ラベル 05USロック の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 05USロック の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年2月21日土曜日

Jim Croceについて


 ジム・クロウチの「Operator」を初めて聴いた時、優しいメロディと輪郭のはっきりした心地いい歌声に聴き惚れた。電話をかけるには交換手(Operator)に繋いでもらう必要があった時代。交換手へ語りかけながら、過去の恋人に電話をしようかしまいか、心境が変化していく様子が歌われている。5枚あるスタジオアルバムのうち、初ヒットとなった3作目『You Don't Mess Around with Jim』(ABC Records-ABCX756)からのシングル曲だ。

Operator / Jim Croce

 ペンシルベニア州南フィラデルフィア出身のジム・クロウチは、幼い頃からアコーディオンを演奏したり、様々なジャンルの音楽を聴いて育ったそうだ。ヴィラノバ大学に進学してからはヴィラノバ・スパイアーズというサークルで音楽活動を行い、審査員として参加した音楽コンテストの出演者イングリッド・ジェイコブソンを誘って彼女とデュオでの活動も行った。1965年の卒業後は陸軍州兵に入隊し、訓練生活を送りながら音楽活動も続けていたそう。翌年、クロウチとイングリッドは結婚し、この時両親からの結婚祝い金で500枚自主制作されたのが最初のアルバム『Facets』だ。

 兵役の任務が解かれた1968年、大学の友人でもある音楽プロデューサーのトミー・ウエストの勧めで夫妻はニューヨークへ移住し、キャピトルレコードからデュオでのアルバム『Jim & Ingrid Croce』(Capitol Records-ST-315)をリリース。しかし商業的には恵まれず、ニューヨークでの生活にも疲れた2人はペンシルベニア州リンデルの田園地帯に移り住むことにした。ここでのクロウチは工事現場の作業員やトラック運転手など様々な仕事で生計を立てていたそうだ。この生活の中で出会った人々は、後の曲作りのテーマとして登場しているらしい。

 1970年になって、大学の友人で音楽プロデューサーのジョー・サルヴィオロから紹介されたシンガーソングライターのモーリー・ミューライゼンとパートナーを組みABCレコードと契約。この頃息子が生まれたクロウチは決意を新たに再びニューヨークへ向かい、ミューライゼンをリードギターに、トミー・ウェストとテリー・キャッシュマンのプロデュースでアルバムを制作する。こうして1972年4月にリリースされたのがヒットアルバムとなった『You Don't Mess Around with Jim』だ。収録曲のひとつ「Time In A Bottle」は息子のために書かれた曲だそう。この時から、全米中をツアーしてまわる多忙な日々が始まった。ツアーと並行してレコーディングも進められ、ABCレコードでの次のアルバム『Life and Times』』(ABC Records-ABCX756)は1973年1月にリリースされた。このアルバムからのシングル曲「Bad, Bad Leroy Brown (邦題: リロイ・ブラウンは悪い奴)」は2週連続全米1位を獲得。フランク・シナトラやドリー・パートンにもカバーされた。クイーンの「Bring Back That Leroy Brown」という曲で歌われているのは、このクロウチの「Bad, Bad Leroy Brown」の歌詞に登場する悪党リロイ・ブラウンのことだ。

 1973年9月20日、クロウチとミューライゼンはルイジアナ州ナケテシュにある、ノースウェスタン州立大学でのコンサートを終え、翌日のテキサス州シャーマンのコンサートに向かうところだった。しかしナケテシュの空港で2人が乗り込んだ小型チャーター機は、離陸した直後に木に激突し6人の乗客全員が死亡。ジム・クロウチは30歳、モーリー・ミューライゼンは24才という若さで突然この世を去った。シングル曲「I Got A Name」がリリースされる日の前日の事故だったそうだ。11月には、これまで『You Don't Mess Around with Jim』の中の1曲だった、息子のための曲「Time In A Bottle」がシングルカットされ、全米1位を獲得する。そして事故の1週間前にレコーディングを終えていた、「I Got A Name」を含む同名のアルバム『I Got a Name (邦題: 美しすぎる遺作)』(ABC Records-ABCX797)が1973年12月にリリースされ、「I Got A Name」の他、「I'll Have To Say I Love You In A Song」、「Workin' at The Car Wash Blues」がヒットを獲得した。

Workin' at The Car Wash Blues / Jim Croce

 その後も、生前未発表だったデモ音源やライブ音源などがいくつかリリースされているのだけれど、最近知って興味深かったのは2003年リリースのコンピレーションアルバム『Home Recordings: Americana』(Shout!Factory-DK30266)で、この音源は1967年に自宅のキッチンテーブルで、ウォーレンサック製のオープンリール式テープレコーダーを使って録音されたものだそうだ。

The Wall / Jim Croce (Harlan Howard カバー)
『Home Recordings: Americana』


参考・参照サイト

https://jimcroce.com/

https://web.archive.org/web/20090813083353/http://www.philly.com/inquirer/local/20090810_Croces_capture_time_in_a_bottle.html

https://web.archive.org/web/20100611020306/http://www.pabook.libraries.psu.edu/palitmap/bios/Croce__Jim.html

https://www.rhino.com/article/happy-45th-jim-croce-i-got-a-name

https://agreenmanreview.com/music-2/jim-croces-have-you-heard-jim-croce-live-and-home-recordings-americana/


執筆者・西岡利恵
60年代中期ウエストコーストロックバンドThe Pen Friend Clubにてベースを担当。



【リリース】

■ 2026年3月18日発売
2枚組 NEWアルバム
『Songularity - ソンギュラリティ』

「Harbinger」(『Songularity』)Official PV













■ 2026年2月20日〜配信中
『Songularity - ソンギュラリティ』
先行シングル第一弾「California Again」
(ショートMV)













■ 2026年2月20日
先行シングルCD4作 同時発売
(ペンパルレコード通販にて販売)

先行シングル4作
4週連続 配信
2/20「California Again」
2/27「Got To Be Rock And Roll」
3/6「Grow」
3/13「Lily’s Smile」

【LIVE】

[Songularity - ソンギュラリティ]
レコ発ワンマンツアー

■2026年4月25日(土・昼)
東京・渋谷LOFT HEAVEN

■2026年5月2日(土)
大阪・天満橋RAW TRACKS

■2026年6月20日(土)
名古屋・鶴舞KDハポン

チケット予約









































2025年4月23日水曜日

伝承民謡 スカボロー・フェア

  最近、少し興味があった英国伝承童謡のマザーグースについて調べていたら、サイモン&ガーファンクルのヒット曲「スカボロー・フェア」の情報に辿り着いた。有名曲なので存在は知っていたけれど、マザーグースにも含まれるのは今になって知った。

Scarborough Fair / Simon & Garfunkel

 サイモン&ガーファンクルの直接的なカバー元になっているのは、60年代英国のフォークリバイバル運動の中心人物だったマーティン・カーシーの弾き語りだそう。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、まだ学生だった1957年にトム&ジェリーとして、母国アメリカでデビューしたものの思ったようには売れず、その後ポール・サイモンはイギリスに渡った。その際に、フォーククラブなどでトラッドを弾き語っていたマーティン・カーシーの「スカボロー・フェア」を聴いたそうだ。当時この弾き語りに影響を受けたのはポール・サイモンだけではなく、ボブ・ディランも同曲からインスピレーションを得て「北国の少女」を制作している。もとは古くからの伝承民謡のため多くのバリエーションが存在する曲で、マーティン・カーシーはイワン・マッコール&ペギー・シーガーによる歌集のバージョンを元にしていると言われている。

Scarborough Fair / Ewan MacColl

 "スカボロー・フェア"というのは13〜18世紀頃、約500年もの間、イギリス北東部ヨークシャー州の海辺の街、スカボローで毎年夏に開催されていたマーケットのことだそう。サイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」の歌詞は、ある者がスカボローに住むかつての恋人への伝言を、その地へ向かう者に依頼する内容になっている。伝言には、

縫い目を残さず針も使わずにキャンブリックのシャツを作ってほしい

海と波打ち際の間に1エーカーの土地を見つけてほしい

といった、不可能な課題が提示される。そして、その伝言に対しての言葉なのか、繰り返し歌われる

パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム

という言葉。謎かけ歌として解釈が様々存在するけれど、ここで出てくるハーブは古くは魔法的な意味を持ち、災いから身を守るためのお守りとしても考えられていたことが、植物学者や民俗学者にはよく知られていることらしい。問いかけに応じると魂を奪われてしまうため、まじないとしてハーブの名前を唱えているというのがひとつの解釈だ。

 また、サイモン&ガーファンクルのバージョンでは、前述の恋人への伝言に、さらに1965年にリリースされたポール・サイモンのソロアルバム『ポール・サイモン・ソングブック』収録の反戦歌「ザ・サイド・オブ・ア・ヒル」の歌詞の内容が組み合わされているので、ここでの伝言は戦死した騎士の生前の恋人へのものかもしれないし、スカボローの恋人の方がこの世に存在していない、と解釈されることもある。

 「スカボロー・フェア」の歴史を辿れるところまで辿ると、19世紀後半にアメリカの文献学者フランシス・ジェイムズ・チャイルドが、イングランドやスコットランドの民間伝承バラッドを収集してまとめた、『チャイルド・バラッド』の整理番号Child #2にあたる「エルフィンナイト」に行き着くとされる。ここでは、妖精の騎士へ結婚を望む乙女に対して騎士が不可能な課題を提示し、乙女も同様に困難な課題を考案する。

 1993年にリリースされたフォーク・ドキュメンタリー番組のサウンドトラック『アコースティック・ルーツ』にはマーティン・カーシーとペンタングルのメンバーとしても知られるフォーク・ミュージシャンのバート・ヤンシュが共演したバージョンが収録されていて、ここでのタイトルは「エルフィンナイト」とされている。

The Elfin Knight / Martin Carthy · Bert Jansch

 「エルフィンナイト」から続く「スカボロー・フェア」の根幹は "不可能な課題" だと思うけれど、これがバージョンによって様々な効果を生んでいて面白い。有名な男女デュエットのものでは、お互いが不可能な課題を与え合い、達成できればあなたは恋人だと歌う。16〜17世紀から存在するとされている民謡が伝承の過程で変化しつつも、消滅することなく歌い継がれてきたと思うと、途方もなく壮大でわくわくしてくる。


参考・参照サイト



執筆者・西岡利恵

60年代中期ウエストコーストロックバンドThe Pen Friend Clubにてベースを担当。



■NEWアルバム『Back In The Pen Friend Club』をCD、配信にて発売中。

試聴トレーラー:

■ライブ
5/18(日) ​横田基地『日米友好祭2025』

詳細・ご予約

■クラウドファンディング
2枚組NEWアルバム『Songularity - ソンギュラリティ』
制作&レコ発ツアー応援プロジェクト

プロジェクトページ








































2025年1月12日日曜日

追悼 Andy Paley(1952-2024):極私的セレクションで紐解く彼の音楽的遺産


 Andy Paleyは2024年11月20日、音楽界に多大な足跡を残してこの世を去った。享年72歳。彼の死は、幅広いジャンルで活躍してきた才能あふれるプロデューサー、作曲家、パフォーマーを失ったことを意味し、音楽ファンや関係者にとって大きな悲しみをもたらした。
 1952年、米合衆国Massachusetts州に生まれたAndy は、幼少期から音楽に親しみ、特に1960年代のポップミュージックに影響を受けた。彼の音楽への情熱は高校時代から本格的に開花し、早い段階で作曲の才能を発揮した。1970年代前半、Andyはバンド「The Sidewinders」のメンバーとして活動した。The Sidewindersでの経験は、Andyの音楽キャリアにおける基礎を築く重要な時期となった。


 その後、Andyは兄Jonathanと共に「The Paley Brothers」を結成し、1970年代後半にデビューを果たした。パワーポップの黄金時代を象徴するバンドとして、彼らの甘美なメロディーと洗練されたハーモニーは、一部の熱狂的なファンを魅了した。「The Paley Brothers」は短期間の活動ながら、音楽業界に強い印象を残した。


 2013年リリース『The Complete Recordings』(Real Gone Music – RGM-0182)では未発表曲を含む彼らの音楽的進化とともに、その時代の空気を感じさせる音が凝縮されている。
 本作の大部分が、The Beach BoysゆかりのBrother Studioでレコーディングされているという点も、このアルバムの特別さを際立たせている。Brother Studioは、特にBrian Wilsonが数々の名作を作り上げた場所として、ファンにとっては非常に象徴的なスタジオだ。4曲目「Boomerang」では、なんとBrian Wilsonがバッキングコーラスで参加しており、Brianの存在感が感じられるビーチボーイズ風味が色濃く反映された一曲で、Paley BrothersのサウンドにBrianのハーモニーが溶け込んだ貴重な瞬間を体感できるトラックだ。26曲目の「Baby, Let's Stick Together」は、Phil Spectorによるプロデュースという点で注目に値する。Spectorの名を冠したWall of Soundがしっかりと感じられ、彼の特徴的な音作り(wrecking crewがフルサポート!)がこの曲に深みを与えている。
 実は、この曲はDionの曲と同じメロディを持ちながらも、Spectorの手によってBrill Building風のアレンジが施されているのだ。この曲は、Spectorらしい壮大なアレンジと、Paley Brothersのバンドサウンドが絶妙に融合した結果、まるでBrill Buildingの黄金時代を感じさせる音が広がる。おそらく所属レーベルSire繋がりでRamonesと並行して行われたものと推測されるが、
 Ramones同様レコーディング現場ではSpectorに相当振り回されたようでThe Paley Brothers活動休止の一端となる。このようにThe Paley Brothersは初期のガレージバンドとしてのエネルギーから、Spectorのプロデュースによって新たな音楽の高みを目指すよう進化を遂げていく。10歳年上のBrianが自身の栄達と重ねて感じている部分もあったに違いない。

 そしてバンド活動と並行しプロデューサーや作曲家としての道を歩み始める。特に1980年代後半から1990年代にかけて、Brian Wilsonとのコラボレーションが彼のキャリアのハイライトとなり、弊誌でも何度も取り上げている。Andyは、Brianの音楽的復活を支えただけでなく、Madonna、Jerry Lee Lewis、Jonathan Richmanなど、さまざまなアーティストとの仕事を通じてその多才ぶりを証明した。Andyの音楽性はジャンルを超え、ポップ、ロック、カントリー、映画音楽など多岐にわたり、彼の楽曲は映画やテレビのサウンドトラックにも使用されるなど、幅広い層に親しまれた。
 Andyの死は大きな喪失だが、Andy の音楽人生は、Bostonの草の根音楽シーンから始まり、世界的なステージへと飛躍を遂げた。彼が遺した音楽とその精神は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けることだろう。
今回は極私的特集としてBrian Wilson以外の草の根パンクスピリットに溢れた彼の足跡を紹介しよう。

 Andy Paleyの音楽的背景を理解するには、彼が生まれ育ったBoston周辺の音楽的な風土を知ることが不可欠である。1960年代から1970年代初頭にかけてのBostonは、文化的にも音楽的にも独特なエネルギーが満ちあふれ、フォークからロック、さらには実験的なサウンドまで、多様なジャンルが交差するこの街は、新しい才能が芽吹く肥沃な土壌があった。 
 Andyが少年時代を過ごしたこの地域では、小さなライブハウスや大学のキャンパスが音楽シーンの中心地だった。Bostonのストリートにはギターを抱えた若者たちが溢れ、彼らが奏でる音楽は街のざわめきと共鳴していた。その中には、地域密着型のフォークシンガーや実験的なバンド、さらにはプロを目指す熱意あふれるミュージシャンたちが混在しており、アンディはそんな環境の中で、サウンドに対する鋭敏な感性を磨いていった。特にボストン周辺の音楽コミュニティは、才能を持つ者を受け入れ、共に成長していく寛容さがあった。ここでは、ライブハウスのような伝説的な会場で、新進気鋭のアーティストたちがパフォーマンスを繰り広げ、音楽の新たな可能性を探る場が提供されていた。このような文化的ハブが、Andyにとって音楽の探求を促す無限のインスピレーションとなったに違いない。さらに、Boston独自の音楽的な気質も重要だ。この地域は、洗練されたインテリジェンスとストリート感覚が見事に融合した音楽を生み出すことで知られている。
 その中でもThe Velvet UndergroundがBostonに残した影響は、ただの音楽的な遺産にとどまらず、都市の文化そのものを揺るがすほどの波紋を広げた。1960年代後半、彼らがManhattanで切り開いた前衛的な音楽シーンは、その時点ではほとんど理解されず、むしろ誤解されていた。しかし、Bostonという街はその特異な音楽の香りを敏感にキャッチし、歓迎する準備ができていた。この街の音楽ファンは、The Velvet Undergroundが奏でる荒涼としたプロトパンクの音に、ある種の解放感とエネルギーを見出した。その象徴的な場所がBoston Tea Partyだ。1969年、この伝説的なライブハウスで、The Velvet Undergroundはファンの熱狂を受け、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。この瞬間、Bostonの音楽シーンに新たな息吹が吹き込まれたと言えるだろう。

 Bostonの音楽シーンが本格的に花開いたのは、1970年代初頭だった。The Velvet Undergroundが残した痕跡は、単なる過去のものではなく、Bostonの若きアーティストたちに新たな創作の自由をもたらした。彼らの音楽が持っていた反骨精神、既存の音楽業界に対する挑戦的な姿勢は、その後のパンクムーブメントを先取りしていた。この時期、Bostonからは数多くのパンクバンドが登場し、その中でも特にThe Modern Loversは、The Velvet Undergroundがまいた種をさらに成長させ、進化させていく。中でも、The SidewindersはBostonの音楽シーンを象徴する存在となった。1970年代初頭、彼らはBostonのアンダーグランドを代表するバンドとなり、Boston Tea Partyなどのライブハウスで、強烈なエネルギーを放ちながらシーンをリードしていった。彼らの音楽には、The Velvet Undergroundの影響が色濃く感じられる。シンプルでありながら、深い感情を内包したサウンドは、まさにBostonの地下音楽シーンが持つ精神そのものだった。

  

 The Sidewindersは1969年にCatfish Blackとして結成され、Maine出身のJimmy Mahoney(ボーカル)、Wisconsin出身のJerry Harrison(キーボードのちにTalking Headsへ)、Connecticut出身のErnie Brooks(ベース)など、Harvard University周辺に住む3人の学生を含む6人編成でスタートした。リードギターのEric Rose、リズムギターのMike Reed、ドラマーのAndy Paleyもメンバーに加わっていた。
 Mahoneyが1970年に脱退した後、Andyがボーカルとハーモニカを担当し、ドラマーにはHenry Stern(ギタリストのMike Sternの兄)が加入する。Harvard やその他の大学、Boston Tea Party、Stonehenge Clubなどの地元の会場で演奏し、数回にわたってAerosmithの前座を務めることで、地元で熱狂的なフォロワーを獲得し、彼らのレパートリーは、カバー曲とオリジナル曲を組み合わせたもので、特にAndyによって書かれたオリジナルが特徴的だ。

 1970年末、バンドはある程度の評価を得ていたものの、レコード契約は見込めない状況で、Wellesley出身のSusie Adamsをマネージャーとして迎える。その後、Marblehead出身のプロモーター、NeilとRoy Grossmanが彼らにデモを録音させ、レコード会社への売り込みを試みた。その後、BrooksとHarrisonがThe Modern Loversに加入し、リーダーのAndyとRoseが残り、バンドは5人編成に縮小された。興味深いことに、The Modern Loversの最初のライブは、1970年9月にCatfish Blackの前座として行われたものだった。
 1971年半ば、ラインナップ変更から5ヶ月後、Andyの友人であるRichard Robinson(プロデューサー、ラジオホストであり、ロックジャーナリストのLisa Robinsonの夫)がバンドにNew YorkのMax’s Kansas Cityでの出演を手配する。この場所は1970年にVelvet Undergroundがレギュラー出演して以後、久しくなかったレギュラー出演を果たしたバンドとなった。バンドはその前にCatfish BlackからThe Sidewindersに名前を改名する。この名前はRoger McGuinnの「Chestnut Mare」の歌詞に由来しているとのこと。
 Max’s Kansas Cityでの演奏を見たRCA RecordsのA&R担当Dennis Katzが、彼らと契約を結び、レコーディングの機会を得ることとなる。しかし、録音の直前にRobinsonがLondonに行き、Lou Reedのソロアルバムの制作を担当することになり、代わりにLenny Kaye(後のPatti Smith Group)がプロデューサーを務めた。この結果、1972年にThe Sidewindersのセルフタイトルのデビューアルバムがリリースされた。しかし、彼らが残した唯一のアルバム『The Sidewinders』は、商業的には成功を収めることはなかった。それでも、批評家からの評価は高く、後に続く多くのミュージシャンにとって、その存在は忘れがたいものとなった。
 Andyを中心にしたThe Sidewindersは、その後も数々のラインナップ変更を経ながら活動を続けるが、最終的に解散を迎える。しかし、解散後のメンバーたちは、それぞれに個々のキャリアを築き上げることとなる。Billy Squirerは1980年代にソロアーティストとして成功し、アメリカのFMラジオやMTVを席巻することとなる。


 以下の作品は極私的なセレクションだが、Andy が携わった数ある名作のほんの氷山の一角に過ぎないものの、彼の音楽は、ガレージ、パワーポップ、サーフなど、さまざまなジャンルを超えた音楽的冒険であり、そのすべてが彼の独特なセンスと情熱を反映している。
                                    
◯ Patti Smith Group – Ask The Angels / Time Is On My Side
(1977年仏Arista – 2C 006 98529)
B面では、The Rolling Stonesの名曲を大胆にカバー!
Andyのパンキッシュなドラミングが炸裂する、心拍数が上がる一枚。


◯ The Paley Brothers & Ramones / Come On Let’s Go
 (1978年米SIR 4005)
Ritchie Valensの名曲をRamonesと共にカバー。
エネルギッシュでパンク魂溢れる名演が楽しめる。


◯The Beatles Costello / Washing The Defectives
 (1978年米Pious JP310)
ギターとバックヴォーカルで参加バンド名の通りビートルズ風直球。


◯The Wicked / The Spider And The Fly / This Diamond Ring
(1979年米Isabelle Records Inc. IS-0001)
ここではYelapの変名でプロデューサーとしてクレジット。
1967以降のサイケデリックサウンドを展開。


     
◯The Notes / Rough School Year 
(1979年米Sounds Interesting Records SI45-003)
兄Jonathanと変名でリリース。
特にB面はXTCミーツThe Zombiesのような摩訶不思議な魅力のある曲。


◯V.A / The Boston Incest Album 
(1980年米Sounds Interesting RecordsSILP 005)
全14曲入りのコンピだが、内実は殆どが
Paley兄弟変名プロジェクト+周辺人脈によるガレージ・サウンドの嵐。


◯Nervous Eaters / Nervous Eaters 
(1980年米Elektra 6E-282)
こちらもPaley兄弟が参加。パンク/パワー・ポップ直球ど真ん中に
仕上がっているPaley兄弟のエッセンスが炸裂する、熱いアルバム。


   
◯Professor Anonymous / Living In The World
 (1980年米Quark Records)
またまたPaley兄弟及びBoston人脈参加。
メジャー作品に参加しながらインディーでも展開するところが面白い。
ガレージ風の作風でNervous Eatersのメンバーも参加。


 
◯Plastic Bertrand / Jacques Cousteau
(1981年仏RKM 101583)
テクノ・パンク・サーフといったところか?
初の海外進出なのか?今後も欧州での仕事が増えていく。

               
 
◯The Trodds / Wild Child 
(1981年米Stanton Park Records)
Andyプロデュース作でキャッチーかつガレージ風味満載の快作。


 
◯The Young Jacques / Jacques Cousteau
(1981年米Ambition Records AMB45-105)
Plastic Bertrandと同曲。実質The Paley Brothersの変名バンド、
こちらの方がガレージ度が高い間奏のギターがSurfin’ Safariを
彷彿とさせるものがあり、将来のBrianとの邂逅は偶然ではなかった?


◯Border Boys / Tribute
(1983年ベルギー Les Disques Du Crépuscule TWI 174)
プロデューサーとしてクレジット。A面2曲目『When Will You Be Back?』は
Brianの『Lonely Sea』に匹敵するほどのムーディーなバラードだ。
ここでもBrianとの妙縁を感じさせる。
作者のPhilippe Auclairは渡英後Louis-Philippeを名乗り音楽レーベルÉlを興した。
同レーベルからLouis-PhilippeによるBrian作カバー『Guess I’m Dumb』を
リリースしているのも何かの縁を感じずにはいられない。
Phillipによると、バンド名の「Border Boys」は、彼の故郷であるBelgiumが
多くの国と国境を接していることに由来しているとのこと。
この名前には、彼の地の地理的特徴だけでなく、
異なる文化や音楽の影響を受けながらも独自のアイデンティティを
保つ姿勢が込められているように感じらる。
プロデューサーとしてのAndyの縁が音楽の奇跡を紡ぎ出す!

『ブリュッセルより愛をこめて』
(1983年日本 新星堂SC-10)
同曲は日本のみリリースされたLP2枚組にも収録されている。


2024年8月11日日曜日

The Allman Joysについて

  


 サザン・ロックの有名な兄弟、Duane AllmanとGregg Allmanがまだ10代だった頃に組んでいたバンドが Allman Joysだ。Allman Brothers Band関連の初期音源という歴史的価値に注目されることが多くその意味でも興味深いのだけれど、ひとつのガレージバンドとして魅力を感じる存在でもある。

 1965年の結成当初はThe Escortsという名前で、その後すぐにThe Allman Joysと改名された。Duane Allmanはリードギター、Gregg Allmanがオルガンとリードボーカルを担当。1966年にシングル 「Spoonful」(Dial – 45-4046) をリリースしている。Howlin' Wolf や、数ある聴き慣れた「Spoonful」とは印象が違ってファズガレージのようで、初めは同名の別曲のカバーかと思ったけれど、Willie Dixon作の「Spoonful」のカバーだ。B面曲の「You Deserve Each Other」は、このシングルのプロデューサーで、世界的ヒット曲 「Tobacco Road」の作者として知られるソングライターJohn D. Loudermilkによって書かれたもの。


You Deserve Each Other / The Allman Joys

 

 The Allman Joys名義での当時のリリースはシングル1枚のようだけれど、アルバムも録音はされていて、その音源は1971年にバイク事故で亡くなったDuane Allmanの追悼盤として、Early Allman (Featuring Duane And Gregg Allman) のタイトルで1973年になってから初リリースされた。


Early Allman(Featuring Duane And Gregg Allman)
Dial – DL-6005)

 1989年にAllman Brothers Bandの20周年を記念してリリースされたアンソロジー『Dreams』(Polydor 839-417-1)や、2013年リリースのDuane Allmanのアンソロジー『Skydog: The Duane Allman Retrospective』(Rounder Records 11661-9137-2)にもThe Allman Joysの音源が含まれていて、『Dreams』には「Spoonful」のデモバージョンが収録されている。

 1965〜66年の活動期間中、彼らはフロリダ州ペンサコーラのまだ12、13歳といった女の子たちのボーカルトリオ、The Sandpipersと出会い、そのバックバンドとしてツアーを行ったりもしていたようだ。

 そして1966年にThe Spotlightsという変名で参加した「Batman And Robin」(Smash Records – S-2020)というシングルがある。これは当時のヒーローブームに乗じたプロジェクトだったようで、もともとは1965年に、人気コミックのキャラクターが題材の「Dick Tracy」 (Liberty-55840)をJJ Cale作品としてSnuff Garrett、Leon Russell がプロデュースし制作したことがきっかけになっている。その後放送予定だったテレビシリーズ「バットマン!」の成功につながるような、アメリカンコミックを題材にしたアルバムを構想したSnuff Garrett、Leon RussellがアイデアをMercury Recordsに売り込んだことでプロジェクトがスタートしたらしい。The Allman Joysはライブの仕事を得るためにThe Spotlightsとして振る舞うのを了承しただけという話もあるようなので、実際演奏にどこまで参加していたのか定かではないのだけれど。


Batman And Robin / The Spotlights

 

 アルバムは当初、Mercury Recordsの姉妹レーベルSmash Recordsと契約したばかりだったThe Spotlightsの作品として、Smash Recordsからリリースする予定で進められていたそうだけれど、12曲録音したものの最終的にThe Spotlights作品としてリリースされたのはシングル2枚だった。残りの8曲はDesign RecordsからThe Super Dupersという名義でリリースされている。


The Superrecord Of Superheroes / The Super Dupers
(Design Records DLP-257)




【リリース】
■NEWアルバム『Back In The Pen Friend Club』をCD、配信にて発売中。

試聴トレーラー:

【ライブ】
■9/23(月・祝) ​西永福JAM『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』
■10/13(日・昼) 荻窪・TOP BEAT CLUB『SHE'S GOT RHYTHM!』

詳細・ご予約






2024年4月7日日曜日

なぜ今、「We Are The Wolrd」のドキュメンタリーだったのか――『The Greatest Night in Pop』が伝えたかったこと

歌に魂が吹き込まれた瞬間を、いま、ドキュメンタリー映画で目撃する

 「We Are The World」がリリースされたのは、1985年3月28日。アメリカの音楽界、そして多くのスーパースターが燦然と輝いていた時代だ。



      

                                                           
 私はこの「We Are The World」のシングル盤を持っている。このシングルが発売された頃は、ベストヒットUSAなどで盛んにMVが流れていた。大好きだったミュージシャンが何十人も一堂に会して、顔をつきあわせて歌っているその姿に目をみはり、かっこよくて、テレビで流れるたびに夢中になって見ていた。ちょうどその頃、兄がアメリカに出張に行くという話を聞き、 「買ってきて~!」と頼んだのだった。

 Netflixで、We Are The World」のドキュメンタリー映画『The Greatest Night in Pop』を見ていたら、シングル盤が発売され、レコードショップに並べられて、多くの人が手に取っている場面があった。兄もアメリカのどこかのレコードショップで、こんなふうに買ってくれたのだなぁと、その様子を想像して、ふふっと笑顔になった。

 今日、久しぶりにシングル盤で聴いている。WebVANDAをご覧の皆さまにはこちらをどうぞ。



 今回取り上げるドキュメンタリー映画『The Greatest Night in Pop』は、2024年1月19日、サンダンス映画祭の特別上映の一環としてワールドプレミアが行われ、同月29日からNetflixにて公開された。

 映画では、この企画が生まれた瞬間から、秘密裏に(インターネットも携帯電話もない時代に)コツコツと計画を形づくっていく初期の詳細、レコーディング当日の舞台裏などが、未公開映像を含む当時の多くの映像と、ライオネル・リッチー、ブルース・スプリングスティーン、ヒューイ・ルイス、シーラ・E、シンディ・ローパーや、カメラマンやプロデューサーといったスタッフ、この曲にかかわったさまざまな人への新しいインタビューとともに描き出されている。

  ……にしても、なぜ今、なのだろう。「We Are The World」のメイキングなら、発売された当時に制作され、ビデオになり全世界で発売された。

 また、豪華スターが共演する「エイド」が盛んに行われるようになったきっかけは、1984年、イギリスのミュージシャンたちによる「Do They Know It’s Christmas?」であって、「We Are The World」ではない。ここまで大きなプロジェクトでなくても、1985年のライブ・エイドのためにデヴィッド・ボウイとミック・ジャガーが発表した「Dancing In The Street」もあるし、米国エイズ研究財団のためのチャリティーシングルとして発売された、ディオンヌ・ワーウィック&フレンズによる「That's What Friends Are For」が発売されたのも1985年11月で、これらも大きな売り上げをあげている。

 発売から39年もたった今、どうして、この曲のドキュメンタリーが制作されたのだろうか。ここ数年、1970年代、80年代のミュージシャン、ミュージックシーンを扱うドキュメンタリー映画が数多く制作されているので、その流れに乗って……と邪推できないこともない。しかし、実際に観て思ったのは、「これは、今こそ、表に出るべきものだ」という気持ちだった。

 監督は、バオ・グエン監督。ベトナム系アメリカ人。代表作には、2015年に放送40周年を迎えた番組「サタデー・ナイト・ライブ」を描いたドキュメンタリー『Live From New York!』(2015)、ブルース・リーのドキュメンタリー映画『BE WATER(水になれ)』(2020)がある。


「この夜しか不可能」秘密裏にすすめられた一大イベント

 きっかけは、ハリー・ベラフォンテ。歌手や俳優以外に社会活動家としても知られており、ハリウッドでの影響力はとても大きなものだったそうだ。そのハリーは、世界の貧困問題、特にアフリカの飢餓の問題に目を向けていた。当時、こうした報告がテレビで報道されることはあったが、多くの人にとって他人事だったと、ドキュメンタリーは語る。ハリーは、ハリウッドで芸能事務所をもち、アーティストに負けず劣らず有名人だったケン・クレーガンに相談を持ちかける。ハリーはこう言ったそうだ。「黒人を救う白人はいるが、黒人を救う黒人はいない。私たちが仲間を救わないと……」

 そして、ハリーがクインシー・ジョーンズに声をかけ、クインシーはライオネル・リッチーに連絡をする。これが、198412月のクリスマスの頃の話。

 事は一気に動き出す。曲は誰がつくるのか。誰に声をかけるのか。いつやるのか。売れっ子ミュージシャンたちは、数カ月先までスケジュールが埋まっている。普通に考えたら、その調整など、困難すぎる。

 ケン・クレーガン事務所のスタッフの話から、当時の緊迫感がドキュメンタリーから伝わってくる。プロジェクトは動き出した、もう止めることはできない、行動は今!……とでもいうような。プロジェクトの意味を考えたら、2年先では、もう遅いのだ。

 そして、あるスタッフの目に留まったのが、AMA(アメリカン・ミュージック・アワード)の夜。当時はAMAの全盛期で、ダイアナ・ロス、ホール&オーツ、プリンス、マドンナなどの出演が予想された。AMAが終わったあとの時間を使えば、ミュージシャンたちの予定も、負担も抑えられると考えた(まず出演自体がボランティア。この日以外にレコーディング日を設定すれば、ミュージシャンたちにはさらにスタジオへの移動にかかる費用や時間の負担をかけることになる……)。

 

レコーディングの日が決定した。1985年1月28日。そして、出演交渉がはじまる。

 

 「1985年、ぼくは人気絶頂で、ツアーも大成功だった」ブルース・スプリングスティーンが当時を振り返って語る。「飢餓の救済は解決すべき問題だった。でもいつも遠くから見ていただけだったんだ……」

 スプリングスティーンは1985年1月はツアー中で、AMAの前日がツアー最終日。疲れもあるだろうし、そもそも、普段はコンサート翌日に移動することはないということだったが、「急な話だった。普段はやらないが、大事なことに思えた」と、出演を快諾したそうだ。

 その後も、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、ポール・サイモン、ベッド・ミドラー、ケニー・ロジャース……など、AMAに出演するミュージシャンを中心に、このプロジェクトに必要だと思われるミュージシャンに声がかけられ、どんどんと決まっていく。

 作詞作曲は、クインシーからの依頼で、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンに託された。

 マイケルは楽器が弾けないため、ハミングでメロディをつくるのだという。その様子を見たライオネルは「神がかって見えた」と語るが、ふたりで知恵をしぼってもなかなか曲ができない。時間は過ぎていき、あのサビ部分「We are the world  We are the children~」が生まれたのが1月18日で、全体の歌詞とメロディが完成して、クインシーに音源を送ったのは1月20日。スタジオで仮歌をレコーディングして(仮歌を歌ったのは、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソン、スティーヴィー・ワンダー)、必要分のデモ・テープをつくり、依頼書、楽譜の発送が行われたのが1月24日だった。なんと、本番のレコーディングの4日前である。

 ここで、あらためて気がつく。そうだよ、この頃、スマートフォンもなければ、インターネットもない。データで送るなんて、できないんだ。この極秘プロジェクトのデモ・テープと資料は、手紙をつけて郵送する、電話で確認する。あるいは、直接会って、手渡された。

 でも考えてみると、こんなに大きなプロジェクト。短期間の準備で成功したのはむしろ、メールやデータじゃなかったから可能だったのではないかと思う。データは便利だけど、やはりこの、人と人がつながって、企画が進んでいったことで、すでに「この時」から、歌に魂はこもり始めていたのだ。

  

ソロを歌うあの順番を決めたのは

 ソロを歌うミュージシャンは、どう決められたのだろう。人選もさることながら、あの絶妙な組み合わせも。

 デモ・テープ完成の2日後、1月26日。クインシーの自宅に呼ばれたのは、ボーカル・アレンジャーのトム・バーラー。トムはまず、ミュージシャン全員のレコードを聴き、彼らの声、声質、声域の研究を始めたそうだ。

 ドキュメンタリーの中で、トムは当時を回想して語っている。「ソロパートは半小節しかないが、その人らしい歌声やキーを出さなきゃいけない」 これはトムが最も大切にしたことだろう。「ティナ・ターナーはあたたかみのある声」「スプリングスティーンはダミ声。ケニー・ロギンスの声は透き通っていて、スプリングスティーンのあとにピッタリでした」「スティーヴ・ペリー、彼の声域には感動させられます」「シンディの声はパワフル」…………「でも、全員にソロパートはありません」

 声域の問題、声質、声の相性もあるだろうし、1つのマイクで肩を並べ、顔をつきあわせて歌うのだから、性格的な相性も推測できる範囲で熟慮したのだろうと、想像する。なにしろ、レコーディングできるのは、1月28日のAMAが終わったあとから、翌朝までの一晩しかないのだから(結果的には約10時間でレコーディングは終了)。


「エゴは置いてこいCHECK YOUR EGO AT THE DOOR)」

 スタジオの入り口には、こう書かれた紙が貼られたそうだ。書いたのは、クインシー・ジョーンズ。

 このプロジェクトに参加したのは、ロック界のレジェンドやスーパースター、個性的な若手の歌手、アメリカの音楽界を華やかに彩るスターばかり。自分流のやり方もある。それが50人近く。この言葉、クインシーでなければ書けなかったあろう……。

 でも、ドキュメンタリーを見ていると、みんな、すごく楽しそう(シングル盤ジャケットの裏面を見ても、よくわかる!)。実はミュージシャンたちは、みんな「ひとり」でスタジオに入っていたのである。

 A&Mのレコーディングスタジオはそれなりに広いスタジオだったが、それでも、ミュージシャン、カメラマンや技術スタッフなどを入れたら、相当な数になった。だから、マネージャーもエージェントも、スタジオには入れなかった。

 普段はマネージャーなどまわりに人がいるので、ミュージシャン同士がどこかで会うことがあっても、なかなかフランクには近づけない。まわりの目もあるし、あくまでもアーティストとしてのスタイルで振る舞うだろう。それが、このレコーディングでは、ひとり。みんな無防備だった。

 スタジオの中では、あ!と見つけては近づいていって、ハグをする人、楽しそうに話をする人。まるで、同窓会のような雰囲気。この時点ですでに、スターのヨロイは脱げてきていたのでは?という気もする。



 ……が、時間は夜の10時をまわっていた。いよいよレコーディングが始まる。はじめは、みんなで歌う合唱部分。決められた場所に並んでも、みんな、にこにこ顔。笑顔が悪いわけではないが、どこかオフの集まりのような和やかさ……。

ここでクインシーが、バンドエイドの提唱者ボブ・ゲルドフを紹介。言葉をもらう。

 「これから君たちがこの曲を歌うことで、きっと、何百万人もが救われる。1枚のシングル盤で命を救う経験は、君たちの記憶に刻み込まれるだろう。でもぼくたちは、飢餓を理解しているだろうか。……(中略)……。だからぼくたちは、今、ここにいるんだ。今夜、ここに集まった意義が、歌からにじみ出てくれたらと思う。プロジェクトの成功を祈る」

 

ミュージシャンたちの顔が弾きしまる。

 プロジェクトの意義をあらためて思うのと同時に、初心というと堅苦しいが、自分が音楽を目指そうとした想い、なかなかうまくいかなかった時代、若い頃のピュアな気持ち、歌を通して伝えたいこと、音楽のチカラ、そんなものも思い出していたのではないかという気がする。

そして、レコーディングが始まった。

  

歌に魂が吹き込まれた瞬間を、いま、映画で目撃する

  We Are The World」のMVを見ると、マイケル・ジャクソンが誰もいないスタジオでひとりでソロを歌っている場面がある。ダイアナ・ロスとのデュエット部分は、みんながいるスタジオで歌っているが、このひとりで歌っている場面はなんだろう?と不思議だった。ドキュメンタリーを見て、これは、AMAに出席していなかったマイケル・ジャクソンが、他の人より先にスタジオに入って歌った映像だということがわかった。マイケルはひとりで集中して、自分を歌にシンクロさせようとしていたのだという。

 

このとき、2カ所の歌詞が変わる。

 1つは、「We are the world, we are the children. We are the ones who make a brighter day~」のところ。はじめにマイケルが作詞したときの歌詞は「~who make a better day~」(より良い日に)だったが、メイキング映像でマイケルは、「より明るく(brighter)って歌っちゃったよ」と言っている。「ぼくは魂をこめて、歌ったよ」と。この部分は、このあと全員で合唱する際にも話題に上り、「brighter」への変更で決定した。

  また、「It’s true we’ll make a better day, just you and me」のところでは、「you and me」と歌うのが良いか、「You and I」と歌うのが良いか、どっちがいい?とクインシーにたずね、クインシーが、「you and me だな。より魂がこもる」と答える場面も。

 このニュアンスの違いが私にはわからないので、どなたか、わかる人がいたら、ぜひ、教えてほしいです!

 

 マイケルがひとりでスタジオに入っていたあと、他のミュージシャンたちも加わって、本格的なレコーディングが始まるのだが、レコーディング開始が夜の10時過ぎ。プロのミュージシャンとはいえ、デモテープをもらったのが4日前で、数回の声合わせでレコーディングするわけで、時間もかかる。深夜0時をまわる。食事休憩の時間はあったものの、みんな寝ていない、疲労は相当なものだったと想像する。

 

 途中、スティーヴィー・ワンダーが、「これはアフリカのための歌なのだから、スワヒリ語の歌詞を入れよう」と言い出す。でも、スワヒリ語などすぐに覚えられない。みんなの顔がイライラしてくるのがわかる。誰も、スティーヴィーに意見できずにいた。ここで、あるミュージシャンが「ぼくはスワヒリ語はわからないから歌えない」と言って、帰ってしまって、どんどんまずい雰囲気に……。

 これには、まずはレイ・チャールズが「クインシー、思い出せ!」と声を出す。それがきっかけで「スワヒリ語では先進国の人に意味が伝わらない。つまり寄付に繋がらない」という話になって、スティーヴィーは自分の意見を下げた。

 このあと、マイケル・ジャクソンも、アフリカの雰囲気を付け加えたいと、コーラスパートの新しいアイデアを出す。でもこれも、スモーキー・ロビンソンの一声で取り下げることになる。

 

 歌詞が変わる、コーラスパートをアレンジする……。徹夜でのレコーディングでも、もっとよい楽曲にしようという、ミュージシャンたちとスタッフの熱意とプライドが感じられる場面が続く。そして全員で歌う部分のレコーディングは終わり、ソロパートのレコーディングに。時間は、朝の4時40分……。

 

終始、不安そうな表情をしていたボブ・ディラン

 結局レコーディングに姿を見せなかったプリンスのソロの代わりを務めたのはヒューイ・ルイスだった。「プリンスのパートは責任重大だよ。あの瞬間から緊張で頭がいっぱいになった」(ヒューイ・ルイス)

 スティーヴィー・ワンダーがピアノを弾き、ソロを歌うミュージシャンたちが全員、ピアノのまわりに集まって、ヒューイのために(と、たぶん自分たちのためにも)、順番に歌ってリハーサルをしてくれたのだ。すごくいい雰囲気が伝わってくる。ヒューイが続けて語る。

 「最初のリハーサルでどんな雰囲気になるのかわかった。一生、忘れない。初めてにもかかわらず、一人ひとりの個性が出ていた。思い出すとゾクゾクする」

 ヒューイ・ルイスとシンディ・ローパー、キム・カーンズの3人がソロをまわす場面では、キム・カーンズが歌う最後の一節を「ハーモニーで歌ったらどうか」と、マイケル・ジャクソンが提案する。マイケル、good job! あの一節のハーモニーとシンディの「yeah! yeah!~」はすごくいい!

「デモ・テープにハーモニーはなかった。私はごまかしながら(笑)ハーモニーを歌ったよ」(ヒューイ・ルイス)

 

 真剣かつ和やかにレコーディングがすすむなか、終始、眉間にしわを寄せ、不安そうな顔をしていたのがボブ・ディランだった。みんなが集まってきたときからずっと、まわりの陽気な雰囲気に入れず、不安そうな顔をしていた。まるで、転校生のような。全員で歌う合唱のパートでも、声域が高くないボブは居心地が悪そうだった。

 その不安そうな顔が極まってしまったのが、アドリブによるソロパートのレコーディングのときだった。アドリブを歌うのは、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、スティーヴィー・ワンダー、ジェイムス・イングラム。

みんなが期待するなか、しかしボブはまったく歌えない。

 クインシーが歩み寄って、ボブに声をかける。そして、スティーヴィーをピアノの前に座らせて、「ここで少しリハーサルをしよう」と。スティーヴィーは物まねが上手なのだそうだ。このときも、ボブ・ディランの声や歌い方を真似て、アドリブ部分を歌ってみせる。確かに、上手! 隣で聴いていたボブ・ディランがここでやっと笑顔を見せた。

そして、本番。無事に歌い終えたボブ・ディランは、まだ不安そう。

 「よし! やった!」(クインシー)、「ダメだった……」(ボブ)、「本当に良かったよ!」(クインシー)、「君がそう言うなら、信じる…」(ボブ)「違うよ、完璧だった!」(クインシー)。そして、ふたりでハグ。ボブ・ディランの繊細さと真剣さが伝わってくる感動的な場面だった。

 

 レコーディングの最後は、ブルース・スプリングスティーンによるアドリブソロ。前日までの全米ツアー、徹夜でのレコーディングで、スプリングスティーンの喉はかなり深刻な状態で、レコーディングのスタッフによると、「喉にガラスがささっているようだった」と。

 「We Are The World」のMVを見ると、この歌を愛おしむように、しぼりだすように歌うスプリングスティーンの声と表情が印象に残る。できる限りのチカラを尽くして歌っていたのだ。


だから、歌に魂がこもったのだ。見た直後の私の感想。

 一晩しか時間がないなかで、ミュージシャンがそれぞれいろいろなことを考えて、想いをこめて、チカラの限りを尽くして歌い、スタッフもそれを全力で支えた。それが、レコード盤を通して、レコードプレイヤー、スピーカーを通しても、その魂が伝わってくる。

 冒頭部分でも書いたが、この頃、豪華ミュージシャンによるエイドの企画がいくつもあった。それぞれに背景やさまざまな舞台裏があったはずで、「We Are The World」に限った話ではないと思うのだが、こうした舞台裏を知ると、「音楽のチカラ」をこれまで以上に信じられる、信じたい、そんな気持ちにもなる。

 

「家に帰るのは当たり前のことじゃない」の意味

 一通りのストーリーが終わったあと、再び、ライオネル・リッチーが画面にあらわれた。このときの話が印象的だ。ライオネルは昔、父親から「家に帰るのを楽しめ」と言われたことがあるそうだ。「家に帰るのは当たり前のことじゃない」と。

  たぶん、バオ・グエン監督は、制作前のリサーチか事前取材で、ライオネル・リッチーからこの言葉を聞いて、この映画を今、制作する意味を再確認し、「よし、ラストはこの話でいこう!」と決めたと思う。物語がおさまる、ちゃんと着地する感じ。

  この作品のなかではライオネル・リッチーは、「(家とは)自分にとっては、この部屋(「We Are The World」を録音したA&Mスタジオ)のことだ。この部屋は俺の家だ」と語っている。自分の原点の1つ、ということだと思う。音楽仲間と夢中になって成し遂げたプロジェクトは、ライオネルに大切な場所と仲間との絆という「家」を残したのだ。

 人生は(と、大きく出ますが…)つらいことも多くて、だから、こうした大切な場所や人間関係があると、生きていく大きな支えになる。1つでも2つでもいいから、そういうものがあったら、人はがんばれるように思う。

 

が同時に、私は別のことも考えていた。

 「家に帰るのは当たり前のことじゃない」という言葉。いま、戦争や自然災害などによって、家や国を失って、帰れなくなっている人が、世界中にいったいどれほどいることか。

 自然災害を人が止めることは難しい。でも、戦争なら人が止められる。人が始めたものだから、止められるはずのものだ。実際にはいつまでもなくならないけど……。

 グエン監督はベトナム系アメリカ人で、両親はベトナム戦争時の難民だと、ネットの記事で読んだ。アメリカ社会のなかで苦労もあっただろう。戦争、難民、肌の色の違い。これらはこのドキュメンタリーの構成のなかで深く掘り下げらている場面はないが、そもそもこの一大プロジェクトが立ち上がった背景と根底には、こうした社会問題がある。

 それを考えたとき、『The Greatest Night in Pop』というドキュメンタリー映画には、ただ単に「We Are The World」の舞台裏に迫る、ポップスが最高に輝いた夜、あるいは、音楽のチカラという意味のほかにも、なにか大事なメッセージが隠されていたのではないだろうか。私はそれを「No War」への願いだと感じたが、それとはちがうメッセージを受け取る人もいると思うし、そうあるべきだと思う。いい作品だった。


(テキスト:大泉洋子

■□大泉洋子□■  フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区のタウン誌、雑誌『アニメージュ』のライター、『特命リサーチ200X』『知ってるつもり?!』などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』、編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。

 


2024年2月10日土曜日

2本のリードギターの旋律がきれいにハモる ギターハーモニー、最近、あまり聴かないよね?

2本のリードギターの旋律がきれいにハモる ギターハーモニー、
最近、あまり聴かないよね? 

*上段左から:『J.BOY』浜田省吾, SMR, 1986
/『RAINBOW CHASER』伊藤銀次, BELLWOOD RECORD, 2019
/『ANOTHER NIGHT』Wilson Brothers, Atlantic Records, 1979/『Airplay』Airplay, SME, 1980
/『Hotel California』Eagles, ASYLUM RECORDS, 1976
/『Don’t Look Back』〈EP〉BOSTON, EPICソニー, 1978
/『Destroyer』KISS, Casablanca Records, 1976
/『The Boys Are Back In Town』〈EP〉Thin Lizzy, Vertigo Records, 1976
/『Don’t Tell Me You Love Me』〈EP〉Night Ranger, CBSソニー, 1982
/『愛を止めないで』〈EP〉オフコース, 東芝EMI, 1979
/『THE SNOW GOOSE』CAMEL, GAMA RECORDS, 1975
/『6 kinds 6 sizes』PARACHUTE, Agharta, 1980 


 ツインギターがきれいにハモる演奏を、最近の楽曲ではあまり聴かなくなってしまった気がすると、数年前から思っていた。気のせい?ではなくて、おそらく、ギターがふたりいるバンドが少なくなったこと(ギター、キーボード、ベース、ドラムという編成が増えた?)、あとは流行や軽音楽の全体の流れもあるのかな。

 私はバンド経験があるものの、担当がボーカルやフルートだったので、ギターには詳しくないが、バンドが奏でる音として、やっぱり、ギターは好きだし、このギターハーモニーも大好きで、WebVANDAでいつか書いてみようかと考えていた。
 今月の寄稿で書こう!と思ったきっかけは、今年1月6日の浜田省吾のコンサート「SHOGO HAMADA ON THE ROAD 2023」(さいたまスーパーアリーナ)で聴いた、この曲。


 ■浜田省吾「J.BOY」(1986年)

 町支寛二による小気味よいギターリフがイントロの「愛の世代の前に」で始まったライブは、サブタイトルの「Welcome back to The Rock Show youth in the “JUKUBOX”」の通り、ビートのきいたロックから、胸にしみるロッカバラードまで、懐かしい曲が続いた。そしてコンサート終盤に演奏され、おぉ、そういえば、これもツインギターによるハモりがかっこいい曲だ~と思った「J.BOY」。


 浜田省吾のライブに行ったのは、実は初めてだった。もちろん、ヒット曲やドラマで使われた曲など、昔から知っている曲、好きな曲もあったけれど。
 きっかけは、このWebVANDAとのご縁でもある書籍、『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』の制作。本に昔の音楽雑誌の記事を転載するにあたり、各ミュージシャンやグループの事務所等にご相談の連絡をしたのだが、その際、あらためて、ミュージシャンの音楽を聴き直していた。 
 転載した記事の多くは80年代。当時、聴いていた感覚と、いまの年齢で聴く感覚とでは、違うものもあったのか、浜田省吾の音楽がすーっと感情に入り込んできて、あぁ、こんなすごい歌い手だったのかと再認識。ちょうど、下村誠の本をつくっている最中の昨年夏に公開された映画「A PLACE IN THE SUN at 渚園 Summer of 1988」も観に行き、誠実で、説得力のある歌声に圧倒されて、すっかりファンになってしまったという、浜省ファン初心者である。 

  実際にライブを観ていたら、浜田省吾の歌声はもちろんのこと、各プレイヤーの音がダイレクトに感じられて、すべてが本当にかっこよかった。さいたまスーパーアリーナでの出演ミュージシャンは、町支寛二(Gt./Vo.)、長田進(Gt.)、美久月千晴(Ba.)、小田原豊(Dr.)、古村敏比古(Sax.)、福田裕彦(Org./Syn.)、河内肇(Pf.)など。 

 「J.BOY」の話からだいぶそれてしまった。でも、この曲に説明は不要ですね。ということで、次の曲にいきます。


 ■伊藤銀次「誰もがきっと~想い出に守られて」(2019年) 

 今回のテーマである【2本のリードギターの旋律がきれいにハモるギターハーモニー、最近、あまり聴かないよね?】を考えるようになったのは、2019年12月に発表された伊藤銀次のアルバム『RAINBOW CHASER』の1曲目、「誰もがきっと~想い出に守られて」がきっかけだった。CDを買って、最初に聴いたとき、わぁ~! ツインギターのハモりだ、こういうの、いいなぁ~、なんか懐かしい~と笑顔になったのを覚えている。

(*「誰もがきっと~想い出に守られて」は2曲目。
4分28秒頃から始まります)
 
  映像はTOKYO MXの番組でのスタジオライブ。
 出演メンバーは、銀次さん12月24日の誕生日の頃に、吉祥寺のスターパインズカフェで毎年開催されているライブ「伊藤銀次のWINTER WONDER MEETING」での出演者とまったく同じメンバー。上原“ユカリ”裕(Dr.)、六川正彦(Ba.)、細井豊(Key.)、田中拡邦(Gt.)。
(*アルバム『RAINBOW CHASER』では、キーボードだけが西本明による演奏で、他はライブメンバーと同じ)

 この映像を見つけたとき、「WINTER WONDER MEETING 2019」で聴いた、伊藤銀次・田中拡邦、ふたりのツインギターによる、ハモりの演奏が観られるか!と、ウキウキしたのだが……銀次さん、リードギター弾いてない……。
 CDでは、イントロや間奏のスライドギターの部分は、ふたりの演奏がきれいにハモる、ツインギターとなっていて、この年のライブでも、ふたりで弾いていて、それがとてもよかったんですよ~。
 ツインリードのハモりも、全体のサウンドもさわやかで、70年代後半~80年代前半のアメリカ西海岸サウンドっぽい雰囲気もあり、とてもいい感じなので、ぜひ公式チャンネルのほうで聴いてみてくださいね。「伊藤銀次 誰もがきっと」で出てきます!

 ちなみに、「伊藤銀次のWINTER WONDER MEETING」でギターを弾いている田中拡邦は、このあと2020年、2021年も出演して、銀次さんとツインギターで、いい音を聴かせてくれていたのだが、2022年は自身のバンド「ママレイドラグ」のレコーディングのために出演されず、2023年はアルバム『OVERTURE』が完成し、発売された時期(12月20日リリース)と重なり、やはりお休みだった。
 銀次さんがギターひとりで、少しさみしそうだし、田中サンのギター、私も好きなので、今年の「伊藤銀次のWINTER WONDER MEETING」には出てほしいなぁ。

 それはともかく。 
 銀次さんの「誰もがきっと~想い出に守られて」をライブで聴いて、鮮やかによみがえってきた曲がある。大学1年生のときに聴いて、「ギターのハモりって、なんてかっこいいんだろう」と思うようになった、最初の曲。


■Wilson Brothers 「Take Me To Your Heaven」(1979年)

 中学の頃、同級生の男の子たちのなかには、ギターを買ってもらって、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」なんかを練習している人がいた。うちは、家が厳しかったので、ロック=不良の音楽、みたいな感じで、ギターを買ってもらうなんて、夢のまた夢。 でも、もともと歌うことが好きだったから、レコードやラジオを聴いては、自分の部屋でよく歌っていた。どうして、ギターはダメで、歌うのはいいんだろうね。母の感覚はいまも理解できない(笑)。 

 高校では陸上部に入ってしまって、1~2年は陸上漬けの日々。3年になり部活を引退し、寄り道できる放課後を手に入れた私は、下北沢にかつてあった喫茶店「NOISE」に寄って、お店でかかる音楽を聴いたり、バンドをやっている同級生の男の子たちの話を聞くにつけ、「大学に行ったら、バンドやりたいなぁ」という思いが強くなっていく。

 そして、1981年、大学に入学してすぐに入部した軽音楽部で、たまたま最初に練習風景を見学した先輩バンドが演奏していたのが、この曲、「Take Me To Your Heaven」だった。


 あまりのかっこよさ、フレーズの美しさに、目から……ならぬ、耳からウロコ状態。ウィルソン・ブラザーズの演奏を観たことはないが、この、目の前で演奏を聴いた、観た、という経験は大きかった。先輩バンドが練習するのを何度も観たし、春の定期演奏会では、先輩たちの演奏を、それこそファンの気持ちで聴いていたと思う。

 ウィルソン・ブラザーズは、スティーヴ・ウィルソン(兄/Vo./Gt.)とケリー・ウィルソン(弟/Vo./Gt./Key.)による兄弟ユニット。ふたりの歌声と、兄弟ならではの声質やテンションがぴったり合ったハーモニーもいいんだなぁ。
 そして、この印象的なギターを弾いているのは、スティーヴ・ルカサー。スタジオミュージシャンとして活躍していたスティーヴは、1977年にTOTOを結成、翌78年にデビューしたばかり。生まれ年から計算すると、この頃、22歳。のびやかなギターの音がみずみずしくて、すごくいい。


 さて、そんなわけで、2本のリードギターによるハーモニーがかっこよくて印象的な曲を、時代をさかのぼって探してみることにした。自分が持っているレコードやCDを中心に聴いていき、そこから記憶をたどって思い出して、時にYouTubeで確認するなどして、計11曲+1曲をセレクト。


■Airplay 「It Will Be Alright」(1980年)

 真っ先に、「絶対にツインギターのハモりがあったはず!」と確信を持って聴いたのが、エアプレイのアルバム『ロマンティック』(原題は『Airplay』)。 

 ところが、1曲目の「Stranded」から、あれ? ツインギターのハモりじゃなくて、これ、コードで弾いてる……とか、キーボードの和音のアレンジが超絶かっこよかったり、あるいは、繊細かつ大胆なコーラスワークの多用とか、とにかく、音の巧みな重なり、ハーモニーがアルバムの楽曲全体に施されていたのだった。曲をつくり、アレンジしているのは、デイヴィッド・フォスターとジェイ・グレイドンだものね……。それが、「ツインギターのハモりがあったはず」の印象につながったというわけだ。しくしく。

 が、しつこく何度も聴いて、「これは、リードギター2つの音のハモりのフレーズだよね」と思えた曲が2曲あったので、そのうちの1曲「It Will Be Alright」ご紹介する。


 この曲のほかにも、ギターの音の重なりと流れるようなフレーズが印象的な曲がいくつもあって、「2本のギターによるハモりっぽいけど、違うかも、1本のギターの音かも……」という感じで悩ましかった。なにしろ、レコーディングのギタリストにはジェイ・グレイドンのほかに、スティーヴ・ルカサーがいる。不可能なフレーズ、弾き方なんて、このふたりにはなさそうだもの。 

*リリース以降40年以上にわたって語り継がれる伝説のバンド、名盤だが、一応、簡単に参加メンバーの紹介を。
 エアプレイは、デイヴィッド・フォスター(Key./Background Vocals)、ジェイ・グレイドン(Gt./Vo./B.Vo.)、トミー・ファンダーバーク(Vo./B.Vo.)。レコーディングには、TOTOから、ジェフ・ポーカロ(Dr.)、デイヴィッド・ハンゲイト(Ba.)、スティーヴ・ルカサー(Gt.)、スティーヴ・ポーカロ(key.)。また、このアルバム制作に参加したあとシカゴに加入するビル・チャンプリン(Vo.)もいる。

 さて、1つの曲にこれだけ長く書いていると、10曲紹介するのに、ものすごく長くなってしまうので、サクサクといきます! 


■Eagles 「Hotel California」(1976年)

 アルバムの解説に、タイトル曲の「ホテル・カリフォルニア」について「おそらくロック史に残る名曲として、長く人々に記憶されるだろう」と書かれている。ベタすぎる感じがして、選曲を避けたくなる気持ちもあったが(あまのじゃく……w)、イントロの12弦ギターの音色、ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュ、ふたりによるギターソロ、ギター2本の音が重なるときのせつない音色の感じなど、今回の企画ではやはりはずせない1曲。 




■BOSTON 「Don’t Look Back」(1978年)

 レコード棚の奥に、フォリナーのシングル「つめたいお前(原題:Cold As Ice)」(1977)を見つけて、「シングル盤を買うほど好きだったっけ?」と首をかしげつつも、シングルジャケットの写真を見たら、ギタリストがふたり。これは……!と思い、聴いてみたが、ツインハモりギターではなかった。残念。でもフォリナーのシングルをきっかけに、記憶の扉が開いていく。まず思い出したのがBOSTON。

 「BOSTON! More Than Feeling!(1976年) ぜったいギターがハモってる!」と、これはレコードを持っていないので、YouTubeで聴いてみた。ハモってる、ハモってる♬
 ……が、私はこっちの曲のほうが好きだったなぁ~ということで、「Don’t Look Back」を。


 Bメロのバックでギターが弾くフレーズが印象的。ここの部分のメロディラインが妙に胸に残るんだなぁ。そういうフレーズって、ないですか? うちにレコードはないし、この曲のこともすっかり忘れていたので、何十年ぶりかで聴いたけれど、「そうだよ、私、この曲の、このギターのフレーズが好きだった……!」と。 途中まではユニゾンで弾いているが、エンディング部分になると、2本のギターでハモるように弾く。芯のある太い音なんだけど、どこか優しい音色で、大好きでした~。



■KISS 「Detroit Rock City」(1976年)

 そして、KISS。KISSの曲では、「ハード・ラック・ウーマン」(1976年)が一番好きだったかな。まだミュージックビデオは一般的ではなく、あの独特なメイクは『ミュージックライフ』などの音楽雑誌で知ったような気がする。人気ありましたね。この頃、私は中学生だけど、学校の洋楽好きのなかで、クイーン派、キッス派、エアロスミス派とか、分かれていたと思う。 

 KISS・ツインギターといえば、この曲、「Detroit Rock City」。 武道館のライブ映像なんかもあるのですが、スタジオ録音のほうが、ツインギターのハモリの音がきれいなので、こちら(アルバム版)を。



■Thin Lizzy 「The Boys Are Back In Town」(1976年)

 YouTubeの助けも借りながら(笑)、思い出していく。シン・リジィのこの曲に行きついたときは、思わず小さなガッツポーズ。 というのも、ギターのハモりがかっこいい曲を探して、レコードやCD、YouTubeで探してみるも、ソロはひとりで弾いていたり、ユニゾンだったり、シンセサイザーだったり、「あぁ、また違った……。(WebVANDAの管理人の)ウチさんに『10曲セレクトしますよ!』なんて言ってしまったのに、10曲、無理かも……」と、少し気落ちしていたからだ。


 シン・リジィは、1969年、フィル・ライノット(Ba./Vo.)を中心に結成されたアイルランド出身のバンドで、1974年からは、ギターにゲイリー・ムーアが加わった。 
 この「The Boys Are Back In Town」が発表された1976年当時、ゲイリー・ムーアはいったんバンドを離れていたが、1977年、負傷したギタリスト、ブライアン・ロバートソンの代役としてツアーに参加。翌78年には正式に復帰(その後、再び、離脱…)。 
 YouTubeでこの曲の映像をいくつか見たなかで、ゲイリー・ムーアが加わって演奏している、このステージのギターソロ、ギターハーモニーが一番かっこよかったので、この映像をセレクト。


 ■Night Ranger 「Don’t Tell Me You Love Me」(1982年)

 80年代に入ると、映像の時代になってくる。 「ベストヒットUSA」(テレビ朝日系)が始まったのが1981年4月4日。アメリカで、MTVが開局し、24時間ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専用番組の放送が始まったのが、 1981年8月1日。 

 「ベストヒットUSA」で、ナイトレンジャーの「Rock Me America」(1983年)を観た記憶がある。いま見ると、ミュージックビデオの構成がまだまだシンプルで、ちょっとほほえましい。ナイトレンジャーはツインギターのバンドだが、この曲でのギターのハモりはなかったので、懐かしい~と思いながらも、ツインギターによるギターハーモニーのある曲を探した。
 それが、「Don’t Tell Me You Love Me」。



 やぁ、かっこいい! かっこいいよ。
 そして、ここまでにあげたバンドに共通していえることなのだが、コーラスワークが多彩で、ていねいで、心地よい。男性による高音域のコーラスのラインはハーモニーに華やかさを添えるし、多くのバンドで、メンバーのほとんどがコーラスに参加していて、みんなで音楽をつくるんだ!とでもいうような精神性がものすごく伝わってきて、本当に楽しかった。

 ナイトレンジャーの記事の最初に、映像の時代に入った、と書いた。 「ベストヒットUSA」以前、中学の頃はAMラジオと『ミュージックライフ』が主な情報源。聴く番組はだいたい決まっていたが、たまにラッキーな特別番組に出くわすこともあって、あわてて、カセットテープレコーダーをラジオの前に置いて、家族に「録音してるから、静かにしてね!」と頼んで、録音したものだった。 

 あ、ラジオ関東の「全米トップ40」も忘れてはいけない! 
 高校になると、FM雑誌も創刊されてきて、情報源がFMラジオにも広がっていく。この頃には、ラジオとカセット、レコードプレイヤーが一体になったものを買ってもらっており、『FMレコパル』を買って、チェックしては、あれこれと録音していた。

 そんな想い出の中から、オフコースを。


■オフコース「愛を止めないで」(1979年)

 ある日、聴いていたAMのラジオ番組で、「今日はオフコースの皆さんをお招きして、スタジオミニライブをお届けします」といったアナウンスがあった。あれは、「5人になる」というタイミングだったか、「5人から1人減る」というタイミングだったか。どっちだったか忘れてしまったのだが、いずれにしても、あわてて録音したのだった。 カセットテープはもうほとんどを処分してしまったものの、何本かは捨てずに取ってあり、このオフコースのテープも捨てていないはずと思ったが……今回、探してみても、見つからなかった。残念。
 だから正確にはわからないが、「5人」がキーワードだったことは間違いがなく、ギターがふたりいた時代。おそらく、1979年か1980年のことだったはずだ。

「愛を止めないで」には、2番のサビが終わったあとにギターソロがある。きれいにハモる、やさしいツインギターの音が心地よい。




■CAMEL 『THE SNOW GOOSE』より「Rhayader Goes To Town」(1975年)

 この『THE SNOW GOOSE』という作品は、CAMELのメンバーが、アメリカの小説家、ポール・ギャリコによる小説『スノーグース(白鴈)』にインスパイアされてつくったというアルバム。物語の構成と同じ流れで、楽曲もすすんでいく。 

 ここに貼ったのは、主人公の画家ラヤダーのことを説明している場面を表現した「Rhayader」と、そこから続くストーリー、ラヤダーが2週間に1度、食料や日用品などの買い出しのために町にでかける場面を音楽にした「Rhayader Goes To Town」。

 CAMELのギタリストはひとりなので、オーバーダビングだと思うが(ライブ映像では単音のソロだった)、とてもきれいな旋律。プログレの曲にはなじみがない方がいるかもしれないが、ぜひ聴いてみてください。 

「Rhayader」(フルートが美しい小曲)


「Rhayader Goes To Town」(2本のギターの音によるハモりあり)


 実は、自分の大学とは別に、某大学のロック研に在籍していたことがある。ブリティッシュ・ロック研究会。そこに、CAMELのコピーバンドがあって、そこでフルートを吹いていた。そういう意味でも、懐かしい曲。 



■番外編:PARACHUTE 「HERCULES」(1980年)

 この曲のギターはハモってない。松原正樹、今剛というふたりのギターの音が同じメロディラインを弾くときには、ユニゾンかオクターブだ。
 歌でもそうなのだが、ユニゾンって、すごく難しい。でも、彼らの演奏は、ライブであっても、本当に微妙で繊細な間合いまで、ぴったり。ギターだけじゃなくて、すべての演奏者の――。それがここまでのレベルでビシっと決まるところ、1つの曲をつくりあげるメンバーのこころも1つになっている感じも伝わってきて(一流のミュージシャンに向かって、私が言うようなことじゃないけど……)、それが痛快で、気持ちいい。

 そんなこともあって、本来なら今回の企画には入ってこない曲なのだが、これだけは入れたいと思った次第。


 あともう1つ理由がある。
 この曲を知ったのは、パラシュートのレコードで聴いたのではなく、大学の音楽サークルの同級生のバンドの演奏で初めて聴いたこと。サークルのたまり場で、ギターの人が練習していたかもしれない。 今回、3曲目に紹介したウィルソン・ブラザーズの「Take Me To The Heaven」が、レコードやラジオではなく、先輩バンドの演奏で知ったのと似ているパターン。 

 大学に入って最初は軽音楽部に入ったが、半年ほどでやめて、他の音楽サークルに移った。カバー曲もやるが、オリジナル曲をつくるのがメインのサークルだった。
 パラシュートのカセットテープを持っていた記憶があるので、この曲が入ったアルバムを誰かから借りて、録音したのかなぁ。そのあたり、記憶があやふやだけど。

 緻密なのに、自由。自由でダイナミック。この曲を実際に聴いたら、リズムがパシっと決まるところなんて、快感だったろうなぁ。松原正樹さんが亡くなってしまったので、もう、聴くことは叶わないけど、一度でいいからライブで聴いてみたかったな――。



 さて、【2本のリードギターの旋律がきれいにハモるギターハーモニー、最近、あまり聴かないよね?】の企画、いかがでしたか。他にもこんな曲があるぞー!ということがあれば、ぜひ、教えてください。何曲か集まれば、第2弾もできますね。 
 さぁ、次はなにを書こう。2か月後にまたお会いしましょう。 


フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。
下北沢や世田谷区のタウン誌、雑誌『アニメージュ』のライター、『特命リサーチ200X』『知ってるつもり?!』などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』など図鑑系を中心に執筆。
主な編集書には『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』、編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』(2023)がある。