2016年10月30日日曜日

TOYONO 『黒髪のサンバ』 (Victor Entertainment / VICL-64639)


 ブラジリアン・ミュージック系女性シンガー・ソングライターのTOYONO(トヨノ)が、6年振りとなるフル・アルバム『黒髪のサンバ』をビクターからリリースした。
 キャリア初のメジャー作品ということで、レコーディングに挑むアティチュードもこれまでの作品以上に高いものになっていたであろう。
 07年の『pelicano heaven』から発展し、14年に同作のプロデューサーでギタリストの竹中俊二を中心に結成されたバンド、ペリカーノ・ヘヴンの鉄壁なアンサンブルに加え、世界的パンデイロ奏者で彼女の師匠でもあるマルコス・スザーノの参加がこのアルバムに大きな躍動感を与えているのも聴き逃せない。
 またレコーディング&ミキシング・エンジニアは、マイケル・ジャクソンやマライヤ・キャリーなどを手掛け、世界規模で活躍し現在は日本在住というニラジ・カジャンチが担当している。

 加えて「イパネマの娘」、「マシュ・ケ・ナダ」といった世界的なブラジリアン・スタンダードに、マイケル・ジャクソンの「Rock with You」(『Off The Wall』収録79年)やシティポップとして再評価が高まっている1986オメガトライブの「君は1000%」(86年)のカバーも収録ということで、初めてTOYONOのサウンドに触れる読者にも大いにお勧め出来るのだ。

 

 ここでは筆者が気になった曲を中心に紹介していきたい。
 ピアニスト光田健一作曲による冒頭のインスト小曲「マリアへ」の静寂から一転し、高速ボサノヴァで演奏される「イパネマの娘」のカバーがいきなり始まる。右チャンネルにスザーノのパンデイロ、左チャンネルに竹中のギターと、高度な演奏のコントラストをバックにTOYONOが麗しい歌声を聴かせる。
 数多あるこのカバー・ヴァージョンの中でも上位に挙げられる解釈ではないだろうか。
続くTOYONOオリジナルの「サウヴァドール」は、クラッシャー木村のヴァイオリンと柏木広樹のチェロをフューチャーしたタンゴ風味のブラジリアンAORだ。
ⅡⅤ系のコード進行は、熱心なAORやブラコン・ファンなら必ずや琴線に触れるだろう。

 ブラジルの著名なシンガー・ソングライター、ジョルジュ・ベンのオリジナルで、66年にセルジオ・メンデスがヒットさせた「マシュ・ケ・ナダ」も取り上げられているが、ここでのリズム・アプローチは、スティング(ポリス時代含む)を想起させるクールで変則的なスカで演奏される。このアイディアはTOYONO本人からの提案らしく、さすがスザーノに師事していた彼女ならではの音楽的パラダイムシフトであると脱帽してしまう。
 AKAKAGEことDJ兼音楽プロデューサーの伊藤陽一郎作曲で、TOYONOが作詞した「ブラジリアン・カラーズ」もフュージョン的要素を持つブラジリアンAORで、70年代後期のCTIレコード・サウンドが好きな音楽ファンにお勧め出来る。

 アルバム中最も異色であると思われたマイケル・ジャクソンの「Rock with You」のカバーだが、竹中のアレンジによる大らかなハチロクのリズムで演奏され、TOYONOの一級の歌唱力で違和感なく聴けてしまう。
 また1986オメガトライブの「君は1000%」は、ギターのみのシンプルなボサノヴァでカバーされ、この曲の持つ情熱を静かに表現した素晴らしい解釈である。
 ラストはブラジル音楽の至宝、アントニオ・カルロス・ジョビン作のブラジリアン・スタンダード「Desafinado」を取り上げ、バイノーラル・レコーディングで挑んでいる。 このレコーディング効果により臨場感はライヴ並みのリスニングを楽しめるのだ。

 このTOYONOの 『黒髪のサンバ』は、拘り派のポップス、ソフトロック・ファンが多い本誌読者にも大いにお勧め出来る内容なので、興味を持った方は是非購入して聴いてほしい。
またこのリリースを記念したライブが渋谷のJZbrat sound of Tokyoで開催されるので、詳細は下記のリンクからチェックしてほしい。
11/7(月)TOYONO「黒髪のサンバ」リリース記念ライブ@JZbrat sound of Tokyo 

 (ウチタカヒデ)



2016年10月27日木曜日

☆『The Beach Boys Pet Sounds(ペット・サウンズ・ストーリー)』(Universal/UIXY15012)Blu-ray


先日紹介した『The Wrecking! Crew』(390分の特典ディスクのインタビューが入ったBlu-rayDVD)ヴァージョンのこと。以下同じ)と比べてしまうと『The Beach Boys Pet Sounds(ペット・サウンズ・ストーリー)』は残念ながら取材力が相当にショボかった。メンバーのブライアン、アル、ブルース、マイク、作詞のトニー・アッシャーは当然、さらに『Pet Sounds』時は脱退させられていたデビッド・マークスも登場したのは最低限の登場だが、アルバムではメンバーは一切演奏せずセッション・ミュージシャンのいわゆるレッキング・クルーが担当していたのにその最も重要な部分がドラムのハル・ブレインとピアノのドン・ランディだけなのには驚いた。この2人は『The Wrecking! Crew』にも登場するが別コメントだったのは幸い、しかし『The Wrecking! Crew』に登場したベースのキャロル・ケイ、ギターのビリー・ストレンジがそれぞれ「Good Vibrations」と「Sloop John B」での初めて聴く貴重なエピソードを語っていたのにその取材すらしていないのはどういうこと?さらにパーカッションのゲイリー・コールマンも『Pet Sounds』時の思い出を述べていたがそれもなし。そして『Pet Sounds』から「Good Vibrations」へ続く一連のセッションでは『The Wrecking! Crew』に登場したグレン・キャンベル、ビル・ピットマン、ラリー・ネクテル、アル・ケイシー、プラス・ジョンソン、マイク・メルヴォイン、フランク・キャップ、ライル・リッツ、マイク・デイジーが参加しているのでいくらでも重要な証言が取れたのに一切取材しなかったのは最悪である。みな高齢なので、チャンスは今のうちなのに…。他に登場するのは『Pet Sounds』のエンジニアのブルース・ボトニックとビーチ・ボーイズのステレオミックスなどで有名なマーク・リネット、そして当時ライブを同行したことがあるヘレン・シャピロ、ここまではいいが、あとライター3人は無しだろう。ということで残念感漂うこのBlu-ray、本編は59分と短いがその中でいくつかエピソードを紹介しよう。

最初にデビュー期からの話があるが目新しいものはなく、映像では初期の一瞬のプライベートフィルムにこれ見た事ないかも?みたいなシーンがあるが、演奏シーンではないので売り物になるものはない。

エピソードとしては「Sloop John B」はなかなかいい。アル・ジャーディンが大好きなキングストン・トリオの「Sloop John B」をブライアンに取り上げて欲しくてコードの一部をマイナーコードに変えビーチ・ボーイズ向けとアピール、それを気に入ったブライアンがアレンジを翌日には完成させていてアルは心底驚かされる。ハル・ブレインは今まで聴いたことがないダウン・ビートにまず驚き、エンディングでは荒波を表現するようにドラムのパターンをどんどん変えていき最後は2つのドラムを使って高音のスネアと低音のフロアタムで表現するというのがビーチ・ボーイズでのマジックだったと語る。

曲は「I Just Wasn’t Made For These Times」へ移り、マイクはビーチ・ボーイズにしかできない洗練され息の合ったハーモニーを誇らしげに語る。「Wouldn’t It Be Nice」ではアルいわく「英国将校のようなタフさ」で完璧な歌を要求したそうだ。マーク・リネットはブライアンになぜこの曲にマイクを参加(サビのリード)させたんだ?と聞くと、ブライアンはマイクにこの歌に参加してもらいたかったんだと、最も協力的でなかったマイクへリーダーらしい心配りを感じさせてくれた。

ここで作詞担当のトニー・アッシャーのエピソードが登場する。ブライアンはキャピトルの録音スタジオで偶然立ち話をしたトニー・アッシャーを抜擢するが、ブライアンは「張りきった感じではなく控えめで落ち着いているいい人柄」「人の気分を良くする何かがあった」ところが気に入り、言葉の使い方の上手さに魅かれ、家へ呼んで少し曲を書くとそこにトニーが歌詞を書くという作業が続き、メンバーが日本などに行っている間に『Pet Sounds』を仕上げていった。マイクも「トニーの協力は素晴らしいものだった。素晴らしい書き手だ」と手放しにトニーを褒めていた。

I’m Waiting For The Day」はラブ・ソングとハッピーソングを合体させたものでマイクの貢献が大きいという。そしてキャロル・ケイの見事なベースにブライアンは「彼女はとても独創的でいつもぴったりビートと合っている」と褒める。しかし彼女のコメントはなし…。

この『Pet Sounds』のブライアンの仕事ぶりはアルとブルースでニュアンスが違う。アルはその前の「Sloop John B」のセッションで呼ばれなかったことを憤慨したが我慢したと言っているし、アルバムは「録音はブライアンは楽しかっただろう。レッキング・クルーと付き合えたし。ふんだんに金をつかって試行錯誤できる。まるでお菓子屋に入る子供のようだった」と冷めた目で語るが、ブルースは「演奏家はなんでも演奏できた。ブライアンは小さな交響楽団で素晴らしい演奏家で仕事ができた」と絶賛。これはアルはビーチ・ボーイズの中だけにいた井の中の蛙、ブルースは1965年に加入するまでレッキング・クルーと仕事をしながらレコード制作していたのでその凄さを知り、世界を知っている。その差からでた言葉だと思う。「Here Today」ではレッキング・クルーとブライアンの関りが語られる。ハルとランディはいつもウェスタンの第3スタジオでブライアンの書いてきた新曲に取り掛かる。譜面はコードと指示が入っただけのものだったが、ブライアンは各パートを歌ってきかせそれをレッキング・クルーのメンバーが書き取り、皆で確認して合わせるとあのサウンドが出来上がる…それは『The Wrecking! Crew』でレオン・ラッセルが言っていたのとまったく同じ、レオンはそれでブライアンを天才だとほめちぎっていた。エンジニアのブルース・ボトニックは、あの独特のピアノの音は画びょうをひとつひとつハンマーに取り付けたもので、ブライアンはすぐに魅了され使うようになったという。そしてピアノは常に3台使っていたとも。「Here Today」とアルバムの半分は8トラックのレコーダーがあるCBSのスタジオで録音したという証言も興味深い。

Hang On To Your Ego」はマイクが歌詞をLSDを使う時は自我を保てという暗示でビーチ・ボーイズにそぐわないと反対し、歌詞を書き換え「I Know There’s An Answer」にさせた。薬物に反対するマイクらしい抵抗だった。薬物が嫌いなアルもあとで理解できたというが日本語ではとてもアシッドソングとは思えない。

Pet Sounds』で一番言われるマイクの抵抗は、トニーが証言している。マイクはブライアンに「今までのやり方を変えるな。いいものを持っているのに何で変えるんだ。今のが通用しなくなるまでやればいいじゃないか。何で違うものを探し回っているんだ」と。しかしブライアンは「これはもうやった。もう飽き飽きだ」と一蹴する。ブライアン本人も「マイクはやり方を変えるなと言った。でも私はもっといい音楽に向かい前進したいんだと言った。そうしないといいアルバムにはならなかった」と。マイクはそれに対して欺瞞だと反論をしていたが説得力は薄い。どう聞いても言い訳だろう。

ブライアンとマイクはキャピトルのA&R部長のカール・エンゲマンに『Pet Sounds』を持っていく。ここからのカール・エンゲマンの話が当時のキャピトルという会社の体質を見事に体現する。「『Pet Sounds』の傾向はホットロッドやサーフィンほど素晴らしくないだろうと推測した。」ブライアンは「何で好きじゃないのか分からない。いい曲だ」というと「営業向けではないね」と。数週間置かれたあと発売しようということになったが、売れ行きは良くない。カール・エングマンは「以前の売れ行きには達していなかったのですぐさま予算に追いつくため『Best Of The Beach Boys』を作った」。ブルースは「レコード会社の信念は皆そんなところにあったんだ。まったくバカバカしい。」そしてブルースは『Pet Sounds』を持ってイギリスへ行くとみなその出来に目を輝かせレノン=マッカートニーが2度も聴いて絶賛する一連のエピソードは耳タコだろうから省略する。

その中でポール・マッカートニーが褒めちぎった「God Only Knows」にエピソードへ移る。この曲の賛辞はこれも耳タコだろうから省略するとして、この曲の歌から間奏へ移る部分でブライアンがなかなか納得できなかった時に、ドン・ランディはスタッカートで省略したアレンジを考えブライアンに聴かせるとすぐに採用された。このことはブライアンもよく覚えていて、レッキング・クルーとのクリエイティヴな仕事ぶりを感じることができる素晴らしいエピソードだ。そしてアルはこの曲をブライアンが歌わなかったのが意外だと言うが、それに対しブライアンは、カールは美しい天の声を持っていたからと語る。ブライアンはプロデューサーだったので適任者を選んでいたのだ。ここで突然、1980年代に亡くなったデニスのインタビューが挿入される。「彼がやっていることがやっとわかったのは「God Only Knows」をやった時だ。…それは意味深く崇高でもあった。『Pet Sounds』は僕にとって本当に良かった」。今はメンバーが絶賛する『Pet Sounds』だが最も早くその凄さを見抜き、最もブライアンを崇拝したのがデニスだった。

本編ではなぜかビーチ映画の映像を『Pet Sounds』の楽曲でも使っていて、そのセンスが竿悪だったことも付け加えておこう。

ボーナス映像は32分。『The Wrecking! Crew』とは違って内容的に本当にオマケ。「Good Vibrations」では、ドン・ランディらレッキング・クルーもいったいどこをやっているのか分からない、他の部分も知らない、ところが1か月くらいたってつながった音を聴いて進展が分かる。ブライアンの書くまったく違うメロディにWhy?の連続。色々なスタジオでブライアンが録音し、パートをつなぎ合わせていくモジュール技法を真っ先に使った曲だ。このあとのPVは「Fire」のものを使っていたが、見たことのないシーンが一部あり楽しい。もしかするとどこかで見たかもしれないが、この動けない体では確認することなどできないのでご勘弁。他では、エンジニアのブルース・ボトニックが『Pet Sounds』に関わったのはあのスティーブ・ダグラスの紹介でというエピソードくらい。ジャック・ニッチェがお気に入りのスタジオと聞きつけたブライアンが使うようになった。あのゴールド・スターと同じエコーが得られるスタジオで、それがブライアンが使うようになった要因だ。余談では隣にもっと大きい部屋を同じ設計で作ったが音は最悪、すぐに壊してラウンジで使ったという。ブルース・ボトニックはすぐにサンセットの音は分かるようで前述の「Good Vibrations」でマーク・リネットと聴きながらここはサンセット、ここはゴールド・スターと一発で当てながら会話していた。(佐野邦彦)
 

2016年10月17日月曜日

☆『The Wrecking! Crew レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』(ポニーキャニオン/PCXE50676)Blu-ray


「レッキング・クルー」とは本来「壊す者たち」という意味だが、1960年代にアメリカの音楽が雪崩を打ってそれまでの音楽の中心である東海岸のニューヨークから新興の西海岸のロサンゼルスに移って行った際、ロック、ポップス、R&B、ソウルなどなんでもプロデューサーの注文通りにコード譜さえあれば指示に忠実に、そしてアイデアも出し合って何でもこなしてしまうスーパー・セッション・ミュージシャンのプロ集団が生まれそう呼ばれた。NYのジャケットにネクタイ姿のミュージシャン達には、Tシャツにジーンズ姿の彼らはそう見えたのかもしれない。このレッキング・クルーを重宝したのはフィル・スペクター、そしてビーチ・ボーイズが知られているが、古くはフランク・シナトラ、サム・クックなどを経てウェスト・コーストでビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」や『Pet Sounds』でブライアンの思いを実現させ、フィル・スペクターのWall Of Soundのバッキングを荷い、かつての仲間のグレン・キャンベル、モンキーズ、ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス、アソシエイション、ママス&パパス、バーズ、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ、フィフス・ディメンション、ジャン&ディーンといった60年代を代表するアメリカのヒット曲とアルバムのバックの多くは製作者に絶対的な信頼を置かれた彼らだった。加えてこの時代の産物の例だがジョー・サラシーノの依頼で演奏を受け持った「Surfer’s Stomp」(この最初の曲はホーン中心の曲でホーンを吹いているプラス・ジョンソンの名前でどうかとジョー・サラシーノが提案したがイメージを固定したくないと断わられた。ジョーは彼の名前じゃ簡単すぎる曲だったとも言っていた)「Out Of Limits」「Batman Theme」はマーケッツの名でヒットしたため、まったく演奏ができない高校出の白人5人がその名前でへたくそなツアーをした。同じく「No Matter What Shape(ビートでOK)」はTボーンズ名義、「Let’s Go」はルーターズ名義でヒットしたが演奏はアルバムも含めインストなので全てレッキング・クルー。黒子がまかり通っていた時代だった。

この映画はセッションギタリストのトップ的存在だったトミー・テデスコが1997年に亡くなったのだが、その息子のダニー・テデスコが敬愛する父の仕事を残そうと、ハル・ブレイン、キャロル・ケイ、プラス・ジョンソンという仕事仲間を20年ぶりに呼び寄せ昔話に花を咲かせる他、同じレッキング・クルーだったあのグレン・キャンベル、そしてアール・パーマー、ビル・ピットマン、ジョー・オズボーン、アル・ケイシー、ドン・ランディらから証言を集め、さらにボーンズ・ハウ、ルー・アドラー、ラリー・レヴィン、スナッフ・ギャレット、ジョー・サラシーノといったプロデーサー陣、ミュージシャン・コンポーザーで裏方もできるハーブ・アルパート、レオン・ラッセル、ジミー・ウェッブ、シンガーというべきナンシー・シナトラ、ミッキー・ドレンツ、ピーター・トーク、ゲイリー・ルイス、シェール、人気TV番組「American Bandstand」で彼らをスターに押し上げたTV司会者のディック・クラーク、そして御大ブライアン・ウィルソンとアル・ジャーディンと、貴重な当時の証言をもらってレッキング・クルーの面々のルーツ(ジャズ出身が多い)から聞きだしていく。ミュージシャンを目指し始めはナイトクラブで演奏の腕磨いて、やがて腕と人脈で仕事得、腕のあるものは超一流のスタジオ・ミュージシャンとなって、彼らがいないと音楽が作れないと言われたほどの超売れっ子の裏方になって上記のように一時期のアメリカのロックとポップのバンドのバックの多くはレッキング・クルーという時代を作り上げた。60年代、キャロル・ケイの証言ではアメリカ大統領よりも高い年収だったという。しかし60年代後半にはバッファロー・スプリングフィールドの出現あたりからアメリカのロックはアルバムがメインとなっていき自作自演の時代となってしまったのだ。

70年代にトミー・テデスコはバレリーナ姿で「125㎏のバレリーナ」としてTVの人気番組「ザ・ゴングショー」に出演して自作の「スタジオギタリストのためのレクイエム」を歌う。「…俺はナンバーワンだった。LAの仕事は全て俺の所へ。50年代に大物なり、60年代にキングに、そして70年代がやってきて今は何でもやる…」この歌で大賞を取るが、1968年の『Lumpy Gravy』でトミー・テデスコなどレッキング・クルーの面々と仕事をしたフランク・ザッパはこう語る。「コスチュームではなくこの歌の歌詞に注目すべきなんだ。この町のビジネスのシステムが分かる。トミーは非常識なことに耐え続けたんだ」と。そしてエンディングの最初のテロップが「僕は父の話をしたくてこの映画を作った」。シンプルで最も心に訴えかける。

でも映画はトミー・テデスコ一人の話ではなく、50年代から始まって60年代に頂点を迎え、70年代にはなんとか生き延びたレッキング・クルーを通して一緒に仕事をしたプロデューサー、アレンジャー、エンジニア、コンポーザー、シンガー、ラジオDJTVの音楽番組司会者、A&Rマン、レコード会社などの関係を見事に紡ぎだした。その作り出した偉大な楽曲と一緒に。彼らは幸せだったという。スタジオでいつものみんなが顔を合わせて一斉にミュージシャン、作曲家、プロデューサー達が求める音楽を作り出す喜びは最高だったと。オーバーダブがほとんど無い時代だからこそ、みんなで顔を合わせて一緒に作り出す音楽のマジックがあったからだ。自分がずっと60年代から70年代前半の音楽に魅かれ続けているのはこれも大きな要因だったと分かる。UKのロックバンドは自作自演が多いが、時代的にオーバーダブは少なく、顔を合わせて一発録りまであったからそのグルーヴは共通する。実はこの本編後に紹介する特典ディスクにははるかに多い時間とはここで初めて登場するミュージシャンの証言がある。この特典ディスクまで見ないと全貌は見えないと言っても過言ではないだろう。編集の関係で削らなかった重要な部分が数多くあるからだ。本編は102分だが、削った特典ディスクはなんと390分。みな高齢だし、話が聴ける内にこれだけの当時の話を集めたのはあまりに偉大な仕事と言っていいだろう。それまで『The Beach Boys An American Band』と『The Who:The Kids Are Alight』が自分の二大ロック・ドキュメンタリー映画だったがここに『The Wrecking!Crew』の2枚組が加わった。少し物悲しい心にしみるエンディングを書いたので、ここで最盛期の面白いエピソードをいくつか。フィル・スペクターはギター7台、ピアノ4台、ベース2台、ドラム1台、パーカッション15台をあのゴールドスター・スタジオに詰め込んだ。ラリー・レヴィンはフィルはメンバーに3時間演奏させその間レコーディングはせず、ミュージシャンがクタクタになり個人プレーに走れなくなった時にWall Of Soundに融合させるのだという。シェールは、フィルはイカれた人間だがみな尊敬していた、それは作り出す音楽が最高だったのでみな楽しみにしていたのだと。ただフィル・スペクターの1回目の引退の引き金となったアイク&ティナ・ターナーの「River Deep Mountain High」は誰もが大ヒットすると思ったがアメリカでヒットしなかった。キャロル・ケイは「これでWall Of Soundは終わったのよ」とあっさりと言い切った。

反面ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンには賛辞しかない。キャロル・ケイは「ブライアンはいつも自信満々で敵なしという感じだった、彼の書くコード譜は本当に独特で、どこも手直しすることがなかったわ」「彼の為に役立ちたかったの。ブライアンとのデートって喜んでたわ」、これに対しブライアンも「California Girlsを弾くキャロルは輝いていて世界一のベーシストだった」と褒めたたえている。グレン・キャンベルは「ブライアンは天才だよ。彼の頭には音を組み立てる能力がある」、さらに「ビーチ・ボーイズのメンバーは仲が悪い。ブライアンがリズム・セクションを任せたのは正解だよ」とも。そしてこれが決定打、レオン・ラッセルは「ウェスタン・スタジオに1520人はいて、ブライアンはメンバーに順に歌ってパートを覚えさせ、忘れた人間がいるとまたそこを歌う。そしてある瞬間、みんな弾けるようになる。天才という言葉はブライアンのためにあるようなものさ」。ただ冒頭のブラアインがレッキング・クルーを使ったのは『Summer Days』からというのは記憶違いで1963年から使っていて、1964年の「Fun Fun Fun」では記録が残っている。使い始めたいきさつは特典盤の方で詳しく後述。

その他ではティファナブラスの代表曲の「A Taste Of Honey」はハル・ブラインのカウントのバスドラが良かったからそのまま使ったという。そして「バンドが売れてツアーメンバーで回ったけど、録音ではハルなどのレッキング・クルー。信頼が置けるから。ツアーメンバーは怒っていたけどね」。

モンキーズではミッキー・ドレンツははっきりという。「モンキーズの音楽はレッキング・クルー。完璧な演奏をするからね。シンガーだけ。僕は役者だと思っていた」ピーター・トークはまだ若さがあってレコーディング日にギターを持っていったら「何しに来た、もう録音は終わったよ。後はミッキーの歌入れだけ」と言われ、自分は歌も演奏も参加しないなんてありえないと真剣に怒ったそうだ。ただ今考えると、「正当な判断だった。若気の至りさ」だという。本編ではアーティスト意識が強く今も不満たらたらの雰囲気がするマイク・ネスミスのコメントは特典行きで外されていた。これも映画作りの「正当な判断」。

あとゲイリー・ルイスはメンバーでベーシックなトラックを録音するとスナッフ・ギャレットが後から来るメンバーが「色付けする」という。そこに現れたレッキング・クルーの演奏を見て、ギタリストはトミー・テデスコに「僕には出来ません。だから僕は弾きません」といい、みな賛辞の嵐で、以降はレコーディングには参加していない。

アソシエイションはボーンズ・ハウがプロデュースした3枚目の『Insight Out』と4枚目の最高傑作『Birthday』ではメンバーに一切演奏させずにハル・ブレイン、ジョー・オズボーン、ラリー・ネクテル、トミー・テデスコに任せたという。アルバムにクレジットを入れさせてと頼んだそうだが拒否されたという。モンキーズなどもそうで彼らはいつも名前を出さない存在だった。

California Dreamin’」はバリー・マクガイアがボーンズ・ハウの元に持ち込んできてママス&パパスはバック・コーラスだった。曲はメンバーのジョン・フィリップスの曲だというので彼らだけで歌った方の出来がいい。ルー・アドラーに君がやらないなら僕がやると言ったんでルー・アドラーが担当したのだという。レコーディングではまずジョン・フィリップスがギターで弾き語りをして、それを聴いながらハル・ブレインとグレン・キャンベルがアレンジの相談をしていて、録音して良かったら一発OK.。気に入らなくてもいくらでもアレンジ仕直したという。

あとこれも書いておこう。グレン・キャンベルの最高傑作「Wichita Lineman」のイントロの情感溢れるイントロのベースはキャロル・ケイが考えてきて聴いたグレンはすぐに気に入り自分のギターを重ねて弾いたのだという。彼女にとってこの曲は今も特別な曲で、聴いて涙することもあるのだという。これは氷山の一角で本編には貴重な証言とレッキング・クルーの若き日の貴重な演奏シーンなどのフィルムをたっぷりと堪能できるので、アメリカのロックを紐解く重要なこの映画は絶対に見ないと損をすると断言しておこう。

ページを分けてここからは長い長い特典映像のインタビュー、ここはさらに抜粋して紹介しよう。


さて、ここからは本編映画の4倍近くあるこのブルーレイの核といってもいい特典ディスクについてエピソードをかいつまんで紹介していく。本編になぜ出てこないかという大物の証言が山ほどあり、ツボは人によってまったく違うので、ここでは自分が得意なジャンルのポップ&ロックのエピドードに特化する。ジャズや映画音楽、スタンダード、オールディーズ、R&B系のミュージシャンやエピソードはほぼ入っていないので、ご勘弁いただきたい。最初順番に意味を付けようと思ったが、もう面倒になったので、順に意味はなく、見た順にダラダラ書いただけである。

フィフス・ディメンションのビリー・デイヴィスJrとマリリン・マックー。最初ヴァーサタイルズの名前でモータウンへも持ち込んだが採用されず、ジョニー・リヴァースは自分自身もレーベルを持っていてアーティストを探していたので、彼らをママス&パパスを発掘した現場にいたボーンズ・ハウに行った。ママス&パパスはハウの友人のルー・アドラーがプロデュースしてヒットしていたので、黒人のママス&パパスを作ろうと「Go Where You Wanna Go 」を探すとヒットとなり、そしてアルバムを作るときに新進気鋭のジミー・ウェッブを作曲家で起用、ジミーが書いた傑作「Up Up And Away」はグラミー賞まで獲得、フィフス・ディメンションのサクセスストーリーが始まる。彼らはサウンドを確立してくれたボーンズ・ハウに感謝していた。その後、ビリー・デイヴィスJrがタクシーで財布を落とし、それを拾ったのは大きな話題を呼んでいたミュージカル「Hair」のプロデューサーだった。それが縁でメンバーはチケットが人気で入手できなかった「Hair」を見ることができた。冒頭で流れるのはあの「Aquarius」。曲を聴いたメンバー全員が興奮し、この曲を歌いたいとハウに相談する。既に何度かレコード化されたこの曲はオープニング用なのでこれでは足らない、ゴスペルの要素の曲はないかと探すと「Hair」の中で歌われていた「Let The Sunshine In」を見つけ、これをメドレーにしてここではビリーにゴスペルで歌うように依頼する。こうして出来上がった「Aquarius/Let The Sunshine In」は後世に残る大ヒットに。映画版に入っているジョー・オズボーンのカッコいいベース・ラインはここのものだ

フィル・スペクターからライチャス・ブラザースに声がかかった時に、なぜ自分達のようなブルー・アイド・ソウルのグループにと不思議に思った。もちろん曲は「You’ve Lost That Lovin’ Feeling」。曲の出来にみな満足していたがビル・メドレーは激怒、曲を書いたバリー・マンとフィルで歌ってみせたが、「これはエヴァリー・ブラザース用の傑作だ」と皮肉。それでバリトンではないビルに合わせてキーをどんどん下げていくとテンポも遅くなって曲が長くなった。高い声のボビー・ハットフィールドは逆にコーラス部だけになり「これじゃビリーの曲だ」。曲の長さは350秒と異例の長さになり、曲を書いたバリー・マンですら回転数が違うと思うほど。当時220秒がスタンダードの長さの中、フィルはラジオでかからないと本気で心配していたので、エンジニアのラリー・レヴィンはわざとレコード盤のランニングタイムを「3:05」としてミスプリと言え、実際そうしたという。しかし曲は後世に残る大ヒット、ビルはこの曲のおかげで50年も歌っていられると感謝していた。当時の面白い話ではDJに、曲が長いからその間にトイレに行かけると感謝されたそうだ。

ジョー・サラシーノがTVテーマになった「Hawaii Five-O」を受け持つことになりベンチャーズもこの曲を気に入った。しかしジョーには不安があり、メンバーのリード・ギタリストのノーキー・エドワーズは世界最高のギタリストの一人だが、この曲はリード・ギターとストリングスのコラボで複雑、楽譜を読み込む必要があると思いノーキーも同意してトミー・テデスコにリードを頼んだ。トミーは又にない機会とギャラは3倍を要求、ジョーはトミーに前日に楽譜を送って難しいからよく練習してくるよう言うと「俺の腕を見くびるな」と怒っていたとか。なにしろリバティの大物バンド、ベンチャーズの録音だからジョーは心配したのだ。そしてトミーは当日のレコーディングは全て一発で決めた。追想でトミー、ハル・ブレイン、レオン・ラッセル…困った連中だけどレコーディングで不可欠だとジョー。

そのハル・ブレインと最初に仕事をしたセッション・ギタリストのルイ・シェルトンはハルに助言を受けた。「君の演奏は好きだしきっとこのLAで成功する。でも君はリズムが少しだけ早いんだ。忘れないでくれ、レコーディングではドラムは神だということを。俺の音を聴いて合わせろ」これは本当に役立つ助言で、これを守るようになって多くのセッションに呼ばれるようになったそうだ。そして余裕がでるようになった彼はモンキーズの「Valleri」のレコーディングの合間で冗談でコードに合わせてフラメンコ風でソロを弾いたら、みんなにこれはいいから本番でやれと言われてあの曲を最も印象づけるギターが偶然生まれたのだから面白い。

リチャード・カーペンターの「Close To You」の思い出。ジョー・オズボーンが作ったレーベルでレコーディングしていたらハーブ・アルパートがあの「Close To You」を持ってきた。はじめジョーのベース、リチャードのピアノ、カレンのドラムで録音したが何方足らない。それでアルパートがカレンの機嫌を伺いながらドラムをハル・ブレインにしたらと提案、そうしたらグルーヴ感が出て見事に決まった。リチャードの細かいアレンジへのこだわり話もあるが割愛してこれまた名曲の「We’ve Only Just Begun」。TVCMで流れていた曲だがハル・ブレインもこれはヒットするぞと。手直ししてアレンジすればヒットすると思ったリチャードは音楽出版社へ行き曲は一番だけかと聞くと3番まであるという。そこで今は有名になったロジャー・ニコルス&ポール・ウィリアムスのあのデモをアセテート盤でリチャードが聴き、Aメロからサビに入る部分を少し手直しし、あの大ヒットになったという。

ビリー・ストレンジで一番印象に残ったセッションの仕事はブライアン・ウィルソンに呼び出された「Sloop John B」だという。日曜日に呼び出され、今日来てほしい、ギターがない、じゃあこちらで用意するとブライアンは12弦のエレキとアンプをわざわざ取り寄せた。8小節のギターソロの譜面を渡され1テイク演奏すると上出来だと500ドルも渡された。多すぎるといって構わず逆に取り寄せたギターとアンプも持っていけと言われ、たった1テイクでそれだけもらえたという凄い話だ。

ジャン&ディーンがブライアン・ウィルソンから「Surf City」をもらって大ヒットさせたエピソードは知らない人はいないが、ディーン・トーレンスは、そのレコーディングにブライアンを呼んでそれを聴いたブライアンはこれは凄い、なんて素晴らしいんだと驚いたので、ここにいるのは最高のスタジオ・ミュージシャンで電話一本ですぐ雇える、メンバーがツアーでいなくても大丈夫だと言ってそれ以降、ブライアンはスタジオ・ミュージシャンを使うようになった。記録を見るとはじめはハニーズやサヴァイヴァーズのようなブライアン個人のプロデュース作品からのようたが、1964年の「Fun Fun Fun」ではハル・ブレインらの名前が見られ、サウンドが深化した『Today』ではもうスタジオ・ミュージシャンが中心で『Pet Sounds』『Smile』になるとスタジオ・ミュージシャンばかりになる。この時代が終わるのは『Smiley Smile』からだ。

フィル・スペクターの鬼プロデュースの話。あのクリスマス・アルバムはどの曲もシングルにできるクオリティで作っていたため、シェールの話では6週間帰れなかったという。ともかく休憩をくれない。トイレ休憩も渋る。ラリー・レヴィンの話では嫌がらせではなく、休憩で機材の位置が動くのを嫌ったのだという。それで本編にあったように3時間練習させて疲れさせ、個人プレーに走れないようにしてWall Of Soundに融合させた。ルー・アドラーは、ジョニー・リヴァースのアルバムは3000ドル、キャロル・キングの「Tapestry」は18000ドル、でもフィル・スペクターのクリスマス・アルバムは56000ドルもかかったという。

そのフィル・スペクターと大喧嘩したのはレオン・ラッセルだ。それまでフィル・スペクターの下で黙々と弾いていたが同じことの繰り返しに耐え切れず、ある日酔っぱらって現れピアノの上に乗ってスペクターに「君はクソだ!」と言って立ち去り(シェール談。みな笑い転げていたという)その後、トミー・テデスコに言われてツアーの旅に出て、自分で曲も書くようになりセッションミュージシャンを離れソロとして後の大成功を収めた。

ピアノのマーク・メルヴォインは、ハル・ブレインやプラス・ジョンソンもいたジョン・レノンの「Stand By Me」のレコーディングでフィル・スペクターと大喧嘩になった。あまりに常軌を逸した口撃なので言い返そうとするとフィルのボディ・ガードに止められる。あまりに頭に来たので息もできずにロビーにいるとジョンが来て、気にするな一緒にやろうとそのセッションに参加して完成することができた。その後、彼はフィルと仲直りしようとブースに向かったがさらに怒りを爆発させそれがフィルとの最後の仕事になったという。何しろこの『Rock’n’Roll』ではスペクターは勝手にマスターテープを持ち出してしまったほどで正気の人間ではなかったようだ。

セッション・シンガーのロン・ヒックリンは、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのデビュー曲「This Diamond Ring」が煮詰まった時に、当時まだミキサーだったボーンズ・ハウがロンと一緒に歌わせては提案する。ゲイリー・ルイスのヴォーカルは少し鼻にかかっているので君の声をかぶせて和ませようと。そうして10曲連続のヒットとなった。ちなみに別エピソードだが、この曲にポップなアレンジを加えたプロデューサーのスナッフ・ギャレットにこれは大嫌いだと言ったのはアレンジャーのレオン・ラッセルである。どの部分かはわからないが。その他ではあの有名な「Batman」のバットマーン!の叫びもロンだという。

そのスナッフ・ギャレットは俺の音楽つくりに美学はない、ヒットが全てだみたいなクールな事を言っているが、アルバムの最後になると楽しくて興奮して数日眠らないなんてことはザラ、時間なんて関係なかった…と、他の成功したプロデューサーと何も変わらない音楽好きだったのがちょっと微笑ましい。

パーカッション奏者のゲイルー・コールマンは、ブライアン・ウィルソンの『Pet Sounds』の仕事は手間がとてもかかったけど特別なものだった。音楽の形式がとても洗練されていて、ブライアンの頭にはアイデアが渦巻いていたと語る。さらに楽しいのはコロンビアでのアンディ・ウィリアムスのレコーディングの後、後片付けをしていたら、ハル・ブレインからサイモン&ガーファンクルの曲のレコーディングでビブラフォンが欲しいと言われたと言うので、再び運び出してスタジオに向かった。ハルはタムタムのオーバーダブをしていた。ポール・サイモンからコードの譜面だけもらってビブラフォンを弾いたらレコードではしっかり自分の狙った音が入っていた。その時は曲名も知らなかったがあの名曲「Bridge Over Troubled Water」だったのだ。そしてオーバーダブしていたハルのタムタムの爆音はあの3番のハイライトだ。

グレン・キャンベルは7カ月ほどライブでブライアンの代役をやったが最も大変だったという。何しろベース専門ではないし、歌はあのブライアンのファルセットだ。頭がおかしくなりそうだったが楽しかった。アル・ジャーディンにはよく助けられたよと。逆に最悪だったのは最初のソロのツアーでドアーズの前座だった時。ギター一本で歌っても早くドアーズを出せ!と観客に言われ最悪で、しばらくライブは嫌だったそうだ。これは「Gentle On My Mind」のヒットが出るまで続いたという。そんなグレンを一変させたのはTVだ。「The Smothers Brothers Show」など2つの番組の司会をしていて「By The Time I Get To Phoenix」ともう1曲歌うと、空港でヘイ、グレン!とみな声をかけられるようになった。その頃はまだTVの影響力が分からなかったという。1968年からグレンを冠にした名番組『Glen Campbell Good Time Hour』が4年続き、今DVDで見るととても楽しく仕事をしているように見えるが、このTV4年間は長すぎ楽しくなかったという。TVはリハーサルを繰り返しあとは待機、クリエイティブじゃないからだと。スタジオの方が仲間が揃っていて楽しかったという。

スティーブ・バリは詞が得意だったが作曲のレベルがプロとしては低いという事で、師匠でもあるルー・アドラーから作曲担当のフィル・スローンと組むことになる。ルーは音楽出版社のスクリーン・ジェムスをやっていたので他アーティスト用の曲が多く必要で仕事が増え、その後ルーは2人を連れて独立しダンヒル・レコードを作ることになる。ただそれよりも前の話。ルーからの仕事でTVの夏機関の番組「The Danger Man」の主題歌をジョニー・リヴァースのために書くことになり、この手の仕事は作詞として気乗りはしなかったという。しかし007のヒットでタイトルが「Secret Agent Man」というセクシーなタイトルに変わりヒット、2期目も続く事になった。リクエストがあっても曲が1番しかないからレコードにならない。それでスティーブが2番を書くとルーは急いで持っていき。レコーディングをすぐにライブ仕立てで作ってリリースされと大ヒットしたという。

スティーブ・バリに相棒のフィル・スローンが書いた新曲「Eve Of Destruction」のデモを持ってきた。聴いたルー・アドラーはいい曲だが重苦しいのでヒットしない、バリー・マクガイアのシングルのB面に入れようとし、バリーはコードが4つくらいの曲なのでデモはすぐにできたが、もらった歌詞のメモがしわくちゃでバリーが読めずうろ覚えの場所があり、ましなデモが1本できただけだった。次の日の朝にそのデモをスティーブが机で聴いているとダンヒルの社長のジェイ・ラスカーがよく聴きたいとそのテープを持っていく。3時間後にジェイの部屋から怒鳴り声がしてルーに呼ばれあのテープはどうした?と聞かれたのでジェイに渡したというと、一番人気AMKFWBでかかっているのを聴いたという。リクエストはビートルズの「I Want To Hold Your Hand」以来の数字、スティーブはあれは未完成だからオンエアするのは待ってくれと頼んでもそれはできない、かけ続ける、完成版が出来たら送ってくれと。ヒットするものはヒットするといういい教訓になったと語っていた。

その後バリー・マクガイアが「Eve Of Destruction」の次のアルバムを作っているときにNYからLAについた友人のキャス・エリオットから電話があって素晴らしい曲があるから聴きに来てと言われバイクで向かうと着の身着のままだけのママス&パパスのメンバーがいた。そこでジョン・フィリップスが書いた「California Dreamin’」を聴き、そのあまりの素晴らしさにバリーはルー・アドラーに電話をかけ受話器越しに歌声を聴かせる。ルーは次の日に直接聴いてすぐに契約、まずはバリー・マクガイアのバックで生活費を工面することになって4曲録音したが、その中に「California Dreamin’」があって、彼らは自分達も出したいという。バリーは、ジョンに君の書いた曲だ、いいよと返答、この曲は誰でも知る大ヒットとなった。その後の話が面白い。バリーの息子のCDプレイヤーが壊れて左チャンネルだけ聴こえた時に歌の冒頭で一瞬、バリーの低い声が聴こえる。息子こにれパパの声?と尋ねられ初めて気づいたそうだ。自分のヴォーカルトラックを消したもので、新たに録音仕直したものと思っていたので驚いたという。確かにはっきりと聴こえる。

ビートルズの出現は本編ではすべてカットされている。ビートルズはロックのレベルを上げたと思う。陳腐なロックや軽薄な歌詞とは違っていた(ハープ・アルバート)、彼らは全力で歌っていると感じた(ルー・アドラー)彼らのコードはとても変わっていた。シンプルな3コードにマイナーコードを持ち込み、転調も使っていた(ジミー・ハスケル)など衝撃的で、イギリスから来たものは何でもヒットしたがアメリカ人がどれだけいい曲を作ってもヒットしない(スナッフ・ギャレット)、何をやっても今は無駄とスタジオの仕事は減り業界全体が沈滞した。その中ジミー・ウェッブは「曲作りやレコーディングに膨大な情熱が注がれるようになった。当然みんなこれまで以上を求めだした。ビーチ・ボーイズはアメリカの代表だった。だからどうしても負けて欲しくなかったのさ」と思っていたという。

最後はシナトラで。フランク・シナトラのレコーディングは早い。アレンジャーの元でグラン・キャンベルは20回は練習したという。1964年の「Strangers In The Night」だ。ハル・ブレインがシナトラとの仕事はあっても3テイクだと言っていたが、他のこの特典でのミュージシャンの証言も異口同音だ。1テイクで終わるものもあったという。それで3テイク目、歌詞があったのにエンディングはスキャットだった。わざとなのかシナトラしか分からないが、OKありがとう、もう行く時間だと出ていってしまうのでアレンジャーもシナトラには聴けない。しかしこの曲は大ヒットしシナトラの復帰策となった。

アル・ケイシーがディアン・エディの「Ramrod」を弾いて、ディアンが録音を仕直していないのに、自分がやったと言い張っている件。

映画音楽の作り方とレコードの作り方の違い、ジャッキー・デシャノン、ペトラ・クラークなどの証言など山ほど残っているがこのへんで。(佐野邦彦)