2021年2月19日金曜日

【追悼 フィル・スペクター特集】To Know Him Was To Love Him ~ Phil Spector (1939-2021) 第1回


 去る1月16日に逝去された偉大なプロデューサー、フィル・スペクター(Phil Spector)。弊サイトでは氏の追悼特集を2か月に渡ってお送りする。
 初回はBB5研究家のMasked Flopper氏によるコラム【Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷】の第1回。


 2021年1月18日、かの人は生を終える。音の壁を築き上げた後、壁に囲まれた 隠棲生活の果ての終の住処はコンクリートの壁の向こうにある医療刑務所の房、 それは往時に采配を振るったGold Star studioの約10分の1の広さであり、またそ の父が排ガス自殺を遂げた車両の広さに匹敵した。

 地球上のコロナ禍における死者数は200万人を超えたという、Phil Spector もその中に含まれる。死して第二級殺人罪服役囚であったことは免れないが、 この疫病の犠牲者の一人として哀悼を捧げる。
 欧米メディアはこの死の報道における見出しの表現に戸惑いが見られる。 もっとも大きかったのは英国BBCで、速報の見出しで当初
 
"Talented but flawed producer Phil Spector dies aged 81"
 (Phil Spector 81歳で逝く 名声と汚点を残して) 

から間もなく殺人事件犠牲者への配慮か、

 "Pop producer jailed for murder dies at 81."
(81歳で逝く ポップ・プロデューサーそして殺人罪で服役) 

へと編集されていた。
 著名人のSNSにおいても積極的に弔慰を表す記事は 少なく、もっともSpectorの影響を受けているであろう、The Beach Boys からも言及がない。Al JardineのツイートでSpectorへの哀悼が確認できる が、「殺人事件の犠牲者及び遺族などへの配慮もすべき」と指摘する返信も 受けており、他のミュージシャンも慎重に言葉を選び発信している。

 今回はThe Beach Boysの影響を多大に与えたPhil Spectorの足跡を追悼 を込めて振り返ってみることとする。 
 Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷は、

①(1963年~1964年)習作期 
②(1965年~1966年)United Western Recordersでの独自サウン ド確立

の二期に別れる。 
 ①②に渡って共通しているのはWall of Soundの技法である、この基本 技法について鍵になるのはスタジオ内の機器でありもっとも重要な役割を果たすミキシング・コンソールだ。実はGold Star StudioとBrianが一時根城としたUnited Western Recordersには共通点がある。それぞれカスタム メイドではあるが中身はUniversal Audio社の610が基本になっている。

それぞれのコンソールの原型となった
Universal Audio社の610モジュール

 左:Gold Star                 右:United Western Recorders

映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』で
再現されたコンソール
エンジニア役で出演したMark Linettは実際に
The Beach Boysのリマスターで有名な現役エンジニアだ

 これらコンソールの機能はスタジオ内のマイクを拾った信号をミックスし、そこからの出力信号はテープデッキが録音する。
 上の画像から分かるように出力が三系統となっている。これは当時のデッキの トラックが3つであることを意味した。

Gold Starでの録音風景
コンソール隣のデッキが3トラックであることがわかる
左隣はマスター用モノトラック 

 Wall of Soundの最大の魅力となっているエコーはどう処理されているのだろう。
 エコー成分はもちろんこのコンソールから得ることはできない、Gold Starには エコーチェンバーといわれるエコー専用室があるのだ。エコーチェンバーを 用いるのは当時でもありふれた処理ではあるが、Gold Starの場合、音響効果を意 識し設計されており、その壁面の塗装方法まで慎重に計算されているのである。
 アタック音に対して発する独特の反響音と倍音は他のスタジオでは得られない 魅力がある。 

 Bee GeesのMaurice Gibbが
訪問した当時のエコーチェンバー

 それでは録音開始 
まずはスタジオ内のマイクが拾った音声は
コンソールの入力へ
ここで入力音声のピークの調整、フィルターによる音質の調整
デッキの入力へ 

 が、基本的な流れだが、これでは普通の録音と変わらないGold Star Studioの魔法の一つであるエコーを加えよう。
 コンソールにはもう一つ出力があり、指定したトラックの信号をエコーチェンバー へ流れるように指定すれば、ここから出る音声が上記のエコーチェンバー内に設置 したスピーカーへ繋がっていてエコーチェンバー内へ流すようになっているのだ。その音響をエコーチェンバー内に立てたマイクが拾い再びコンソールへ返すように なっている。

実際の録音風景でおさらいしよう 
<実機は失われているため、現存する機種から類推したものである>


スタジオ内各所にセッティングしたマイクからの音声は
①のノブを回してピークを調整         
②のスイッチで出力先を決定          
③のノブを回すと音声がエコーチェンバーへ流れ、
エコーがかかる
④は②で決まった出力先の音の大小を調整し、  
全体のバランス調整を行う

1966年ニュースフィルムでSonny and Cherの
レコーディング風景に映ったGold Starのコンソール
④のノブが色分けされているのがわかる、
各パートのバランス調整を容易にするためであろう
ノブの数から入力が12あり、スタジオ内には少なくとも
12本のマイクが立てられていることがわかる

 コンソールの段階でのいわゆる「壁」を築くには③と④の生音とエコーのバランス そして④で3つのトラックにまとめる際のそれぞれのバランスを調整することが鍵となるのだ。
 さらに「壁」の基礎工事で重要な要素はマイクの位置だ。

とあるセッションからの画像だが、画像中でも8ヶ所に
マイクがセッティングされていることが分かる。

 同じセッションの別の角度からだが、
アップライトベース奏者がいる
したがってマイクがもう一ヶ所セッティングされていることが
想像できる また、ホーン・セクションは全員で一本となっている。 

 電気ハープシコード?の隣にはピアノ奏者2人
(髭の人物はLeon Russell) 
おそらく一本ずつセッティングされていると思われる。 

 上記の画像から確認できるようにコンソールの入力数(12)に対応した マイク数がセッティングされている。 
 ホーン・セクションのように全体で一本もあれば ドラムではスネア付近とキックのあたりにそれぞれマイクを立てる場合もある。
 ここから分かる技法は、
●ホーン・セクションの様に周囲の音と被りながらルームマイクの様に、空間でミックスさせた音をマイクで拾う方法で生まれる、奥行きのある浮遊感のある音。
●楽器に近接して周りの音を取り込みながら、生音に近いエッジのある音
(ドラムは二本も割り振っている為か、「壁」を突き破るドラマティックな効果がある)
 マイクの特性によりマイクの距離で音質も変化するので、イコライジングの効果もあり事前のマイクのセッティングで全体のバランスや音のトーンを決定しているモヤモヤした音とエッジの効いた音とのバランス、そしてコンソールで加えるエコー が大きな距離感を加え視聴者にダイナミズムをもたらしているのだ。 

 それではThe Beach Boysのサウンド形成の変遷に移ろう。

①(1963年~1964年)習作期
初期のキーとなるソングライティングにおける二人のパートナーといえば、
Gary Usher・・・・地元の凡百あるマイナーレーベルとの付き合いや
         契約、スタジオワーク、曲作りなどの業界の経験
Bob Norberg ・・・実家から出奔後のルームメイトのみならず、
         自宅録音でのコーラスワークを始めとする
         技法の実験の数々に寄与。
         The Crystals『He's a Rebel』をBrianに薦め、
         Spectorに開眼させる。
 
 これら二者の才能に加えてBrianがさらに望むものがあった「ヒットを出す」ノウハウである、それに丁度打って付けの人物が現れる。
その名はJan Berry

左端がJan Berry

 Janは自分のグループJan & Deanから全米チャートヒットをいくつも持っていた上にアイドル的ルックスに加え、スタジオワーク(総務・経理)や楽曲の全パートのアレンジ、スコア作成までも手がけアレンジャーであり現場ではプロデューサーとして仕切り、多方面の役割を熟知していた。
 同時にJanはBivery Hills近郊の高級住宅街Bel Air出身であり、西海岸のライフスタイルを満喫するJanの存在は、労働者の多い住宅街出身のBrianにとって眩しく見えたのであろう。 
 東海岸で流行のダンス・ミュージックに対抗して、西海岸から発信するヒットのアイディアを探していたJanにとってBrianの存在こそうってつけの才能だった。
 以前からライブでも共演する仲であったが、間も無く両者はソングライティングでのパートナーとなりその作品『Surf City』の制作に1963年3~4月取りかかり、見事同年7月に全米1位となる。タイトル『Surf City』の舞台は奇しくもBrianの父祖が西海岸移住当時困窮を極めた頃の暮らしを想起させる場所である。
 同曲の制作ではWrecking Crewの面々が動員され、特筆すべきはHal BlaineとEarl Palmer両者のツインドラムによる力強いリズムを中心とするどっしりとしたサウンドだ。前年Bob Norbergから薦められたThe CrystalsにはじまるSpectorのサウンドにBrianは関心を抱いていたと思われるが、Spectorサウンドの影響の前段階としてBrianのスタジオワークにJanは大きな影響を残している。
 また、Janは東海岸のBrill Buildingサウンドの総本山Aldon Music系列の会社と作家兼プロデューサーとして契約関係にあった。
 『Surf City』の作者にBrianが名を連ねるということは、ほんの数年前までは素人の音楽好きに過ぎなかったBrianがラジオで親しんで聴いていたBrill Buildingサウンドの、その当事者の一員へと変身を遂げたことを意味する。
 5月にカバーではあるが『Surfin U.S.A』、7月に共作ではあるが自らペンをとった『Surf City』のヒットはさらにBrianの自信を深めることに繋がった。

 1963年 7月楽曲『Back Home』(Brian Wilson/Bob Norberg作)のセッションではGary Usher、Bob Norbergから得たノウハウに加え『Surf City』のセッションで得た経験を加え、それまでのスカスカな演奏からどっしりとしたサウンドへと移行していることが分かる。
 具体的には、リズムが前のめりのガレージ・サウンドからミドルテンポの跳ねたものへと移行する事であり、それは演奏技術の未熟なDennisではリズムキープが困難であることを意味した。
 Brianは早期のこのサウンドの自らのバンドへの移植を断念し、バンド外のアーティストへの提供で実験することに決めたようだ。

 
Back Home / The Beach Boys

1963年6月14日 Gold Star studioでの
セッション・シートである。
Brianにとっては初のGold Star体験でもある。

 参加者は Hal Blaine(ドラム)、David Gates(ピアノ)、Jay Miglioli(サックス)、Steve Douglas(サックス)、Carol Kaye(ベース)でWrecking Crewご一同様といった面々だ。
 聴こえてくる音もSpectorの音に近くBrianもご満悦であっただろう、アレンジ面でもどっしりしたサウンドを意識していることがよくわかる。
ヴォーカルとコーラスの処理は重ね音りしているところは、Bob Norbergとの共同 生活の頃よく研究していたテクニックだ。
同曲はリリースまでに13年かかり1976年発表LP『15 Big Ones』に改作されたものが収録されている。同LP収録曲全15曲中『Chapel Of Love(作曲にSpector)』『Talk To Me(オリジナルはJoe Senecaだが、SpectorプロデュースによるJean DuShonのカバーもあり)』『Just Once In My Life(Spector作曲)』が収録されておりSpector愛あふれる選曲となっている。

Run-Around Lover / Sharon Marie(1963)

 同日に録音された『Black Wednesday』は後に『Run-Around Lover』に改題しシングル盤(Sharon Marie、プロデューサーはBrian)のリリースに繋がる。 Brianの得意とする内省的なバラードからあえてエモーショナルな曲調を志向していることがよくわかる内容となっている。
 バッキングはWrecking Crewが手堅くまとめているが、やや一本調子でまだBrian流の「壁」が見えてきていない。

 また、この『Back Home』セッションの9日前にBrianを生涯に渡ってノックアウトし続ける、SpectorによるThe Ronnettes『Be My Baby』のセッションが行われていた。
 多くのBrian/The Beach Boys/の評伝類での通説では『Be My Baby』でSpectorに開眼し、それからあしげくSpectorの元に通った云々となっているが、多くの資料から既にSpectorの楽曲やWrecking Crewとの交流があったことは事実である。
 『Be My Baby』が大きなインパクトをBrianにもたらしたのは間違いない、おそらくそれは内心「Jan以上の存在」と心肝寒からしめ、それまでヒットで鼻高々だったBrianのプライドをへし折りSpectorを畏怖し追随することに繋がったのだろう。 

映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』
カットされたシーン(Spectorとの出会い) 

No-Go Showboat / The Beach Boys

 また、同年9月にアルバム『LIttle Deuce Coupe』レコーディングセッションがあり、そのうち『No-Go Showboat』は他のアルバム収録曲と比較して重厚なサウンドとコードチェンジ多用により、リスナーへドラマティックな印象を与えている。またこの辺りからドラムのチューニングを低めにしてスネアとタムを同時に叩く奏法を採用している、これはHal Blaineの影響だ。
 『Back Home』のセッションと楽器の構成が似通っており、さらに進化させてWall Of Soundを志向した証左である。『Be My Baby』がBrianに与えた影響の大きさの一端がよくわかる一曲。

The One You Can't Have / The Beach Boys 

 同時期に行われた再びGold Star studioでのThe Honeys『The One You Can't Have』セッションのサウンドは、『Be My Baby』から受けたインパクトの大きさが現れている。ドラムとキーボードにかかったエコーが楽器の一体感を強調しドラムのバランスが大きくよく聞くとツインドラム(実際はオーバーダビング)でドラムに厚みを持たせている、これはJan Berryの影響が大きい。
 ただし、『Back Home』の方が中低域のキーボードとホーン・セクションの絡みがもっと厚くなっているが、こちらではキーボードはドラムにほとんど隠れていてホーン・セクションはほぼ生音のデッドな音となっている。
 ドラムサウンドの音作りで時間切れとなり他のパートがおろそかになった趣もあるが、生前Gold StarのエンジニアであったLarry Levineの証言によるとBrianは、ホーン・セクションは楽器ごとにマイクを立ててダイレクト音を好んだとの証言もあり、Brian流Wall Of Soundの技法と見てもいいのかもしれない。

Drive-In / The Beach Boys

 同年10月のUnited Westernでのセッションでは『Little Saint Nick』に加え『Drive-In』の録音が行われた。翌年アルバム『All Summer Long』へ収録されることとなる。
 同アルバム収録曲の軽快さと比べて重めの趣がある理由は『Back Home』~『No Go Showboat』セッションからの流れで捉えれば共通項はWall Of Soundの音像であり、いよいよ自らのバンドへの移植を開始した様子がわかる。

I Do / The Beach Boys

『I Do』のセッション・シート 

 同年11月R.C.A Victor studioでの楽曲『I Do』のセッションでは、
Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(ドラム)、Jimmy Bond(ベース)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Al Delory(ピアノ)、Howard Roberts(ギター)、Bill Pitman(ギター)、Tommy Tedesco(ギター)、Jay Miglioli(サックス)、Steve Douglas(サックス)、Plas Johnson(サックス)
他が参加し『Back Home』の頃の倍以上のミュージシャンが動員され、Brianへの信頼や才能をが高まっていることを感じさせる。Spectorのセッションからそのまま抜け出してきてもおかしくない豪華な顔ぶれである。
 『The One You Can't Have』と同様にツインドラム(これもオーバーダブ)が用いられている。
 『The One You Can't Have』に見られた中域の不足は、今回はギターのストロークとキーボードをシンクロさせたことから生まれる楽器間の音色のブレンドで解消し、ドラムもリズムキープというより全体が一体化し壁の装飾と化している。淡々としたドラムのビートに絡むハンドクラップやタンバリンなどのパーカッシブな音の組み合わせも素晴らしい。
 何から何までSpector直系の音作りで、Brianの能力の高さと成長がよくわかる一曲。

Thinkin' Bout You Baby / Sharon Marie 
 
 1963年最後の12月のセッションで『Thinkin' Bout You Baby』 (後に『Daril'』へ改作)の出来は習作期の一年を締めくくるのにふさわしい作品となっている。(ただしヴォーカル録りは翌年となる)
 冒頭から最後まで流れ続ける幾重にも重なったギターストロークの入力レベルはピークレベルギリギリに抑えて強いコンプレッションがかかり、次第にキーボードの音色と一体化していく。さらに浮遊感あるエコーいっぱいのストリングスがかぶさりドラムはかすかに聞こえ、リズムをキープしているのは、キックとウッドブロックにヴィブラスラップだけだ。Wall Of Soundほぼ免許皆伝といっても過言でない仕上がりだ。
 ユニークなパーカッションの選択は、Spectorのセッションによく通ったBrianならではの着眼点だろう。その刻むビートは、バイヨンやハバネロ由来のラテンビート。
 そう、それは『Be My Baby 』のイントロと同じビートであり、Spectorの師匠筋Leiber-Stollerの楽曲の系譜に繋がる。
  「壁」がとうとう、見えてきた。 

 <1964年編へ続く>

(text by MaskedFlopper / 編集:ウチタカヒデ)

2021年2月12日金曜日

中塚武と videobrother:『TOKIO / 走れ正直者』(unchantable recoerds / UCT 034)


 2016年の7thアルバム『EYE』を弊サイトで紹介した、クリエイター兼シンガー・ソングライターの中塚武(なかつか たけし)が、沢田研二の代表作「TOKIO」をリアレンジ・カバーして7インチ・シングルで2月24日にリリースする。
 中塚はQYPTHONEのリーダーとして、98年にドイツのコンピレーション・シリーズ『SUSHI4004』でデビュー後2004年にソロに転じ、CM音楽、テレビドラマや映画のサウンド・トラック制作等のクリエイターとして活動を開始する。同時にシンガー・ソングライターとしてもこれまでに7枚のオリジナル・ソロアルバムをリリースしており、QYPTHONE時代からの独自性を貫いている希なミュージシャンなのだ。 

 最新作は各ジャンルで活躍中のバンドとのコラボレーション・シリーズの初回ということで、5管のホーン・セクションを含む8人編成のジャズバンド、ビデオブラザー(videobrother)と組んでいる。このバンドは在日ファンクを率いる浜野謙太(俳優活動もしている)やギタリストの仰木亮彦、トロンボーンのジェントル久保田を排出したことで知られる、和光大学のジャズ研究会“グリーン・キャタピラーズ・ジャズ・オーケストラ”が母体となって結成され、その高度な演奏力からライブ毎に多くの動員を誇っている。
 メンバーはリーダーでソプラノ兼テナー・サックスの山田宣人を筆頭に、テナー・サックスのルッパ(Ruppa)、トランペットのチャンケン、トロンボーンの鈴木ストライクのホーン隊4名に、サポートとしてバリトン・サックスのカネモト"MOCK”タカヒロが加わる。リズム隊はギターのコウノハイジ、ベースの山本ケイイチ、ドラムの田嶋トモスケで構成され、主にこの8人で活動しているのだ。
 ジャケットにも触れておくが、このアートワーク・イラストは、大人気マンガ『DJ道』で知られる漫画家兼DJのムラマツヒロキが担当しており、中塚とビデオブラザーのメンバーを独特の勢いあるタッチで描いている。
 このイラストだけでも『DJ道』愛読者の所有欲をそそるであろう。

  
   
TOKIO / 中塚武と videobrother

 ここからはこのシングル収録曲の解説をお送りする。タイトル曲はご存じの通り、沢田研二の80年のヒット・シングル「TOKIO」のカバーである。オリジナルは糸井重里の作詞と、当時沢田のプロデューサーだった加瀬邦彦(元ザ・ワイルドワンズのリーダー)の作曲で、編曲はミカバンド解散後サディスティックス在籍時から多くのセッションでファーストコール・ベーシストだった後藤次利が担当していた。グラムロックとディスコ・ファンクを軸にテクノを加味したハイブリッド・サウンドにより、同年の日本レコード大賞・編曲賞を受賞している。
 ここでは中塚とビデオブラザーの共同アレンジにより、ツイストのリズムにディック・デイル直系のハードなギター・リフ、切れのあるホーン・セクションをフューチャーした、全く新しいサウンドでリメイクしている。このカバーを聴いたら、ジュリーのオリジナルを思い出せないであろう突飛なアプローチで多くの昭和歌謡ファンが脱帽するだろう。音圧がある7インチという特性から、現役DJである中塚本人やアートワークを担当したムラマツによるDJプレイでもフロアを沸かせることは間違いない。

 
走れ正直者 / 中塚武と videobrother

 カップリングの「走れ正直者」は、国民的人気アニメ『ちびまる子ちゃん』(原作:さくらももこ)のエンディング・テーマ曲(1991年4月〜1992年9月)で西城秀樹の歌唱で知られており、原作者のさくらによる作詞、当時ヒットメーカーだった織田哲郎が作編曲を担当していた。
 このオリジナルもスカ・テイストはあったが、ここではテンポをより高速化して、縦横矛盾に暴れ回るホーン・セクションのビッグバンド・アレンジにより、格段に聴き応えのあるサウンドにモディファイしてしまっている。
 主役の中塚も西城を意識したシャウター振りが溜まらなく、「TOKIO」での歌唱同様にシンガーとしてのアイデンティティを確立したようだ。
 このように新たな中塚武ワールドは、ビデオブラザーとのコラボレーションによるサウンドを聴いただけで、次作も期待出来ると確信した。
 数量限定の7インチ・シングルなので、解説を読んで興味を持った音楽ファンは、リンク先のオンラインショップ等で予約して入手することをお勧めする。


(ウチタカヒデ)

2021年2月3日水曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(浅田美代子)

  通称「となりのミヨちゃん」こと浅田美代子は当時(今も?)都内でも屈指のお嬢様学校、東京女学館高等学校に在籍していたお嬢様のひとり。そんな彼女が芸能界入りするきっかけとなったのは芸能事務所からのスカウトだった。当然ながら身内は反対、更に芸能界入りを簡単に許諾する校風もなく、人気番組『時間ですよ!』の新人オーディションの結果で芸能界入りを認めることになった。そのオーディションへのに応募は25,000人に及ぶも、見事に栄冠を勝ち取り、シンデラ・ガールとして1973年芸能界デビューしている。

 そして同年、この番組内で挿入歌として彼女自身(天地真理も)歌っていた<赤い風船>で歌手デビューを果たす。ただ当時の彼女の歌唱力はNHKの歌番組に出演するためのオーディションを5回も落ちるほどだった。とはいえ、この曲を手がけたのは「歌い手ファースト」が信条のヒット・ソングのマエストロ筒美京平で、そんな彼女でも無難に歌いこなせるシンプルなものだった。
 そのデビュー曲は初登場2位、翌週には1位に駆け上がっている。その記録は1980年に近藤真彦が<スニーカーぶる~す>で初登場1位を記録するまで破られないほどのものだった(女性歌手の初登場1位は1990年内田有紀<TENCAを取ろう!~内田の野望>この曲も筒美作)。またセールス実績も50万枚に迫るほどで年間10位という華々しいもので、一躍トップ・アイドルの一人となった。


 そんな当時の彼女に人気は、デビュー年に冠番組『ひーふー美代ちゃん』(東京12チャンネル;現テレビ東京)をもつほど絶大なものだった。とはいえ、歌手“浅田美代子”としては相変わらずで、後に清水ミチコ等の歌モノマネ定番としてずっといじられることになる絶好のターゲットだった。

  にもかかわらず、1975年までにトップ10に2曲(<ひとりっ子甘えっ子>(10位、14.5万枚)、<しあわせの一番星>(7位、22.1万枚))を送り込んでおり、彼女を代表する上位三曲が全て筒美作品だったというのも最高のデビューが飾れた要因だろう。またトップ20ヒットも4曲あり、そのうちのひとつ1974年の<じゃあまたね>(12位;9.1万枚)楽曲提供者が1977年に結婚する吉田拓郎だったのはファンには恨めしい出来事だったはずだ。
 彼女はたくろうとの結婚を機に早々と引退の道を選び多くのファンを嘆かせたが、1983年には破局となり、それを機に芸能界に女優としてカム・バックしている。
 その後の彼女の役どころは映画作品では「釣りバカ日誌7」以降のみち子さん役等、2019年には故樹木希林初企画の作品となった『エリカ38』で45年ぶりの主演。またテレビでもNHK連続テレビ小説『花子とアン』など数多くの作品に出演し、幅広く活躍を続けている。 
 またいっぽうでは、明石家さんまのバラエティ番組などに、天然キャラとして欠くことのできない存在となっている。

  また彼女は歌手としてもカムバックしており、その第1作は1992年、嘉門達夫とのデュエット<デュエット替え唄メドレー>(28位:6.1万枚)で、バラエティ番組で見せていた天然キャラが引き立つ傑作ナンバーだった。



『第1回リサイタル・ライブ』 1974年12月10日 
CBS/SONY / Epic/ECLL-8  / オリコン 50位  0.4万枚 

<第一部 ミュージカル「美代子18歳・秋」>①オープニング、②しあわせの発見、③すれちがいの青春、④対立、⑤みんなは兄弟、⑥君は今、⑦18歳・秋、
<第二部 ヒット・パレード>⑧赤い風船、⑨私の宵待草、⑩恋は真珠いろ、⑪しあわせの一番星、⑫ひとりっ子甘えっ子、⑬虹の架け橋、⑭じゃあまたね、⑮春の坂道

 1974年9月15日、東京芝郵便貯金ホールでの模様を収録したもの。この時期はリリースされたシングルがすべてトップ20にランクされるほど絶大な人気を保っており、この会場でも熱狂的ファンの野太い歓声が飛び交い、いかにもトップ・アイドルのコンサートらしいものとなっている。
 アナログ片面がオリジナル・ミュージカルだった。当時はいずみたくのヒット・ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』が、南沙織とフォーリーブスによって再演(1973年)され話題になっており、そのタイミングもあって美代子も挑戦したのかも知れない。
 来場者にとってミュージカルの体験はまたとない絶好の機会だっただろうが、ファンにとってはオリジナル・ヒットを中心としたB面はがお目当てだったのはいうまでもないだろう。  


 
『美代子のページ』 1976年2月25日
CBS/SONY / Epic/ECLL-16  /  オリコン 圏外 

①Overture、②I Can't Give You Anything (スタイリスティックス:1975)、③Proud Mary(クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(以下C.C.R.):1969/ アイク&ティナ・ターナー:1971)、④Medley・赤とんぼ(Chorus; Time Five)/赤い風船/一番星みつけた/しあわせの一番星/叱られて/ひとりっ子甘えっ子、⑤この胸にこの愛に、⑥MAMMA、⑦Medley・ A. Top Of The World(カーペンターズ:1972/1973) / B. Jambalaya(On The Bayou)(ハンク・ウィリアムス:1952 / カーペンターズ:1973)/C.忘れていた朝(赤い鳥:1969)、⑧Medley・ A.  Early In The Morning(クリフ・リチャード:1969/ヴァニティ・フェア:1969) / B. Breakfast At Tiffany’s)(ヘンリー・マンシーニ:1961) / C. 虹の架け橋 / D.  Sugar Town(ナンシー・シナトラ:1967) / E. I Will What For You Top(ダニエル・リカーリ:1964)、⑨想い出のカフェテラス、⑩20才の出逢い 

 このセカンド・ライブは1975年12月7日東京芝郵便貯金ホールでのもの。ファースト・ライヴとは打って変わって洋楽カヴァーが多く収録されており、ジャケット裏面のスナップに見られるように、彼女のノリノリぶりが微笑ましい。
 まず、派手なオープニングに続く最新ヒット②は英語詞のまま歌っており、よほどのお気に入りだったように感じる。続くティナ・ターナー調の③は訳詞が美代子本人と、彼女の弾けた意気込みも伝わってくる。
 自身のヒット曲はさらりとメドレーにしてファン・サービス程度に止めているのは、「私だってこんなに歌えるのよ!」という自負の表れだろうか。 
 さてそんな自負をうかがわせるカヴァー曲について触れておくと、まず⑦のカーペンターズ・メドレーは無難な選曲だが、興味深いのは⑧のメドレーだ。まず<A>は日本での大ヒットを反映した選曲で岡田富貴子の訳詞がぴったりはまっている。続く<B>は女優気分のダイアログが良い雰囲気を醸し出している。続く<D>は彼女にお似合いの好選曲だ。そしてラストの<E>はなかにし礼の訳詞が可愛いだけではない大人びた美代子を演出している。バック・バンドのノリも好演奏で、会場の「ミヨちゃ~ん」コールに本人の気分もアゲアゲ。 
 なお、76年は新曲(⑩はこのアルバムのみ収録の未発表曲)のリリースもなく、これ以降は企画物しかリリースされていない。つまり、この作品が実質的にアイドル時代の浅田美代子ラスト・アルバムとなった。
 とはいえここでのパフォーマンスはそんな雰囲気は微塵も感じさせないほどエネルギッシュな内容で、コアなファンには最高のプレゼントになったはずだ。  

<カヴァー収録曲について> 
②I Can't Give You Anything  
 邦題:愛がすべて。1971年に<You're a Big Girl Now>でデビューしたスタイリスティックスの1975年発表第5作『Thank You Baby』収録の18枚目シングル。本国では51位に終わるも、全英では3週連続1位年間6位という大ヒット。ヴァン・マッコイによる<Love Is The Answer>をモチーフとしたき煌びやかでメロディアスなサウンドは、当時の日本のディスコで<ザッツ・ア・ウェイ/K.C.&ザ・サンシャイン・バンド>や<The Hastle/ヴァン・マッコイ>などと並びヘビロテ状態だった。結果日本での最大ヒット(20位、21.6万枚)になっている。

③Proud Mary 
 C.C.R.初のミリオン・ヒット(全米2位)で代表曲のひとつ、セカンド・アルバム『Bayou Country』(69年)に収録。なお、1971年にはアイク&ティナ・ターナーが大ブレイク作『Live At Carnegie Hall』よりシングル・カットされ、こちらもミリオン・ヒット(全米4位)を記録し、ティナを語る上で欠くことの出来ない曲となっている。 

⑦<A> Top Of The World 
 カーペンターズの4作『A Song For You』(1972)の収録曲で、日本では本国に先がけ独自にシングル・カットされ大ヒットした。米国では1973年リリースの初ベスト・アルバム『The Singles: 1969–1973』に、リアレンジされたヴァージョンが収録され、このテイクがシングル・カットされ彼らにとって2曲目の全米1位となった。 

⑦<B> Jambalaya(On The Bayou)
 カントリー界の大御所ハンク・ウィリアムスが1952年カントリー・チャート1位(全米20位)に送り込んだ名曲。後にニッティ・グリッティ・ダート・バンドが『All the Good Times』(1972)、1973年にはC.C.R.解散後にジョン・フォガティが発表した『The Blue Ridge Rangers』に収録され話題となった。日本やイギリスではカーペンターズ第5作『Now & Then』に収録されたカヴァーが独自にシングル・カットされ大ヒットとなっている。 

⑦<C>忘れていた朝 
 1971年7月に発表した赤い鳥の6枚目のシングル(26位、12.7万枚)で代表曲の一つ。 

⑧<A> Early In The Morning 
 邦題:しあわせの朝。1969年、クリフ・リチャードの来日記念盤として発売され、日本で大ヒット(4位、34.1万枚)。なおこの曲は<夜明けのヒッチハイク(Hictch’ Ride)>(全米5位)のヒットで知られるヴァニティ・フェアとの競作で、英米では彼らに軍配(全米12位)が上がった。なお、クリフにとっては日本での最大ヒットという経緯もあり、来日公演では必ず披露するお約束のナンバーだ。 

⑧<B> Breakfast At Tiffany’s 
 邦題:ティファニーで朝食を。『ローマの休日』(1953)でアカデミー賞主演女優賞を獲得し、ビッグスターとなったオードリー・ヘップバーンの代表作に数えられる1961年発表のパラマウント映画主題歌。作者は『The Pink Punther』でも知られるヘンリー・マンシーニ。 

⑧<D> Sugar Town  
 邦題:シュガータウンは恋の町。“ザ・ヴォイス”フランク・シナトラの愛娘ナンシーが1966年に全米5位を記録した大ヒット。ちなみにこの年、ナンシーは<にくい貴方(These Boots Are Made For Walking)>、翌1967年には父とのデュエット<恋のひとこと(Somethin' Stupid)>を全米1位に送り込み、人気のピークを迎えている。 

⑧<E>I Will What For You Top 
 邦題:シェルブールの雨傘(原題『Les Parapluies de Cherbourg』)は1964年にジャック・ドゥミ監督によって制作されたフランス映画で、第17回カンヌ国際映画祭で最高の栄誉であるパルム・ドール(Palme d'Or)を受賞。この主題歌はダニエル・リカーリが劇中で歌っているが、ナナ・ムスクーリ版も有名。日本では元トワ・エ・モア白鳥英美子のテイクがよく知られている。

(鈴木英之)