2010年9月28日火曜日

★軍艦島・長崎・吉野ヶ里ツアー2010

軍艦島・長崎・吉野ヶ里ツアー2010

佐野邦彦





 長崎県の南西17.5kmの沖合いに浮かぶ廃墟の島、通称・軍艦島(本当は端島という)は、みなさんはその異様な姿をどこかテレビなどでご覧になってご存知のことだろう。
たった南北480m、東西160mしかないこの小さな岩礁の島に、かつては5267人もの人が住んでいたという。良質の石炭が採れるこの島は明治から本格的に三菱が炭鉱として開発し、従事する多くの抗夫やその家族を住まわすため、なんと大正5年に日本初の鉄筋コンクリート7階建ての高層住宅が作られた。こんな昔に鉄筋のアパートが作られたなんてそれだけでも驚きだ。その後も急増する人口を養うため、次々と高層アパートが作られ、最初から計画的に作られたわけではないので迷宮のごとく、SFに出てくる近代都市のように島は成長していった。緑がほとんどないこの島にビルが林立し、その姿を海上から見ると軍艦の姿そっくりだったので、この島は「軍艦島」と呼ばれるようになる。特に島の中央部の大きな煙突から給湯用ボイラーの黒い煙が沸き立つと、軍艦そのものに見えた。
ところが石油へのエネルギー転換により昭和49年に廃坑となり、84年間続いたこの三菱の「企業城下島」から、住民は全て去っていった。コンクリートの高層住宅群が残るこの工業都市跡は、その驚異の密集度もあいまって荒れ果ててもその寂寞とした光景が逆に魅力となり、密かにファンを増やしていた。ただ、なんの航路もなかったため島に渡るのは困難で、私個人は憧れの地として現在の佇まいを記録したDVDを見て保存するなど、軍艦島ファンの一員として地道にコレクションを続けていた。その軍艦島に遂に転機が訪れた。
2009年4月に、上陸解禁となったのである。昨今の廃墟ブームが後押ししたのかもしれない。波高0.5m以上、風速5m以上、視程500m未満、このいずれかに該当すれば上陸禁止と厳しい条件がありながら、この1年間で6万人の観光客が上陸を果たした。大人気である。先月に八重山へ行ったばかりだが、一昨年の7月から貯め始めたJALのマイルがもう12万マイルも貯まっている。期限もあるしそろそろ使おうと思っていた。これは軍艦島で使うしかない!と急遽、夏休みの残りを使って長崎・軍艦島ツアーに出発することにした。海で泳ぐわけではないこのツアーに子供達はあまり興味がなく、夫婦だけで行くことにする。では出発しよう。

☆9月10日(金)

 予約が遅かったせいもあるが、やはり「タダ券」だといい時間は空いていない。金曜の最終の午後4時発、それしか空いていなかった。そして帰りは月曜の朝一、8時15分発である。だからもったいないが金曜の午後と、月曜は一日休みをもらう。
 長崎空港へは午後5時55分に付き、荷物は最小限に減らしていたので預ける荷物がなくすぐに空港の外に出られた。空港から市内までは高速バスで40分だ。往復だと1200円(期限なし)のチケットを買い、バスに乗り込む。
市内の新地前というバス停で降り、ホテルへ向かおうとするが、その道は中央に市電が走り、バスも走っているのに、横断歩道に信号機がない。でもみんな平気で道路を渡っていく。同じように道路を渡り始めるとバスも車もみな止まってくれる。長崎は道が狭いので、人も車も市電も、お互いを思いやって調整しているのだ。これは目からウロコだった。
この市電、滞在中、何度も乗ったが、信号でその都度停まるし、交通ルールは車と一緒。時々専用線の場所もあるが、車と一緒に走る時は、車と同じである。そしてさらに驚いたのは、電車の中にバスと同じ降車希望のボタンがあることだ。押さないで、また駅で待っている人がいないと「通過します」と通り過ぎてしまう。つまりバスと同じなのである。歩いてすぐの場所に上町駅がある私にとって、環七の信号で止まる世田谷線のローカル度が気に入っていたが、この長崎市電はレベルが違った。まさに市民の足だ。120円と安いし、とても気に入ってしまった。市電はいいね、ホント。
私は極端な性格をしていて、目的地までは最短でいかないと気がすまない。だから沖縄の離島間では船があっても飛行機があればそちらを使う。時間の無駄がないのでスケジュールが立てやすいというのが最大の理由だが、ともかく飛行機は早いから好きだ。だから電車の長旅はまったく興味がない。特に電車が利用できても九州、北海道は飛行機以外考えられない。ただ、こうやって目的地に付いてしまえばバスよりは市電。そのローカルな感じが魅力になる。
 ホテルは安い上に温泉にも入れるドーミーイン長崎を使う。私自身は熱い風呂が苦手なので温泉にはいかない(部屋の風呂で十分)が、妻が好きなのだ。朝食は帰りの日など時間的に食べられないので、素泊まりプランにする。すると信じられないほど安上がりだ。妻には申し訳ないが、私はいい旅館で、部屋でご馳走を...なんていうのが嫌いで、外へ行って食べたいものを食べるのが好きなので、旅館はおよそ利用したことがない。そして一刻も早く外へ出かけて、行きたい場所に行きたいという人間なのである。
 その点、このホテルはロケーションがいいし、なにしろ中華街のまん前なので、外食にもってこい。
 荷物だけ預け、さっそく日本三大夜景という稲佐山(残りのふたつは函館と神戸)へ向かう。なぜ、今日かというと、明日の天気は晴れのち曇り、あさっては曇り時々雨とイマイチなので、晴れている今日に行くしかないと即断したからだ。夕食なんて二の次だ。
稲佐山にはロープウェイがあるそうだが15分に1本じゃ少ないな。でもそのロープウェイのある場所まで行くのにバスかタクシー。バスだと帰りはもう便がない...。とりあえず長崎駅まで出てみようと、まずは市電に乗る。駅前にはタクシーが並んでいるので、それに乗って稲佐山へ行きたいと伝えると、稲佐山へ行って展望台で待っていて帰りはホテルまで送ってくれるパックがあり、4500円だという。これはお得!行きの車内で運転手さんが、いつもだと黄砂で霞んでいるんだけど、台風が来た(2日前に長崎の近くを通過)あとだから、空気が澄んでいて今日はきれいですよ、と太鼓判を押してくれる。
その言葉の通り、展望台からの夜景はため息がでるほど美しかった。長崎はすり鉢のような形をしているので家々の明かりが山の中腹まで並び立体的であり、坂が多い町なので安全のため灯りを着けっぱなしにしているので灯りも多い、そして三大夜景の全ての場所がそうだが、湾が切れ込んでいて灯りのない海によって光の帯に形が生まれ、それがアクセントとなって美しさが増している。

昔行った函館もきれいだったが、風があって寒くてゆっくりできなかったっけ。神戸の夜景はそんなに有名だとは知らなかった。一昨年の12月には神戸にいたんだ。クリスマスボウルというアメフトの高校日本一を決める試合(「アイシールド21」だね)で、その決勝に子供が通っている早大学院が出場し、応援しに夫婦で行ったのだ。子供は生物部でアメフト部とは関係なかったのに、日本一がかかっているなら応援に行こうと、衝動的に行ってしまった。その前の年も決勝まで進出したのに関西代表の大産大附属に負けており、今年も決勝戦の相手は奇しくも同じ大産大附属、これはリベンジを果たすしかない。その試合は歴史に残る接戦となり、終了1分前にロングパスによる逆転のトライを果たし、万歳三唱をして都の西北を歌っていたら、終了14秒前に力で押し込まれ再逆転のトライを許し敗戦という、悔しいが手に汗を握る好ゲームだった。この試合をきっかけにアメフトの魅力に目覚めアメフトファンになってしまったほど。ただ、もともと日帰りの予定だったので、夕方5時ごろの新幹線で帰ってしまったが、一泊して六甲からの夜景を見ていけばよかったなどと瞬間にそんなことが頭をよぎっていた。それほど稲佐山の夜景が見事だったのだ。
しばらく見とれていたが、次に夜景をなんとか撮ろうと悪戦苦闘を始めた。デジカメで普通に撮ると露光が足らないので、光の数も量も少ないさみしい写真になってしまう。なんとか夜間撮影用のモードを探しだしたが、今度はシャッターが切れるまで4秒くらいバルブが開いているので、手持ちだと何度撮っても光がぶれてしまう。手すりにカメラを載せて撮ってもぶれる。結局、10枚以上撮ってまあまあと言えるのはこの1枚だけ。広角でないので夜景の一部だけだ。長崎に行ったら是非、自分の目で見てきて欲しい。やはり自分の目だけがその美しさを、正しく捉えられるから。

☆9月11日(土)

 軍艦島ツアーの予約はインターネットでできる。やまさ海運の「軍艦島上陸コース」の予約が必要だ。1日2回船が出て、それぞれ180席あるのだが、1ヶ月前に見たのに予約が取れたのは土曜の午後便と日曜の午前便のみ。それも数席が残っていただけで、今日の午後の方はあとから3席だけキャンセルがあってやっと予約が入れられたという大人気ぶりだ。だから今日の午前は長崎市内見物をすることにした。市電に乗ってまずは国宝の門が2つあるという崇福寺へ向かう。ここは長崎に来訪した中国人達がキリシタンでないことを幕府に見せるために作られた唐寺である。ここへ航海の神で守り神である媽姐をかついで滞在中、媽姐堂に祭り、また帰るときには爆竹などを鳴らしながらにぎやかに持ってかえったという。ちなみにこの媽姐は女の神様で、船に女を乗せると嫉妬して大時化を起こすとか。だから船は女が乗れないという掟ができていたらしいのである。土曜日だというのに誰もいないお寺は閑散としていた。


国宝の門も仏像も媽姐堂も真っ赤だったり、キンキラだったり、真っ青だったり、日本のそれ(その当時はこういう色だったらしいが)とはまったく違っていて、まさに中国。このお寺は珍しく全て撮影自由だった。次に同じ唐寺の興福寺へも行くが、ここも本殿の中は中国そのものだった。撮影はできなかったが中国皇帝のような媽姐が祭られていて、その横に千里先の風向きを予知する大きな耳を持つ「順風耳」と、千里先を見通すことができる三つの目を持つ「千里眼」の二鬼神。まったく崇福寺と同じだ。ああ、ここは中国なんだ、異質だなと再確認して2つの寺を後にする。
続いて近くにあるめがね橋へ行く。日本初の石作りの2連アーチ橋で、川面に映る佇まいが美しい。1634年にその当時の興福寺の住職が建てたそうで、どうりで近いわけだ。橋の中央部から川を見下ろすと下に30cmほど出っ張った場所があり、欄干からコインを落としてその上にうまく乗ることができれば幸運が訪れるとかどこかに書いてあったので10円玉を落としてみた。すると石の部分で弾んだが、その周りに生えている植物の根に引っかかり、ギリギリで止まった。ラッキー!


今、就活中の長男よ、きっといいことがあるぞ。そのあとは電車に乗って大浦天主堂へ。実は長崎に行く前から、私は自然が作った風景が好きなのであって、人間が作ったものにはあまり興味がない。ましてや欧米人の作ったものにはさらに興味がなく(皆さんご存知のとおり、熱狂的な米英のロック&ポップミュージック・ファンなのにね。音楽は死ぬほど好きだがその文化には興味がないので、欧米に行きたいと思ったことがない。ちなみに終生、憧れの地はギアナ高地をかかえる南米で、他にウユニ塩湖、レンソイスの大砂丘、イースター島、ガラパゴス諸島、ナスカ、マチュピチュそして中米メキシコのマヤのティカルと夢に描く場所ばかり。宝くじでも当たればすぐにでも半年くらいかけて回りたい)教会なんて...と思っていた。事実、御茶ノ水のニコライ堂なども入ってはみたものの特に感銘は受けていなかった。だから大浦天主堂にもほとんど期待していなかったが、これは大きく裏切られることになる...。





 天主堂の中はステンドグラスからの極彩色の光の帯が、雲から太陽が顔を覗かせるたびに司祭が立つ場所に降り注ぎ、実にきれいだ。この演出は凄い。昔の人はこれだけで神が降臨したかのように思えただろう。椅子にこしかけてその光の芸術を眺めていたときに、教会内に流れるナレーションでキリシタンの苦難の逸話を聞く。江戸時代末期の1865年、この教会を建てたフランス人司祭に数人の住民が近づき、そっと自分たちはキリスト教徒です、聖母像を見せていただけないかと声をかけたという。豊臣秀吉から続くキリシタン弾圧の中、250年間もの間、教会も神父もいない中で信仰を守り通した長崎の住民の存在のニュースは世界を駆け巡り、当時のローマ法王は世界的にも類をみないこの出来事に深く感銘を受け、東洋の奇跡として祝福したそうで、見上げると住民達が見ることを切望していた聖母像が目の前にあるではないか。歴史の重みがそこにあり、キリスト教徒でなくても感動する。
そして続いてキリシタン弾圧の歴史館へ行く。本物の踏み絵がいくつもあり、また仏像を模倣したマリア像、仏像の後ろに密かに彫られた十字架など、信者の苦難の歴史に見入ってしまった。これだけ迫害されても何百年も守り通す信仰の力とは何なのだろうか。その中、日本人に絵で煉獄を伝えようとしたド・ロ神父の版画が並んでいたが、これは花輪和一のマンガそのもので思わず見入ってしまった。花輪さん、ここから影響を受けていたのか...。なんか楽しくなってきたぞ。
そしてさらに足を進めるとコルベ神父の記念館に入る。これは驚きだった。コルベ神父とは、アウシュビッツ収容所に入れられていたが、脱走者の見せしめに任意で収容者を選んで餓死させる餓死刑に選ばれた男が自分には家族がいると叫んだこと聞き、望んで身代わりとなることを申し出て、ナチスに殺されてしまった聖人である。コルベ神父の偉業はよく知っていたが、あのコルベ神父がここ長崎にいて、布教をしていたとは知らなかった。長崎にいた頃のコルベ神父の写真に釘付けになり、そこに書いてあったエピソードのひとつひとつを丹念に読んでいく。助けられた男はその重さに長く話すことが出来なかったが、後年、このことを語り継ぐことが自分の使命と思い、語り部となって死ぬまで世界で講演を続けていたという。
私はキリスト教徒ではないが、こういう素晴らしい人のことをじっくりと知ることができ、幸せな気持ちになれた。どの宗教かなどは一切関係ない。肉体ではなく心の「愛」を持った人のことを知ることは喜びである。こういう自己犠牲をいとわない尊い行いは、もちろん後世に語り次いでその徳を広めていくべきだが、こういう超人的な方ではなく、後世にも残ってはいかないが、社会の片隅で支えあって生きるホームレスにも強く引かれている。ホームレスのドキュメンタリーがあると必ず見ているが、何も持たない者だからこそ得られた心の愛がここにもある。もちろんホームレスの一部の人の話なのだが、大量のモノに囲まれ、モノ無しではいられない自分だからそこ、欠けているから部分に強く引かれるようだ。「無一物中無尽蔵」という禅の言葉があるが、何もない中に全てがある−仏教でもキリスト教でも全てを捨てることに真理を見つけている。自分にとってはその境地は最後まできっと無理。でも目指すところは分かる。
なお、このコルベ神父は、普通だと100年以上、認定されるまでに時間がかかる「聖者」として、異例のスピードでバチカンに列聖されている。ここ長崎は原爆の惨劇を受け、そこにいたコルベ神父はアウシュビッツで虐殺される。まったく人間とはなんと愚かしいものか。しかしこういうコルベ神父のような人がいるから、人間を信じる気持ちにもなれる。
 大浦天主堂で思いもかけず胸が一杯になってしまったので、となりのグラバー園はなんとも思わないまま、回り終わってしまった。あ、そうそうこのグラバーさんは、端島(軍艦島)炭鉱の最初のオーナーだったとか。縁はあるな。
あとは午後、いよいよ軍艦島上陸クルーズである。
 軍艦島上陸クルーズ(上陸料込み4300円)は人気があり、やまさ海運の受付ではこれから乗る午後の便のキャンセル待ちに午前便から待っていた人がいるほど。予約しておいてよかったー。
ただ、午前中から少し風が吹き出していたのが気になるところ。早くに乗船したので、軍艦島が見える右側のデッキの席を確保する。長崎港から軍艦島までは1時間弱だ。船内ではずっとナレーションが流れている。放送で指摘されるよりも前に軍艦島が手前の島に重なるように見えてきた。カメラとビデオを交互に回しながら近づく軍艦島を追う。そして遂に軍艦島だけがはっきりと見える。恋焦がれていた島の全景を見て、ドキドキしてきた。なんてカッコいい姿だろう。

廃墟であろうが、見せることを目的としないで、機能優先で作られた、テクノロジーの究極の姿は美しい。変な例えだが、軍用のものがカッコよく見えるのと同じである。無駄が無い。どんどん軍艦島の姿が大きくなっているのに船内放送は、「海の状況によっては上陸できずに周遊コースに変わる場合もあるのであらかじめご了承ください」と、不吉なことを言っている。この9月は上陸率が90%を超える、1年で最もいい月なのだ。ちなみに7月は上陸率が34%と月によって大きくバラつきがある。やまさ海運によると年間平均の上陸率は約7割(運休の1月を除く)、この海の状態なら大丈夫なんじゃないかと、はやる気持ちをおさえながら待っていると、上陸時には2班に分かれて行動するのでこれから軍艦島見学カードを配りますとの放送が。やった!これで上陸決定だ。

ドルフィン桟橋と呼ばれる桟橋に接岸すると乗務員はすばやく飛び降り、てきぱきとロープで船体を固定していく。かなり厳重な固定だ。ここ軍艦島は波が荒いので、嵐の時には7階建てのビルの上をはるかに波が超えて居住者の通路に潮が大量に降り注ぐという。
配られたカードを首からかけ、総勢180人が島へと渡っていった。最近作られたと思われるトンネル通路を抜けると、目の前に小高い岩盤がそびえ、右手に廃墟となったアパートが目に飛び込む。ああ、憧れの島に上陸しているんだ。インターネットで画像を見て、ずっと思い描いていた島の情景、それが目の前に広がっている。島旅にはいつもそういう興奮がある。だから止められない。さらにここは10年以上待った軍艦島だ。
軍艦島はそのSF的景観に憧れたのだが、そういえば24年前に新婚旅行でいったタヒチのボラボラ島は、島の中央にそびえたつ山(オテマヌ)があり、「冒険ガボテン島」のような島に行きたい!という子供の時からの夢を叶えに行ったっけ。昔からずっと変わらないな、そういうとこ。
 島内で回れるのは島の外周の1/5も無い、手すりの中の100m程度の見学用通路だけだ。テレビやビデオで見たそそり立つビル群や、島の岩盤をそのまま利用してくりぬくようにビルを作り自然と人工物が一体となった迷宮都市のような佇まいは、見ることができない。潮で腐食が進み、風化が著しい軍艦島の建物は、危険が一杯なので近くへ寄れないのだろう。長崎市が許可して見学を許しているのだから、安全面重視は仕方のないことだ。でも危険承知で、取材のように足を踏み入れたい!と思っているのは私だけであるまい。
 通路には3箇所で説明する人がいて、詳しく語ってくれる。桟橋から一番近い場所から最初に右に見えた大きな建物は端島小中学校だ。


各学年3クラスずつあったらしい。目の前の岩盤の上に立つのが幹部職員の住宅と貯水槽。この島は水が大事だったので、飲み水には不自由しなかったものの、風呂は共同、トイレも共同で、水を節約していた。炭鉱から出てきて全身煤で真っ黒になった抗夫達も、汚れを落とすのは海水で、真水は上がり湯しか使えなかった。ところが幹部職員住宅だけは各住戸に風呂とトイレがあったそうで、いつの世もエラい人は特別扱いだ。やれやれ。

目の前が開けて見えるのはここが石炭を運び出す拠点だったから。コンクリートの建物がなかったし、プレハブや木造の建物は全て吹き飛んでバラバラになってしまった。中央部の一部残る赤レンガの跡は事務所だったようだ。
そして一番奥の説明場所、ここの目の前に建っていた建物は跡形もないがその奥に大きく見えるビルが、大正5年に作られた日本最古の鉄筋コンクリートアパートの30号館である。


六畳一間の独身寮といったところ。目の前で見たかったビル群や、岩盤と一体化した日給社宅、そこから島の一番上の神社まで登ることができる地獄段と呼ばれた階段など主要な建物はみな見えない裏側に位置していた。これは帰りに海から見るしかない。

 この島の暮らしは快適だったようだ。なにしろオーナーは三菱である。三菱が全ての面倒を見ているので、給料はサラリーマンの倍はもらっていたらしいし、家賃に光熱水費を加えても昭和49年の段階で月に10円も払えば済んだというから、要はタダ同然だったのである。そして学校、幼稚園はもちろん、映画館、パチンコ店、マージャン店、飲み屋から隔離病棟まで備えた病院、神社からお寺まであり、また建物同士は連絡通路でつながり、企業城下町であることから住民同士のコミュニケーションも良く、住みやすかったと元住民の評判はとてもいい

同じ炭鉱でも西表島にあった個人企業が経営していたウタラ炭鉱は、マラリアに高温多湿という劣悪な環境の中、賃金はろくに払わず、たまらず逃げ出すと捕まえてリンチというタコ部屋だったのだが、それに比べると雲泥の差だ。ここ軍艦島では、当時のサラリーマンの三種の神器と言われたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫を多くの家で持っており、さらに当時の写真を見るとステレオや電気炊飯器などもあってかなり裕福な暮らしぶりをしていたといえる。
 我々は荒れ果てた廃墟のビル群しかみたことがないので、この軍艦島の繁栄ぶりが分からないが、人が住んでいた時の写真は「軍艦島 海上産業都市に住む」(岩波書店)で見ることができるので、興味を持った方はamazonで即日、買えるから、是非手に入れて見て欲しい。



ビルの間の端島銀座と呼ばれた通りをひきめきあって歩く主婦の群れ、露天では多くの店が出てそこにも多くの主婦が溢れ、学校の校庭ではナイターで子供が野球の練習をしている。夕暮れの岸壁で釣り糸を垂れる男の後ろには大海原が広がり、そののどかな風景にこの島の暮らしの良い面を感じることができるだろう。
 軍艦島にいられたのはたったの1時間。我々デッキにいた人間は手前から見て奥で終わるので必然的に帰船は後ろになる。だから帰りのデッキはみな先客に占領されてしまった。よって甲板から人の間をぬってしか写真が撮れない。でもご覧いただけるとおり、遠景でのカットは「未来少年コナン」で、バラクーダ号からインダストリアを見ているかのよう(雰囲気だけど)だったし、日給社宅なども見ることができ、少し満足できた。
 帰りに次の日も予備で予約を入れていたのでキャンセルして帰るが、天気が崩れた翌日は上陸中止になっていたので、上陸できて本当に幸運だった。前の日程でも後の日程でもダメだった。今年は与那国の海底遺跡も見られたし、ラッキーが続くな。
 夜は早くにホテルに戻れたので、中華街の蘇州林という店へ行く。「まっぷる」で、皿うどんでもっともトップで紹介されていたからだ。雑誌に掲載されている中華街の人気店の閉店は8時とか早いので、昨晩は行けなかった。大盛りの皿うどんを注文したら楽に2人分の大盛りで、極細めんに具がたっぷりのあんがかかり、旨い、旨すぎる!今まで食べたどの皿うどんよりも旨い。これで確か1200円だったと思う。旨くて安くて文句の付けようがない。感動して明日も行こうと決めた。

☆9月12日(日)

この日、本来は対馬へいく予定だった。この島の北端からは対岸50kmほどにある韓国が見えるというので行ってみたかったのだが、今日は途中、雨が降るという天気予報なので、これじゃ見えないなと、早朝に飛行機のキャンセルを入れる。だいたいそんなに韓国を見たいわけではなかったし、この対馬は南北82kmと広いので一周するのは困難だと言われていた。最北端と最南端ぐらいしか観光スポットがない島なので、片方しか行けないのに1日使うのはもったいないという気持ちもあったたので、特に惜しい気持ちはなかった。
それでは妻が行きたいといっていた佐賀県にある吉野ヶ里遺跡へ行くことにしよう。長崎駅でレンタカーを借り、高速で1時間半くらいで吉野ヶ里へ着いてしまった。意外と近いな。高速の途中で雨に遭ったし、高速を出ても怪しい雲が山の方にかかっているので途中のコンビニで傘を買っておいた。
遺跡は吉野ヶ里遺跡公園の中にあり、駐車場代300円、入園料400円を払って広い広い公園の中へ入っていく。この公園中に、当時の集落がそのまま復元されている。もともと遺跡があった場所に土を盛って埋め戻し、その上に建てているので位置も当時と同じなのである。
入った当初は日差しが強く、何も陽を遮るものがないのでともかく暑い。その中、周辺にある竪穴式、高床式など、教科書で習った懐かしい住居を見て歩く。そして倉と市と呼ばれる倉庫群の集落に入る。ずらりと並んだ大型の倉庫群に、ここ吉野ヶ里が大きなムラだったことを感じることができる。そして南内郭へ入る。高い物見櫓へ上がると、そこをずっと取り囲む柵や堀、遠くまで立ち並ぶ住居にムラというより一国家であったことが分かってきた。


吉野ヶ里遺跡、南内郭の物見櫓から。


突然の雨にけぶるムラ。中央奥でひときわ高い建物が主祭殿



堂々たる北内郭の主祭殿。中国にならい偉い人は北に住む。


最強のパワースポット、北墳丘墓

すると突然大雨が。雨にけぶる遺跡は趣きがあるが、ここで買っておいた傘が役立った。どうも今回はうまくいくな。さらに北内郭へ進むと、大きな主祭殿がある。この中で当時の祀りごとの模様が等身大の人形で再現されていたが、吉野ヶ里の王とそれを囲む多くムラ長が2階では祀りを行っており、3階では祖先の霊の声を聞く儀式を巫女が行っていて、弥生時代の日本の模様がリアルに伝わってくる。
こういったクニの中の大きなクニが邪馬台国であり、そして有力なクニの王が天皇となってこの日本が出来ていったのである。そして王や身分の高い人達が埋葬された北墳丘墓をくりぬいて作った展示室へ入る。発掘された時と同じに甕棺(カメカン)が並んでいるが、この形、これは諸星大二郎の「暗黒神話」で武内宿禰が入っていたタイムカプセルそのものだ!この中に保護液が入っていて...などと考えると楽しくなってくる。なにしろ「暗黒神話」は好きなマンガを10選べと言われれば必ず選ぶ、大好きな作品なので、そんな想像だけで楽しい。
公園を出て、みやげもの屋で、武器の盾に刻印されていた巴形銅器の模様を入っているものを探すがひとつもない。事務所に聞くと、公園内の展示室の中でキーホルダーが売っているはずというので、園内へ戻る。それは受付の人(入場料がないから素通りしてしまう)の横で、買って欲しくないかのごとくひっそりと売られていた。太陽のマークに見えたが、これは沖縄で魔よけとして置いてあるスイジ貝の形を金属に置き換えたものとされていて、ここ北九州を中心に、弥生時代に関東まで広がっており、当時の日本の共通の魔よけだったようだ。






しかし、個人的にはやはり太陽の形にも思える。歴史的にも多くの地で太陽は信仰の対象だった。沖縄で太陽のことを「ティダ」というが、ティダ→テイダ→テンタウ→テントウ(お天道様)に変化したという。沖縄語とヤマトの古語(奈良時代)は共通している単語が多かった。今よりも文化的に密接に結びついていた可能性があり、琉球では最高神は太陽(ティダ)神だったことから、ヤマトでもその影響を受けていたのではないだろうか。
日本全国の遺跡と神話を結びつけた「暗黒神話」や、こういったモノの由来などを思い巡らすと、俄然、遺跡が楽しく見えてくるから不思議だ。このあと、長崎に戻って出島の資料館に行ったが、幕末の西洋からの遺物が中心で興味を引くものはなかった。だいたい今、ブームの坂本竜馬に、今現在は思い入れがない(毎週「週間江戸」を購読している江戸時代好きの私にとって、幕末は今のところ関心が薄い)ので、なんだか退屈な展示だった。
夕飯は昨日の蘇州林へ行き、皿うどんにプラスして長崎チャンポンも注文するが、これも絶品だった。このお店、長崎旅行に行かれたら是非。
翌日は朝、6時20分にホテルを出て高速バスで長崎空港へ行き、10時前には羽田に到着した。何しろ歩き回った旅だったので、その日を休みにしておいて正解だった。初めは軍艦島だけが目的だった長崎−しかし、見所は満載で、町の雰囲気もよく、食事も美味しいし、とてもいい旅だった。まだ見逃した場所もあるので、機会があったら再度、訪れたい場所である。まだマイルはたくさん残っているし。でも次は高千穂峡に行きたいという妻の願いを叶えてあげないといけないかな。いつでも旅行は一人で全てを決めているから、たまにはネ。
 















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