Rod 氏は同時に Discography も送ってくださり、それによってさらに素晴らしいレコードを見つけられました。
このインタビューではまだ Rod のワークスのほとんどが分からなかったため、Joy を単独の質問項目にするなど、今となっては奇異な部分があります。入手したレコードをもとに、さらにこの後、Rod氏に質問を続けていきたいと思っておりますのでお楽しみに。
なお Discography については来年のVANDA28号に掲載しますので、本誌をご覧ください。 (VANDA佐野邦彦)
あなたのバイオグラフィについて教えてください。
ある日、ぼくたちはみんな学校を辞めて夢をかなえるため都会へと進出したんだ。もちろん、それはヒット・レコードを作るためだ。Brill Building のブロードウェイの1650番や1697番で、とにかく当時ぼくたちは誰かにぼくらのデモを聴いてほしくて、アポなしで突撃しまくったんだ。そんな時に幸運は訪れた。幸運にも Jim Gribble という当時結構いけてるグ ループをマネージメントしていた人の目に止まったんだ。彼はとてもぼくらのことを気に入ってくれて、レコーディング・マネージメントを引き受けてくれたんだ。Terry Ketcham と入れ替わりで Joe Venetucci がグループに加わり、ぼくたちは次のレコードを Jim Gribble と Stan Vincent のプロデュースの元、The Long Island Soundsというグループで録音したんだ。レコードは Down Records からリリースされた。George Goldner の立ち上げた新しいレーベルで、その名の通り、落ちていってしまったレーベルだった。確か記憶では、ぼくらが最初で最後のリリースだった。
ぼくの音楽業界でのはじめてのフルタイム仕事は Ultra-Sonic Recording Studio での見習いのオーディオエンジニアとしてだった。Ultra-Sonic は Long Island に出来たばかりのスタジオだった。そこのオーナーのBill Stahl と親しくなって幾つかのデモをとらせてもらった、そして彼に頼んで雇ってもらったんだ。マイクや機材ののセッティング、スタジオの掃除やセッションの後の灰皿の掃除なんかをやったね。でも、ぼくはすぐにやり方を覚えて自分でセッションを受け持つようになったんだ。初めて George "Shadow" Morton に会ったのも、 ぼくのエンジニアとして初めての No.1 ヒットになったShangri-Las の "Leader of The Pack" も、このUltra-Sonicでの事だった。John Linde と Pete Antell に会ったのもここだしThe Valrays がレコーディングキャリアを開始したのもの、やっぱりこの Ultra-Sonicだった。
ぼくはレコードセールスの印税や、アドヴァンス料金、契約金などに頼っていてはダメだと早いうちから学んだんだ。だからこそエンジニアとして長い事続けていられて、収入も得る事が出来ている。1964-1965年頃に6ヶ月だけ the U.S. Coast Guard Band に居た。そこから帰って間もなくニューヨークで最初の仕事の依頼が来たんだよ。
Brooks Arthur はニューヨークで一番のエンジニアで僕の良き指導者だった。プロデューサーの Hugo (Peretti) & Luigi (Creatore) は RCA レーベル からRouletteレーベル に移ってきたばかりだった、だから Roulette Studio を運営するのにエンジニアが必要だった。Brooks は僕が適任だと思って僕にやらせてくれた。Ted Daryll に出会ったのも The Eastern Scene が結成されたのも、正に Roulette 的な偶然だった。
Roulette から Allegro Recording Studios へぼくは移った。Allegroは60's には最も熱かった沢山のヒットソングがレコーディングされたスタジオだ。そこは Laurie Records の所有物でヘッドエンジニアは Bruce Staple だった。60's の後半にぼくはそこでエンジニアとして数年を過ごした。Dion, The Chiffons, Tommy James & The Shondells, The Royal Guardsmen, Mitch Ryder & The Detroit Wheels, The Critters, The Innocence, The Tradewinds, Bobby Bloom や The Tokens 等がその頃録音された人たちだ。Allegro は 1650 Broadway(Brill Buildingがあった場所)という音楽業界では有名な場所に位置し、その下に僕たちはいたんだ。そこでは地下鉄(=おそらく上記のアーティストのこと)行き来する音なども当時聞こえた。そこでの録音のクオリティーには直接影響はしなかったけど、まあでも、音楽がないとレコーディングの方向性も決めれないからね。
何年かのうちに Brooks Arthur が自身のスタジオ Century Sound を立ち上げ、ぼくをセカンドエンジニアとして迎えてくれた。このスタジオは長続きはしなかったけが、ぼくはここで Neil Diamond, The Grateful Dead, Jimi Hendrix, Janis Ian, The Boxtops, The Jaggerz, Bobby Rydell and Jimmy Darren 等のヒットソングを録音した。
たくさんのスタジオで長い間エンジニアとして働いてきたけど、今ぼくはニューヨークのアパートメントに小さなスタジオを持っていて主に自分の作品の為にエンジニアとして働いている。そしてこのスタジオでは少ないけども顧客がいて Jimmy "The Wiz" Wisner が利用してくれるし、最近では Randy & The Rainbows や Paul Evans が利用してくれてぼくもそれをエンジニアとして手伝った。
70's のはじめにぼくはコマーシャル業界が有益である事に気付いて Rod McBrien Productions を作って Coca-Cola, Miller Beer, Pizza Hut, Campbell's Soup, Special Olympics, Claritin, Kodak, Burger King などに CM ソングを書いている。これでぼくはアカデミー賞の広告部門やその他のたくさんの賞を獲得したりもしている。
ぼくの会社はレコード業界や広告に音楽を提供する会社なんだ。ぼくはアメフトのOrange Bowl や Fiesta Bowl にも書いたし、国や国際的なイベントの為にも曲を書いた、例えば The Vietnam Women’s Memorial の為に Crystal Gayle に提供したし、The Women's Memorial に提供した曲は Kenny Rogers and Patti Austin が歌った。1997年にはアメリカ空軍50周年記念の為に "Above and Beyond" も書いた。
ポップミュージックに興味を持ったきっかけは?
そしてあなたの当時お気に入りのアーティストは誰でしたか?
ティーンエイジャーの頃は、Elvis Presley、Little Richard、Dion and The Belmonts、Chuck Berry、The Cleftones、Johnny Ray、The Skyliners、Bobby Darin、The Del Vikings、The Coasters etc. まだまだこんか感じで続くよ(笑)。
音楽業界に入るきかっけは何ですか?
あなたの最初の仕事は何でしたか?
最初にレコーディングに携わったのは R&M Records からの TheTornadoes による "That's My Girl" と "Round House" だ。メジャーレーベルでの最初の仕事はメジャー放送もされた Cameo Records からのThe Valrays による "Get A Board" だ。
The Eastern Scene と Pebbles & Shells が Salt Water Taffy 以前のあなたの仕事と思われますが、
実際にはどういったグループだったのですか。教えて下さい。
ぼくらの友人 Reid Whitelaw がグループをマネージメントして、レコード契約をする役として招集された。Reid は Amy Records の Freddy DeMann と契約をしてきてくれた(Freddy はその後、マドンナのマネージャーにまで上り詰めた人物だ)。Reid はグループをペンシルバニア州の Scranton へテレビ番組のため送り込み、その同じ州にオハイオ州の Cleveland での Up Beat TV Show というテレビ番組までアレンジしてくれた。 Scranton までは車で行けたのだが、 Cleveland へは飛ばなければならなかった。もちろん、この時はぼくらが最初に飛行機に乗った瞬間だったのだが。この週の The Up Beat Show にはもう一つの注目のグループが来ていた。The Temptations だ。
この旅がとても記憶に残っているのが、ぼくらの旅費にかかった費用を取り戻すために、Reid が Up Beat の他にぼくらを地元のナイトクラブへのブッキングしていた事なんだ。ぼくらはハウスバンドとして Go-Go Girls と一緒にクラブで演奏をしたんだ。でも問題があって、"Let's Be More Than Friends" 以外の持ち曲は4、5曲しかなかったんだ。おまけに "Let's Be More Than Friends" はダンスミュージックじゃなかったし。これがおおまかな The Eastern Scene の流れかな。
グループの写真を見つけたんだ。存在しないと思っていたんだけど。この写真で興味深いのは Ted Daryll、John Giametta も僕もこの4番目に写っている男を思い出せないんだ。もしかしたら、ぼくの昔の友人で Long Island から来た Ron DeMarinoかもしれないけど、確かじゃあないね。
もう一方の Pebbles & Shells はよく 60 年代に多く見られた本当の意味でのスタジオグループだ。ミュージシャンは皆、スタジオミュージシャンで、歌のパートは全てぼくだった。ぼくは本当に "Let's Be More Than Friends Tonight" という曲がお気に入りで、The Eastern Scene で成功しなかったものの、再度レコーディングしたんだ。ぼくは念のためいざお呼びがかかってもまた On The Road (旅:ライブ活動を目的とした旅) できる様、メンバーを4人用意していたんだ。ぼくらは新しいグループとして、業界向けの写真も用意してた。実際には集まってリハーサルなんてことは、ほとんどしなかったけどね。
Q6.
Ted Daryll について教えて下さい。
Casualeers について教えて下さい。
John Giametta とぼくは、"Dance, Dance, Dance" という曲を書いた。ぼくらはこの曲がとても良くできたと確信していた。後はちゃんとこの曲とマッチするアーティストを捜し出し、録音するだけだと。ぼくらはこの曲を The Casualeers でプロデュースして世に送り出したい旨を Neal に伝え、彼もぼくらのアイデアを気に入ってくれた。Neal は The Casualeers とリハーサルする機会を作ってくれて、ぼくらは希望のアーティストと巡り会えた。
John とぼくがスタジオに入ってレコードをプロデュースできる様、ぼくは友達の The Shangri-Lasで知られる George "Shadow" Morton に資金面で都合をつけてもらえるよう頼んだ。レコードは Roulette Records から発売された。
その同じ年、1967 年に John とぼくはもう2枚のレコードを作曲・プロデュースし The Casualeers と共に制作した。"You Better Be Sure" B/W "Open Your Eyes"、"Come Back To My Arms" B/W "When I'm In Your Arms" の2枚だ。今回は Laurie Records からのリリースだった。Ernie Maresca 氏と仕事ができて幸運だった。
Casualeers について教えて下さい。
John Giametta とぼくは、"Dance, Dance, Dance" という曲を書いた。ぼくらはこの曲がとても良くできたと確信していた。後はちゃんとこの曲とマッチするアーティストを捜し出し、録音するだけだと。ぼくらはこの曲を The Casualeers でプロデュースして世に送り出したい旨を Neal に伝え、彼もぼくらのアイデアを気に入ってくれた。Neal は The Casualeers とリハーサルする機会を作ってくれて、ぼくらは希望のアーティストと巡り会えた。
John とぼくがスタジオに入ってレコードをプロデュースできる様、ぼくは友達の The Shangri-Lasで知られる George "Shadow" Morton に資金面で都合をつけてもらえるよう頼んだ。レコードは Roulette Records から発売された。
その同じ年、1967 年に John とぼくはもう2枚のレコードを作曲・プロデュースし The Casualeers と共に制作した。"You Better Be Sure" B/W "Open Your Eyes"、"Come Back To My Arms" B/W "When I'm In Your Arms" の2枚だ。今回は Laurie Records からのリリースだった。Ernie Maresca 氏と仕事ができて幸運だった。
John Giametta 氏について教えて下さい。
John とぼくは、100年以来の仲だ。ほんと古くからの友達で The Valrays での早い時期に一緒に U.S. Coast Guard Reserves に加わっ た。もちろん "Buddy Plan" だった。とんだ相棒プランだろ?ぼくが新兵訓練基地に加入した時も John より二ヶ月早く参加したけど、二人とも Coast Guard Band に所属していたから一緒の時期に退役したんだ。
The Valrays として Cameo Records からリリースされたぼくらの最初の2 枚のシングルの作曲・プロデュースは John Linde と Pete Antell だ が、United Artists Records からリリースされた次のシングルにあたる"It Hurts Doesn't It Girl" の作曲・プロデュースは John とぼくだ。そして The Casualeers と Salt Water Taffy でのリリースの全てを一緒にプロデュースした。ほぼ録音された全ての曲だ。
アレンジャーの Meco Monardo について教えて頂けますか。 The Valrays は、Salt Water Taffy の一部だったのですか。
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