2025年2月15日土曜日
生活の設計出演ライブ★ハンナ×みやびpre.「言葉と旅する 音と言祝ぐ」
2025年2月5日水曜日
ザ・スクーターズ:『信藤三雄・プレゼンツ・ザ・スクーターズ・コンプリート・ボックス ~東京ディスコナイト~』
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2025年1月26日日曜日
いい湯だな〜『にほんのうた』シリーズ
先日、しりあがり寿presents 新春!(有)さるハゲロックフェスティバル'25〜あなたとわたしの温泉郷〜にThe Pen Friend Clubで出演し、イベントのテーマ曲だった「いい湯だな」を演奏した。
これまで子供の頃にテレビで親しんだ "ドリフの曲" という認識だったけれど、この機会に改めて聴いてみると、なんとも他にないような風情がある曲だなと思う。この曲はもともと群馬県のご当地ソングだそう。「上を向いて歩こう」の作詞でも知られる作詞家永六輔と、「手のひらを太陽に」「ゲゲゲの鬼太郎」などの作曲家いずみたくが、日本各地を旅して作りあげた『にほんのうた』シリーズのひとつだそうだ。1965年から1969年にかけて発表されたこのシリーズの題材が46都道府県と本土復帰前の沖縄になっていて、全部で52曲ある。
シリーズの歌い手に選定されたのはNHKの音楽バラエティ番組『夢であいましょう』のレギュラー出演などで活躍していたコーラスグループ、デューク・エイセスだった。黒人霊歌を得意とし、ジャズや落語、童謡など、幅広い分野をレパートリーに取り入れているグループということもあって適任と考えられた。取材の旅にはデューク・エイセスが同行することもあったらしい。
1965年に発表された、京都を題材とした「女ひとり」は「いい湯だな」と同様に歌いつがれているヒット曲。〽︎きょうとおおはらさんぜんいん、の歌い出しには聴き覚えがある。この曲のヒットで大原・三千院への観光客は急増したという。
「いい湯だな」は、翌年1966年に発表された。ドリフターズ版では歌詞の舞台となる温泉地の範囲が広がっていたけれど、デュークエイセスの原曲では上州の温泉について歌われている。
『にほんのうた』シリーズの内容は楽しげなものや情緒溢れるものなど様々だけれど、一定層から注目を集める1969年発表の「クンビーラ大権現」などは異彩を放つ。
この曲の題材になっている香川の金刀比羅宮(ことひらぐう/ 愛称: こんぴらさん)は明治元年の神仏分離令が出される以前は、神道と仏教が融合された神仏習合の神、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)が祀られ、海上交通の守り神として特に船のりから信仰されていたそう。「金毘羅」の語源がサンスクリット語の「クンビーラ」で、歌詞に出てくるようにこの「クンビーラ」とはガンジス川に棲むワニが神格化された水神のこと。「大権現」は神号で、仏、菩薩が衆生を救うために仮の姿で現れたものを尊んで呼ぶそうだ。
『にほんのうた』シリーズは、今では私がそうだったように「いい湯だな」や「女ひとり」などの曲単位でしか知らない人も多いようだけれど、シリーズとして聴いてみるとまた味わい深い。
2025年1月19日日曜日
DAVID PATON:『Communication』
2025年1月12日日曜日
追悼 Andy Paley(1952-2024):極私的セレクションで紐解く彼の音楽的遺産
その後、Andyは兄Jonathanと共に「The Paley Brothers」を結成し、1970年代後半にデビューを果たした。パワーポップの黄金時代を象徴するバンドとして、彼らの甘美なメロディーと洗練されたハーモニーは、一部の熱狂的なファンを魅了した。「The Paley Brothers」は短期間の活動ながら、音楽業界に強い印象を残した。
Andyの死は大きな喪失だが、Andy の音楽人生は、Bostonの草の根音楽シーンから始まり、世界的なステージへと飛躍を遂げた。彼が遺した音楽とその精神は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けることだろう。
今回は極私的特集としてBrian Wilson以外の草の根パンクスピリットに溢れた彼の足跡を紹介しよう。
Andy Paleyの音楽的背景を理解するには、彼が生まれ育ったBoston周辺の音楽的な風土を知ることが不可欠である。1960年代から1970年代初頭にかけてのBostonは、文化的にも音楽的にも独特なエネルギーが満ちあふれ、フォークからロック、さらには実験的なサウンドまで、多様なジャンルが交差するこの街は、新しい才能が芽吹く肥沃な土壌があった。
その中でもThe Velvet UndergroundがBostonに残した影響は、ただの音楽的な遺産にとどまらず、都市の文化そのものを揺るがすほどの波紋を広げた。1960年代後半、彼らがManhattanで切り開いた前衛的な音楽シーンは、その時点ではほとんど理解されず、むしろ誤解されていた。しかし、Bostonという街はその特異な音楽の香りを敏感にキャッチし、歓迎する準備ができていた。この街の音楽ファンは、The Velvet Undergroundが奏でる荒涼としたプロトパンクの音に、ある種の解放感とエネルギーを見出した。その象徴的な場所がBoston Tea Partyだ。1969年、この伝説的なライブハウスで、The Velvet Undergroundはファンの熱狂を受け、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。この瞬間、Bostonの音楽シーンに新たな息吹が吹き込まれたと言えるだろう。
Bostonの音楽シーンが本格的に花開いたのは、1970年代初頭だった。The Velvet Undergroundが残した痕跡は、単なる過去のものではなく、Bostonの若きアーティストたちに新たな創作の自由をもたらした。彼らの音楽が持っていた反骨精神、既存の音楽業界に対する挑戦的な姿勢は、その後のパンクムーブメントを先取りしていた。この時期、Bostonからは数多くのパンクバンドが登場し、その中でも特にThe Modern Loversは、The Velvet Undergroundがまいた種をさらに成長させ、進化させていく。中でも、The SidewindersはBostonの音楽シーンを象徴する存在となった。1970年代初頭、彼らはBostonのアンダーグランドを代表するバンドとなり、Boston Tea Partyなどのライブハウスで、強烈なエネルギーを放ちながらシーンをリードしていった。彼らの音楽には、The Velvet Undergroundの影響が色濃く感じられる。シンプルでありながら、深い感情を内包したサウンドは、まさにBostonの地下音楽シーンが持つ精神そのものだった。

Andyを中心にしたThe Sidewindersは、その後も数々のラインナップ変更を経ながら活動を続けるが、最終的に解散を迎える。しかし、解散後のメンバーたちは、それぞれに個々のキャリアを築き上げることとなる。Billy Squirerは1980年代にソロアーティストとして成功し、アメリカのFMラジオやMTVを席巻することとなる。
以下の作品は極私的なセレクションだが、Andy が携わった数ある名作のほんの氷山の一角に過ぎないものの、彼の音楽は、ガレージ、パワーポップ、サーフなど、さまざまなジャンルを超えた音楽的冒険であり、そのすべてが彼の独特なセンスと情熱を反映している。









