2017年2月1日水曜日

VANDA創刊までのいきさつと、営業を一人でやるには、実家の父母と祖母に発送準備をみな頼んだこと。翌日は年休でまず郵便局、取次の大手レコード店へは直接届ける。しかし頼りの父が亡くなったこともあってVANDAは休刊、大手の誘いは断った


VANDAは純然たるミニコミだった。創刊は1991年。はるか昔に木崎義二さんのPopsicle、大阪のForever RecordsForever Magazineがあって、既存の音楽誌ではまったく無視されていたBruce Johnstonミニ特集とかJoe Meek特集とか読んで自分もこういう価値ある紹介をしたいと思っていた頃、1985年だったと思うが、よく通っていった横浜のBack To The Rockの神谷さんに今度Rave Onという音楽ミニコミを作るから原稿料は出ないけど書いてくれる?と頼まれ1号はBruce Johnston Works2号はKinks Rarities、そして3号でそれまで日本ではやった人がいないBeach Boys Raritiesを書いた。すると世の中の隠れBeach Boysマニアが、この記事を書いている佐野って誰?と言う事になり、神谷さん経由で会うことになったのだが、それが宮治淳一さんだった。1988年に「Kokomo」が22年ぶりに全米1位になった時は「Beach Boys22年ぶりの1位を祝う会」をやりましょうとさそわれ、その時に宮治さんと一緒に来たのが萩原健太さんだった。その当時、日本の音楽は山下・大滝しか聴いていなかった私は、萩原さんに向かって「何のご職業をされていますか」と今考えると冷や汗ものの質問をしている。でも3人とも、ともかく話題はBeach Boys。和やかに飲み会は終わった。しかし私は1982年から当時最先端のマンガ家だった吾妻ひでおさんや、「未来少年コナン」で初監督をやってまだ無名の宮崎駿さんが知られるチャンスと言う時に、「漫画の手帖」というミニコミの編集人を頼まれ、内容は全てこちらに任せてもらって、版下つくりと営業は依頼した発行人の方という超楽な条件で1992年まで30冊も出していた。その中でどうしても音楽も入れたくて、自作のマンガの中でKinksLovin’ Spoonfulを出していた山田ミネコさんなどにはそのファンぶりを書いてもらうなどしていたが所詮、この本ではジャンル違い。そこで1991年に自分で好きな音楽のミニコミを作ろうと始めたのがVANDAだった。本を作るにはやはり知名度のある方の原稿が必要。でも自分は10年間、マンガとアニメーションの世界にいたので知っている方はマンガ家の方ばかり。で、初期のVANDAはそういうマンガ家の方に数多くの原稿を描いてもらい、本の特集の半分もそのジャンルだった。一挙両得を狙ったのだが、音楽とクロスオーバーしている読者は少なく、また著名なマンガ家に描いていただいた原稿はすべてタダ原稿(「漫画の手帖」の時代からそう)で、個人的な人間関係で描いていただいていたが、もちろんそうは頼めず、新規開拓用にコミケットでまだ無名だった南Q太さんなどをスカウトしたりしたが、どんどん音楽に比重が傾き、音楽誌としての色彩が強くなった。こういう雑誌が珍しかったのか、山下達郎さんはBeatlesBeach BoysBarry Mannの好きな曲アンケートに答えてくださり、常に好意的なブルーハーツのマーシー(真島昌利)さんは、BeatlesWhoKinksSmall FacesRolling Stonesの好きな曲アンケートにみな答えてくださり、コレクターズの加藤さん、古市さんも多くアンケートに参加していただけた。原稿を書くのは楽しかったが、「漫画の手帖」と決定的に違うのは営業をやらないといけない点だ。印刷費と送料が、本を売り上げとトントンでないと本は継続できない。版下つくりは別の人間がやってくれたが、一番シビアな収支は自分が仕切らないといけない

。出版当時の営業の苦労話は2016414日の記事「VANDAに強いる地獄の要求…」に書いたので、この記事とセットなのでまだお読みで無い方はご一読いただきたい。右サイドの「2016年」から「4月」を出して数枚、「前の投稿」で送ってみていただくか、ジャンルの「サブカル」を選んで4枚先を見ていただくかで、すぐ探していただける。

多い時は年4冊出していたVANDAの発送作業は、実家の父母と祖母まで手伝ってくれたからできた重労働だったことを書いておきたい。新刊が送られてくると、ほとんどが委託販売だったので、事前に各店に在庫を聞いて請求書と郵便の振込依頼書を作成、そして各店の売り上げ状況を見て新刊を送る冊数を決め納品書を作る。送る冊数は委託なので、打診はしない。発送は北海道から沖縄まであるので、数多くの段ボールが必要だ。ここで先日書いたように、私の勤務先の清掃の方ともツーカーなので、送るに適した段ボールはストックしておいてもらう。そして警備員に清掃の倉庫わきの駐車スペースを確保しておいてもらって一気に実家に届ける。私の作った納品書には新刊だけでなく在庫が少なくなったバックナンバーもずらりと書いてあるので、その総冊数を見て、持ってきた段ボールから適度なものを選ぶのは、父の仕事だ。父は理系の人間なのでそのあたりのチョイスは間違いない。そしてその箱を父がガムテープで組み立て、あとは父が母と祖母に指示してくれて各店ごとの段ボールが出来ていく。発送はゆうパックを使ったので、段ボールに本と納品書と、前の精算の請求書などを同封してもらって封をし、あらかじめ書いておいたゆうパックの伝票を貼ってもらって完成だ。取次の地方小出版流通センターはさらに面倒くさく、本の間にスリップ(本の間に挟まっていてチョコンと飛び出しているのでご存知だろう)を挟まないといけないが、印刷所に一定数だけスリップを刷ってもらって挟んでもらうとかなりコスト高になるので、号数の書いていないスリップを作っておいてその都度号数を記入し、本の間に挟んでもらう作業も実家にお願いしていた。その頃はまだ子供も幼稚園・小学校と小さく、妻が手伝いに行けないので、すべて実家でやってもらった。VANDAは家族全員で作っていたのだ。そして翌日、私は職場を年休で休んで、車に天井まで詰まったゆうパックをもって世田谷郵便局に裏から納品する。大量なので郵便車両が横付けするパーキングに停めて勝手に台車を借りて積み込み、終わったら局員に声をかけ、表に回って精算する。大量だと割引があるのだ。そして地方小出版流通センターには再度積み込んで、新宿まで納品、他、ON STAGE YAMANOとかWAVEなど大量に売ってくれる店は直接届けて挨拶をする。これも大事だ。

こうして続けていたVANDAをなぜ2003年に29号でいったん止めたか。一番は自分が紹介したい音楽をみな紹介してしまったことなのだが、祖母が亡くなり、最も頼りにしていた父が亡くなったので、もう営業の作業はできないと、本を作ること自体を止めたのだ。このように個人でのミニコミ作りはとても大変。おススメはできない。ただ大きなところから、自分のところからVANDAを出さないかというお誘いもいただいたが、編集の自由度が無くなるのが嫌なのでお断りしている。一寸の虫にも五分の魂かな。(佐野邦彦)


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