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2026年8月16日日曜日

『We Gotta Groove』開封・解読記 ―― 1976-1977のテープ記録を追いかけて

     前回、当コラムでは『Pet Sounds』の60周年記念盤を取り上げた。だが、実を言えば、もう一つの“本命”も同時に筆者の元へ届いている。1966年の『Pet Sounds』、そしてそのちょうど10年後。順番こそ逆になってしまったが、今回満を持して紐解くのは、ボックスセット『We Gotta Groove』である。単なる豪華な復刻箱の「開封記」として終わらせるつもりはない。本稿でやりたいのは、付属ブックレットの末尾に小さく刻まれた「完全セッショノグラフィ」を、日付順に丹念に洗い直すことだ。誰が、いつ、どのテープを回し、誰が卓に座ったのか。記録された数字と名前の点を繋ぎ合わせていくと、1976年から77年にかけてのBrianの十五か月と、あのスタジオで実際に何が起きていたのかが見えてくる。

Ⅰ 外箱


 12インチ角の外箱で、側面が開いており、中身はそこから引き出す。表にはあの円形のステンドグラスがある。青と紫のガラスが暗い木枠の中で放射状に組まれた、発表時から出回っている図柄で、いまさら説明も要らないだろう。ただ、この窓がなぜそこにあったのかは、ブックレットを読むまで筆者も知らなかった。それは後述する。厚みも重さも三枚組の箱としては標準的なところ。側面から中身を引き出すと、しっかりした手応えがある。


 裏を返すと、褪せた紙を模したクリーム地に、手書き風の書体で73曲の題名が三段に並ぶ。上に Brother Studio のロゴ、下端に Santa Monica, California 90401 ――Brother Studios があった 1454 5th Street の郵便番号である。手書きの曲名、スタジオのロゴ、街の名と郵便番号。この面は、テープの箱に貼るラベルの体裁で作られている。その曲目表には、34曲に※印が振られている。CD Only。LPに入るのは73曲中39曲。この非対称は発売前から公表されていたし、買った人間は全員それを承知で買っている。問題はそこではなく、何をLPに残し、何をCDへ送ったかにある。その選別に、本作の思想がはっきり出ている。Ⅲ章で見よう。
外箱から引き出されるのは、3枚のLP、紙ジャケットに収められた3枚のCD、そして40ページのブックレットである。


Ⅱ ブックレット ―― ミックスダウン欄を読む

 そのブックレットは、本の顔をしていない。角の潰れた段ボール箱――正確には、そう見えるように刷られた表紙だ。染みも折れ皺も、粘着テープを剥がした跡まで印刷されている。裏面には Scotch のタータン・チェックが刷られた券面。206 - 2 - 2500。3M の Scotch 206、幅2インチ、長さ2500フィート。当時のスタジオが基準として調整に使ったマスタリング・テープである。その脇に手書きで二行。30 IPS NON DOLBY。



 毎秒30インチ、雑音低減なし。特別な選択ではなく、当時の一流スタジオの多くがそうしていた。だがこの一行のおかげで、Brother Studio が15 ips 側ではなく30 ips 側だったことが分かる。同じ表記は『Love You』期のテープにも、また翌年の『Adult/Child』期にも現れるから、あのスタジオは少なくとも1976年から77年にかけて一貫してそちらだったことになる。中身はアルバムではなくテープなのだと、装丁が一文字も読まないうちに告げてくる。
 開くと、Howie Edelson の解説と写真、そして末尾に完全セッショノグラフィがある。作成者は Craig Slowinski ほか四名。全収録曲について、いつ、どこで、どの幅のテープの何トラックに録られ、誰がいつミックスしたかが記されている。この稿は、その欄を日付順に読み直す試みである。
 1976年初頭から翌1977年6月まで。本作ブックレットによれば、セッションが正式に始まったのは1976年1月である。ただしセッショノグラフィに日付の入る最初の録音は3月9日で、最後の記載は翌1977年6月25日。テープが実際に回っていたのは、その十五か月あまりということになる。この十五か月に、Brian は三枚分の録音を残した。1976年春の『15 Big Ones』、同年夏から冬の『Love You』、そして翌1977年の『Adult/Child』。順に見ていくこととする。


レコーダー部の拡大:右から2トラック 16トラック 24トラックが設置

 まずスタジオの造りから。ブックレットのコントロール・ルーム写真には、ミキシング・コンソール――現場でいう「卓」――の右にテープ・マシンが三台並んでいる。手前から2トラック、16トラック、24トラック。当時としては標準的な構成で、三台はそのまま制作の三段階にあたる。思いつきは一般のカセットに、本番の録音は24トラックに載り、トラックダウンされたものが2トラックへ落ちる。実際、1976年8月21日には24トラックと16トラックが同じ日に動いている。その卓の向こう、ガラス窓の先が録音室である。Earle Mankey は後年、その部屋を絨毯を貼り詰めたひどくデッドな空間で、寸法は Western の Studio 3 に近かったと証言している。そして設計したチーフ・エンジニア、Stephen Moffitt は、その構造を語っている。スタジオは基本的に長方形で、突き当たりに大きな空間があった。彼はそこに棚を組み、バンドのアーカイヴ・テープをすべてその裏へ収めた。すると壁が一つできる。ここは良い壁になる、端に何か意匠を入れよう――そう考えた彼は、大工の友人に八フィートの円形の枠を作らせ、知り合いのガラス職人に「この八フィートの円に北の空を」と頼んだ。背後に照明を置き、植物を配し、夜になると他の灯りを落として、そこだけを灯した。夜に音楽を作るには実に良い場所だった、と彼は言う。外箱のあの窓は、演奏者が立つ部屋の、いちばん奥にあった。その裏に、バンドの過去が全部積まれていたことになる。
 そして、その窓の前にピアノが置かれていた。Brian 自身がそう語っている。スタジオを作曲環境として使ってきた、良い環境だ、ピアノのすぐ後ろに円形のステンドグラスの窓があって、少し霊的な効果を与えている、あそこにいると安心するんだと振り返る。それ以前は自宅で作曲していていたが、直近はこのスタジオ中心だという。Moffitt はテープ棚を隠すために壁を作り、その端を飾った。Brian はその壁を背にして、『Love You』以降の作品群を書いていたのだ。

※二つの証言の出どころについて

インタビュー DIR


インタビュー2 WNEW-FM

本稿では、1976年から77年にかけてのラジオ・インタヴューを引用する。
 一つは、DIR Broadcasting が制作し、Dave Herman が聞き手を務めたもの。DIR は King Biscuit Flower Hour で知られる番組制作会社、Herman は WNEW-FM の名物 DJ である。ブックレットの出典欄は、これを1977年としている。
 もう一つは、WNEW-FM の Pete Fornatale によるもの。同出典欄には Fornatale が二度出てきて、WNEW の1976年のものと、Crawdaddy Rock Review の1977年のものが並ぶ。どちらも現在は「1977年のインタヴュー」として流通しているが、収録はもっと早いはずだ。中身がそれを示している。
 Herman との対話で、Brian は 『15 Big Ones』 を発売済みとして語り、『Love You』 をまだ 『Brian Loves You』 と呼び、「Still I Dream Of It」を二、三週間前に書いたばかりだと言っている。Fornatale との対話はもう少し絞れる。『15 Big Ones』 を「今年の春」の仕事として語り、8年ぶりのトップ10シングルを「今年」と言い、Rolling Stone の表紙記事を「最近」と呼び、Saturday Night Live に一人で出た件に触れている。その番組の放送は1976年11月27日だから、1976年の11月末から12月と見るのが自然だろう。
  Herman 版には、こういうナレーションが挿入されている――この会話が録音された直後、「The Beach Boys は題を『 Brian Loves You 』から『The Beach Boys Love You』 へ変更した」、と。収録は1976年、放送は題名変更後ということになる。「1977年」という表示は、放送または掲載の年を指しているのだろう。

1976年春 ―― 15 Big Ones、チーフ・エンジニアの期間

 1976年3月から5月。engineer 欄を見ると、Moffitt が大半を占め、Mankey が四曲。スタジオを設計した男が、自分の現場に立っている。当たり前の姿である。このアルバムの収録曲は多くが2025年ミックスのため、当時のミックス記載はほとんどない。唯一「Shake, Rattle And Roll」に April-May 1976 – Stephen Moffitt とある。

引き継ぎ ―― 二つの流儀

 もっとも、engineer 欄をよく見ると、この三か月のあいだにも名前が入れ替わっている。1976年3月9日「Sea Cruise」、10日「On Broadway」、15日「Mony, Mony」、16日「Just Once In My Life」と「Rock And Roll Music」、17日「Chapel Of Love」、18日「TM Song」。九日間で七曲、すべて Moffitt である。
 Mankey の名が現れるのは、同年3月30日の「Had To Phone Ya」から。以後、4月13日「Running Bear」、14・15日「Shake, Rattle And Roll」、5月8日「Short Skirts」。混在ではなく、交代である。
 なぜ交代したのか。ブックレットに、Moffitt 自身の説明がある。ただし彼が語っているのは雇った理由のほうだ。Earle を雇った一因は、彼の技術力を買ったからだという。電子機器を直せたのだ。自分も直せたが、いつも時間と気力があるわけではない。だから修理や整備の良い後方支援になった訳だ。そして自分は、ミックスを担当していた、と振り返る。つまり Mankey は当初、技術屋として採られている。実際、彼が Brother に入ったのは1974年頃で、覚えている最初の本格的なセッションは Elton John の「Don't Let The Sun Go Down On Me」のヴォーカル録りだった。『Love You』 の二年前である。役割が変わるのが1976年春で、そこで初めて二人の流儀の違いが表に出た。Moffitt はこう続けている。ミックスについての自分の考えは、Carl And The Passions のときからずっと同じだ。できるだけクリーンに、ありのままテープに入れて、途中で音をいじらないこと。Earle はまったく逆で、テープに入る前にいじるのが好きで、やりたいことを何でもやってしまうんだと語る。
加工した音を、そのままテープに録るということである。
 いじる手立ては三つある。イコライザーで周波数を削るか持ち上げるか。コンプレッサーで音量の幅を詰めるか。そしてエフェクター――フェイザー、ファズ、ハーモナイザーの類を通すか。素の音を録っておいてミックスの段階でこれらをかけるのが Moffitt、かけた状態で録ってしまうのが Mankey である。後者では、あとから音の足し弾きができない。低域を削って録れば、その低域はもう存在しないから、ミックスで上げようにも上げる元がない。ハーモナイザーを通して録れば、通していない音は取り出せない。
 だから Moffitt はこう言う。こちらは音の全帯域が手つかずでない状態でミックスすることになるから、エフェクトありの音を最初から扱うのはかえって難しい仕事になる。それが我々の流儀の違いだったと回想する。
『Love You』 のクレジットを見ると、その違いが目に見える。grand piano w/harmonizer。electric guitar w/phaser。electric guitar w/fuzz。Hohner Clavinet C w/Leslie speaker。エフェクトが、楽器名の一部として書かれている。ミックスでかけたのではなく、そう録ったわけである。Moffitt の流儀では、このアルバムは成立しない。1972年から自分でミックスしてきた男である。Mankey が修理と補助にいるあいだは衝突しようがなかったが、彼が録り始めた瞬間に、卓の上の前提が変わった。そして同年8月。『Love You』のセッションが始まると、録音は全曲 Mankey になる。Moffitt が engineer として最後に現れるのは、日付も曖昧な「Clangin'」――1976年の春から夏のどこか、一曲きりだ。
 その Moffitt が最後に卓に着くのが、同年10月2日・4日・5日の三日間である。トラックダウンしたのは、アルバムに使わない古いテープだった。ただしこれは、彼にしかできない仕事でもあった。あの部屋の奥、ステンドグラスの裏にバンドのアーカイヴ・テープを積んだのは Moffitt 自身であり、どこに何があるかを知っているのは棚を組んだ男である。1965年の「Sherry She Needs Me」、1970年の「Good Time」、1972年の「Lazy Lizzie」、1974年の「Ding Dang」。自分が仕舞ったものを、自分で出してきたことになる。
以後、Moffittの名はミックス欄から消える。
 入れ替わりに、Mankey が全部を引き受ける。同年11月16日には一人で四つの試作を仕上げ、12月末から Carl と組み、翌1977年には『Adult/Child』のすべてを一人で担う。Halfnelson ――のちの Sparks ――のギタリストだった男が、1973年に卓の側へ回って三年目のことである。付け加えておくと、Mankey はこのあと LA のパワー・ポップとパンクの現場へ移る。The Quick、Runaways、20/20、The Pop、Dickies、Three O'Clock、Long Ryders。そして本作ブックレット自身が、『Love You』 を1980年代の New Wave以後の早い影響源として挙げている。録る段階で音を作り込む流儀は、そのままパワー・ポップの作り方でもあった。因果は言えないが、Brother でこの一枚を録った男が、そのまま次の十年の音へ歩いていったことは事実である。
Moffitt が設計した部屋は、この十五か月のあいだに Mankey の部屋になっていた。

1976年夏から冬 ―― Love You、三つの局面

 1976年8月から翌1977年1月まで。ここでミックスの現場は三つの局面に割れ、しかも三つは目的がまるで違う。その前に、このアルバムの出自を確認しておきたい。もともとの仮題は 『Brian Loves You』 で、Brian は自分名義で出すつもりだった。Herman との対話で、Brianはその題について嬉しそうに語っている。今回は投票にかける必要がなかった、一人ずつ当たったら全員が乗った、Brian loves you も Jesus loves you も同じことだろう、精神は変わらないんだと語る。ところが同じ1976年12月の別のインタヴューでは、ソロを出したいがバンド内の政治を刺激したくない、メンバーもこの素材を The Beach Boys のために取っておきたがっている、とも言っている。同じ人物が、同じ月に、二つのことを言っているわけである。そしてタイトルは実際に変わった。本作ブックレットは、より包括的な 『The Beach Boys Love You』 が選ばれたと記す。Herman 版の番組には、「この会話の直後に変更された」というナレーションが入る。全員が乗ったはずの題が、結局、『The Beach Boys Love You』 になった。
 さて、1976年8月から見ていこう。この月に24トラックが回ったのは、18日と21日の二日だけである。18日に「Ruby Baby」、21日に「Marilyn Rovell」と「I Wanna Pick You Up」。同じ21日、Brian は1965年の「Sherry She Needs Me」を棚から出して歌を入れ、この月のどこかで1972年の「Lazy Lizzie」にも手を加えている。新しく立ち上げたのは二曲、あとは古いテープへの追加録音だ。そしてこのうちアルバム本編に残るのは「I Wanna Pick You Up」一曲だけである。本セッションが始まるのは、この一か月半あとになる。

10月という月

三つの局面に入る前に、10月の異常な密度に触れておきたい。この十五か月の中で、ここだけが明らかに熱量のピークだ。
1976年10月13日「Honkin' Down The Highway」
     20日「The Night Was So Young」と「Let's Put Our Hearts Together」
     21日「Mona」
     27日「Let Us Go On This Way」
     28日「Love Is A Woman」。日付の特定できるものだけで六曲ある。
これに「1976年10月」とだけ記された「Roller Skating Child」「Solar System」「I'll Bet He's Nice」「Airplane」、そして「10月から11月」の「Johnny Carson」を足すと十一曲。『Love You』 のアルバム本編は十四曲だから、その大半がこの一か月で立ち上がったことになる。
 前年春の『15 Big Ones』 は三か月で十一曲。翌1977年の『Adult/Child』は五か月で八曲。1976年10月の一か月の密度は、1977年の五か月のそれを大きく凌駕している。そして1976年11月から翌1977年1月までの三か月、新しい曲は一つも立ち上がっていない。この期間に行われたのは、すでにあったテープへの重ね録りとミックスだけである。立ち上げと積み上げが、時期として分かれている。10月に十一本のテープをこなし、以後三か月それを蓄積し、12月末から仕上げにかかる。これから見る三つの局面の概要だ。

局面その一。1976年10月2日、4日、5日――旧作の棚卸し。Moffitt が一人。

この三日間に処理された曲は「Ruby Baby」「Marilyn Rovell」「Sherry She Needs Me」「Lazy Lizzie」「I Wanna Pick You Up」「Good Time」「Ding Dang」。すべて Moffitt 単独のミックスである。対象を見ると、1965年、1970年、1972年、1974年、そして1976年8月の録音ばかりだ。『Love You』の本編に使う曲のテープは、この時点でまだ一曲も存在していない。本セッションが動き出すのは10月13日以降である。つまりこれはアルバムのためのミックスではなく、8月に引っ張り出した古いテープを、聴ける形に整えていただけということになる。中でも「Sherry She Needs Me」の経歴は特異である。1965年3月29日に Western Recorders Studio 3 で1/2インチ3トラックに録音。1970年頃に Bel Air の自宅スタジオで2インチ16トラックへ移し替え。1976年8月21日に Brother でヴォーカルを追加し、同年10月4日に1/4インチへ落とされた。本作ブックレットのエンジニア欄には、Chuck Britz、Stephen Desper、Earle Mankey の三人が並ぶ。三人は三つの違う仕事をしている。Britz が演奏を録り、Desper がテープを移し替え、Mankey が歌を乗せた。目を引くのは二番目である。テープを移すだけの作業に、なぜエンジニアの名が残るのか?単なる複製ではないからだ。3トラックの音を16トラックのどこへ振り分けるか。左右をどう配し、どのトラックを空けておくか。1970年頃の Desper は、そこで判断をしている。
 ただし、その時点で新しい音が足された形跡はない。移し替えたきり、テープは六年ほど棚にあったことになる。1976年8月21日、Brian はそれを引き出し、題を改め、リード・ヴォーカルを重ねた。六年前に空けておいたトラックへ、歌を入れたわけである。

局面その二。1976年11月16日――候補を並べる日。Mankey が一人。

 この一日にミックスされた四曲は、すべて別ヴァージョンである。「Let Us Go On This Way」の別ミックス、「Love Is A Woman」の Al Jardine 歌唱版、「Johnny Carson」のイントロ付き、そして「Honkin' Down The Highway」の Billy Hinsche 歌唱版。誰に歌わせるか、イントロを付けるか。一日で四つの案を作り、並べて比べている。そして四曲とも、アルバムには採用されなかった。「Love Is A Woman」は Al のリードが落とされ、「Johnny Carson」もイントロなしが採られ、「Honkin' Down The Highway」は Billy Hinsche ではなく Al Jardine が歌うことになった。もっとも、別のリードを録っては落とすこと自体はセッションの常態だった。前年春の15 Big Ones 期にも、「Mony, Mony」に Billy Hinsche、「Sea Cruise」に Mike Love の不採用リードが残っている。11月16日が異例なのは、四つの案を一日でまとめて仕上げたことのほうだ。

局面その三。1976年12月29日――本番が始まる。Carl が座る。

 この期の特異な点は、Carl のミックス現場への登場である。のちに LP へ Mixdown Producer の肩書きが付く経緯につながる。Mankey と Carl の組が仕上げたのは、本編14曲のうち11曲。そのミックス日は、9曲までが「1976年12月、もしくは1977年1月」という曖昧な記載である。「Airplane」だけが「1977年1月」と月まで絞られる。
そして一曲だけ日単位まで分かっている。
「Johnny Carson」――1976年12月29日、Earle Mankey & Carl Wilson。
 Carl に Mixdown Producer の肩書きが付く曲のうち、日付の判明する唯一のものだ。年末の一日、あのアルバムのなかでも最も奇矯な曲から、Carl の仕事は始まっている。しかもこの曲は、同年11月16日に Mankey が単独で別ミックスを作っていた曲でもある。一度作った案を、Carl を迎えてやり直しているわけだ。
 残る三曲――「Good Time」「Ding Dang」「I Wanna Pick You Up」――は Moffitt 単独で、いずれも1976年10月4日か5日と日付がはっきりしている。新しく録った曲に、Moffitt は一度も触っていない。そしてもう一つ、Carl の名はアウトテイクには一度も現れない。「You've Lost That Lovin' Feeling」は1976年10月から翌1977年1月まで、まさに Carl が本編を仕上げていた同じ期間に、Mankey が一人で処理している。11月16日の四曲も同様だ。
 記録の精度も、担当者で分かれている。1976年10月に Moffitt が一人で処理した分は日まで残るのに、12月以降に Carl が加わった分は月すら定まらない。年末年始をまたいで断続的に作業が続いたのだろう。あるいは、テープ箱への記入が追いつかなかったのかもしれない。

その1976年12月に、もう一つのことが起きている。
 Brian を24時間態勢で管理していた Eugene Landy が、解任された。理由は報酬で、月一万ドルから始まった額を、彼が二万ドルへ倍増させたためだったという。解任を実行したのは Love 家の人間だったとされる。資料によって Mike の弟 Stan とも Stephenとも記されるが、いずれにせよ Brian の身柄の管理は、この時点で主治医の手からいとこたちの手へ移った。翌1977年5月、裏庭で Brian にボールを投げさせることになる男も、その一人である。
後見役が消えた月に、弟が卓に着いた。因果は証明できないが、時期はぴたりと重なる。


 入れ替わりに現れた Carl が何をしたのかは、本作の Creative Director である Alan Boyd が語っている。彼は当時からあの肩書き――Mixdown Producer――に驚いていたという。レコーディングの現場でそんな表記を見たことがなかったが、後年マルチトラックを精査する機会を得て、理由が分かった、と語る。Brian のトラックの録り方では、どのパートも曲の頭から終わりまで同じヴォリュームで一斉に鳴ってしまう。そのままなら、多くの曲が「Mona」のような響きになっていたはずだ、と Boyd は主張する。
 その起伏を、卓の上で作った男がいる。Carl である。フェーダーで各トラックの出入りを付け、奥行きを配し、曲に呼吸を与える。Carl こそがこのレコードを特別なものにした一因なのだと Boyd は言い、「Let Us Go On This Way」と「The Night Was So Young」がとくにそうだと挙げている。
なぜ、それを Brian 自身がやらなかったのか?
現場の側からも裏が取れる。Moffitt はこう語っている。
Brian は頭の中でテープが回っていたから、誰に何を弾かせるか分かっていた。必要なら自分で弾いて見せた。完全に古い流儀だが、古い流儀の良いところは時間を無駄にしないことだ。録音はまず歌から入り、その下にベースを敷く。ラジオで音楽を聴けば、聴こえてくるのは結局その二つだからだ。残りの楽器は、あとからその周りに配置していく。あんなやり方をする人間を、他に見たことがないね!
そして Moffitt はこうも続ける。Brian はミックスに関心がなかった、曲に四つ五つのパートが一斉に鳴っていても構わなかった、たとえそのパートの一つが二十人編成の管弦楽であってもだ。
それでも一つの塊こそが、Brianの音楽の響きなのだと。
そしてある日、Brian は Moffitt にこう言ったという。自分は片耳が聞こえない。だから状況はそっちで判断して教えてくれ。
録るところまでは、一人でできる。何をどう弾かせるかは、頭の中で鳴っている。だがトラックダウンしたとき、全体がステレオでどう聴こえるかを彼は判断できない。そこだけは、他人に委ねるほかなかったのだ。

九曲のカセット ―― 1976年10月の別のテープ

 その1976年10月には、もう一つ別のテープが回っていた。Disc 3(CD) の末尾に収められた、Brian のカセット・デモ九曲である。ピアノと歌だけ。10月の『Love You』及び棚卸し三日間と、年末の本セッション開始のあいだに、この録音が挟まっている。
なぜカセットだったのか?
セカンド・エンジニアの John Hanlon が理由を明かしている。Moffitt からこう指示されたという――マイクを二本立てて、この Nakamichi のカセット・レコーダーで全部録れ。Brian の邪魔をするな、録っていることを言うな。とにかく全部押さえろ。これはセッションじゃない、と。ある意味、意図的だった。Brian にまた創作させ、この素晴らしい仕事をさせようとしていたからだ。カセットが選ばれた理由も彼が明かす。Brian は八時間そこにいることもあった。スタジオのテープでは足りない。15 ips で回せば一巻三十二分、すぐに消費してしまう。あれは大げさにせず、ただ座って書くためのデモのはずだったと振り返る。

その九曲が、その後どうなったか。行き先で分けてみる。
デモの曲名行き先Mike の声
That Special Feeling未発表
It's Over NowAdult/Child
They're Marching Along1988年のソロ盤
Love Is A WomanLove You
MonaLove You
AirplaneLove You
Let's Put Our Hearts TogetherLove You
I'll Bet He's NiceLove You
Still I Dream Of ItAdult/Child
 五曲が『 Love You』 へ、二曲が 『Adult/Child』へ。一か月分の弾き語りから、二枚のアルバムの材料が同時に出てきている。ブックレットもそう書いていて、Brian の朝の作曲時間が、一枚ではなく二枚の新しいアルバムの種を生んだ、としている。
そして本人も、そう思っていたらしい。
1976年の暮れ、Fornatale との対話で Brian はこう語っている。ちょうど一か月ほど前、二枚のアルバムを録った。予定より二枚先行しているよと答える。聞き手が「待ってくれ、新作が二枚もか!」と聞き返すと、そうだ、とさらに答えている。
だがBrotherでのテープ処理記録は、そうなっていない。Brother で本番の録音が始まるのは、2インチ24トラックにテープが載ったときである。そして1976年11月の時点でそこに載っていたのは、『Love You 』の分だけだ。次のアルバムのセッションが始まるのは、翌1977年2月9日。
Brianが数えていたのは、普段のレコーダーではなく、おそらくこのカセット九曲だったのだろう。弾き語りが一本あれば、それはもう録れたことになる。頭の中でテープが回っていた男にとって、アルバム二枚はすでに存在していた。黒丸を付けたのは、クレジットに Comments: Mike Love と記された四曲である。弾き語る Brian の隣で、Mike が語りかけている。その Mike の言葉が、ブックレットにある。Brian が完全な曲の案を実際に出してきている、これは素晴らしい、と思った。ここ数年は必ずしもできなかったことだ。正しい方向への確かな一歩だった。聴いていて嬉しかったよ、と振り返る。
 確かに、その四曲のうち三曲は『Love You』へ進んだ。Mike が反応した曲が採用されたのか、それとも彼がいた日にたまたまその曲が弾かれたのか、それは分からない。そして残る二曲だが、どこへも行かなかったのは実は一曲だけである。「That Special Feeling」――これは今も未発表のままだ。
 もう一曲、「They're Marching Along」には続きがある。この曲は十二年ののち、題を「Little Children」と改めて、Brian Wilson のソロ・デビュー盤に収められた。1988年である。
(ちなみに筆者の記憶では、昔ソロ・デビュー盤リリース時、都内スポーツ用品店のCMソングとしてこの「Little Children」が使われていた記憶がある。どこかに公式の記録が残っている話ではないため筆者の勘違いかもしれない、もし同じCMを覚えている方がいたら、ぜひ情報を教えてほしい。) 
 1976年10月時点の Brian は、このセッションを『Brian Loves You』 として自分名義のアルバムで出すつもりだった。それは叶わなかった。だが同じ月の同じカセットから、一曲だけが十二年待って、本当のソロ・デビュー盤にたどり着いている。しかもこの曲は、Comments: Mike Love の四曲の一つだ。いとこが横で語りかけていた旋律が、最後はバンドを離れた場所で世に出た。

「Still I Dream Of It」は、Sinatraへの売り込み用だった

 九曲はすべて「Love You Brian Cassette Demos」という区分に収められている。だが、セッショノグラフィの媒体欄を見ると、最後の一曲だけが違う。
媒体日付engineer
前の八曲2トラック・カセット1976年10月Stephen Moffitt
Still I Dream Of It1/4インチ2トラック1976年10〜12月Earle Mankey
媒体が違う。担当者が違う。日付の書かれ方も違う。
三つの欄がすべて、他の八曲と食い違っている。カセットの八曲は「回しておいて放っておく」ための記録だった。ところがこの一曲だけは、業務用の1/4インチが用意され、Mankey が呼ばれている。思いつきを捉えたのではなく、録るつもりで録っている。
なぜか?
Herman との対話に、答えがある。
Frank Sinatra のために曲を書いた。二、三週間前に、Frank 個人のために書いたんだ。「Still I Dream Of It」という。今週それを彼に持っていく――Brian はそう語っている。受けてくれるとは思わないがね、彼は商業的な曲を探しているだろうから、と付け加えて。そしてもし Sinatra が断ったら Stevie Wonder と Elton John にも当たるかもしれない、彼らもやらないなら自分でやる、確実に、とも。
売り込み用のデモだったわけである。
 Frank Sinatra にカセットテープを渡すわけにはいかない。だから1/4インチが用意され、Mankey が呼ばれた。「Brian Cassette Demos」という括りにカセットでない一曲が紛れているのは、そもそもこの曲だけが外部へ正式に持ち出す前提で録られていたからだ。
そして Sinatra は断った。孤独と希望についての美しい曲だったが、彼は首を縦に振らなかった――ブックレットで Brian はそう振り返っている。Stevie Wonder も Elton John も歌わなかった。予告どおり、Brian は自分でやることになる。翌1977年2月9日、24トラックが回り始めた。なお、Sinatra へ持ち込んだことを気まぐれと読むのは当たらない。それがなぜかは、後の節で見る。
 Al Jardine はのちに、この曲と「It's Over Now」を 『Adult/Child』で好きな二曲に挙げ、あれは Frank Sinatra に扮した Brian だ、と笑っている。扮していたのではない。Sinatra のために書いた曲を、自分で歌うほかなくなっただけである。なお、この弾き語りは1995年、Brian のソロ盤『I Just Wasn't Made for These Times』にすでに収められている。九曲のうち、最も早く世に出た一曲だった。
 ちなみに、この曲のテープ箱の写真には 1-9-77 とあり、同じブックレットのセッショノグラフィが記す2月9日と一月ずれている。どちらが正しいかは分からないが、掲載された写真と掲載された資料が食い違っているのは確かだ。

1977年 ――『 Adult/Child』失速の記録

 ブックレットで Brian はこう語っている。『Adult/Child』 の編曲は Dick Reynolds に頼んだ。1964年に Christmas Album で我々と仕事をした男だ。そして同じ年に、彼は Sinatra 本人とも仕事をしている。Sinatra のような正統派な歌手のレコードと似た感触のものを作りたかった。だから Dick Reynolds を呼んだ。
そしてBrianはこう付け加える。グループの他のメンバーは、その案を気に入らなかった。レコード会社もリリースについて確信が持てなかった。レーベルはどちらかといえばメンバーの側についていた。こうして、アルバムはついに出なかった、と。
 題の由来については、Brian の回想録『I Am Brian Wilson』第二章が記している。Adult/Child ――人格には常に二つの部分がある、仕切りたがる大人と、世話されたがる子供と。そう言ったのは Eugene Landy である。前年末に去った、あの男だ。音楽史家 Keith Badman は、Brian がこの新しいアルバムに着手したのも、その元主治医の強い勧めによると伝えられている、と記している。
 『Adult/Child』のセッションで録られた曲のミックスは、すべて Earle Mankey 一人である。Carl の名前が一つもない。Moffitt の名前もない。例外は「New England Waltz」だけで、これは Western Recorders で Chuck Britz がその日のうちに仕上げている。もっとも、Disc 2(CD) には『Adult/Child』以外の曲も入っている。1974年から76年にかけて録られた「Holy Man」には、engineer として Mankey と並んで Moffitt の名があり、プロデュースは Dennis と Carl の連名だ。弟たちは同じスタジオを使った。ただし別のアルバムのために。 
『Love You』にダイナミクスを与えた男が、次のアルバムにはいない。それだけでも大きいのだが、日付を時系列に並べると、もっと具体的なものが見えてくる。まず1977年2月から3月。立ち上がりは早い。2月9日に「Still I Dream Of It」、2月25日に「Deep Purple」と「It's Over Now」が動き出す。そして3月11日、Brian は Brother を出て Western Recorders の Studio 1 に入り、大編成の曲を録る。ここまでは順調で精力的だ。
4月に創作のピークがやってくる。11日に「Everybody Wants To Live」と「It's Trying To Say」、翌12日に「Lines」。二日で三曲が立ち上がっている。そして13日には「It's Over Now」の最初のミックスも仕上がった。このアルバムが最も勢いを持っていたのは、この一週間だろう。
 そして5月、記載がない。新規録音がぱたりと止まる。セッショノグラフィのどこを探しても、5月の日付は出てこない。この空白の月に Brian が何をしていたかは、ブックレットに写真が載っている。添えられたキャプションはこうだ。
「Stan の身体調整プログラムの一環として、Brian はバスケットボール運動を推奨する。」
ここでは Stan が、Bellagio Road の家の裏で Brian にシュートの練習をさせている。


Stan Love ――元 NBA の選手で、この時期 Brian の身辺の世話と体調管理を任されていた。前年末に Landy が去ったあと、その役を引き継いだ形である。写真の Brian は、裏庭のリングに向かってボールを構えている。この身体づくりには前史がある。前年1976年の暮れ、Brian はラジオでこう語っていた。毎日ジムへ行って腹筋、腕立て、周回走、ラケットボール。一年で250ポンドから200ポンドまで落とした、次は190を目指すんだ。Landy の処方は投薬や面談だけではなく、ジムを含む生活の組み替えだった。
だが、テープが止まっていた月に彼がやらされていたのは、バスケットボールである。
ここで、ひとつ陰謀論を唱えさせてほしい。Stan Love は、Mike Love の弟である。Brian にとってはいとこにあたる。そして前年末、Landy を切ったのも Love 家の人間だった。そのいとこが、毎日 Brian を裏庭へ引っ張り出し、ボールを追わせている。曲は書かれない。アルバムは前に進まない。そしてアルバムが止まれば、バンドの主導権は空席になる。1977年5月、セッショノグラフィは真っ白だ。同じ5月の写真が、バスケットボールである。これを偶然と呼べというほうが無理だろう。
CarlやDennisは自作に取りかかり、Alは田舎に引きこもって薪割りに勤しんでいる
そしてこの空白でThe Beach Boysの主導権を手中に収めるのは誰だ?
そしてこの陰謀論、7月になるとさらに真実味を帯びてくる。それは後で見ることとしよう。

次月6月は、手直しだけが残る。3日に「Shortenin' Bread」が一曲。これが最後の新曲である。あとは19日から25日にかけて、既存曲のミックスと再ミックス。「Still I Dream Of It」も「Lines」も、この一週間で何度も触り直されている。以後、テープは回らない。
 ここで、『Love You』との違いがはっきりする。あちらの本編は「1976年12月または翌1月」と月単位で記され、それきりだった。一度で決まって、終わっている。ところがこちらは「4月13日ミックス、その後6月まで再ミックス」「6月19日ミックス、20〜25日再ミックス」と、やり直しの記録が細かく残る。三か月以上かけて、同じ曲のミックスを何度も触り直している。Carl が仕上げて終わっていた工程が、このアルバムでは終わらなかった。
シングル「Honkin' Down the Highway」の発売は1977年5月30日である。前年に全米5位を得たバンドが、まるで反応を得られなかった。この惨敗が 『Adult/Child』を葬った――というのが定説だ。バンドが Brian の新作に見切りをつけた、と。
だが、日付が合わない。
シングルが世に出たのは5月30日。売れないと分かるまでには、少なくとも数週間かかる。つまりバンドが結果を知ったのは、早くて6月中旬だろう。ところが Adult/Child で新しい曲が最後に立ち上がったのは、4月12日である。シングル発売の一か月半も前だ。そこから先、5月は録音の記載が一つもなく、6月3日に一曲、あとは手直しで右往左往している。
結果が出るより前に、このアルバム制作の失速が起きていたのだ。
白状すると、筆者もその定説を書いた。本作のCD盤について書いた前稿で、シングルの惨敗が Mike Love の判断を促し、それが Adult/Child を葬ったのだ、と。日付を並べるまでは、そう見えていたのである。

同じ編曲者、二つの部屋

『Adult/Child』の編成について、記録から一つ見えることがある。
Reynolds が編曲・指揮した五曲は、録音場所で二つに分かれる。
1977年3月11日に Western で録った二曲「Life Is For The Living」「New England Waltz」には、トランペット四本、トロンボーン四本、ホルン四本が並ぶ。金管十二本。このアルバムが「ビッグバンド作品」と呼ばれるのは、ここに由来する。
Brother で録った三曲「Deep Purple」「It's Over Now」「Still I Dream Of It」には、トランペットが一本もない。金管がないわけではない。「Deep Purple」「It's Over Now」には、トロンボーンが四本ずつ入っている。フレンチ・ホルンも二本ずつ。無いのはトランペットだけである。そして「Still I Dream Of It」に至っては、トロンボーンもない。フルート三本、オーボエ、フレンチ・ホルン三本、あとは弦とチェロとコントラバス。三曲のうち、これが最も静かな編成だ。
なぜトランペットだけが外されたのか?
ブックレットに説明はない。だが、いくつかの記述を並べると、一つの見方が浮かんでくる。Brother の録音室は、先に触れた通り、絨毯を貼り詰めたデッドな空間である。
Hanlon は 『Adult/Child』 の弦のセッションをこう振り返る。あれは壮大な、懐古調の旋律と編曲だった。ピアノのデモから始まったものが、管弦楽になった。とても小さな一室に、大勢の弦の奏者を連れ込んだのだと回想する。
そして Mankey に至っては、弦の演奏家が本スタジオに収まらず、脇のライヴ・ルームにいた日を覚えている。他の演奏者は全員本スタジオにギリギリまで詰め込まれていたと彼は言う。
 トランペットは金管のうち最も高音で、最も鋭く、最も遠くまで響く。絨毯を貼った小部屋に四本並べれば、録音で真っ先に手に負えなくなるのはこの楽器だろう。トロンボーンなら、まだ抑えが利く。断定はできない。だが Brian が、トランペットの要る二曲だけを Hollywood まで運び、残る三曲は自分のスタジオで録った。その線引きが、部屋の寸法と無関係だとは考えにくい。もっとも、その狭い部屋で何が起きていたかとなると、話は牧歌的になる。
Hanlon は、弦の列のあいだを Carl と Brian の子供たちが走り回り、弓と弦をつまもうとしていたことを忘れられないという。Brian や Carl に子供をスタジオから出せと言う人間はいなかったし、そんなことは起こりようがなかった。なかなか可笑しかったと振り返る。

1976年に懐古調な曲を録るということ

1977年である。punk が出て、disco が満ちていた。『Adult/Child』が世の中とずれていたという証言は、そのとおりだろう。だが、誰の耳を基準にずれていたのか?Brian が最初に聴いた曲は Rhapsody in Blue だった。十代を魅了したのは Four Freshmen。そして本人がこう証言している。rock and roll に入ったのは Carl のほうが先だった。弟が Chuck Berry と Little Richard を聴いていた頃、自分は Four Freshmen と jazz を聴いていた、と。四歳年下の弟に、この分野では先を越されていたわけである。その耳にとって、rock は後から来たものだった。だから 『15 Big Ones』でカヴァーを並べたことも、『Adult/Child』で Dick Reynolds を呼んだことも、二つの奇行ではなく、同じ一つのことである。本人の言葉がある。1950年に書かれようが1970年に書かれようが、良い曲は良い曲だ。1976年に書かれたものでないからという理由で素材を切り捨てるのは、間違いだと思うと語る。そしてクレジットには、繰り返し現れる楽器がある。tack upright piano。ハンマーに鋲を打った、硬く乾いた音。酒場とラグタイムの音であって、rock の音ではない。Minimoog と ARP で作られたアルバムの土台に、この楽器が据わっている。あの十五か月は、時代とずれていたのではない。Brian が自分の時代と向き合っていただけである。1976年秋、彼が Sinatra に曲を持ち込もうとしたのも、同じ流れの上にある。日和ったのでも、権威に擦り寄ったのでもない。Four Freshmen が原動力となり、弟に遅れて rock に入った男が、自分の出どころへ一度戻ろうとしただけである。

誰が「完成」と言ったか

では、なぜ失速したのか?当事者たちは、それぞれ違うことを言っている。
Eugene Landy。自分は Brian を一人の全き人間にすることに関心があった、にもかかわらず彼らは1977年に間に合うよう、もう一枚アルバムを仕上げることに関心があった――そう言い残している。バンドが急がせたのだ、という言い分である。
Mike Love。本作ブックレットの中で、Warner Brothers はこの企画にいささか当惑していたようだ、と語る。Brian は噛み合わない断片をばらばらに持ち込んできた。それを聴いた Warner が、これはThe Beach Boys にとって商業的な方向ではないと感じたのは、おそらく正しかった。あまりに雑多な思いつきが多すぎたのだ、と。
Jeff Peters。バンドのマスタリング・エンジニアだった彼は、『Adult/Child』に関わった最後の一人である。企画が没になったことは、それほど意外ではなかったという。Brian自身の素晴らしい瞬間はいくつもあるが、このレコードを統一するものが何もなかった。「Still I Dream Of It」「Life Is For The Living」「Deep Purple」のような大編成のものがあり、そこへそれほど強くないアウトテイク小品が混じる。とくにあの時期、これは世の中の動きとひどくずれていた。『Love You』もずれていた。だが 『Love You』は筋が通っていて、格好よかった――と。
Brian Wilson。先に引用した通りである。他のメンバーが案を気に入らず、レーベルも確信を持てなかった。アルバムは、ついに出なかった。
四人とも、嘘は言っていないだろう。だが四人とも、同じものを見ていない。
Landy は1976年12月に解任され、それ以後は外にいた。Mike Love は1977年の春から夏、ヨーロッパにいた。Jeff Peters が関わったのはマスタリングの段階で、素材が出揃ったあとである。そして Brian は片耳が聞こえず、全体がどう鳴っているかを自分で確かめられない。そして誰も、工程の全体を見てはいない。十五か月の記録がまとまるのは、五十年後のことである。本作のセッショノグラフィが編まれるまで、そんなものは存在しなかった。その記録が語るのは、四人の誰とも違うことだ。1977年4月12日を最後に、新しい曲が立ち上がらなくなった。5月は一行も記載がない。6月に一曲入り、あとは手直しの繰り返し。

だが、記録からはもう一つ、別のことも見えてくる。

三作を並べると、卓の顔ぶれはこう動く。Moffitt と Mankey、Mankey と Carl、そして Mankey 一人。名前を並べただけでは、ただの人事である。だがトラックダウンという工程が何をする場なのかを考えると、この三行は別の意味を帯びてくる。24トラックを2トラックへ落とす。それは技術作業であると同時に、「これで完成だ」と宣言する作業でもある。誰かが卓の前で、もういい、と言わなければアルバムは終わらない。
ここで思い出しておきたいことがある。このバンドは投票制だった。
Brian 自身が語っている。「You've Lost That Lovin' Feelin'」も録った、「Shake, Rattle And Roll」も録った、たぶん使わないだろうが。「Running Bear」も録った。いろいろな曲を録ったが、全部は使えない。円盤の上には限りがある。Dennis はオールディーズを入れることに強く反対していた。だから投票にかけて、それが通った――と。だがトラックダウンは、投票にかからない。卓の前に座った人間が決める。曲順は皆で決め、何を入れるかは票で決め、しかし「これで完成だ」だけは、そこにいる者が言うのである。
その役を、三作それぞれを誰が担ったか?
 クレジットは三作ともProduced by Brian Wilsonである。クレジット上は当然Brianだ。
『15 Big Ones』 では、Carl の回想が本作ブックレットにある。実のところ、Dennis と自分は Brian が本来のバンド活動に戻ることを望んでいた。オールディーズのアルバムを助走にして、そのあともう一枚作るという絵を描いていた。ところが新しい曲を録り始めたところで、Brian がこう言った、もう十分に録った、これ以上は録りたくない。アルバムは完成だ、と。
『Pet Sounds』以来はじめて Produced by Brian Wilson の単独クレジットが付いたアルバムである。Mike Love も当時、彼は週五日か六日、二か月続けてスタジオに来ていたと語っている。決定権はBrian本人にあった。だからミックス欄にエンジニアの名しかないのは、Carl 役が要らなかったからだ。
 『Love You』 は前例がなかった。シンセと掠れた声でできた、誰も聴いたことのないアルバムである。プロのエンジニアに「良い塩梅」を判断させようがない。Brian の意図が分かり、なおかつ音楽家として卓に座れる人間が要る。それが Carl だった。Boyd がレコードで見たことがないと言う Mixdown Producer という肩書きは、前例のないアルバムが要求した、前例のない役職だったのではないか。そして事実、『Love You』のミックス記録は一度で終わっている。誰かが完成と言ったのだ。
 『Adult/Child』には、その誰かがいなかった。Mankey 一人が三か月、同じ曲を触り直し続けている。技術的な問題ではあるまい。決定する役目の人間が、スタジオにいなかった。こうして並べると、Brother の十五か月に一つの構図が見えてくる。作曲しているのは Brian 一人である。だが彼は、録ったものを自分でトラックダウンできない。片耳が聞こえず、全体を確かめられない。そこを、周りが黙って引き受けていた。
 Moffitt は Hanlon に、知らせずに録っておけと命じた。Carl は卓に座り、平坦なトラックに呼吸を入れた。Mike は弾き語りの横で感嘆し、Hanlon は弦のあいだを走る子供を止めなかった。誰も遮らなかったのである。Brian 自身、自室から出た経緯をこう語っている。妻と、医師と、弟たちと、母と、何人かの友人。その全員が、部屋を出てスタジオへ戻れと自分を説得した。感謝している、それが人を幸せにしているからだ。
 Edelson もこう書いている。あれは復帰というより、むしろ「集まってくること」だったのかもしれない。グループが Brian の周りに寄り集まり、それぞれの持ち味を Brother 期の企画に持ち込んだのだ、と。むろん、優しさだけではない。本人に知らせずに回されたテープが、半世紀後にこうして商品になっている。それでも、『Love You』はその体制で完成した。そして 『Adult/Child』は完成しなかった。卓に誰も座らなかったからではなく、座るべきときに、トラックダウンすべき曲が増えなくなっていたからである。もっとも、これも一つの見方にすぎない。セッショノグラフィは録音した日を記すが、曲の書けなかった日は記さない。1977年5月の空白が何であったかを、あの資料は語らない。

そして Brian は、Brother を去る

 1977年6月25日を最後に、『Adult/Child』のテープは止まる。次に何かが動き出すのは7月である。その月、Mike Love がヨーロッパから帰国した。そしてバンド全員で Iowa へ行こう、と言い出す。Fairfield にある Maharishi International University――彼と Al Jardine が指導者資格を持つ、瞑想の学校である。夏休みで空になった宿舎の一棟にスタジオを組み、そこで次のアルバムを録る。7月から8月にかけて、実際に機材が運び込まれた。こうして生まれたのが
『 M.I.U. Album』 である。プロデュースは Al Jardine と Ron Altbach、Brian は名義上の役目に留まった。
さて、先ほどの陰謀論だが、ここで補強されてしまう。
Stan が Brian にボールを投げさせていた1977年5月、Mike Love はヨーロッパにいた。だが、それが何だというのか。指示など電話一本で足りる。むしろ現場から離れていたほうが、都合がよいくらいだ。そして帰国した7月、彼はバンドごと Iowa へ連れて行った。Brian の仕事場から、千五百マイル余り離れた土地へ。筋書きとしては、実に美しい。日付も揃っている。この手の話が好きな向きには、たまらない材料だろう。
だが、筆者は採らない。
1976年10月のカセットに、その理由がある。ピアノを弾く Brian の隣で、Mike が口を挟んでいる四曲。あれは商売の声ではない。旋律に聴き入って、思わず声が出てしまった男の声である。筆者は前回、そのことを書いた。書いた以上、半年後の彼を陰謀の主にはできない。
1961年から一緒にやってきた男である。いとこであり、幼馴染であり、あの声で「Fun, Fun, Fun」から「Good Vibrations」まで歌ってきた男だ。Brian の才能を誰より近くで見て、誰より長く付き合った。Brian 自身、あの声を最初に見出したのは自分だと語っている。Mike Love の家でクリスマス・キャロルを歌い、彼の低音に気づいて、Four Freshmen のパートを教え込んだのだ、と。あのバンドの土台は、Brian が Mike の喉に見た可能性から始まっている。
その男が、実の弟のスポ根バスケ野郎をいとこの家に送り込み、毎日ボールを追わせてヘロヘロにさせ、スタジオへ行く体力を奪ってアルバム制作から手を引かせた――そう読むのは、素人が書いた安っぽい推理小説のプロットである。動機は薄く、手口は迂遠で、証拠は状況証拠ばかり。第一、絵面が間抜けだ。Landy を切ったのも Love 家なら、そのあと Brian の面倒を見たのも Love 家である。囲い込んだのではなく、引き受けたのだ。そう読むほうが、はるかに事実に近い。順序はもっと単純で、もっと苦い。1977年4月半ばに Brian の筆が止まり、アルバムが細り、6月末にテープが止まった。空いた場所を、7月に帰ってきた男が埋めた。それだけのことである。そしてこうも言える。空席ができたとき、そこに座れる人間はバンドに一人しかいなかった。
 1976年の暮れ、Brian はラジオで弟たちの動向を語っている。Dennis がソロ盤を作っている、あいつがちょっとしたいい流れを作りかけている、Carl も同じことを考えているらしい、おそらく次は Carl だろう――と。弟二人は、その時点ですでに外を向いていたわけである。翌1977年、Brian の筆が止まったとき、Dennis は Pacific Ocean Blue の仕上げにかかっていた。本作ブックレットによれば、その企画はもともと Freckles という仮題で、Holland の続編になるはずだったセッションから派生したものだという。Carl もまた、のちに世に出る曲のプロトタイプを同じ部屋で録っていた。『Love You』 のように Carl が卓に着いてやれなかったのも、無理からぬことだった。Mike Love が主導権を握ったのではなく、握る者が他にいなかったのである。誰かが奪ったのなら、まだ話は分かりやすい。だが実際に起きたのは、そういうことではなかった。このボックスセットの扱う時代は、1977年6月で終わることになる。
 念のため言っておくと、Brother Studio が終わったわけではない。終わったのは、Brian の活動だ。その十五か月が、そのまま三枚のLPの中身である。本作ブックレットの解説者 Howie Edelson は、こう書いている。1976年初頭から1977年6月にかけて Brian Wilson が主導した曲と制作の量は、驚くべきものだ。当時のThe Beach Boys の直近の仕事どころか、米英の有名どころ全体から見ても異質だったかもしれないが、それは衝撃的なほど純粋だった、と。
本作の題は、We Gotta Groove: The Brother Studio Years という。だがLPに刻まれているのは、スタジオの年月ではない。Brian Wilson が活動した、その十五か月である。


Ⅲ レコード

ようやく盤である。
『Love You』のジャケットを取り出して、思わぬ因縁に行き当たった。このジャケットについて、Al Jardine はブックレットの中で恨みを述べている。アートワークは本当にひどかった。段ボールの質だ。音楽とは何の関係もない。だがレーベルが気にかけていないように見えた。粗い段ボール。どこか安っぽく見えて、これは絶対にうまくいかないと思ったと回想する。

ジャケットの質感の違い:下がオリジナル 上が本作

 そして2026年の本作に収められた『Love You』のジャケットに、あの粗い質感は再現されていない。手にしてみると、つるりとした紙である。上質紙を使ってはいるのだろうが、いずれにせよオリジナルのざらつきはない。49年越しに、Al の不満だけが叶えられた。しかも当の Al は、いまもそのアルバムをどこかで演奏している。
ちなみに、ジャケットのデザインは Dean Torrence ――Jan & Dean の Dean である。そして彼は、同じセッションで歌ってもいる。CD側に収められた「Hey There Mama」のバッキング・ヴォーカルに、彼の名がある。
 ただ、惜しまれることが一つある。内袋が再現されていない。オリジナルの内袋には、当時の妻 Marilyn と写った写真があしらわれていた。権利の都合なのかどうかは分からないが、あれも1977年の『Love You』の一部である。盤そのものは、重量がオリジナルと変わらない。近年の再発にありがちな180グラム仕様ではない。





さて、曲の選別の話である。LPとCDを分けたのは、容量ではなく時間だったのかもしれない。十五か月の内側がLPへ、外側がCDへ。実際、LPから外れた34曲を並べると、そう読める。1965年の「Sherry She Needs Me」も、1970年の Carl のガイド・ヴォーカルによる「Holy Man」も、「Carl's Song #1」と「Angel Come Home」の原型である「#2」も、Dennis の「String Bass Song」と「10,000 Years Ago」も、Marilyn が歌う「Honeycomb」も、みなLPの外側にある。箱に題名を与えた「We Gotta Groove」も、1976年11月16日に作られて落とされた四曲も、アルバムの外にあるという点では同じだ。つまりアナログ盤の上では、Brian 以外の Beach Boys がほぼ全員、姿を消している。筋は通っている。だがその線を引いた結果、Holland 以後 15 Big Ones 以前という、バンドが録音していないことになっている二年半に弟たちが残した仕事は、盤の上から丸ごと欠落した。

ここで、LPの並び順に目が行く。
LP1が『Love You』、LP2が『Adult/Child』、LP3が『15 Big Ones』。時系列で並べるなら、完全に真逆だ。1976年春の『15 Big Ones』から始まり、夏の『Love You』、翌77年の『Adult/Child』へと至るのが本来の順番である。なぜこの順なのか。商売上の理由は一目瞭然だ。本作は『Love You』のリマスター盤として売られている。だが曲目表の見出しを読むと、もう一つのことが分かる。LP3は「15 BIG ONES Outtakes and Alternate Mixes」。『15 Big Ones』というアルバムそのものは、本作に入っていない。三枚は、三枚のアルバムではないのだ。世に出たアルバムが一枚、出なかったアルバムが一枚、そして残り物が一枚。そして残り物に回された『15 Big Ones』こそ、十五か月の始まりである。編集の判断としては筋が通っている。あれは Pet Sounds 以来はじめて Produced by Brian Wilson の単独クレジットが付いたアルバムだが、八曲がカヴァー、七曲がオリジナル。世に出て、しかも売れた一枚である。わざわざ再現するまでもない、という判断だろう。
だが、この並びは別のことも語っている。1976年、バンド側が、新しいLPのための宣伝キャンペーンを組み立てた。The Beach Boys のキャリアで初めてのことだったという。掲げられたスローガンが「Brian's Back」である。7月5日発売の『15 Big Ones』と、同月から始まったツアーの宣伝だった。8月5日にはNBCで特番が放送され、これが号砲になる。広報会社 Rogers & Cowan を起用し、People 誌の表紙も取った。1966年の Pet Sounds でポップ音楽の頂点に立ち、翌年 SMiLE で崩れ、以後十年ほど表に出なかった男の帰還――そう売られたのである。断っておくと、このスローガンが掛けられたのは『15 Big Ones』までだ。翌年の『Love You』にも、その先の『Adult/Child』にも、同じ売り方はされていない。帰還が宣伝されたのは、十五か月のうち最初の数か月だけである。

そして当事者の評価は、割れている。
Mike Love は、半分肯定している。「Brian's Back」の部分は妥当だと思った、彼は実際にスタジオに戻っていて、我々と一緒にトラックを作り、自分も何曲かで直接一緒に仕事をした、だからその部分は筋が通っていると思ったと振り返る。
 否定したのは、その先である。精神の病を公に持ち出したことのほうが問題だった、人の最も深い、最も暗い秘密に踏み込むのは本人にとっても世間にとっても良いことではない、それが宣伝の一部になって音楽とはあまり関係がなくなってしまった、と。もっとも別の箇所では、こうも言っている。あれは宣伝であって、Brian が「戻って」いたかどうかについては意見が分かれる。スタジオでの権威の頂点に戻ることを期待するのは、求めすぎだった。あの時期のバンドは、もっと共同作業的であるべきだったと語る。
Al Jardine は、はっきり否定する。あのスローガンは単純に時期尚早だった、Brian はほとんどそこまで来ていたが完全ではなかった、彼はまだ立ち直る途中だったんだと言い、こう続ける。彼はある意味ではそこにいたが、別の意味ではいなかった。「Brian's Back」というメディア・キャンペーンは素晴らしい着想だったが、Brian は明らかに戻っていなかった。そこが問題だったのだ、と。そして、実質は Carl のプロダクションで、Carl の Brian への献身の結果だ、Carl が全部を縫い合わせたのだ、とも。
判断の材料は、Disc 1(CD) に入っている。
17曲目「Sherry She Needs Me」。1965年、Western Recorders。Al De Lory、Leon Russell、Carol Kaye、Earl Palmer、Howard Roberts、Billy Strange――十四人が並び、その全員に指示を出しているのが二十二歳の Brian である。8曲目「Solar System」。1976年10月、Brother Studio。演奏者の欄に、Brian 以外の名前が一つもない。11年。そして1965年のそのテープを棚から出してきたのは、11年後の彼自身だった。
戻ってきたのは、書く力である。1976年10月の一か月で十一曲。あの密度は疑いようがない。Brian 自身、『Love You』についてこう言っている。『Pet Sounds』のときと同じようにスタジオを使えた、『Pet Sounds』が二十代の自分の感じ方についての作品だったのと同じように、三十代の自分の感じ方についての曲を書いた、『Pet Sounds』以来はじめて満足できたアルバムだったと語る。
 戻らなかったのは、その先だ。十四人のミュージシャンを動かす力と、これで完成だ、と言う力。前者は自分で全部弾くことで埋め、後者は弟を呼ぶことで埋めた。翌1977年、その両方が使えなくなる。Brian は戻っていた。だが、戻ったのは半分だった。そして本作は、その半分が始まった季節の記録だといってもいい。
音の素性も記しておく。プレスは GZ Media、マスタリングは Burbank の Robert Vosgien、ミックスは The Audio Labs の James Sáez。テープの読み出しと修復は Mark Linett と Bill Smith。ラッカー・カッティングの担当者名は、公式クレジットのどこにも記されていない。そして手元の個体のデッドワックスには、309164 に E1 から E6 までを振った刻印が並ぶだけである。手書きの刻印は一つもない。クレジットにも盤にも、切った人間の痕跡は残っていないことになる。
 オリジナル盤と並べて聴くと、まずヴォーカルが違う。抜けと伸びが違うのだ。1977年のオリジナルは、倍音をいじったような、やや細い印象がある。ところがこの再発では、声が太く、前へぐっと出てくる。本来の録音は、こちらだったのだろう。そしてもう一つ、はっきり聴き取れることがある。エフェクトのかかったバックの楽器の音に、ハーモニーが確実に溶け込んでいる。
Ⅱ章で見た通り、このスタジオではエフェクトをかけた状態で音がテープに入っていた。ハーモナイザーを通したピアノ、フェイザーのかかったギター。声はその上に重ねられたのではなく、同じ質感の中に置かれている。Moffitt の流儀――素の音を録っておいて後で作る――なら、こうはならなかっただろう。記録から読み取った二人の流儀の違いが、盤の上で確かめられたことになる。次に、LP1のA面5曲目「Good Time」、7曲目「Ding Dang」、B面5曲目「I Wanna Pick You Up」。この三曲は、前後と質感が違う。だがそれは Moffitt の卓によるものとは限らない。素材の成り立ちが違うのだ。「Good Time」は1970年、2インチ16トラック。Bruce Johnston のクラヴィネットに Daryl Dragon のベース、トランペット三本にトロンボーン二本、ホルンが二本。「Ding Dang」は1974年、Carl と Billy Hinsche と Ed Carter と Ricky Fataar。「I Wanna Pick You Up」は Dennis のドラムと Carl のギター。三曲とも、人が弾いている。Brian が一人で層を積んだ曲ではない。
この差は、ヒスノイズに出る。本作のアナログ盤に針を落としても分かる通り、『Love You』の本編は、テープのノイズを隠していない。その理由を「30 IPS NON DOLBY だから」で片づけるのは、半分しか当たっていない。テープ速度が上がれば、S/N はむしろ良くなる。Dolby A を使わなければ、残った雑音はそのまま聴こえる。だが本当の発生源は、別にある。2インチを24本で割れば、トラックは一本あたり0.08インチほどしかない。細い帯ほど雑音は多く、しかも24本を2本にまとめれば、24本ぶんの雑音も一緒に足される。1965年の「Sherry She Needs Me」と比べれば分かる。あちらは二分の一インチを3トラック。帯は倍の幅があり、足す本数は八分の一だった。そして『Love You』は、一人の男が一トラックずつ音を重ねることできている。重ねた回数だけ、雑音も重なった。つまりあのヒスノイズは、単なる録音の粗さではない。Brian Wilsonがスタジオで孤独に音を重ね続けた、制作プロセスそのものが残した「生の足跡(副産物)」なのだ。この3LPは「アナログ・チェーンの成果」としては売られていない。テープからラッカーまでの経路が公開されていない以上、そこを評価軸にはできない。この盤の値打ちは別のところにある。それは二枚目までにある。ついに世に出なかったアルバムと、出したものの誰も売る気のなかったアルバムが、同じ体裁で並んでいることだ。Mike Love によれば、『Love You』は Warner との契約末期の作品で、バンドはすでにCBSと契約していた。レーベルに宣伝する気はまったくなく、プレスはおそらく5万枚程度だったという。届かなかったのではなく、届ける気がなかったのである。半世紀後、その二枚が、同じ厚みの紙に包まれて、同じ箱に収まっている。1977年に果たされなかったことが、そこでだけ果たされている。
最後にもう一人、Al Jardine について触れておく。
彼は『Love You』の現場にほとんどいなかった。L.A.の狂騒やツアーから距離を置き、ビッグサーの山にこもって薪を割っていたからだ。乗り気ではなかったが、結局スタジオへ呼び戻され、歌入れの段階になってようやく曲を覚えたという。彼が残したのは数曲のリードとバックコーラス。「あれは Brian のアルバムで、自分たちのものじゃない。作ったのは Brian と Dennis と Carl の三人だ」――Al はそう振り返る。だが1976年11月16日、Brother Studio では、彼の歌声が静かに試されていた。「Love Is A Woman」のリードヴォーカルはボツになったが、「Honkin' Down The Highway」では Billy Hinsche 版が退けられ、Al の歌が採用された。そして、その残った一曲こそが、このアルバム唯一のシングルカットとなる。「あの盤で唯一、ヒットになり得る曲を歌ったのは自分だ」と後年彼が語る通りの結果になった。

 その、いなかった男が、2026年の夏、このアルバムを演奏している。
2026年7月16日に全米ツアーを始めた Al Jardine と The Pet Sounds Band は、Pet Sounds の60周年とともに、『Love You』の曲をステージで演奏している。その一週間後の7月22日、Mike Love の Instagram に告知が出た。7月23日から9月3日までの約30公演を中止または延期し、9月下旬に戻る――「充電のための短い休止」だという。彼は85歳。今年 Bruce Johnston がツアー活動から引退したいま、初期からの現役はこの一人になった。5月末には一度体調を崩して公演をキャンセルし、6月14日に復帰していたものの、長年の協力者 Dean Torrence は Rolling Stone に、Mike が健康上の問題を抱えていると語っている。振替が決まったのは29公演のうち七本ほどで、「充電」後のMikeが戻るかどうかは分からない。
9月24日、Massachusetts で再開の予定だという。そこでは、本作からどの曲が選ばれるのだろうか?――「どうせ1曲も選ばれない」という我々の冷めた高括りをあざ笑うように1曲でもセットリストに滑り込むなら、半世紀前にMikeがあの作品群へ込めた密やかな敬愛は、本物だったということになる。


(text by
Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

■ 執筆・出典注記

本稿で扱った証言は、主に以下の3つの一次資料・原典に基づいている。

  1. 本作ボックスセットの付属ブックレットに収められた新規インタビュー

  2. 当時の歴史的メディア証言

    • Dave Herman による『DIR: King Biscuit Flower Hour』(1977年)

    • Pete Fornatale による『WNEW』(1976年)および『Crawdaddy Rock Review』(1977年)

  3. 上記のラジオ放送等のオリジナルアーカイブ音源(現在YouTube等で聴取可能)

なお、セッショノグラフィの再構成・日付の精査集計、およびそこから導き出された一連の考察と論解は、すべて筆者独自の分析に基づくものである。

2026年6月2日火曜日

回り出す絵、回り続ける音― Pet Sounds 60周年、 Zoetrope を選んだわけ

  2026年5月11日、Hollywood の名物、円塔状の Capitol Tower の頂きに、"Pet Sounds" と染め抜かれた一旒の旗が、五月の空に颯爽と翻っていた。塔の下では、ジャケットの緑と黄を敬意をこめてあしらった記念ケーキがシャンパンとともにふるまわれ、Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston が、新たに認定されたダブル・プラチナのプラークを UMe 会長 Bruce Resnikoff から受け取った。三人の Wilson 兄弟――Brian、Carl、Dennis――はもうそこにいない。代わりに、それぞれの遺族が祝杯をあげていた。兄弟は逝き、しかしその音はなお生きている。60年という歳月が、それを静かに証している。

 
Capitolリリースによるリール動画
今回のセレモニーの一部が見られる
Pet Sounds ケーキやクッキーも紹介されている

   

Carnie WilsonのFacebookリール動画
今回のセレモニーにも供されたPet Soundsクッキーの紹介
Los AngelesのSweet E's Bake Shop製とのこと

  1966年5月16日にリリースされた本作は、当時米国では冷ややかに迎えられ、Billboard のアルバム・チャートで最高10位にとどまった。RIAA のゴールド認定にいたっては、なんと2000年まで待たされている。要するに、世間がこれを傑作と気づくのに34年かかったということだ。

 もっとも、その34年のあいだに気づいた人々はいた。Paul McCartney は「Pet Sounds を聴いてないやつなんているのかい? そりゃ音楽の素養が抜けてるってことだよ」とまで言い、George Martin は「Pet Sounds なくして Sgt. Pepper は生まれなかった」と認めている。The Beatles の頭脳が二人がかりで脱帽しているのに、世間はヒットチャート10位程度の記憶で止まっていた、というわけだ。その60周年を、Capitol/UMe は複数のヴァイナル・エディションで迎えた。

まず、音にうるさい御仁が真っ先に手を伸ばすであろう本命が二種。

 Vinylphyle Edition(2LP)は、LP1 に1966年のモノ、LP2 に Brian Wilson 監修・Mark Linett による1996年ステレオ・ミックスを収める。Sterling Sound の Joe Nino-Hernes がアナログ・テープからカットし、RTI が180g 盤にプレス。初回3,000枚、厚紙にプリント紙を貼り合わせた、当時の LP のような重厚な見開きジャケット。これに4面の冊子と Howie Edelson の新規ライナーが付く。
 この Vinylphyle がモノと1996年ステレオを一枚ずつ収めているのも、いかにもこの企画らしい配慮である。同じアルバムでありながら、1966年のモノと、Brian Wilson 監修のもと Mark Linett が1996年に手がけたステレオとでは、音像の置きどころも、声の溶け合い方も微妙に異なる。とりわけ God Only Knows の終結部のように、幾重にも重ねられたコーラスが渦を巻く箇所では、その差はちょっとした聴きどころになる。どちらが正解ということではない。一枚の傑作が二つの姿で並んでいる――そう思って聴き比べるのが、この二枚組の楽しみ方だろう。
 一方、その上をさらに行こうとするのが Definitive Sound Series(1LP、6,000枚個別ナンバリング)である。メッキ工程を省く One Step 方式を用い、Bernie Grundman Mastering の Chris Bellman がカット、Neotech VR900 D2 の180g 盤にプレスし、一枚ごとに製造工程を記した認証書まで付く。だが、この盤の白眉は音源にまつわる物語のほうだ。Pet Sounds には世界に四百近いプレス違いが存在し、どれが最良の音かはコレクターの間で長らく語り草だった。
 なかでも別格とされてきたのが、1970年代初頭に Brother Records から出た一枚――新作の Carl and the Passions『So Tough』との2枚組として、1972年に世に出たプレスである。当時 The Beach Boys は Capitol との和解で、1965年以降の旧譜の版権を10年間取り戻していた。Pet Sounds をはじめとする Capitol 時代の名盤を、Brother/Reprise が改めて市場に出せる立場になったのである。その第一弾の再発が、なぜか新作 So Tough との抱き合わせだった。続けて1974年には Friends と Smiley Smile、Wild Honey と 20/20 と、Capitol 旧譜を二枚一組で立て続けに再発していく。Pet Sounds はその一連の Capitol 旧譜再発の最初の弾として、たまたまあの透明な音質で世に出たのだった。

 Mike Love は後年、この抱き合わせを「バンドの新生戦略を台無しにする思いつきだった」と苦々しく振り返っている。もっとも、その新生戦略そのものも、わずか二年後に皮肉な形でひっくり返される。1974年、Capitol が古いヒット曲を集めて出した編集盤 Endless Summer が、なんと全米一位、155週チャート滞在、三百万枚突破の大爆発。Brother/Reprise で革新的な新作を作るより、Capitol の再発ベスト盤の方がはるかに儲かる、という皮肉な現実が突きつけられた。あれほど抱き合わせを罵った当の Capitol 作品群が、いまやバンドの皮肉な救世主に化けたのである。売れる、と分かった途端、罵詈雑言は感謝の辞に化ける――業界とはそういう場所だ。

 制作チームは資料を漁るうち、「Reprise Master」と記された一本のアナログ・テープを掘り当てた。Brother Records 作品を配給していたのが Reprise だった、その符牒であるという。Chris Bellman が照合すると、収録時間もカタログ番号もぴたりと一致した。DSS チームによれば、半世紀ものあいだ、ほとんど誰の耳にも触れぬまま眠っていた、あの伝説のプレスの大元のテープだという。それを起こした、コレクター垂涎の一枚である。

 制作の舞台裏に興味が向く向きには、Pet Sounds Sessions Highlights(2CD / 2LP、黒盤と white/green splatter の二種)。1997年の4枚組ボックス『The Pet Sounds Sessions』から、25曲のオルタネイト・テイク、ア・カペラ、トラッキング・セッションを抜き、そのすべてをヴァイナル初収録した。Howie Edelson による新規ライナーと詳細なセッショノグラフィが付く。

 そして Zoetrope vinyl(1LP)。ターンテーブルの上で回転させると、盤面の絵が「動いて見える」picture disc である。ジャケットにも一工夫あって、あの子ヤギたちの部分だけ、印刷の質感がほかと違っている。収録はモノ・ミックス。先の本命二種とは別系統の音源と思しく、音質を競う盤ではないが、Brian が選んだ「モノ」という姿勢そのものは保たれている。

 真空管プリアンプを灯し、往時のオンボロ大衆機プレーヤーをだましだまし動かしては、古い盤の音を楽しんできたのが筆者である。読者の多くは、そんな筆者が買うのは Vinylphyle か DSS のいずれかだろう、と予想されていたに違いない。お察しの通り、と言いたいところだが、今回ばかりは予想を裏切ることになる。筆者が取り寄せたのは、よりによって picture disc――盤を回せば絵が動き出すという、あの色物の Zoetrope vinyl だったのである。もっとも、収められているのはモノ・ミックス。色物の見た目に反して、Brian がこのアルバムに与えた「モノで聴かせる」という根本の姿勢だけは、ちゃんと押さえてある。
 だが、ここで一度立ち止まる。そもそも Pet Sounds は、整った modern jazz を静謐なオーディオ・ルームで味わうように、180g 重量盤を高級カートリッジで丁重にトレースして聴くべきレコードなのだろうか。否、である。これは1966年の米国の十代が、安物のポータブル・プレーヤーにセラミック・カートリッジを載せ、針圧などお構いなしにガンガン鳴らして聴いた音楽だ。ハイ出力のセラミック型が中域を前へ押し出す、あの少々歪んで、しかし生々しい音――そこでこそ、このアルバムに封じ込められた若者の屈折した情念の塊が、むき出しのまま絞り出されてくる。それが本筋の聴き方だった。高音質を謳う精緻なリマスター盤は、その情念をいったん澄んだガラスの向こうに整理し直してしまう。美しいが、Pet Sounds が本来鳴っていた場所からは、ほんの少しだけ遠い。
 だからこそ、なのである。Zoetrope vinyl は、音質の純度を競う土俵から最初に降りている。針が落ちた瞬間に絵が回り、音と視覚が回転の上で一致する――その玩具じみた仕掛けは、高級機の前に正座して拝聴するのではなく、十代がレコードを一個の物として面白がり、夢中で回した、あの聴き方の記憶に近い。今回ばかりは、音の純度ではなく、回り続ける物体としての体験を、そして情念がまだ整理される前の生々しさを、選んだのである。
盤は、まもなく届いた。


 Zoetrope 盤のジャケットは、あの子ヤギたちの部分だけ、ほかと違う質感に仕上げてある。撫でてみると、ヤギの背中だけが指の腹にざらりと立ち上がってくる、その手の凝りようだ。

Carl Brianあたりのヤギたちの質感が少し違う

 内袋から円盤を抜き、明かりにかざしてみる。盤面には、はっきりと幾つもの像が刻みつけられている。「Sloop John B」のプロモーション映像のグループの姿、「Good Vibrations」の有名な映像で見た作業中の Brian、レコーディング中の Dennis、同じく Mike――The Beach Boys 史の名場面が、円盤の一枚にぐるりと並んでいるのである。盤を裏返せば、こちらは一転して文字の意匠で、Pet Sounds の四文字が一面びっしりと敷き詰められている。儀式めいた手つきで、筆者は表を上にして、それをターンテーブルに載せた。



 33回転。盤は回り始める。途端、緑をベースに、名場面の色という色がそれぞれに混じり合って、目の前で渦を巻きはじめた――これはこれで一個の抽象画として美しいのだが、肝心の絵は像を結ばない。当然だった。zoetrope の像は素眼では決して立ち上がらない。少しずつ異なる絵が次々と目の前を過ぎ、残像が互いに重なって、色の渦に溶けてしまうからだ。本物の zoetrope は、回転する筒の壁に細いスリットを切ってあって、覗き穴がそのスリットを通る一瞬だけ絵を見せ、あいだは闇に隠す。そうやって連続を細切れに分けることで初めて、絵は動き出す。盤面に絵を刻んだこの picture disc も理屈は同じで、回転に同期した「途切れ」がなければ、絵は像を結ばない。古典的な解は暗室でストロボを焚くこと。だが、もっと手軽な解が現代にはある。筆者は微笑しながらスマホを取り出した。真空管プリの灯を背に、スマホを動画撮影モードに切り替え、画面越しに盤面を覗き込む。スマホの画面は、毎秒およそ30フレームの早さで更新されていく。一枚一枚のフレームが、回転する盤の異なる瞬間を切り取り、画面上で連続再生される――それはまさに、回転筒のスリットを覗き込むのと同じ仕掛けである。シャッターが回転を細かく刻んだ瞬間、画面の中で、静止していたはずの像がぬるりと動き出した。セラミック・カートリッジで若者の情念を絞り出してきたはずの男が、磨き上げた機材ではなく、手のひらの板きれ越しに、レコードの上で踊る絵を覗き込んでいる。
これはこれで、悪くない儀式だった。

 

  回転する盤の上で、当時の声がよみがえる。この60周年に合わせ、いまも歌い続けるメンバーたちが当時を語った記事がいくつも出ている。なかでも米 Variety 誌や AP 通信(いずれも2026年5月)は、記念式典の前後に Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston へ取材し、Pet Sounds をめぐる証言を引き出していた。取材中、Al Jardine は Hollywood のランドマークの上階の窓の外をカモメが舞っているのに目をとめ、太平洋までがこのアルバムを祝福しているようだ、と笑ったという。そして Al Jardine は、「Sloop John B」誕生のくだりをこう語っている。バンドを始めた頃から、自分はフォークソングをやりたかった――と。もっとも、その願いはなかなか叶わなかった。そもそも The Beach Boys がサーフィンの歌で売り出したのは、サーファーだった Dennis Wilson のひと声がきっかけだったという。自分たちはサーフィンをやっているのだから、その歌を作ればいい、と。それがそのままバンドの看板となり、フォークの出番はずっと後回しにされてきた。それでも Al は諦めず、もとは "The Wreck of the John B" と呼ばれていたこの曲を Brian に持ちかけ、「コードをひとつ足そう、ハーモニーを広げられる、このフォークソングを The Beach Boys の曲にできる」と説いた、と。そして、1958年にこの曲を吹き込んだ Kingston Trio を自レーベルに抱えていた Capitol Records に感謝する、とも言い添えた。それがこの好機を与えてくれたのだ、と。
 Al が言う「コードをひとつ足す」とは、控えめな言い方である。その実、半世紀以上にわたって語り継がれてきた逸話は、もう少し具体的だ。フォーク好きの Al が、ピアノに向かう Brian に Kingston Trio 版を弾いてみせたところ、Brian は「Kingston Trio は得意じゃない」とにべもなかった。それでも諦めず、Al は原曲のままでは「通用しない」と見た。三つの和音だけで素朴に進むフォークの、サブドミナント(IV)からトニック(I)へ明るく戻る、その素直な解決の途中に、Al は二度の短和音(ii)をひとつ滑り込ませた。長調の中に、半瞬だけ短調が翳る。IV → I という単純な往復を、IV → ii → I という三角形の寄り道へと変えたのだ。たったそれだけの工夫で、平板だった折り返しに「ふっ」とした陰影が生まれ、ヴォーカルがコーラスを広げる余地ができた。あの「I wanna go home...」を支える独特の哀切は、この一つの ii から始まっている――そう The Beach Boys 流に組み替えてみせ、翌日には Brian がスタジオへ呼んでいた、というのが Al 自身の証言であり、ライナーノーツにも刻まれた定説である。素朴な海の歌が、わずか一日で、あの緻密なポップ・コーラスの傑作に化けたのである。
 その Brian の凄みは、Mike Love の有名な皮肉に裏返って残されている。完成途中の音を聴かされた Mike が、こんなものは誰の耳に届くんだ、と Brian に向かって言ったというのである――「犬の耳にでも届くのか?(The ears of a dog?)」と。バンド内随一の売れ線派だった Mike にとって、Brian が踏み出したこの内省的で実験的な領域は、売れる The Beach Boys の方程式から外れた危なっかしい寄り道に見えていた。だからこその「犬の耳か?」だったわけだが、揚げ足取りのつもりだったろうこの一言を、Brian はかえって気に入ってしまう。録音の幕切れには、Brian の愛犬 Bananaと Louieの吠える声が、過ぎゆく汽笛とともに忍ばせてある。アルバム名は Pet Sounds――ペットの音、と決まった。もっとも、誰がこの題を発案したかは諸説あって、Brian は「Mike のあの皮肉が着想源だった」と語り、当の Mike は「犬が吠えていたから自分が『Pet Sounds と呼ぼう』と言ったのだ」と譲らない。どちらが正しいかは、もう確かめようがない。確かなのは、犬の声と一枚の名盤が、互いに名を貸し合っていたという事実だけである。以来 Mike は Brian を「Dog Ears」――犬の耳――と呼ぶようになった。他の人間には聴き取れぬものまで録音から拾い、ついでにメンバーの不純な思考まで聴き分けてしまう、というわけだ。ついでに Mike は、当時のスタジオでの Brian を「Stalin of the Studio(スタジオのスターリン)」とも呼んでいたと、後年笑いながら振り返っている。完璧主義の独裁者、ということなのだろう。商売の物差しで毒づいた男と、その物差しに収まらぬ耳をもった男――皮肉が逆向きに刺さってアルバムの題になったのだから、世の中、わからないものである。
アルバムの商業的失敗は、Brian に深い影を落とした。Mike Love は振り返る――あれほど多くを注ぎ込み、あれほど力を尽くしたのだから、Capitol Records のあの冷淡な扱いに、彼が打ちのめされなかったはずがない、と。

 Bruce Johnston の加入経緯は、本人の口にかかるとあっけないほど身も蓋もない。「僕は Columbia Records の A&R マンだった。Mike が電話してきたのは、業界の人間を一通り知っていたからだ」。レコード会社の内側で新人を発掘し、プロデュース・アレンジ・契約を取りまとめてきた男――その業界知識ごとバンドに呼ばれた、というわけだ。1965年加入の彼は、Pet Sounds 録音のほんの少し前に合流したばかりで、60年後のいまもなお「新参者」と冗談半分にからかわれる。六十年経って「新参者」――こうなるともう、終身名誉新参者と呼んでさしあげるべきだろう。とはいえその「新参者」は、全13曲からなる Pet Sounds のうち、6曲ほどでバッキング・ヴォーカルに加わっていたとされる。ゴールド認定が2000年まで遅れた理由を問われると、Bruce は元 A&R マンの顔に戻った。Capitol がつけたと言っていた宣伝予算は、Pet Sounds ではなく別のところに流れていたのだ――そう皮肉まじりに種明かしをしてみせる。今でこそ「Pet Sounds は名盤」と讃えているが、内側ではドル箱の別の盤に予算をつぎ込んでいた、業界の二枚舌。商売とは、つまりそういうものなのだ、と。A&R マン時代に、レーベルがどう数字を粉飾し、どう旧譜を黙殺し、どの口実でプロモ予算を新譜の弾に付け替えるか、ラジオを回すための袖の下――いわゆるペイオラ――が誰の懐にどう流れるか、そのえげつない裏側を散々見せられてきた男の言葉だけに、説得力がある。
もっとも RIAA の記録をたどると、真相はもう少し間が抜けていて、そのぶん可笑しい。そもそも RIAA は、レーベルが全出荷記録を添えて正式に申請しないかぎり、指一本動かさない。ところが Capitol は、肝心のその書類をどこかへやってしまっていた。数年越しでようやく申請にこぎ着けたかと思えば、出荷履歴を掘り起こせずに取り下げる始末。結局2000年、直近15年分の数字だけをかき集めて、ようやく再申請に漕ぎつけた。逆算すれば、この不朽の名盤は34年かけて50万
枚――年に1万5千枚ずつ、つまり一日およそ40枚という、実に慎ましいペースでゴールドに到達したことになる。同じ2000年2月、R&B 歌手 Angie Stone(2025年に他界)のデビュー作 Black Diamond は、発売わずか4か月でゴールドに認定されていた。同じ月の認定リストに、片や4か月、片や34年。だが、この不思議な数字は統計のいたずらに過ぎない。RIAA が数えるのはレコード会社から店舗へ「出荷」された枚数で、客がレジでいくら買ったかは映らない仕組みになっているからだ。一方、Billboard 誌のチャート集計元として知られる SoundScan という別の追跡会社は、1991年から全米の小売店のレジ・バーコードをスキャンして、実際にレジを通った枚数を数えてきた。その数字をひもとくと、Pet Sounds は1991年からの九年間だけで21万枚も売れていた。要するにこの傑作は、売れていなかったのではない。誰かの机の引き出しの奥で、自分を証明する一枚の書類が見つかるのを、34年間ただ黙って待っていたのである。

 60年が過ぎた。針を落とせば、肉眼には見えぬ絵が盤の上で回り出し、回転の中から Wouldn't It Be Nice の最初の一音が立ち上がるなんて、とっても素敵なことじゃないか?。Brian の耳だけが聴いていた音は、いまも止まることなく回り続けている。私はその回転を、ただ眺めていたかったのだ。


2026年4月7日火曜日

Thank you, baby. ― Bruce Johnston


 2026年3月、Bruce JohnstonはThe Beach Boysのツアー活動に区切りをつけると表明した。Rolling Stone誌への声明に感傷はなかった。「私の長いキャリアの第三章を始める時が来た。曲は永遠に書き続けられる、次に何が来るか聴いてほしい」。ソングライティングへの本格回帰を高らかに宣言した上で、もう一つの新たな活動として講演も視野に入れていることを明かした。かつてCary Grantが俳優業を退いた後、企業や大学で自らの人生経験を語る講演に活路を見出したことをヒントに、John Stamosの助けを借りながらその構想を温めているという。「これはさよならではない、またすぐ会おう」その言葉通り、7月のHollywood Bowlへの特別出演も予告されている。
 思いがけず始まった61年の旅は、今度は自らの手で次の扉を開けることで締めくくられた。静かで、どこか穏やかな区切り、まるで一曲を書き終えた作曲家が最後の和音を確かめるような、落ち着いた身の引き方であった。

 彼の作品の中に、「Thank You, Baby」という一曲がある。初めての恋が実らないと知りながら、それでも感謝を口にする、いつかは終わりが来ても、相手への感謝だけが残る。損得を超えた場所にある感情を、Johnstonは20代の初めに書いていた。その言葉が、半世紀以上のキャリアを経た引退の局面では、音楽と聴衆への静かな告白として別の響きを帯びる。
 Bruce Johnstonという人物の歩みもまた、この歌にどこか似ている。華やかな中心に立つというより、誰かの隣で音楽を支え、関係を築き、そして必要な時には静かに身を引く。その姿勢は、1960年代Los Angelesの制作現場において、数えきれないほどの仕事を通じて形づくられていった。

だからこそ、その音楽が形を取り始めた最初の地点に立ち返ってみたい。

 これから語られつつある「第三章」を理解するためには、彼がまだ無名の青年としてスタジオの扉を叩き続けていた時代――すなわち第一章――を見つめ直す必要がある。そこには成功の物語というより、関係を築き、技術を磨き、音楽の中で自分の位置を見出していった、一人の青年の静かな成長が刻まれている。
 話は1942年6月27日、Illinois州Peoriaまで遡る。「Florence Crittenton Home」というシングルマザー支援施設で、一人の赤ん坊がWilliam Baldwinという名で生を受けた。実母はGeorgia州Madison出身のティーンエイジャーだった。出自については長らく議論の対象となってきたが、後に本人がインタビューで「私はPeoriaで生まれ、養子に出された」と明言している。
 生後わずか3ヶ月。シカゴのWilliam & Irene Johnston夫妻に引き取られたその子は、「Bruce Arthur Johnston」という新しい名前を与えられた。ここから、一つの伝説が静かに動き出す。
 養父Williamは只者ではなかった。全米最大の薬局チェーン「Walgreen」のエグゼクティブ・バイス・プレジデントを務めた後、Justin Dartらと共に西海岸へ移りRexallを設立、社長の座に上り詰めた人物だ。1954年、Rexall本社の移転に伴い一家はLos Angelesの高級住宅街Bel Air(15461 Mildred Drive)の邸宅へ移住する。この特権的な環境こそが、Bruceに最高峰の教育と、ハリウッドという魔窟への黄金の切符を同時に手渡すことになった。Bel Airの邸宅と最高峰の教育環境が約束されたBruceに、次の転機が訪れるのに時間はかからなかった。
 Interlochen Arts Campとは、1928年に音楽教育者Joseph E. MaddyがMichigan州北部の湖畔に創設した、アメリカ最初の芸術系サマーキャンプである。当初はNational High School Orchestra Campの名で出発し、全米から選抜された若い音楽家たちが夏の数週間を共に過ごしながら本格的な演奏活動を行う場として設計された。その後、音楽に加えて演劇、視覚芸術、舞踊、映像へとプログラムが拡充され、1991年にInterlochen Arts Campへと改名。現在に至るまで、グラミー賞受賞者162名を含む世界屈指の芸術教育機関として名声を保ち続けている。Norah Jones、Josh Groban、そのBruceらが同じ地を踏んでいる。アメリカの主要オーケストラの奏者の約10パーセントがInterlochenの出身者だというデータが、このキャンプの水準の高さを端的に示している。1955年、13歳のBruceは上記プログラムでひと夏を過ごす。本格的なオーケストラの演奏を間近で聴き、同世代の音楽的才能に囲まれたこの体験は、後にTerry Melcherをして「10分あれば『Rhapsody in Blue』を弾きこなすが、上手すぎて商業的でない」と評させるほどの技術の源泉となった。

 ところが1956年9月、University High School(Uni High)に入学したBruceに異変が起きる。クラシック専門局KAFCを聴く傍ら、出力わずか250ワットの黒人専用ラジオ局KGFJに心を奪われたのだ。Hunter HancockやHuggy Boyといった伝説的DJが放つ未知のR&Bは、退屈な白人ポップスとはまるで別の宇宙の音楽だった。Bruceはこの「Rock'n Rollする人々」の音楽に急速に傾倒していく。
 そして運命の出会いが通学バスの中で起きる。近所に住む1歳年上のJan Berry、(後のJan & Dean)との邂逅である。Janという人間を理解するには、まずその頭脳の規格外ぶりを知る必要がある。IQは150以上、記録によっては180とも伝えられる天才で、後にJan & Deanでヒットを連発しながらUCLAで医学部進学課程を修了し、1963年には実際に医学部に入学している。
 Janという人間は、二つの顔を持っていた。
 学校の印刷室を使って公式レターヘッドを偽造し、架空のラジオ局「KJAN」を堂々と名乗る。各レコード会社に「プロモ盤を送れ」と要請する手紙を送りつけ、毎日200枚もの新譜を無料で手に入れ、余った分は友人に配った。しかしそのJanが、ガレージのオープン・リール録音機の前に座ると、まるで別人のように音と格闘し始めるのだった。14歳のBruceはこの落差に、何か決定的なものを嗅ぎ取った。
 二人が結んだ取り決めは傑作だった。「JanがBruceの宿題を代行する代わりに、放課後はBruce宅の豪華なグランドピアノをJanが弾き放題」という物々交換の密約である。Bel Airの邸宅の一室で繰り広げられたこの密室セッションこそ、後に世界を席巻するカリフォルニア・サーフ・サウンドの、最初にして最も目立たない発火点となった。
 高校生の傍ら、BruceはSandy Nelson、Kim Fowleyらとバンド「The Sleepwalkers」を結成する。なんとライバル校のFairfax High SchoolからPhil Spectorをギタリストとして借り出すほどの勢いを見せた。Uni HighがBel AirやWestwoodといった富裕白人層の子弟が通う学校であるのに対し、Fairfax Highは戦後にLA東部から移住してきたユダヤ系中産階級の街に根ざした学校だった。地理的には隣り合いながら、その社会的背景はまるで異なるそのライバル校から、後に『Wall of Sound』で時代を塗り替えるPhil Spectorまで引き抜いた、この時点でのBruceの立ち位置がいかに特別だったかがわかる。
 1958年の夏、BruceはLA周辺のダンスホールやショーを転々としながら有名無名問わず多くの歌手のバックを務めた。時にはEverly Brothersのバックでピアノを弾き、テレビ番組ではEddie Cochranが「Summertime Blues」を歌う傍らでやはりピアノを担当した。ギターの曲をピアノで弾くという奇妙な体験だったと本人は振り返っている。中でも最も頻繁にバックを務めたのが、デビュー間もないRitchie Valensだった。「Come On Let's Go」が全米42位のスマッシュヒットを記録し、まさにスターへの階段を駆け上がろうとしていた時期のRichieと、BruceはEl Monte Legion Stadiumなど各地のステージを共にした。1959年2月、Ritchieは飛行機事故で17歳の生涯を閉じる。あの夏の共演が、Bruceにとって彼の生きた姿を知る最後の記憶となった。
 Janとの密室セッションが少年の野心に火を点けたとすれば、その炎を一気に燃え上がらせたのは、1958年2月に起きたある惨劇だった。


1958年2月1日。この日付を覚えておいてほしい。

 University Highの生徒だったJan BerryとDean Torrenceを中心とした人種混合ボーカルグループ「The Barons」に、伴奏として参加していたのがBruce Johnston(ピアノ)、Sandy Nelson(ドラム)、Dave Shostac(サックス)の3人だった。 3人の訪問先はJohn Dolphinの事務所だった。Dolphinは黒人音楽界の大物プロモーターだが、その傘下レーベルRecorded in Hollywoodからは、5年前の1953年にMurry Wilson――後にThe Beach BoysのBrianの父として知られる人物――の楽曲がリリースされていた。BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。
自作のデモテープを手に、その事務所を訪れた15歳のBruceは、とんでもない惨劇の唯一の目撃者となる。印税トラブルを抱えた26歳の作家Percy Ivyが、Bruceの目の前でDolphinを5発の銃弾で射殺したのだ。Dolphinは泡を吹き、倒れ込んだ拍子にヒーターのスイッチが入るという地獄絵図の中で絶命した。
 驚くべきはここからだ。親友のSandy Nelsonが警察を呼ぶために走り出し、現場に静寂が訪れたその空白の数分間、Bruceはなんと銃を持ったままのIveyに向かってこう言い放ったという。

「刑務所から出てきたら、ぼくと一緒に曲を作ってレコーディングして一発当てよう!」

 15歳、死体が転がる部屋の中で、次のビジネスを語る少年。後に「ハリウッドの好青年」と呼ばれる男の中に、目的のためには手段を選ばない生粋のプロデューサー体質が完全に覚醒した瞬間だった。この異常なまでの胆力と商魂こそが、彼を単なるミュージシャンの枠に収まらない存在へと押し上げていく最初の証明だった。
 BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。そしてもう一つ、驚くべき事実がある。引き金を引いたその男、Percy Ivy自身もまた、同じ時代にThe Hollywood Flamesへ楽曲を提供していたソングライターだった。1953年、7-11 Recordsから出た78回転盤のB面「Baby, Pretty Baby」——作曲者欄にはIvyの名が刻まれている。Murryが同じグループに曲を書き、Bruceがその事務所に曲を売り込みに来た。殺された男も、引き金を引いた男も、そして15歳の目撃者も、全員が同じ磁場に引き寄せられていたのだ。ロサンゼルスの音楽史とはそういうものだ。
15歳でその胆力を証明したBruceは、高校生の傍ら音楽の現場へ深く踏み込んでいく。
 1959年、Sandy Nelsonの「Teen Beat」録音セッションでBruceが下した決断は今も語り草だ。録音された音が「ありきたりで、全く個性がない」と判断したBruceは、突如として履いていた靴を脱ぎ捨てると、グランドピアノの弦の中に力任せに突っ込んだのである。この即興の「靴によるミュート」が生み出した、鈍い打楽器のような未体験のサウンドが全米チャート4位の大ヒットを牽引した。靴一足で時代の音を変えた男、それがBruce Johnstonだ。
 さらにArwin、Martといった独立系レーベルでの活動を通じて、Bruceは業界の生々しい裏側を全身で吸収していく。録音日より前に業界誌にレビューが掲載される杜撰な書類工作。AFM(全米音楽家連盟)の規約を潜脱した非公式録音を、事後の書類工作で合法の体裁に整える仕組み。10代にして彼は、音楽が「芸術」であると同時に、書類一枚で権利が書き換えられる「冷酷な商品」であることを骨の髄まで理解した。のちのColumbia時代に巧みに活用される「制度の隙間を突く感覚」は、この時期に磨かれたものだ。
独立系レーベルで業界の生々しい裏側を吸収したBruceは、17歳でさらに大きな舞台へと歩を進める。
 17歳でBob Keene率いる「Del-Fi Records」のスタッフとなったBruceは、才能を全方位で解き放つ。事故死したRitchie Valensの遺作ライブ盤の編纂から、18歳での黒人歌手Ron Holdenの全権プロデューサー就任まで、何でもこなした。
 圧巻はUCLAのSigma Piフラタニティハウスで行われた「パジャマ・パーティー」だ。入会したばかりの18歳の新入生Bruceが数人の仲間を引き連れて演奏しに現れ、パジャマ姿の男女がどんちゃん騒ぎを繰り広げる狂乱の中、Del-FiのボスBob Keaneが録音機材を持ち込んでライブ収録を敢行した。事前にBruceからこのパーティーの「ワイルドさ」についてさんざん聞かされていたKeaneが、その熱気ごと売り物にしようと目論んだのだ。この音源は、Bob Keaneの「流行を安く、素早く、何度でも売り飛ばす」という荒々しいマーケティングによって、「The Surf Stompers」など様々な名義で世界中へ輸出された。挙句の果てに、別のバンド『The Centurions』のアルバムが、Bruceの『Surfer's Pajama Party』とほぼ同一のジャケット・同一のカタログ番号で発売されるという混乱まで生じた。プレス工場のミスとも言われるが、権利が軽視される日常を象徴する出来事だった。権利が軽視される日常の中で、Bruceは「世間の流行をいかにパッケージ化して利益に変えるか」という実戦的なマーケティング感覚を完全に体得した。自分の権利が踏みにじられる経験を積み重ねたからこそ、後にColumbia時代に報酬の抜け道を周到に設計できたとも言える。
 Del-Fiでの経験がBruceに業界の骨格を教えたとすれば、次に彼を待っていたのはその骨格に肉を盛る相棒との出会いだった。


 さて、物語に一人の重要な人物が登場する。Terry Melcherだ。

 Doris Dayの息子というだけで語られがちな人物だが、それは大きな誤りだ。1962年4月、20歳のTerryはColumbia Recordsの「マネジメント・トレイニー(経営研修生)」として週給55ドルのオフィスボーイからキャリアをスタートさせた。仕事の内容は文字通りニューヨークの街中を駆け回る雑用係だった。だが彼は雑用に甘んじず、上司を説得してDon KirshnerのAldon Musicに入り浸る許可を得た。そこでCarole King、Barry Mann、Gerry Goffinたちの職人芸を毎日間近で見学し、ヒット曲の骨格を体に刻み込んでいった。
 2ヶ月の研修後、1962年6月に西海岸のA&R担当へ異動。そして1963年1月、弱冠20歳でColumbia RecordsのアソシエイトA&Rプロデューサーに昇進する。当時のColumbia Recordsは、Andy Williamsに代表されるジャズ、クラシック、大人向けポップスの老舗として名声を持つ一方、急拡大する若者向けロックンロール市場への対応では完全に出遅れていた。西海岸の重役Irving TownshendがTerryに期待したのは、ティーン向けシングル市場の開拓という明確な使命だった。
 BruceのUni HighがBel AirやWestwoodの富裕住宅街を学区とするのに対し、TerryのBeverly Hills Highは超高級住宅地Beverly Hillsに位置する学校だ。同じ西LA地区の富裕校同士でありながら、学校間のプライドはむしろそれゆえに激しかった。
 一方Bruceとは、「あっちの学校(Beverly Hills High)の連中は全員ろくでなしだ」と反目し合っていた過去がある。それがスタジオに入った途端、二人は最強の制作ユニットへと変貌した。メジャーの潤沢な予算を「音楽大学」のように使い、ラジオのヒット曲を完コピすることで最新の録音技術とヒットの法則を独習していった。覆面グループ「The Hot Doggers」、自身のソロアルバム『Surfin' 'Round the World』、そして大ヒット連発の「The Rip Chords」――成果は次々と世に放たれた。BruceはTerryの母Doris Dayに楽曲「Falling」を提供し、絶大な信頼も獲得した。
 Terry がColumbiaのスタッフとして先に籍を置き、The Rip Chordsの「Here I Stand」をプロデュースしたのは1962年末のことだった。シングルはBillboard 51位に滑り込み、手応えをつかんだ。後年Bruceはこう振り返っている。「Terryがうまくやってくれて、私を雇う許可を取り付けてくれた」。こうして1963年、BruceはColumbia Records Hollywood のスタッフ・プロデューサーとして正式に着任する。自ら売り込んだのでも、重役の椅子を引き継いだのでもない。友人の信頼と、スタジオでの実績が、その扉を開けたのだった。
 Terryと継父Marty Melcherの間には、長年の緊張があった。Terryが自分の力でヒットを連発し始めると、Martyはそれを嫉妬した。ある日、二人は口論になった。Martyが吐き捨てた。「お前の曲を持って出て行け」。会計士が呼ばれ、Martyの会社Daywin MusicがTerryに支払うべき金額として345,000ドルの小切手が差し出された。Terryはそれを受け取ると、できる限り細かく引き裂いた。そして破片をMartyの顔めがけて投げつけ、こう言った。「これが、あんたと過ごした年月すべてへの礼だ」。後にTerryはこう振り返っている。「あれが転換点だった。345,000ドルの小切手を顔に投げつけられる人間なら、一人前だと思ったのだろう。あれ以来、彼は私を子ども扱いしなくなった」。
 1963年10月15日の夜、Columbia Records西海岸スタジオで歴史的なセッションが出来上がった。プロデューサーはTerryとBruce。表向きはThe Rip Chordsの公式メンバー――Phil Stewart、Arnie Marcus、Rich Rotkin、Ernie Bringas――名義のセッションだったが、スタジオで実際に歌ったのはTerryとBruceの二人だけだった。リードをTerryが、象徴的なファルセットをBruceが担い、ハーモニーは多重録音で積み重ねた。こうして全米チャート4位の大ヒット「Hey Little Cobra」が誕生した。
 後にErnie Bringasはこう記している。「The Rip ChordsにおけるTerry Melcherの存在は、The Beach BoysにおけるBrian Wilsonの存在に等しい。ただしBrianと違い、Terryは自分がメンバーでないグループのために歌っていた」。1964年1月23日、初期メンバーのPhilとErnieは補足契約への署名を強いられた。「The Rip Chordsという名前の全権利を放棄する」という内容だった。実質的な主導権は完全にTerryとBruceの手に渡った。
 バックを務めたのはSteve Douglas(サックス)、Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(パーカッション)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Glen Campbell、Bill Pitman、Tommy Tedescoら、後にWrecking Crewと呼ばれる伝説的な集団だ。この時点で彼らは既に一堂に集っていた。

ここで、思わず声に出して笑ってしまうエピソードを紹介しなければならない。

 後年のファンとの会話の中で、Bruceはさらりとこう言い放った。「あの曲の一部は、ゴミ箱に頭を突っ込んだ状態で録音したんだ」。
 笑い話ではない。これは大真面目な、当時最先端の音響工学だった。
考えてみてほしい。1963年のスタジオにデジタル・リバーブなど存在しない。音に残響を加えたければ、物理的な空間を使うしかなかった。廊下の端で歌う、タイル張りのトイレを借りる、あるいはコンクリートの打ちっぱなしの部屋に向かってマイクを向ける......それが当時の「エフェクト」の全てだった。Sam Phillipsがスラップバック・エコーをテープの遅延で生み出し、Phil Spectorが巨大なエコーチェンバーを使って音を神話的なスケールに膨らませていた、まさにその時代の話だ。そしてBruceが選んだのは、スタジオの隅に転がっていたゴミ箱だった。頭を突っ込む。歌う。ゴミ箱の筒が独自の共鳴を作り出す。
この工夫が最も際立って聴こえるのが、曲の中盤に炸裂する「Shut 'em down」の一節だ。Bruceがファルセットではなく低く押し出すように歌うこのフレーズに、ゴミ箱の壁が生み出す独特のアンビエンスが乗っている。当時のリスナーには何がどうなっているのか全くわからなかったはずだ。それでも耳は正直で、「何かが違う」と感じさせる音がラジオから流れてきた。全米チャート4位という数字が、その判断の正しさをあとから証明した。
「Teen Beat」のセッションでは靴をグランドピアノの弦に叩き込んでユニークなサウンドを生み出し、「Hey Little Cobra」ではゴミ箱を音響装置に変えた。
録音技術そのものも、当時の二人を苦しめ続けた。「Hey Little Cobra」の多重録音は、現在では考えられないほど過酷な工程を経ている。当時主流だった3トラック・レコーダーには同期録音機能(セルシンク)がなかったため、一度録音したトラックをさらに別の3トラック・テープに移し、その上に新たな演奏を重ねるという「ピンポン録音」(バウンス録音)を繰り返すしかなかった。問題は、このダビングを重ねるたびに音が劣化していくことだ。テープからテープへコピーするたびに、高域が失われ、ノイズが蓄積し、最初に録音した時のあの「パンチ」が少しずつ削れていく。続く「Three Window Coupe」の制作では、この問題がさらに深刻な形で二人を直撃した。「3トラックから別の3トラックへ、何度もダビングを繰り返すうちに、録音のたびに音が一枚ずつ剥がれ落ちるように、あの『パンチ』は完全に死んでしまった」とBruceは振り返る。それでも彼はトラックを丸ごと録り直すまで諦めなかった。ゴミ箱とピンポン録音という原始的な道具立ての中で、Bruceは「どんな音が鳴っているか」という一点に向かって自分を研ぎ澄ませていった。

 スタジオの創意工夫で音を作り上げる一方、BruceはColumbia社内でも抜け目なく動いていた。AFMの契約書にはBruceの名前は演奏ミュージシャンとして記載されていない。それでも実質的なセッション・リーダーとして機能した彼は、巧妙な方法で報酬を得る仕組みを作り上げた。Columbia内部資料(Artist Contract Card)には、一晩のセッションでSteve Douglas(本名Steve Kreisman)に数千ドル単位の「編曲料(arr.)」が計上されている。しかしAFMの契約書には「編曲なし(No Arr.)」と手書きされ、続いてSteve自身のイニシャルと思われる「SDR」が記されている。「編曲者が存在しない」ことへの本人確認なのか、それとも彼が実質的な編曲者であることの証明なのか?この矛盾は今も謎のままだ。実際にはBruceとTerryが決めたアレンジの報酬が、Steveを名義上の受取人として経由し、彼らへ還流していた可能性が高い。BruceとTerryはColumbia社員であったためアーティストが受け取るロイヤリティを手にすることができず、この「制度の抜け道」が事実上の報酬となっていた。
Bruceは後年こう語っている。「Columbiaからの給料は微々たるものだったが、高額な編曲料の請求書を会社に提出した。印税が入らない代わりに数千ドルの編曲料を作り、その金でHawaiiへ飛び女の子たちと遊んでいた。まだドラッグが蔓延する前の話だ」。
Del-Fi時代にその感覚を体に刻み込んだBruceが、今度はColumbia Recordsというメジャーの機構の中でそれを洗練させていた。ある意味で、これは彼のキャリアを通じた一貫したテーマだった。報酬の仕組みが巧妙に設計される一方で、「Hey Little Cobra」の誕生をめぐる作詞クレジットの真相は、今なお霧の中にある。

作者は元Teddy BearsのCarol Connors(本名Annette Kleinbard)と弟M.H. Connorsだが、著作権上は半分しか権利がない、その裏側には少なくとも三人の別の人物が絡み合っている。
Gary Usherの証言から始めよう。Carolが彼の元に歌詞の断片を持って現れたとき、彼女が持っていたのは混乱した数行の歌詞だけだった。Usherはそれを整理し、決定的なサビ「Hey little Cobra, don't you know you're gonna shut 'em down」を書き上げ、彼女にTerry Melcherを紹介した。後にMelcherから「素晴らしい曲を手に入れた」と電話があった際、Garyは自分の関与を明かした。「要するにこれはTerry、Bruce、そして僕の3人で書いたようなものだ」と伝えたというが、クレジットに彼の名前が乗ることはなかった。TerryはBruceに電話した。「勢いがあるうちにRip Chordsのレコードにしないといけない。Columbiaのリリースのうち、ヒットチャート番組でかかったロックンロールはうちらの一曲目の売上が5万枚、二曲目が9万枚。それ以外は皆無だ」。翌日にはスタジオに入り、二人は文字通り午後から夜通しでレコードを仕上げた。
一方、Carol自身の話はさらに劇的だ。恋人のAC Bristolを大破させた彼女は、修理の相談でCarroll Shelbyのオフィスへ乗り込んだ。Shelbyとは1959年のLe Mans24時間レースを制した伝説のレーシングドライバーで、引退後はFordのエンジンを英国製シャシーに積んだ「Cobra」を世に送り出した人物だ。「CobraのフロントをBristolの後部に付けられないか」という突拍子もない依頼に、Shelbyは腹を抱えて笑い、こう言った。「1位になったら、何とかしてやる」。曲はチャート4位まで駆け上がり、ShelbyはCarolに約束通りCobraを1台贈呈した。さらにShelbyのLe Mans遠征にも同行し、当時FordのHigh Performance部門の責任者だったLee Iacoccaとも顔を合わせることになった。一方Terryは録音の条件として出版権の50パーセントを継父Martyの会社Daywin Musicに収め、残る50パーセントはCarolと弟MarshallのVadim Musicが保持した。才能だけでは扉は開かない。ヒットの代償は著作権で払う!それが当時のLA音楽業界の作法だった。
さらに笑えるエピソードがある。Brian WilsonとJan Berryは後日、Carolの元へ激怒した様子で現れ、こう言い放ったという。「この曲は女が書いたものだということは最初からわかった。Cobraをギアをニュートラルにしてゴールラインまで惰性で走るなんて、実際にはできないからな」。Carolは「だから何? 誰が気にするのよ」と一蹴したという。
クレジットの謎を残したまま、BruceとTerryの制作活動は次のターゲットへと向かう。1964年夏のことだ。

 1964年夏、人気下降気味だったスターPat Booneの再起をかけ、BruceとTerryはBrian Wilson作の「Little Honda」をプロデュースすることになった。Patは当時Las Vegasのホテルで公演中だったため、Terryはトラック収録を終えたテープを携えてLas Vegasへ飛んだ。
Terryはこう語る。「Patのショーが終わるのを待ってスイートルームへ向かった。彼が着替えている間、部屋のラジオから「ただいまチャート急上昇中!」と紹介されながら流れてきたのは、ライバルGary UsherがThe Hondells名義で放った、まったく同じ「Little Honda」だった。Patはそれが自分がこれから録音する曲だとも気づかず鼻歌で合わせている。まずいことになったと思った」。
結果はThe Hondellsの圧勝。「5,000ドルの制作費がふっ飛んだ」とTerryは真っ青になった。しかしGary側はこの顛末を後年楽しそうに語り継いでいる。「TerryはLas Vegasの大通りを車で走っているとき、ラジオから僕のThe Hondells版が流れてくるのを耳にして、先を越されたことの衝撃にハンドルを取られそうになり、同時に心臓が止まるかと思ったそうだ。」
だが負けたままでは終わらないのがこの二人だ。Garyが先にヒットを出すと、Terryは傲然と言い放った。「このガキが!俺より先にヒットさせやがって、何でもいいから曲を持ってこい。俺の手にかかれば何でもチャートに叩き込んでやる」。Garyが持ってきた一曲が「Comin' On Too Strong」だった。仲間内で「ガキ」と呼び合う二人が始めた賭けの結末は痛快だった。TerryはWayne Newtonに歌わせたが、実際にWayneが歌ったのは全体の1/4以下。残りのサビ、ハーモニー、バックコーラス、ファルセットの全てをBruceとTerry自身が多重録音で埋め尽くした。Garyは断言する。「あれはWayneの名を借りた実質的な『Bruce & Terry』のレコードだった」。
ところが、曲がヒットチャートを上昇し始めると、Wayneは恐怖に駆られて師匠のBobby DarinとCapitol Recordsへ駆け込み、「せっかくヒットしてるんだけど、このレコードのプロモーションを止めてくれ」と懇願した。スタジオの魔術で構築されたこのサウンドを、ライブで再現することなど自分には不可能だと分かっていたからだ。Terryはさらりと付け加える。「BobbyとWayneは実際にはお互いをまったく嫌い合っていた」。これが当時のL.A.音楽界の日常だった。

 そのL.A.スタジオ世界の黄金時代は、しかし1965年を境に急速に様相を変えていく。
 その変化は、スタジオの外から一本の電話という形でやってきた。
1965年4月7日、The Beach Boysはツアーの途上でNew Orleansに到着していた。
そのとき、Glen Campbellから一本の電話が入る。内容はきわめて実務的だった。これ以上ツアーに同行できないというのである。すでに約束していたThe Righteous Brothersのバックの仕事と日程が重なり、どうしても動けなくなったのだった。
 バンドにとってそれは突然の欠員であり、しかも次の公演は目前に迫っていた。代役を探す時間はほとんど残されていない。こうした状況のなかで、Mike LoveはLos AngelesにいたBruceに電話をかける。だがその用件は、いきなり加入を打診するものではなかった。彼が最初に口にしたのは、むしろ業界仲間に向けるような問いだった。
「誰か代わりに来られる人間を知っているか?」
 Bruceはこの電話を後年、「本当に急な話だった」と振り返っている。彼らは「昨日にでも欲しかった」ほど切迫していたという。彼の頭にまず浮かんだのは、若いミュージシャンのEd Carterだった。しかし彼は学業の都合で動けない。候補者は消えた。代替案もない。
そのとき、Bruceは一歩前に出る。
 「誰も見つからないなら、ぼくが行くよ。」
 それが彼の判断だった。ベースは弾けなくはないが、ピアノなら弾ける。ハーモニーも歌える。何より、今必要なのは完璧な人材ではなく、すぐに舞台に立てる人間だった。
こうして彼は急遽New Orleansへ飛ぶ。そして二日後の4月9日、ステージに立つことになる。準備は整っていなかった。衣装すら間に合わず、彼が身につけていたのはAl Jardineの予備のズボンだったという。サイズは合っていなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
 その夜、Bruceはエレキピアノを担当しつつ、Brian Wilsonのファルセット・パートを歌った。一方、Jardineがベースへ回り、編成を維持する。こうしてバンドは、即席の再配置によって公演を成立させたのである。
 しかしステージに出た瞬間、彼を迎えたのは歓声ではなく問いだった。
 客席から叫び声が上がる。

「Brianどこいったー?」

 Bruceはそのときの心境を率直に語っている。石を投げられるかもしれないと思った、という。それほどまでに、当時のBrianはグループの象徴だった。それでも演奏は続き、観客の熱狂はやがて彼を包み込んでいった。最初は圧倒されたが、その反応こそが彼を舞台の上に踏みとどまらせた。
 この人選について、Brian自身は後に「理にかなっていた」と語っている。彼はBruceを以前から知っており、Terry Melcherと共にレコード制作をしていたことも承知していた。ファルセットの声質が似ていること、演奏能力が高いこと、そして何より、追い詰められた状況のなかで即座に対応できる人物だったことが、その判断の根拠だった。
 ただし、この時点でBruce自身はまだ「正式メンバーになった」とは考えていなかった。ツアーを終えてスタジオに呼ばれ、「次のアルバムで歌ってみないか」と言われたときも、彼はなおColumbia Recordsの仕事を続けていたし、Brianがいつか再びツアーに戻る可能性を疑っていなかったのである。
 振り返れば、Bruce Johnstonの加入は制度的な決定というより、一つの出来事の連鎖だった。一本の電話から始まり、欠員が生じ、代わりが見つからず、そして本人が前に出た。その積み重ねが結果として、あの立ち位置を生み出したのである。
 それは計画された加入ではなかった。
 むしろ、現場を止めないための即断が、歴史を形づくった瞬間だったと言えるだろう。
それにしても、この加入はいかにも静かなものだった。Columbia Recordsとのアーティスト契約が障壁となり、Bruceは1967年のアルバム『WILD HONEY』まで正式メンバーとしてアルバムジャケットにクレジットされることができなかった。『PET SOUNDS』の裏ジャケットにはツアーメンバーとして写真が掲載されたが、それはあくまで添え物に過ぎなかった。1965年の『SUMMER DAYS』撮影時には「カメラマンの隣に立っていた」と本人が語るほどの周縁的な立場だった。それでも当時の公式コンサートブックレットは、この新顔をこう紹介している。「Beverly Hillsが、ついにHawthorneにやって来た!」山の手Bel Airで育ったこの男と、下町Hawthorne育ちのWilson一家との組み合わせを、一言で言い表した言葉である。

 1965年6月16日、Terry はColumbiaのスタジオに馴染みの顔ぶれを集めた。Hal Blaine、Glen Campbell、Larry Knechtel、いわゆるThe Wrecking Crewの精鋭たちだ。彼らはほんの数ヶ月前、まったく同じようにTerryに招集されていた。あのとき録音されたのは、The Byrdsのデビュー・シングルである。
 しかし今回のセッションで彼らが臨む仕事は、Bruce & Terryの新曲「Four Strong Winds」だった。Ian Tysonが書いたこのフォーク・チューンを、TerryはThe Byrdsと同じミュージシャンに、The Byrdsと同じ楽器編成かつ方法論で録音しようとしていた。
 その意図を、Terry自身が明快に語っている「あれは『Mr. Tambourine Man』の直後だったよ。俺は『よし、しばらくこの路線でいこう』と思ったんだ」。
 証言の正確さは、日付が証明する。The Byrdsの「Mr. Tambourine Man」がシングルとしてリリースされたのは1965年4月12日。それがBillboard Hot 100の頂点に達したのは6月26日のことだ。Bruce & Terryのセッションが行われた6月16日は、奇しくもThe Byrdsのファースト・アルバム『Mr. Tambourine Man』のリリース(6月21日)のわずか5日前にあたる。つまりTerryは、あのサウンドが絶頂に向かう瞬間を正確に見極め、その波に乗ろうとしていた。
 ここで注目すべきは、TerryがThe Byrdsの「外側」からそのサウンドを模倣しようとしていたのではない、という点だ。彼はThe Byrdsのプロデューサー当人であり、あの12弦Rickenbackerの響きを自らの手で生み出した張本人だった。すなわち「Four Strong Winds」のセッションにおいてTerryがやったことは、他者の作品を参照することではなく、自分自身の仕事を別の文脈に移植することだった。
 その結果として完成した「Four Strong Winds」は、The Byrdsの響きを継承する12弦ギターを核に据え、7月2日のオーバーダビング・セッションではMort Garsonの指揮のもと弦楽器と管楽器が加えられ、豊かでふくよかなプロダクションへと仕上げられた。リードはTerry、ハーモニーはBruce。ただしBruceはこの時期、The Beach Boysとのツアーと録音に拘束されており、6月のセッションには参加したものの、7月のオーバーダビングには不在だった。
 それにしても、このシングルにはもう一つ見逃せない文脈がある。The Rip Chordsはすでにシーンから消えていた。サーフ、車、ピカピカの天気、そういった意匠は使い果たされ、Bruce & Terryというデュオの看板だけが残っていた。Terryはその看板を、迷わず新しい時代の音で塗り替えた。選ばれたのはフォークとカントリーの香りを持つ曲たちであり、それをThe Byrdsの方法論で録音するという戦略だった。しかしTerryには、この時期すでにより大きな仕事が待ち構えていた。Paul Revere & The Raidersとの共同作業がいよいよ本格的な成果を上げ始めており、同年12月には「Just Like Me」がBillboard 11位のTop 20ヒットとなる。Bruce & Terryというユニットは、彼のキャリアにおいて徐々に中心から外れてゆく運命にあった。
 「Four Strong Winds」のセッション記録には、Bruce Johnstonがセッション・リーダーとして244.04ドル――通常の2倍のギャラ――を受け取ったことが明記されている。The Beach Boysとの二重生活を送りながらも、Bruceはこの6月のセッションにはきちんと顔を出していた。その存在が、この曲の完成度を支えたことは疑いない。

 The Byrdsのサウンドが時代を塗り替えていく一方で、BruceとTerryはColumbiaスタジオの奥に潜む別の武器に手を伸ばしていた。

Columbiaのスタジオには、知る者だけが知る秘密があった。

 クローゼットの奥に、巨大な機械が眠っていた。エンジニアたちはその存在を頑なに隠し、TerryとBruceが扉を開けようとするたびに「お二人には関係ない」と遮った。しかし二人は食い下がった。押し問答の末にようやく明かされた正体はL.A.初の8トラック録音機だった。
 Duke Ellingtonのために特別製造されたこの機器は、クラリネットとサックスの音を分離するという、エンジニアたちに言わせれば「非常に退屈な」目的のために作られた。ほとんど使われないまま、コードを束ねられてクローゼットに押し込められていた。
 「当然、ぼくらは引っ張り出して使い始めた」とBruceは語っている。「The Rip Chordsの頃に同期録音なしで何十回も音を重ねるという問題を抱えていたから。だからうまくいったんだ」。
 ところで、この8トラック機器を最初に実作品へ活用したのはいつのことだったのか?ここで興味深い食い違いが浮上する。
 Terryは「Mr. Tambourine Man」、すなわち1965年1月に録音されたThe Byrdsのデビュー・シングルが最初だと主張している。しかしBruceの記憶は異なる。8トラックを最初に使った作品を問われた彼は、こう答えた「たぶん『Summer Means Fun』と『Carmen』、そして本当に素晴らしいのに日の目を見なかった曲たちだと思う」。


The Sandpipers、デビュー・アルバムGuantanamera(A&M、1966年)
「Carmen」を収録し、Billboard Top LPs 13位を記録。
Bruce & Terryがチャートに届かなかった曲は、
こうして別の声で蘇った


 いずれもThe Byrdsのデビュー以前――あるいは少なくとも同時期――の作品である。Bruceの証言が正しければ、8トラック機器はThe Byrdsのセッションよりも早い段階から、すでにBruce & Terryの仕事に密かに持ち込まれていたことになる。
 二人の記憶はなぜ食い違うのか。あるいはどちらが正しいのか。今となっては確かめようがないが、この齟齬そのものが一つの事実を示唆している。8トラックとの格闘は、どちらにとってもそれほど日常的で、境界線の曖昧な体験だったのだ。革命はいつも、当事者が気づかないうちに始まっている。
 いずれにせよ、1965年10月22日のセッションで「Come Love」に8トラックが全面的に活用されたことは疑いない。Terryはこの日、30名以上のミュージシャンをColumbiaのスタジオに招集した。ハープシコード(Lincoln Mayorga)、ハープ(Verlya Mills)、Julius Wechterのパーカッション。Sid Sharpが束ねる弦楽セクションには、Bill Kurasch、Leonard Malarsky、Harry Bluestone――Los Angelesでも指折りの奏者たちが並んだ。ブラスにはLouis Blackburn、Tony Terran、Aubrey、"Tex"Bouck。Larry Marksが指揮台に立ちオーケストレーションを仕切った。
 Phil Spectorが証明したように音は重ねるほど、別の次元に達する。8トラックはその夢を、一気に現実に引き寄せる道具だった。そしてTerryには、4ヶ月前の「Four Strong Winds」セッションで多重録音の可能性に改めて目覚めていた経験があった。
 ただしエンジニアたちの抵抗は、この日も続いていた。Bruceの証言はあまりにも鮮烈だ
「ミキシング・コンソールに触ろうとすると、エンジニアたちはササッと機器をシャットダウンして部屋を出ていくんだよ。本当に変だった」。
 Alan and Marilyn Bergmanの作詞、Larry Marksの作曲による「Come Love」は、その闘いの末に完成した。ハープシコードの粒立ち、弦の厚み、ブラスのアクセント......それらが8トラックによって初めて相互干渉なく積み重ねられ、「音の壁」が築かれた。Terryが「持てる技をすべて注ぎ込んだ」と評されるだけのことはある、まさに力業の極致だった。
 Terryはのちにこう語っている。「『Come Love』は、Alan and Marilyn Bergmanが書き始めた頃に最初に録音された曲の一つだったと思う。その後『Windmills Of Your Mind』でアカデミー賞を受賞するとは、当時は思わなかったね」。歴史とはこういうものだ。誰が何者になるかは、後にしかわからない。
 批評家たちは反応した。Cash Boxは「Best Bet」、Record Worldは「4 Star Pick」「盛り上がりに盛り上がるバラード。二人は磁力のように聴衆を引き込む」と称えた。しかしアメリカの主要ラジオ局は沈黙した。全国規模のヒットには届かなかった。
 しかし太平洋の向こうで、奇跡が起きた。1966年4月から5月にかけて、香港のチャートでTop 10入りを果たしたのだ。L.A.のクローゼットから引き出された機器が生んだ音が、誰も予期しない場所で聴衆を見つけた。なおこのセッションにBruceは参加していない。彼はThe Beach Boysの仕事(BurbankのNBC-TVスタジオでのAndy Williams Show収録)に拘束されていたが、そのThe Beach Boysの現場でさえBruceの席にはBrian Wilsonが座っていた。Bruce & Terryにも、The Beach Boysにも、完全に属さない宙ぶらりんな状態、それが1965年秋のBruceの立ち位置だった。


 振り返れば、Bruce & Terryの音楽的軌跡は、ひとつの方向へと着実に動いていた。サーフィン、車、西海岸のライフスタイル.....初期の意匠が費消されていくにつれ、二人のサウンドはMORへと重心を移し、ストリングスや管楽器によるオーケストレーションを纏い、ハーモニーはより甘く、より厚いものへと変わっていった。「Come Love」のあの30人編成のセッションは、その到達点のひとつだった。意図したわけではない。ただ、より豊かな音を求めて手を伸ばし続けた結果として、二人は後にソフトロックと呼ばれるジャンルの設計図を、誰よりも早く引いていたことになる。

             
 1966年5月、Bruceは『PET SOUNDS』のプロモーションのためロンドンに滞在していた。元BeatlesパブリシストでThe Beach Boys担当となったDerek Taylorが約15本のインタビューをセッティングするかたわら、Keith Moon(The Who)をBruceに引き合わせた。
 二人はたちまち意気投合し、古くからの怪友Kim Fowleyも加わってEssex州RomfordへTony Rivers And The Castawaysのライブを観に繰り出した。The Beach Boysの楽曲をレパートリーに持つこのグループをBruceが気に入ったからだ。ステージに引っ張り上げられたBruceは、ベースを手渡されて途方に暮れた。「ぼくはどっちかといえばピアノ弾きなんだけど」そう言ったところでステージにピアノはない。複雑なベース・ラインを持つ「The Little Girl I Once Knew」では固まり、一方でKeith Moonのドラムは「繊細さ」とは無縁の全力投球。曲が終わるたびにTony Riversが「Keith MoonとBruce Johnstonに拍手を!」と言おうとすれば、Keithは間髪入れず「次は何やる?あ、その曲知ってるから叩かせろ!」
そのまま演奏は続いた!
 ここにも一つの妙縁がある。Kim FowleyはBruceのUniversity High School時代の旧友であり、二人はともにThe Sleepwalkersで活動した仲だった。そのFowleyは、Bruceより一足早く英国に渡り、1964年から現地のバンドを手がけることで独自の英国コネクションを築いていた。後にSlade、Soft Machine、Familyといった名前で知られることになる若手グループたちとの仕事がその証左である。BruceがロンドンでKeith Moonと意気投合したとき、隣にいたのは偶然にも、誰よりも早くこの街の空気を知っていた男だった。

しかしこの夜には、より大きな物語への扉が隠されていた。

 Romfordから戻ったある夜、BruceはWaldorfホテルのスイートでパーティーを開いていた。廊下でKeith Moonと話していると、Kim Fowleyが「戻ってきた方がいい。The Beatlesの二人がいて、Pet Soundsを聴きたがっている」と告げた。

部屋にいたのはJohn LennonとPaul McCartneyだった。

 Bruceは持参していた『PET SOUNDS』をかけた。一度では終わらなかった。Paulたちは二度、三度とかけ直すよう求めた。Bruce自身の証言によれば、その夜は約4時間、何度も繰り返して聴いた。「みんな、素晴らしい映画を観終わったときのように『Wow』となって、ただそれが最高を意味するとわかっていた」。
なお皮肉なことに、仲介役のKeithは、この音楽にそれほど反応しなかった。彼はThe Beach Boysの初期のサーフ・サウンドの方が好みだった――とBruceは後に苦笑いしながら明かしている。
 この夜が何を生んだか。Paulは後に繰り返し、明確に証言している――「Sgt. Pepper'sを録音する際に考え始めた大きなきっかけは、基本的に『Pet Sounds』だった」。The Beatlesの担当プロデューサーだったGeorge Martinも「『Pet Sounds』なしに『Sgt. Pepper's』は生まれなかった」と断言した。Rubber SoulがPet Soundsを生み、Pet SoundsがSgt. Pepper'sを生んだ、ロック史上最も有名な連鎖反応の触媒となったのは、Keith MoonとBruce JohnstonのLondonにおけるWaldorfの一夜だった。
そしてその出発点に、Romfordのあの爆笑ライブがあった。

1966年6月 KRLA-Beat誌記事    プロデュース予定だったが.....

 興奮冷めやらぬBruceはRomfordから戻った後、記者たちにこう宣言していた。「ぼくはプロデューサーに戻る!Tony Rivers And The Castawaysで仕事をする。きっとヒットを出させる!」。しかし実際は何も実現しなかった。Tonyたちは自力で「God Only Knows」のカヴァーを仕上げ、1966年7月22日――The Beach Boysのオリジナルと同日――にリリースした。Melody Makerチャートで46位。The Beach Boysのヴァージョンは2位だった。

 「God Only Knows」におけるBruceの役割は、一般に思われているより遥かに大きい。Carlがリードを歌い、BrianとBruceがハーモニーを担当したこの曲は、当初Marilyn、Diane、Terry Melcherを含む大人数で録音されていた。しかしBrianは過剰と判断し、Carl・Brian・Bruceの3声部に絞り込んだ。「God Only Knowsには3声部しかない――あれほど有名なBeach Boysの曲の中で唯一の例だ」とBruce自身が語っている。

 そしてコーダこそ、Bruceらしさが最も光る瞬間だ。長いセッションの末にCarlが疲れて帰宅し、残ったのはBrianとBruceの2人だけだった。Brianはエンディング・セクションのトップとボトムのパートを自ら歌い、ミドルをBruceに任せた。あの甘く繊細なコーダは、Bruceなしには存在しなかった。「彼が2つのパートを歌い、私が真ん中を歌った」——Bruceはその夜のことをそう振り返っている。加入から1年も経たない新参者が、Beach Boys史上最も美しいと言われる曲の核心部分を支えていたのだ。なお、このコーダにはひとつの注記が必要だ。モノ原盤ではコーダの冒頭でBrianがCarlのリードを引き継ぎ、BruceとBrianが交互に重なっていく。しかし1996年のステレオ・ミックスでは、Carlが後日同じマルチトラックに上書き録音したためBrianのパートが失われており、コーダ冒頭はCarlの声で始まる。Brianの痕跡は、モノ原盤の中に静かに刻まれている。



 「Thank You, Baby」という曲は、Bruce Johnstonが書いた楽曲のなかでも、とりわけ不思議な生命力を持つ一篇である。Bruce & Terryのオリジナルは時代の波に飲まれたかもしれないが、この曲そのものは静かに、しかし確実に、さまざまな歌い手の声を借りて生き続けた。ここではその足跡を、録音の年代順に辿ってみたい。


Graham Bonney(1967年1月) UK Columbia 45rpm DB-8111

Produced by Bruce Johnston and Graham Bonney

Arranged by Bruce Johnston and Arthur Greenslade


 カヴァー列伝の時系列を正確に辿るならば、その第一走者はイギリス人シンガーGraham Bonneyでなければならない。Bruceが「Thank You, Baby」をBonneyと共に再録音したのは1966年末、Londonのスタジオでのことだ。アレンジはBruceとArthur Greensladeが共同で担当し、プロデュースはBruce自身とBonneyの連名。つまりこのヴァージョンは、作者が自ら海を渡り、異国の歌い手のために腕を振るったという点で、このカヴァー列伝の中でも特別な位置を占める。翌1967年1月、シングルはUK Columbiaレーベル(DB-8111)から英国でリリースされた。英国の音楽プレスはこの盤を好意的に迎え、Melody Maker(1967年1月14日付)はBonneyを才能豊かな好感度の高いシンガーと評し、楽曲をすぐれたビート・バラードと位置づけた上で、The Beach Boysとの関連性がヒットへの追い風になりうると期待を示した。しかし実際には、ラジオからもリスナーからもほとんど反応を得られないまま、シングルは静かに消えていった。華やかな批評と冷淡な市場――この皮肉な対比は、Bruce & Terry時代のアメリカでの経験と、どこか重なって見える。



Claudine Longet(1970年5月)

LP RUN WILD, RUN FREE(A&M SP-4232)収録、Track 6/Side 2

Arranged and Produced by Nick DeCaro


 フランス生まれの歌姫Claudine Longetが「Thank You, Baby」をカヴァーしたのは1970年のことだ。A&Mレーベルにとって最も洗練されたアーティストのひとりであった彼女のために、アレンジャーのNick DeCaroは楽曲をきわめて繊細に仕立て上げた。Nickの手になるアレンジは、原曲のもつ素朴な温かさを、より室内楽的な親密さへと昇華している。注目すべきは、このLonget版とのちのRod McKuen版の二版のみが、作曲クレジットにDinee Dudleyの名を刻んでいる点だ。出版社表記はDaywin Music, Inc.(BMI)であり、他の多くのヴァージョンがArtists Music, Inc.(ASCAP)を使用しているのと対照的である。




The Captain And Tennille(1972年2月)

LP SONG OF JOY(A&M SP 4570)収録、Track 3/Side 2

Produced by Daryl "The Captain" Dragon and Toni Tennille


 The Captain And Tennilleによるカヴァーは1972年2月のアルバム SONG OF JOY に収録された。Toni Tennilleの歌声は、ポップスの文法に忠実でありながら、どこか説教壇から語りかけるような真摯さをあわせ持っている。後に彼らが「I Write The Songs」「Disney Girls」といったJohnston作品を積極的に取り上げることになる。作曲クレジットは「Bruce Johnston」単独、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。Bruceの名のみを刻んだこのシンプルな表記が、以後の「標準型」となっていく。


Rod McKuen(1972年5月)

LP ODYSSEY(Warner Bros BS 66383)収録、Track 3/Side 1

Produced by Rod McKuen


 詩人・作曲家・歌手という三つの顔を持つRod McKuenのカヴァーは、このシリーズの中で最も個性的な変種である。Rodはただ歌っただけではなく、楽曲の冒頭に新たなヴァースを書き加え、各所の歌詞にも手を入れた。その「改作」の対価として、クレジットには「Rod McKuen-Bruce Johnston-Dinee Dudley」の三名が並び、出版社もDaywin Music, Inc.とMcKuen自身のSalvation Musicの連名となっている――Salvation Musicという社名は、McKuenが救世軍の宿泊所で生まれたという出自に由来する、いかにも詩人らしい命名である。



Andy Williams(1976年5月)

LP ANDY(Columbia OC 34299)収録、Track 3/Side 1

Produced by Larry Brown


 かつてColumbia Recordsの屋台骨を支えたAndy Williamsがこの曲を手がけたのは、1976年のことだ。Johnstonもまた同時期に同じColumbia傘下でソロ活動を展開していたことを思えば、この符合はいかにも意味深長に映る。Larry Brownのプロデュースは堅実そのもので、Andyの成熟した声の魅力を無駄なく引き出している。クレジット表記は「B. Johnston」と略記され、出版社はArtist Music, Inc.(ASCAP)。



Bruce Johnston(1976年5月)

LP GOING PUBLIC(Columbia PC 34459)収録、Track 3/Side 1

Produced by Gary Usher


 作者自身によるセルフ・カヴァーは、このカヴァー列伝の白眉である。Gary Usherのプロデュースのもと、Bruceは全ヴァージョン中最長となる4分23秒をかけて、この曲を徹底的に「自分のもの」として再構築した。Andy Williamsのヴァージョンと同じ月に、同じColumbia Recordsからリリースされたという事実もまた興味深い。GOING PUBLIC には「I Write The Songs」「Disney Girls」とともにこの曲が並んでいる。Bruceの作家的自己像を語る上で欠かせない三曲が、一枚のアルバムに揃っているのだ。クレジットは「B. Johnston」、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。

                                        

Rosemary Clooney(1977年)

LP NICE TO BE AROUND(UAS 30008)収録、Track 5/Side 1

Arranged and Produced by Del Newman


 1950年代からポップスとジャズの双方で活躍し、長いキャリアを誇るRosemary Clooneyが、この曲をUKでひっそりと録音していた事実は、多くのリスナーにとって発見であろう。Del Newmanのアレンジは、Londonのスタジオ録音らしい品のよさに満ちている。出版社表記も演奏時間も盤面には記載されていないこの版は、「Thank You, Baby」の大西洋横断の証人として、ディスコグラフィー上に静かに佇んでいる。

                                

                                      

Trevor Chance(1978年)

LP LOVE IS(LP1)収録、Track 2/Side 2

Produced by Gordon Smith。UK(Simon Records)

 このリストの末尾を飾るのは、UKのSimon Recordsという小さなレーベルからリリースされたTrevor Chanceのヴァージョンである。作曲者名のクレジットは「Johnson」――"t"が抜け落ちたまま刻まれており、大西洋を渡るうちに名前がひとつ削られてしまったかのようだ。Gordon Smithのプロデュースによるこの録音の詳細は現在も不明な部分が多いが、LA生まれの一篇のポップ・ソングが、1978年のロンドンで名もなき歌手によって歌われていたという事実それ自体が、この曲のもつ静かな普遍性を雄弁に物語っている。

 八つの声が時代を超えて「Thank You, Baby」を歌った。Bruce & TerryがColumbia Recordsのスタジオで生み落としたこの小さな宝石は、まずBruce自身の手によってロンドンへと渡り、Graham Bonneyの声を借りて英国デビューを果たした。その後Claudine Longetのフランス的エレガンスとなり、Toni Tennilleの真摯な誠実さとなり、Rod McKuenの詩人的再解釈となり、やがて作者自身の手によって最も豊かな形へと結晶した。そして再び海を渡り、名前の綴りを間違えられながらも、ロンドンの片隅で歌われ続けた。一曲の歌の生涯とは、かくも豊かなものである。与えられた時間に感謝しながら、自ら静かに幕を引く。それがこの曲の真髄だとすれば、61年間ステージに立ち続け、自らの手で次の扉を開けたBruce Johnstonもまた、音楽とファンに向けて同じ言葉を贈ることができるだろう。

Thank you, baby.



詳細ディスコグラフィは 
佐野氏作成 2017/08/30記事Favorite Musician 全音源コレクティング第3回を参照されたい。

出典
Stephen McParland著
Bull Sessions With The Big Daddy: 
Interviews with Those Who Helped Shape The California Sound
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s VOL.1
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s.VOL.2