2019年2月26日火曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(郷ひろみ編・Part-1)

 
1970年代アイドルのライヴ・アルバムの検証」、二回目は秀樹同様1970年代新御三家のひとりで、今もスーパー・スターとして活躍する「アイドル中のアイドル」郷ひろみについてスポットをあてることにする。ご存知のように彼は男性アイドルのメイン・ストリームであるジャニーズ事務所の出身であり、それを見出したのは才人ジャニー喜多川氏だ。そんな氏が1960年代の初代ジャニーズから現在まで送り出した数多くの男性アイドルのなかで、「最高のアイドル」と思い描いているといわれるのは郷ひろみだという。



その郷の芸能界入りのきっかけは、1971年に映画オーディションを通じジャニー喜多川にスカウトされたのが始まりだった。当初はフォーリーブスのバック・ダンサー(ジャニーズJr.)だったが、その抜群のルックスに注目が集まり、デビュー前にもかかわらず大阪でファン・クラブが発足するほど凄まじい人気を獲得した。そんな人気沸騰中の19728月、「フォーリーブスの弟」として<男の子女の子>で歌手デビューを果たす。この曲はGSオックスの傑作セカンド・シングル<ダンシング・セブンティーン>(郷の第5作『ひろみの旅』に収録)をベースにした好ナンバーで、いきなりトップ10ヒット(8位;27.8万枚)となった。続く<小さな体験>はさらなるヒット(4位:36.7万枚)を記録し、これは先輩フォーリーブスの実績を遥かに凌ぐもので、またたくまに事務所の看板スターとなっている。 




その人気たるや、今まで芸能人など見向きもしなかった少女たちをも巻き込むほど凄まじいもので、当時国鉄(現JR)職員だった郷の父が勤務するJR京浜東北線大井町駅にも多くのファンが押し寄せたという。余談ながら、私も同じ国鉄職員の息子(他には、パンクのアナーキーなど)として親近感を持ち、デビュー時からシングル、アルバム、更にはライヴ・アルバムまで熱心に聴き漁るようになった。そして当然のように、この年第14回日本レコード大賞新人賞を受賞。そんな郷の成功により、事務所はより多くのアイドルを量産していく体制が整っていったのは言うまでもないだろう。


翌、1973年には早くもブロマイド売上1位の座に輝き、西城秀樹、野口五郎と共に新御三家としてトップ・アイドルに駆け上る。同年第24NHK紅白歌合戦に初出場を果たし(以後1985年まで13回連続出場)、ジャニーズ事務所に在籍した1974年までに、<よろしく哀愁>(1位;50.6万枚)を含む10曲がベスト10入り(内4曲は2位)という輝かしい実績を残している。


そしてジャニーズ事務所を独立した1975年以降も、<花のように鳥のように>(2位;24.3万枚)、<誘われてフラメンコ>(2位;24.5万枚)、<恋の弱み>(4位;21.9万枚)とヒットを連発した。さらに翌76年には『さらば夏の光よ』でスクリーン・デビューを果たし、活動の幅を広げている。


 この頃になるとアルバム制作にも意欲的なところをみせ、1975年に全曲ユーミン(荒井由実)作品でまとめられた第6作『HIROMIC WORLD』、さらに翌76年には(漫画家)楳図かずおと筒美京平のコンビによるナンバーが中核をなす第7作『街角の神話』を発表。これらのアルバムは洋楽にもひけを取らないもので、特に後者の充実ぶりは目を見張るものがあった。なかでもシングルとなった<寒い夜明け>(5位;17.3万枚)は、(ベスト・アルバムにチョイスされることは少ないが)個人的には華麗な筒美サウンドと楳図独特のシュールな世界感が見事に融合した傑作ナンバーだったと感じる。




 また翌1977年にはTBSドラマ『ムー』に出演、ここでのコミカルな演技が話題となり、番組挿入歌として発売された樹木希林とのデュエット<お化けのロック>(2位:40万枚)は、郷のコミカルな面を開拓する新境地として注目された。さらに78年の『ムー一族』挿入歌、樹木とのデュエット第2作<林檎殺人事件>(6位:30.7万枚)は、より幅広い世代からの支持が集まり、当時の人気番組「ザ・ベストテン」で初の1位を獲得するほど話題となった。補足ながら、2015627日放送の「TBSテレビ60周年記念・音楽の日」では、(亡き)希林との38年ぶりの復活ライヴが大喝采を浴びている。

そんな後者が収録された第10作『Narci-rhythm』は、全曲キャンディーズのヒット曲で脚光を浴びた穂口雄右の書き下ろしによるもので、郷のポップ・シンガーとしての魅力があふれた快作だった。郷自身もこのアルバムはかなりお気に入りだったようで、当時発表したライヴ・アルバム『IDOL OF IDOLS』には数多くとりあげられている。








またこの年には、大ヒットにこそ至らなかったが、彼自身もフェイヴァリットとして自認し、何回もセルフ・カヴァーすることになる<ハリウッド・スキャンダル>(13位:13.9万枚)を発表。そのカヴァーできわめつけといえるものが、1994年に元シンプリー・レッドの屋敷豪太と組んだ「Go Go’s」名義のテイクだ。ファンの間でもさほど話題にならなかったプロジェクトではあるが、スティーリー・ダンを連想させるようなクールで洗練された都会的サウンドは、今聴いても古さを感じさせない斬新なチャレンジだった。このように音楽的に充実していただけでなく、『明星』の「アイドル人気投票」でもデビュー以来7年連続No.1アイドルの座を譲らない人気ぶりだった。


1979年になると、横尾忠則による印象的なジャケット(アンディー・ウォーフォール風)も話題となった第13作『SUPER DRIVE』を発表。このアルバムは当時のフュージョン・ブームを反映してアメリカのセッション・グループ24丁目バンドThe 24th Street Band)を起用し、ニューヨーク録音を敢行させたものだった。そこには同年のヒット曲<マイ・レディー>(8位;34.9万枚)の別テイクをメインに、ヒット・メイカー林哲司、芳野藤丸(SHUGUN)、マエストロ萩田光雄らの書き下ろしが並んだ。なかでも林作<入江にて>は編曲担当の萩田光雄氏にも絶賛されたほどで、郷も後にコンピレーションへチョイスするほどの傑作AORナンバーだった。



このように1970年代後半の郷ひろみには意欲的な傑作アルバムが発表されている。そんなオリジナル・アルバムは長らく廃盤状態が続いていたが、201710月にSONYより完全限定生産盤『The 70’s Albums』(紙ジャケ13枚組Boxセット)として待望の復刻発売されている。ただ残念ながら、ここにはライヴ・アルバムが含まれていないが、ファンでなくとも一度はチェックしていただきたい作品集だ。なお近年、“新御三家”の野口五郎はタワー・レコードを通じライヴ(カセット音源まで)が復刻されているので、いつかは彼の作品も復刻されることを願ってやまない。


さてこの様に時代を反映した音楽活動に邁進した郷の姿勢は1980年代に入っても衰えることなかった。それは、化粧品CMソング<How manyいい顔>(8位:29.9万枚)、ノベルティ・ソング<お嫁サンバ>(1981年、6位:27.3万枚)、アダルトな洋楽カヴァー<哀愁のカサブランカ>(1982年、2位:50.1万枚)、さらに1983年には鈴木康博(元オフ・コース)を起用したトヨタ・カローラCMソング<素敵にシンデレラ・コンプレックス>(9位:19.3万枚)を大ヒットさせるなど常に話題の中心となっていた。そして1984年には、今も彼のトレード・マークのひとつとなっている「ジャパ~ン!」のシャウトでお馴染みの国鉄CMソング<24千万の瞳>(7位:21.3万枚)を発表し、アイドルの枠を超えた国民的ポップ・シンガーの地位を確立している。ここでまた余談となるが、郷の父は国鉄での最終歴は東京駅助役と伝え聞いたが、もしこの曲が1987年のJR発足以降のヒットだったならば、少なくとも都心部の駅長に抜擢されたかもしれないほどインパクトがあった。

そんな郷だったが祇園の芸者や松田聖子と浮名を流した後、1987612日に二谷友里恵と結婚し、1989年までニューヨークに拠点を構えている。そこで二女をもうけ父親となるも、彼の人気が錆びることはなかった。1990年代に入ると再びシーンに帰り咲き、1992年には後にSMAPのヒット曲(<SHAKE><らいおんハート>など)で注目されることになる小森田実をいち早く起用した<ヴィーナスたちのシエスタ>をリリース。そして1993年からは1年一作のペースでバラードを歌い、その第1作(通算65枚目)に楠瀬誠志郎のカヴァー<僕がどんなに好きか、君は知らない>(43位:17.7万枚)、1994年には<言えないよ>(27位:37.7万枚)を発表した。後者はチャートに36週もとどまるロングセラーとなり、バラード・シンガーとしても地位を確立させ、「第27回日本有線大賞・優先音楽最優秀賞(ポップス)」を受賞されている。さらに1995年の<逢いたくてしかたない>(17位:43.5万枚)も30週近くチャートにとどまるヒットとなり、前作に続き同賞を受賞している。


なお、このヒットに合わせるかのようなバラードでセレクトされた『The Greatest Hits Of Hiromi GoVol.2 –Ballards-』を発売。ここの収録曲には199849日に離婚することになる二谷友里恵を歌った郷の自作<REE(‘95)>をはじめ、シンガー郷を反映した佳曲が聴けるセレクションが並び、ファン以外からも注目を集めた。19979月にはデビュー25周年記念公演を日本武道館で開催した。

そして1999年には「ア、チ、チ」の訳詞でお馴染みとなったリッキー・マーティンの<Livin’ La Vida Loca>のカヴァー<GOLDFINGER’99>を4年ぶりにヒットさせ、「第32回日本有線大賞・優先音楽最優秀賞(ポップス)」、さらに「第41回レコード大賞・最優秀歌唱賞」をもW受賞している。なおこのこの曲発売時には、プロモーションでJR渋谷駅前交差点にて無許可のゲリラ・ライヴを敢行し、刑事事件を起こすという話題をふりまいた。個人的にこの手法は、エルビス・コステロが1978年の初来日時に学ラン着用にてトラック上で行ったパフォーマンスをお手本にしたような印象がある。


 そんな順調な活動をよそに、2001年年末の「第51NHK紅白歌合戦」の出演を最後に、20053月まで音楽活動を休止し、再びニューヨークに移住している。そして200510月には大阪で50歳記念の「スペシャル・バースデー・ライブ」を開催。さらに翌20069月には東京日比谷野外音楽堂でデビュー35周年記念ライヴも開催した。

20101018日の55歳の誕生日には、『55!伝説』と名付けた1955年生まれ、55歳、全国ツアー55公演のファイナル・ステージを日本武道館にて開催し、超満員の観衆を前に健在ぶりを見せつけた。この年には9年ぶりに「第61NHK紅白歌合戦」に出場し、2014年の第65回まで5年連続27回の出場を果たしている。また2012年には三度目の再婚、2014年には子供までもうけている。201510月には還暦を向かえた郷だが、今も日本を代表するスーパー・スターとして活躍を続けているのはご存知の通りだ。

さて次回は郷が1970年代に発表した8枚のライヴ・アルバムをレヴューするので、続けてお読みいただきたい。
(鈴木英之)




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