2020年6月21日日曜日

x-bijin :『x-bijin』(nitejar / NJ01)


 今回紹介するx-bijinは、 10年前に弊サイトでファースト・アルバムをレビューしたシンガーソングライターDANIEL KWON(ダニエル・クオン)と、ぱだらいすの大野知樹が組んだユニットである。その初アルバムが6月26日にリリースされる。

 このユニットは二人でソングライティングした楽曲をダニエルのヴォーカルとギター、大野のベース、キーボード、ギターが各々担当してプレイしている。サポート・メンバーとしてダニエルのバンド・ドラマーである牛山健、先日弊サイトでも紹介したポニーのヒサミツの『Pのミューザック』にも参加した芦田勇人がペダルスティールとトランペット、同じく元“森は生きている”の増村和彦はスレイベルで参加している。 
 また元ツチヤニボンドのベーシストPADOKこと渡部牧人がマスタリングとベーシック・トラックのエンジニアリングを担当している。
 彼等のサウンドの特徴として、隙間を活かした音数少ない音像にコリアン・アメリカンであるダニエルの独特な日本語歌詞の発音が絶妙にブレンドしていて非常に心地いい点を挙げておく。では筆者が気になった主な収録曲の解説をしていこう。

 冒頭の「グレープフルーツ」は、2017年の惜しくも亡くなった伝説のシンガーソングライターの遠藤賢司に捧げたという。確かに初期エンケンに通じるデリケートなフォーキー・サウンドで、歌詞の端々には“はっぴいえんど“時代の松本隆の匂いもする。 
 続く「なにいろ」は芦田によるペダルスティールと牛山のドラミングが初期ニール・ヤングに通じており、ダニエルの発声もこのサウンドにマッチして歌詞の世界観に引き込まれるのだ。

なにいろ / X-BIJIN  

 ブルース進行のギターリフから発展させたと思しき「キューピッド」は、ポール・マッカートニー風(「Junk」など)の2ビートのレイジーなバラードだが、短波ラジオのコラージュが挿入されるなど実験性も備えたハイブリッドな構成で面白い。
 また大野のピアノにダニエルのスライド・ギターが響く「はーい」(何というタイトル)でも唐突に短波ラジオ・コラージュが挿入されているが、ソロ時代からダニエルのサイケ趣向だと思われる。後半2分55秒から始まるパートは『Friends』(68年)期のビーチボーイズ趣味が濃厚なサウンドが筆者的には興味深い。このパートが導入部のようかたちで続く「アーケード」も印象深い曲であり、複数のアコースティック・ギターが絶妙に絡んで、ベースの小気味いいフレーズがボトムを支える。ヴィブラフォンとエレキ・ギターのミニマルなフレーズと芦田のミュート・トランペットもいいアクセントになっている。
 ラストの「あのさ...」は繊細なアコースティック・ギターのアルペジオに芦田のペダルスティールが漂う小曲で、フィールド・レコーディングのノイズが挿入されて独特な雰囲気を醸し出す。
 アルバムを通してダニエルの実験性と大野のソングライティング・センスが絶妙に融合した希有なサウンドが興味を惹いた。初期はっぴいえんどや生音の宅録サウンドが好きな音楽ファンには勧められるので入手して聴いて欲しい。
(ウチタカヒデ)


2020年6月11日木曜日

【飛鳥時代から日本語が作られていく過程 / 佐野邦彦】


 自分が学生に戻れたら、絶対に日本語を研究する学科に入りたい。特に昔の日本語がどのように話されていたか、その事を知りたくてしようがなく、稀にTVでそういう特集があると録画して何度も何度も見ているほどだ。先日のNHK『探検バクモン』の「お宝本の宝庫・東洋文庫」の回の中で、一度もカメラが入った事がない貴重本エリアの中でさらにTVカメラの温度もNGという書庫の中から、世界で1冊しかない1592年出版の「ドチリーナ・キリシタン天草版」の日本語辞書の部分だ。
 日本に来た宣教師が布教のために作ったローマ字での日本語の問答集、そして日本語を日本語・ラテン語で解説したミニ辞典で、例えば「Aisuru」(愛する)が「Mote Asobu coto」(もてあそぶこと=この当時は大切にするの意味)と書かれている。豊臣政権時代の日本人がどういう言葉をしゃべっていたか分かる超一級の資料で、これには興奮した。興奮のあまり高額な「東洋文庫善本叢書」でコピー本を買ってしまったほど。




 このシリーズは東洋文庫所蔵の国宝・重要文化財の12冊の本を写真に撮って復刻したもので「説明付」と書いてあったので購入したが、本の作られた背景の簡単な説明で、こういう言葉の説明ではなく、ましてやラテン語は分からないので、今のところ眺めているだけ(笑)


 さてこういう現在の日本語が成立するまでの流れは2012年に放送した「たけしの教科書に載らない日本人の謎」が最高のテキストだった。ここで放送された内容を中心に流れを紹介したい。


① 縄文・弥生時代は日本には文字がなく、どういう言葉だったのかは分からない。


② 1世紀に「後漢書」でも記載されている「漢委奴国王金印」(江戸時代に田んぼ耕作中に出てきた)で、中国から福岡あたりを支配者に冊封の証の金印を下賜したものとされる。漢字が日本に伝わった最初のものだ。


③ 日本の知識層は中国に留学し、文字を学んでいく。飛鳥時代の遣隋使の小野妹子が有名。604年には聖徳太子が十七条憲法を作るなどしたが、みな漢文で作られた。しかし607年の国宝・薬師如来像の後ろに書かれた漢文は「薬師像作」と、既に日本語の語順で書かれていた。


④ 奈良時代になると、日本語を漢字で表現する方法を考える。暴走族のような一音一音を当て字にすると手間がかかる。それで中国語の「山(サン)」を当て字の「也麻」ではなく日本語の「やま」と呼ぶことを編み出す。そう「訓」である。

 そして漢字の「音」と「訓」を組み合わせたのが「万葉仮名」だった。「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む」は原文では「難見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 複還見牟」でアンダーラインが音、他が訓だった。
 この万葉仮名で「古事記」や「日本書記」も書かれた。そして例えば今の「キ」には、万葉仮名では漢字が2種類あって区別してあり、発音が別と分かることから、奈良時代の人がしゃべっていた音の体系が復元できた。今の日本語の母音は5つだが、当時は8つだったことも分かっている。「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」、「サシスセソ」は「ツァツィツゥツェツォ」で、また名詞も違っていて蝶々は「ディェップディェップ」というように。これで話すと「母上様、蝶々が飛んでいますよ」は「パパウエツァマ ディェップディェップンガチョンデウィマツゥィヨ」なのだから、タイムマシンで聖徳太子と話すのは難しいだろう。
 また日本語はヤマト方言と琉球方言に大別されるが、この分岐は奈良時代頃とされる。沖縄では「ハ」行が「パ」行に転化していて、また妻の「トゥジ」はこの時代の「刀自」、トンボの「アーケージュ」はこの時代の「秋津」と、奈良時代の言葉が残っている。

⑤ 平安時代になると、漢字を一つ一つ書かないといけない万葉仮名は手間だと、漢字の一部を崩したり端折って作った「草仮名」をさらに簡略化した表音文字の「ひながな」が作られる。さらに同時期、漢字の一部を使って素早く書ける「タカタナ」が、仏門の僧の間で生み出された。ひらがなに飛びついたのは宮中の女性達。 昔から女性は新しく便利でかわいいものが大好き。あの「源氏物語」もひらがなで書かれた。しかし宮中の男性は、こんな軟弱なものはダメ、男は漢字だぜと漢字を使う。しかし日本語は漢字、ひながな、カタカナで表現できるようになった。

 平安時代の日本語は、平安時代の末期に作られた「類聚名義抄」という辞書があり全ての和語にアクセントが添えられていた。また鎌倉時代の発音に関する書物、万葉仮名の発音で平安時代の言葉が導き出せた。TVではその朗読が流れるが、非常に不気味な雰囲気があり、発音が難しかったので当時は非常にゆっくりとしゃべっていたそうだ。

⑥ 鎌倉時代になって武士の時代になる。漢字はシャープなので武士に好まれ、当時和語で話されていた言葉を漢字に直して、音読みで発音した日本独自の漢字が作られていく。

 ひらがなの「かへりごと」は「返事」、「おおいにせまる(=かけがえのない)」は「大切」、「ひのこと」は「火事」という漢字を作り、従来のゆったりとした言葉から、力強くスピーディーでコンパクトな漢字が使われて、日本語は新しいステージに移る。

⑦ 室町時代は、足利尊氏が京都に幕府を開く。全国から田舎侍が集まり、京都の公家は荘園を奪われ生活が困窮するが、かわりに都言葉、立ち居振る舞いを武士に教える家庭教師として生計を立てた。

 武士も征夷大将軍や関白などの位があがるのは天皇の認可が必要で、都言葉が話せることが必要不可欠であり、武士の間に雅な都言葉が浸透していった。室町時代の日本語は、狂言で聞くことができる。

⑧ 戦国時代の主役は織田信長や豊臣秀吉という田舎の大名でなまりが抜けなかった。織田信長が明智光秀を重用したのは、京都出身で最上級の都言葉が話せたからだという。


⑨ 徳川家康が江戸に幕府を開いて260年の天下泰平の時代が訪れた。徳川幕府は藩政をしき、日本は細かい藩に分けられ、それぞれ独立採算でお互いの交流はなくなる。そのため、現在の「方言」は江戸時代に深まった。そして世界でも最高の人口となった大都市の江戸では武士は「山の手言葉」、これは都言葉で、山の手の大名屋敷に集まった武士の間で話された。時代劇で聞くあの言葉である。

 一方、庶民の間で話されたのは落語で聞けるべらんめえ調の「下町言葉」。新しい江戸というまちに全国から新しい人が集まり、噂好き、話好きの庶民の間で室町時代の言葉は、せっかちで早口な言葉に変えられていく。江戸時代の庶民の会話は、江戸時代後期の「浮世風呂」に書かれているが、そこに書かれた少女の会話は、そのまま現代の会話である。この時代にタイムマシンに行けたとすれば普通に会話が通じるだろう。

⑩ 明治維新によって、天皇も東京へ移り、政治・経済の中心は東京になる。明治維新の中心は各藩の下級武士なので方言のまま、最初の議会で、全国の議員が方言で話すので意思疎通ができず大いに困ったそうだ。

 徳川慶喜も回想録「昔夢会筆記」で、徳川将軍時代に薩摩の武士が来たが何を話しているかさっぱり分からずいいとも悪いとも言えずに非常に困ったと言っている。日本は中央集権国家となり軍隊も作る中、教育を統一するため共通語が必要だった。そのベースとなったのはやはり洗練された「山の手言葉」。
 しかし当時花魁が使っていた「です」という言葉が、武士の「ござる」や商人の「ございます」、農民の「だ」よりも簡潔で上品だと、採用されるなど例外もあった。平安時代にあった200ものひながなは現在の50音(当初は48音)にまとめられ、学びやすいものになる。
 また長州藩士が「下僕」を「僕」、「主君」を「君」と言っていた表現も定着していった。しかし海外に門戸を開いた日本には今までにはない海外の言葉が一気に流入する。最初はそのままの外国語が使われたが、このままではいけないと文学者達が、必死に新しい漢字で造語していく。
 西洋の思想や科学技術を日本人が理解できる漢字に置き換えたのは非常に重要だった。「自由」「民主主義」「人民」「演説」「電話」「交響曲」「聴診器」などの言葉は明治時代に作られた言葉。この和製英語は本家の中国に多く逆輸入され、中国の国名の中華人民共和国の「人民」「共和」はなんと和製英語なのである。
 ただ外国人にとって「超人的」と悩ませたのは、文章にした時に話し言葉と違う「文語体」の存在だった。そこで二葉亭四迷や尾崎紅葉などによって「言文一致運動」がおこり、口語体の夏目漱石の「吾輩は猫である」はベストセラーになった。

⑪ 昭和になってラジオが普及、ラジオではそれまでの漢文訓読調から座談会のような平易なアナウンスが推奨された。そしてラジオにより共通語の正しい発音やアクセントが全国に普及する。


⑫ 戦後に文語体はなくなり、また漢字の次にあったカタカナは、ひながな優先に改められ、日本国憲法も誰でも分かりやすい漢字とひながなで作られた。本来、危険である意味で用いられた「やば」が、形容詞としての「やばい」になり、さらに「凄い」という意味でも用いられるようになるなど、日本語は常に変わっている。

 最近の若者の言葉は…というのは前述のように平安時代も同じ。日本語の変遷は知れば知るほど面白い。

(佐野邦彦)


※2017/02/20掲載 「知れば知るほど面白い、飛鳥時代から日本語が作られていく過程。タイムマシンで江戸時代では普通に会話できるが、平安時代以前はほぼ不可能だ。」を再編集掲載

2020年6月7日日曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・ソロ編 井上バンド-2)

 前回はソロになって4年目にして確固たるポジションを確立した沢田の軌跡を紹介した。 そんな沢田が次に目指したものは世界進出だった。それを目論み、ロンドン録音による全曲英詞の第6作『THE FUGITIVE ~愛の逃亡者』をリリースした。このアルバムはトニー・ウェディングトンとウェイン・ビッカートン(注1)のコンビに委ねたもので、ここに収録された<恋のジューク・ボックス (Juke Box Jive)>は、一時期沢田のライヴでは欠かせない定番になっている。 
 そして翌1975年1月にはイギリスでシングル<愛の逃亡者 THE FUGITIVE>(国内12位)を、フランスでは<Mon Amoure Je Viens Du Bout Du Monde(日本語版:巴里にひとり)>(国内5位)をリリースした。このうち、後者はフランスのチャートでトップ4に入るビッグ・ヒットとなり、日本人として初めてゴールデン・ディスク賞を受賞するに至った。 そんな海外に向けたアクションは、1978年にフランス、ドイツ、ベルギー等でシングル<Rock'n Roll Child>を発売している。その後1974年のハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、1980年・1982年には香港にてコンサートを開催した。

 またミュージシャン以外に俳優活動も始め、『悪魔のようなあいつ』(注3)の主演を務めている。この劇中歌となった<時の過ぎゆくままに>はソロ3曲目の1位で、しかも5週連続(91.6万枚:年間4位)という堂々たるもので、彼最大のヒットとなった。

 なおこのドラマで共演した岸部修三はシングルの録音が終わり放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、翌年には岸部一徳と改名し俳優の道に進んでいる。これによってこの時点まで存在が曖昧だったPYGは完全に消滅したと言える。

 
 そんなドラマの放映中の7月20日に、比叡山でファンに向け伊藤エミ(ザ・ピーナッツ)との結婚を報告するフリー・コンサートを開催している。そこでは井上バンドとミッキー吉野グループ(注2)を率い、ブルーのラメ入りアイシャドウを施したい派手なでたちでライヴに臨んでいる。 
 この結婚報道後も「ジュリー人気」は衰えることはなかった。それを象徴していたのが人気テレビ・ドラマ『寺内貫太郎一家』での、貫太郎の母役きん婆さん(当時:悠木千帆、現:樹木希林)が、沢田のポスターを見て「ジュリ〜ぃぃ」と身悶えしながら叫ぶファン心理をくすぐるお約束のポーズといえるだろう。 
 そして12月にリリースした大ヒット曲<時の過ぎゆくままに>を収録した7作目のアルバム『いくつかの場面』は、細野晴臣、鈴木茂、大瀧詠一、山下達郎など、井上バンド以外のミュージシャンが参加し、ジュリー・マニア以外にも大きな反響をよんだ。 
 このようにソロとして順調に見えた沢田ではあったが、1976年12月と翌1977年5月に発覚した暴行事件により、マスコミのバッシングにあい、1ヶ月間の謹慎処分を受けることになる。復帰後、久々に沢田自身の全作曲による力作『チャコール・グレイの肖像』をリリースした。ここからシングルとなった<コバルトの季節の中で>(7位)は、個人的にいえば沢田の自作中トップ・クラスに挙げられるほどの秀作だった。しかし事件の影響か思ったような成果は上らず、この年はNHK紅白歌合戦、賞レースなど催しを全て辞退している。この様子に「ジュリーもこれまで」といった報道が飛び交っている。 

 そんな逆風状態で迎えた翌1977年には開き直りとも思えるような行動に出た。まず年初の<さよならをいう気もない>(8位)では金色のキャミソールという衣装で登場、以後ヴィジュアル重視のスタイルをエスカレートさせていく。そして5月に発売された<勝手にしやがれ>ではかぶっていたパナマ帽を客席に飛ばすというパフォーマンスで、子どもたちもマネをするほど大きな話題をふりまいた。この曲はソロとして4曲目の1位で、しかも5週連続(89.3万枚:年間4位)という華々しいものだった。
 更にこのような派手なパフォーマンスは、Charとの共演でも話題になった<憎みきれないろくでなし>(3位)での“くわえ煙草にポリス・ハット”もきまりまくりっていた。そして年末には、ワインCMソング<あなたに今夜はワインをふりかけ>を収録した10作目『思いきり気障な人生』をリリース。このアルバムは沢田にとって自身最大ベストセラーとなり、一時の迷走から完全復活を果たした。

 その結果、この年の第19回日本レコード大賞、第8回日本歌謡大賞をW受賞するなど、同年の主要な賞レースを独占し、誰しもが認めるトップの座に返り咲いた。そして、この年にはタイガースから通算して、シングルの売上が1,000万枚を突破するという快挙も達成している。

 向かうところ敵なしといった1978年にはさらにヴィジュアルは過激化する。まず、刺青風の模様が施されたシースルーの上にナチスを連想させるハーケン・クロイツの腕章が施された軍服を羽織って歌う<サムライ>(2位)、セーラー服をプリントしたTシャツを着て水兵に扮した<ダーリング>(5曲目の1位)、オスカルの衣装に身を包んで歌う劇場用アニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のエンディング・テーマ<ヤマトより愛をこめて>(2位)。さらに<LOVE(抱きしめたい)>(4位)ではスタジオに雨を降らせて血で染まった包帯を手に巻くというパフォーマンスを披露している。

 そんなこの年は年間のテレビ出演(バラエティ番組含)700本以上、ラジオ300本、地方公演100回など神出鬼没の露出ぶりで、恒例行事となったライヴ・アルバムも田園コロシアムのパフォーマンスをカセット限定で発表した。そのフィナーレとなった同年の第29回NHK紅白歌合戦では、紅白共にポップ・シンガーとして初のトリ(注4)を務めている。 
 このように誰しも認めるスーパー・スターとなった沢田は1979年も攻めのスタイルを加速させ、<カサブランカ・ダンディ>(5位)では歌いだしでウイスキーを口にふくんで霧のように吹き上げるのがお約束。また沢田自身が最も気に入らない曲と公言している<OH!ギャル>(5位)では、曲への反発もあってかマレーネ・ディードリヒをオマージュした女装メイクで登場し、身内の事務所から猛反発を買うこともあった。なおこの行動はブレーンの加瀬邦彦も後押ししていたようだった。このように常に話題のメイン・ストリートを突っ走っており、その存在感はアイドル歌手石野真子が<ジュリーがライバル>を歌うほどだった。 

 さらに歌手だけでなく俳優としても、主演した映画『太陽を盗んだ男』が第4回報知映画賞の作品賞に輝き、主演男優賞とW受賞。さらにキネマ旬報読者選定邦画部門で1位に選出され、日本アカデミー賞でも主演男優賞にノミネートされるほどの評価を得ている。 
 そんな沢田は11月に第10作『TOKIO』をリリースする。このアルバムのレコーディングには井上バンドの参加が大幅に後退し、当時ブレイクの兆しを見せていたYMO(注5)風のテクノ・サウンドを意識するものとなっていた。 
 そして、翌1980年1月1日にここからシングル・カットされた<TOKIO>(8位)のパフォーマンスでは、聴衆の度肝を抜くような電飾が施されたスーツ(注6)を身に纏い、パラシュートを背負って歌唱する奇抜なパフォーマンスで日本中を唖然とさせている。ただこのように過激なコスチュームに走る沢田の姿勢に対して井上堯之は拒絶し、同年1月24日にバンドを解散させ、PYGから続いた井上との蜜月は終焉となった。 
 
 とはいえ沢田のライヴにはパーマネントのバンドは不可欠であり、これ以降新たなバンドの結成を即し、AlwaysやEXOTICSを編成していくことになる。なおこのコラムは1970年代を振り返るものだが、1980年代のジュリーは日本の音楽シーンにとって欠くことの出来ないアイコンのひとりであり、その軌跡を完結編として次回まとめることにする。 


(注1)1970年代中期に活躍したソングライター&プロデューサー・チーム、1974と1977 年には英国の「ソング・オブ・ザ・イヤー」を受賞。代表作にはトム・ジョーンズの<Can’t Stop Loving You>(全米25位)、The Flirtations<Nothing But A Heartache>(全米34位)、そして1974年に全英1位(全米37位)となったルベッツ<Sugar Baby Love>等がある。1975年に自身のStateを設立。 

(注2)1974年にバークリー音楽院の留学から帰国した元ゴールデン・カップスのミッキ ー吉野が、以前から活動を共にしていたスティーヴ・フォックス、それに元The M の浅野孝己などと結成したバンド。1975年にソロ活動中のタケカワユキヒデ のサポートやレコーディングへの参加をきっかけにゴダイゴへ発展する。 

(注3)「3億円強奪事件」をテーマに製作されたTBSドラマ。 

(注4)紅組は山口百恵で彼女(当時18歳)の最年少記録は未だ破られていない。 

(注5)YMOが大ブレイクする『Solid State Suviver』の発売は1979年9月25日。 

(注6)総額250万の費用をかけたパラシュートを背負う衣装。そのコスチュームはビートたけしが「タケちゃんマン」の衣装に転用している。 


『比叡山フリーコンサート with 井上堯之Band,ミッキー吉野グループ』
 1975年10月10日 /  Polydor /  DR-950/1 国内チャート 4位 / 4.1万枚 

①Be My Brother Be My Friend、②夢のつづき、③グッド・ナイト・ウィーン((It's All Down To) Goodnight Vienna)(リンゴ・スター、:1972)、④夜の都会 NIGHT TIME、⑤恋のジューク・ボックス(Juke Box Jive)(ルベッツ:1974)、⑥十代のロックン・ロール(WAY BACK IN THE FIFTIES)(ルベッツ:1974)、⑦キャンディー CANDY 、⑧To Love Somebody、⑨時の過ぎゆくままに、⑩お前は魔法使い、⑪Medley:(1)Group Baund(インストルメンタル) (2)Move Over (3)The Jean Genie (4)You Gatta Move、(5)See See Rider、6)美しすぎて(You're So Beautiful)(ビリー・プレストン:1973/ジョー・コッカー:1974)、⑫花、太陽、雨、⑬自由に愛して歩いて、⑭What'd I Say、⑮聖者の行進(The Saints)、⑯気になるお前、⑰悲しい戦い、⑱残された時間、⑲叫び 

 1975年7月20日 蛇ヶ池人口スキー場に於ける、ピーナッツ伊藤エミとの結婚報告の披露したフリー・コンサート。この公演は後のGodiegoを連想させるようなミッキー吉野作①でスタートしている。当時の井上バンドはドラムの原田裕臣とベースのサリーが抜けたばかりだったが、原田はミッキー吉野バンドに加入しており観客には違和感なく馴染んでいたようだった。ジュリーのライヴとしては珍しくゲストにディヴ平尾、内田裕也、サリー、タローと昔からゆかりのメンバーが顔を揃え、⑭⑮で白熱のステージを披露している。

参考:カヴァー収録曲について
③グッド・ナイト・ウィーン  
 リンゴ・スターの1974年第4作アルバムのタイトル曲で、シングルは全米31位。

 ⑤恋のジューク・ボックス 
 1974年にリリースされたルベッツのサード・シングルで全英3位を記録。

 ⑥十代のロックン・ロール  
 1974年12月にリリースしたルベッツのファースト『Wear It's 'At』収録曲。

⑪Medley(6)美しすぎて  
 1974年にジョー・コッカーが全米5位に送り込んだ代表作のひとつで、第4作『I Can Stand a Little Rain』に収録。作者はB4『Let It Be』のセッションに参加した鍵盤奏者ビリー・プレストンで、自身も1974年5月リリースの第9作『The Kids & Me』に収録。


『リサイタル・ハムレット』 1977年8月10日 /  Polydor /  MR-9608/9    国内チャート 4位 / 6.5万枚

オーヴァーチュアー、②銀河のロマンス、③僕のマリー、④モナリザの微笑み、⑤君だけに愛を、⑥美しき愛の掟、⑦シーサイドバウンド、⑧青い鳥、⑨ラブ・ラブ・ラブ、⑩序曲~プロローグ~、⑪先王の死(Le Vieux Roi)、⑫先王の亡霊(Le Spectre Du Roi)、⑬亡霊の言葉(Priere Du Specture A Hamlet)、⑭忘れてしまおう(J'effacerai De Ma Memoire)、⑮俺は気が狂った(Je Suis Fou)、⑯狂気のオフェリア(OphelieE Oh Folie)、⑰なすべきかなさざるべきか(To Be Or Not To Be)、⑱静粛に (Ecoutez)、⑲オフェリアの死(いとしのオフェリア)(La Mort D'Ophelie)、⑳オフェリアへの愛(Je L'Aimais)、㉑終曲(Le Rideau Tombe)、㉒危険なふたり 、㉓勝手にしやがれ、㉔さよならをいう気もない、㉕時の過ぎゆくままに、㉖愛の出帆 LA MALADIE D'AMOUR (訳:竜真知子/Jacques Levaux) 、㉗愛は限りなく(Dio Come Ti Amo:J.Revaux) 、㉘誓い-二人の心- LE COEUR EN DEUX (Jacques Levaux) 、㉙SUPERSTAR(ベートーヴェン交響曲第5番第4楽章付 Tim Rice Andrew Lloyd Webber )、㉚I Belive In Music 

 1977年6月29日-30日NHKホールでスタートしたライヴ・パフォーマンスに演劇的要素を盛り込んだステージ。大復活を遂げたからこそ実現した、変幻自在のパフォーマンス活動といえる。 

『Julie Rockin’ Tour ’78( with 井上堯之Band,Horn spectrum)/田園コロシアム・ライブ』 1978年10月5日 /  Polydor KMF-1021 (カセットテープのみ)
  
①LIES (ストーンズ:1978)、②That All Right、③ハッピー・レディ、④探偵(悲しきチェイサー) 、⑤LOVE(抱きしめたい) 、⑥女はワルだ、⑦ヤマトより愛をこめて、⑧I Saw Her Standing There(B4:1965/エルトン・ジョン:1978)、⑨ダーリング 、⑩Hot Legs(ロッド・スチュワート:1977)、⑪Born Loose(ロッド・スチュワート:1977)、⑫I've Got The Music In Me (キキ・ディー・バンド:1974)、⑬(Encor)Rock'n Roll Child、⑭お前は魔法使い、⑮時の過ぎゆくままに、⑯I Belive In Music 

 1978年8月31日 の田園コロシアム・ライヴから。ロッド・スチュワートの最新作からのカヴァーに加え、1977年にドイツ・ベルギー・オランダでリリースしたシングル⑬を披露するなど、スーパースターらしい存在感が際立っている。 

参考:カヴァー収録曲について
①LIES 
 1978年にストーンズが発表した第8作『Some Girls(女たち)』の収録曲。このアルバムからロン・ウッドが全面参加(正式加入はビル・ワイマンが脱退した1991年)となった最初のアルバム。当時パンク・ロッカーたちに旧世代の代表格として標的となっていた彼らが、彼らの挑戦に対する解答として発表。このアルバムは全収録曲がライヴで披露されたほどの傑作だった。

⑧I Saw Her Standing There 
 B4の英国デビュー・アルバム『Please Please Me』収録曲。米国では<I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)>のB面ながら、14位のヒットとなる。全米1位となったエルトン・ジョンの1975年シングル<フィラデルフィア・フリーダム>B面にライヴで収録。それは1974年11月28日のエルトンのマディソン・スクエア・ガーデン公演に、ジョン・レノンが飛び入りした共演したものだった。 

⑩Hot Legs、⑪Born Loose  
 1977年にロッド・スチュワートが発表した第8作『Foot Loose & Fancy Free(明日へのキック・オフ)』の収録曲。⑩はシングル・カットされ、全米28位と全英5位を記録。なおこの曲はビートたけしのステージ・レパートリーでもある。

 ⑫I've Got The Music In Me  
 エルトン・ジョンのレコーディングに参加していたキキ・ディーがキキ・ディー・バンド名義で1974年7月にリリース。エルトンの設立したロケット・レコードからの作品で、全米12位と全英19位を記録した代表曲のひとつ。なお彼女は1976年にエルトンとのデュエットでリリースした<Don’t Go Breaking My Heart(恋のデュエット)>が全米全英で1位を記録している。 

『Julie Rockin’ Tour ’79 (with 井上堯之Band) 1979年8月25日 / 
 Polydor  KRZ-5001(カセットテープのみ) 

①OPENING~So Glad To See You Here(ウィングス:1979)、②おまえのハートは札つきだ、③恋のジューク・ボックス、④カサブランカ・ダンディ、⑤MC~アムネジア、⑥TOKIO、⑦Red Summer(Coca Cola CM Song)、⑧危険なふたり、⑨花・太陽・雨 、⑩Sunday Driver、⑪トロピカル・ウィンド・Summer、⑫翔べ“スニーカー”、⑬Brown Sugar(ストーンズ:1971)、⑭Only You Can Rock Me(U.F.O.:1978)、⑮We All Fall Down~堕ちてゆく夜、⑯ダーリング、⑰憎みきれないろくでなし、⑱Oh!ギャル、⑲勝手にしやがれ、⑳サムライ、㉑夜の河を渡る前に、㉒気になるお前 、㉓Stay With Me Baby(ロレーヌ・エリソン:1966)

  1979年7月28-29日の 渋谷公会堂公演で、これまで同様にバックは井上堯之バンド。ここでは11月に発表される予定の第10作『TOKIO』から収録曲をいち早く披露しているが、シングルとなる<TOKIO>の演奏は純粋なロック・ナンバーで“テクノ色”は薄い。また当時オンエア中のCoke CMを歌っているのも興味深いところ。

 参考:カヴァー収録曲について
①So Glad To See You Here  
  ポール・マッカートニー率いるウイングスと総勢23名の豪華ロック・スターの集結した“ロッケストラ”として録音されたナンバー。1979年第7作でバンドのラスト作となった『Back to the Egg』に収録。

 ⑬Brown Sugar 
 1971年にストーンズが自身のレーベルRolling Stonesレコードから初リリースした『Sticky Fingers』収録曲。シングル・カットされ全米1位を記録した、彼らの代表曲のみならず、ロックの古典的ナンバーのひとつ。

 ⑭Only You Can Rock Me
  “神”の異名を持つギタリスト、マイケル・シェンカーが在籍したことで知られる英国バンドU.F.O.の1978年第7作『Obsession(宇宙征服)』収録曲。シングル・カットされ全英50位と、バンドとしての初ヒット。

 ㉓Stay With Me Baby
  1966年にレディ・シンガー、ロレーヌ・エリソンが全米64位ソウル・チャート11位を記録した代表作。作者は<Time Is On My Side>で知られるジェリー・ラゴヴォイ、と<ライオンは寝ている(Lion Sleep Tonight)>のジョージ・デヴィッド・ワイスの共作。 

                                 (鈴木英之)

2020年6月1日月曜日

ポニーのヒサミツ:『Pのミューザック』(HAYABUSA LANDINGS / HYCA-8001)


 シンガーソングライター前田卓朗のソロユニット“ポニーのヒサミツ"が4月22日にサード・アルバム『Pのミューザック』をリリースした。 少し遅くなったがここWebVANDAでも紹介したい。
  “ポニーのヒサミツ”は、インディー・ロック・バンド、“シャムキャッツ”のボーカル、夏目のバンド“夏目知幸とポテトたち”のメンバー等として活動していた前田卓朗が、2008年から活動していたソロユニットである。これまでに3枚の7インチシングルとCDシングル1枚、2枚のフルアルバムをリリースしており、個性的なカントリーテイスト溢れる作風が各所で注目を浴びている。



 本作『Pのミューザック』は、一聴してカントリー・フレイバー漂う英国田園ポップ&ロック・サウンドで、ポール・マッカートニー及びそのフォロワー信奉者に歓迎されるだろう。そのポールのファースト・アルバム『McCartney』(70年)よろしく本作では、前田の一人多重録音を多用してレコーディングされており、VANDA読者にはお馴染みのエミット・ローズにも通じるのだ。
 ゲスト・ミュージシャンには前田も参加するバンドSpoonful of Lovinʼの現メンバーで、元“森は生きている”の谷口雄がアコーディオンで参加しており、“森は生きている”コネクションでは、ドラマーで弊サイトでもお馴染みの増村和彦がパーカッション、リーダーの岡田拓郎はミックスで関わっており、この名バンドの絆は強いということを知らしめた。 
 その他にも前出のSpoonful of Lovin'をはじめroppen、bjonsといったバンドのギタリストである渡瀬賢吾はスライドギター、サボテン楽団こと服部成也がエレキギターとバンジョー、yumboやjonathan conditionerで活躍する芦田勇人はトランペットとユーフォニウムで参加している。
 また空気公団のサポート・メンバーやザ・なつやすみバンドのフロントマンとして知られ、昨年前田の妻となった中川理沙がコーラスで参加しているのも注目に値するだろう。
 アルバムのマスタリング・エンジニアは、ゆらゆら帝国やギターウルフ、SCOOBIE DOらの諸作で知られる中村宗一郎(PEACE MUSIC)が手掛けている。


ポニーのヒサミツ 3rd ALBUM『Pのミューザック』Trailer 

 ここでは筆者が気になった主な収録曲の解説をしていく。 
 冒頭の「Love Song」はタイトルとは裏腹にアコースティック・ギターのリフの循環で展開する陽気なカントリー・ブルース調のポップスだ。2分弱の小曲ながら前田の一人多重録音による無骨なドラムや服部のエレキギターがいいアクセントになっている。
 続く「my‬ dear 霊dy」は前曲以上にポール色が強く、古くは「Martha My Dear」(『The Beatles』収録 68年)や「Uncle Albert / Admiral Halsey」(『Ram』収録 71年)の♪Hands across the waterからの後半パートを彷彿させるアレンジとサウンドを持っている。筆者的にはファースト・インプレッションでベストトラック候補に挙げる。
 「Blackbird」(『The Beatles』収録 68年)に通じる「ライカ」も印象に残る曲で、複数のアコースティック・ギターのアルペジオの有機的なタペストリーが実に味わい深く、堀込泰行にも通じる前田の美しい声質が最も活かされている。この曲では増村和彦がボンゴやシェイカーなどパーカッションで参加している。
  「mutt on」は正に「Ram On」(『Ram』収録 71年)に通じるウクレレ主体の小編成のインスト小曲で本作中盤のいいアクセントになっている。


 ただ、甘やかな日々 / ポニーのヒサミツ   

 本作のリードトラック的位置にある「ただ、甘やかな日々」は、八分刻みのピアノとチェンバロが主体となる牧歌的なポップスで、芦田のホーンと前田自身によるエレキギターがいいアクセントになっている。前出の「my‬ dear 霊dy」と同様に「Martha My Dear」からの影響が強そうだ。
 続く「ありふれた話」はアレンジ、楽器編成的にも「I Will」(『The Beatles』収録 68年)の匂いを感じるプリティーな小曲である。この曲でも増村の複数のパーカッションが曲を演出している。
 前出のリプライ曲「mutt on(Reprise)」からラストの「あたたかなうた」への流れは唐突なようだが、如何にもなポールイズムを感じさせて感心してしまう。この曲は2ビートのリズムを基調としたピアノ主体のフォーリズム編成にエレキのアクセントが加わり、間奏での芦田のトランペット・ソロも実に効果的である。
 コーダではバンジョーをプレイした服部、「火を放つ」に参加した谷口(アコーディオン)と渡瀬(スライドギター)に中川理沙も加わって自然発生的なコーラスを展開して大団円を迎えるのだ。
 弊サイトの読者は勿論のこと、ポール・マッカートニーやエミット・ローズの熱心なファンは入手して聴くことを強くお勧めする。 
(ウチタカヒデ)