2018年6月19日火曜日

Graduation Day 〜 When I grow up

 今月(6月20日)はBrianの誕生日だ。
 同時に今月はアメリカでは卒業シーズンに当たり、毎年9月から新学期が始まるのが常となっている、そのためか、9月にちなんだ歌も多い。
ご多分に漏れずBrianも卒業式を迎えており日付は1960年6月16日、学生時代の終焉は同時に大きなキャリアの入口を意味し、卒業後同窓生のAlとの邂逅がThe Beach Boysの結成に繋がっていく。
 BrianとAlが在籍していた高校はHawthorne High Schoolといい、愛称は近在が農業地帯であったことにちなむ-El Molino-”粉引き小屋”であった。
 開校は1951年という新設校で、戦中からHawthorne地区周辺に米国空軍及び民間企業の研究開発が盛んになった背景があり、これを契機に雇用の拡大と労働者の流入が全国からあったために戦後人口増大で児童数が増えたことに起因する。同校出身者のミュージシャンは本誌おなじみChris Montez(Brianとは同窓生)に、こちらもおなじみEmitt Rhodesというソフトロック勢がいる。
 AlとBrianの学生生活はどのようなものだったのか?それらは多くのインタビューで明らかだ、筆者の手元にある高校の卒業アルバムからも様々なことがうかがわれる。

 
 
 The Beach Boysの伝記でよく語られる、Dennis以外はサーフィンをほとんど経験していない、だから彼らは音楽しか興味無い文系人間だった、というのは少々事実と異なるイメージ操作である。
 事実AlとBrianに限れば、もちろんBrianは高校入学前より音楽に耽溺していたものの、二人ともスポーツを好み音楽を愛した文武両道であった。 Brianの音楽の成績はその後の活躍とは全く真逆の結果で、課題で提出した自身の曲に落第に等しいFの評価が与えられるほどであった。
画像の人物は音楽教師Frederick Morgan。
 後にBrianの功績に応える形でHawthorne High SchoolによってFからAへ見直しがされることとなった。 

 
 
 特にAlはフットボールが好きで学校のチームに参加すると頭角を現し代表チームにも選ばれている、Alの出場した試合には数十年後も名勝負と讃えられる試合もある。
 
 BrianもAlのフットボール仲間であったが実力差からか、トップチーム昇格までには至らず後に退団していた。その後もBrianは関心を音楽に向かいつつも野球や陸上チームに所属しスポーツを楽しんでいた。
 

  Alはフットボール仲間のうち、歌が好きな友人もいたので当時流行していたKingston Trioに触発されて友人とグループ結成を思い立った。
 それに応じたのがBob BarrowとGary Winfreyだった。3人でThe Tikisと名乗りフォークソング主体の演奏を得意とした、レパートリーの中にはThe Beach BoysがカバーしたSloop John Bの原曲The Wreck Of John B.も含まれていた。またメンバーのGary Winfreyは卒業後Alとは交流が少なくなるが60年代後半再会後は2人で曲作りをしていた時期もあり、そのうち2曲Take A Load Off Your FeetとLooking At TomorrowはアルバムSurf’s Upに収録されている。
 Brianも音楽活動をスポーツと並行して開始しており、主に学内の集会やイベントでKingston TrioやR&Bのカバーをグループで披露していた。メンバーは固定しておらず後年発見された音源からはMike Loveの関与も確認されていてR&BのローカルヒットDelroysのよるBermuda Shortsの歌唱が聴くことができる。
 当時のメンバーはCarlやDennisの参加はまだなく、同級生などが多かったようである。他の校内イベントでは替え歌として当時のR&Bヒット曲The OlympicsによるHully Gullyを歌っている。 (Carlが出演を出し渋り引っ張り出すためにつけたグループ名がCarl & the Passionsと伝わっている) 
 この曲はご存知の通り、のちにThe Beach Boys Partyでもカバーされている。その他に卒業アルバムにも写真が残されているグループがありThe Kingston Quartetと名乗り読んで字のごとくKingston Trioの曲をレパートリーとし学内のイベントのみ活動している。メンバーは上記のThe Tikisの一部とBrianのスポーツ仲間から構成されていて、すでにBrianが高音を受け持つ四声ハーモニーが確立されていた。
 メンバーの抱えるエレキギターはCarlからの借り物KayのSwingmasterであった。Kayはエレキギターメーカーの草分けであったが、その当時は他のメーカーに押され購買層はプロよりは廉価なものを求めるファミリー層が多かったようである。このギターもCarlの誕生日に父Murryから贈られたものとのこと。

 
 学内イベントでは有名人のコンサートも開催され、当時人気だったFour Prepsの画像も残されている。彼等はBrianも憧れるFour Freshmenスタイルのモダンなハーモニーを加えたポップスを得意としておりオリジナル曲や在籍がCapitolということで当時のBrianに何がしかの影響を与えたと言って間違いないだろう。
  
 Four Freshmenのハーモニーの話になるので時間を2年前に戻させていただく、その当時のBrianの誕生日プレゼントはWollensak1500と言うテープレコーダーであった。
 
 このプレゼントによって兄弟、時には家族でFour Freshmenのハーモニーなどを録音することで更に研究が深まることとなった。
 父Murryの作曲活動は継続していたが、1950年代中盤移行のリリースは途絶えていた、本業が海外メーカーとの付き合いも増え多忙だったこともあったが、息子Brianの才能の伸長に寄与する何がしかの援助を考え始めた形跡が伺える。
 16歳の誕生日より更に数ヶ月さかのぼった頃、Murryへ旧知のHite Morganから連絡があった知人がレーベルを立ち上げるのでリリース予定のシングルのリードボーカルを募集しているとのことだった。
 レーベルオーナーはArt Laboeという人物でCalifornia各地のラジオ局で人気DJとして活躍しており、同時にレーベル事業を企図していた。リリース第一弾の楽曲は既に決定し、作曲者はBruce Morgan、Hite Morganの息子であり曲名はChapel Of Love。(後年ヒットしたDixie Cupsの曲とは同名異曲)
 曲調はコーラスを交えたR&Bタイプの曲でコーラスパートは周辺で活躍していたいくつかのコーラスグループから集められた。 一部はLos Angeles周辺で活躍するThe JaguarsというコーラスグループでR&Bかつポップス寄りの曲想を得意とし、メンバーも様々な人種が集まっていた。ローカルヒットではあるがスタンダード曲のカバーThe Way You Look Tonightは好評を博していた。(後年同曲はThe LettermenでナショナルヒットとなりリリースはCapitolでプロデューサーはThe Beach Boysも関わったNck Venet) 
 彼等のリリースしたシングルの中でDon't Go Home(R-Dell 117 1960年)はSurfer Girlを思わせる曲想でユニークだ。 またその他のグループではThe CalvanesがありLos Angeles周辺で活躍し大手のDootoneからも作品をリリースするも新作の機会がなく不遇を囲っていた。 彼等がユニークなのはHi-LosやThe Four Freshmenに代表されるテンションコードを含むモダンハーモニーを得意としていた点である。新作の機会を求めてHite Morganとも接触が増え幾つかのデモを当時のMorgan家のリビング兼スタジオで録音しており、未発表ではあるがThe Four Freshmenスタイルの曲 Lavenderを録音していることが判明している。
 The Beach Boysファンならお気づきと思われるが彼等のデビュー前音源に収録されているLavenderと同じ曲でBrianへ某かの影響を与えていると思われる。
 話を再びBrianに戻そう、オーディションは予定通り行われたものの、残念ながらBrianのボーカル採用は決定しなかった。後に他のボーカルを加えてThe Hitmakersの名前でOriginal Soundというレーベルからデビューとなるも、グループ名の様にヒット曲に結びつくナショナルチャートに入ることはなかった。アルトの伸びやかなボーカルと深いコーラスが一体となり豊かなハーモニーが感じられる作品である、Brianがもし歌っていたらどうなったか?と思いを馳せる一曲である。Art Laboe自身も後にBrianを採用しなかったことを後悔していたという。
 Original Soundはその後いくつもリリースを続け、Sandy Nelson、Preston Epps、Music Machineなどによる多くのヒット曲が生まれた、DJ出身であったArt Laboeは当時珍しかった。 ライブ方式のDJの経験からヒット中の人気曲以外にも過去の曲もリクエスト需要が多いことに気がつき、ある日Oldies But Goodiesという言葉を思いついた、それをそのままタイトルにして、過去の様々な曲を集めたコンピレーションアルバムをリリースしロングセラーとなる。
 なんとArt Laboeは存命で90歳を過ぎてもラジオDJを続けているそうだ。

 


 また、後にMorgan家の所有するDeckというレーベルからBobby Williams名でChapel Of Loveはリリースされている。Original Sound盤と同じバックトラックを使い回転数を変えて録音したようだ。
 
 
 The HitmakersのメンバーVal Poliutoによれば、「Art Laboeのオーディションは事前のリハーサルがあり、The CalvanesやThe Jaguarsメンバーと共にBrianとMorgan家によく出入りして制作現場やコーラスワークを学びその後もBrianと交流があった」と回想している。が、それらを裏付ける事象の確認はされていない。
 1962年2月8日に行われたSurfin' Safariを含む数曲のセッションシートにはリーダーはBrian、他にDennisの名前が記載されているが、何故かAlの名前は手書きで二重線が引かれ下の欄にはVal Poliutoの名前が記載されている。さらにThe Beach Boysの所属がMorgan家所有のDeck Recordとなっているのが確認できる。

  (text by-MaskedFlopper- / 編集:ウチタカヒデ)


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