2011年2月1日火曜日

とっても面白く身近な江戸時代





※写真(左より):池田筑後守、渋沢平九郎、末広ヒロ子

実は今から150年ほど前の話だったのである。江戸時代の終わりは1868年。ちなみに私の祖母が生まれたのは1899年だったので、もうそれからほんの少し前、江戸時代はすぐそこにあったのだ。しかし江戸時代は移動のほとんどが徒歩、電気がないから夜は電球の1/60の明るさしかない行燈だけ、今考えると不便極まり感じを受ける。侍がえばりちらし、それ以外の庶民は抑圧され続けた暗黒の時代だったのか?265も平和が続いた歴史上稀有なこの江戸時代、庶民はけっこう楽しく陽気に暮らしていたようだ。侍も武士よりも役人として、まじめに仕事をしていた。まずはこれらの写真を見てほしい。男性は幕末に撮られたもので、中には新撰組の彰義隊の一員で討ち死にした渋沢平九郎、若き外国奉行でちょっとやさぐれた感じの池田筑後守長発もいる。今や女性の人気ナンバー1、新撰組の鬼の副長土方歳三、幕末の兵学者で思想家の佐久間象山もいる。ついで女性陣。こちらは時代もあって江戸時代に撮影されたものはほとんどなく、明治に入ってからのものだがどれも美女揃い。決して浮世絵のような顔立ちの男女ではなく、今、そこにいても不思議はない人たちだったのだ。このことを知ると江戸時代はさらに身近になる。写真がないからあの下手くそにしか見えない肖像画を見て、自分たちとは縁もゆかりもない世界の人間に見えていたのだ。まずはこれらの人たちを見て、実は身近な江戸時代を感じてほしい。では面白そうなエピソードをかいつまんで紹介する。(佐野邦彦) 






※写真(上から):織田信福、佐久間象山、陸奥亮子、土方歳三、益田進











☆日本の福祉は綱吉から!?
 悪法と言われる「生類憐みの令」は、5代将軍綱吉が制定したものだが、これは欧米にまだ動物愛護など存在しない時代に、極端ではあるが、動物愛護を徹底させた法律であった。怪我をしたり、病んでいた動物を見つけた者は、引き取って養い育てなければいかない義務があり、逆に殺したり、怪我を負わせたものは遠島、場合によっては死罪に処せられた。特に犬は大事にされ、収容施設を作り、この頃は庶民では食べられなかった白米を与えて保護していた。しかし、対象が生きているもの全てに及び、食用もダメ、害獣の退治もままならないようになったため、悪法とされるようになってしまった。ただ、この法律は弱者保護の側面があり、人間にも適用した。町ごとに子供の人別帳を作って、捨て子を禁止、囚人の環境改善も行った。そして旅先での病人は、それまではしばしばそのまま打ち捨てられていたが、宿に送って治療を行わせ、国元に連絡し返事を待つことまで義務付けられた。日本のトップが指示した事から言えば、日本の福祉は綱吉からと、言えるかもしれない。
 
☆御三家って何?
 時代劇や歴史の教科書によく「御三家」が出てくるが、それは徳川幕府の始祖である徳川家康が、徳川家の永続を願って、自分の実子で存命していた2男秀忠を将軍家(宗家)、10男を尾張、11男を紀州、12男を水戸の藩主とし、御三家として、将軍家に跡継ぎのない場合には、この御三家の中から将軍を出すように定めたものだった。実際に7代で宗家は断絶したため、8代将軍吉宗は紀州徳川家からであり、14代までは紀州の血筋の将軍が続いた。吉宗は、家康に倣い、自分の実子を御三卿として新たに創設し、将軍はその中から継承された。ちなみに15代、最後の将軍慶喜は、水戸徳川家だったが、御三卿の一橋家の養子となったため、将軍になった。この水戸は、尾張、紀州と異なって江戸常駐が義務付けられ、将軍にはならずに、将軍の補佐役だった。跡継ぎレースに参加しないことからご意見番として自由に意見が言える立場にあり、水戸黄門もモデルである光圀は、綱吉の行きすぎた「生類憐みの令」を痛烈に批判し、実際、守らずに肉食を続けていた。光圀は勤王思想の持ち主(家康から徳川家の存続のため常に朝廷につけと言われていたという説がある)であり、その思想は水戸学として水戸藩に脈々と受け継がれ、幕末には水戸藩主の斉昭は尊皇攘夷を幕府に強く働きかけた。そのため、息子である慶喜は、将軍になっても、大政奉還、鳥羽・伏見の戦いの撤退、江戸無血開城と、朝廷とは決定的に対立しなかった。それは水戸の血であったと言えよう。ちなみに将軍への野心満々だった尾張家は警戒され、最後まで将軍を出せなかった。
 
☆時代劇のヒーローは本当にいた?
 時代劇といえば「水戸黄門」、「暴れん坊将軍」、「大岡越前」、「遠山の金さん」、「鬼平犯科帳」が浮かぶが、これらは全て実在する人物だった。そしてそれぞれ庶民に人気があった侍だった。水戸黄門が徳川光圀なのは前述したところ。実際には関東地方を出たことはなく、隠居してから水戸領内を巡視していた程度。「暴れん坊将軍」は、これも前述の徳川吉宗。数々の改革を成し遂げた徳川幕府中興の祖で、実際に大岡越前を町奉行として重用していた。この二人は、実際に超有名人物なので紹介はここまで。
「大岡越前」は吉宗によって抜擢され、南町奉行などを経て最後は大名にまでなった大岡忠相が主人公。吉宗の享保の改革の中心人物で、町火消組合を創設し木造家屋が密集した町人住居区域をいろは47組に担当させ江戸の防火を強化、吉宗が設けた目安箱に寄せられた江戸の下層民を救う施設をという請願に、吉宗は大岡に養生所を検討させ、大岡は小石川療養所を開設し貧民の治療を行うなど、庶民に救う政策を次々実現した。庶民の人気が抜群だったため、後に脚色され多くの「大岡裁き」が作られた。ちなみに「越前」とは正しくは「越前守」で、「○○守」とは当時の大名・旗本が申請するともらうことができる官位のこと。江戸時代には越前国とは何の関係もなくなっていたが、大岡は越前守の官位を持っていたため大岡越前と呼ばれた。
「遠山の金さん」は遠山景元といい、徹底的な緊縮策で庶民の娯楽や経済活動を次々禁止した天保の改革の中心である老中水野忠邦と目付鳥居耀蔵という2大嫌われ者の下で北町奉行、後に南町奉行も担当した旗本で、この2人とことごとく対立し、芝居小屋の全面禁止を移転だけに留めたり、露店の禁止を防止したり、庶民を首尾一貫して守り続けたため、人気を博した人物。若い頃は放蕩者で、いたずら心で、桜吹雪かどうかは分からないが入れ墨を入れていたようだ。名裁きは具体的に明らかなものはないが、12代将軍家慶の前で行った裁判上覧でその裁判を将軍に激賞されていて、その能力は確かなようだ。町奉行は東京都知事と警視総監、東京消防署長、東京地方裁判所判事を兼任した激務であるため、大岡越前と同じく、それほど裁判には関われなかったと思われる。
そして「鬼平犯科帳」の鬼平こと長谷川平蔵(本名は長谷川宣以)は、幕府の3大改革である寛政の改革を実行した老中松平定信の下で火付盗賊改方の長官を担った旗本である。鬼平の最大の功績は無宿人や軽犯罪人を3年間収容、職業訓練と教育を施し、刑務所のようにその間に賃金も与えて強制貯金、出所の際には生活資金をして与えるという「人足寄場」の設立である。収容者は水玉模様の法被を着ているが、成績がいいと水玉が小さい法被に変わりやる気を出させた。そして出所の際には希望する職業に合わせて道具や土地、建物まで与えたという画期的な施設を企画から設立・運営まで行った。ただ、松平定信は十分な資金を与えなかったため、その公金を銭相場に投資し、その儲けで資金を捻出するという禁じ手を使った。そのため堅物で知られる定信には好かれなかった。しかし軽武装の文官の町奉行とは別組織であり、火付・盗賊といった凶悪犯を武士であろうが僧侶であろうが取り締まることができる重武装の武官による火付盗賊改方の長として、江戸の町を震撼させた2大凶悪犯グループを次々一網打尽にしたため、庶民は平蔵に拍手喝さいを送り、「今大岡」と呼んでいた。ちなみに町奉行と火付盗賊改方の区別が付けにくいので、奉行所と違うという意味で「其の筋のお達しにより...」と「其の筋」と呼ばれていたそうだ。
最後に、「銭形平次」などで知られる岡っ引きや下っ引きは、町奉行や火付盗賊改方の幕府非公認の手下で、奉行所からの棒給はなく、正規の警察官である同心から小遣いをもらって生活していた。十手は必要な時に貸与されるだけ、もともとは町人の世界に疎い武士が江戸追放の軽犯罪人を赦免して手下として使ったのが起源で、博徒などが担当する場合が多く、銭形平次のイメージとは相当、異なるようだ。
 
☆江戸時代ならではの風流な風習「二十六夜待」
江戸の月見といえば旧暦815日(9月頃)の中秋の名月、十五夜と、その約1か月後913日(10月頃)の後の月、十三夜だった。両方行わないと片見月といって縁起が悪いとされ、どちらも行うのが常、十五夜も十三夜もほぼ満月で、お団子と収穫物を添え、日の入りから上がる月を愛でていた。そして江戸の町にはもうひとつ旧暦7月の「二十六夜待」(8月の終わりから9月の頭)という風習があった。月齢は二十八なのでもう新月になる直前の細い月である。月を見ると分かるが、欠けた暗い部分もうっすらと見える。その暗い部分に、阿弥陀・観音・勢至の三尊の姿が見えるとされ、明け方に見えるその月を待って盛大に祝っていた。その月は丸い部分が下の逆三日月。明け方に先に月の尖った細い部分から現れ、2つの光がともり、その間にうっすらと三尊が見えてくる。この見える理由は地球からの反射なのだが、夕方に見える丸い部分が上の三日月はユーラシア大陸からの反射なので暗い部分が明るすぎ、この明け方の三日月は太平洋からの反射なので光が弱くこういう神秘的な佇まいを見せてくれるのだ。なんと優雅で風流な風習だろう。江戸の住人はこの月を見ながら願いをかけた。
 
☆徳川綱吉の身長は124cm
愛知県岡崎市の大樹寺には歴代徳川将軍の位牌(15代慶喜は神式なので写真のみ)が収められているが、生前の身長に合わせて原寸大で作られているという説がある。日光に葬られた家康と家光と、先の慶喜を除き、徳川将軍はみな上野の寛永寺か芝の増上寺に葬られているのだが、遺骨が確認できる増上寺の6人の身長は位牌と5cm以内だったというのが根拠だ。満6歳で亡くなった7代の家継の位牌が135cmで、それ以外はほとんどが150cm台、当時の日本人男子の平均身長と同じで信憑性がある。ただひとりの例外を除いて。それが5代綱吉の位牌で124cmかなかった。低身長の病気だったのではという説もあるが、綱吉に謁見したオランダ人はその印象を「立派な風貌」と書き残しており、小人症だったとは考えにくい。ではなぜ一人だけそんなに低く作られたのか?今も謎のままである。
 
☆武士の歩き方はすぐに分かる?
 武士は腰に常に重くて長い2本の刀を差していたため、今の日本人のように足を上げ腕を振って歩くと、刀が左右に大きく振れるため、すり足で腕は振らず歩いていた。右手は刀をすぐに抜けるよう常にフリー、角を曲がるときは死角がないように大回りして、極端に言えば直角に曲がっていた。合理的な歩き方だが、武士は変装してもその身についた歩き方で分かってしまったらしい。農民や商人も手を振って歩くことはなく、手は体の前で組んでおり、今のように右足を出すときに左手を出す...という歩き方は、明治時代以降、西洋の軍隊の歩き方を見てそれを真似たという。足を上げるのは草履から靴に変わったことが大きかった。ちなみに刀を差すのは左であり、鞘どうしがぶつかることは無礼極まりなく争いになるため、武士は左側通行だったという。「鞘当て」の語源はここからだ。
 
☆火事と喧嘩は江戸の華
 江戸は徳川幕府が作った計画都市であり、参勤交代で全国の大名とその武士も住むため人口の半分を占める武士は江戸の7割を武家地として使い、武士とほぼ同じ人口を持つ町人は江戸の8分の1程度の町人地にひしめき合って住んでいた。江戸の住民は最大約130万、1800年は100万として、当時のロンドンが86万人、パリが54万人だからいかに大都市だったか分かる。当時町人は長屋に住み、1DKに家族全員が住むという過密状態。長屋の壁は薄く、隣とは筒抜け状態、隣近所で仲良くしないととても住む続けることはできなかった。家が安普請なのはすぐに壊すことができるためで、江戸で火事が起きると木造家屋で火の回りが早いうえに、ポンプ車などないから水で火を消すなど不可能なため、当時の火消しは火の回る方向に先回りして、そこの家を壊して空間を作り、類焼を食い止める「破壊消防」を行っていた。そのため、火消しは屋根の上に上がることが得意な鳶がほとんどで、鳶は気が荒い者が多かったため、火消しの組同士のライバル心もあり、先陣争いなどで喧嘩が多かった。そのため「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたのである。また半年の一度程度の大火があり、その都度焼け出されてしまう江戸の町では財産は意味をなさず、今のようにお金を預ける銀行がなく、鍵がない長屋暮らしではお金は盗まれる可能性が常にあり、では、お金は使ってしまおうと「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」ときっぷのいい江戸の気風が生まれていった。江戸では仕事があり、常に日銭を稼げたことも大きかった。
 
☆江戸は世界で最も清潔な都市だった
 江戸城(今の皇居)は徳川家康が入城した当初は、海に面していた。以降、埋め立てを重ねて江戸の地が広がっていったのだが、埋め立て地では井戸水に塩が混じり飲めなかったため、飲み水の確保として川から引き入れた上水が使われた。まず三鷹の井の頭池から引き入れた神田上水などが使われたが、人口が急増する江戸では足らなくなり、江戸から43km離れた羽村を流れる多摩川から引き入れた玉川上水が建設される。その間の勾配は92mしかなく、当時は傾斜を使った高低差だけで水を流していたので、100mたったの20cmという精緻な勾配を人力だけで掘削し、8か月で開通したというから驚きだ。江戸市中には80km以上に及ぶ石樋、木樋によって地下に水道が通り、そこから井戸に引き入れて水を使っていた。し尿は貴重な肥料として農村部の回収が義務付けられていたため、江戸市中には残らず、汚れの少ない下水は隅田川に流されていった。回収された灰も肥料として使われ、江戸は究極のリサイクル社会だったと言えよう。
 
☆美人は大奥にはいらぬ?
 徳川幕府を立て直した8代将軍吉宗は、大奥にも改革のメスを入れた。その妙案は「大奥から器量の良いものを50人集めよ」というもの。喜び勇んで集まった50人に告げられたのは「美人なのだから良縁にも恵まれるはず。」という解雇通知だった。女の自尊心を傷つけずリストラを行った。また徳川宗家が断絶し、尾張家と将軍の座を争った時、吉宗を指名した大奥の天英院(6将軍の正室)に対しては年間12千両を与え、敵に回った月光院(6代将軍の側室で7代将軍の生母)に対しても年間1万両を与えたというのだから、押さえるべきところは押さえる知恵もあった。
 
☆江戸の花火
花火は古くは竹筒から火の粉が噴き出るタイプのもので、外国人が行っていたという。花火好きの3代将軍家光が花火を奨励したことから盛んになり、8代将軍吉宗の頃から、隅田川で水神祭の一環として毎年花火大会が行われるようになった。夏の3か月間、花火大会は頻繁に開かれていた。花火の色はオレンジだけ、江戸後期になって今の大輪を咲かす花火が一般的になるのだが、ただし、今と違ってあがる花火は20発ほどだけ、江戸の町民は花火の余韻も味わっていたのである。
 
☆一両って幾ら?
 一両は現在の約15万円と言われている。1601年の慶長小判は86.79%という高い金を含有していたが、海外と日本との取引で金や銀の多くが海外に流れ、小判の絶対数が少なくなった幕府は慶長小判を回収し、溶かして金の含有量を減らして改鋳、1695年から作られた元禄小判には57.36%の金しか入っていなかった。そうやって小判を水増しして、財政の不足にあてたのである。幕府は慶長小判の回収を命じたが、当然、回収はなかなか進まなかったという。その後、また品質を上げたり下げたりしたが、大きさを小さくしたり大きくしたり、ついには薄くなり、最後の小判は重さが慶長小判の1/5しかなかった。小判は4枚の一分銀で交換されるが、世界の交換比率の3倍の比率だったので、幕末には多くの小判が海外の銀貨と交換されてしまうことになる。なお1文とは15円程度。
 
☆花魁言葉
 大奥や、吉原のことを書き始めたらそれだけで特集が成り立つほどの分量があるため、吉原の花魁言葉についてだけ紹介しよう。時代劇で耳にしたことがあるであろう「あちきは...」「...でありんす。」「...でおざんす。」という言葉遣いは、その当時、全国から集められた遊女達のお国訛りを隠すため、教えられた言葉だった。なにしろ吉原の花魁は、あらゆる教養を身に着けたエリートであり、庶民にはとても名が出せない高値の花、その憧れの存在がお国訛り丸出しでは...と、教え込まれた。共通語がないこの当時の、切ない話である。
 
☆江戸の湯屋は混浴?
 江戸時代は、武士の家でも上級武士でないと内風呂はなく、町人から下級武士まで銭湯へ通っていた。今と違って半身浴の蒸し風呂、まずは流し場で体を洗ってから、湯気が外へ出ないように狭いザクロ口という入口をくぐって体を温めた。湯船に体を電気がないから非常に暗かったそうだが、男女混浴だったため、風紀が乱れるという理由で寛政の改革、天保の改革で禁止されたが、お触れは守られなかったようだ。事実、幕末に日本にやってきた外国人の手記でも、男女混浴と日本人の銭湯好きについては特筆していた。男女混浴は眉をひそめる者が多かったが、「なんと清らかな素朴さだろう」と、男女が裸であることを恥ずかしがらないことに自分のそれまでの価値観が揺さぶられたという記述もあった。そして日に一度、多い者は日に何回も行くという江戸住民の銭湯好きは、市中の道路、家の内、寺社仏閣のきれいさ、そして賄賂を受け取らずたかりもしない日本人の高潔な気質と合わせて、多くの外国人が日本人を「世界で一番清潔な民族」と激賞し、その対極にある不潔な清、朝鮮との違いを強調していた。風呂に関しては湯代が150円程度と公定価格で安く抑えられていたこと、江戸に銭湯の数が多かった事も要因のひとつだ。
 
☆死罪は色々
 時代劇の悪人にお奉行様が「市中引き回しの上、磔、獄門を命ずる!」というのを聞いたことがあるだろう。今の死刑は絞首刑のみだが、江戸時代はグレードがあった。刑の仕組みはあまりに複雑なので代表例のみ記述する。一番軽いのは下手人(げしゅにん)。喧嘩などの殺人が対象で、牢内で首は切られるが、遺体は引き渡され埋葬できる。10両以上の窃盗や誘拐で受ける「死罪」だと牢内で首を切られた上に遺体は試し切りされ、打ち捨てられた。ここからは遺体は打ち捨てられ、財産も没収である。強盗殺人は獄門(ごくもん)で、牢内で首を切られたあと2夜3日、首を公開で晒される。ここから先は首も晒される。そして尊属殺人は公開処刑である「磔(はりつけ)」。ご存じのように角材に縛り付け、下から槍で突く。最も重い主殺しは「鋸引き(のこぎりびき)」。首から下を地面に埋め、横に竹鋸を置いて晒し、3日後に磔にした。放火も重罪、「火罪」で引き回しの上に火あぶりされた。死刑を一等減じたものは遠島。江戸の場合は伊豆七島へ送られた。女性の場合は罪を一等減ずるのが常。10両以下の窃盗は敲き(たたき)。2回目は敲きと入れ墨。そして3回窃盗を行うと死罪となった。犯人が武士の場合は、武士としての体面を保てる程度の内容と判断されれば自分で自分を裁くという意味で切腹となった。ただ切腹は、自分で責任を取る切腹や、無念を晴らすための切腹、主人が亡くなった時の殉死のための切腹など、自発的なものも多く、基本的に刑罰ではなく、武士だけ許された名誉だった。実際は腹に短刀をあてるしぐさをしたとほぼ同時に、介錯人が首を落としていたという。切腹を許されない場合は斬首となったが、町人のように遺体を晒されることはなかった。
 
☆世界一の識字率、江戸の町
江戸時代、幕府が掲げる高札に町民が集まって読んでいたり、「さあさあ、てえへんだ」の瓦版屋の掛け声に集まり、争って瓦版を買って読む町人、時代劇で当たり前の光景だが、これは世界的には凄いことだった。ある調査では18世紀の江戸の識字率は70%以上、農村部を除くと90%であり、それに比べてロンドンは20%、パリでは10%もいなかったという。アジアでは清で5%、朝鮮は10%程度。事実、日本にやってきた外国人は、日本人を世界で最も教育が行き届いた国民と絶賛していた。そして読み書きから計算までできることも驚きであり、明治維新以降の発展はこの教育の高さが一因だっただろう。
 
☆大君と帝
 江戸時代の最高権力者は当然、将軍、つまり征夷大将軍の徳川である。征夷とは東夷を征するための称号で、朝廷が与えた。古くは奈良時代の大伴弟麻呂が最初に任命されたものだが、鎌倉幕府の開祖である源頼朝から武家政権のトップとして、無くてはならない権威の証となった。ただ、海外の国との貿易では、「将軍」ではただの天皇の臣下になってしまうためその称号は使えず、また「日本国国王」は中華王朝との宗属関係を示す言葉のため、江戸時代では対外的に「日本国大君(タイクン)」と名乗っていた。ちなみに長い間、インドより東のアジアの国は中国皇帝の臣下であることを示す「冊封」を受けていて、清代で冊封を受けずに属国でなかったのは日本とムガール帝国だけだった。大君に対し、外国人は天皇のことは「帝(ミカド)」と言っていた。
 
☆倒幕が新年の挨拶だった長州藩
 幕末に尊皇攘夷を掲げ、最も幕府に反抗的で、倒幕の中心となったのが長州藩である。関ヶ原の戦いで西軍が敗れたが徳川と密約していたにもかかわらず約束は反故、領土は1/4に減封され、その領地も4か国に分封されてしまう。毛利一門の領土を合わせて長州藩と呼んでいるのである。度重なる幕府の仕打ちに家臣も含め恨みを持ち続け、寝るときは江戸のある方角に足を向けて寝、正月の挨拶は家臣が「今年の倒幕の期はいかに?」が尋ねると藩主が「時期尚早!」と答えるのが習わしだったという。幕末の家老、村田清風は下関という地の利を生かした中継貿易で利益を上げ、殖産産業の育成、藩士の借金肩代わり(ただし37年間は利子しか払わない)、藩校の拡充など行い、長州藩を立て直した。そして藩政に口出ししない藩主、毛利敬親のもと、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)などの多くの歴史に残る人物が生まれ、倒幕、明治維新を果たすのである。

☆幕府を倒した薩摩藩の錬金術
 江戸から最も離れた薩摩藩は、関ヶ原の戦いで西軍に付きながら所領を安堵された外様大名だ。もともと大藩であるため幕府は警戒し、その力を削ぐため、遠く岐阜の木曽川・長良川・揖斐川の3河川の治水を命じ、領民に一切の協力をさせず、また薩摩藩士が作った堤防を夜中に壊すなどの嫌がらせを行い、薩摩藩の財政を圧迫させた。この治水は薩摩藩士51名が抗議の切腹をし、責任者だった総奉行平田靱負も工事終了後、切腹するという悲劇を生んでいる。薩摩藩の借金は膨大なものに膨れ上がったが、幕末の家老、調所広郷は500万両にも及ぶ商人からの借金を250年間で払うという借金棒引きを強行、奄美を通じての砂糖の独占販売、琉球を通じて中国と密貿易をして利益を上げ、薩摩藩の財政を好転させた。藩主島津斉彬は洋式の工場群を設立、武器製造や洋式の造船、食品製造などを行い、雄藩として力を確立する。最後の藩主久光時代では、後に実権は西郷隆盛や大久保利通などの下級藩士に移り、坂本竜馬が犬猿の仲だった長州との間を取り持って薩長同盟を結ばせたことから一気に倒幕になだれ込み、明治維新の中心となるのである。

☆農民出身が武士を貫いた新撰組
 京都の町を震撼させた幕府側の軍事集団・新撰組。正規軍である会津藩主松平容保率いる京都見回り組に対して、言わば志願兵で作られた新撰組は非正規の軍団だった。しかしここには隊長の近藤勇、副長の土方歳三がいて、敵に対しては池田屋事件で尊皇攘夷の志士を殺害・捕縛して名をあげたが、味方に対しても規律違反・脱退は許さず、容赦なく切腹させまたは暗殺した。勤王の志士との戦いの死者が6名、内部抗争での死者が45名と、新撰組は徹底的な鉄の規律を強いた。近藤は鳥羽・伏見の戦いの後、流山で捕まり処刑、土方はその後も徹底抗戦を続け、蝦夷地の函館戦争で壮絶な戦死を遂げた。降伏を許さなかった土方は味方に暗殺されたという説まであるほどだ。しかしこの新撰組の中で、近藤と土方は、豪農の出身で、生まれは武士ではなかった。幕末という時代だからこそ、剣の腕前で目を付けられ、士官の口があり、そして功を認められ幕臣に取り立てられ、武士になれたのだ。武士ではなかったからこそ、武士になった時に、誰よりも武士らしくいたのだろう。

☆大阪の没落は明治政府のせい?
江戸時代でも商業の中心は大阪だった。どの藩も米本位が崩れてくると財政が悪化、大阪商人から金を借り、それで財政を補うようになる。いわゆる大名貸しだが、不良債権化することもままあったが、資産として認められ、ステータスとして信用も高めていた。しかし明治政府になると江戸幕府の債権は一切拒否、江戸時代の債権も天保14年(1843年)の棄捐令を口実にそれ以前の債権を認めず、大名貸しはほとんどがそれ以前からのものだったので全て貸し倒れとなって、一気に大阪は地盤沈下した。明治維新とは言うが、明治革命政府が樹立されたのだから、前政権のものは一切否定されても仕方がなかったのである。

 
☆敵同士ではない甲賀忍者と伊賀忍者
 滋賀県甲賀市、三重県伊賀市と山ひとつ隔てた地に住んでいた忍者の集団が甲賀と伊賀だった。どちらも普段は農業や行商を行い各地の情報を集め、命があればその地に赴いて工作活動をしていた。お互いに協力関係にあり、どちらかが攻められれば助けるという約束があった。甲賀が主君に使えるのに対して、伊賀は金銭関係で動いたという。しかし裏切りや抜け忍は絶対に許さなかった。甲賀は六角氏の下で甲賀武士団として名をはせたが、戦国時代で豊臣秀吉の配下となり、徳川家康の監視を命じられた。一方伊賀は織田信長と戦い、一時は和睦をするが、本能寺の変で信長が死亡、慌てふためく徳川家康を伊賀の服部正成(服部半蔵)達が護衛して堺から三河国まで脱出させ、その功で徳川から重用され、豊臣の伊賀忍者追討を命じられた。このことが伊賀対甲賀の忍者対決のモデルとなったのである。その後、徳川の天下となると家康は諜報活動に長け、武術も使える忍者の存在を大きく評価し、伊賀同心として召し抱え江戸城の警備にあたらせた。服部半蔵の組屋敷があった門は半蔵門と呼ばれている。そして伊賀忍者は諸国へ散らばり諜報活動を行った。一方甲賀忍者も江戸幕府になって50年後に甲賀同心として召し抱えられ、島原の乱では甲賀忍者が侵入し、城内に食料がないことを知らせたという記録が残っている。

☆日本は連邦国家?薩摩の野望
 幕末、聡明な最後の将軍徳川慶喜は、日本の政権は幕府であることを諸外国に知らしめ、なおかつ良好な関係にあったフランスからの大型借款を取り付けるべく、1867年のパリ万博への出展を決定した。将軍の名代として次期将軍候補の実弟の徳川昭武を派遣し、茶屋や等身大の鎧兜の侍の人形、漆器、和紙などを展示し、ジャポニズムと言われる日本ブームに拍車をかけた。特に2階建ての茶屋は材料を船で運んで現地で組み立て、日本から連れていった着物姿の3人の芸者が接客したことから、記録的な人気となったという。これだけなら大成功のように思えるが、幕府一行を驚愕させたのは、薩摩藩が当時実効支配していた琉球王国の名前を使って「琉球薩摩国」という名でブースを出し、堂々と島津の家紋を国旗のように出していたからだ。琉球薩摩国の五文字が入ったレジオンドヌールに似せた勲章も作っていて、幕府とは別の「薩摩太守の政府」として振る舞っていた。これは薩摩との貿易を強固なものにしたいフランス/ベルギーの貴族の勧めで薩摩が幕府に相談なく出展したものだが、独自の勲章を作って勲章外交(当時の外交の流儀。幕府はそのことを知らず、勲章を作っていかなかった)を行っていたのだから恐れ入る。薩摩の勧めで佐賀鍋島藩もブースを出していた。当然、幕府は猛抗議、なんとか「琉球」の名前と、島津の旗は外させたものの、フランス政府をはじめ諸外国は、幕府とは「大君(タイクン。外国用の将軍の称号)政府」という一君主に過ぎないという認識になってしまい、大型借款の話も消えてしまった。こうやって幕府の権威失墜を薩摩は果たしたのだが、この当時の薩摩のトップは藩主の実父の島津久光。久光の野望は自分が徳川に代わって最高権力者、将軍になることだったが、部下の西郷隆盛、大久保利通らは、そんな久光を利用して明治維新を成し遂げ、維新後は廃藩置県を行い、大名は一国の主の座を追われ、そのかわり華族として列せられた。廃藩置県が自分の部下の大久保や西郷の主導で行われたことを知った久光は激怒したが、周りは明治政府の兵士に囲まれており、悔しさのあまり夜通し自宅から花火を上げていたという。
































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