2021年2月19日金曜日

【追悼 フィル・スペクター特集】To Know Him Was To Love Him ~ Phil Spector (1939-2021) 第1回


 去る1月16日に逝去された偉大なプロデューサー、フィル・スペクター(Phil Spector)。弊サイトでは氏の追悼特集を2か月に渡ってお送りする。
 初回はBB5研究家のMasked Flopper氏によるコラム【Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷】の第1回。


 2021年1月18日、かの人は生を終える。音の壁を築き上げた後、壁に囲まれた 隠棲生活の果ての終の住処はコンクリートの壁の向こうにある医療刑務所の房、 それは往時に采配を振るったGold Star studioの約10分の1の広さであり、またそ の父が排ガス自殺を遂げた車両の広さに匹敵した。

 地球上のコロナ禍における死者数は200万人を超えたという、Phil Spector もその中に含まれる。死して第二級殺人罪服役囚であったことは免れないが、 この疫病の犠牲者の一人として哀悼を捧げる。
 欧米メディアはこの死の報道における見出しの表現に戸惑いが見られる。 もっとも大きかったのは英国BBCで、速報の見出しで当初
 
"Talented but flawed producer Phil Spector dies aged 81"
 (Phil Spector 81歳で逝く 名声と汚点を残して) 

から間もなく殺人事件犠牲者への配慮か、

 "Pop producer jailed for murder dies at 81."
(81歳で逝く ポップ・プロデューサーそして殺人罪で服役) 

へと編集されていた。
 著名人のSNSにおいても積極的に弔慰を表す記事は 少なく、もっともSpectorの影響を受けているであろう、The Beach Boys からも言及がない。Al JardineのツイートでSpectorへの哀悼が確認できる が、「殺人事件の犠牲者及び遺族などへの配慮もすべき」と指摘する返信も 受けており、他のミュージシャンも慎重に言葉を選び発信している。

 今回はThe Beach Boysの影響を多大に与えたPhil Spectorの足跡を追悼 を込めて振り返ってみることとする。 
 Wall of Soundサイドから見たThe Beach Boysサウンドの変遷は、

①(1963年~1964年)習作期 
②(1965年~1966年)United Western Recordersでの独自サウン ド確立

の二期に別れる。 
 ①②に渡って共通しているのはWall of Soundの技法である、この基本 技法について鍵になるのはスタジオ内の機器でありもっとも重要な役割を果たすミキシング・コンソールだ。実はGold Star StudioとBrianが一時根城としたUnited Western Recordersには共通点がある。それぞれカスタム メイドではあるが中身はUniversal Audio社の610が基本になっている。

それぞれのコンソールの原型となった
Universal Audio社の610モジュール

 左:Gold Star                 右:United Western Recorders

映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』で
再現されたコンソール
エンジニア役で出演したMark Linettは実際に
The Beach Boysのリマスターで有名な現役エンジニアだ

 これらコンソールの機能はスタジオ内のマイクを拾った信号をミックスし、そこからの出力信号はテープデッキが録音する。
 上の画像から分かるように出力が三系統となっている。これは当時のデッキの トラックが3つであることを意味した。

Gold Starでの録音風景
コンソール隣のデッキが3トラックであることがわかる
左隣はマスター用モノトラック 

 Wall of Soundの最大の魅力となっているエコーはどう処理されているのだろう。
 エコー成分はもちろんこのコンソールから得ることはできない、Gold Starには エコーチェンバーといわれるエコー専用室があるのだ。エコーチェンバーを 用いるのは当時でもありふれた処理ではあるが、Gold Starの場合、音響効果を意 識し設計されており、その壁面の塗装方法まで慎重に計算されているのである。
 アタック音に対して発する独特の反響音と倍音は他のスタジオでは得られない 魅力がある。 

 Bee GeesのMaurice Gibbが
訪問した当時のエコーチェンバー

 それでは録音開始 
まずはスタジオ内のマイクが拾った音声は
コンソールの入力へ
ここで入力音声のピークの調整、フィルターによる音質の調整
デッキの入力へ 

 が、基本的な流れだが、これでは普通の録音と変わらないGold Star Studioの魔法の一つであるエコーを加えよう。
 コンソールにはもう一つ出力があり、指定したトラックの信号をエコーチェンバー へ流れるように指定すれば、ここから出る音声が上記のエコーチェンバー内に設置 したスピーカーへ繋がっていてエコーチェンバー内へ流すようになっているのだ。その音響をエコーチェンバー内に立てたマイクが拾い再びコンソールへ返すように なっている。

実際の録音風景でおさらいしよう 
<実機は失われているため、現存する機種から類推したものである>


スタジオ内各所にセッティングしたマイクからの音声は
①のノブを回してピークを調整         
②のスイッチで出力先を決定          
③のノブを回すと音声がエコーチェンバーへ流れ、
エコーがかかる
④は②で決まった出力先の音の大小を調整し、  
全体のバランス調整を行う

1966年ニュースフィルムでSonny and Cherの
レコーディング風景に映ったGold Starのコンソール
④のノブが色分けされているのがわかる、
各パートのバランス調整を容易にするためであろう
ノブの数から入力が12あり、スタジオ内には少なくとも
12本のマイクが立てられていることがわかる

 コンソールの段階でのいわゆる「壁」を築くには③と④の生音とエコーのバランス そして④で3つのトラックにまとめる際のそれぞれのバランスを調整することが鍵となるのだ。
 さらに「壁」の基礎工事で重要な要素はマイクの位置だ。

とあるセッションからの画像だが、画像中でも8ヶ所に
マイクがセッティングされていることが分かる。

 同じセッションの別の角度からだが、
アップライトベース奏者がいる
したがってマイクがもう一ヶ所セッティングされていることが
想像できる また、ホーン・セクションは全員で一本となっている。 

 電気ハープシコード?の隣にはピアノ奏者2人
(髭の人物はLeon Russell) 
おそらく一本ずつセッティングされていると思われる。 

 上記の画像から確認できるようにコンソールの入力数(12)に対応した マイク数がセッティングされている。 
 ホーン・セクションのように全体で一本もあれば ドラムではスネア付近とキックのあたりにそれぞれマイクを立てる場合もある。
 ここから分かる技法は、
●ホーン・セクションの様に周囲の音と被りながらルームマイクの様に、空間でミックスさせた音をマイクで拾う方法で生まれる、奥行きのある浮遊感のある音。
●楽器に近接して周りの音を取り込みながら、生音に近いエッジのある音
(ドラムは二本も割り振っている為か、「壁」を突き破るドラマティックな効果がある)
 マイクの特性によりマイクの距離で音質も変化するので、イコライジングの効果もあり事前のマイクのセッティングで全体のバランスや音のトーンを決定しているモヤモヤした音とエッジの効いた音とのバランス、そしてコンソールで加えるエコー が大きな距離感を加え視聴者にダイナミズムをもたらしているのだ。 

 それではThe Beach Boysのサウンド形成の変遷に移ろう。

①(1963年~1964年)習作期
初期のキーとなるソングライティングにおける二人のパートナーといえば、
Gary Usher・・・・地元の凡百あるマイナーレーベルとの付き合いや
         契約、スタジオワーク、曲作りなどの業界の経験
Bob Norberg ・・・実家から出奔後のルームメイトのみならず、
         自宅録音でのコーラスワークを始めとする
         技法の実験の数々に寄与。
         The Crystals『He's a Rebel』をBrianに薦め、
         Spectorに開眼させる。
 
 これら二者の才能に加えてBrianがさらに望むものがあった「ヒットを出す」ノウハウである、それに丁度打って付けの人物が現れる。
その名はJan Berry

左端がJan Berry

 Janは自分のグループJan & Deanから全米チャートヒットをいくつも持っていた上にアイドル的ルックスに加え、スタジオワーク(総務・経理)や楽曲の全パートのアレンジ、スコア作成までも手がけアレンジャーであり現場ではプロデューサーとして仕切り、多方面の役割を熟知していた。
 同時にJanはBivery Hills近郊の高級住宅街Bel Air出身であり、西海岸のライフスタイルを満喫するJanの存在は、労働者の多い住宅街出身のBrianにとって眩しく見えたのであろう。 
 東海岸で流行のダンス・ミュージックに対抗して、西海岸から発信するヒットのアイディアを探していたJanにとってBrianの存在こそうってつけの才能だった。
 以前からライブでも共演する仲であったが、間も無く両者はソングライティングでのパートナーとなりその作品『Surf City』の制作に1963年3~4月取りかかり、見事同年7月に全米1位となる。タイトル『Surf City』の舞台は奇しくもBrianの父祖が西海岸移住当時困窮を極めた頃の暮らしを想起させる場所である。
 同曲の制作ではWrecking Crewの面々が動員され、特筆すべきはHal BlaineとEarl Palmer両者のツインドラムによる力強いリズムを中心とするどっしりとしたサウンドだ。前年Bob Norbergから薦められたThe CrystalsにはじまるSpectorのサウンドにBrianは関心を抱いていたと思われるが、Spectorサウンドの影響の前段階としてBrianのスタジオワークにJanは大きな影響を残している。
 また、Janは東海岸のBrill Buildingサウンドの総本山Aldon Music系列の会社と作家兼プロデューサーとして契約関係にあった。
 『Surf City』の作者にBrianが名を連ねるということは、ほんの数年前までは素人の音楽好きに過ぎなかったBrianがラジオで親しんで聴いていたBrill Buildingサウンドの、その当事者の一員へと変身を遂げたことを意味する。
 5月にカバーではあるが『Surfin U.S.A』、7月に共作ではあるが自らペンをとった『Surf City』のヒットはさらにBrianの自信を深めることに繋がった。

 1963年 7月楽曲『Back Home』(Brian Wilson/Bob Norberg作)のセッションではGary Usher、Bob Norbergから得たノウハウに加え『Surf City』のセッションで得た経験を加え、それまでのスカスカな演奏からどっしりとしたサウンドへと移行していることが分かる。
 具体的には、リズムが前のめりのガレージ・サウンドからミドルテンポの跳ねたものへと移行する事であり、それは演奏技術の未熟なDennisではリズムキープが困難であることを意味した。
 Brianは早期のこのサウンドの自らのバンドへの移植を断念し、バンド外のアーティストへの提供で実験することに決めたようだ。

 
Back Home / The Beach Boys

1963年6月14日 Gold Star studioでの
セッション・シートである。
Brianにとっては初のGold Star体験でもある。

 参加者は Hal Blaine(ドラム)、David Gates(ピアノ)、Jay Miglioli(サックス)、Steve Douglas(サックス)、Carol Kaye(ベース)でWrecking Crewご一同様といった面々だ。
 聴こえてくる音もSpectorの音に近くBrianもご満悦であっただろう、アレンジ面でもどっしりしたサウンドを意識していることがよくわかる。
ヴォーカルとコーラスの処理は重ね音りしているところは、Bob Norbergとの共同 生活の頃よく研究していたテクニックだ。
同曲はリリースまでに13年かかり1976年発表LP『15 Big Ones』に改作されたものが収録されている。同LP収録曲全15曲中『Chapel Of Love(作曲にSpector)』『Talk To Me(オリジナルはJoe Senecaだが、SpectorプロデュースによるJean DuShonのカバーもあり)』『Just Once In My Life(Spector作曲)』が収録されておりSpector愛あふれる選曲となっている。

Run-Around Lover / Sharon Marie(1963)

 同日に録音された『Black Wednesday』は後に『Run-Around Lover』に改題しシングル盤(Sharon Marie、プロデューサーはBrian)のリリースに繋がる。 Brianの得意とする内省的なバラードからあえてエモーショナルな曲調を志向していることがよくわかる内容となっている。
 バッキングはWrecking Crewが手堅くまとめているが、やや一本調子でまだBrian流の「壁」が見えてきていない。

 また、この『Back Home』セッションの9日前にBrianを生涯に渡ってノックアウトし続ける、SpectorによるThe Ronnettes『Be My Baby』のセッションが行われていた。
 多くのBrian/The Beach Boys/の評伝類での通説では『Be My Baby』でSpectorに開眼し、それからあしげくSpectorの元に通った云々となっているが、多くの資料から既にSpectorの楽曲やWrecking Crewとの交流があったことは事実である。
 『Be My Baby』が大きなインパクトをBrianにもたらしたのは間違いない、おそらくそれは内心「Jan以上の存在」と心肝寒からしめ、それまでヒットで鼻高々だったBrianのプライドをへし折りSpectorを畏怖し追随することに繋がったのだろう。 

映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』
カットされたシーン(Spectorとの出会い) 

No-Go Showboat / The Beach Boys

 また、同年9月にアルバム『LIttle Deuce Coupe』レコーディングセッションがあり、そのうち『No-Go Showboat』は他のアルバム収録曲と比較して重厚なサウンドとコードチェンジ多用により、リスナーへドラマティックな印象を与えている。またこの辺りからドラムのチューニングを低めにしてスネアとタムを同時に叩く奏法を採用している、これはHal Blaineの影響だ。
 『Back Home』のセッションと楽器の構成が似通っており、さらに進化させてWall Of Soundを志向した証左である。『Be My Baby』がBrianに与えた影響の大きさの一端がよくわかる一曲。

The One You Can't Have / The Beach Boys 

 同時期に行われた再びGold Star studioでのThe Honeys『The One You Can't Have』セッションのサウンドは、『Be My Baby』から受けたインパクトの大きさが現れている。ドラムとキーボードにかかったエコーが楽器の一体感を強調しドラムのバランスが大きくよく聞くとツインドラム(実際はオーバーダビング)でドラムに厚みを持たせている、これはJan Berryの影響が大きい。
 ただし、『Back Home』の方が中低域のキーボードとホーン・セクションの絡みがもっと厚くなっているが、こちらではキーボードはドラムにほとんど隠れていてホーン・セクションはほぼ生音のデッドな音となっている。
 ドラムサウンドの音作りで時間切れとなり他のパートがおろそかになった趣もあるが、生前Gold StarのエンジニアであったLarry Levineの証言によるとBrianは、ホーン・セクションは楽器ごとにマイクを立ててダイレクト音を好んだとの証言もあり、Brian流Wall Of Soundの技法と見てもいいのかもしれない。

Drive-In / The Beach Boys

 同年10月のUnited Westernでのセッションでは『Little Saint Nick』に加え『Drive-In』の録音が行われた。翌年アルバム『All Summer Long』へ収録されることとなる。
 同アルバム収録曲の軽快さと比べて重めの趣がある理由は『Back Home』~『No Go Showboat』セッションからの流れで捉えれば共通項はWall Of Soundの音像であり、いよいよ自らのバンドへの移植を開始した様子がわかる。

I Do / The Beach Boys

『I Do』のセッション・シート 

 同年11月R.C.A Victor studioでの楽曲『I Do』のセッションでは、
Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(ドラム)、Jimmy Bond(ベース)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Al Delory(ピアノ)、Howard Roberts(ギター)、Bill Pitman(ギター)、Tommy Tedesco(ギター)、Jay Miglioli(サックス)、Steve Douglas(サックス)、Plas Johnson(サックス)
他が参加し『Back Home』の頃の倍以上のミュージシャンが動員され、Brianへの信頼や才能をが高まっていることを感じさせる。Spectorのセッションからそのまま抜け出してきてもおかしくない豪華な顔ぶれである。
 『The One You Can't Have』と同様にツインドラム(これもオーバーダブ)が用いられている。
 『The One You Can't Have』に見られた中域の不足は、今回はギターのストロークとキーボードをシンクロさせたことから生まれる楽器間の音色のブレンドで解消し、ドラムもリズムキープというより全体が一体化し壁の装飾と化している。淡々としたドラムのビートに絡むハンドクラップやタンバリンなどのパーカッシブな音の組み合わせも素晴らしい。
 何から何までSpector直系の音作りで、Brianの能力の高さと成長がよくわかる一曲。

Thinkin' Bout You Baby / Sharon Marie 
 
 1963年最後の12月のセッションで『Thinkin' Bout You Baby』 (後に『Daril'』へ改作)の出来は習作期の一年を締めくくるのにふさわしい作品となっている。(ただしヴォーカル録りは翌年となる)
 冒頭から最後まで流れ続ける幾重にも重なったギターストロークの入力レベルはピークレベルギリギリに抑えて強いコンプレッションがかかり、次第にキーボードの音色と一体化していく。さらに浮遊感あるエコーいっぱいのストリングスがかぶさりドラムはかすかに聞こえ、リズムをキープしているのは、キックとウッドブロックにヴィブラスラップだけだ。Wall Of Soundほぼ免許皆伝といっても過言でない仕上がりだ。
 ユニークなパーカッションの選択は、Spectorのセッションによく通ったBrianならではの着眼点だろう。その刻むビートは、バイヨンやハバネロ由来のラテンビート。
 そう、それは『Be My Baby 』のイントロと同じビートであり、Spectorの師匠筋Leiber-Stollerの楽曲の系譜に繋がる。
  「壁」がとうとう、見えてきた。 

 <1964年編へ続く>

(text by MaskedFlopper / 編集:ウチタカヒデ)

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