2020年4月11日土曜日

追悼 志村けん~音楽で語るAnother Side


  去る2020年3月29日に昭和・平成年間を通じ、日本はもとより世界中に笑いを発信し続けていた「日本の喜劇王」の一人、志村けんさんが「新型コロナ・ウィルス」感染による肺炎のために、70才の生涯を全うされた。 

 私は1954年生まれで彼とは5歳違いだ。彼が荒井注さんの脱退を受けて、正式にドリフターズのメンバーに加入した1974年4月には既に大学生になっており、当時さほど興味を持っているわけではなかった。 

 そもそも私がドリフに夢中になっていたのは1969年の中学生時代までで、その頃も『8時だよ全員集合!』よりも『コント55号の世界は笑う』に興味が移っていて、彼がドリフに加入した時期は完全に「ドリフ離れ」していた。しかも1985年9月に幕を下ろした『8時だよ!~』の末期には、『オレたちひょうきん族』に夢中になっていたので、彼を語るのはおこがましいものかもしれない。 

 ただ、私はハナ肇とクレイジー・キャッツ(以下、クレイジー)にはじまるコミック・バンドへの興味が高く、いかりや長介とザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)はもとより、ドリフ脱退組のドンキー・カルテットやウガンダ・トラ在籍時のビジー・フォー(彼らも渡辺プロダクション)あたりまで、かなりコアなコミック・バンド・マニアだ。 特に1960年代、「シャボン玉ホリデー」等で繰り広げられた、クレイジーとドリフのジャム・セッションによるアドリブから発展するギャグの応酬には心ときめいたものだった。

 ちなみに、志村さんが1968年にいかりや長介さんへの弟子入りを目指したのは、「音楽性の面」からだったという。そこから彼も私同様にクレイジーとドリフのコミック・セッションに心惹かれていた一人だったとも推測される。補足になるが、志村さんは中学以来熱狂的な「ビートルズ・ファン」だったということで、1966年7月2日に日本武道館公演でのザ・ビートルズ日本公演に足を運んでいると聞く。その時に隠し撮りした「ジョンのサン・グラス着用」写真をパネルにして持っているとのことだ。 

 ちょっとした笑い話になるが、私は1971年9月23日にレッド・ツェッペリンの初来日公演を日本武道館で体験しているが、オープニングの<Immigrant Song>で見た間奏でのステージ・アクションに「まるでドリフだ!」という不謹慎な連想をしてしまっている。 

 さて話は志村さんに戻すが、そんなコミック・バンドとしてのドリフでのポジションはギターだったというが、私自身は彼のギタリストという印象が薄い。それはカトチャンのようにハナ肇さんとのドラムでのバトル・シーンを頻繁に拝見した記憶がないからだ。ただ、三味線や琵琶といった楽器を変えての奏者としての印象は鮮烈なものだった。そのテクニックは鮮明に焼き付いており、また真剣なプレイの最中に時折ズッコケるといった伝統的なオチで笑いを取るスタイルには、彼がコミック・バンドのメンバーであることを再確認したものだった。 

 彼がドリフでブレイクしたネタは、1976年から唄いだした日本人で知らない人はいないほど有名な「東村山音頭」だった。しかしこのヒットは荒井注さん在籍時のドリフと基本ラインは同じで「クレイジーのようなオリジナルを避け、カヴァー・ソングや民謡等で勝負」という手法だった。言い方を変えれば、この時点での彼のネタはファンや一般に向けてドリフターズの正式メンバーとして立派に認知された成果だったが、それは従来路線のドリフに同化した結果だったといえるものだった。
  また1980年前後に大反響を呼んだ「カラスの勝手でしょ~♪」は、1972年以降に登場した<タブー>をBGMにしたカトチャンの「ちょとだけよ~」のストリップ・ネタ同様に、当時のPTAから「低俗番組」として目の敵にされている。こんな事例でも、彼はドリフの伝統をしっかり引き継いでいた存在だった。

 そんな志村さんが、「ドリフの~」ではなく「志村けん」という一コメディアンとして彼らしさを前面に打ち出して頭角を現すのは、1979年に始めた「ヒゲダンス」といえるだろう。 この曲のリズムは1970年代後期に「セックス・シンボル」の称号を与えられていたアメリカのR&B.シンガー、テディ・ペンダーグラスの曲からフレーズをリフレインしたカヴァーで、1979年にリリースしたサード・アルバム『Teddy』(注1)の収録曲<Do Me>だ。ただこの曲は本国でのシングル曲ではなく、1980年に<「ヒゲ」のテーマ>(注2)が大流行となった日本でのみシングル・カット(注3)されたナンバーだった。これは彼がソウル・ミュージック等に造詣が深いレコード・コレクターという側面からの成果だったといえるだろう。 

 またドリフ名義ではあるが<ドリフの早口ことば>(注4)もソウル・ミュージックからのひらめきと言われている。それはシュガーヒル・ギャングの<Rapper’s Delight>(注5)にウィルソン・ピケット1971年のヒット<Don’t Knock My Love Pt.1>(注6)のバック・トラックをはめ込んだものと一般には伝えられている。ただそれのみならず、この曲はダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイの共演アルバム『Dianna & Marvin』(注7)に収録された<Don’t Knock My Love>(注8)が1974年にヒットしたことも影響していたのように思える。 

 このような彼のソウル・ミュージックに触発されたセンスは当時、音楽業界からも注目された。その評価は1980年前後に発刊されていた音楽雑誌『jam』などからオファーを受け、ソウル系アルバムのレビューを寄稿する「ソウル・ミュージック評論家」としての顔を持つことに繋がっている。 

 更に「志村けん」としての代名詞と言われる「変なおじさん」の元ネタは、沖縄を代表するバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」の1977年本土デビュー曲(沖縄では1972年)として知られたナンバーだ。そんなこのシングルには「赤塚不二夫イラスト版ジャケット」(注9)があり、このイラストは「変なおじさん」を連想させるものだった。個人的な見解になるが、彼はこのイラストに触発されて「変なおじさん」を考案したのではないだろうか?もしそうであったなら、こんなところにも彼の音楽にこだわったギャグ・センスのひらめきに非凡さを感じる。 

 そして、1988年からは『志村けんのだいじょうぶだぁ』で、だいじょうぶだぁファミリーが様々なコスプレをして歌い踊ったことで話題になった<ウンジャラゲ>(注10)で視聴者を虜にしている。
 この曲はいかりやさんがドリフ時代「クレイジー的な音楽にはかなわない」とばかりに避けていた「ハナ肇とザ・クレイジー・キャッツ」のオリジナル・ナンバーだ。しかも、この曲はクレイジーの大ヒットではなく、クレイジー末期の1969年にリリースされた<あんた>のB面曲だったのだ。こんなことろから引っ張り出して再構築させているところにも、彼のギャグに対する探求心の旺盛さに圧倒させられるばかりだ。しかもこのカヴァーは、オリジナル・アレンジのままという大胆なものだった。
 なお、この曲では「中森明菜」「田原俊彦」など多くのシンガーを巻き込んだパフォーマンスが評判になった。そして「志村けんとだいじょうぶだぁファミリー」として「夜のヒットスタジオ」 に出演しているが、その際には大先輩植木等さんが登場し、御大の前で本家以上のパフォーマンスを披露している。


 とはいえ彼の功績は、過去の遺産を消化して見事に自分流のものに仕上げるものばかりにあらず、オリジナル・ユニットを通じてもそのギャグ・センスを爆発させている。そんなお馴染みのコンビと言えば、1993年田代まさしさんと組んだ<婆様と爺様のセレナーデ>(注11)、そして研ナオコさんとのユニット「けん♀♂けん」の<銀座あたりでギン!ギン!ギン!>(注12)が思い浮かぶはずだ。 
 とはいえ彼の矛先は、このようにありそうなメンバーだけでなく、2002年には当時一世風靡していたモーニング娘からの派生ユニット「ミニモニ」と組むという想定外のコンビをも誕生させている。そこでは「バカ殿様とミニモニ姫」名義で<アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄>(注13)をリリースし、何と「ゴールド・ディスク」を獲得するほどのヒットにつなげた。 


 そんな志村さんだが、彼は生前ジュリーこと沢田研二さんとの交流が深かった。その交流は彼がドリフに加入する前の「マックボンボン」時代に、ジュリー・コンサートの前座を務めていた頃から続いていたようだ。 
 そんな二人は2001年には『ジュリけん』(文化放送)という1時間番組で1年半近く共にしていた。この縁からか同年10月13日には『二人のビッグショー』での共演に繋がっている。さらに、2003年7月19日~8月9日の『沢田・志村のさぁ、殺せ‼』では舞台共演も実現しているが、これらは全てジュリーからの希望だったという。 このように日本を代表するシンガーであるジュリーが共演を切望していたのは、彼のコントには音楽の息吹が脈づいていたという証だったのではないだろいうか。

 近年の音楽の楽しみ方は「観賞用」としてではなく、完全に「BGM化」している。そんな昨今の世情ではあるが、志村けんさんの愛した「音楽ネタ・コント」の伝統は、後進に末永く引き継がれていかれることを祈るばかりだ。
 最後なってしまったが、改めて志村さんが生み出した沢山の「笑い」の功績に感謝し、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。 


(注1)1979年6月 23日 Teddy Pendergrass 3rd『Teddy』 U.S.5位 R&B.1位 
(注2)たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
    1980年2月25日発売 (SMS) SM06-52 5位 32.3万枚 
(注3)1979年 Teddy Pendergrass (Philadelphia International) 06SP-454 
(注4)いかりや長介とザ・ドリフターズ 第13作Single 
    1980年12月21日発売 (SMS) SM07-81 10位 23万枚 
(注5)1979年9月 16日 The Sugarhill Gang 1st Single U.S.36位 R&B.4位U.K.3位 
(注6)1971年4月 Willson Picket 36th Single U.S.13位 R&B.1位 
(注7)1973年10月26日『Dianna & Marvin』U.S.26位 R&B.7位 U.K.6位Japan1位 
(注8)1974年Dianna & Marvin 4th Single U.S.26位 R&B.7位 
(注9)喜納昌吉&チャンプルーズ 1977年11月5日発売 フィリップスFW-2007 
(注10)志村けんと田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー
     1988年11月2日発売 ポニーキャニオン7A-0919 20位 10.1万枚
     ハナ肇とクレイジー・キャッツ 第20作Single<あんた/ウンジャラゲ> 
     1969年7月10日発売 東芝音楽工業 TP-2186 
(注11)1993年12月17日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 48位 2.9万枚 
注12)2001年10月28日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 41位 2.7万枚 
(注13)2002年4月24日発売 Zetima EPCE-5156 3位21.2万枚

                         2020年4月2日鈴木英之

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