2021年1月23日土曜日

DEAF SCHOOL:『PARIGI MY DEAR』(CA VA? RECORDS / HAYABUSA LANDINGS INC. / HYCA-8014)

 
 昨年11月に一色萌(ひいろもえ)のソロデビュー・シングルのカップリング・カバー曲として、43年の歳月を経て「TAXI」をリレコーディングした、リバプール出身のパブロック/パワーポップ・バンド、デフ・スクール(Deaf School)が最新コンピレーション・アルバム『PARIGI MY DEAR』を日本独占で1月27日にリリースする。
 本アルバム・リリースに先行して13日に配信された新曲「WHERE DO WE GO FROM HERE?」をフューチャーし、2010年のシングル曲「SURVIVOR SONG」、現在廃盤となっているミニ・アルバム『Enrico + Bette xx』(2011年)の全5曲と、日本のみでリリースされた『Launderette』(2015年)から6曲の計13曲をメインに、ボーナス・トラックとして「WHERE DO WE GO FROM HERE?」のエクステンデッド・バージョン、冒頭で紹介した一色萌によるカバーでリレコーディングされた「TAXI」(初CD化!)など、合計17曲収録しているお得盤なのだ。
 

 昨年の一色のレビューでも紹介したデフ・スクールは、英国ロック・マニア垂涎と言うべき伝説的存在で、73年イギリスのリバプール・アートカレッジの学生達を中心に結成された。
 70年代のパンク・ムーヴメント前夜のパブロック、モダンなパワーポップ・バンドの先駆者として知られている彼らは、アートカレッジ出身者特有の強烈な個性と才能のあるメンバー達が多く在籍したことで、ワーナー・レコードと契約し76年に『2nd Honeymoon』でデビューする。元アップル・レコード重役のデレク・テイラーがA&Rマンを務めるバックボーンもあり、その後も『Don't Stop the World』(77年)、『English Boys/Working Girls』(78年)と合計3枚のオリジナル・アルバムをリリースするが、大きな成功には至らず78年にバンドは解散してしまう。 

 その後ギタリストでメイン・ソングライターだったクライヴ・ランガーは、エンジニアのアラン・ウィンスタンリーとプロデューサー・チームとして、マッドネスの『One Step Beyond...』(79年)を皮切りにデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの『Too-Rye-Ay』(82年)、エルヴィス・コステロの『Punch The Clock』(83年)等数多くの名作を制作しており、手掛けたアルバムやシングルは400枚を超える。
 ソングライターとしてもコステロの「Shipbuilding」(83年)を共作で手掛けてヒットさせたのはよく知られる。熱心な英国ロック・マニアには知られるが、この曲にいたく感動したティアーズ・フォー・フィアーズ (Tears for Fears)のローランド・オーザバルは「I Believe」を書き、全世界で約1000万枚をセールスした『シャウト(Songs from the Big Chair)』(85年)に収録する。このような経緯からローランドは、クライヴに次作『The Seeds of Love』(89年)のプロデュースを依頼するが、リード曲「Sowing the Seeds of Love」のレコーディング方法を巡って衝突して結局決裂してしまう。アーティスト型のプロデューサーとのワークスにはよくあるパターンといえるが、80年代英国ロック界におけるクライヴの影響力を垣間見られる興味深いエピソードである。

 デフ・スクールのメンバーに話を戻すが、ベースのスティーヴ・リンジーは、79年にニューウェイヴ・バンドThe Planets(ザ・プラネッツ)を結成して、2枚のアルバムをリリースし、レゲエのビートをロック的解釈で取り入れて注目され、日本でもムーンライダーズや一風堂にも大きな影響を与えていえる。その後スティーヴはプロデューサーとして活動し、ビリー・ブラッグやハウスマーティンズ等が所属したインディーズ・レーベルGo! Discsではジェネラル・マネージャーを務めている。

 解散から10年後の88年にはオリジナル・メンバーがほぼ集結しリユニオン・ライヴを開催している。その模様は同年リリースされた『2nd Coming Liverpool '88』で聴くことが出来る。更に2006年の再集結後は現在に至るまで断続的に活動を続けており、『Enrico + Bette xx』(2011年)、『Launderette』(2015年)、『Let's Do This Again Next Week』(2017年)と3枚のアルバムをリリースしているのは頼もしい。
 なおこのリユニオン期間中96年にオリジナル・ドラマーのティム・ウィテカーが死去し、2010年には個性的なヴォーカリストだったエリック・シャークが亡くなっている。
 本作に参加しているオリジナルの現役メンバーは、2名のヴォーカリスト、エンリコ・キャデラック(本名:スティーブ・アレン)と紅一点のベット・ブライトに、ギタリストのクライヴとベーシストのスティーヴ、キーボーディストのマックス・リプル、サックスのイアン・リッチー(セッションマンとしてBB5の『The Beach Boys』(85年)からRウォーターズの『Radio K.A.O.S.』(87年)等々に参加)、そして現在のドラマーのグレッグ・ブレイデンの7名である。


 ここからは本作『PARIGI MY DEAR』の収録曲の中から筆者が気になった主な曲の解説をお送りする。
 冒頭の「WHERE DO WE GO FROM HERE?」はコロナ禍が始まった昨年にリモート・レコーディングされた新曲で、70年代のデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックに通じるロマンティシズム溢れるロック・ナンバーだ。テンポアップして熱気を帯びていくグルーヴにはとてもリモートとは思えないリズム・セクションの結束力を感じさせる。ソングライティングはエンリコとスティーヴの共作である。

 
WHERE DO WE GO FROM HERE? / DEAF SCHOOL 

 スティーヴのベース・ラインがモータウン(H=D=H)・テイストな「YOU TURN AWAY」は、ノーザン・ソウルを好んでいたらしいクライヴの作曲、エンリコの作詞による疾走感のあるダンスナンバーだ。エンリコとベットのヴォーカルの掛け合いにはデフ・スクールらしさを強く感じる。この曲が収録された『Enrico + Bette xx』のドラマーは、パンクバンドCrackoutの元メンバーだったニコラス・ミラードが務めている。
 一転して古き良き英国ロックの荘厳さが漂う「LIVERPOOL 8」は、メンバー達の出身地であるリバプールという街のライフスタイルを描いている。プロコル・ハルムの匂いがする瞬間もあるが、リード・ギターのトーンは過剰にエフェクティヴで全体のサウンド的には支離滅裂な部分はある。だがそんな折衷感覚がアートカレッジ出身者ゆえの美学なのだろう。この曲が収録された『Launderette』から現ドラマーのグレッグに交代している。

 この編集盤でセレクトされた楽曲の中でも特に筆者好みなのが、続く「BROKEN DOW ARISTOCRATS」(『Launderette』収録)である。ペーソス溢れるエンリコの歌詞の世界とクライヴの巧みな作曲能力が結晶していて、サザン・ソウルを英国風ポップに解釈したこのサウンドは、コステロやスクイーズ (Squeeze)のファンなら共感してくれるだろう。またこの曲のMVでは当時来日公演で訪れた東京の街角やライヴ会場で撮影されたシーンを中心に構成されている。

 
BROKEN DOW ARISTOCRATS / DEAF SCHOOL 

 本作中最も大作の「GOODBYE TO ALL THAT」(『Enrico + Bette xx』収録)は、エンリコとクライヴにスティーヴの3名がソングライティングした組曲で6分49秒にもおよぶ。ドラマティックなヴァースと大サビはクライヴの作曲で、中間部で転調するパートはスティーヴが手掛けている。このブリッジが始まる転回は10ccを想起させて英国ロック・マニアにはニヤリとする。またマックスの美しいピアノとイアンのソプラノ・サックスがこの曲を格調高く演出しているのも聴き逃せない。
 2010年のシングル「SURVIVOR SONG」は、オリジナル・メンバーでヴォーカリストだったエリックへの追悼ソングで、彼が生前書いた歌詞にクライヴがカントリー調の曲をつけている。ユーモアと哲学が共存する歌詞の世界で、「サバイバルの曲を歌うのは、僕かも知れないし、君かも知れない」というパンチラインをエンリコが歌っているのが心に響く。

 ボーナス・トラックにも触れておこう。「WHERE DO WE GO FROM HERE?」のエクステンデッド・バージョンは、間奏部にイアンのサックス・ソロをフューチャーしてオリジナルより1分ほど長い。
 初期アルバムからのデモ・バージョンは2曲で、ファースト・アルバム『2nd Honeymoon』(76年)を代表する「WHAT A WAY TO END IT ALL」と、サードの『English Boys/Working Girls』(78年)からは「MORNING AFTER」で、いずれも曲の骨格とアレンジの方向性は最終ヴァージョンと同じであり、デモというよりリハ・テイクという内容だ。
 また目玉となる一色萌により日本語カバーされた「TAXI」は、現メンバーでリレコーディングされたバックトラックを使用しているが、サックス・パートのみセッションで多忙だったイアンに代わり、名手の本間将人がダビングしている。
 オリジナルではエリックが担当していたナレーションと今回の日本語訳詞は、伝説のバンド“シネマ”のベーシストで“ジャック達”のリーダーである一色進(いっしき すすむ)氏によるもので、英日のB級(良い意味で)ロック・ファンには嬉しい限りだ。
 往年のデフ・スクールのファンは元より、一色萌を切っ掛けに彼らを知った音楽ファンも本作を直ぐに予約して聴いて欲しいと願うばかりだ。

 (ウチタカヒデ)

 

2021年1月15日金曜日

The BuckaroosのDon Richについて

 普段は【ガレージバンドの探索】というコラムを書いているけれど、ガレージロックしか聴かないというわけでもなく、その時々で好きだと思ったものを聴いていて少し前にカントリー音楽に興味をもった。

 あまりないパターンかもしれないけれど、そのきっかけはガレージだった。【ガレージバンドの探索・第四回】で取り上げたDownliners Sectはガレージ、R&Bとして括られるようなバンドにも関わらず、一枚カントリーのアルバムを出している。そのアルバムはあまり人気が高くなく、私もあまりしっかりと聴いてはいなかったけれど、記事を書く機会に原曲も合わせて聴いてみた。その中でとても気に入った曲がHarlan Perry Howard作曲の「Above & Beyond」だった。この曲を歌っているカントリーシンガーBuck Owensにもとても惹かれた。Buck Owensはカントリー歌手として多くのヒット曲で有名だけれど、よく知られるのはThe Beatlesがカバーした「Act Naturally」かもしれない。「Act Naturally」の原曲はずっとBuck Owens And The Buckaroosだと思っていたのだけれど、もとはカントリーミュージシャンJohnny Russellの曲のようだ。

 Buck Owens And The Buckaroosについて調べてみると、そのサウンドはベイカーズフィールドサウンドと呼ばれる種類のカントリーだそうで、Chet Atkinsなどが開始したナッシュビルサウンドのライバルにあたるらしい。このベイカーズフィールドサウンドのスカッとする陽気さが好きだ。そしてBuck Owens以上に興味をもったのが彼のバックバンドThe BuckaroosのリーダーDon Rich。ギター、フィドル、テナーコーラスなど多くの役割をこなす。快活なテレキャスターのサウンド、朗らかな歌声を聴いていると最高に気分がいい。

(左)Don Rich (右)Buck Owens

 1941年、ワシントン州オリンピアで生まれたDon Richは幼い頃からフィドルやギターを弾いていたそうだ。高校生の頃、Blue Cometsというロックンロールバンドを結成し地元のレストランなどで演奏していた。1958年にタコマのSteve’s Gay ’90sでBuck Owensにフィドル奏者としてスカウトされ、始めは大学進学のために断ったものの1年後大学を中退してバンドに参加することを決断。フィドルを演奏した最初のトラックが「Above & Beyond」だそうだ。


 Don Richがリードギターを担当している1963年リリースの「Act Naturally」以降はギタリストとしても活躍していき、Buck OwensとDon Richは相棒のようなお互いなくてはならない関係を築いていく。しかし人気バンドとして成功するも、1974年Don Richは32歳の若さでバイク事故により他界した。

 2000年にSundazedからリリースされている『Country Pickin': The Don Rich Anthology』(SUNDAZED SC11091)では、Don Richが関わった多くの作品の中でも、彼の歌や演奏がメインとなるものが集められている。



【文:西岡利恵



2021年1月5日火曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(岡崎友紀)

 岡崎友紀といえば1970年にスタートしたテレビ・ドラマ『奥さまは18歳』を連想される方が多いはずだ。それもそのはず、最高視聴率33%(平均25%)という大ブレイクで、日本の“ラブ・コメディ”の原点となった番組だった。その主演女優としてトップ・アイドルの座を不動のものにしていたのが彼女だ。このドラマで夫婦となった石立鉄男との「て・つ・や♡」「あ・す・か!」のやりとりが目に焼き付いている同世代も多いことだろう。この番組は絶大な人気を獲得し、映画化されそして「18歳シリーズ」として彼女の主演ドラマ・シリーズ化もされている。そんな彼女は、同時期に放映されていた“スポーツ根性ドラマ”『柔道一直線』のマドンナ役で清純派女優吉沢京子と並び、若手女優2トップとして君臨していた。

 なお彼女は歌手活動にも精力的に取り組んでおり、アイドル時代にはシングル22枚、LPは13枚(1枚はライヴ盤)をリリースしている。ライバルだった吉沢京子がシングル7枚、LP1枚だったことと比較すれば、その本気ぶりが伺えるはずだ。

 最大ヒットは筒美京平=橋本淳コンビの1972年<私は忘れない>(21位;18.1万枚)が挙げられる。このコンビからはテレビ・ドラマの主題歌<なんたって18歳!><ママはライバル>をはじめ人気作を提供されているが、注目は1976年19枚目のシングル<グッド・ラック・アンド・グッバイ>だろう。この曲は
後にユーミンが『14番目の月』に収録するナンバーだった。なおこの歌手活動では『奥さまは18歳』の役名だった「高木飛鳥」のペン・ネームで自身の持ち歌の作詞も手掛けていた。
 

 余談になるが、彼女は熱狂的なスヌーピー・マニアとして有名で、ぬいぐるみとのスナップが数多く紹介されている。
 その後、結婚を機に惜しまれながら引退したが、離婚をへて芸能活動を再開している。そして歌手としての復帰第一作が1980年にYUKI名義で発表した<ドゥー・ユー・リメンバー・ミー>(作:加藤和彦)だった。この脱アイドルを図った再デビュー作は大きな話題となり、彼女の代表作といえるほどヒットとなり、後にキタキマユがカヴァーをするほどの傑作になった。そしてこの勢いで、加藤和彦と清水信之と組んだ『ドゥー・ユー・リメンバー・ミー』を発表。


 さらに翌1981年には、前作に続き<ファースト・ブラッド>、そして新たに<センチメンタル・シティ・ロマンス>の協力を得た『So Many Friends』をリリースしている。このアルバムはシンガーとして十分に満足いく仕上がりだったものの、大きな話題にはいたらず、以降新作は発売されていない。
 多分この時期にもライヴを開催していたはずなのだが、残念ながらこの年には私自身は東京の生活から静岡に戻ってしまったので、聴くことは叶わなかった。  

 その後の彼女は1991年に劇団『NEWS』を結成し、若手俳優の指導育成にあたり、みずから脚本・演出・振り付けを手掛けた定期公演を開催している。同時に彼女自身もタレント・舞台女優として活動し、「岡崎友狸(ゆうり)」の雅号を持つ書道師範としても活躍。更に現在「エルザ自然保護会」副会長、「地球こどもクラブ」理事、「日本パンダ保護協会」評議員などの重役も担い、環境保護活動にも積極的に取り組んでいる。  


『ライヴ!岡崎友紀 マイ・コンサート』 
1975年3月5日 / 東芝 / TP-72032  国内チャート 71位  0.4万枚 

①心もよう(井上陽水:1973)、②恋のささやき(小坂恭子:1974)、③メドレー(白い船で行きたいな~黄色い船~私は忘れない)、④ワンマン・ミュージカル:アンナの旅、⑤悪夢(You Haven’t Done Nohing)(スティーヴィ・ワンダー:1974)、⑥土曜の朝には(Come Saturday Morning)(サンドパイパーズ:1969/1970)、⑦ザッツ・オールド・アメリカン・ドリーム(That Old American Dream)(ヘレン・レディ:1974)、⑧いろは、⑨歌のある限り(Keep On Singing)(ヘレン・レディ:1974)、⑩この世の果てまで(End Of The World)(スキーター・デイヴィス:1963) 

 彼女待望のライヴ・アルバムは1974年12月7日の模様を収録したものだ。アイドルとしての全盛期を過ぎた頃のライヴだが、旬の洋楽カヴァーにチャレンジするなど、シンガーとしての意欲は買える。
 このアルバムでの注目点は、当時、同じ「東芝」所属の気鋭のマルチ・プレーヤー、深町純がアレンジャーとして参加しているところだ。この時期の深町は『Introducing』『六喩(ろくゆ)』といった先進的なインスト・アルバムを発表しており、それゆえおおいに期待したものだが、残念ながらかかわったのは①~③のみだった。とはいえヒット・メドレー③が深町のアレンジで聴けるは価値があると思う。
 なお、洋楽カヴァーの訳詩は彼女自身(高木飛鳥名義)によるものだ。 その肝心の洋楽カヴァーだが、⑤はテンポこそ彼女に合っているが、シャウトするよりも、『奥様は18歳』の飛鳥役のようにどこかすねた感じで表現したほうが、よりフィットしていたように感じる。サントラ・ナンバー⑥は、いかにも女優を自負したような選曲だ。続く⑦⑨はヘレン・レディのレパートリーからで、⑦はファンク調に、⑨は原曲よりもややアップ・テンポに仕上げており、当時21歳の等身大の姿が反映された仕上がりになっている。  

参考1:カヴァー収録曲について 
①心もよう 
 日本初のミリオン・アルバムとなった井上陽水の1973年リリースのサード・アルバム『氷の世界』からのファースト・シングル。陽水自身初のトップ10(7位;42.3万枚)ヒットとなった。

②恋のささやき 
 <想い出まくら>の大ヒットで知られる小坂恭子の1974年5月デビュー曲。この曲は1974年第7回の「ヤマハ・ポピュラー・ソング・コンテスト」グランプリ曲。
 
⑤悪夢 
 原題<You Haven’t Done Nohing>。スティーヴィ・ワンダー1975年の「グラミー賞最優秀アルバム賞」受賞作で初全米1位作『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness' First Finale)』からのファースト・シングルで自身4作目の全米1位曲。バック・コーラスを務めたのは当時、同じモータウンに所属していたジャクソン・ファイヴ。
 
⑥土曜の朝には
  原題<Come Saturday Morning>。A&M所属のソフト・コーラス・グループ、サンドパイパーズの<Guantanamera!>と並ぶ代表作。1969年に1度リリースされるも不発に終わるが、1969年秋公開の映画『くちづけ(The Sterile Cuckoo)』(ライザ・ミネリ主演)の挿入歌となり、1970年に全米17位(A.C.5位)を記録した。8作目のアルバム『Come Saturday Morning』(1970)収録。 

⑦ザッツ・オールド・アメリカン・ドリーム
  原題<That Old American Dream>。ヘレン・レディの5作目のアルバム『Love Song For Jeffrey』(1974年:全米11位)収録曲。ヒットメーカーのマイケル・ヘイゼルウッド=アルバート・ハモンドの共作曲。 

⑨歌のある限り  
 原題<Keep On Singing>。ヘレン・レディ第5作『Love Song For Jeffrey』からファースト・シングルで全米15位(A.C.1位)を記録した彼女の代表曲のひとつ。作者はモンキーズのヒット・ソングを数多く手がけたボビー・ハートと、ダニー・ジャンセン。

⑩この世の果てまで 
 原題<End Of The World>。オリジナルは1963年全米2位にランクされた人気カントリー歌手スキーター・デイヴィスの代表曲。この時期のカヴァーは、当時ロングセラーになっていたカーペンターズ『Now & Then』の収録を意識したのかもしれない。

(鈴木英之)