2017年2月26日日曜日

VANDA以前にマンガとアニメのミニコミ「漫画の手帖」を作り拡大していくヒストリー。休学しながら収集、転売で暮らした3年や、新進気鋭だったマンガ家達のエピソード、無名の宮崎駿が評価される過程など70~90年代の思い出です。


自分がマンガに出会ったのは高2なので1974年、アニメーションに本格的に出会ったのは故あって休学していた1976年だったと思う。マンガは高校の頃に病気と思い込み、高2、高3で毎年欠課200数十時間も休んで、まあいわゆるドクターショッピングをしていた。原因が分からず大病院ばかり回ったので待ち時間が長く、退屈しのぎにふと本屋に行って初めて買ったコミック本が手塚治虫の「W3」だった。数ある手塚作品の中でも今でも最も好きなこのタイムパラドックスの傑作を読んで、湧き上がるような感動で胸が苦しくなるほど。それからもう病院以外の全てのお金をコミック購入につぎ込む。その頃は渋谷のディスクポート西武での並び順が、手塚治虫、石森章太郎、ちばてつやで、これらの大物の昭和30年代、40年代の作品を揃え十分に満足し、高校では同級生の女子にこれを読んでごらんと萩尾望都の「ポーの一族」を勧められ、単行本を読んで、昭和24組と言われる少女マンガにも夢中になった。高校卒業後は他大学に通っていた友人と3年間、休学してマンガとアニメーション三昧の日々を送る。アニメ―ションも実はマンガと同じく、それまでほとんど見ていなかった。ずっとロックばかり聴いていたからだ。しかし高校に入った1973年からは急速に音楽を聴かなくなった。大物、プログレ、ハードロックは「曲が長くなる」「異色作を出す」「その前の傑作を超えられずイマイチのアルバムを出す」というスパイラルに陥って、ガッカリなアルバムが続いた。さらに1974年にベイ・シティ・ローラーズが大ブレイク、その時に「ビートルズを超えた!」と多くのマスコミが紹介し、「こんなもんでビートルズを超えたらというならロックは終わったな」と、いったん見切りを付けてしまう。高2でマンガにシフト、さらに高3になった時に同級生に「佐野は「宇宙戦艦ヤマト」を見た?最高だから今度再放送があるから見てみろよ」と言われ、見始めたらもう自分の頃の夢が実現したアニメで瞬時に夢中になる。アニメは小学生の頃は見ていて、最も好きだったのが「レインボー戦隊ロビン」。ロビンたちとパルタ星との宇宙での戦いに興奮し、終わると紙に絵を描いてパルタ星の円盤を破壊していたが、その宇宙空間での戦いがさらに大きなスケールで実現したのだ。だれだけ夢中だったかというと、話の流れでは最も壮大な決戦になるはずの「決戦!七色星団の攻防戦!」の再放送に、某有名校の受験を最後まで受けると間に合わない。志望校なので世の中のほとんどの人は受験を選ぶだろうが、この1975年当時はビデオもなく、アニメの再放送があるなんて保証はどこにもなく、このチャンスを逃すと一生後悔すると、最後の試験は1時間前に退出した。出たのは自分たった一人。受験会場の受験生の「なんだこいつ?」というチラ見の雰囲気を今でも覚えている。でもその後で、知り合ったアニメファン達に話すと、それは仕方がない、七色星団じゃ当然だ、と納得してくれる(笑)ただ、その回は、有名なあっけない幕切れで、ガッカリな仕上がりだったが…。ヤマトのおかげでその当時のTVアニメの凄さに気づき「ガッチャマン」や「グレンダイザー」など夢中で見るようになったが、見たいアニメがUHFの千葉テレビやTVKで放送されていた場合も多く、三軒茶屋は電波状態が悪いためUHFのアンテナを物干し(平屋なので鉄骨で屋根より高く作られている)に上がってその最上部にあるUHFアンテナを最適な受信方向に向けるため物干し竿で、その都度変えていた。もちろん雨の日も。しかし見られるのは室内アンテナよりも悪い状態…。ついに録画できる機械が欲しくなり、その頃には三軒茶屋にナショナルの販売店があったので弟と半分ずつ月賦で払おうとナショナルの最新機種を購入してしまう。1976年の初旬だった。VX2000という機種で価格は208千円。ビデオカセットはUマチック並みに大きなテープで16千円もした。早く欲しいので、近所にあったゴミ収集所の人に頼んでリヤカーを借り、三軒茶屋の町中を、リヤカーをゴロゴロ引っ張って積み込んで帰った(笑)なにしろメチャクチャ重かったのだ。その年の年末に最新機種のVHSがビクターから販売、翌年にはナショナルも販売し、VXは一瞬で過去の遺産となったがこんな高額商品を簡単には買い換えられず、しばらく泣く泣く使っていた…。しかしアニメは大好きになったが、自分がミニコミの「漫画の手帖」まで作ろうという原動力にはならなかった。

それを根本的に変えたのが、高校卒業後3年間、常に一緒だった友人が東映動画長編アニメーション好きで、池袋文芸座地下でのオールナイト東映長編5本立てに行こうよと誘われたことがターニングポイントになる。画質が悪く内容も冗長な「西遊記」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」「少年ジャックと魔法使い」が続き、ノスタルジアのみで楽しんでいる友人に比べこっちは退屈でもう限界だった。しかし4本目が、大塚康生が初の作画監督、同じく初監督の高畑勲、そして高畑のアイデアを全て具現化し中心となった場面設計の宮崎駿(森さんの話では宮崎さんの出現はモーツァルトのようで、諸君ひれ伏したまえというほどの衝撃だったという)そして映画で最も需要なヒルダという人間と悪魔の間を揺れ動く少女を奇跡のアニメートしたベテラン森康二という日本のアニメ界の後のスーパ―スターが集まった「太陽の王子ホルスの大冒険」だったのだ。もうあまりの感動に言葉が出ない。アニメーションにはこれだけの力があったのかと放心状態になり、友人に5本目はもうみないといってひとりロビーで余韻に浸っていた。そこからはもうこの4人の作品を追うことに必死になる。特に「ホルス」は、未だに自分にとって永遠の1位のアニメーション、その頃、大泉学園の東映動画スタジオで定期的に開かれる上映化で「ホルス」があると2日間の上映期間、午前午後の4回全てを見て帰るといった具合。アニ研の友人(今はアニメ演出家)も大の「ホルス」好きで、二人で全てのセリフを暗記してしまったので、よく遊びは、あるシーンのセリフを言うと、二人で延々とその後の全キャラクターのセリフを続けることが出来た(笑)何よりも「ホルス」の録画が欲しいと思い焦がれていた時に、九州で放送される情報をつかむ。ここでとんでもないことを考えるのが自分で、その放送しているエリアのナショナルのサービスステーションにいきなりテープ代と返送用の送料を同封した手紙を送り、「この「ホルス」が大好きですが九州では録画できません。是非、録画して返送していただけませんか」との手紙を添えた。打診しないのは正攻法だと断られるからだ。そのまま返金されても仕方がないとは思っていたがいつまで経っても送ってこない。半ば諦めていたらVXの巨大テープが送られてきて、なんとそこには「録画に失敗してしまったので、16㎜のフィルムを借りてきてテレシネ装置でダビングして送りました」という涙が出るほどうれしい手紙が。その後、ビデオソフト化されるまでの長い間、各地のTVで放送されるが必ずカット部分がある不完全版で、完全版はそのテレシネのビデオしかなく、縦に長い画面ではあったが長く自分の宝物だった。ちなみにこの強引戦略は、1984年の山下達郎さんのコンサートパンフレットのみ付けられた「山下達郎CM全集Vol.1」(ちなみにこの1st EditionにはCDになった2nd Editionでは聴けないテイクがある)の存在に気付いた時に、中古レコード店には一切なく、途方に暮れた時に、「山下さん本人からもらえれば」と思いつく。山下さん本人はまったく知らなかったが、山下さんがビーチ・ボーイズ、フォー・シーズンズが大好きな事は知る人ぞ知るところ、その両者が共演したシングル「East Meets West」というシングルが1983年にリリースされたもののFBIというマイナーレーベルで本国でも入手困難、日本発売はおろかシングル盤なので輸入盤を売っている店すら1軒もなく、外国から直接2枚買っておいたので、持っていない可能性があるなと山下さんの事務所に1枚送り、「こういうレコードがありましたのでお持ちでなければお収めください。今回のコンサートにはCMのレコードが付属したそうですが行けなかったので、是非次回のツアーにも付けてください」と婉曲な表現で手紙を添えたところ、山下さんからそのレコード付きのツアーパンフをサイン付きで送っていただいた。何のコネもない人間には、図々しい戦略を考えるしかなく、この手のエピソードはかなりある。20代そこそこだったので、今から考えると若い時しかできない無鉄砲な行動だった。

自分が宮崎駿さんらを追い始めた時にはまだ一般的な知名度は非常に低かった。なにしろ作品の中核を担っているのに、いつも「画面設計」というよく分からないクレジットしかされない。人間的に最も尊敬していた森康二さん、そして大塚康生さん、高畑勲さん、さらに「ハイジ」や「母をたずねて三千里」の作画監督だった同じ東映動画出身の小田部羊一さんにどれだけ憧れても、前述のアニ研の友人と親戚(彼も卒業後アニメ演出家)を合わせた3人だけでいったい理解者はどこに?と思っていたところ、日本医大の学祭で「ホルス」「長靴をはいた猫」「どうぶつ宝島」「わんぱく王子の大蛇退治」というこのスタッフの東映長編アニメ4大作品という上映会があってもう夢のチョイスだった。エンドロールにこの5人の名前が出ると会場は拍手喝采、特に画面設計という一番地味な扱いを受けていた宮崎駿さんに最大の拍手が沸いた時に、世の中にはこんなにアニメーションの事が分かっている人がいるんだと本当に感激したことを思いだす。そして1978年にNHKの「未来少年コナン」が宮崎駿さんの初監督作品となりブレイクが始まる。ただ本格的ブレイクはまだで、その頃、多摩にあった制作の日本アニメーションに行くと、毎週、「未来少年コナン」のセルを1400円くらいで販売していてしょっちゅう買いに行っていた。人気があるのはヒロインのラナだが、それよりももっと人気があったのが敵方で最後は味方になるクール・ビューティーのモンスリー。しかし日本アニメーションに集まるファンの間で、みんなにさらに羨ましがられるのが、宮崎さんの作った魅力的なメカの数々でファルコ、特にガンボートが出るともう宝くじを引き当てたような羨望のまなざしが集まった。三角踏にエネルギーを送る人工衛星は出たという噂はあったが、最高人気のギガンドは出ていない。引きだから出る訳がない(分かる人は分かる)。翌年の映画初監督作品の「ルパン三世カリオストロの城」が大ヒットすると状況は一変、1980年のTVの「ルパン三世(第2シーズン)」の最終回とその少し前の2回を宮崎さんが担当し、そのセルを販売すると告知された時には、会場前は大行列、セルは袋に入っていて選べず、開けたらルパンが走っている横顔だけだった。こうやって手に入れたセルだが、なぜか1枚も残っていない。いったいどこに行ったのか、引っ越した時に紛失してしまったのか…。先日、「まんだらけ」のオークション結果で、「天空の城ラピュタ」(ジブリ作品で一番好き)のシータの原画の落札価格が148万円、「トトロ」のネコバスのセルが81万だったのを見て、ああ、なんてもったいない事をしたのかと、残念さがつのった(笑)

そして1981年になってついに自分でマンガとアニメーションのミニコミを作りたくて「漫画の手帖」の編集人になり、まず知人の紹介で森康二さんのインタビューを掲載、森さんの紹介で大塚康生さん、小田部羊一さんのインタビューがつぎつぎ実現できたが、宮崎駿さんだけは森さんは「大塚さんと仕事をしている(未来少年コナン、カリオストロとずっと作画監督としてコンビだった)」から大塚さんに頼みなよ」。大塚さんの所へいくと「えー森さんが先輩なんだから森さんに頼んでよ(その時、宮崎さんは大塚さんと離れ「名探偵ホームズ」をやっていた)」と押し付け合い。お二人が異口同音に言うのは「ミヤさん(宮崎さん)は気難しいから」。これは難敵だ。第1話が完成していた「名探偵ホームズ」が権利関係で許諾が取れず3年間も塩漬けになるという今では考えられない状態の中、宮崎さんはさらにイライラしていると容易に推測されていた。前にも書いたが、こうなったら禁じ手を使おうと、所属していたテレコムに直接電話をかけ、「佐野ですが宮崎さんをお願いします」「あっちょっとお待ちしてください」「もしもし宮崎ですが」「すみません、はじめまして。私、「漫画の手帖」というミニコミを作っている佐野と申します。今まで森康二さんと大塚康生さんのインタビューを取らせていただいたのですが、是非、宮崎さんにインタビューをお願いしたいと思いまして電話いたしました」「ああ、いいですよ」とあっさりOK。見知らぬ無名のミニコミなのに、そういう事は一切関係なく、快く受けていただけた。宮崎さんの話はとても面白く、「漫画の手帖」1号分では惜しすぎると、その後4回連載したほど。「漫画の手帖」での森康二さん、大塚康生さん、宮崎駿さん、小田部羊一さんの4回のインタビューは、このミニコミのハイライトの一つだったと言える。この4人はアニメーターとして比類なき存在で、優劣などないレジェンドだが、その中でもっとも年配の森康二さんのアニメートが最も天才だと確信している。「ホルス」でのヒルダの眉ひとつわずかに動かすだけで内面を描く技術は神業。宮崎さんの女性キャラは森さんのキャラを明らかにオマージュしているので、是非、東映動画長編を見て欲しい。森さんは必ずご自身で描いた動物のイラストで年賀状を返していただき、ご病気になっても出してくださった。今なお、見習うべく自分にとっての偉人が森さんだ。

違法行為だが、アニメのソフト、特にこの4人の初期作品がビデオになるなど想像もできない時代、2,3か所の図書館から16㎜フィルムを借りてきて、渋谷のスタジオで、テレシネ装置でβⅠでダビング、10万以上かかるので10人有志を集い均等割りでダビングしたビデオを渡していた。何しろ元がβⅠだからダビングでもクオリティが下がらない。こういう貴重なビデオを揃え、また凄いレアビデオを持っている人がいるなどの情報も集め、「漫画の手帖」でお世話になったマンガ家、アニメ関係者、ライター、ゲストを招いて、発行人のご自宅でオールナイトのビデオ上映会を複数回開いた。発行人の方は大変な資産家で1982年頃にそのために巨大なプロジェクターを購入、家も広いので30人ぐらいでも見られる部屋があり、持ち寄ったビデオで大いに盛り上がった。その時に初めて「ウルトラセブン」の欠番「遊星より愛をこめて」を見て、持ってきた人以外みな初めてなので、息を詰めて見ていたもの。まだプロになる前、学生時代に庵野さんら大阪芸大のスタッフが作った「愛国戦隊大日本」「怪傑のうてんき」「帰ってきたウルトラマン」はそのクオリティの高さと演出の上手さで大喝采だった。そして宮崎さんが「名探偵ホームズ」の第1話を海外用のプロモーションに作った英語版が、声優の声も最高、この時点ではお蔵入り状態なのでこれも大喝采だった。このビデオ、10年以上探しているのに未だに見つからない…もちろん、公になったことがない。こういう上映会に多くの方を招いて親交を深め、またマンガ家の方同士も初めて話す場であったり、こういう努力が原稿料のないミニコミの「漫画の手帖」を続けていく大きな力になっていた。

「漫画の手帖」の中核はやはりマンガ。そちらに話を移そう。1979年に奇想天外社から出た吾妻ひでおさんの「パラレル狂室」「不条理日記」を買って、人生が変わった。今まで読んだことないSFマインド溢れるマニアックなギャグの連続。そしてキャラクター、特に昭和30年代の手塚治虫や石森章太郎を彷彿とさせる、最も魅力的なフォルムの美少女達。まさに吾妻ひでおの出現は、ファンだけでなくこの当時の多くのマンガ家にとってもカリスマだった。あの手塚治虫さんもライバル視するほど。自分が「漫画の手帖」に参加した3号がで紹介したのが吾妻ひでお同人誌作品特集だった。まだどこも取り上げていなかったので大ヒット、それで1981年から1991年までの11年間、5号からVANDAを始める33号まで編集人として全てフリーハンドで編集人をやらせてもらった。版下と営業を、別の発行人がやってくれたので、VANDAより楽でやれたのは確か。ただのマンガ好き、アニメ―ション好きの一介の学生が売れるミニコミにしていくのは、人間関係が全てだった気がする。この「漫画の手帖」で、リレーマンガというまったくプロットをあえて決めずに次のマンガ家の方に続きを描いていただく「ぬいぐるみ殺人事件」という連作があり、全てプロのマンガ家にタダで描いていただいた。第1回は文:新井素子さん、絵:ふくやまけいこさんからスタート、吾妻ひでおさん、とり・みきさん、ゆうきまさみさん、高橋葉介さん、魔夜峰央さん、出渕裕さん、中山星香さん、かがみあきらさん、伊東愛子さん、火浦功さんなど19人のマンガ家と作家の方で連作し、案の定ストーリーはハチャメチャになったが最後はしりあがり寿さんが見事に締めていただいた。漫画の手帖増刊でまとめた本を作ったが瞬時に売り切れ、そのまま増刷はしなかったため、伝説のようにマンガファンの間で語っていただいて、復刊ドットコムという会社に非常に多くの復刊リクエストが集まったので単行本で復刊してくれたほど。この連作は「漫画の手帖」のハイライトだったが、その中のマンガ家でいくつかの思い出エピソードを。

    吾妻ひでおさんは、最も描いていただきたかったカリスマ。ご自宅へその同人誌の特集やアニメの美少女を集めた特集などお送りし、何かお描きいただけないかとお願いしたところ、まず文字だけの「別のハガキが来ますので少し待ってください」のハガキが届き、しばらくしてもう本の表紙にしても余りあるほどのクオリティのラナ(未来少年コナンのヒロイン)のカラーイラストが2枚も届き、OKの返事。あまりの素晴らしさに家宝にしていたが、後に吾妻さんの単行本にカラー掲載で提供させていただいた。吾妻さんの原稿を受け取りに深夜、練馬のご自宅に伺ったが、住所が分からず、また畑が多かった深夜の大泉学園で前を歩いている女性に後ろから「すみません」と声をかけたら走って逃げられてしまった(笑)

    とり・みきさんは昔、下北沢に住んでいて、何度もお邪魔させていただいた。とりさん達は一時、「時をかける少女」主演を期に原田知世さんにドはまりしてプロだけの同人誌を作って大林監督と原田さんにプレゼントしたほど。1983年の大みそかだったと思うが、とりさんの家へいくとゆうきまさみさんも来ていて、突如、原田さんが主演していたTVドラマの「セーラー服と機関銃」の舞台となった横浜のバーに行こうとその頃自分が乗っていた黄色のシティで高速をすっとばして行った思い出がある。自分はいつも車で移動していて常に路駐、膨大な路駐時間からは少ないかもしれないが、交通違反は全て駐車違反で7回切符を切られた。だからこの日もすぐ車で行けた。そのシティだが、「漫画の手帖」のオマケ企画の「夏の音楽」で対談し、そのあとに対談相手のとりさんとたきたかんせいさん(とりさんのマンガのキャラクターだが実在の人)と一緒に晴海へ行って、私ととりさんが好きなビーチ・ボーイズ風の写真を使おうと、私が運転席、とりさんとたきたさんがボディの上に乗って指をさし、『Surfin’ Safari』のジャケット風に撮影したが、案の定、天井がボコっとへこんでしまった。車の中から上に思い切り叩いたらボコッと音がして元に戻った(笑)私の結婚式には何かビーチ・ボーイズの歌をこの3人で披露しようと練習したが、たきたさんはファンではなく、音程がとれないので、なるべくハーモニーの音が動かない曲で探したら「Wendy」になり、オケはとりさんが完璧に仕上げてくれ、カセットで流しながら式で3人で歌った。その時のとりさんのMC「えーこの曲は失恋の歌でして、選んだ責任は全て新郎にあります」(笑)

    高橋葉介さんは、「マンガ少年」の「夢幻紳士」を見てその絵の美しさに惚れ込んだ。まだお会いする前だが、「漫画の手帖」の裏表紙に「夢幻紳士」がいかに素晴らしいかを書いてそこに主人公の「夢幻魔実也」のイラストも載せた。私が最初に入院したのが1984年で1か月入院したのだが、ベッドのテーブルにその「漫画の手帖」を何気なく置いていたら、ひとりの看護師がそれをみて「あら、まみや君!」。マイナーな雑誌だったので驚いて「知っているんですか?」と声をかけた。それが今の妻である。高橋さんのご自宅には家族ぐるみで何度もお邪魔していて、ある日大雪となってしまいチェーンも持っていなかったのに夜の246を走っていたら急にハンドルのコントロールが効かなくなり景色がぐるぐる回ってヤバいと思ったがぶつからず、ああ良かったと思ったらフロントに遠く見えるのはヘッドライド。これこそヤバい、180度回転しているじゃないか!何とか後続車もゆっくり走っていたのでなんどか切り返して少し大げさだが命拾いした。

    しりあがり寿さんは「エレキな春」の単行本での衝撃的なデビューで、とり・みきさんなど多くのマンガ家の方にとって最も気になる、マンガ家になっていた。その時に所属出版社の編集者さんの好意で、「漫画の手帖」の企画でのプロ野球対談に参加していただけることになった。あんなハチャメチャなギャグを書くのに大企業のエリート・サラリーマンという情報は聞いていた。みんなわくわくしながらしりあがりさんの登場を待つと、七三の髪型にメガネ、スーツにアタッシュケースのよう見えたカバン、もう非の打ちどころのないカッコいいサラリーマン姿で現れ、分かっていながら拍手喝采したい気分だった。野球対談は自分も含め一騎当千のプロ野球ファンが集結したのでマニアックな選手の会話で大いに盛り上がった。特に活躍しなかった外人選手の話題なんて、最高の話題になる。日拓ホームフライヤーズの七色のユニフォーム、太平洋クラブライオンズのアメフトのような前が番号だけのユニフォーム、昔のドラゴンズのノースリーブ・ユニフォームなど思い出すことが多く、その企画はその後も続いた。なお、キリンのハートランドビールは社員時代のしりあがりさんのデザイン。

    魔夜峰央さんは先のオールナイトビデオ上映会にいらっしゃったのだが、そこで高橋葉介ファンクラブの代表の女性と知り合いになる。たしかここから半年くらいで入籍のハガキをいただいて大いに驚いたもの。その後、家族でディズニーランドに行った時に「佐野さん」と声がかかり、振り向くとダンボのところに魔夜さんと奥さんが並んでいてしばらく立ち話をしたことを思いだした。もちろんあのサングラス姿だった。

    20代で急逝してしまったかがみあきらさん。美少女を描くことが得意で一気に売れっ子になった。その頃、麻布十番のマンションに住んでいて、遊びに来てというので、一番多く遊びにいっていた。アニメもマンガも映画もロックも好きでともかく話があった。夜の10時ごろ行って車はずっと路駐、かがみさんはずっと机に向かって仕事そしていたが、かがみさんのコレクションのビデオを見たり、CDを聴いたりして、話かけてももちろんOK、人懐こく私のような多趣味でそういう話に花を咲かせることが好きな方だった。かがみさんにダビングしてもらった1983年から3年半放送された怪物ランド主演の「ウソップランド」という深夜番組の中での「懐かCM」というコーナーの部分だけを集めたベータのテープは今でも宝物。この時代での懐かしいCMなので他では見られないもの多数。そのかがみさんは仕事が忙しくなりすぎて不便な麻布十番から高田馬場へ引っ越しされ、私は高田馬場には一度も行けないうちに室内で急逝してしまった。

何人かのマンガ家の方のエピソードを書かせていただいたが、マンガではないがイラストと文では江口寿史さんや山田ミネコさんなどもお描きいただいた。「漫画の手帖」は発行人の方が印刷費さえでればいいという考えだったので150円という安価をキープし続け、18号では販売部数が1万部という驚くべき水準に達してその年のコミケットの売り上げ第1位にランキングされた。(毎回アンケートで販売部数の申告が必要で、次回のパンフで売り上げベスト10が掲載されていた)そのため、コミケでは常に壁サーと呼ばれる壁を背にしたゆったりとしたスペースが用意され、VANDAになっても2年ほど行ったので、12年間のコミケットは楽な思い出しかない。

こういう本を続けるのにはマンガを常に集め続ける必要がある。資料がないと次のネタは作れないし、自分自身も好きなマンガが欲しい。その頃にすぐに注目した、前述のマンガ家以外では諸星大二郎、大友克洋、星野之宣、高橋留美子、江口寿史や、萩尾望都、大島弓子、吉田秋生、倉多江美といった新進気鋭のマンガ家の作品はリアルタイムで入手できるが、「ファイヤー!」より前の水野英子の主に昭和30年代の掲載少女誌や、矢代まさこの貸本の「ようこシリーズ全28巻」、そして単行本未収録の吾妻掲載誌など数多くのターゲットは古本屋と古書展で入手するしかない。古本屋はマンガに関しては神田ではなく高田馬場がメインだ。週に3日は通っていた。しかし貴重本は古書展に出る。専門書しかないお茶の水の古書会館の古書展ではなく、毎月のようにあったデパートの古書展だ。先に会場の階を下見し、エスカレーターを駆け上がるか、エレベーターが速いか作戦を立てる。多くは開店と同時にエスカレーターを駆け上がり、ライバルたちとの戦いに勝てば、貴重本は総取りだという場合になる。いつも行動を共にしていた友人以外に、古書展では一人増え最低3人、多ければ4人。こっちは混成軍だが、敵は別大学のグループだ。ただ敵であってもいらないものを融通することがあり、その中の一人とは今でも年賀状を交わしているほど。集めているものが違えば同じグループで行動できるが、バッティングすれば敵となる。その頃は時々1960年代の「ティーンビート」や「ミュージックライフ」が数百円で売っていて、好きなアーティストが載っていると買って、ビーチ・ボーイズのインタビューが載ってるなとか、フーのいい写真が載っているなと思うと、なんと本をばらしてそその部分だけをファイリングしていた。今考えるともったいないことをしたものだ…。そのうちマンガの専門店もできた。その中で画期的な店はなんといっても1980年に中野ブロ―ドウェイの2階という客のこない場所で小さなスペースで開業した「まんだらけ」。売れないガロのマンガ家の古川益三さんが始めた店だったが、それまで持っていくと「全部で〇〇円」と言われる古本屋の買取が、11冊これはいくらと買い取り価格を言ってくれ、いらないものはいらないと返してくれた。そして何よりも高く売れる本は1冊何万円も出した。有名な藤子不二雄のデビュー本「ユートピア」は180万という値段が付いたほど。この高額な買い取り価格は全国に広まり、全国のコレクターから買い取り希望が殺到し、店は他店にはない貴重本がずらりと並ぶようになって一気にまんだらけはメジャーとなる。まだメジャーになりはじめた頃には、古川さんの家まで遊びに行ったことがある。国領のこじんまりした都営アパートだったが、今やプール付きの豪邸に住んでいる。まんだらけの隆盛は、小さい頃から知っているだけに感慨深いものがある。

よく郊外を回ったのは、貸本屋が閉店したという雰囲気の店を捜して閉まっているカーテンの隙間からマンガ本を確認、あとは電話をかけるか呼び鈴を押して、大学の漫画研究会ですが研究のために本を見せていただきたいといって頼んで開けてもらって、いい本だけ売ってもらう作戦だ。しかしこれは他グループも回っているので、行ってみたら先客にいい本をごっそり買われていたという事も多々あること。その中、練馬の古本屋が貸本屋をそのまま買い取った本が倉庫に入っていて半日だけ見せてくれた。倉庫を開けると高さ3m近くが古いマンガの貸本本。梯子でその山の上に乗り、炭鉱を掘る耕夫のように本の山を掘り進み、99.9%がクズ本の中、いくつかの宝石を見つけた。残念ながらダイヤモンド級はなかったが、ルビー、サファイア級の本はあった。古い本の埃で全身真っ黒、まさに炭鉱夫だったが、コストパフォーマンスは悪かろうがあれだれワクワクした瞬間は無い。

長く書かせていただいたが、友人との3年目の終わりに、相手から「俺、大学辞めるわ」と言われ、その時にああ、こいつと一緒じゃいけないなと思って「俺は行くわ」と言って袂を別った。その3年間、日中のほとんどをその友人と一緒に過ごし、本などを買って消費するだけではすぐに破産する。そのためマンガ本のコレクター達に、見つけた古い雑誌などを安く買って相場で売り、差額が大きい場合が多く、二人の食費や交通費、本を買うお金までこういう「転売」で賄っていた。マンガ以外でも、SF本は本屋で初版だと高く売れるので、普通の古本屋では探してこれも転売していた。(古本屋で本をさっと抜いて奥付で初版かどうかだけ確認し、初版じゃない本はすぐに戻すという作業を黙々と続けている人は、「背取り屋」といって本の転売で生計を立てている人だ。)学校へ行くと、購買部に中学生の頃、どうやっても入手できなかったビーチ・ボーイズのオリジナル・アルバムがみな日本盤でリシューされているではないか!まさに浦島太郎、全部買ってきて、それから音楽へ戻るきっかけになる。学校で7年生なんてめったにいないので、学籍番号を出席で読み上げる奴がいて、6年以上はみな声の方向に振りかえる(笑)卒業前の適正テストを全部本音で書いたら、「あなたは社会人に適していません」と返ってきて笑った。建前で書けばいい評価になるのは分かっていたのであえて試してみた。就職部にも見捨てられたので、求人票から転勤の少なそうな会社(本つくりに支障が出るので)を選んで面接では「漫画の手帖」をドンと出すとみな面接官は驚き、「いったいこの本がうちの会社に役に立つんですか」と必ず聞くので「もちろん役立ちません。ただこういうミニコミを1万部作っていたので、他の遊んでいた学生より創作能力はあります」など言いたい放題言い放って帰ったが、けっこう合格をもらった。だから面接など少しもあがらない。ある意味、何も失うものがないので「無敵の人」だったのかもしれない。まあ色々あってこれらの会社には行かなかったが。

こうして1991年の暮れからVANDAをスタート、2017年2月1日、2016年4月14日に書いたエピソードにつながる。「漫画の手帖」時代は今から30年以上前。きちんと資料を残しておけば、単行本に出来たなと思う連載もあった。東京はもちろん出かけた先で変わった缶ジュースがあると買って、味や色などの1本ずつ記載した連載は、缶も写真も捨ててしまったため、ずっと後に同じ企画の本が出てもったいないなと。世界中の変わった果物を買ってきて品評する企画や、変わったケモノや鳥の肉を買って焼肉にした企画、思いつく限りの酒を揃えた利き酒回もあった。ここでは知人のお坊さんが20数万もするブランデーの「ルイ十三世」を惜しみなく提供、度数が96(注射の時の消毒用アルコールの度数が70だから…)のウォッカ、スピリタスを一気にあおって泥酔した人間がいた。また、まだ数多くのハンバーガーチェーンがあった時の分解したイラスト付きのグルメ評も。雪印の「スノーピア」、グリコの「グリコア」は誰も知らないだろう。明治の「サンテオレ」や「森永ラブ」「デイリークイーン」「アービーズ」は覚えている方もいるかも。こういう企画もひとつひとつの写真を残していなかったのが失敗。色々なニッチな本を見ると、納豆の包み紙まで全部残している人がいるから、まだまだ甘かった。(佐野邦彦)


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