年1月、連邦の控訴裁判所は海外の権利にも及ぶと判断した。出版社側は最高裁に上告したが、10月、判事の多くが審理に加わらず、控訴審の判断がそのまま残った。最高裁の判例にはならないものの、出版社にとっては重い結果である。通知を送れば、戻る日を待たずに権利を売ることもできるが、その日より前に買えるのは、部屋のいまの住人だけだ。取り戻した後の管理は人に任せてもよく、元の相手と契約を結び直してもよい(注1)。

1969年に売られた部屋を最初に取り戻そうとしたのは、Brianだった。2008年12月、Brianは出版社Irving Musicに宛てて「409」など1962年の曲の通知を送る。2012年には『Pet Sounds』の曲と「Good Vibrations」、2014年には『Friends』期の曲。裁判では取り戻せなかった著作権を、法の手順で一曲ずつ呼び戻しにかかったのである。そして2021年12月、報道によればBrianは、作家の取り分と、権利回復で戻ってくるはずの著作権を、いまの住人であるUniversalに譲った。総額は5,000万ドルを超え、うち1,920万ドルが後者の対価だったという。相手がUniversalだったのは、先に見た仕組みに沿っている。

ここまでは、報道を追えば分かる話だ。だが、著作権局に残る譲渡の書類を開くと、譲り受け手の欄には、Universalのほかになんと二つの名前がある。投資ファンドのPrimary Wave。
そして、BW Publishing。
冒頭で触れた、あの見慣れない会社が、ここで初めて書類の上に姿を現す。しかも当事者の欄には、その名に続いて「Other Iconic Artists Group」という一行が添えられている。Iconic Artists Groupは、前年にBrother時代の作品群を手に入れたIrving Azoffの会社だ。ややこしいが、この人物と、1969年に歌を買った出版社Irving Musicとは、名前が同じだけで何の関係もない。この一行が見かけどおりなら、AzoffはUniversalと並んで、1960年代のBrianの歌の著作権にも手を伸ばしていたことになる。その意味を説明した報道を、筆者はまだ見つけていない。
だが、手がかりはもう一つある。BW Publishingが生まれたのは2021年12月17日、Brianが譲渡の書類に署名したのと同じ日だ。設立されたのはDelaware州。Brianが暮らしたのはCalifornia州だが、取引の器にはこの州の会社がよく使われる。持ち主の名を届け出なくてよいからだ。記録が肝心なところで口をつぐむのは、そのせいでもある。2週間後、会社はCalifornia州にも届け出た。
住所はWestwoodの1100 Glendon Avenue、Suite 2000。
Iconic Artists GroupやIconic Brothersの会社、Azoffの管理会社が同じく届け出ている一室である。偶然と呼ぶには、部屋番号まで揃いすぎている。社名に「Publishing」とあるが、出版社として曲を管理している形跡はない。著作権団体のデータベースで「God Only Knows」を開いても、出版社の欄にその名はない。著作権を管理するためではなく、著作権の持分を持つための器とみるのが自然だろう。では、誰の器か?署名と同じ日の誕生、書類に添えられた「Other Iconic Artists Group」の文字、そしてIconicの関連会社と同じ住所。三つの手がかりは、一つの答えを指している。あとは裏を取るだけだ。





筆者は、California州に出された届出書を取り寄せた。といっても、州のサイトで無料のPDFを開くだけである。2024年と2025年の届出書。管理者の欄に、その名はあった。

Iconic Issuer LLC。

またしても住所は同じSuite 2000。事業の種類は「音楽出版」。BW Publishingは、やはりIconicの側の器だったのだ。社名のBWは、Brian Wilsonの頭文字と読むのが自然だろう。だが、謎が一つ解けると、次の謎が顔を出す。Issuer。債券などを発行する主体を指す言葉である。歌の稼ぐ力を裏づけにお金を集める仕組みと、どこかでつながっているのかもしれない。その糸は、のちほど担保の話でもう一度たぐることになる。
では、何のための器か?振り返れば、2020年にIconicが手にしたのは、商標の持分の過半と、1968年以降の歌の著作権の多く、そして『Smiley Smile』と1970年以降の原盤、Smileのセッションの原盤だった。BRIを押さえても、Brianの黄金期の歌の著作権とその原盤、つまりThe Beach Boysの根幹は、Universalの側に残っていたのである。前編で見たとおり、2021年春、IconicはBRIとともに、「PET SOUNDS」をはじめ、「Good Vibrations」「Wouldn't It Be Nice」「I Get Around」といった1960年代の歌の題名を、次々と商標に出願している。歌の著作権はUniversalにあるのに、題名を商標として押さえたのだ。中身に手が届かないなら、まず看板から、というわけだ。だが、黄金期の歌の著作権を正面から買うのは難しい。持ち主のUniversalには手放す理由がなく、2000年にIrvingを含む出版グループを買ったときの値は、約4億ドルにのぼった。その著作権が半世紀ぶりに動く瞬間が、Brianの通知だった。戻る権利をめぐって取引の席が設けられたその時こそ、外の者が持分という形で輪に加われる、ほとんど唯一の機会だったのかもしれない。そしてその年の暮れ、Brianが『Pet Sounds』の歌を譲った、あの書類に、BW Publishingの名が現れる。商標で題名を押さえ、著作権にも足場を築く。名前も地味で、印税の欄にも顔を出さない会社だが、黄金期の歌から上がるお金の一部を、Iconicの側へ手繰り寄せる管になっている。


持分が大きければ、使い道を決める場面でキャスティングボートを握ることもありうるが、その重みは記録には出てこない。しかも、この管から上がるお金は、Brianにも、バンドの会社BRIにも戻らないとみられる。作者Brianは2021年に著作権を譲渡した代償金を受け取って退き、黄金期の歌は、そもそもBRIが一度も持ったことのない歌だからだ。バンドの会社を実質支配するIconicは、その会社が一度も手にしたことのない歌にまで、手を届かせたことになる。したたか、と言うほかない。
黄金期の歌に足場ができたことで、1969年に引き裂かれた二つの作品群は、半世紀を経て、同じ輪の中に戻りつつあるのかもしれない。商標と著作権と原盤がそろえば、バンドの歴史を丸ごと使う企画も組める。Primary Waveは2020年、The Four Seasonsと10年の提携を結び、名前と肖像の売り出しや映画、テレビの制作まで手がけている。The Four Seasonsといえば、その半生が舞台『Jersey Boys』になったバンドだ。The Beach Boysの物語が舞台やスクリーンにかかる日も、いつか来るのだろうか?

戻ってくるはずの著作権を、戻る日より前に元の相手に譲るのも、法が認めた選択肢の一つである。Brianがなぜその道を選んだのかを、記録は語らない。『Pet Sounds』の曲が戻るはずだった日の、半年あまり前のことだった。Brianは2025年6月に世を去った(注2)。
それにしても、取り戻そうと通知を送りながら、なぜ譲ったのか?筆者も最初は首をひねった。だが、取り戻したら何が手に入るのかを確かめると、筋が通る。著作権の持ち主である出版社は、1960年代から、Capitolのレコードにも、ほかの歌手のカバーにも、映画やCMにも、「この曲を使ってよい」という許可を出してきた。著作権が作家に戻っても、それまでに出した許可は取り消されない。昔の許可で作られたオリジナルの原盤は、これからも聴かれ続け、その印税のうち出版社の取り分は、許可を出した元の出版社が受け取り続ける。作家Brianには、昔の約束どおり作家の取り分が払われる。これは取り戻す前と変わらない。1985年の米連邦最高裁判決が認めた扱いである。少なくとも、Brianが譲った2021年の暮れには、そう考えられていた。Brianhが新たに得る権利は、戻った日より後に新しく出す許可、つまり新しい映画やCM、新しいカバーの分の取り分(従前なら出版社分だった)にすぎない。しかも、これまでの通説では米国内に限られていた。往年の名曲の稼ぎの大半は、20世紀に出された許可から生まれている。いま世界で聴かれている「God Only Knows」は、1966年に録られた原盤なのだ。取り戻しても、思うほどは戻らないのである。
ところが2024年、米国著作権局は、The MLCの一括の許可で払われる使用料には、この扱いは及ばないと決めた。取り戻した日の後に米国で配信された分の複製の使用料は、昔の録音であっても、取り戻した作家の側に入る。聴き放題が主流のいま、その重みは小さくないだろう。Brianが手放したのは、まだ当時行方の決まっていない権利だったことになる。
報道された金額も、この比率をなぞっている。総額5,000万ドルを超える取引のうち、戻る著作権の対価は1,920万ドル。残りは、Brianの作家の取り分、つまり旧作から入り続ける流れの対価だった。それでもUniversalが戻る著作権に大金を払ったのは、持ち主の座をBrianと分け合いたくなかったからだろう。
戻ってしまえば、新しく曲を使わせるたびにBrianの側と交渉しなければならない。何十年も先まで一社で名曲を扱えるなら、惜しくない額だったはずだ。Brianの側から見れば、通知は取り戻すためだけのものではなかった。通知を送る前の手元にあったのは作家の取り分だけだが、通知によって「何年後かに米国の著作権が戻る」という新しい財産が生まれ、それに1,920万ドルの値がついたのである。2021年12月の時点で戻っていたのは1965年ごろまでの曲で、『Pet Sounds』以降はまだ戻る前だった。加えて2021年は、低金利を背景に音楽カタログの値が高騰した年だった。公表された取引だけで50億ドルを超えるお金が歌の権利の買い付けに動き、その額は前年の3倍近くに膨らんだ。前年の夏に署名され、この年の2月に公表されたThe Beach Boysの取引も、その一つに数えられている。バンドの会社も、Brianも、相場のいい流れに乗って売ったとも言える。Brianは79歳だった、のちに開始となったが後見の話もちらほらでていたであろう、契約が急がれたのだ。先の長い印税より、いま確かな額を受け取る判断は、この年齢の作家には珍しくない。米国では2006年から、作家が自作曲を売った代金に、税の上で有利な扱いを選べるようにもなっている(注1)。



では、譲ったらそれきりなのか?契約の本文は公開されていないので、推理を並べるほかない。
一つ目は、先の分をまとめて受け取ったという読み。カタログの譲渡とは、何十年も先まで続く印税に値をつけ、いま一度に受け取る取引である。
二つ目は、権利の一部を手元に残したという読み。売り手が一定の割合や特定の収入を残す例もある。
三つ目は読みというより事実で、演奏者の取り分、1968年以降の曲、ソロ作品、名前と肖像は、もともとこの取引の外にある。ここまでは、Brianの手に何が残ったかの話だ。
四つ目は、買った側の動きから浮かぶ読みである。譲渡の2か月後、著作権はUniversalからPrimary WaveとBW Publishingにも移されたが、いまも「God Only Knows」の印税を集めるのはUniversal系のIrvingだ。商標と同じ形かもしれない。商標はIconicが51%、BRIが49%を分け合い、舵はIconicが握る。著作権も、窓口はUniversalのまま持分を分け合い、使い道を仕掛けるのはBW Publishingの側、という形だ。戻る前の権利を買えるのはUniversalだけだから、まずUniversalが買い、後から持分を渡す。BW PublishingがBrianの譲渡の署名と同じ日に生まれていたのは、その段取りのためかもしれない。分配データには、Iconicの出版社の窓口として、Universalの出版会社Songs of Universalの名が記された歌もある。かつてBrotherの出版社の管理を担った独立系のWixenにいま残るのは、AlとCarlの側の会社の歌だけである。窓口が同じだからといって、持ち主同士が手を結んでいるとは限らない。お金の流れで言えば、無数の会社が別々に集金しているというより、大手の出版社の帳簿の中で、持ち主ごとの口座に振り分けているのが実態に近いのだろう。持ち主のつながりを示すのは、住所のほうだ。使い道の舵が集まるのはWestwoodのSuite 2000。名義人BRIも、Iconicの会社も、BW Publishingも、住所はこの一室である。どの読みが当たっているのか、いくつかが重なっているのか、記録からは決められないが(注2)。

もう一人の足取りも追ってみよう。Mikeもまた、同じ道を歩んでいた。Brianの最初の通知から、わずか4か月後の2009年4月。Mikeは「The Shift」「409」など、Brianと同じ1962年の曲についてUniversalに通知を送る。MikeがBrianの動きを知って急いだと考えるのは、うがちすぎだろうか。同じ日にもう一通、Hite Morganが営んだGuild Musicに宛てて、バンドが最初に世に出した「Surfin'」と「Surfin' Safari」の通知も送った。2015年には、著作権を継いだBMGに宛てて同じ通知を出し直す念の入れようだ。その後も通知は続く。1967年の「Here Comes the Night」、1985年の「Getcha Back」、そしてTerry Melcherらとの共作である1988年の「Kokomo」。映画のために書かれたこの曲では、Disney系の出版社にまで宛先が及ぶ。通知に書かれた効力の日が、前編の冒頭の2026年7月29日である。ただし、映画のために頼まれて書いた曲は、契約しだいで「職務著作(work made for hire)」とされ、権利回復の対象から外れる。印税の集め先の表示も、その日を過ぎていまだ変わっていない。2025年に戻る日を迎え、Mikeの会社の名が出た「Getcha Back」とは対照的だ。同じ制度を使いながら、Brianは取り戻す権利を売る道へ、Mikeは取り戻した持分を手元に集める道へ進んだことになる(注3)。
では、取り戻した後のMikeはどうしたのか?答えは、印税の分配を担う団体のデータにある。1961年の「Surfin'」を開くと、出版社の欄が二つに割れている。半分のBrianは、Hite MorganのGuild Musicを継いだBMGのまま。
半分
のMikeには、Mikeの会社Clairaudient Musicの名がある。権利回復で取り戻した持分を、Mikeは自分の会社に入れたのだ。印税を集める実務は、Universal系のAlmoが担っている。


せっかくなので、このデビュー曲の箱を、残りも開けておこう。原盤。Hite Morganのもとで録ったデビュー当時の録音は、前編で見た、2020年にBRIがIconicへ売り渡した歌と録音の一覧の中にある。「H. Morgan Sessions」として、63件。たった一曲のデビュー曲に、持ち主が三者並ぶのだ。

お金の流れも、もとは以下の箱どおりに分かれていた。研究家James Murphyの2015年の本は、1961年の「Surfin'」のシングル1枚の行方を図にしている。
店が仕入れる値段を100%とすると、卸売業者に16.7%、レーベルのCandixの手元に73.3%。残る1割のうち、演奏したThe Beach Boysに演奏者の取り分、つまり歌唱印税が6.7%。歌の側には印税が3.3%。その内訳は、出版社のGuild Musicの取り分が1.7%、作家の取り分としてBrianとMikeに渡るのが1.7%と、半分ずつである。ラジオで流れた分の印税は、BMIを通じて別に支払われる。著作権、原盤、印税、作家の取り分。四つの箱は、60年以上前の1枚のシングルに、すでにそろっていたのである。名前の箱だけは、まだ誰も書類にしていなかった。


箱は、ここから別々の道をたどる。Morgan家の歌の著作権はBug Musicを経て、2011年にBMGへ移った。原盤は長くMorgan家が貸し出してきたが、2000年、BRIはその録音を使った2枚組『First Wave』の差し止めを求め、商標と原盤に肖像の権利まで掲げて3億4,000万ドルの訴えを起こす。8年余りの裁判では、1962年3月の合意はMorgan家に何の権利も渡していない、とされた。ただ、すでに世に出ていた録音については、40年近い沈黙を理由にBRIの請求は退けられ、まだ世に出ていなかったテイクやスタジオでの会話だけが、BRIの勝ちとされた。2009年3月、控訴裁判所は「この事件は終わった」と幕を引く。24日後、Bruce MorganがBug Musicに売ったのは、歌の著作権だった。原盤の権利はバンドの側に、歌はBMGへ。それでもMurphyは、テープの現物はいまもMorgan家にあると書いている。五つの箱の外に、もう一人の持ち主がいるのだ。
自分の会社を持ちながら、Mikeはなぜ、かつて争った相手の系列に管理を任せるのか。前編で見たとおり、作者の座を求めた裁判で、Mikeは1993年、判決を待たずに出版社と折り合い、受け取るお金を担保に差し出した。勝ち取った35曲の持分はいまもUniversalの側にあり、1985年の「Getcha Back」の窓口もUniversalの系列だ。同じ窓口に預ければ手間がない。争った相手は、いつしか取引の相手になっていた。取り戻して増えるのは、これから先の使い道と、米国の配信の分の、出版社の取り分である。ところが「409」では、Mikeの持分であるはずの25%はいまもAlmoが持つ形で、表札は掛け替わっていない。思い出されるのは、1993年にMikeが同じ曲をRondorに譲った、あの「1969年8月20日現在」の書類だ。日付は1969年にさかのぼらせても、譲渡そのものは1993年に結び直されている。ならば譲渡は1978年の壁の向こう側に移り、1993年を起点とした35年の時計で動く。権利回復は早くても2028年である。Mikeは2014年8月と11月の二度、「I Get Around」「Good Vibrations」など1960年代の35曲の通知を送った。戻る日は2019年から2023年とされたが、その日を過ぎたいまも、出版社の欄はAlmoのままだ。一方、1993年の一覧にない「Surfin'」と「Surfin' Safari」には、Mikeの会社の名が出る。境目に立つのは、やはり1993年の書類だろう。もっとも、こうした結び直しをめぐる裁判所の判断は分かれ、通知は期限を逃せば二度と使えない。Mikeが通知を送り続けたのもうなずける(注4)。
少し込み入ってきたので、整理しておこう。権利回復で取り戻した後もUniversalの名が残る理由は三つある。レコードなど昔の許可の分は、米国の配信を除いて、法の決まりで元の出版社が保持しつ続け、外からは見えない。「Surfin'」のように、表札はMikeでも管理人がUniversalという歌があるのもそのためだ。そして一方「409」のように、1993年の書類で期間経過が56年のはずだったが、実際は35年となった結果、表札そのものがいまだに掛け替わらない歌がある。
皮肉なことに、Brianを相手取った裁判で作者の座を勝ち取るために、判決を待たずに出版社と結んだ1993年のMikeの書類が、勝ち取った35曲の権利回復起算時を1978年の壁の向こう側へ押しやってしまったのだ。Brianに向けて仕掛けた一手が、16年後、取り戻しの通知を送ったMike自身に思わぬ障壁となって跳ね返ってきたのである。周到と思われた法廷戦術がかえってMikeの足手纏いとなってしまった。少なくとも、表札の上ではそう見える。

2020年にBRIの役員としてIconicへの売却の書類に署名したMikeは、2024年1月、Iconicの関連会社も宛先に含む権利回復の通知を10通送っている。対象は「All This Is That」などBrother時代の34件。売ったのはBRIの役員として、取り戻すのは一人の作家として。会社が著作権を売っても、作家の取り戻す権利までは売れない。片方の手で渡し、もう片方の手で呼び戻す。交渉の席では強いカードだろう。戻る日は2026年2月の「Add Some Music to Your Day」を皮切りにすでに訪れ始めたが、表札はまだIconicの側の名のままだ。宛先は、Universal、BMG、Iconic、いとこDennisの遺族、盟友Terry Melcherの側の会社にまで及ぶ。会社に集めておけば、会社ごと引き継ぐことも売ることもできる。商標を使う許ししか持たないMikeにとって、著作権は自分のものにできる箱なのだ。もっとも、前編で触れた弁護士との約束は報酬をめぐる裁判に発展しており、筆者はその決着を確かめられなかった(注4)。

今年60周年の『Pet Sounds』の著作権は、1969年に売られた作品群にあり、Brianの通知と譲渡を経て、いまもUniversalのもとにある。原盤は別の話だ。60周年のモノラル盤には「1966年にCapitolから初出」とあり、配給はUniversalの一部門である。ところが同じ年のボックス『We Gotta Groove: The Brother Studio Years』には、Brother Records, Inc.とIconic Brothers Masters LLCの名が、Capitolへのライセンスとともに表示されている。境目は1967年だ。その年の2月、バンドは歌唱印税の未払いを求めてCapitolを訴え、7月の和解で、Brother RecordsはCapitolの配給で船出し、『Smiley Smile』がその名で出た。続く『Wild Honey』『Friends』『20/20』は、再びCapitolの名で出た。1969年4月、バンドはCapitolとの決別を宣言し、未払いの歌唱印税などを求めて200万ドルの訴えを起こす。いま『Smiley Smile』の原盤はIconicの側に、続く3枚はUniversalの側にある。どちらのレーベルで盤を出したかが、半世紀後の持ち主の境目を決めたのかもしれない。ボックスに刷られた「santa monica. california 90401」は、Brother Studiosの町。いまの窓口も同じ町にある。素敵じゃないか?(注5)。『SMiLE』は、記録の上で三つに裂かれている。1967年前後の歌の著作権はBrianが譲った一覧に、「Surf's Up」などはIconic側の担保の一覧に、『The Smile Sessions』の原盤はIconicに売り渡された一覧の中に。未完のアルバムは、権利の上でもまとまっていない。

ここで筆者は迷宮に入った。2020年にBRIがIconicへ売り渡した歌と録音の一覧は、題名にして924。1970年代の歌も、CBS時代の原盤も、Smileのセッションも収まっていて、これでIconicの持ち物は見通せたと思ったが、一曲ずつ開くと話が合わない。『Pacific Ocean Blue』の「River Song」の出版社はDennisとCarlの側の会社で、Brotherの名はない。「Good Timin'」は原盤こそ一覧にあるが、歌はBrianの一家の信託が営むNew Executive MusicとCarlの側のMurry Gage Musicのものだ。1986年、MikeはChallove Musicから1970年代後半の歌の持分を新会社Clairaudientに移した。署名者には、MikeのバンドCelebrationでサックスを吹いたジャズの名手と同じ名のCharles Lloydが並ぶ。Challoveとは、CharlesとLoveを合わせた名なのだろう。同じ一覧の「Kona Coast」は、1978年の登録ではBrotherの出版社とAlの名で、1981年の登録でAlとMikeの会社に書き換えられた。Brotherの名が消える瞬間を、記録にとどめているのである。さらに1978年、あの壁の年。3月にまとめて登録された『M.I.U.』のころの歌は、Brother、Brianの会社、のちにその持分がMikeの会社に収まるLoveSongsの三者のものだったが、のちの登録で一曲ずつ書き換えられていく。ところが、いまの分配データは登録とも食い違う。登録で残ったBrotherの名が「Pitter Patter」からは消え、登録で消えたはずの「Our Team」には戻っている。Brotherの名が載る歌では、Mikeの会社の取り分がちょうどその分だけ少ない。穿った見方をすれば、Mikeは持分の一部をBrotherの出版社に置いていたのかもしれない。だが書類は、そこで黙ってしまう。ともあれ、メンバーそれぞれに自分の出版社があり(図)、譲渡一覧に題名があることと、著作権の持分があることは、別の話だった。原盤でも、Dennisのソロ作はCaribouの録音としてSonyの側にあり、『Bambu』から『L.A.』に移された「Baby Blue」の原盤はIconicの側にあるとみられる。開くたびに、歌の持ち主の顔が増えていくのだ(注6)。

素人探偵の見取り図を描いておこう。
商標。名義人はBRIのまま、持分の過半と舵はIconicにある。Mikeが握るのは、その名でツアーをする名称の使用権である。
著作権。黄金期の歌はUniversalにあり、BW Publishingを通じてIconicも足場を持つ。1968年以降の歌は、1970年代前半を中心にIconicへ渡った。ただし、丸ごとではない。The MLCのデータで一曲ずつ開くと、Brotherの出版社の側にあった取り分は、調べたかぎりどの歌でも、商標とまったく同じ割合で二つに分かれている。過半を受け取るのはIconic自身の出版社、残りを受け取るのがLittle Brother Music Inc.という名義だ。この名義は州の登記にも、BMIやASCAPの記録にも見当たらない。BMIやASCAPでは代わりに、Brother時代の旧い出版社の名が、窓口をIconicにして、Iconicの名と対で並ぶ。こうした名前は、独立した持ち主というより、集金の途中に現れる名札とみたほうがよさそうだ。前編で「Feel Flows」に見たICONIC BROTHERS ANTHEMSも、その一つだ。法人の登録はなく、Mikeの通知も同じ名を、Iconicの会社の「関連会社、ライセンシー、または部門」と書く。では、Little Brotherという名札の先には、誰がいるのか。売り手が持分の一部を残し、管理は買い手の側にまとめるのは、カタログの売買ではよくある形だ。The MLCでこの名義を引くと、並ぶのはBrother時代の出版社の歌ばかりだ。顔ぶれからも名前からも、BRIの側に残った持分の受け皿と読むのが自然だろう。そうだとすれば、この取り分はBRIを通じて、その株主の側へ流れていることになる。作家の取り分には手を付けず、出版社の取り分の過半だけを押さえ、残りは売り手に持たせて、ともに稼ぐ形にする。商標と同じ形を、歌にも当てはめたのだ。もっとも、作家が取り戻す権利だけは、どんな契約でも封じられない。Mikeの通知が、その隙間を突いている。だが1970年代後半には、5人とも自分の持分をそれぞれの出版社に置くようになっていた。BRIの出版社に置けば株主全員で分け合うが、自分の会社に置けば自分の手に残る。ソロの道を歩き始めた時期と重なるのも、偶然ではないだろう。Brian自身の会社の歌は2012年にBMGと契約し、いまの連絡先は、晩年のマネージャーで後見人の一人、信託の受託者でもあったLeeAnn HardのH2 Managementである。
原盤。Capitolの名で出た録音はUniversalに、『Smiley Smile』と1970年以降、CBS時代、Morganのもとでの録音、Smileのセッションは、Iconicに。DennisとCarlのソロ作はSonyにあるとみられる。


印税。窓口の多くはUniversalに集まる。Bruce Johnstonが一人で書いた歌は別の道を歩き、1970年のシングルではBrotherの側のWilojarstonの名だった「Tears in the Morning」も、「Disney Girls (1957)」も、いまはIconicではなく、Terry Melcherの側の会社Artists Musicのもとにある。窓口はやはりUniversalの系列で、録音はIconicの側だ。Brianとの共作「Deirdre」は、歌もIconicの側にある。ただし、Dennisの会社の連絡先は私書箱、CarlとAlの側はWixenを通す。作家の取り分だけは、作った本人と遺族に届き続ける。Brianはこれも譲ったと報じられた。

知財はいま、三つの手で動いている。企画と看板、つまり商標と1967年以降の原盤を受け持つIconic。黄金期の著作権と原盤、印税の窓口を受け持つUniversal。そして輪の外で自分の持分を集める、ただ一人の作者Mike。DennisとCarlの遺族も、自分たちの箱を持つ。一曲ごとに持ち主が違うモザイクを買い集めるのは現実的ではなく、2020年の書類が「独占的な管理の権利」をうたうのは、持つより動かすことに重きを置いた表れとも読める。Iconicの輪は閉じかけているが、最後の隙間に立つMikeは敵ではない。名前の持ち主を追った捜査の答えは、持ち主は一人ではなく、箱ごとに役割で分かれている、ということになる。
もっとも、契約の本文を見ないかぎり、これも深読みの域を出ない。
担保の糸もたどっておこう。ここでの担保は借金のかたではなく、歌が稼ぐ力を裏づけにした信用である。1993年にMikeが差し入れた担保は、2020年7月、Iconicとの取引の直前に満了が確かめられた。入れ替わるように、Iconicが買った著作権と原盤は買ったその日に銀行の担保に入り、2021年3月には別の銀行に借り換えられている。住宅ローンの借り換えと同じことだ。2024年、Iconicは10億ドルの融資枠を得て、Rod Stewartのカタログを手に入れた。BW Publishingの届出書にIconic Issuerの名が初めて現れるのも、同じ2024年の11月である。偶然かどうかは分からない。半世紀前のハーモニーが、次の歌を買う力を生んでいるのかもしれない。

さて、名探偵なら、ここで関係者を一室に集める場面だ。ファンの間では長く、この物語に英雄と悪漢の役が割り振られてきた。だが書類を並べてみると、配役はくるくる入れ替わる。息子の歌を売った父Murryは、そもそもBrianとともにSea of Tunesを作り、しっかり自らの歌を収める器を用意した英雄でもある。いとこを訴えたMikeは、法廷で作者と認められた勝者だ。歌を譲ったBrianも、取り戻す権利に値をつけさせた交渉の勝者とも読める。Brother時代を買い取ったAzoffは、その原盤を新しい音源にして私たちの手元に届けてくれている。商標をめぐって訴えられたAlは、もとはその枠組みに賛成票を投じた当人だった。どの人物も、ある角度からは英雄に、別の角度からは悪漢に見える。要するに、お互い様なのだ。そして、その全員の思惑が絡み合った末に、60年前の歌「Heroes and Villains」、英雄と悪漢が心に響く。そのサビでは、英雄と悪漢に向かって、よく見ろ!自分たちのしてきたことの行き着いた先がこのザマだ!と説く。60年分の書類を前に、関係者を一室に集めたいま聞き返すと、なかなかの皮肉である。誰が英雄で、誰が悪漢なのか?その答えは、それこそ神のみぞ知る。

迷宮入りの謎も書いておく。
BRIの株をいま誰がどれだけ持っているのか?
Mikeの商標の使用料は、2016年の時点ではBRIを通じて株主へ流れていたが、2020年以降はどうなのか?
そして最大の謎。Mikeが舞台を降りたとき、この名前を誰が背負うのか?
Alはこの10月、かつての仲間をこう語った。「彼は根っからのプロだ。舞台に立ちたいのに、降り方が分からない。ほかに何をすればいいか分からないから、抜け出せなくなっているのだと思う」。38の州が偽物の公演を禁じたいまも、商標の持ち主の許しを得た公演は例外となる。名前は、人を必要としないのだ。そのAlは、ブランドはずっと続いていくと語り、こう続けた。「Irvingのことだから、何か言うだろう。彼が買ったのは僕らのブランドだが、本当に買っているのは出版の権利だ」。Iconicを率いるIrving Azoffのことである。商標の箱より、著作権の箱のほうに値打ちがある。当事者の口から出た、いちばん率直な答えかもしれない(注7)。

「The Beach Boysがなくなる日を教えてやろう。
 そんな日が来るわけないだろ!
 俺たちは車椅子でもステージに立っているからさ!」

Dennisは生前、そう語ったと伝えられる(注8)。最初の5人のうち、DennisもCarlも、そしてBrianももういない。登録番号1081112の名義人の欄には、あの壁の年、1978年から変わらずBrother Records, Inc.の名だけがある。書き換えられたのは、登録欄の外である。
最後に、書き添えておきたい。本稿は、齢を重ねたメンバーやその家族を責めるために書いたものではない。権利を売り買いし、その稼ぎを信用にお金を借りるのは、いまの音楽産業ではごく当たり前の、法にかなった営みである。持ち主が入れ替わっても、名曲は眠らされることなく、新しい盤や配信になって私たちの耳に流れ続けるのだ。筆者が追ったのは、その仕組みと、公の記録に残された足取りだけだ。健康や家族のことは、本人や関係者が公に語った範囲にとどめ、私人である遺族の名前は記さなかった。
素人探偵にできるのは、新たな登録書類が著作権局に現れるのを待つことくらいだ。

記録は本物、推理と深読みのほうは、あくまでもシャレとして笑ってお読みいただきたい。


(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

注

1 米国著作権法304条(c)、203条、101条(職務著作)。1978年1月1日施行の1976年著作権法による。304条(c)は1978年より前の譲渡(著作権の発生から56年)、203条は1978年以降の譲渡(譲渡から35年)を対象とする。「権利回復」はtermination of transfersの筆者の訳語。Mills Music, Inc. v. Snyder, 469 U.S. 153(1985)。海外の権利:Vetter v. Resnik(連邦第5巡回区控訴裁判所、2026年1月12日)、上告申立てはBMG Rights Management v. Vetter(No. 25-1391、2026年6月)。最高裁は2026年10月19日、判事4人が審理に加わらず定足数を欠くとして、原判決を維持した(28 U.S.C. §2109、判事の意見が半々に割れて維持された場合と同じ効力)。税:米国内国歳入法1221条(b)(3)。説明は一般的なもので、個々の事案への法的判断ではない。カタログ取引の額:MIDiA Research(Synchtank、2022年3月31日。公表された取引で53億ドル、前年の約2.8倍)、Music Business Worldwide(2022年1月10日。少なくとも50.5億ドル、The Beach Boysの取引を含む)。配信の一括の許可と例外:米国著作権局の最終規則(2024年7月9日、Federal Register 2024-14609)、The MLC「Statutory Termination Final Rule」。

2 Universal Music Publishing GroupのLos Angeles(Santa Monica)事務所(2105 Colorado Avenue):同社サイトのContact Us。Universal Music Groupの本社(2220 Colorado Avenue):Commercial Observer(2024年10月4日)。RondorのUniversalによる買収(2000年8月、Herb AlpertとJerry Mossから約4億ドル):Wikipedia「Universal Music Publishing Group」(二次資料)(いずれも2026年10月25日閲覧)。米国著作権局V3574D579、V3601D530、V3608D682、V3611D182、V3623D139、V3623D140、V3625D964、V15032D022(当事者欄の記載を含む)。譲渡の報道:Billboard、Digital Music News(2022年)。2022年の移転:V15008D188。使用料の集め先:The MLC Public Search(2026年9月29日閲覧)、BMI Songview(Work ID 484174、2026年10月15日閲覧)。1960年代の歌の題名の商標出願:Justia Trademarks(Iconic Brothers IP LLC、2021年3〜4月の出願)。Primary WaveとThe Four Seasonsの提携:Music Business Worldwide(2020年10月22日)。Rondorの買収額:HITS Daily Double(2000年)。Colorado Avenue 2105番地:Universal Music Publishing Group公式サイトの連絡先(2026年10月13日閲覧)。窓口の表示:BMI Songview(「Better Get Back in Bed」Work ID 108802ほか、Brother Publishing Company c/o Wixen Music Publishing、同c/o Songs of Universal、Iconic Beach Boys Tunes c/o Songs of Universal、2026年10月20日閲覧)。WixenによるBrother Publishingの管理:Randall Wixenのインタビュー(Songwriter Universe、2016年)。BW Publishing:Delaware州法人局File Number 6482213(設立2021年12月17日)、California州の法人番号202200410911(他州法人)、OpenCorporates。California州務長官への届出:LLC-5(202200410911、2021年12月30日、Delaware州の存続証明File 6482213を添付)、Statement of Information(BA20241980872、2024年11月8日/BA20252445593、2025年12月17日)。Statement of Informationの2通とも、Manager or Member=Iconic Issuer LLC、Type of Business=Music Publishing。登録日はCalifornia州の法人登録の集約一覧(bizprofile.net)による(いずれも2026年10月10日閲覧)。四つの形は筆者の仮説で、契約の内容を示すものではない。The MLCと一括の許可:The MLCの発表(2021年1月1日)、米国著作権局「Musical Works Modernization Act」(2018年の音楽近代化法第1編)。演奏の使用料はこれまでどおりBMIやASCAPが扱う。

3 米国著作権局V3577D816、V3577D817、V3622D603、V9906D510、V9992D792、V10002D572、V9996D693ほか。Brother時代の歌への通知(2024年1月22日送付、23日記録):V9996D676、V9996D677、V9996D679、V9996D680、V9996D693、V9996D694、V9996D700、V9996D711、V9996D816、V9996D939。「Add Some Music to Your Day」の出版社:BMI Songview(Work ID 6434、ISWC T0702216872、2026年10月20日閲覧)。

4 ASCAP・BMI(Songview)、The MLC Public Searchの「409」「Surfin'」「Getcha Back」「Kokomo」(2026年9月29日閲覧)。米国著作権局V3628D145・V3622D597(2014年8月21日・11月19日送付、同じ35曲の通知)、V3622D603(2014年11月25日記録、1968年登録の13曲の通知)、V9996D680・V9996D700・V9996D711・V9996D816(2024年、Brother時代の歌の通知)、V10001D971(2024年、「Sound of Free」の通知)、「Sound of Free」の出版社:BMI Songview(Work ID 19348737)、ASCAP ACE(Work ID 495511050)、ISWC T9148596014(いずれも2026年10月19日閲覧)、V9968D011(2018年、Clairaudient MusicとBMGの管理契約)、V9994D129(2023年、Terry Melcherの側の会社への通知)、結び直しと権利回復の判例:Milne v. Stephen Slesinger, Inc., 430 F.3d 1036(9th Cir. 2005)、Classic Media, Inc. v. Mewborn, 532 F.3d 978(9th Cir. 2008)。BMI Songview「Let Him Run Wild」(Work ID 851952)、「Good Vibrations」(Work ID 497382)、「Surfer Girl」(Work ID 1434585、2026年10月18日閲覧)。「Surfer Girl」「Surfin' Safari」「Surfin'」がGuild Musicの歌だったこと:米国著作権局V2112P545(1985年)。Bug Musicの担保:V3582D404(2009年8月10日記録、JPMorgan Chase Bankへの担保の追加分)。BMGによるBug Musicの買収:Bertelsmann(2011年9月)。2016年の盤(Becoming the Beach Boys: The Complete Hite & Dorinda Morgan Sessions、Omnivore Recordings)の解説書19ページ(Era 805〔1969年〕、DCC Compact Classics DZS-054〔1991年〕、Capitol C2 0777 7 81294 2 4〔1993年〕の記載とクレジット)、The Second Disc(2016年8月26日)。1991年の盤(Lost & Found〔1961–62〕、DCC Compact Classics DZS-054)の解説書(「Licensed from Deck Records」「All songs published by Guild Music Co. BMI」の記載)。2000年12月の訴えと2001年1月の仮処分:Billboard「Preliminary Injunction Issued In Beach Boys Suit」(2001年1月10日)。2000年8月から2009年3月までの経緯(3億4,000万ドルの訴え、California州民法980条(a)(2)、2004年6月16日の判断、2006年4月28日の地裁の最終判決と弁護士費用の決定、2008年5月1日の連邦第9巡回区控訴裁判所の判断、2009年3月16日の決定)、2009年4月9日のBug Musicへの売却とテープの現物:James Murphy『Becoming the Beach Boys, 1961–1963』(2015年)。「Surfin'」1枚の収入の流れ:同書Appendix 4。Deck RecordsがMorgan家の会社であること:同記事(持ち主Bruce Morgan)、Deck 142(Bobby Williams「Chapel of Love」、Bruce Morgan・A. Egnoian作、出版はGuild Music Co.、所在地1107 No. El Centro, Hollywood)のレーベル表記。2000年の盤(Surfin'、Varèse Sarabande 302 066 085 2)の裏ジャケット(「Tracks 1-11 released through the courtesy of Deck Records by arrangement with Original Sound Entertainment」の記載)(いずれも2026年10月17日閲覧)。Clairaudient Music Corporation:Nevada州務長官の法人記録(NV19861010362)。Challove MusicからClairaudient Music Corporationへの譲渡:米国著作権局V2231P166、V2231P168、V2231P170(いずれも1986年12月19日記録、as of 1986年8月15日、45曲。署名はRonald Altbach、Charles Lloyd、Michael E. Love、いずれもpartner)。Celebrationの顔ぶれ:Wikipedia「Celebration (1970s band)」ほか(二次資料)。推論は筆者のもので、個々の事案への法的判断ではない。弁護士報酬の争い:Flynn v. Love(連邦地裁Nevada、3:19-cv-00239)ほか。

5 米国著作権局V3608D682、V15032D022、PAu002079501(1996年)、V9974D533。『Pet Sounds』モノラル盤(2026年、Capitol Records/Universal Music Enterprises、602488330619)裏ジャケット。『We Gotta Groove: The Brother Studio Years』(2026年、Capitol Records/UMe、602478114632)裏ジャケット。メンバーの持分:Rolling Stone(2021年2月)。1967年のCapitolへの訴えと和解:Keith Badman『The Beach Boys』(2004年)195ページほか。BrotherのレーベルがCapitolの配給で始まったこと:Record World(1967年7月29日)。1969年の決別と訴え:Cash Box(1969年4月12日)9ページ。商標出願はJustia Trademarks(二次資料)による。

6 米国著作権局V3623D140(1967年の曲の通知)、V15032D022(Brianの譲渡)、V9987D328(Iconic側の担保解除の一覧)、V9986D679(2020年8月31日、BRIなど三社からIconic Brothersへの著作権と独占的管理権の譲渡、924タイトル。Hite Morganのもとでの録音は「H. Morgan Sessions」として63件)、V9985D811(同じ一覧を付けた担保契約、同日登録)、V9986D404(同年、Iconicの出版の会社への振り分け)。DennisとCarlの出版社:ASCAP ACE「River Song」(Work ID 480118898)、「Farewell My Friend」(362079878)、「Angel Come Home」(310178402)、「Good Timin'」(370151247)(いずれも2026年10月19日閲覧)。「Good Timin'」の著作権の登録:米国著作権局PA0000042044(1979年)。「Kona Coast」の登録:米国著作権局PAu000008678(1978年)、PAu000323112(1981年の補正)。1978年の一括登録と補正:米国著作権局PAu000008679〜PAu000008685(1978年3月24日)、PAu000159200とPAu000159203(1979年)、PAu000256350とPAu000226661(1980年)。印税の窓口:ASCAP ACEの出版社の連絡先(Dennis Wilson Music=P.O. Box 480401, Los Angeles、Murry Gage Music=c/o Ruminating Music c/o Wixen Music Publishing, Calabasas、Al Jardine Music=c/o Wixen Music Publishing〔「Pitter Patter」ASCAP Songview、ISWC T9110646510、Work ID 895957656、BMI Work ID 1176928〕、「Our Team」の出版社=BMI Songview(Work ID 1139528、ISWC T9066995811)、「She's Got Rhythm」の出版社=BMI Songview(Work ID 1325444、ISWC T9110648107)、「Kona Coast」の出版社=BMI Songview(Work ID 808601)とASCAP ACE(Work ID 410077028)、ISWC T0710129455、「Disney Girls」〔Work ID 340136409〕のArtists Music=c/o Universal Music – MGB Songs, 2100 Colorado Avenue, Santa Monica、いずれも2026年10月19日閲覧)。Brianの側の出版社とBMGの契約:米国著作権局V3625D215(2013年1月31日記録)、V3628D517(2013年4月30日記録)、いずれもas of 2012年7月1日。New Executive Musicの連絡先:BMI Songview(c/o H2 Management、Encino、2026年10月20日閲覧)。後見と信託:AP(2024年2月16日、後見の申立て)、NPR(2024年5月10日、ロサンゼルス郡上位裁判所の決定)。Dennisのソロ作の録音と出版社:『Pacific Ocean Blue』(Legacy Recordings/Epic、2008年、88697 31711 2)のクレジット、『Bambu (The Caribou Sessions)』(Legacy Recordings、2017年)の再発。「Tears in the Morning」:Brother/Reprise 0957(1970年)のレーベル(Wilojarston Pub.、ASCAP)、The MLC(Song Code T10531、出版社Artists-Music, Inc.が100%、管理はUniversal Music – MGB Songs、2026年10月21日閲覧)。録音の譲渡:米国著作権局V9979D016の一覧。「Deirdre」(Brian Wilson/Bruce Johnston):BMI Songview(Work ID 290982、ISWC T0702468583、出版社はBrother Publishing Company c/o Iconic Beach Boys TunesとIconic Beach Boys Tunes、2026年10月21日閲覧)。Little Brother Music Inc.:The MLC(Song Code A5768Y「Add Some Music to Your Day」、AVDEIZ「All This Is That」、L5259S「Loop de Loop」、PJ7MSQ「Pacific Ocean Blue」、RA57H3「Rainbows」、S8660U「Sumahama」、I5768L「It's About Time」、2026年10月21日閲覧。Publisher IPI 00817919111で引いた154曲、2026年10月24日閲覧)。ICONIC BROTHERS ANTHEMS(ASCAP、IPI 1253523180):OpenCorporatesで該当なし(2026年10月24日閲覧)。Iconic Beach Boys Tunesを「affiliate, licensee or division」と記す例:米国著作権局V9996D694ほか(2024年、Mikeの通知)。いずれもBrother Publishingの側の取り分がIconic Beach Boys Tunesと51対49に分かれ、管理はどちらもSongs of Universal, Inc.。MLCの数字は複製の使用料を集める割合(Collection Share)で、持分の割合そのものとは限らない。California州、Nevada州、Delaware州の会社検索と、ロサンゼルス郡の屋号(Fictitious Business Name)の検索では、該当するものは見つからなかった。BMIとASCAPのSongviewでも、同名の別会社のほかは見つからなかった(2026年10月21日閲覧)。

7 米国著作権局V9974D533(1993年の担保の満了)、V9987D328、V9987D440。資金調達とRod Stewartのカタログ:Music Business Worldwide(2024年2月)。Bowie Bonds(1997年)は広く報じられた事例。Truth in Music法:Vocal Group Hall of Fame(38州)、Mississippi州法75-91-5ほか。Al Jardineの発言:Rolling Stone(2026年10月13日、Andy Greene)、Ultimate Classic Rock・People(同日)。

8 Dennis Wilsonの言葉は、ファンの研究サイト(danaddington.comほか)に収められたもの。初出の媒体は確認できていない。


2026年10月23日金曜日

登録番号1081112(前編)

 


2026年7月29日、「Kokomo」をめぐって一つの期限が静かに過ぎた。
Mike Loveが2年前に発したある通知の中で、出版社へ譲渡した楽曲の権利回復とした日である。その年、舞台の上では別の時計が進んでいた。3月にはBruce Johnstonがツアーを離れると報じられた。6月、Londonでの公演の後、Mikeは、いとこBrianの一周忌の日に妹のMaureenを亡くしたこと、気管支炎に続いて新型コロナウイルスにも見舞われたことを、自らファンに明かしている。
我らがThe Beach Boysの夏の約30公演は中止または延期となり、9月の復帰公演も一つも行われないまま取り消された。10月9日のIllinois州Bloomingtonの公演も中止。その翌日の10日、Ohio州Cincinnatiで、Mike一行はおよそ3か月ぶりに観客の前に立つ。「Good Vibrations」の発売から、ちょうど60年の日だった。Mikeは手を引かれて登場し、椅子に座ったまま、コーラスに声を添えたと報じられている。リードを歌ったのは、ギターのBrian EichenbergerやMikeの息子Christianらだった。翌日、NashvilleのRyman Auditoriumへ向かう飛行機に乗り込むところだと書き出して、41年間Mikeと舞台を共にしてきたJohn Stamosは、Mikeとの連名で声明を出した。Mikeは「深刻な健康上の問題」に直面しており、医師や家族、友人が健康に専念するよう勧めても、本人は舞台に立つと譲らないという。病名などは明らかにされていない。声明は、こう結ばれている。「明日何が起きるかは分からない。でも、僕らには今夜がある」。
その同じ夜、もう一人の存命の創設メンバーAl Jardineは、3,000キロ近く離れたCalifornia州Cerritosで自らの公演を開いた。名乗るのは「Al Jardine of The Beach Boys with the Pet Sounds Band」。The Beach Boysを正面から名乗ることは、いまも許されていない。許されているのは、そのメンバーだと説明することだけだ。ところが、その名乗れない舞台には、初期のメンバーDavid Marksと、黄金期を支え、今年Mikeのもとを離れたBruce Johnstonが加わった。脇を固めるのは、Brianの晩年のツアーを支えたバンドの面々と、Alの息子Matt。さらに予告なしに、Brianの最初の妻で『Love You』にも声を残したMarilyn、二人の娘Carnie、そしてJan & DeanのDean Torrenceまでが舞台に上がった。Marilynが『Love You』の「Let’s Put Our Hearts Together」を人前で歌うのは、1977年の録音以来、二度目だったという。
思えば、この夏Mikeが率いたツアーのテーマは「America’s Band」、つまり「米国を代表するバンド」と称し、米国建国250年を祝うツアーと銘打たれていたうえに、Pet Sounds 60周年を祝福している、正統性はこちらにあるのだ、といわんばかりだ。伝統的価値を重視する保守派のMikeにとって、これ以上ない舞台だったはずであり、大げさに言えば、60年を超える自らの歩みの集大成である。
Mikeは法廷で作者の座を勝ち取り、取締役会は彼に名前を独占的に名乗る事を許した、国の定めた手続きで自らの若き日の歌の権利を呼び戻しにかかった。書類の上で見るかぎり、Mikeは楽曲のみならず各種権利を着実に自らの中心へ引き寄せてきた。だが、その正当性を誇る華々しい自らの舞台の上で、60年代から率先して観客をあおってきた85歳のフロントマンは深く椅子に座り動かない、The Beach Boysを正面切って名乗ることを許されない84歳のAlのまわりには、かつての仲間とBrianゆかりの人々が集まり活き活きと自らの伝統を伝える。ファンの目に、どちらの舞台がThe Beach Boysらしく映っただろうか?もっとも、名乗るMikeもまた、その名の持ち主ではない。商標を持つのは会社であり、Mikeはその使用を許されているにすぎないのだ。皮肉な光景だが、本稿がこれからたどる物語の、これ以上ない縮図でもある(注1)。






では、その名前は誰のものなのか?
「Surfin'」から「Kokomo」までの歌は、誰のものなのか?
答えは驚くほど入り組んでいる。名前は商標、歌は著作権で、持ち主も売り買いの道筋もまるで違う。しかも歌は、メロディと歌詞そのもの(楽曲)と、それを録った録音(原盤)に分かれ、それぞれに別の持ち主がいる。本稿は、一介の音楽ファンである筆者が、判決文と、米国の特許商標庁、著作権局の記録、著作権管理団体のデータベースだけを手がかりに、迷路に分け入った素人探偵の記録である。記録は多くを語る。だが、肝心なところで口をつぐむのだ。ファンの間で語られてきた英雄と悪漢の物語を、書類の山はどう映すのか。その行間を読んでみたい。
最初にたどったのは、名称である。米国特許商標庁で「THE BEACH BOYS」を調べると、登録番号1081112が現れる。登録は1978年1月3日。出願されたのは、1975年8月。登録簿が記す使用開始日は1961年11月1日で、デビュー曲「Surfin'」が世に出たころにあたる。名はレコード会社の側が付け、メンバーは知らなかったという逸話が残るのだが。
ここで、最初の謎に突き当たる。その名が商標として出願されたのは、1975年8月なのだ。使い始めてから、ほぼ14年。黄金期の1960年代を、この名は登録簿に載らないまま駆け抜けたことになる。米国では、商標の権利は使い始めたときに生まれ、登録は義務ではない。だが登録のない権利は、名が知られた土地でしか守られず、持ち主であることも、争うたびに一から証明しなければならない。しかも、その名を付けたのはレコード会社の側だったではないか。守りは無防備に近かった。
それで済んだのは、米国の商標が、英国から受け継いだ慣習法の中で育ってきたからだ。慣習法では、使った者に権利が発生する。名付け親がそのまま持ち主になるわけではなく、登録から権利が生まれるわけでもない。持ち主とされるのは、その名で演奏し、実際に活動してきた側だ。多くの場合はメンバー全員だが、だからといって、一人ひとりが勝手に名乗れるわけでもない。連邦の登録は後から付け足された仕組みで、演奏のような「サービス」の名を登録できるようになったのも、1946年からにすぎない。登録しなくても済んだその状況を揺さぶったのが、1964年のThe Beatlesである。彼らの名を付けたシャツや人形が米国で飛ぶように売れたが、商品化を任された業者の取り分は9割、Beatles側は1割という契約だった。バンドの名がレコードとは別にお金を生む資産だと、当時の業界に印象づけた一件である。ただ、1967年のBrother Record Inc.(以下BRI)の設立で、名前の権利がメンバーからBRIへどう移ったのかを示す書類も、公の記録には見当たらない。
では、なぜ1975年だったのか?前年には古巣Capitolの編集盤『Endless Summer』が全米1位となり、バンドは再び大観衆を集めはじめていた。衣類の使用開始日も同じ年の1月とある。人気の再燃とグッズの広がりが、名前を守る必要を生んだのかもしれない。だが、出願の理由はどこにも書かれていない。登録簿の経過欄は1983年から始まり、出願から登録までの審査のやりとりも、そこには見えない。登録の対象は、演奏と、シャツ・ブラウスだ。レコードは入っていない。2か月後の10月には、レコードとテープについて図形の商標が別に出願されているが、その行方は筆者には確かめられなかった。登録は2018年に更新されていまも有効で、次の期限は2028年1月だ。



ロゴにも物語がある。1960年代のジャケットでは、バンド名の文字はアルバムごとにまちまちだった。おなじみの筆記体のロゴが現れるのは1976年。Jan & DeanのDean Torrenceが、自らのデザイン会社で『15 Big Ones』のジャケットとともに描いたものだ。このロゴも長く登録されないまま使われ、2018年1月、1081112の更新とほぼ同じころに、演奏、レコード、衣類の三つの区分でまとめて出願された。演奏とレコードの使用開始日は1976年7月5日、『15 Big Ones』の発売日とされる日である。50周年の2012年には、スロットマシンの名としても登録されたが、こちらは2020年に取り消されている。
この商標の名義人、つまり登録簿に持ち主として記されているのは、Brother Records, Inc.、通称BRIである。2003年の判決文によれば、メンバーが1967年に、The Beach Boysの知的財産を持ち、管理するために作った会社である。また、『Smiley Smile』を出した当時のレーベル名でもある。
判決のころは、Brian、Mike、Al Jardine、そしてCarlの遺産管理側が均等に株を持ち、それぞれが取締役を務めていた。もっとも、最初からこの顔ぶれだったわけではない。Alが株主に加わったのは1973年とされ、1983年にDennisが世を去ると、その株は、債務の弁済に充てるため、遺族からBRIの側へ売却されたと伝えられる。MikeがThe Beach Boysを名乗ってきたのは、名前を持っているからではない。1998年7月、取締役4人のうちAlを含む3人が、メンバー各自へのThe Beach Boysの名称使用許諾案に賛成した。その年の2月にCarlが世を去り、案を出したのはその遺産管理側だった。Mikeはこの枠組みで契約を結ぶ。使用料は総収入の最初の100万ドルに20%、以降は17.5%。Alも許諾を求めたが、最初の100万ドルに5%とする彼の案は、11月の取締役会で退けられた。許しのないまま「Beach Boys Family & Friends」などの名で公演を続けたAlをBRIは訴え、2003年にBRI側が勝つ。The Beach Boysが来ると思って彼のバンドを呼び、違うと知って取り消した興行主もいたと、判決は記す。争われたのは、Al自身が賛成票を投じた枠組みだった。全員に開かれていたはずの扉を、通り抜けたのはMike一人だった。やがてその扉は、一人のためのものになる。Mikeの自伝によれば、BRIは彼に独占的な名称の使用を許し、取締役会の票は賛成2、反対1、棄権1。Mikeは棄権し、Alは反対し、賛成したのはBrianとCarlの遺産側だったという。別の訴訟では、1992年にMikeはBrianを訴え、1994年にMikeが勝っている。そのBrianが、数年後にはMikeに名前を独占させる側に票を投じた。かつての法廷の敵は、取締役会では味方だったのである。1998年の枠組みに賛成したAlは、今度は反対に回った。使用料はBRIを通じて株主に分けられ、その中にはAlも含まれる、とMikeは主張する。2012年の50周年の再結成では、名前の使用はMike、Brian、プロデューサーのJoe Thomasが持つ50 Big Onesという会社に許諾されたと報じられている。The Beach Boysの名を名乗れるかどうかを決めるのは、もう血筋でも経歴でもない、契約だった(注2)。

次は視点を歌に移そう。「409」から「Good Vibrations」あたりまでの曲は、Brianと父Murryが1962年に作った出版社、いわばWilson家の会社であるSea of Tunesが持っており、実質的にBrianらのものであるに等しかった。報道によれば1969年8月20日、MurryはそれをIrving Musicに70万ドルで売った。Brianは1989年に訴えたが、歌は戻らなかったとされる。Irvingの親会社Rondorは2000年にUniversalが買い取った。1960年代の名曲の権利をたどると、いまはUniversalに行き着く(注3)。
ここで、著作権局の記録に奇妙な一枚が現れる。1993年、Mikeは1960年代の171曲について、Irvingの権利を継いだRondorに宛てた譲渡の書類を残している。日付の欄には「1969年8月20日現在」とある。MurryがSea of Tunesを売った、まさにその日だ。24年前にさかのぼる日付を、なぜ書き込んだのか?手がかりはMike自身の自伝にある。
MikeがBrianを訴えたのは1992年7月末。1か月後、Brian本人から電話があり、「訴えられて当然だ。借りがある。お金で解決しよう」と言ったという。Mikeは、金よりも曲のクレジット、とりわけ「California Girls」が欲しいと答えた。だが和解の話し合いは決裂し、裁判に進む。30年も前の話で勝ち目は高くないと見たMikeは、インドの寺院で、Ganesha神のための火の儀式に加わったと自伝に書く。
そして同じ1993年、Mikeはその訴訟から一部の被告を外す声明も著作権局に残している。外されたのが出版社の側(Rondor)だったとすれば、こう読めるのではないか?Mikeは裁判の前に出版社とだけ和解し、作者と認めてもらう代わりに、自分の分の権利を出版社に譲渡する。その日付を、Murryが楽曲を売った1969年8月20日にさかのぼらせれば、出版社の権利に空いていたMikeの分の穴は、書類の上で最初から無かったことになる。この一枚は、翌年の判決より先に、出版社の側がMikeを作者として扱いはじめていたことを示しているのかもしれない。合意書の本文は、記録にない。二枚の書類のあいだの空白を、読者ならどう埋めるだろうか。報道によれば、翌1994年、Mikeは作者表記を求めたBrianとの裁判に勝ち、35曲で作者と認められた。1996年5月、著作権局には1960年代の35曲についてMikeの名が並ぶ登録が現れる。数はぴたりと一致する(注4)。
1993年には、もう一枚の書類がある。Mikeは自らの会社Michael E. Love Entertainment Corporationとともに、「Surfin'」から「Kokomo」まで333タイトルを並べた担保の書類を残している。担保とは、約束が果たせなかったときに、相手がそこから取り立てられるようにしておく仕組みだ。受け取る側には、出版社Rondor、Mitchell Silberberg & Knuppという法律事務所、そして弁護士Abraham Somerの名がある。といっても、Mikeが歌そのものを差し出したわけではない。歌の著作権の大半は出版社の手にあり、Mikeが一人で差し出せるものではないからだ。手がかりは題名の顔ぶれにある。2020年、この担保の満了を確かめる書類に並んだ315タイトルには、『Beach Boys' Party!』で歌われたThe Beatlesの3曲や「Barbara Ann」まで含まれていた。どれもMikeが書いた曲ではない。Mikeが歌った曲である。差し出されたのは、それらの歌から歌い手として、また作者としてMikeが受け取る印税の権利とみられる。
では、何のための担保か。ここで、先の譲渡の書類を思い出したい。先の読みが正しければ、出版社はMikeを作者と認め、その代わりに彼の取り分を譲り受けた。作者と認めた以上、出版社はこれからMikeに作家印税を払う立場になる。音楽出版の世界では、払う予定の印税の一部を作者に先に渡すことが珍しくない。前払い金である。先に渡した分は後の印税から差し引いて取り戻すが、取り戻しきれないときに備えて、作者の別の収入を押さえておく。Rondorが受け取る側に名を連ねるのは、そのためだったのかもしれない。出版社にとっても悪くない話だ。裁判の勝ち負けにかかわらず、権利の穴をふさぎ、取り立ての当ても確保できるのだから。
一方、法廷でMikeの代理人を務めた弁護士は、勝訴の分け前を報酬とする約束だったと、のちの訴訟記録にある。勝訴の後、その分け前は、得た賠償の3割に加え、35曲からこれから入る作家印税の3割と取り決められたという。担保の受け手に並ぶ法律事務所と弁護士は、それとは別の顔ぶれで、その役割は記録からは分からない。並ぶ法律事務所と弁護士は、裁判にかかる費用を後払いにした分の備えだろうか。いずれにせよ、ここに浮かぶのは、毎年確実に入ってくる歌い手の稼ぎを元手に、勝てるかどうか分からない作者の座を取りに行くMikeの姿である。自分の歌の作者の座を勝ち取るために、自分の歌声すなわち自らの喉を賭けたのだ。ただし、契約の本文は記録にない(注5)。

一方、1968年ごろからの曲は、Brother PublishingやWilojarston Musicなど、バンド側の出版名義に残った。「Add Some Music to Your Day」「Feel Flows」「Surf's Up」。歌は、1969年に手放された作品群と、手元に残った作品群の二つに分かれたわけだ。その二つ目の作品群が動いたのが、2020年の夏である。
日付を追うと、まるでカウントダウンだ。まず6月26日、買い手の器となるIconic Brothersの名を冠した二つの関連会社がCalifornia州に登録される。7月24日、1993年の担保の満了を確かめる書類。(あの担保のタイトルは1960年代の曲にとどまらず、1988年の「Kokomo」にまで及んでいた。)8月20日と28日、その一部の解除の書類。28日、MikeはNevada州で、AlはCalifornia州で、二人はBRIの執行役員として同じ証書に署名する。31日、資産売買契約が結ばれる。買い手はIconic Brothers LLC。翌年2月にIrving AzoffのIconic Artists Groupが「The Beach Boysの知的財産の支配的持分を取得」と発表する取引である。古い担保を外し、署名を揃え、売る。並べてみると、すべてが売却に向けた下ごしらえに見える。なかでも目を引くのは、7月24日の確認書だ。27年前の担保が、取引のわずか5週間前になって、もう満了していると改めて書面で確かめられている。なぜ、このタイミングなのか。誰が、その確認書を求めたのか。買い手にしてみれば、古い担保の記録が残ったままの歌を、そのまま買うわけにはいかなかったはずだ。9月1日、買った権利はすぐに、同じIconic系列の出版の会社(Iconic Brothers Publishing)と原盤の会社(Iconic Brothers Masters)に振り分けられ、同じ日に銀行の担保に入った。買った歌をそのまま銀行の担保に差し出し、その歌がこれから生む印税を返済の当てにして、他のカタログ買収の代金に充てる資金調達をしたとみられる。1998年に名前をめぐって道を分けた二人が、22年後、同じ書類に並んで名を記していた(注6)。


ここで、買い手の商売の中身を確かめておこう。2018年にIrving Azoffらが立ち上げたIconic Artists Groupの稼ぎ方は、ざっと次の通りだ。まず、往年の大物から、楽曲や録音の権利に、名前と肖像までをまとめて引き受ける。次に、それを眠らせない。配信での見せ方を工夫し、周年に合わせて再発盤を出し、映画やCMに曲を貸し、ドキュメンタリーやグッズに名前を使う。音源はレコード会社に貸し出して流通を任せ、自らは持ち主として使用料を受け取る。売り手のアーティストや遺族には持分を残し、上がりを分け合う。そして、こうしたカタログが毎年生む安定した収入を信用にして、新たな資金を集め、次のカタログを買う。The Beach Boysで言えば、2021年の「PET SOUNDS」などの商標の出願、2024年の公式の大型本、Azoffが製作に名を連ねたDisney+ のドキュメンタリー、そしてCapitolに貸し出された『We Gotta Groove』が、その歯車にあたる。名簿にはLinda Ronstadt、David Crosby、Rod Stewart、Cher、さらにDean MartinやFrank Sinatraの遺産の一部までが並び、2024年には投資会社の出資と借入で10億ドルの資金枠を得た。言うなれば、名曲を眠らせず、稼がせ続け、その稼ぎで次の名曲を迎え入れる仕組みである(注7)。




では、Iconicは何を手に入れたのか?物証は証書にある。それによれば、商標については共有持分の51%。残る49%はBRIに残ったが、誰に使わせ、使用料をどう集めるかを決める権限は、両方ともIconicが独占的に握る。持分は半分近く残し、ハンドルはすべて渡した、と言えばよいだろうか?
Iconicが手に入れたのは、バンドそのものではない。名前とカタログを使って稼ぐ、その道筋の舵である。当のAlも、このディールの発表に際して「彼らが経営の最終判断を下せる。それこそ私たちに必要だったものだ」と語っている。歌と録音については924タイトル。『Smiley Smile』から『Surf's Up』『Holland』、そして『The Smile Sessions』まで。ただし、黄金期の1960年代の楽曲は、この取引の外にある。「Good Vibrations」も「God Only Knows」も、楽曲の持ち主はいまもUniversalだ。
ここで筆者は一つ訂正しておかなければならない。2024年5月の弊誌で、筆者はIconicがBRIの過半数の議決権にあたる株を買ったと書いた。だが記録を見る限り、動いたのは会社の株ではなく、会社の資産だった。面白いことに、商標の登録簿はこの大ディールを半分しか映していない。
登録番号1081112の名義人の欄は、いまもBRIのままなのだ。同じ「THE BEACH BOYS」でも、レコードやCDに付ける名前として別に登録された商標(第2631628号)には、IconicとBRIの共同名義が記されているのに、である。そして2023年8月、名義人BRIの住所は、法律事務所の気付から、Iconicの関連会社が並ぶWestwoodの同じ一室へと移された。名義人の欄は変わらない。だが郵便の宛先は、もう買い手の部屋なのである。
一方で、発表の直後には「THE BEACH BOYS CHANNEL」「PET SOUNDS」「SMILEY SMILE」など、Iconicの知的財産会社とBRIの共同名義による新しい出願が相次いだ。楽曲の持ち主は、Universalの側であるにもかかわらず、である。2024年に弊誌で紹介した公式の大型本も、この二者の監修だった(注7)。

同じころ相次いだ大物のカタログ売却と並べると、違いがよく分かる。手放した側の例を挙げてみよう。

・Bob Dylan(2020年12月) 自作曲600曲余りの権利をUniversalの出版部門へ。報道によれば3億ドル超
・Bruce Springsteen(2021年12月) 自作曲と録音の権利をSonyへ。報道によれば約5億ドル
・KISS(2024年4月) 楽曲と録音のバンド側の権利に加え、名前、肖像、あのメイクまでをPophouseへ。報道によれば3億ドル超
・Queen(2024年6月) 録音と楽曲の権利、名前と肖像権をSonyへ。報道によれば約12億7,000万ドル。公演の収入だけは手元に残したとされる
・Pink Floyd(2024年10月) 録音の権利と名前、肖像権をSonyへ。報道によれば4億ドル

名前や肖像権まで手放す例は、もはや珍しくない。The Beach Boysが違うのは、持分を残したことだ。Pink FloydのDavid Gilmourは、売却を前に「意思決定と口論から解放されることが夢だ」と語っている。決める重荷を下ろしたいという点では、Alと同じである。だがPink Floydが手を離したのに対し、The Beach Boysは持分を握ったまま、上がりを分け合う側に回った。売り切りではなく、看板ごと預けた共同経営に近い(注7)。
ここで、ある見出しの裏を取っておきたい。2021年、ある海外メディアは「Surfin' U.S.A.やGood Vibrationsの原盤も売られた」と見出しを打った。ところが、Iconic側が銀行の担保に入れた原盤の一覧を見ると、たしかに「Good Vibrations」や「I Get Around」の名はあるものの、それはCapitol時代のオリジナル録音ではなく、後年の録音やライブ、Hite Morganのもとでの初期のデモとみられる。オリジナルの原盤はUniversalの側にある。同じ曲名でも、録音が違えば持ち主も違うのである(注8)。

素人探偵の捜査は、思わぬところで一本の線につながる。著作権管理団体のデータベースで「Feel Flows」を開くと、出版社の欄にICONIC BROTHERS ANTHEMSという名が現れ、連絡先はUniversal Musicだ。
一方、1960年代の「I Get Around」の出版社はIrvingとAlmoで、Iconicの名はない。ところがAlmoの住所と電話番号は、Iconic名義の出版社のそれと同じなのだ。
Santa Monica、Colorado Avenue 2105番地。
2020年に売られた作品群と、1969年に手放された作品群は、いま同じ番地に窓口を置いている。
話はまだ終わらない。Mikeの「Getcha Back」を開くと、彼の持ち分の出版社としてClairaudient Musicという名が現れる。Nevada州の法人記録によれば、1986年に設立され、Mikeが社長を務める会社である。The Beach Boysを名乗るMikeが、自ら舵を取る器である。この器がこれから何を受け止めることになるのかは、まだ伏せておこう。 そしてその連絡先もまた、Colorado Avenue 2105番地なのだ(注9)。

1969年に父が売り払った歌。2020年にバンドの会社が売却した歌。そして、その歌の作者の座をめぐっていとこを訴えた男の歌。持ち主も、たどった道も、因縁もまるで違う三つの作品群が、いま同じ扉の前に集まっている。この番地の向こうで、いったい誰がこれらの歌の面倒を見ているのか?
だが、この番地は入り口にすぎなかった。2021年、Brianが関わる書類には、見慣れない会社の名が一つ記されている。その会社が生まれたのは、署名と同じ日。そして住所をたどると、また別の「同じ部屋」に行き着くのだ。一つはSanta Monicaの2105番地、もう一つは……。二つの扉の向こうで、The Beach Boysの歌を握っているのは誰なのか?(後編に続く)




注

1 Ultimate Classic Rock、TicketNews、Consequence(2026年9月)、WGLT(2026年10月6日)、Rolling Stone・The Daily Beast(2026年10月7日)、Consequence・Best Classic Bands・Rolling Stone(2026年10月11日)。John Stamosの声明:Variety(2026年10月)ほか。Mikeの6月の言葉、Calgary公演の中止、Al Jardineの公演の看板:Cerritos Center for the Performing Artsの公演案内ほか。Al Jardineの公演:Rolling Stone Japan(2026年10月12日、原文はRolling Stone US、Andy Greene)、Rolling Stone(2026年10月13日)、Ultimate Classic Rock・Far Out・People(2026年10月13日)。Al Jardineの公演の顔ぶれ:El Camino College The Union(2026年10月2日)ほか。建国250年の銘打ち:313 Presentsの公演案内(Meadow Brook Amphitheatre、2026年8月15日、のちに中止)。「Kokomo」:米国著作権局V10002D572。
2 米国特許商標庁TSDR登録第1081112号(出願番号73059442)。バンド名の由来は二次資料、Endless Summerは公式サイトによる。ロゴ:TSDR登録第5550402号、第5564768号、第5550399号、スロットマシンは第4433632号。Dean Torrence:The Spokesman-Review。Brother Records, Inc. v. Jardine, 318 F.3d 900(9th Cir. 2003)。株主の移り変わり:Mark Dillon, Fifty Sides of the Beach Boys(2012年)、Jon Stebbins, The Beach Boys FAQ(2011年)による(いずれも二次資料)。  50 Big Ones:Billboard「The Beach Boys Sign With WME」(2019年5月28日)。独占的な許諾と票決:Mike Love, Good Vibrations(2016年)。
3 UPI(1989年9月18日)、Variety(2000年)。取り戻せなかった点は二次資料による。
4 米国著作権局V2873P205、V2873P214(1993年)、PA0000788561ほか(1996年)。裁判:Los Angeles Times(1994年12月13日)、Mike Love, Good Vibrations: My Life as a Beach Boy(2016年)。35曲は筆者が数えたもの。
5 米国著作権局V2870P001、V2870P032(1993年、担保の合意。当事者はMichael E. Love、Michael E. Love Entertainment Corporationと、Rondor Music International, Inc.ほか)、V9974D533(2020年)。弁護士報酬:Flynn v. Love(連邦地裁Nevada、3:19-cv-00239、2019年提訴)、Flynn v. Love(連邦地裁California南部、2021年7月7日の決定)、Law Journal Newsletters(2022年4月)。
6 米国特許商標庁の譲渡記録Reel 007041/Frame 0078–0089。会社の登録日:California州の法人登録の集約一覧(bizprofile.net、2026年10月10日閲覧)。米国著作権局V9974D533、V9973D961、V9973D962、V9986D679、V9986D404、V9973D891、V10000D065。
7 同上の証書と添付の証明書。Al Jardineの発言、他のカタログ売却との違い:Rolling Stone(2021年2月)、Music Business Worldwide(2021年2月18日)。各社の取引(いずれも報道):NPR(2020年12月7日、Dylan)、CBS News(2021年12月、Springsteen)、Music Business Worldwide(2024年4月4日、KISS/2024年6月20日、Queen)、Ultimate Classic Rock(2024年10月2日、Pink FloydとGilmourの発言)。訂正の対象は弊誌2024年5月の記事。TSDR登録第1081112号(2023年8月28日の住所・代理人の変更届を含む)、第2631628号、出願はJustia Trademarks(二次資料)による。Iconicの事業と顧客:Music Week(2024年2月15日)、Rolling Stone(2021年、Ronstadt/2025年10月15日、Sinatra)。
8 米国著作権局V9987D328(担保解除の一覧)。録音の特定は曲名と登録番号からの筆者の推定。見出しの例:Outsider(2021年2月)。
9 ASCAP ACE、BMI Songview(2026年9月閲覧)。Nevada州務長官の法人記録(NV19861010362)。

2026年10月3日土曜日

CREAM 「Wrapping Paper」

 高校生の頃、軽音学部に入ってギターをやっていた。限られた部員の組合せで結成された学生バンドならではの、メンバーの趣味嗜好がごちゃ混ぜになったセットリストはGLAYやSIAM SHADE、JUDY AND MARYと一緒にRainbowが並んでいて、ビートルズマニアの顧問は教室のドアを閉め切って「Revolution 9」を流し、チャールズ・マンソン・ファミリー事件について話している、色んなジャンルの音楽の情報が断片的に耳に入ってくる環境だった。

 ギターの上手い先輩の話を聞きかじってブルースが重要らしいと思っていた私は、2枚組のロバート・ジョンソンを買ってみて違いの分からない41曲を聴き続けたり、エリック・クラプトンが参加したバンドのアルバムを1枚づつ買ってみたりした。CREAMのベスト盤『The Very Best of Cream』は、そのうちの1つ。重厚感と同時にふわふわしていて、良いとか悪いとかいう感想もすぐには出てこない不思議な印象だったけれど、いつのまにか癖になって繰り返し聴いていたので思い出深い。 1曲目の「Wrapping Paper」はどことなく可愛いらしい感じもして、CREAMと聞いて思い浮かべるような楽曲ではないかもしれないけれど、今聴いても良いなと思う。ただジンジャー・ベイカーとエリック・クラプトンはこの曲を嫌っているとか。

『The Very Best of Cream』(Polydor – 523-752-2)


「Wrapping Paper」/ CREAM 

 ラッピングペーパー。包装紙の曲?当時から変わったタイトルだなと思っていたけれど、歌詞をちゃんと読んだことはなかった。昔の恋人が忘れられず、一緒に過ごした海岸近くの家に戻りたいと願っている歌のようだ。作詞者のピート・ブラウンは、もともとはビート・ポエトリーの活動をロンドンで行なっていた詩人。ビート・ポエトリーとはジャズに乗せて詩を朗読するパフォーマンスで、1940年代後半にアメリカで生まれた反物質主義、性の解放、東洋思想への傾倒などを特徴とするビート・ジェネレーションという文学運動が基になっている。イギリスではマイク・ホロヴィッツという詩人が1959年に創刊した芸術・文学雑誌『New Departures』に米英のビート詩人の詩を掲載し拡まっていったそうだ。

Pete Brown 

 1961年に開催されたビート・ポエトリーのショーのバックバンドにはグレアム・ボンドや、サックス奏者のディック・ヘクストール=スミスなどがいて、ピート・ブラウンはディック・ヘクストール=スミスを通じて、CREAMのドラムのジンジャー・ベイカー、ベーシストのジャック・ブルースと知り合い作詞を依頼される。当初はジンジャー・ベイカーとの共作のために声がかかったらしいのだけれど、あまり相性が良くなかったようでジャック・ブルースの共作パートナーとなる。デビュー曲「Wrapping Paper」の他、代表曲「White Room」や「I Feel Free」など、数多くの作詞を手がけている。ピート・ブラウンの歌詞は難解と言われ、簡単にひとつの解釈に辿り着くような詩世界ではないように見える。ビート・ポエトリーと同様にジャズの即興演奏のように書かれているのか、曲によっては本人も、書いた瞬間ではなく何年も経ってから出てきた言葉の意味に気づくことがあるそうだ。


参考・参照サイト

https://petebrown.co.uk/

https://thestrangebrew.co.uk/interviews/pete-brown/

https://faroutmagazine.co.uk/pete-brown-poet-of-the-british-invasion/


執筆者・西岡利恵
60年代中期ウエストコーストロックバンドThe Pen Friend Clubにてベースを担当。


【NEWS】
■クラウドファンディング実施中
15周年記念盤『15 Big Ones』The Pen Friend Club 



【LIVE】
■2026年11月7日(日昼)
水道橋Words
【Add Some Music To Your Day】

チケット予約

【リリース】
■ 2枚組 NEWアルバム
『Songularity - ソンギュラリティ』発売中

   【全曲試聴トレーラー】
       




2026年8月16日日曜日

『We Gotta Groove』開封・解読記 ―― 1976-1977のテープ記録を追いかけて

     前回、当コラムでは『Pet Sounds』の60周年記念盤を取り上げた。だが、実を言えば、もう一つの“本命”も同時に筆者の元へ届いている。1966年の『Pet Sounds』、そしてそのちょうど10年後。順番こそ逆になってしまったが、今回満を持して紐解くのは、ボックスセット『We Gotta Groove』である。単なる豪華な復刻箱の「開封記」として終わらせるつもりはない。本稿でやりたいのは、付属ブックレットの末尾に小さく刻まれた「完全セッショノグラフィ」を、日付順に丹念に洗い直すことだ。誰が、いつ、どのテープを回し、誰が卓に座ったのか。記録された数字と名前の点を繋ぎ合わせていくと、1976年から77年にかけてのBrianの十五か月と、あのスタジオで実際に何が起きていたのかが見えてくる。

Ⅰ 外箱


 12インチ角の外箱で、側面が開いており、中身はそこから引き出す。表にはあの円形のステンドグラスがある。青と紫のガラスが暗い木枠の中で放射状に組まれた、発表時から出回っている図柄で、いまさら説明も要らないだろう。ただ、この窓がなぜそこにあったのかは、ブックレットを読むまで筆者も知らなかった。それは後述する。厚みも重さも三枚組の箱としては標準的なところ。側面から中身を引き出すと、しっかりした手応えがある。


 裏を返すと、褪せた紙を模したクリーム地に、手書き風の書体で73曲の題名が三段に並ぶ。上に Brother Studio のロゴ、下端に Santa Monica, California 90401 ――Brother Studios があった 1454 5th Street の郵便番号である。手書きの曲名、スタジオのロゴ、街の名と郵便番号。この面は、テープの箱に貼るラベルの体裁で作られている。その曲目表には、34曲に※印が振られている。CD Only。LPに入るのは73曲中39曲。この非対称は発売前から公表されていたし、買った人間は全員それを承知で買っている。問題はそこではなく、何をLPに残し、何をCDへ送ったかにある。その選別に、本作の思想がはっきり出ている。Ⅲ章で見よう。
外箱から引き出されるのは、3枚のLP、紙ジャケットに収められた3枚のCD、そして40ページのブックレットである。


Ⅱ ブックレット ―― ミックスダウン欄を読む

 そのブックレットは、本の顔をしていない。角の潰れた段ボール箱――正確には、そう見えるように刷られた表紙だ。染みも折れ皺も、粘着テープを剥がした跡まで印刷されている。裏面には Scotch のタータン・チェックが刷られた券面。206 - 2 - 2500。3M の Scotch 206、幅2インチ、長さ2500フィート。当時のスタジオが基準として調整に使ったマスタリング・テープである。その脇に手書きで二行。30 IPS NON DOLBY。



 毎秒30インチ、雑音低減なし。特別な選択ではなく、当時の一流スタジオの多くがそうしていた。だがこの一行のおかげで、Brother Studio が15 ips 側ではなく30 ips 側だったことが分かる。同じ表記は『Love You』期のテープにも、また翌年の『Adult/Child』期にも現れるから、あのスタジオは少なくとも1976年から77年にかけて一貫してそちらだったことになる。中身はアルバムではなくテープなのだと、装丁が一文字も読まないうちに告げてくる。
 開くと、Howie Edelson の解説と写真、そして末尾に完全セッショノグラフィがある。作成者は Craig Slowinski ほか四名。全収録曲について、いつ、どこで、どの幅のテープの何トラックに録られ、誰がいつミックスしたかが記されている。この稿は、その欄を日付順に読み直す試みである。
 1976年初頭から翌1977年6月まで。本作ブックレットによれば、セッションが正式に始まったのは1976年1月である。ただしセッショノグラフィに日付の入る最初の録音は3月9日で、最後の記載は翌1977年6月25日。テープが実際に回っていたのは、その十五か月あまりということになる。この十五か月に、Brian は三枚分の録音を残した。1976年春の『15 Big Ones』、同年夏から冬の『Love You』、そして翌1977年の『Adult/Child』。順に見ていくこととする。


レコーダー部の拡大:右から2トラック 16トラック 24トラックが設置

 まずスタジオの造りから。ブックレットのコントロール・ルーム写真には、ミキシング・コンソール――現場でいう「卓」――の右にテープ・マシンが三台並んでいる。手前から2トラック、16トラック、24トラック。当時としては標準的な構成で、三台はそのまま制作の三段階にあたる。思いつきは一般のカセットに、本番の録音は24トラックに載り、トラックダウンされたものが2トラックへ落ちる。実際、1976年8月21日には24トラックと16トラックが同じ日に動いている。その卓の向こう、ガラス窓の先が録音室である。Earle Mankey は後年、その部屋を絨毯を貼り詰めたひどくデッドな空間で、寸法は Western の Studio 3 に近かったと証言している。そして設計したチーフ・エンジニア、Stephen Moffitt は、その構造を語っている。スタジオは基本的に長方形で、突き当たりに大きな空間があった。彼はそこに棚を組み、バンドのアーカイヴ・テープをすべてその裏へ収めた。すると壁が一つできる。ここは良い壁になる、端に何か意匠を入れよう――そう考えた彼は、大工の友人に八フィートの円形の枠を作らせ、知り合いのガラス職人に「この八フィートの円に北の空を」と頼んだ。背後に照明を置き、植物を配し、夜になると他の灯りを落として、そこだけを灯した。夜に音楽を作るには実に良い場所だった、と彼は言う。外箱のあの窓は、演奏者が立つ部屋の、いちばん奥にあった。その裏に、バンドの過去が全部積まれていたことになる。
 そして、その窓の前にピアノが置かれていた。Brian 自身がそう語っている。スタジオを作曲環境として使ってきた、良い環境だ、ピアノのすぐ後ろに円形のステンドグラスの窓があって、少し霊的な効果を与えている、あそこにいると安心するんだと振り返る。それ以前は自宅で作曲していていたが、直近はこのスタジオ中心だという。Moffitt はテープ棚を隠すために壁を作り、その端を飾った。Brian はその壁を背にして、『Love You』以降の作品群を書いていたのだ。

※二つの証言の出どころについて

インタビュー DIR


インタビュー2 WNEW-FM

本稿では、1976年から77年にかけてのラジオ・インタヴューを引用する。
 一つは、DIR Broadcasting が制作し、Dave Herman が聞き手を務めたもの。DIR は King Biscuit Flower Hour で知られる番組制作会社、Herman は WNEW-FM の名物 DJ である。ブックレットの出典欄は、これを1977年としている。
 もう一つは、WNEW-FM の Pete Fornatale によるもの。同出典欄には Fornatale が二度出てきて、WNEW の1976年のものと、Crawdaddy Rock Review の1977年のものが並ぶ。どちらも現在は「1977年のインタヴュー」として流通しているが、収録はもっと早いはずだ。中身がそれを示している。
 Herman との対話で、Brian は 『15 Big Ones』 を発売済みとして語り、『Love You』 をまだ 『Brian Loves You』 と呼び、「Still I Dream Of It」を二、三週間前に書いたばかりだと言っている。Fornatale との対話はもう少し絞れる。『15 Big Ones』 を「今年の春」の仕事として語り、8年ぶりのトップ10シングルを「今年」と言い、Rolling Stone の表紙記事を「最近」と呼び、Saturday Night Live に一人で出た件に触れている。その番組の放送は1976年11月27日だから、1976年の11月末から12月と見るのが自然だろう。
  Herman 版には、こういうナレーションが挿入されている――この会話が録音された直後、「The Beach Boys は題を『 Brian Loves You 』から『The Beach Boys Love You』 へ変更した」、と。収録は1976年、放送は題名変更後ということになる。「1977年」という表示は、放送または掲載の年を指しているのだろう。

1976年春 ―― 15 Big Ones、チーフ・エンジニアの期間

 1976年3月から5月。engineer 欄を見ると、Moffitt が大半を占め、Mankey が四曲。スタジオを設計した男が、自分の現場に立っている。当たり前の姿である。このアルバムの収録曲は多くが2025年ミックスのため、当時のミックス記載はほとんどない。唯一「Shake, Rattle And Roll」に April-May 1976 – Stephen Moffitt とある。

引き継ぎ ―― 二つの流儀

 もっとも、engineer 欄をよく見ると、この三か月のあいだにも名前が入れ替わっている。1976年3月9日「Sea Cruise」、10日「On Broadway」、15日「Mony, Mony」、16日「Just Once In My Life」と「Rock And Roll Music」、17日「Chapel Of Love」、18日「TM Song」。九日間で七曲、すべて Moffitt である。
 Mankey の名が現れるのは、同年3月30日の「Had To Phone Ya」から。以後、4月13日「Running Bear」、14・15日「Shake, Rattle And Roll」、5月8日「Short Skirts」。混在ではなく、交代である。
 なぜ交代したのか。ブックレットに、Moffitt 自身の説明がある。ただし彼が語っているのは雇った理由のほうだ。Earle を雇った一因は、彼の技術力を買ったからだという。電子機器を直せたのだ。自分も直せたが、いつも時間と気力があるわけではない。だから修理や整備の良い後方支援になった訳だ。そして自分は、ミックスを担当していた、と振り返る。つまり Mankey は当初、技術屋として採られている。実際、彼が Brother に入ったのは1974年頃で、覚えている最初の本格的なセッションは Elton John の「Don't Let The Sun Go Down On Me」のヴォーカル録りだった。『Love You』 の二年前である。役割が変わるのが1976年春で、そこで初めて二人の流儀の違いが表に出た。Moffitt はこう続けている。ミックスについての自分の考えは、Carl And The Passions のときからずっと同じだ。できるだけクリーンに、ありのままテープに入れて、途中で音をいじらないこと。Earle はまったく逆で、テープに入る前にいじるのが好きで、やりたいことを何でもやってしまうんだと語る。
加工した音を、そのままテープに録るということである。
 いじる手立ては三つある。イコライザーで周波数を削るか持ち上げるか。コンプレッサーで音量の幅を詰めるか。そしてエフェクター――フェイザー、ファズ、ハーモナイザーの類を通すか。素の音を録っておいてミックスの段階でこれらをかけるのが Moffitt、かけた状態で録ってしまうのが Mankey である。後者では、あとから音の足し弾きができない。低域を削って録れば、その低域はもう存在しないから、ミックスで上げようにも上げる元がない。ハーモナイザーを通して録れば、通していない音は取り出せない。
 だから Moffitt はこう言う。こちらは音の全帯域が手つかずでない状態でミックスすることになるから、エフェクトありの音を最初から扱うのはかえって難しい仕事になる。それが我々の流儀の違いだったと回想する。
『Love You』 のクレジットを見ると、その違いが目に見える。grand piano w/harmonizer。electric guitar w/phaser。electric guitar w/fuzz。Hohner Clavinet C w/Leslie speaker。エフェクトが、楽器名の一部として書かれている。ミックスでかけたのではなく、そう録ったわけである。Moffitt の流儀では、このアルバムは成立しない。1972年から自分でミックスしてきた男である。Mankey が修理と補助にいるあいだは衝突しようがなかったが、彼が録り始めた瞬間に、卓の上の前提が変わった。そして同年8月。『Love You』のセッションが始まると、録音は全曲 Mankey になる。Moffitt が engineer として最後に現れるのは、日付も曖昧な「Clangin'」――1976年の春から夏のどこか、一曲きりだ。
 その Moffitt が最後に卓に着くのが、同年10月2日・4日・5日の三日間である。トラックダウンしたのは、アルバムに使わない古いテープだった。ただしこれは、彼にしかできない仕事でもあった。あの部屋の奥、ステンドグラスの裏にバンドのアーカイヴ・テープを積んだのは Moffitt 自身であり、どこに何があるかを知っているのは棚を組んだ男である。1965年の「Sherry She Needs Me」、1970年の「Good Time」、1972年の「Lazy Lizzie」、1974年の「Ding Dang」。自分が仕舞ったものを、自分で出してきたことになる。
以後、Moffittの名はミックス欄から消える。
 入れ替わりに、Mankey が全部を引き受ける。同年11月16日には一人で四つの試作を仕上げ、12月末から Carl と組み、翌1977年には『Adult/Child』のすべてを一人で担う。Halfnelson ――のちの Sparks ――のギタリストだった男が、1973年に卓の側へ回って三年目のことである。付け加えておくと、Mankey はこのあと LA のパワー・ポップとパンクの現場へ移る。The Quick、Runaways、20/20、The Pop、Dickies、Three O'Clock、Long Ryders。そして本作ブックレット自身が、『Love You』 を1980年代の New Wave以後の早い影響源として挙げている。録る段階で音を作り込む流儀は、そのままパワー・ポップの作り方でもあった。因果は言えないが、Brother でこの一枚を録った男が、そのまま次の十年の音へ歩いていったことは事実である。
Moffitt が設計した部屋は、この十五か月のあいだに Mankey の部屋になっていた。

1976年夏から冬 ―― Love You、三つの局面

 1976年8月から翌1977年1月まで。ここでミックスの現場は三つの局面に割れ、しかも三つは目的がまるで違う。その前に、このアルバムの出自を確認しておきたい。もともとの仮題は 『Brian Loves You』 で、Brian は自分名義で出すつもりだった。Herman との対話で、Brianはその題について嬉しそうに語っている。今回は投票にかける必要がなかった、一人ずつ当たったら全員が乗った、Brian loves you も Jesus loves you も同じことだろう、精神は変わらないんだと語る。ところが同じ1976年12月の別のインタヴューでは、ソロを出したいがバンド内の政治を刺激したくない、メンバーもこの素材を The Beach Boys のために取っておきたがっている、とも言っている。同じ人物が、同じ月に、二つのことを言っているわけである。そしてタイトルは実際に変わった。本作ブックレットは、より包括的な 『The Beach Boys Love You』 が選ばれたと記す。Herman 版の番組には、「この会話の直後に変更された」というナレーションが入る。全員が乗ったはずの題が、結局、『The Beach Boys Love You』 になった。
 さて、1976年8月から見ていこう。この月に24トラックが回ったのは、18日と21日の二日だけである。18日に「Ruby Baby」、21日に「Marilyn Rovell」と「I Wanna Pick You Up」。同じ21日、Brian は1965年の「Sherry She Needs Me」を棚から出して歌を入れ、この月のどこかで1972年の「Lazy Lizzie」にも手を加えている。新しく立ち上げたのは二曲、あとは古いテープへの追加録音だ。そしてこのうちアルバム本編に残るのは「I Wanna Pick You Up」一曲だけである。本セッションが始まるのは、この一か月半あとになる。

10月という月

三つの局面に入る前に、10月の異常な密度に触れておきたい。この十五か月の中で、ここだけが明らかに熱量のピークだ。
1976年10月13日「Honkin' Down The Highway」
     20日「The Night Was So Young」と「Let's Put Our Hearts Together」
     21日「Mona」
     27日「Let Us Go On This Way」
     28日「Love Is A Woman」。日付の特定できるものだけで六曲ある。
これに「1976年10月」とだけ記された「Roller Skating Child」「Solar System」「I'll Bet He's Nice」「Airplane」、そして「10月から11月」の「Johnny Carson」を足すと十一曲。『Love You』 のアルバム本編は十四曲だから、その大半がこの一か月で立ち上がったことになる。
 前年春の『15 Big Ones』 は三か月で十一曲。翌1977年の『Adult/Child』は五か月で八曲。1976年10月の一か月の密度は、1977年の五か月のそれを大きく凌駕している。そして1976年11月から翌1977年1月までの三か月、新しい曲は一つも立ち上がっていない。この期間に行われたのは、すでにあったテープへの重ね録りとミックスだけである。立ち上げと積み上げが、時期として分かれている。10月に十一本のテープをこなし、以後三か月それを蓄積し、12月末から仕上げにかかる。これから見る三つの局面の概要だ。

局面その一。1976年10月2日、4日、5日――旧作の棚卸し。Moffitt が一人。

この三日間に処理された曲は「Ruby Baby」「Marilyn Rovell」「Sherry She Needs Me」「Lazy Lizzie」「I Wanna Pick You Up」「Good Time」「Ding Dang」。すべて Moffitt 単独のミックスである。対象を見ると、1965年、1970年、1972年、1974年、そして1976年8月の録音ばかりだ。『Love You』の本編に使う曲のテープは、この時点でまだ一曲も存在していない。本セッションが動き出すのは10月13日以降である。つまりこれはアルバムのためのミックスではなく、8月に引っ張り出した古いテープを、聴ける形に整えていただけということになる。中でも「Sherry She Needs Me」の経歴は特異である。1965年3月29日に Western Recorders Studio 3 で1/2インチ3トラックに録音。1970年頃に Bel Air の自宅スタジオで2インチ16トラックへ移し替え。1976年8月21日に Brother でヴォーカルを追加し、同年10月4日に1/4インチへ落とされた。本作ブックレットのエンジニア欄には、Chuck Britz、Stephen Desper、Earle Mankey の三人が並ぶ。三人は三つの違う仕事をしている。Britz が演奏を録り、Desper がテープを移し替え、Mankey が歌を乗せた。目を引くのは二番目である。テープを移すだけの作業に、なぜエンジニアの名が残るのか?単なる複製ではないからだ。3トラックの音を16トラックのどこへ振り分けるか。左右をどう配し、どのトラックを空けておくか。1970年頃の Desper は、そこで判断をしている。
 ただし、その時点で新しい音が足された形跡はない。移し替えたきり、テープは六年ほど棚にあったことになる。1976年8月21日、Brian はそれを引き出し、題を改め、リード・ヴォーカルを重ねた。六年前に空けておいたトラックへ、歌を入れたわけである。

局面その二。1976年11月16日――候補を並べる日。Mankey が一人。

 この一日にミックスされた四曲は、すべて別ヴァージョンである。「Let Us Go On This Way」の別ミックス、「Love Is A Woman」の Al Jardine 歌唱版、「Johnny Carson」のイントロ付き、そして「Honkin' Down The Highway」の Billy Hinsche 歌唱版。誰に歌わせるか、イントロを付けるか。一日で四つの案を作り、並べて比べている。そして四曲とも、アルバムには採用されなかった。「Love Is A Woman」は Al のリードが落とされ、「Johnny Carson」もイントロなしが採られ、「Honkin' Down The Highway」は Billy Hinsche ではなく Al Jardine が歌うことになった。もっとも、別のリードを録っては落とすこと自体はセッションの常態だった。前年春の15 Big Ones 期にも、「Mony, Mony」に Billy Hinsche、「Sea Cruise」に Mike Love の不採用リードが残っている。11月16日が異例なのは、四つの案を一日でまとめて仕上げたことのほうだ。

局面その三。1976年12月29日――本番が始まる。Carl が座る。

 この期の特異な点は、Carl のミックス現場への登場である。のちに LP へ Mixdown Producer の肩書きが付く経緯につながる。Mankey と Carl の組が仕上げたのは、本編14曲のうち11曲。そのミックス日は、9曲までが「1976年12月、もしくは1977年1月」という曖昧な記載である。「Airplane」だけが「1977年1月」と月まで絞られる。
そして一曲だけ日単位まで分かっている。
「Johnny Carson」――1976年12月29日、Earle Mankey & Carl Wilson。
 Carl に Mixdown Producer の肩書きが付く曲のうち、日付の判明する唯一のものだ。年末の一日、あのアルバムのなかでも最も奇矯な曲から、Carl の仕事は始まっている。しかもこの曲は、同年11月16日に Mankey が単独で別ミックスを作っていた曲でもある。一度作った案を、Carl を迎えてやり直しているわけだ。
 残る三曲――「Good Time」「Ding Dang」「I Wanna Pick You Up」――は Moffitt 単独で、いずれも1976年10月4日か5日と日付がはっきりしている。新しく録った曲に、Moffitt は一度も触っていない。そしてもう一つ、Carl の名はアウトテイクには一度も現れない。「You've Lost That Lovin' Feeling」は1976年10月から翌1977年1月まで、まさに Carl が本編を仕上げていた同じ期間に、Mankey が一人で処理している。11月16日の四曲も同様だ。
 記録の精度も、担当者で分かれている。1976年10月に Moffitt が一人で処理した分は日まで残るのに、12月以降に Carl が加わった分は月すら定まらない。年末年始をまたいで断続的に作業が続いたのだろう。あるいは、テープ箱への記入が追いつかなかったのかもしれない。

その1976年12月に、もう一つのことが起きている。
 Brian を24時間態勢で管理していた Eugene Landy が、解任された。理由は報酬で、月一万ドルから始まった額を、彼が二万ドルへ倍増させたためだったという。解任を実行したのは Love 家の人間だったとされる。資料によって Mike の弟 Stan とも Stephenとも記されるが、いずれにせよ Brian の身柄の管理は、この時点で主治医の手からいとこたちの手へ移った。翌1977年5月、裏庭で Brian にボールを投げさせることになる男も、その一人である。
後見役が消えた月に、弟が卓に着いた。因果は証明できないが、時期はぴたりと重なる。


 入れ替わりに現れた Carl が何をしたのかは、本作の Creative Director である Alan Boyd が語っている。彼は当時からあの肩書き――Mixdown Producer――に驚いていたという。レコーディングの現場でそんな表記を見たことがなかったが、後年マルチトラックを精査する機会を得て、理由が分かった、と語る。Brian のトラックの録り方では、どのパートも曲の頭から終わりまで同じヴォリュームで一斉に鳴ってしまう。そのままなら、多くの曲が「Mona」のような響きになっていたはずだ、と Boyd は主張する。
 その起伏を、卓の上で作った男がいる。Carl である。フェーダーで各トラックの出入りを付け、奥行きを配し、曲に呼吸を与える。Carl こそがこのレコードを特別なものにした一因なのだと Boyd は言い、「Let Us Go On This Way」と「The Night Was So Young」がとくにそうだと挙げている。
なぜ、それを Brian 自身がやらなかったのか?
現場の側からも裏が取れる。Moffitt はこう語っている。
Brian は頭の中でテープが回っていたから、誰に何を弾かせるか分かっていた。必要なら自分で弾いて見せた。完全に古い流儀だが、古い流儀の良いところは時間を無駄にしないことだ。録音はまず歌から入り、その下にベースを敷く。ラジオで音楽を聴けば、聴こえてくるのは結局その二つだからだ。残りの楽器は、あとからその周りに配置していく。あんなやり方をする人間を、他に見たことがないね!
そして Moffitt はこうも続ける。Brian はミックスに関心がなかった、曲に四つ五つのパートが一斉に鳴っていても構わなかった、たとえそのパートの一つが二十人編成の管弦楽であってもだ。
それでも一つの塊こそが、Brianの音楽の響きなのだと。
そしてある日、Brian は Moffitt にこう言ったという。自分は片耳が聞こえない。だから状況はそっちで判断して教えてくれ。
録るところまでは、一人でできる。何をどう弾かせるかは、頭の中で鳴っている。だがトラックダウンしたとき、全体がステレオでどう聴こえるかを彼は判断できない。そこだけは、他人に委ねるほかなかったのだ。

九曲のカセット ―― 1976年10月の別のテープ

 その1976年10月には、もう一つ別のテープが回っていた。Disc 3(CD) の末尾に収められた、Brian のカセット・デモ九曲である。ピアノと歌だけ。10月の『Love You』及び棚卸し三日間と、年末の本セッション開始のあいだに、この録音が挟まっている。
なぜカセットだったのか?
セカンド・エンジニアの John Hanlon が理由を明かしている。Moffitt からこう指示されたという――マイクを二本立てて、この Nakamichi のカセット・レコーダーで全部録れ。Brian の邪魔をするな、録っていることを言うな。とにかく全部押さえろ。これはセッションじゃない、と。ある意味、意図的だった。Brian にまた創作させ、この素晴らしい仕事をさせようとしていたからだ。カセットが選ばれた理由も彼が明かす。Brian は八時間そこにいることもあった。スタジオのテープでは足りない。15 ips で回せば一巻三十二分、すぐに消費してしまう。あれは大げさにせず、ただ座って書くためのデモのはずだったと振り返る。

その九曲が、その後どうなったか。行き先で分けてみる。
デモの曲名行き先Mike の声
That Special Feeling未発表
It's Over NowAdult/Child
They're Marching Along1988年のソロ盤●
Love Is A WomanLove You
MonaLove You
AirplaneLove You●
Let's Put Our Hearts TogetherLove You●
I'll Bet He's NiceLove You●
Still I Dream Of ItAdult/Child
 五曲が『 Love You』 へ、二曲が 『Adult/Child』へ。一か月分の弾き語りから、二枚のアルバムの材料が同時に出てきている。ブックレットもそう書いていて、Brian の朝の作曲時間が、一枚ではなく二枚の新しいアルバムの種を生んだ、としている。
そして本人も、そう思っていたらしい。
1976年の暮れ、Fornatale との対話で Brian はこう語っている。ちょうど一か月ほど前、二枚のアルバムを録った。予定より二枚先行しているよと答える。聞き手が「待ってくれ、新作が二枚もか!」と聞き返すと、そうだ、とさらに答えている。
だがBrotherでのテープ処理記録は、そうなっていない。Brother で本番の録音が始まるのは、2インチ24トラックにテープが載ったときである。そして1976年11月の時点でそこに載っていたのは、『Love You 』の分だけだ。次のアルバムのセッションが始まるのは、翌1977年2月9日。
Brianが数えていたのは、普段のレコーダーではなく、おそらくこのカセット九曲だったのだろう。弾き語りが一本あれば、それはもう録れたことになる。頭の中でテープが回っていた男にとって、アルバム二枚はすでに存在していた。黒丸を付けたのは、クレジットに Comments: Mike Love と記された四曲である。弾き語る Brian の隣で、Mike が語りかけている。その Mike の言葉が、ブックレットにある。Brian が完全な曲の案を実際に出してきている、これは素晴らしい、と思った。ここ数年は必ずしもできなかったことだ。正しい方向への確かな一歩だった。聴いていて嬉しかったよ、と振り返る。
 確かに、その四曲のうち三曲は『Love You』へ進んだ。Mike が反応した曲が採用されたのか、それとも彼がいた日にたまたまその曲が弾かれたのか、それは分からない。そして残る二曲だが、どこへも行かなかったのは実は一曲だけである。「That Special Feeling」――これは今も未発表のままだ。
 もう一曲、「They're Marching Along」には続きがある。この曲は十二年ののち、題を「Little Children」と改めて、Brian Wilson のソロ・デビュー盤に収められた。1988年である。
(ちなみに筆者の記憶では、昔ソロ・デビュー盤リリース時、都内スポーツ用品店のCMソングとしてこの「Little Children」が使われていた記憶がある。どこかに公式の記録が残っている話ではないため筆者の勘違いかもしれない、もし同じCMを覚えている方がいたら、ぜひ情報を教えてほしい。) 
 1976年10月時点の Brian は、このセッションを『Brian Loves You』 として自分名義のアルバムで出すつもりだった。それは叶わなかった。だが同じ月の同じカセットから、一曲だけが十二年待って、本当のソロ・デビュー盤にたどり着いている。しかもこの曲は、Comments: Mike Love の四曲の一つだ。いとこが横で語りかけていた旋律が、最後はバンドを離れた場所で世に出た。

「Still I Dream Of It」は、Sinatraへの売り込み用だった

 九曲はすべて「Love You Brian Cassette Demos」という区分に収められている。だが、セッショノグラフィの媒体欄を見ると、最後の一曲だけが違う。
媒体日付engineer
前の八曲2トラック・カセット1976年10月Stephen Moffitt
Still I Dream Of It1/4インチ2トラック1976年10〜12月Earle Mankey
媒体が違う。担当者が違う。日付の書かれ方も違う。
三つの欄がすべて、他の八曲と食い違っている。カセットの八曲は「回しておいて放っておく」ための記録だった。ところがこの一曲だけは、業務用の1/4インチが用意され、Mankey が呼ばれている。思いつきを捉えたのではなく、録るつもりで録っている。
なぜか?
Herman との対話に、答えがある。
Frank Sinatra のために曲を書いた。二、三週間前に、Frank 個人のために書いたんだ。「Still I Dream Of It」という。今週それを彼に持っていく――Brian はそう語っている。受けてくれるとは思わないがね、彼は商業的な曲を探しているだろうから、と付け加えて。そしてもし Sinatra が断ったら Stevie Wonder と Elton John にも当たるかもしれない、彼らもやらないなら自分でやる、確実に、とも。
売り込み用のデモだったわけである。
 Frank Sinatra にカセットテープを渡すわけにはいかない。だから1/4インチが用意され、Mankey が呼ばれた。「Brian Cassette Demos」という括りにカセットでない一曲が紛れているのは、そもそもこの曲だけが外部へ正式に持ち出す前提で録られていたからだ。
そして Sinatra は断った。孤独と希望についての美しい曲だったが、彼は首を縦に振らなかった――ブックレットで Brian はそう振り返っている。Stevie Wonder も Elton John も歌わなかった。予告どおり、Brian は自分でやることになる。翌1977年2月9日、24トラックが回り始めた。なお、Sinatra へ持ち込んだことを気まぐれと読むのは当たらない。それがなぜかは、後の節で見る。
 Al Jardine はのちに、この曲と「It's Over Now」を 『Adult/Child』で好きな二曲に挙げ、あれは Frank Sinatra に扮した Brian だ、と笑っている。扮していたのではない。Sinatra のために書いた曲を、自分で歌うほかなくなっただけである。なお、この弾き語りは1995年、Brian のソロ盤『I Just Wasn't Made for These Times』にすでに収められている。九曲のうち、最も早く世に出た一曲だった。
 ちなみに、この曲のテープ箱の写真には 1-9-77 とあり、同じブックレットのセッショノグラフィが記す2月9日と一月ずれている。どちらが正しいかは分からないが、掲載された写真と掲載された資料が食い違っているのは確かだ。

1977年 ――『 Adult/Child』失速の記録

 ブックレットで Brian はこう語っている。『Adult/Child』 の編曲は Dick Reynolds に頼んだ。1964年に Christmas Album で我々と仕事をした男だ。そして同じ年に、彼は Sinatra 本人とも仕事をしている。Sinatra のような正統派な歌手のレコードと似た感触のものを作りたかった。だから Dick Reynolds を呼んだ。
そしてBrianはこう付け加える。グループの他のメンバーは、その案を気に入らなかった。レコード会社もリリースについて確信が持てなかった。レーベルはどちらかといえばメンバーの側についていた。こうして、アルバムはついに出なかった、と。
 題の由来については、Brian の回想録『I Am Brian Wilson』第二章が記している。Adult/Child ――人格には常に二つの部分がある、仕切りたがる大人と、世話されたがる子供と。そう言ったのは Eugene Landy である。前年末に去った、あの男だ。音楽史家 Keith Badman は、Brian がこの新しいアルバムに着手したのも、その元主治医の強い勧めによると伝えられている、と記している。
 『Adult/Child』のセッションで録られた曲のミックスは、すべて Earle Mankey 一人である。Carl の名前が一つもない。Moffitt の名前もない。例外は「New England Waltz」だけで、これは Western Recorders で Chuck Britz がその日のうちに仕上げている。もっとも、Disc 2(CD) には『Adult/Child』以外の曲も入っている。1974年から76年にかけて録られた「Holy Man」には、engineer として Mankey と並んで Moffitt の名があり、プロデュースは Dennis と Carl の連名だ。弟たちは同じスタジオを使った。ただし別のアルバムのために。 
『Love You』にダイナミクスを与えた男が、次のアルバムにはいない。それだけでも大きいのだが、日付を時系列に並べると、もっと具体的なものが見えてくる。まず1977年2月から3月。立ち上がりは早い。2月9日に「Still I Dream Of It」、2月25日に「Deep Purple」と「It's Over Now」が動き出す。そして3月11日、Brian は Brother を出て Western Recorders の Studio 1 に入り、大編成の曲を録る。ここまでは順調で精力的だ。
4月に創作のピークがやってくる。11日に「Everybody Wants To Live」と「It's Trying To Say」、翌12日に「Lines」。二日で三曲が立ち上がっている。そして13日には「It's Over Now」の最初のミックスも仕上がった。このアルバムが最も勢いを持っていたのは、この一週間だろう。
 そして5月、記載がない。新規録音がぱたりと止まる。セッショノグラフィのどこを探しても、5月の日付は出てこない。この空白の月に Brian が何をしていたかは、ブックレットに写真が載っている。添えられたキャプションはこうだ。
「Stan の身体調整プログラムの一環として、Brian はバスケットボール運動を推奨する。」
ここでは Stan が、Bellagio Road の家の裏で Brian にシュートの練習をさせている。


Stan Love ――元 NBA の選手で、この時期 Brian の身辺の世話と体調管理を任されていた。前年末に Landy が去ったあと、その役を引き継いだ形である。写真の Brian は、裏庭のリングに向かってボールを構えている。この身体づくりには前史がある。前年1976年の暮れ、Brian はラジオでこう語っていた。毎日ジムへ行って腹筋、腕立て、周回走、ラケットボール。一年で250ポンドから200ポンドまで落とした、次は190を目指すんだ。Landy の処方は投薬や面談だけではなく、ジムを含む生活の組み替えだった。
だが、テープが止まっていた月に彼がやらされていたのは、バスケットボールである。
ここで、ひとつ陰謀論を唱えさせてほしい。Stan Love は、Mike Love の弟である。Brian にとってはいとこにあたる。そして前年末、Landy を切ったのも Love 家の人間だった。そのいとこが、毎日 Brian を裏庭へ引っ張り出し、ボールを追わせている。曲は書かれない。アルバムは前に進まない。そしてアルバムが止まれば、バンドの主導権は空席になる。1977年5月、セッショノグラフィは真っ白だ。同じ5月の写真が、バスケットボールである。これを偶然と呼べというほうが無理だろう。
CarlやDennisは自作に取りかかり、Alは田舎に引きこもって薪割りに勤しんでいる
そしてこの空白でThe Beach Boysの主導権を手中に収めるのは誰だ?
そしてこの陰謀論、7月になるとさらに真実味を帯びてくる。それは後で見ることとしよう。

次月6月は、手直しだけが残る。3日に「Shortenin' Bread」が一曲。これが最後の新曲である。あとは19日から25日にかけて、既存曲のミックスと再ミックス。「Still I Dream Of It」も「Lines」も、この一週間で何度も触り直されている。以後、テープは回らない。
 ここで、『Love You』との違いがはっきりする。あちらの本編は「1976年12月または翌1月」と月単位で記され、それきりだった。一度で決まって、終わっている。ところがこちらは「4月13日ミックス、その後6月まで再ミックス」「6月19日ミックス、20〜25日再ミックス」と、やり直しの記録が細かく残る。三か月以上かけて、同じ曲のミックスを何度も触り直している。Carl が仕上げて終わっていた工程が、このアルバムでは終わらなかった。
シングル「Honkin' Down the Highway」の発売は1977年5月30日である。前年に全米5位を得たバンドが、まるで反応を得られなかった。この惨敗が 『Adult/Child』を葬った――というのが定説だ。バンドが Brian の新作に見切りをつけた、と。
だが、日付が合わない。
シングルが世に出たのは5月30日。売れないと分かるまでには、少なくとも数週間かかる。つまりバンドが結果を知ったのは、早くて6月中旬だろう。ところが Adult/Child で新しい曲が最後に立ち上がったのは、4月12日である。シングル発売の一か月半も前だ。そこから先、5月は録音の記載が一つもなく、6月3日に一曲、あとは手直しで右往左往している。
結果が出るより前に、このアルバム制作の失速が起きていたのだ。
白状すると、筆者もその定説を書いた。本作のCD盤について書いた前稿で、シングルの惨敗が Mike Love の判断を促し、それが Adult/Child を葬ったのだ、と。日付を並べるまでは、そう見えていたのである。

同じ編曲者、二つの部屋

『Adult/Child』の編成について、記録から一つ見えることがある。
Reynolds が編曲・指揮した五曲は、録音場所で二つに分かれる。
1977年3月11日に Western で録った二曲「Life Is For The Living」「New England Waltz」には、トランペット四本、トロンボーン四本、ホルン四本が並ぶ。金管十二本。このアルバムが「ビッグバンド作品」と呼ばれるのは、ここに由来する。
Brother で録った三曲「Deep Purple」「It's Over Now」「Still I Dream Of It」には、トランペットが一本もない。金管がないわけではない。「Deep Purple」「It's Over Now」には、トロンボーンが四本ずつ入っている。フレンチ・ホルンも二本ずつ。無いのはトランペットだけである。そして「Still I Dream Of It」に至っては、トロンボーンもない。フルート三本、オーボエ、フレンチ・ホルン三本、あとは弦とチェロとコントラバス。三曲のうち、これが最も静かな編成だ。
なぜトランペットだけが外されたのか?
ブックレットに説明はない。だが、いくつかの記述を並べると、一つの見方が浮かんでくる。Brother の録音室は、先に触れた通り、絨毯を貼り詰めたデッドな空間である。
Hanlon は 『Adult/Child』 の弦のセッションをこう振り返る。あれは壮大な、懐古調の旋律と編曲だった。ピアノのデモから始まったものが、管弦楽になった。とても小さな一室に、大勢の弦の奏者を連れ込んだのだと回想する。
そして Mankey に至っては、弦の演奏家が本スタジオに収まらず、脇のライヴ・ルームにいた日を覚えている。他の演奏者は全員本スタジオにギリギリまで詰め込まれていたと彼は言う。
 トランペットは金管のうち最も高音で、最も鋭く、最も遠くまで響く。絨毯を貼った小部屋に四本並べれば、録音で真っ先に手に負えなくなるのはこの楽器だろう。トロンボーンなら、まだ抑えが利く。断定はできない。だが Brian が、トランペットの要る二曲だけを Hollywood まで運び、残る三曲は自分のスタジオで録った。その線引きが、部屋の寸法と無関係だとは考えにくい。もっとも、その狭い部屋で何が起きていたかとなると、話は牧歌的になる。
Hanlon は、弦の列のあいだを Carl と Brian の子供たちが走り回り、弓と弦をつまもうとしていたことを忘れられないという。Brian や Carl に子供をスタジオから出せと言う人間はいなかったし、そんなことは起こりようがなかった。なかなか可笑しかったと振り返る。

1976年に懐古調な曲を録るということ

1977年である。punk が出て、disco が満ちていた。『Adult/Child』が世の中とずれていたという証言は、そのとおりだろう。だが、誰の耳を基準にずれていたのか?Brian が最初に聴いた曲は Rhapsody in Blue だった。十代を魅了したのは Four Freshmen。そして本人がこう証言している。rock and roll に入ったのは Carl のほうが先だった。弟が Chuck Berry と Little Richard を聴いていた頃、自分は Four Freshmen と jazz を聴いていた、と。四歳年下の弟に、この分野では先を越されていたわけである。その耳にとって、rock は後から来たものだった。だから 『15 Big Ones』でカヴァーを並べたことも、『Adult/Child』で Dick Reynolds を呼んだことも、二つの奇行ではなく、同じ一つのことである。本人の言葉がある。1950年に書かれようが1970年に書かれようが、良い曲は良い曲だ。1976年に書かれたものでないからという理由で素材を切り捨てるのは、間違いだと思うと語る。そしてクレジットには、繰り返し現れる楽器がある。tack upright piano。ハンマーに鋲を打った、硬く乾いた音。酒場とラグタイムの音であって、rock の音ではない。Minimoog と ARP で作られたアルバムの土台に、この楽器が据わっている。あの十五か月は、時代とずれていたのではない。Brian が自分の時代と向き合っていただけである。1976年秋、彼が Sinatra に曲を持ち込もうとしたのも、同じ流れの上にある。日和ったのでも、権威に擦り寄ったのでもない。Four Freshmen が原動力となり、弟に遅れて rock に入った男が、自分の出どころへ一度戻ろうとしただけである。

誰が「完成」と言ったか

では、なぜ失速したのか?当事者たちは、それぞれ違うことを言っている。
Eugene Landy。自分は Brian を一人の全き人間にすることに関心があった、にもかかわらず彼らは1977年に間に合うよう、もう一枚アルバムを仕上げることに関心があった――そう言い残している。バンドが急がせたのだ、という言い分である。
Mike Love。本作ブックレットの中で、Warner Brothers はこの企画にいささか当惑していたようだ、と語る。Brian は噛み合わない断片をばらばらに持ち込んできた。それを聴いた Warner が、これはThe Beach Boys にとって商業的な方向ではないと感じたのは、おそらく正しかった。あまりに雑多な思いつきが多すぎたのだ、と。
Jeff Peters。バンドのマスタリング・エンジニアだった彼は、『Adult/Child』に関わった最後の一人である。企画が没になったことは、それほど意外ではなかったという。Brian自身の素晴らしい瞬間はいくつもあるが、このレコードを統一するものが何もなかった。「Still I Dream Of It」「Life Is For The Living」「Deep Purple」のような大編成のものがあり、そこへそれほど強くないアウトテイク小品が混じる。とくにあの時期、これは世の中の動きとひどくずれていた。『Love You』もずれていた。だが 『Love You』は筋が通っていて、格好よかった――と。
Brian Wilson。先に引用した通りである。他のメンバーが案を気に入らず、レーベルも確信を持てなかった。アルバムは、ついに出なかった。
四人とも、嘘は言っていないだろう。だが四人とも、同じものを見ていない。
Landy は1976年12月に解任され、それ以後は外にいた。Mike Love は1977年の春から夏、ヨーロッパにいた。Jeff Peters が関わったのはマスタリングの段階で、素材が出揃ったあとである。そして Brian は片耳が聞こえず、全体がどう鳴っているかを自分で確かめられない。そして誰も、工程の全体を見てはいない。十五か月の記録がまとまるのは、五十年後のことである。本作のセッショノグラフィが編まれるまで、そんなものは存在しなかった。その記録が語るのは、四人の誰とも違うことだ。1977年4月12日を最後に、新しい曲が立ち上がらなくなった。5月は一行も記載がない。6月に一曲入り、あとは手直しの繰り返し。

だが、記録からはもう一つ、別のことも見えてくる。

三作を並べると、卓の顔ぶれはこう動く。Moffitt と Mankey、Mankey と Carl、そして Mankey 一人。名前を並べただけでは、ただの人事である。だがトラックダウンという工程が何をする場なのかを考えると、この三行は別の意味を帯びてくる。24トラックを2トラックへ落とす。それは技術作業であると同時に、「これで完成だ」と宣言する作業でもある。誰かが卓の前で、もういい、と言わなければアルバムは終わらない。
ここで思い出しておきたいことがある。このバンドは投票制だった。
Brian 自身が語っている。「You've Lost That Lovin' Feelin'」も録った、「Shake, Rattle And Roll」も録った、たぶん使わないだろうが。「Running Bear」も録った。いろいろな曲を録ったが、全部は使えない。円盤の上には限りがある。Dennis はオールディーズを入れることに強く反対していた。だから投票にかけて、それが通った――と。だがトラックダウンは、投票にかからない。卓の前に座った人間が決める。曲順は皆で決め、何を入れるかは票で決め、しかし「これで完成だ」だけは、そこにいる者が言うのである。
その役を、三作それぞれを誰が担ったか?
 クレジットは三作ともProduced by Brian Wilsonである。クレジット上は当然Brianだ。
『15 Big Ones』 では、Carl の回想が本作ブックレットにある。実のところ、Dennis と自分は Brian が本来のバンド活動に戻ることを望んでいた。オールディーズのアルバムを助走にして、そのあともう一枚作るという絵を描いていた。ところが新しい曲を録り始めたところで、Brian がこう言った、もう十分に録った、これ以上は録りたくない。アルバムは完成だ、と。
『Pet Sounds』以来はじめて Produced by Brian Wilson の単独クレジットが付いたアルバムである。Mike Love も当時、彼は週五日か六日、二か月続けてスタジオに来ていたと語っている。決定権はBrian本人にあった。だからミックス欄にエンジニアの名しかないのは、Carl 役が要らなかったからだ。
 『Love You』 は前例がなかった。シンセと掠れた声でできた、誰も聴いたことのないアルバムである。プロのエンジニアに「良い塩梅」を判断させようがない。Brian の意図が分かり、なおかつ音楽家として卓に座れる人間が要る。それが Carl だった。Boyd がレコードで見たことがないと言う Mixdown Producer という肩書きは、前例のないアルバムが要求した、前例のない役職だったのではないか。そして事実、『Love You』のミックス記録は一度で終わっている。誰かが完成と言ったのだ。
 『Adult/Child』には、その誰かがいなかった。Mankey 一人が三か月、同じ曲を触り直し続けている。技術的な問題ではあるまい。決定する役目の人間が、スタジオにいなかった。こうして並べると、Brother の十五か月に一つの構図が見えてくる。作曲しているのは Brian 一人である。だが彼は、録ったものを自分でトラックダウンできない。片耳が聞こえず、全体を確かめられない。そこを、周りが黙って引き受けていた。
 Moffitt は Hanlon に、知らせずに録っておけと命じた。Carl は卓に座り、平坦なトラックに呼吸を入れた。Mike は弾き語りの横で感嘆し、Hanlon は弦のあいだを走る子供を止めなかった。誰も遮らなかったのである。Brian 自身、自室から出た経緯をこう語っている。妻と、医師と、弟たちと、母と、何人かの友人。その全員が、部屋を出てスタジオへ戻れと自分を説得した。感謝している、それが人を幸せにしているからだ。
 Edelson もこう書いている。あれは復帰というより、むしろ「集まってくること」だったのかもしれない。グループが Brian の周りに寄り集まり、それぞれの持ち味を Brother 期の企画に持ち込んだのだ、と。むろん、優しさだけではない。本人に知らせずに回されたテープが、半世紀後にこうして商品になっている。それでも、『Love You』はその体制で完成した。そして 『Adult/Child』は完成しなかった。卓に誰も座らなかったからではなく、座るべきときに、トラックダウンすべき曲が増えなくなっていたからである。もっとも、これも一つの見方にすぎない。セッショノグラフィは録音した日を記すが、曲の書けなかった日は記さない。1977年5月の空白が何であったかを、あの資料は語らない。

そして Brian は、Brother を去る

 1977年6月25日を最後に、『Adult/Child』のテープは止まる。次に何かが動き出すのは7月である。その月、Mike Love がヨーロッパから帰国した。そしてバンド全員で Iowa へ行こう、と言い出す。Fairfield にある Maharishi International University――彼と Al Jardine が指導者資格を持つ、瞑想の学校である。夏休みで空になった宿舎の一棟にスタジオを組み、そこで次のアルバムを録る。7月から8月にかけて、実際に機材が運び込まれた。こうして生まれたのが
『 M.I.U. Album』 である。プロデュースは Al Jardine と Ron Altbach、Brian は名義上の役目に留まった。
さて、先ほどの陰謀論だが、ここで補強されてしまう。
Stan が Brian にボールを投げさせていた1977年5月、Mike Love はヨーロッパにいた。だが、それが何だというのか。指示など電話一本で足りる。むしろ現場から離れていたほうが、都合がよいくらいだ。そして帰国した7月、彼はバンドごと Iowa へ連れて行った。Brian の仕事場から、千五百マイル余り離れた土地へ。筋書きとしては、実に美しい。日付も揃っている。この手の話が好きな向きには、たまらない材料だろう。
だが、筆者は採らない。
1976年10月のカセットに、その理由がある。ピアノを弾く Brian の隣で、Mike が口を挟んでいる四曲。あれは商売の声ではない。旋律に聴き入って、思わず声が出てしまった男の声である。筆者は前回、そのことを書いた。書いた以上、半年後の彼を陰謀の主にはできない。
1961年から一緒にやってきた男である。いとこであり、幼馴染であり、あの声で「Fun, Fun, Fun」から「Good Vibrations」まで歌ってきた男だ。Brian の才能を誰より近くで見て、誰より長く付き合った。Brian 自身、あの声を最初に見出したのは自分だと語っている。Mike Love の家でクリスマス・キャロルを歌い、彼の低音に気づいて、Four Freshmen のパートを教え込んだのだ、と。あのバンドの土台は、Brian が Mike の喉に見た可能性から始まっている。
その男が、実の弟のスポ根バスケ野郎をいとこの家に送り込み、毎日ボールを追わせてヘロヘロにさせ、スタジオへ行く体力を奪ってアルバム制作から手を引かせた――そう読むのは、素人が書いた安っぽい推理小説のプロットである。動機は薄く、手口は迂遠で、証拠は状況証拠ばかり。第一、絵面が間抜けだ。Landy を切ったのも Love 家なら、そのあと Brian の面倒を見たのも Love 家である。囲い込んだのではなく、引き受けたのだ。そう読むほうが、はるかに事実に近い。順序はもっと単純で、もっと苦い。1977年4月半ばに Brian の筆が止まり、アルバムが細り、6月末にテープが止まった。空いた場所を、7月に帰ってきた男が埋めた。それだけのことである。そしてこうも言える。空席ができたとき、そこに座れる人間はバンドに一人しかいなかった。
 1976年の暮れ、Brian はラジオで弟たちの動向を語っている。Dennis がソロ盤を作っている、あいつがちょっとしたいい流れを作りかけている、Carl も同じことを考えているらしい、おそらく次は Carl だろう――と。弟二人は、その時点ですでに外を向いていたわけである。翌1977年、Brian の筆が止まったとき、Dennis は Pacific Ocean Blue の仕上げにかかっていた。本作ブックレットによれば、その企画はもともと Freckles という仮題で、Holland の続編になるはずだったセッションから派生したものだという。Carl もまた、のちに世に出る曲のプロトタイプを同じ部屋で録っていた。『Love You』 のように Carl が卓に着いてやれなかったのも、無理からぬことだった。Mike Love が主導権を握ったのではなく、握る者が他にいなかったのである。誰かが奪ったのなら、まだ話は分かりやすい。だが実際に起きたのは、そういうことではなかった。このボックスセットの扱う時代は、1977年6月で終わることになる。
 念のため言っておくと、Brother Studio が終わったわけではない。終わったのは、Brian の活動だ。その十五か月が、そのまま三枚のLPの中身である。本作ブックレットの解説者 Howie Edelson は、こう書いている。1976年初頭から1977年6月にかけて Brian Wilson が主導した曲と制作の量は、驚くべきものだ。当時のThe Beach Boys の直近の仕事どころか、米英の有名どころ全体から見ても異質だったかもしれないが、それは衝撃的なほど純粋だった、と。
本作の題は、We Gotta Groove: The Brother Studio Years という。だがLPに刻まれているのは、スタジオの年月ではない。Brian Wilson が活動した、その十五か月である。


Ⅲ レコード

ようやく盤である。
『Love You』のジャケットを取り出して、思わぬ因縁に行き当たった。このジャケットについて、Al Jardine はブックレットの中で恨みを述べている。アートワークは本当にひどかった。段ボールの質だ。音楽とは何の関係もない。だがレーベルが気にかけていないように見えた。粗い段ボール。どこか安っぽく見えて、これは絶対にうまくいかないと思ったと回想する。

ジャケットの質感の違い:下がオリジナル 上が本作

 そして2026年の本作に収められた『Love You』のジャケットに、あの粗い質感は再現されていない。手にしてみると、つるりとした紙である。上質紙を使ってはいるのだろうが、いずれにせよオリジナルのざらつきはない。49年越しに、Al の不満だけが叶えられた。しかも当の Al は、いまもそのアルバムをどこかで演奏している。
ちなみに、ジャケットのデザインは Dean Torrence ――Jan & Dean の Dean である。そして彼は、同じセッションで歌ってもいる。CD側に収められた「Hey There Mama」のバッキング・ヴォーカルに、彼の名がある。
 ただ、惜しまれることが一つある。内袋が再現されていない。オリジナルの内袋には、当時の妻 Marilyn と写った写真があしらわれていた。権利の都合なのかどうかは分からないが、あれも1977年の『Love You』の一部である。盤そのものは、重量がオリジナルと変わらない。近年の再発にありがちな180グラム仕様ではない。





さて、曲の選別の話である。LPとCDを分けたのは、容量ではなく時間だったのかもしれない。十五か月の内側がLPへ、外側がCDへ。実際、LPから外れた34曲を並べると、そう読める。1965年の「Sherry She Needs Me」も、1970年の Carl のガイド・ヴォーカルによる「Holy Man」も、「Carl's Song #1」と「Angel Come Home」の原型である「#2」も、Dennis の「String Bass Song」と「10,000 Years Ago」も、Marilyn が歌う「Honeycomb」も、みなLPの外側にある。箱に題名を与えた「We Gotta Groove」も、1976年11月16日に作られて落とされた四曲も、アルバムの外にあるという点では同じだ。つまりアナログ盤の上では、Brian 以外の Beach Boys がほぼ全員、姿を消している。筋は通っている。だがその線を引いた結果、Holland 以後 15 Big Ones 以前という、バンドが録音していないことになっている二年半に弟たちが残した仕事は、盤の上から丸ごと欠落した。

ここで、LPの並び順に目が行く。
LP1が『Love You』、LP2が『Adult/Child』、LP3が『15 Big Ones』。時系列で並べるなら、完全に真逆だ。1976年春の『15 Big Ones』から始まり、夏の『Love You』、翌77年の『Adult/Child』へと至るのが本来の順番である。なぜこの順なのか。商売上の理由は一目瞭然だ。本作は『Love You』のリマスター盤として売られている。だが曲目表の見出しを読むと、もう一つのことが分かる。LP3は「15 BIG ONES Outtakes and Alternate Mixes」。『15 Big Ones』というアルバムそのものは、本作に入っていない。三枚は、三枚のアルバムではないのだ。世に出たアルバムが一枚、出なかったアルバムが一枚、そして残り物が一枚。そして残り物に回された『15 Big Ones』こそ、十五か月の始まりである。編集の判断としては筋が通っている。あれは Pet Sounds 以来はじめて Produced by Brian Wilson の単独クレジットが付いたアルバムだが、八曲がカヴァー、七曲がオリジナル。世に出て、しかも売れた一枚である。わざわざ再現するまでもない、という判断だろう。
だが、この並びは別のことも語っている。1976年、バンド側が、新しいLPのための宣伝キャンペーンを組み立てた。The Beach Boys のキャリアで初めてのことだったという。掲げられたスローガンが「Brian's Back」である。7月5日発売の『15 Big Ones』と、同月から始まったツアーの宣伝だった。8月5日にはNBCで特番が放送され、これが号砲になる。広報会社 Rogers & Cowan を起用し、People 誌の表紙も取った。1966年の Pet Sounds でポップ音楽の頂点に立ち、翌年 SMiLE で崩れ、以後十年ほど表に出なかった男の帰還――そう売られたのである。断っておくと、このスローガンが掛けられたのは『15 Big Ones』までだ。翌年の『Love You』にも、その先の『Adult/Child』にも、同じ売り方はされていない。帰還が宣伝されたのは、十五か月のうち最初の数か月だけである。

そして当事者の評価は、割れている。
Mike Love は、半分肯定している。「Brian's Back」の部分は妥当だと思った、彼は実際にスタジオに戻っていて、我々と一緒にトラックを作り、自分も何曲かで直接一緒に仕事をした、だからその部分は筋が通っていると思ったと振り返る。
 否定したのは、その先である。精神の病を公に持ち出したことのほうが問題だった、人の最も深い、最も暗い秘密に踏み込むのは本人にとっても世間にとっても良いことではない、それが宣伝の一部になって音楽とはあまり関係がなくなってしまった、と。もっとも別の箇所では、こうも言っている。あれは宣伝であって、Brian が「戻って」いたかどうかについては意見が分かれる。スタジオでの権威の頂点に戻ることを期待するのは、求めすぎだった。あの時期のバンドは、もっと共同作業的であるべきだったと語る。
Al Jardine は、はっきり否定する。あのスローガンは単純に時期尚早だった、Brian はほとんどそこまで来ていたが完全ではなかった、彼はまだ立ち直る途中だったんだと言い、こう続ける。彼はある意味ではそこにいたが、別の意味ではいなかった。「Brian's Back」というメディア・キャンペーンは素晴らしい着想だったが、Brian は明らかに戻っていなかった。そこが問題だったのだ、と。そして、実質は Carl のプロダクションで、Carl の Brian への献身の結果だ、Carl が全部を縫い合わせたのだ、とも。
判断の材料は、Disc 1(CD) に入っている。
17曲目「Sherry She Needs Me」。1965年、Western Recorders。Al De Lory、Leon Russell、Carol Kaye、Earl Palmer、Howard Roberts、Billy Strange――十四人が並び、その全員に指示を出しているのが二十二歳の Brian である。8曲目「Solar System」。1976年10月、Brother Studio。演奏者の欄に、Brian 以外の名前が一つもない。11年。そして1965年のそのテープを棚から出してきたのは、11年後の彼自身だった。
戻ってきたのは、書く力である。1976年10月の一か月で十一曲。あの密度は疑いようがない。Brian 自身、『Love You』についてこう言っている。『Pet Sounds』のときと同じようにスタジオを使えた、『Pet Sounds』が二十代の自分の感じ方についての作品だったのと同じように、三十代の自分の感じ方についての曲を書いた、『Pet Sounds』以来はじめて満足できたアルバムだったと語る。
 戻らなかったのは、その先だ。十四人のミュージシャンを動かす力と、これで完成だ、と言う力。前者は自分で全部弾くことで埋め、後者は弟を呼ぶことで埋めた。翌1977年、その両方が使えなくなる。Brian は戻っていた。だが、戻ったのは半分だった。そして本作は、その半分が始まった季節の記録だといってもいい。
音の素性も記しておく。プレスは GZ Media、マスタリングは Burbank の Robert Vosgien、ミックスは The Audio Labs の James Sáez。テープの読み出しと修復は Mark Linett と Bill Smith。ラッカー・カッティングの担当者名は、公式クレジットのどこにも記されていない。そして手元の個体のデッドワックスには、309164 に E1 から E6 までを振った刻印が並ぶだけである。手書きの刻印は一つもない。クレジットにも盤にも、切った人間の痕跡は残っていないことになる。
 オリジナル盤と並べて聴くと、まずヴォーカルが違う。抜けと伸びが違うのだ。1977年のオリジナルは、倍音をいじったような、やや細い印象がある。ところがこの再発では、声が太く、前へぐっと出てくる。本来の録音は、こちらだったのだろう。そしてもう一つ、はっきり聴き取れることがある。エフェクトのかかったバックの楽器の音に、ハーモニーが確実に溶け込んでいる。
Ⅱ章で見た通り、このスタジオではエフェクトをかけた状態で音がテープに入っていた。ハーモナイザーを通したピアノ、フェイザーのかかったギター。声はその上に重ねられたのではなく、同じ質感の中に置かれている。Moffitt の流儀――素の音を録っておいて後で作る――なら、こうはならなかっただろう。記録から読み取った二人の流儀の違いが、盤の上で確かめられたことになる。次に、LP1のA面5曲目「Good Time」、7曲目「Ding Dang」、B面5曲目「I Wanna Pick You Up」。この三曲は、前後と質感が違う。だがそれは Moffitt の卓によるものとは限らない。素材の成り立ちが違うのだ。「Good Time」は1970年、2インチ16トラック。Bruce Johnston のクラヴィネットに Daryl Dragon のベース、トランペット三本にトロンボーン二本、ホルンが二本。「Ding Dang」は1974年、Carl と Billy Hinsche と Ed Carter と Ricky Fataar。「I Wanna Pick You Up」は Dennis のドラムと Carl のギター。三曲とも、人が弾いている。Brian が一人で層を積んだ曲ではない。
この差は、ヒスノイズに出る。本作のアナログ盤に針を落としても分かる通り、『Love You』の本編は、テープのノイズを隠していない。その理由を「30 IPS NON DOLBY だから」で片づけるのは、半分しか当たっていない。テープ速度が上がれば、S/N はむしろ良くなる。Dolby A を使わなければ、残った雑音はそのまま聴こえる。だが本当の発生源は、別にある。2インチを24本で割れば、トラックは一本あたり0.08インチほどしかない。細い帯ほど雑音は多く、しかも24本を2本にまとめれば、24本ぶんの雑音も一緒に足される。1965年の「Sherry She Needs Me」と比べれば分かる。あちらは二分の一インチを3トラック。帯は倍の幅があり、足す本数は八分の一だった。そして『Love You』は、一人の男が一トラックずつ音を重ねることできている。重ねた回数だけ、雑音も重なった。つまりあのヒスノイズは、単なる録音の粗さではない。Brian Wilsonがスタジオで孤独に音を重ね続けた、制作プロセスそのものが残した「生の足跡(副産物)」なのだ。この3LPは「アナログ・チェーンの成果」としては売られていない。テープからラッカーまでの経路が公開されていない以上、そこを評価軸にはできない。この盤の値打ちは別のところにある。それは二枚目までにある。ついに世に出なかったアルバムと、出したものの誰も売る気のなかったアルバムが、同じ体裁で並んでいることだ。Mike Love によれば、『Love You』は Warner との契約末期の作品で、バンドはすでにCBSと契約していた。レーベルに宣伝する気はまったくなく、プレスはおそらく5万枚程度だったという。届かなかったのではなく、届ける気がなかったのである。半世紀後、その二枚が、同じ厚みの紙に包まれて、同じ箱に収まっている。1977年に果たされなかったことが、そこでだけ果たされている。
最後にもう一人、Al Jardine について触れておく。
彼は『Love You』の現場にほとんどいなかった。L.A.の狂騒やツアーから距離を置き、ビッグサーの山にこもって薪を割っていたからだ。乗り気ではなかったが、結局スタジオへ呼び戻され、歌入れの段階になってようやく曲を覚えたという。彼が残したのは数曲のリードとバックコーラス。「あれは Brian のアルバムで、自分たちのものじゃない。作ったのは Brian と Dennis と Carl の三人だ」――Al はそう振り返る。だが1976年11月16日、Brother Studio では、彼の歌声が静かに試されていた。「Love Is A Woman」のリードヴォーカルはボツになったが、「Honkin' Down The Highway」では Billy Hinsche 版が退けられ、Al の歌が採用された。そして、その残った一曲こそが、このアルバム唯一のシングルカットとなる。「あの盤で唯一、ヒットになり得る曲を歌ったのは自分だ」と後年彼が語る通りの結果になった。

 その、いなかった男が、2026年の夏、このアルバムを演奏している。
2026年7月16日に全米ツアーを始めた Al Jardine と The Pet Sounds Band は、Pet Sounds の60周年とともに、『Love You』の曲をステージで演奏している。その一週間後の7月22日、Mike Love の Instagram に告知が出た。7月23日から9月3日までの約30公演を中止または延期し、9月下旬に戻る――「充電のための短い休止」だという。彼は85歳。今年 Bruce Johnston がツアー活動から引退したいま、初期からの現役はこの一人になった。5月末には一度体調を崩して公演をキャンセルし、6月14日に復帰していたものの、長年の協力者 Dean Torrence は Rolling Stone に、Mike が健康上の問題を抱えていると語っている。振替が決まったのは29公演のうち七本ほどで、「充電」後のMikeが戻るかどうかは分からない。
9月24日、Massachusetts で再開の予定だという。そこでは、本作からどの曲が選ばれるのだろうか?――「どうせ1曲も選ばれない」という我々の冷めた高括りをあざ笑うように1曲でもセットリストに滑り込むなら、半世紀前にMikeがあの作品群へ込めた密やかな敬愛は、本物だったということになる。


(text by
Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

■ 執筆・出典注記

本稿で扱った証言は、主に以下の3つの一次資料・原典に基づいている。

  1. 本作ボックスセットの付属ブックレットに収められた新規インタビュー

  2. 当時の歴史的メディア証言

    • Dave Herman による『DIR: King Biscuit Flower Hour』(1977年)

    • Pete Fornatale による『WNEW』(1976年)および『Crawdaddy Rock Review』(1977年)

  3. 上記のラジオ放送等のオリジナルアーカイブ音源(現在YouTube等で聴取可能)

なお、セッショノグラフィの再構成・日付の精査集計、およびそこから導き出された一連の考察と論解は、すべて筆者独自の分析に基づくものである。