2025年5月25日日曜日

涙の中の音楽史:From Jimmy with Tearsの背景を追う

    


 音楽史には、商業的に成功を収めなかった名曲や、記録に残らなかったがその後に再評価された楽曲が数多く存在する。それらの多くは、時の流れに埋もれてしまったが、その裏には深い謎や隠れた才能が隠れていることが少なくない。その中でも1963年に録音されたThe Honeysの「From Jimmy with Tears」は、The Beach Boysファンの間でも話題になることは少なかった。この曲は、あの伝説的なJack Nitzscheが手掛け、The Honeysのセッションで録音されたものだが、リリースされることになったものの、商業的にはほとんど評価されることなく、時の流れに消えていった。

1963年5月16日付けのセッション・シート
リーダー欄にはJack Nitzche
Capitol側にはNick Venetのサインが確認できる

1963年5月13日、The HoneysはLos AngelesのCapitol Recordsでセッションを行った。セッションには、当時の音楽シーンで名を馳せたミュージシャンが集結していた。Hal Blaine(ドラム)David Gates(ベース)Leon Russell(ピアノ)Glen Campbell(ギター)といった錚々たる面々が参加し、そのセッションをまとめたのがアレンジャーのJack Nitzscheだった。Jackは一時にPhil Spectorの右腕と称されるほどの音楽的才能を持つ人物で、弊誌読者にはご存知の通り彼が手掛けた楽曲には後の音楽シーンに多大な影響を与えたものが数多くある。そのセッションで録音された「From Jimmy with Tears」は、シングルとしてリリースされたが、その商業的成功はほとんどなかった。シングル盤のA面には、Brian Wilson(The Beach Boys)が手掛けた名曲「The One You Can Have」が収録されており、この曲は確かにその後も高く評価されることとなった。しかし、同じシングルに収められた「From Jimmy with Tears」は、時の流れとともにほとんど忘れ去られた存在となってしまった。

当時の参加ミュージシャン一覧
Russell Bridges=Leon Russell

「From Jimmy with Tears」の楽曲そのものは、いささか平板なポップ・チューンと感じられるかもしれないが、その中に潜む西海岸特有のコンテンポラリーな雰囲気やアレンジの妙が光る。若きLeon Russellのキーボードの妙もいい味を出している。作曲家としてクレジットされたのはBuddy KayeとLeroy Glover。この二人の名前は、1960年代の音楽シーンにおいてはすでに広く知られた存在であった。Buddy Kayeは、Brill Building界隈の名作詞家としてその名を馳せており、彼の作詞による「Till the End of Time」はPerry Comoによってヒットし、10週連続トップを記録した。また、1962年にPat Booneによって発表された「Speedy Gonzales」もBuddyが手掛けた作品であり、世界的に大ヒットを記録している。その後、Buddyはブラジルや欧州などにも足を運び、Antônio Carlos JobimやCharles Aznavourといった世界的アーティストの楽曲に英詞をつけ、名曲を生み出していった。日本でも人気のあったテレビドラマ『かわいい魔女ジニー (I Dream of Jeannie)』のテーマ曲の歌詞も手がけており(ただし、2ndシーズン以降のみが歌入だ。一番有名なインスト版は多くのHip Hop系アーティストにサンプリングされている)その他にも、Cliff Richardの映画『Summer Holiday』のテーマソング「The Next Time」や、Dusty Springfieldの「All Cried Out」などのヒットを生み出している。

一方、Leroy GloverはR&Bやガール・グループ関連の音楽で活躍していたキーボーディストで、The Shirellsの「Foolish Little Girl」のオルガン演奏は印象的だ。また、1960年代前半からは、Feldman-Goldstein-Gottehrerのガール・グループ作品のアレンジャーとしても知られており、その音楽的背景からも「From Jimmy with Tears」がガール・グループ・サウンドを念頭に置いて作られた可能性が高いことがうかがえる。


1963年上半期にリリースされた楽曲の中から、Buddy Kayeのクレジットによる曲を洗い出してみると、いくつかの楽曲が次々と明らかになった。その中で、目を引いたのが「From Joanie with Tears」というタイトルの一曲だった。このタイトルを目にした瞬間、思わず息を呑んだ。なぜなら、その曲は「From Jimmy with Tears」とほとんど同じ曲に思えたからだ。タイトルが異なるだけで、実は中身は同じなのではないか? それとも、単なる偶然がもたらしたものなのか?その疑問が湧き上がった。さらに調査を進める中で、新たな事実が浮かび上がった。1963年4月25日になんと「From Joanie with Tears」という楽曲が登記されていたのだ。この日付が、まさにJack Nitzscheセッションの直前であったことを考慮すれば、これが「From Jimmy with Tears」と同一の曲である可能性は非常に高いのではないかと感じられた。しかし、シングル盤には「From Jimmy with Tears」としてクレジットされているのに、なぜか「From Joanie with Tears」というタイトルが公式に登記されている。この奇妙な事態、どうしても説明がつかない。これは単なる偶然だったのか、それとも意図的な変更があったのか?

                                                  
From "Jimmy" With Tearsのシングル盤の
クレジットも同じR.F.D.Music名義だ。
異名同曲の可能性が高まる

同時代のKaye-Glover作品だがやはりR.F.D.Music名義


このタイトルの違いは、いったい何を意味しているのか?その理由が解明されるまで、この謎は解けそうにない。それが商業的な理由から来るものなのか、アーティスト側の意図が反映されたものなのか、それともレコード会社の戦略的な動きだったのか?どの線を辿っても、背後には何か深い意図が隠されているような気がしてならない「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」――たった一文字の違いが、音楽の歴史の中でどれほど大きな意味を持つのか。それを解き明かすことで、この謎の先に潜む物語が少しずつ姿を現すのだろうか。それとも、このまま未解決のまま時の彼方に消えていくのだろうか。おそらく、Buddy KayeはIan Flemingの小説『From Russia with Love』(1957)からインスパイアを受け、「From Jimmy with Tears」という楽曲タイトルを思いついたのだろう。映画化も決定していたこの小説は、1963年下半期に公開された映画『From Russia with Love』によって世界的な注目を集め、大ヒットを記録することになる。この楽曲がリリースされた1963年は、まさに映画『From Russia with Love』の公開年であり、映画自体が大きな社会的・文化的現象となっていた。映画の公開とともに、James Bondというキャラクターは一気に世間の注目を集め、その後も続々と007映画が公開される中で、映画のテーマや関連するメディア、音楽などが一体となった流行が生まれていた。その映画の影響は多方面にも及び、同名の曲が一斉に注目されることを期待したかもしれない。しかし、残念ながら「From Jimmy with Tears」は、その流行の波に乗り損ねた、どころか波さえも掴むことは叶わなかった。

「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」が異名同曲であると仮定した場合、その視点の違いが与える意味は非常に興味深い。まず、言うまでもなく、「Jimmy」と「Joanie」はそれぞれ男性名と女性名である。これにより、同じメロディと歌詞が、実はまったく異なる感情の流れを生み出すことになるのだ。「From Jimmy with Tears」の場合、タイトルに示される「Jimmy」は男性名であり、歌詞の中で語られる手紙は、恐らくその男性から女性へのものだろう。涙に濡れた手紙は、恐らく男性が自らの感情を女性に向けて吐露する形を取っていると考えられる。彼が涙を流して送る手紙というのは、決して軽いものではなく、深い悲しみや後悔、愛情を込めたものであることが多い。つまり、受け取る側である女性は、その男性の感情を受け入れ、そこに込められた痛みや愛情を感じ取る立場になる。一方で、「From Joanie with Tears」のタイトルが示すのは、女性名「Joanie」からの視点だ。ここでは、手紙を送るのが女性であり、受け取るのが男性だという構造になる。女性が涙に濡れた手紙を送るとなると、そこには「Jimmy」とはまた異なる感情が込められているだろう。女性が涙を流して送る手紙というのは、男性に対して哀しみや寂しさ、もしくは別れの決断を告げる場面が多いのではないか。女性の涙は、男性にとってある種の告白のように感じられるかもしれないし、手紙を受け取った男性は、女性の真摯な想いを受け入れつつも、その深さに圧倒されることだろう。この視点の違いが生み出す感情のコントラストは、同じメロディを使っていても、全く異なる物語が紡がれることを意味する。つまり、同じ曲が男女の視点で歌われることによって、聴き手に与える印象や解釈が大きく異なるのだ。「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」のタイトルの違いは、単なる名前の変更に過ぎないように見えるかもしれないが、その背後にある視点の違いは、歌詞や曲の感情的な方向性を大きく変える可能性がある。もしこの2曲が本当に同一の曲であり、ただタイトルだけが異なっているのであれば、その背後に隠されたテーマの違いを見逃すわけにはいかない。「From Jimmy with Tears」は、男性の苦悩と哀しみを受け止める女性視点であるとすると、「From Joanie with Tears」は、女性の悲しみや哀愁を受け止める男性視点を描いたものになる。この視点の変化により、リスナーが感じ取る情感は根本的に異なるものになるだろう。男性が涙を流して手紙を送る場面と、女性が涙を流して手紙を送る場面では、その受け取る側の感情や反応もまた、全く異なるものとして描かれるだろう。こうした視点の交替は、楽曲に対する理解を深める上で非常に重要だ。もしBuddy Kayeがこの2つのバージョンを意図的に作り分けたのであれば、それは歌詞やメロディに込められた感情の深さを異なる形で表現したかったからに違いない。

1960年代初頭、アメリカの音楽シーンには「Joanie」という名前で活躍した女性たちがいた。Joan BaezとJoanie Sommersだ。二人は異なる音楽スタイルで名を馳せた。
Joan Baezは、1960年代初頭に登場したフォークシンガーで、彼女の歌声は単なる音楽の枠を超えた社会的メッセージを持っていた。彼女の歌詞は反戦や公民権運動を強く支持し、時代の波に乗った。彼女の音楽は、当時の若者たちにとって、音楽以上のものを意味していた。それは、ただのエンターテイメントではなく、政治的な立場を明確に示す手段だったのだ。Joan Baezはその後も長いキャリアを持ち続け、フォーク音楽の代表的存在として、また社会運動のシンボルとして広く認識されている。
Joanie Sommersはポップ音楽シーンで一世を風靡したアーティストだった。彼女の代表作は1962年に発表された「Johnny Get Angry」。この曲は、彼女の明るく軽快な歌声が特徴的で、若者文化の中で非常に人気を博した。曲の内容は、女性が恋人に「もっと感情を表してほしい」と願うというもので、当時のティーンエイジャーにとって共感を呼ぶ歌詞だった。「Johnny Get Angry」は、まさにその時代の空気を象徴するような一曲であり、Joanie Sommersを一躍スターに押し上げた。彼女の歌声には、ポップスならではの元気で明るい雰囲気があり、60年代のティーンエイジャーたちにとって、まさに青春の象徴だったと言える。
二人のJoanieの音楽は、まったく異なるジャンルに属していた。Joan Baezはフォークと社会的メッセージを絡めた音楽で多くの支持を集め、社会的な変革を訴えかけた。一方で、Joanie Sommersはティーンポップの世界で、軽やかでキャッチーなメロディと共に、恋愛をテーマにした歌詞で多くの若者たちの心を掴んだ。二人の名前が共通して「Joanie」とあったことが、60年代の音楽シーンでのひとつの面白い偶然だが、彼女たちの影響力はそれぞれのスタイルで異なり、どちらも時代を象徴する存在だった。
「Johnny Get Angry」の歌詞は、女性が恋人に対して「もっと感情を見せてほしい」と願う内容で、多くの若者が共感を覚えた。それまでの歌詞においても「愛」や「恋愛」をテーマにしたものが多かったが、Joanie Sommersは少しユニークな視点で、感情的に表現を求める女性像を描いた。「Johnny Get Angry」は、リリース後すぐに大ヒットとなり、ポップシーンで強い印象を残す一曲となった。しかし、こうしたヒット曲にはしばしば「アンサーソング」が登場するという音楽業界の慣習があった。
この年、まもなくしてそのアンサーソングが登場することになった。1962年、同じく「Joanie」をタイトルにしたアンサーソング「Joanie Don’t Be Angry(Harmon 1009/1962)」が登場した。歌ったのは男性シンガーのVinnie Monte。この曲は、Joanie Sommersの「Johnny Get Angry」とは対照的に、男性の視点から反応したものだった。



アンサーソングの特徴は、元の曲の歌詞やテーマを逆手に取る形で、別の視点を提供する点にある。1950年代から1960年代にかけて、特にポップ音楽の世界では、ヒット曲に対する反応として数多くのアンサーソングが生まれた。「Johnny Get Angry」の場合もその例外ではなく、その逆転の発想から生まれたのが「Joanie Don’t Be Angry」だった。当時、アンサーソングは単なる歌の応答だけでなく、ファンにとってのエンターテイメントの一環として楽しむべきものだった。このような形態は、リスナーが同じテーマに対して異なる解釈を楽しめる余地を生み出し、音楽シーンにさらなる盛り上がりをもたらした。

さて、妄想的な仮説をひとつ立ててみると、「From Joanie with Tears」がもしかしたら、当時のアンサーソングの流れを意識して作られたのではないか、という考え方もできる。つまり、Joanie Sommersの「Johnny Get Angry」に対する男性視点の返答として、「From Joanie with Tears」が生まれたのではないかという仮説だ。Joanieの名前や涙にまつわるテーマが共通していることを考えると、この曲があの時代に特有のアンサーソングとして意図的に作られた可能性もあるだろう。証拠はないが、同じ1962年にリリースされた「Joanie Don't Be Angry」と同じく「From Joanie with Tears」が生まれたのであれば、当時のアンサーソング文化を反映した面白い一例として位置付けられることだろう。
さらに妄想を広げてみると、「From Joanie with Tears」が男性視点のアンサーソングとして作られたのであれば、その歌い手としてThe Beach Boysが考えられた可能性があるのではないか。1960年代初頭、The Beach Boysは音楽シーンで急成長を遂げ、特にプロデューサーNick Venetの手腕によってバンドは大きな成功を収めていた。しかし、当時のThe Beach Boysはユニークで個性的な音楽性が特徴であり、特にリーダーのBrianはユーモア好きな人物として知られていた。

この時期(1963年)、The Beach Boysは「Surfin’ USA」(1963年初春)という大ヒットを放ち、サーフィンブームとともにその名を広めたが、Brianは次々とノヴェルティ色の強い楽曲をリリースすることに対して難色を示したのではないかとも考えられる。というのも、音楽シーンでは「Surfin’ USA」の成功を追い風にし、似たような楽曲が続くことが予想されたが、Brianはその後の楽曲に対してより深みのある音楽性や異なるアプローチを求めていのたが事実である。しかしながら、Brianのユーモアを取り入れつつ、当時の音楽シーンにおけるユニークなアンサーソングの流行に乗る形で、この楽曲がバンドにとって新たな挑戦となったかもしれない。
結局、Brianはその後の曲においてノヴェルティ色を避け、より成熟しつつ革新的な音楽スタイルに移行していった。結果的に、「From Joanie with Tears」がThe Beach Boysの手に渡ることはなく、代わりに別のグループ、例えばThe Honeysのようなアーティストに提供されることとなったと考えると、この一連の流れには音楽業界の商業的な戦略とアーティストとしてのBrianのビジョンが大きく影響していたのだろう。このような妄想的視点から考えると、「From Joanie with Tears」がもしかしたら改題され、歌われることとなった経緯を探ることは、1960年代の音楽シーンにおける文化や創造性の動向を理解する手がかりとなるだろう。そして、もしThe Beach Boysがこの曲を歌っていたとしたら、どのようなアレンジや解釈が加わっていたのかを想像するのも、また音楽ファンにとっては魅力的な楽しみ方の一つであるに違いない。もちろん、これはあくまで仮説であり、時代考証そっちのけのシャレの一環として捉えるべきだが、それでも時代背景を踏まえた上で、このような流れがあったのではと想像することは非常に興味深い。

史実からの視点では、1963年の秋、The HoneysのアルバムリリースがNick Venetによって計画されていた。だがこの時期、The Beach BoysとVenetとの関係はすでに険悪なものとなっていた。プロデューサーとしての立場を巡る対立が深刻化し、最終的にNick VenetはCapitol Recordとの関係そのものも危機にあった。その瞬間、The Beach Boysの音楽制作は一時的に空白期間に突入した、Billboardの10月19日付の記事がその決定的な瞬間を報じる。

「Nick Venet Capitol Recordとの契約終了か」。

NickとThe Beach Boysとの一件を報じた
1963年10月19日付けBillboard記事
(後日NickはCapitolとはつかず離れずの関係になるのだが.....)

音楽業界の中で、Nickの離脱は瞬く間に広まり、The Beach Boysの未来がどうなるのか、多くの関心が集まった。この短い空白期間を経て、The Beach Boysの新たな担当A&RとしてKarl Engermannが登場。ここからが、Brian Wilsonが音楽的な舵取りを完全に握る転機となった。プロデューサーとしての権限がBrianの手に移ると、The Beach Boysのサウンドは急激に進化し、音楽的な革新の時代が始まったのだ。
そして、1963年12月上旬。The Honeysのシングル「The One You Can't Have / From Jimmy With Tears」(Capitol 5093)がリリースされる。このシングルの特筆すべき点は、A面「The One You Can’t Have」のプロデュースがBrian Wilsonのクレジットで行われたことだ。つまり、この時点で(既に徐々にだがBrianが主導権を取りつつあったが)Brianがプロデューサーとしての足掛かりを得るとともに、The Honeysのサウンドにもその革新が反映されることとなった。まさにこの時期、The Beach Boysは大きな転換期を迎えていた。Nick Venetの離脱から新たなプロデューサー体制への移行、そしてBrian Wilsonの手による音楽的進化。The Honeysのシングルは、ただのシングルにとどまらず、Brian Wilsonの音楽的成長を象徴する重要な一歩として記憶されるべき瞬間だったのだ。この時期のThe Beach Boysとその周辺の動きは、音楽史においても非常に興味深い章であり、Brianの革命的な音楽が形作られる過程を感じ取ることができる貴重な時間だった。その中で、The Honeysのシングルは単なるヒット作に留まらず、音楽業界における大きな転換を物語る象徴的な一枚となったのである。
The Honeysは商業的な理由や様々な背景によりアルバムリリースもなく、結局世に出ることはなかった。その後、彼女たちはSurfin/Hot Rodをテーマにした音楽や、ガールグループのバックコーラスとして地道に活動を重ねたが、注目を集めることはなく、無名のまま日々が過ぎていった。それからやっと6年後の1969年、待望の次作シングル『Tonight You Belong To Me / Goodnight My Love(Capitol 2454)』がリリースされるも、それもまた広くは知られることなく、ひっそりと消えていった。The Honeysの活動は、まるで「裏方」として音楽業界に埋もれていったかのような印象を与える。確かに一見すれば、その歩みは「涙の歴史」のようにも感じられるだろう。しかし、彼女たちの音楽には今もなお独特の魅力が息づいており、その存在感は後世にわたって静かに影響を与え続けているのだ。


(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

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