2022年4月23日土曜日

Back In The USSR

 筆者がかねてから予想していた 60周年」 ツアーが開始されている。 しかしながらBrian 閥の合流はない。Scott Totten, Brian Eichenberger, Christian Love, Tim Bonhomme, John Cowsill, Keith Hubacher and Randy Leagoらの同道がアナウンスされており、チケット購入サイトでもBrian,Al,Davidの出演がないことを購入の際の注意としているほどだ。



本年(2022年)のツアーロゴ-欧州ツアーも予定されている


 Brianサイドの本ツアーへの反応は無く、2月下旬がUkraine事変と重なったためにTwitterでは同国の窮状に向けたメッセージを掲げている


226日のBrianによるTwitter


 Ukraine事変後ツアーに専念している様子がMikeTwitterからも伝わるが、一方でネット上で流れている下記の画像は別の事情を物語っている。


CPACに登壇するMike


 CPACとは共和党保守派支持団体が主催する保守政治行動会議のことであって、近年Donald Trumpの言動で注目を集めているイベントだ。CPACにはTrump以外にも共和党右派の論客が集まり、Putin体制賛美を公然と主張する者までいる。TrumpUkraine事変当時には後に撤回しているがPutinの事変に対する手腕を賛美していた。

 MikeTweetもこの党派性からの影響下にあるものと伺われるが真実は如何に?

 対照的にBrianUkraineへ心を寄せている、そして米国は物資のみならず軍事的援助も行う。現地の通信インフラを支えるのは電気自動車メーカーTesla社の創業者Elon Musk率いるSpaceX社のテクノロジーだ。同社はHawthorneに本拠地を置く。HawthorneBrian誕生時は航空産業が花開き、独ソ戦にあったソ連邦へ多くの援助が行われた。約80年後の今日にあって同種の援助は露国に対峙するUkraineへ行われる。映画と音楽の都であると同時に軍都である加州の歴史がBrianTweetの背景にあると筆者は考える。

 またその死後も思慕し続けていると思われる、Phil Spectorの父Benjaminの出生地はUkraineKhersonSpectorまたはSpektor姓は東欧に古くからあるユダヤ由来の姓と聞く。



Phil Spectorの父Benが帰化申請時の書類

Cherson Russiaとなっている


 RussiaつながりのThe Beach Boysに関する話といえば、1968The Beatlesが渡印し現地に滞在していたMikeが「Ban In The USSR」作詞の指南をしたエピソードが有名だ。


滞在中のMike


 ソ連邦でのライブは1978年企画されたものの立ち消えとなったが、それに先立つ1969年にThe Beach Boysは東欧圏でライブを行っていた。



 五度目の欧州ツアーが計画され5月下旬から一ヶ月余の期間のうち、6/17~6/19Czechoslovakiaでの公演が充てられた。この間の映像はドキュメンタリー「American Band」で今日でも見ることができる(ただし、時代考証に誤りがあり1968年となっているが)。

 当時のCzechoslovakiaはご存知のとおり政治的に緊張した状況にあった、いわゆる「プラハの春」である。

 1968Alexander Dubčekを中心に各種改革を進めていたが、ソ連邦を盟主とする周辺国は同国の改革は悪影響と考えていた。ソ連邦との関係改善も芳しくなく、遂にはCzechoslovakia国内の臨時革命政府からの「要請」によりソ連邦とその同盟国軍は「演習」目的で同国に侵攻する(最近どこかで聞いたような話だが)その後Dubčekは政権から遠ざけられ、The Beach Boysがライブで入国した時点では、完全に政治上は無力化されていた。

ライブ会場となったLucerna Hall


 米国と現地の音響設備のギャップは大きく、現地ではマイク1~2本立てる程度がフルセットであるのに対してThe Beach Boysサイドでは20以上の入力があるコンソールが必要であったので、大量の電源を要した。そのために駐留ソ連軍上官のはからいで装甲車からバッテリーをいくつか持ち込み窮状をしのいだそうだ。さらに無い物づくしは続く、ハモンドオルガを調達したが国内に数台しかなく、しかも状態も良いものしか見つからず困窮する。また空調もほとんど機能せず東欧といえどもかなりの湿気と暑さに悩まされ、聴衆の大声援も加わり大きなカオスとなっていたという。Lucerna Hallで印象的なシーンは前日US国内でリリースされたばかりの「Break Away」を演奏する冒頭「この曲をDubček氏に捧げます」と見得を切るMike

「Break Away」とはソ連邦隷属からの決別を意味するのか?

一説によるとDubčekも賓客の中に居たという。

 The Beach Boysのライブが触媒というわけではないが、1968年以降Czechoslovakiaのバンドは政治状況もあり先鋭化するものが多い。

 Lucerna Hallでも共演したThe Blue EffectJazz Rock~民族音楽~サイケまで包摂する音楽性で定評がある。その他のバンドでさらにアンダーグラウンドな活動で有名なのはThe Plasutic Population of The Universeだ。

 The Velvet UndergroundFrank Zappaの世界観を体現したサウンドは唯一無二であり、そのメンバーは政権当局から睨まれ逮捕・投獄が相次いだほどだ。彼らの理解者であり、庇護者となり同国へのThe Velvet Undergroundの紹介者であるのが劇作家Václav Havelだ。

 Havelは彼らの救援活動から始まり人権擁護運動から国内の民主化運動の中心となり、とうとう文字通り68をひっくり返した’89年にCzechoslovakia大統領へ就任する。

 1968年の軍事クーデターではなく無血革命であったためビロード革命(Velvet Revolution)と称されている。実はHavelの祖父は実業家でLucerna Hall建立の立役者だったのだ。Lucerna Hallが取り持つ縁なのか?

 Havelの政権樹立後、永年失脚していたDubčekは国会議長へ返り咲き政界復帰する。当のDubčekへエールを送ったMikeはといえば、2019年の33次欧州ツアーで50年後に当たる616日の公演をLucerna Hallでしっかり行っている。


(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2022年4月13日水曜日

一色萌:『トラブル・ボーイズ』(なりすレコード / NRSP-7102)


 2020年11月のソロデビュー作『Hammer & Bikkle / TAXI』から約1年半振りに、一色萌(ひいろ もえ)がセカンド・シングル『トラブル・ボーイズ』を4月23日に7インチでリリースする。"RECORD STORE DAY 2022"エントリーしている限定商品(限定プレス)であるので、入手困難になる前に手に入れておきたいアイテムとなるだろう。
 前作のカップリング曲は英国伝説のパブロック・バンド、デフ・スクール(Deaf School)の代表曲「TAXI」(77年)の日本語カバーで話題になったのも記憶に新しい。そして本作のタイトル曲は、デイヴ・エドモンズ(Dave Edmunds)のフォース・アルバム『Tracks on Wax 4』(78年3月)の冒頭を飾る「Trouble Boys」の日本語カバーというからマニア泣かせである。 

 一色のプロフィールは前作のレビューでも紹介しているが、プログレ・アイドルグループXOXO EXTREME(キス・アンド・ハグ エクストリーム)のメンバーで、2015年5月結成されたxoxo(Kiss & Hug)(キス・アンド・ハグ)を母体に翌年12月に一色らの参加によってXOXO EXTREMEとなった。本年度3月20日以降は一時脱退していた小日向まお(こひなた まお)が復帰し5名のメンバーで活動している。
 リーダー格の一色がソロ作ではパブロックというのが非常にユニークで、共に英国ロック・マニアに強くアピールするだろう。   


 音楽マニアが多い弊サイト読者には説明不要かも知れないが、デイヴ・エドモンズは英国パブロック界の中心的シンガー・ソングライター、ギタリスト、プロデューサーとして知られている。
 イギリス南西部のウェールズの最大都市カーディフに1944年に生まれた彼は、14歳で兄のジェフとロックバンドを結成しその音楽人生を歩み始めた。いくつかのバンドを経て70年にシングル「IHear You Knocking」でソロデビューし、いきなりゴールドディスクに認定される大ヒットとなり、翌年ファーストアルバム『Rockpile』をリリースする。
 プロデューサー指向の強い彼はこのファーストから自らプロデュースとエンジニアリングを手掛けている。それもそのはずで彼はフィル・スペクター信奉者で、セカンド・アルバム『Subtle as a Flying Mallet(ひとりぼっちのスタジオ)』(75年4月)ではザ・ロネッツの「Baby, I Love You」、ザ・クリスタルズの「Da Doo Ron Ron」等をカバーし、一部の曲は一人多重レコーディングまでしている。同様に76年のシングル『Where Or When』のカップリングでは、スペクターの弟子筋であるアンダース&ポンシア作でThe Trade Windsの「New York's A Lonely Town」(65年)をカバーし、後の79年にガレージロック/サイケデリックロック系コンピレーション・シリーズ”Pebbles”のVolume 4(この回ではサーフィン&ホット・ロッド特集)で、「London's A Lonely Town」と改題、改詞しリレコして提供させるなどディープな60sロック、ポップス・マニアのミュージシャンなのだ。正に英国の山下達郎と言えるだろう。 

左上から時計回りに『Tracks on Wax 4』
『Subtle as a Flying Mallet』Pebbles Volume 4
『Where Or When / New York's A Lonely Town

 前置きが長くなったが、本作タイトル曲の「トラブル・ボーイズ」はオリジナルの作者であり、デイヴとはパブロック・バンドのロックパイル(Rockpile 1976~1981 / ベースでデイヴの盟友で元Brinsley Schwarzのニック・ロウも所属)のバンドメイトで、ギタリストのビリー・ブレブナー(Billy Bremner)が、彼自身のバンド、Billy Bremner's Rock Filesを率いてレコーディングを敢行し参加してくれたという。前作「TAXI」での奇跡と同様に国やバジェットを超えた、ロック愛を感じさせるコラボレーションではないだろうか。なおビリーが日本人ミュージシャンとのセッションに参加するのは、81年の沢田研二『S/T/R/I/P/P/E/R(アレンジャーで伊藤銀次が参加)のロンドン・レコーディング以来となるから極めて貴重だ。彼のギターソロは佐野元春作の「BYE BYE HANDY LOVE」など4曲で聴ける。
 また今回日本語の訳詞を手掛けたのは、Billy Bremner's Rock Filesの『Cover It Well "A Tribute To Rockpile"』(2019年)をリリースしたパブロック、パワーポップ・レーベル”Target Earth”を主宰する中上マサオ氏である。

 バック・トラックのレコーディングはビリーの移住先で現在の活動拠点地になっているスウェーデンのスクツカールのStudio Rock Around The Clockでおこなわれ、メンバーはビリー(ギター)の他に、ベースのMicke Finell、ギターのBonne Löfman、ドラムのPeder Sundahlと現地出身のメンバーが参加している。オリジナルのレコーディングにも参加しているビリーのイニシアティブにより、原曲を踏襲しつつルーズなロカビリー色を濃くしたアレンジは、一色の艶のあるキャンディ・ボイスとのコントラストが際立っていて聴き応えがある。前作でも感じたが、彼女の歌唱力や表現力はもっと評価されて然るべきと思っているので、本作も多くの音楽ファンに聴いて欲しい。なお本曲のミックスは、先月紹介した青野りえの『Rain or Shine』でもその手腕を発揮していたマイクロスターの佐藤清喜が担当している。

 
トラブル・ボーイズ/一色 萌 Trailer

Billy Bremner's Rock Files

 カップリング曲の「太陽を盗んだ女」(長谷川和彦監督作で沢田研二主演のカルト・アクション映画を彷彿とさせるタイトルだ)は、前作の「Hammer & Bikkle」から引き続き、キーボーディストの佐藤優介がソングライティングとアレンジ、ミックスを手掛けている。佐藤は昨年NegiccoのKaede(カエデ)とのサウンドトラック・アルバム『Youth』をプロデュースし、弊サイトでも紹介したFrancis(小里誠)の『Bolero』に参加するなど注目されるミュージシャンだ。
 レコーディングには佐藤の他、個性派ロックバンド、空中カメラのメンバーが参加してアグレッシブな演奏を聴かせている。イントロや間奏はデヴィッド・ボウイの「Fame」(75年)を更にハードにしたニューウェイヴ・ファンク色が濃く、本編ではラジオヴォイスのエフェクトをかました一色のヴォーカルが強烈で、やはりボウイの「It's No Game (Part 1) 」(『Scary Monsters』収録/80年)に通じるポストパンク感やフランク・ザッパの匂いもするハイパーなヘヴィーサウンドがたまらない。「トラブル・ボーイズ」のカップリングとしての統一感はあまり感じさせないが、空中カメラの演奏力や個性に興味を持ったので彼らの楽曲も聴きたくなったし、一色の新たな魅力を垣間見せた曲と言えるので評価したい。 

 繰り返しになるが、本作『トラブル・ボーイズ』は数量限定であり、前作同様に早期に在庫が無くなるであろう7インチ・シングルなので、パブロックをはじめとする英国ロック・ファンは、下記のレコード・ショップなどで、予約開始される4月23日にチェックして確実に入手しよう。 
◎ディスクユニオン:https://diskunion.net/progre/ct/detail/1008447379 

 (テキスト:ウチタカヒデ

2022年4月9日土曜日

Mott よみがえれ!昭和40年代(昭和41年編)

大人気ない大人たちのつぶやき~ 
 昭和41年(1966年)

 2.-1 電子レンジの加熱システムに「ターンテーブル方式」を初めて採用した家電メーカーは? 
A.松下電器(現:Panasonic) B.早川電機(現:Sharp) 
C.日立製作所(現:HITACHI)  
 

 
 スーさん:俺たちが小学生だった頃、キッチンに「電子レンジ」がある家は、「お・ッ・金・も・ちぃ~」って感じだったね。 
ジュン:今じゃ「何はなくとも電子レンジ」ってほどなのにね。 
スーさん:だいたい今じゃ「電子レンジ」なんて言わないよ。仕上がり音から「チン」って言うくらいだからね。 
ジュン:でも(日本で)家庭向けに電子レンジが発売されたのっていつ頃だったのかしら?
スーさん:昭和40年に松下(電器)が発売してる。 
ジュン:あのクルクルまわって調理するタイプね。 
スーさん:いやそれは、(41年に)「ムラ無く調理できる」というキャッチ・コピーで登場した、ターンテーブル付モデル! 
ジュン:それも松下? 
スーさん:いや早川(電機)から発売された「ハイクッカー」。ただ値段が198,000円って、とてつもなく高級品で、一般家庭ではおいそれと手を出せるようなしろものじゃなかったんだ。 
ジュン:え~、そんなに!お金持ちの証って思ってったカラーテレビよりも高かったのね。 
スーさん:そんな家庭用が発売される前は、新幹線のビュッフェ(当時の食堂車の呼び名)で業務用の調理なんかに使っていたらしいよ。 
ジュン:そういえば、あそこで食べたカレーは「ボン・カレー」の味がしていたような覚えがあるわ。 
スーさん:一般庶民が手軽に使えるようになったのは、万博開催の年に10万円を切る(99,800円)「エレックさん」が発売されてかららしいみたいよ。 
ジュン:「エレック」してみませんか♪ってCMあったわね。そういえば家のレンジには「調理完了までドアがあかない」って書いてあったような覚えが…。 
スーさん:それラッチ方式モデルの「ハイクッカー」(118,000円)だよ。 
ジュン:家のお母さんは昔「クッキング・ジョイ教室」ってメーカー主催の料理教室に通っていたわ。 
スーさん:日立がお手軽モデル(89,800円)を発売した46年に宣伝用で開催していたらしいね。 
ジュン:元祖クッキング・スクールね!

 正解 B 


 2-2.食品でのベストセラーは数限りなくありますが、そんな以下の大ヒット商品の中で、昭和41年生まれでないのはどれでしょう? 
A.ハウス・バーモントカレー  B.グリコ・ポッキー
C.亀田製菓・柿の種 
ヒデ:クミさんは昔から甘いものには目がなかったよね? 
クミ:甘いものっていえば「ポッキー」ね! 
ヒデ:ポッキーは昭和41年から発売してるベストセラーだからね。今じゃ世界30ヶ国以上で年間5億円以上も売れているんだよ。1時間あたりで6,000個も! 
クミ:そんなに! 
ヒデ:でも発売当時の商品名は「チョコテック」。 
クミ:え、何それ? 
ヒデ:テクテク歩きながら食べるという意味で付けらしい。でも先に(他社で)商標登録されていたことが分かって、食べた時の「ポッキ」という音から「ポッキー」にしたって話だよ。 
クミ:「改名大成功!」ってことね。 
ヒデ:グリコの商品名は頭に「パピプペポ」が付くとヒットしているみたいだよ。「パピコ」「プッチン・プリン」なんか。 
クミ:「プリッツ」も! 
ヒデ:ポッキーっていったら、京都・大阪のデパートじゃ「Baton d’oll」(501円)って高級ポッキーが限定発売されているみたいだよ。 
クミ:ポッキーは、お酒のお供にも欠かせないわ。 
ヒデ:俺、つまみっていえば「(亀田の)柿の種」! 
クミ:私も! 
ヒデ:「柿の種」の発売も同じ年だから「ポッキー」とは同級生だね。 
クミ:どっちもおつまみの名コンビね。 
ヒデ:「柿の種」はいろんなメーカーから出ているけど、Jリーグ「アルビレックス新潟」の胸に大きくプリントされてる本家「亀田製菓」が断トツのシェア50%!年間売上は200億円、個数にしたら1億個! 
クミ:トップ・シェアには何か秘密があるのかしら?。 
ヒデ:それは種とピーナッツの割合が絶妙だからさ! 
クミ:どんな割合? 
ヒデ:「6:4」! 
クミ:その割合ってどこから出したのかしら? 
ヒデ:10万人アンケートでは、1位「7:3」、2位「5:5」、3位「6:4」なんだけど、実際に食べて飽きないのはこの割合らしいよ。 
クミ:そうなのね。 
ヒデ:この「柿の種」は料理にも使う事あるよね。 
クミ:おつまみ系が多いみたいなんだけど… 
ヒデ:ところでクミさんの得意料理ってなんだっけ? 
クミ: “特製スペシャル・カレー”! 
ヒデ:それって「ヒデキ、かぁ~んげきぃ~!」の「リンゴと蜂蜜」が入ったあれ使ってない? 
クミ:そうよ。あなたのお家も? 
ヒデ:いやうちは、「マース・チャツネ」入りの「オリエンタル・マース・カレー」だった。
クミ:私のお家はずう~っとバーモントカレーよ。 
ヒデ:「甘口」が発売されたのは東京オリンピックの前の年(昭和38年)で俺は小3、クミさんは“ピカピカの1年生”! 
クミ:だから私「カレーは甘いもの」だって思ってたわ 
ヒデ:そういう人多いみたいだね。でも辛いカレーが苦手の子供向けに、しばらくは「甘口」だけが売られていたからね。「辛口」や「中辛」が発売されたのはかなり経ってからだから、そうなっちゃうよね。 

 正解 A 


 2.-3 2021年前年最下位からセ・リーグを制覇し、20年ぶりに通算6度目の日本一に輝いた「東京ヤクルト・スワローズ」。このチームは昭和41年から球団の愛称「スワローズ」を一時期改名しています。その名前は? 
A.パイレーツ  B.ロビンス  C.アトムズ 
とっち:去年のセ・リーグは、(阪神)タイガースに持っていかれたかと思っていたけど、最後に笑ったのはスワローズ! 
ヒデ:俺の務め先の「トラキチ」嘆いてた。 
とっち:二度目の「東京オリンピック」の年に「東京音頭」が響く気持ちよさ! 
ヒデ:とっちって、昔からヤクルト・ファンだったんだ。 
とっち:いやホントは「ジャイアンツ・ファン」、でもアニメ・ファンの喜ぶことやってくれたんで、ひいきしちゃった。 
ヒデ:それって「アトムズ」! 
とっち:え、ヒデも覚えてるんだ。 
ヒデ:ウチはオヤジが国鉄職員で、昔「後楽園球場/国鉄職員謝恩招待試合」ってのがあって、(小学校)低学年頃は毎年夏に家族で見に行ってた。だからスワローズは身近だったんだ! 
とっち:静岡で「スワローズ・ファン」ってレアだね。 
ヒデ:いやホントは「ジャイアンツ・ファン」だったんで、「国鉄VS巨人」戦観戦して、「ジャイアンツの負け」をおふくろに八つ当たりしていたみたい(-_-;) 
とっち:やっぱジャイアンツなんだ。 
ヒデ:だって金やん(注:1)だけのチームって感じだったもん。 
とっち: 事実だから何にも言えません(-_-;) 
ヒデ: だから小6の時(昭和41年)に帽子のロゴが「a」になって「(鉄腕)アトム」のプリントされたユニフォーム見たときは衝撃だった! 
とっち:アニメ・ファンにとっちゃ、「イェイ~!」ってとこ。 
ヒデ:でも弱かった。ひどい時は首位と45.5ゲーム差(昭和45年:勝率264)だもんね。まるで「千葉パイレーツ」(笑) 
とっち:そこまで言う!ただ(昭和)48年に虫プロ(注:2)倒産という事情もあって、翌年(49年)から今の「スワローズ」に戻しているね。 
デ:「昔の名前で~出ています♪」だね。 
とっち:でも、昔は各地にいろんなチームがあったんだよ。例えば「埼玉西武ライオンズ」の元は九州の「西鉄ライオンズ」の現在形なんだけど、このチームはセ・リーグの「西日本パイレーツ」を吸収合併して出来たんだぜ。 
ヒデ:え、「パイレーツ」って日本にもあったんだ! 
とっち:たった1年だけ(昭和25年)だけどね。それに京都にもプロ野球のホーム・チームあったんだぜ。 
ヒデ:京都のプロ・チームっていえば、今なら「京都サンガ」。 
とっち:ところがあそこにも今の「DeNA」に吸収される「松竹ロビンス」(セ・リーグ)があったよ。 
ヒデ:昔はプロ・スポーツは野球くらいだったから、今の「Jリーグ」みたいに全国にいろんなチームがあったんだ。 

 正解 C 


 2.-4 今や日本の国民食「インスタント・ラーメン」。では以下で発売が一番の後発商品はどれ?
 A.日清・チキンラーメン  B.エースコック・ワンタン麵  
C.サンヨー食品・サッポロ一番 
やっちゃん:俺も「ラーメン」好きだけど、お前も相当好きだよね。 
ヒデ:今はSNSなんかで「名店」探しやっているけど、昔は口コミでうまい「インスタント・ラーメン」しか探せなかった。 
やっちゃん:そういえば、うちの近所じゃ「チキン・ラーメン」ってあんまり見かけなかったから。
ヒデ:うちの定番は「(マルちゃん)ハイ・ラーメン」や「(エースコック)ワンタン麵」だったね。 
やっちゃん:「ハイ・ラーメン」は麵が太かったんで、お湯をかけただけじゃ固くって、いつも鍋で煮込んで食べてた。 
ヒデ:だから同じ煮込むんだったら、「ワンタン麵」の方がうまいって感じてた。でも安く売ってるのは「ハイ・ラーメン」だったみたいで、おふくろが買ってくるのはそればっか。 
やっちゃん:でも「チキンラーメン」は俺が1歳(昭和33年:1958年)の発売なのに、どうして草薙(注:3)近辺で出回らなかったんだろう? 
ヒデ:当時は流通が整備されてなかったからじゃないかな?だって日清は「関西」のメーカーで、静岡は「関東圏」の枠だったから。
 やっちゃん:でも「ワンタン麵」は本社大阪の「エースコック」なのに売ってたじゃん。 
ヒデ:あれは昭和38年発売なんで、流通がスムーズになっていたのかも? 
やっちゃん:大人の事情(笑)
ヒデ:エースコックっていゃ、すぐになくなっちゃったけど渥美清がCMやってた「チャンポン麺」も。憶えてない?「チャンポン麺だね~♪」「おいしいかい?そう、よかったね!」てやつ。 
やっちゃん:うん、そういやどっかで聞いた気がする。 
ヒデ:ただ「ワンタン麵」といえど、入っているのは「ワンタンの皮」だけ。
やっちゃん:そうだったね。だから、静岡の中華料理店で正真正銘の「ワンタン麵」食べたときにはひっくり返る程びっくりしちゃった! だけど日清から「具入りワンタン麵」も出てたよね! 
ヒデ:でもあれは値段が普通の即席麺の倍近くしていて、質より量が欲しかった頃には手を出しにくかった。 
やっちゃん:でもインスタント麺の革命は「サッポロ一番」だよ。 
ヒデ:うん、あれを初めて食べたのは、友達んちだったんだけど、ラーメン屋の味っぽくってうまかった! 
やっちゃん:でも極めつけは、「味噌ラーメン」(43年)と「塩ラーメン」(46年)だよね。特に「塩」に付いている「切り胡麻」は最高! 
ヒデ:俺はもう売ってないけど、「ごま(しょうゆラーメン)」好きだったなぁ~。 
やっちゃん:でも「オイルショック」で、軒並みの値上げラッシュにはまいったんね(-_-;) 
ヒデ:ただ「庶民の食」であるはずの「インスタント・ラーメン」の値上げ発表会見で、あるメーカーの社長は「高いと思う方はご購入されなくて結構」だと。 
やっちゃん:それって(高度成長期)池田(勇人)総理大臣(注:4)の「貧乏人は麦を食え」発言に並ぶ暴言だね! 
ヒデ:(昔の)ことわざに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ってあるのにね。 
やっちゃん:支援者謝恩会を税金使って「花見」する泥棒政治家よりはましなんだけどね! 

  正解 C 


(注:1)昭和30年代「国鉄スワローズ」の絶対的エース金田正一投手の愛称。入団2年目の昭和26年から39年まで「20勝以上・300投球以上・200奪三振以上」を14年連続記録というプロ野球記録を持つ。昭和33年(後のミスター・ジャイアンツ)長嶋茂雄のデビュー戦での4打席連続三振奪取は語り草。昭和40年には巨人に移籍、日本球界不滅の金字塔通算400勝を達成した大投手。昭和48年にはロッテ・オリオンズ(現:千葉ロッテ・マリーンズ)の監督に就任し、「金やんダンス」等のパフォーマンスで、パ・リーグの人気を盛り立てた。 なお翌年チームを日本一に導いている。

(注:2)正式名称「虫プロダクション」。漫画の神様・手塚治虫先生が昭和36年に創立したアニメーション専門のプロダクション。「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」等ヒット作を続々世に送り出し、テレビ・アニメの時代を切り開いた。昭和48年には倒産するも、虫プロ出身者がその後の日本のアニメ界を盛り立てた功績は計り知れないほど。 

(注:3)現静岡市を横断(静岡~清水間)する静岡鉄道と、JRが交流する唯一の停車駅(旧:清水市)で、静岡県立大学・常葉大学・静岡サレジオ学園が立地する学園タウン。この地名は戦前に巨人・沢村投手が現役大リーガー相手に好投した球場「草薙球場」でもよく知られている。 

(注:4)吉田茂総理の右腕と言われた通称「吉田学校」の優等生。多くの閣僚を歴任し、昭和35年以降3期(第58~60代)内閣総理大臣に就任した日本の大物政治家のひとり。そんな彼が昭和25年大蔵大臣就任時に発したとされる失言のひとつ。

 (文・構成:鈴木英之