2017年2月20日月曜日

知れば知るほど面白い、飛鳥時代から日本語が作られていく過程。タイムマシンで江戸時代では普通に会話できるが、平安時代以前はほぼ不可能だ。


自分が学生に戻れたら、絶対に日本語を研究する学科に入りたい。特に昔の日本語がどのように話されていたか、その事を知りたくてしようがなく、稀にTVでそういう特集があると録画して何度も何度も見ているほどだ。先日のNHK『探検バクモン』の「お宝本の宝庫・東洋文庫」の回の中で、一度もカメラが入った事がない貴重本エリアの中でさらにTVカメラの温度もNGという書庫の中から、世界で1冊しかない1592年出版の「ドチリーナ・キリシタン天草版」の日本語辞書の部分だ。日本に来た宣教師が布教のために作ったローマ字での日本語の問答集、そして日本語を日本語・ラテン語で解説したミニ辞典で、例えば「Aisuru」(愛する)が「Mote Asobu coto(もてあそぶこと=この当時は大切にするの意味)と書かれている。豊臣政権時代の日本人がどういう言葉をしゃべっていたか分かる超一級の資料で、これには興奮した。興奮のあまり高額な「東洋文庫善本叢書」でコピー本を買ってしまったほど。

このシリーズは東洋文庫所蔵の国宝・重要文化財の12冊の本を写真に撮って復刻したもので「説明付」と書いてあったので購入したが、本の作られた背景の簡単な説明で、こういう言葉の説明ではなく、ましてやラテン語は分からないので、今のところ眺めているだけ(笑)

さてこういう現在の日本語が成立するまでの流れは2012年に放送した「たけしの教科書に載らない日本人の謎」が最高のテキストだった。ここで放送された内容を中心に流れを紹介したい。

    縄文・弥生時代は日本には文字がなく、どういう言葉だったのかは分からない。

    1世紀に「後漢書」でも記載されている「漢委奴国王金印」(江戸時代に田んぼ耕作中に出てきた)で、中国から福岡あたりを支配者に冊封の証の金印を下賜したものとされる。漢字が日本に伝わった最初のものだ。

    日本の知識層は中国に留学し、文字を学んでいく。飛鳥時代の遣隋使の小野妹子が有名。604年には聖徳太子が十七条憲法を作るなどしたが、みな漢文で作られた。しかし607年の国宝・薬師如来像の後ろに書かれた漢文は「薬師像作」と、既に日本語の語順で書かれていた。

    奈良時代になると、日本語を漢字で表現する方法を考える。暴走族のような一音一音を当て字にすると手間がかかる。それで中国語の「山(サン)」を当て字の「也麻」ではなく日本語の「やま」と呼ぶことを編み出す。そう「訓」である。そして漢字の「音」と「訓」を組み合わせたのが「万葉仮名」だった。「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む」は原文では「難見飽 吉野河之 常滑 絶事無 複還見」でアンダーラインが音、他が訓だった。この万葉仮名で「古事記」や「日本書記」も書かれた。そして例えば今の「キ」には、万葉仮名では漢字が2種類あって区別してあり、発音が別と分かることから、奈良時代の人がしゃべっていた音の体系が復元できた。今の日本語の母音は5つだが、当時は8つだったことも分かっている。「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」、「サシスセソ」は「ツァツィツゥツェツォ」で、また名詞も違っていて蝶々は「ディェップディェップ」というように。これで話すと「母上様、蝶々が飛んでいますよ」は「パパウエツァマ ディェップディェップンガチョンデウィマツゥィヨ」なのだから、タイムマシンで聖徳太子と話すのは難しいだろう。また日本語はヤマト方言と琉球方言に大別されるが、この分岐は奈良時代頃とされる。沖縄では「ハ」行が「パ」行に転化していて、また妻の「トゥジ」はこの時代の「刀自」、トンボの「アーケージュ」はこの時代の「秋津」と、奈良時代の言葉が残っている。

    平安時代になると、漢字を一つ一つ書かないといけない万葉仮名は手間だと、漢字の一部を崩したり端折って作った「草仮名」をさらに簡略化した表音文字の「ひながな」が作られる。さらに同時期、漢字の一部を使って素早く書ける「タカタナ」が、仏門の僧の間で生み出された。ひらがなに飛びついたのは宮中の女性達。昔から女性は新しく便利でかわいいものが大好き。あの「源氏物語」もひらがなで書かれた。しかし宮中の男性は、こんな軟弱なものはダメ、男は漢字だぜと漢字を使う。しかし日本語は漢字、ひながな、カタカナで表現できるようになった。平安時代の日本語は、平安時代の末期に作られた「類聚名義抄」という辞書があり全ての和語にアクセントが添えられていた。また鎌倉時代の発音に関する書物、万葉仮名の発音で平安時代の言葉が導き出せた。TVではその朗読が流れるが、非常に不気味な雰囲気があり、発音が難しかったので当時は非常にゆっくりとしゃべっていたそうだ。

    鎌倉時代になって武士の時代になる。漢字はシャープなので武士に好まれ、当時和語で話されていた言葉を漢字に直して、音読みで発音した日本独自の漢字が作られていく。ひらがなの「かへりごと」は「返事」、「おおいにせまる(=かけがえのない)」は「大切」、「ひのこと」は「火事」という漢字を作り、従来のゆったりとした言葉から、力強くスピーディーでコンパクトな漢字が使われて、日本語は新しいステージに移る。

    室町時代は、足利尊氏が京都に幕府を開く。全国から田舎侍が集まり、京都の公家は荘園を奪われ生活が困窮するが、かわりに都言葉、立ち居振る舞いを武士に教える家庭教師として生計を立てた。武士も征夷大将軍や関白などの位があがるのは天皇の認可が必要で、都言葉が話せることが必要不可欠であり、武士の間に雅な都言葉が浸透していった。室町時代の日本語は、狂言で聞くことができる。

    戦国時代の主役は織田信長や豊臣秀吉という田舎の大名でなまりが抜けなかった。織田信長が明智光秀を重用したのは、京都出身で最上級の都言葉が話せたからだという。

    徳川家康が江戸に幕府を開いて260年の天下泰平の時代が訪れた。徳川幕府は藩政をしき、日本は細かい藩に分けられ、それぞれ独立採算でお互いの交流はなくなる。そのため、現在の「方言」は江戸時代に深まった。そして世界でも最高の人口となった大都市の江戸では武士は「山の手言葉」、これは都言葉で、山の手の大名屋敷に集まった武士の間で話された。時代劇で聞くあの言葉である。一方、庶民の間で話されたのは落語で聞けるべらんめえ調の「下町言葉」。新しい江戸というまちに全国から新しい人が集まり、噂好き、話好きの庶民の間で室町時代の言葉は、せっかちで早口な言葉に変えられていく。江戸時代の庶民の会話は、江戸時代後期の「浮世風呂」に書かれているが、そこに書かれた少女の会話は、そのまま現代の会話である。この時代にタイムマシンに行けたとすれば普通に会話が通じるだろう。

    明治維新によって、天皇も東京へ移り、政治・経済の中心は東京になる。明治維新の中心は各藩の下級武士なので方言のまま、最初の議会で、全国の議員が方言で話すので意思疎通ができず大いに困ったそうだ。徳川慶喜も回想録「昔夢会筆記」で、徳川将軍時代に薩摩の武士が来たが何を話しているかさっぱり分からずいいとも悪いとも言えずに非常に困ったと言っている。日本は中央集権国家となり軍隊も作る中、教育を統一するため共通語が必要だった。そのベースとなったのはやはり洗練された「山の手言葉」。しかし当時花魁が使っていた「です」という言葉が、武士の「ござる」や商人の「ございます」、農民の「だ」よりも簡潔で上品だと、採用されるなど例外もあった。平安時代にあった200ものひながなは現在の50音(当初は48音)にまとめられ、学びやすいものになる。また長州藩士が「下僕」を「僕」、「主君」を「君」と言っていた表現も定着していった。しかし海外に門戸を開いた日本には今までにはない海外の言葉が一気に流入する。最初はそのままの外国語が使われたが、このままではいけないと文学者達が、必死に新しい漢字で造語していく。西洋の思想や科学技術を日本人が理解できる漢字に置き換えたのは非常に重要だった。「自由」「民主主義」「人民」「演説」「電話」「交響曲」「聴診器」などの言葉は明治時代に作られた言葉。この和製英語は本家の中国に多く逆輸入され、中国の国名の中華人民共和国の「人民」「共和」はなんと和製英語なのである。ただ外国人にとって「超人的」と悩ませたのは、文章にした時に話し言葉と違う「文語体」の存在だった。そこで二葉亭四迷や尾崎紅葉などによって「言文一致運動」がおこり、口語体の夏目漱石の「吾輩は猫である」はベストセラーになった。

    昭和になってラジオが普及、ラジオではそれまでの漢文訓読調から座談会のような平易なアナウンスが推奨された。そしてラジオにより共通語の正しい発音やアクセントが全国に普及する。

    戦後に文語体はなくなり、また漢字の次にあったカタカナは、ひながな優先に改められ、日本国憲法も誰でも分かりやすい漢字とひながなで作られた。本来、危険である意味で用いられた「やば」が、形容詞としての「やばい」になり、さらに「凄い」という意味でも用いられるようになるなど、日本語は常に変わっている。最近の若者の言葉は…というのは前述のように平安時代も同じ。日本語の変遷は知れば知るほど面白い。

(佐野邦彦)




2017年2月18日土曜日

黒沢健一さんとの思い出を偲び、大好きだったL-Rの全音源を集めるCollecting Guideを作ってみた。未だにシングルのみの14曲、サントラの2曲、ベスト盤のみの4曲など要チェック。


黒沢健一さんが昨年の125日に亡くられてから2カ月半経った。123日には「黒沢健一を偲ぶ献花の会」に、黒沢さんの所属のrpmのマナージャーさんよりご案内をいただいたが、この体なので参加できないとの返事を差し上げて自宅でご冥福をお祈りした。部位は違っても病気は同じであり、明日の我が身でもある。他の人より衝撃は深い。彼は48歳と私より11歳も若く、無念のほどは察して余りある。黒沢さんとお会いしたのは2回あり、最初は萩原健太さんのイベントで、萩原さんのギターでの「Surf’s Up」のハイトーンヴォイスの美しさに、うっとりと聴き惚れた。2回目はブライアン・ウィルソン2回目の来日の時で、バック・ステージに入ることが出来たのだが、黒沢さんもその場にいた。黒沢さんはLPを持ってきていて、「Hello」と現れたブライアンが一人一人と握手する中、サインをもらって、少年のように目を輝かせていたのを思い出す。毎回、何か話をしたのだが内容は覚えていない。でもとてもシャイで物静かで、でも優しい雰囲気を纏った方で、話をしてとても好印象を持った方だった。私はL-Rの時から黒沢さんの作る音楽がまさにストライク、そのポップで明快で高揚感のあるメロディと美しいハーモニー、素晴らしいハイトーンのヴォーカル、そして類まれなポップ・センスに夢中だった。rpmのマネージャーの方のメールで黒沢さんが「佐野さんが、いかに音楽が好きで造詣が深いか、VANDAがいかに音楽好きの自分の心をくすぐるのか、社会人をやりながらここまで…」とマネージャーの方に敬意を言葉にされていたそうで、身に余る光栄でとても嬉しかった。私はただ好きな音楽を見つけて紹介しているだけで、曲を作るわけではないのに。黒沢さんの死後、L-Rのアルバムがリイシューされ全アルバムが聴けるようになった。自分もこの機会に聴きなおし、シングルのみの9曲の紹介など、L-Rの全音源を集めるCollecting Guideを作ってみたので紹介しておきたい。一人でも多く黒沢健一さんの音楽の素晴らしさが伝わって残るように。

 

20172月現在)

LR

L-Rとしてオフィシャル・リリースされた曲のみ。サンプル盤のみの曲は最後に記載。

 

☆オリジナル・アルバム

1991  L』※1997年『L+R』(プロモ盤『R』とセット。初回限定盤には「Paperback Writer」「Both Sides Now」のCDシングル付でリリース。前者はこれのみ)

1992 『Lefty In The Right』(ポリスター)

1992  Laugh+Rough』(ポリスター)

1993 『Lost Rarities』(ポリスター)

1993 『Land Of Riches』(ポリスター)

1994 『Land Of Riches Reverse』※前作のアウトテイク(ポリスター)

1994 『Lack Of Reason(ポニーキャニオン)

1995 『Let Me Roll It(ポニーキャニオン)

1997 『Doubt(ポニーキャニオン)

1997 『Live Recordings 1994-1997』※4枚組のライブ(ポニーキャニオン)

 

☆必要なコンピレーション

1994 『Singles & More(ポニーキャニオン)※「Laugh So Rough」は『Laugh+Rough』収録のものに比べ歌が始まる前のドラムの2拍がない。「Younger Than Yesterday」は『Laugh+Rough』収録のものは前の曲の「Laugh So Rough」のエンディングがイントロと被るようにつながっていたため、0.5秒くらいイントロが長い。そしてバッキングのドラムの大きくミックスされ、特に後半はかなり曲にメリハリが出ている。

1995 『四姉妹物語』(ポニーキャニオン)※同名映画のOSTL-R4曲参加。L-Rの「Dream On」はこれのみ。「Hello It’s MePiano Version)」も収録され、ピアノはMasahiro Hayashiでクレジットされている。ちなみに「Hello It’s Me」はSingle Versionで収録されている。

1997 『Singles & More Vol.2(ポニーキャニオン)※「Knockin’ On Your DoorSingle Version)」は17秒から33秒までのホーンのミックスが大きい。「ByeSingle Version)」はイントロのギター、エンディングのピアノが大きく間奏のオルガンが小さい。「Day By DaySingle Version)」は1分から15秒くらいの間のオルガンがほとんど聴こえない。「GameSingle Version)」はギターが大きくミックスされているがアルバムより11秒短い。「Nice To Meet YouSingle Version)」は歌のAメロなど電気処理したようなミックス。その他「DaysAlternate Mix)」「僕は電話をかけない(Alternate Mix)」収録。なお「Hello It’s M」はAlbum Versionだった。

2012  Who Is The Stars? Wits+Z Compilation Vol.2-20th Anniversary Edition(ウルトラ・ヴァイヴ)93年のライブ6曲収録

 

☆必要なシングル ※重要なのは★の14

1992 ★「Bye Bye Popsicle[Version]Single Version)」※最後が『Lefty In The Right』収録のものと同じエンディングがシンフォニックなアレンジのヴァージョンだが、ドラムが『Lefty In The Right』は左なのに比べ、シングルは右。そして15秒から21秒までの間奏のドラムが僅かに大きくミックスされた。(ポリスター)

1992 ★「Passin’ ThroughSingle Version)」※314秒以降のエンディング部分はこのシングルのみ。A面の「(I WannaBe With You」は222秒から53秒までと、310秒から33秒までをEditしたSingle Version。(ポリスター)

1993 「恋のタンブリングダウン」のシングル:「恋のタンブリングダウン(Edit)」※『Lost Rarities』よりフェイドアウトが16秒短く、その後、間をおいての24秒のジングルがない。「君に虹が降りた(Edit)」※『Lost Rarities』でのフェイドアウト後、間をおいての14秒のジングルがない。★「恋のタンブリングダウン(Reprise)」は1分の後の「素直になれたなら君のそばに届く笑顔を見せておくれ」の歌詞の部分はこのシングルのみ(ポリスター)

1994 ★「夜を撃ちぬこう」※アルバム未収録。A面は「Remember(ポリスター)

1994 ★「Hyper Belly Dance」★「Hello It’s MeInstrumental Version)」※2曲ともアルバム未収録。A面は「Hello It’s MeSingle Version)」で2017年版『Lack Of Reason』にもボーナス収録。シングルは『Lack Of Reason』収録のものに比べヴォーカルにエコーがかかっておらず310秒から30秒弱く続くシンバルが小さくミックスされている。(ポリスター)

1995 ★「Music Jamboree ‘95」※アルバム未収録。★「It's Only A Love Song」は『Lack Of Reason』収録のものと比べ曲が終わった後に8秒、アナログのプツンプツンという針音が加えられている。A面は「Knockin’ On Your DoorSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1995 ★「Chinese Surfin‘」※アルバム未収録。A面は「ByeSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1995 ★「Cowlick(Bad Hair Day)」※アルバム未収録。A面は「Day By DaySingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1996 ★「Good Morning Tonight」※アルバム未収録。A面は「GameSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1996 ★「Game(Live Version)」※1994年のライブでアルバム未収録。A面は「Nice To Meet You」の8インチシングルに収録。「Nice To Meet YouSingle Version)」は『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1997 ★「そんな気分じゃない ("JAM TASTE" Version)」※『Doubt』収録のものとはまったくの別ヴァージョン。演奏もアレンジも別物で、例えば間奏がブルースハープではなくボトルネックギターであったり、アルバムのヴァージョンは完奏するがこちらは37秒短くフェイドアウトする。

1997 ★「Stranded(Single Version)」※『Doubt』収録のものは冒頭9秒間にスタジオチャット的なギターが聴こえたがシングルではそれがなく、シングルのエンディングは逆に演奏が3秒長いが、パッと終わる演奏の後のカセットのスイッチを切るような音がカットされている。そしてシングルのみ312秒から32秒までのギターにジェットマシーンのようなシュワシュワした音がかかっている。A面は「Stand」。(ポニーキャニオン)

(作成:佐野邦彦)

●参考:サンプル盤のみ

1992 『Rough And Rough』(ポリスター)※「What "P" Sez?Long Version)」「Laugh So RoughRough Version)」

1993 『Land Of Riches Edit Sampler』(ポリスター)※「Both Sides Now(Long Version)」「Telephone Craze(Alternate Mix)

1994 『Listen To The Disc(ポニーキャニオン) ※『Lack Of Reason』より。「Easy Answers(Out Take)」「It’s Only A Love Song(Out Take)

1995 『Hello It’s Me Rare Tracks(ポニーキャニオン)※グリコの抽選でもらえる『四姉妹物語映画先取り缶』に入っていたCD。「Hello It’s Me(Strings Version)」「Hello It’s Me(Alternate Piano Version)」「Making Of Hello It’s Me(ナレーション入りだがDemo Track)

1997 『Doubt Promotion Sampler(ポニーキャニオン)※「僕は君から離れてくだけ(Alternate Version)」「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック(Alternate Mix)」「そんな気分じゃない(Alternate Mix)」
 

 

 
 

 

2017年2月5日日曜日

☆マギー・メイ:『12時のむこうに~アンソロジー1969-1975』(クリンク/CRCD5129-30)



先日紹介した実川俊晴の1975年以降のソロ・アンソロジー『TOSHIHARU JITSUKAWA POP SONGS 1979-2016』があまりに素晴らしかったので、このレーベルを超え多数のデモまで収録したコンピを実現してくれた制作・解説の高木龍太さんが、実川俊晴のそれ以前の、主にマギー・メイというバンドで活動していた前期作品集を既にリリースされていたので、高木さんに頼んで送っていただいた。このマギー・メイ『12時のむこうに~アンソロジー1968-1975』で、年代がつながった訳だ。ここで実川俊晴の音楽活動が分かった。九段高校に通っていた実川は、ビートルズ、そしてゾンビーズ、ビージーズ、ピーター&ゴードン、バーズ、などの特にコーラスに魅かれ、実川いわく「僕らのやっていた音楽はソフトロックだね」という意識で、GSが学生フォークかという潮流に属さない洗練されたポップ・サウンドを指向していた。1969年にまず東芝/エクスプレスよりマミローズの名でシングルを出すが、曲は別のメンバーが書いたものの、実川の歌を聴いたメンバーが、実川が歌った方が絶対いいと言ってレコーディング、そこで実川は自身のヴォーカルの魅力に気づくことになる。このシングルの演奏は残念ながらスタジオ・ミュージシャン。B面の「灰色の空」の方が、ハーモニーがあっていい出来だ。高校は進学校なのでみな学業優先で次々メンバーが入れ替わり、1970年にはハロー・ハピーに変わり、シングルを1枚リリースする。このシングルからは実川の曲で、演奏もグループで、特にB面の「朝日の見える丘」が洗練されたハーモニーに彩られたソフトロック系に仕上がっていて注目される。ここでさらにメンバーが就職などで抜けるが、実川は進学していた早稲田大学の音楽仲間とセッションをしたもののレコーディングには至らず、前の2つバンドメンバーと匿名で所属していた東芝のカバー企画LPに参加する。その中の1971年のレッドブラッズ名義で「No Matter What」を提供したが、これは高木龍太さんの労作コンピ『スウィーター!ルーツ・オブ・ジャパニーズ・パワー・ポップ1971-1986』(ポップトラックス)で聴くことができる。実川は音楽で身を固めていこうと決意していたので早稲田大学を中退し、集まったメンバー5人でマギー・メイを結成する。S&GPPMのハーモニーにも魅かれていた彼らはCS&Nの曲を歌っていたが、既にGAROがその路線でデビューしていたので、この路線ではなく、ハーモニーを生かしながらシャウト・ヴォーカルで(レコードではシャウトはないが)迫力あるサウンドで行こうとライブ活動を始める。そして1972年にマギー・メイ初のシングルをリリース、A面の「失くした心」は、マイナー調の曲だが、サウンド、ハーモニーのアプローチが洋楽に近い。そして1973年にポリドール傘下の洋楽レーベルに移籍してデビュー・アルバム『マギー・メイ・ファースト』がリリースされる。曲は2曲が共曲で残りは全て実川の作詞作曲だ。冒頭の「吟遊詩人」で冒頭のアコースティック・ギターからワンランクアップしたサウンドを十分に感じられる。ハーモニーの力は健在で、バッキングがパワーアップした。さらに次の2枚目のシングルになった「12時のむこうに」が傑作だ。アップテンポのアコースティック・サウンドにCS&N風の明快なハーモニーが映え、メロディも実川らしい爽快さがありベスト・ソングのひとつ。ジャジーなサウンドとハーモニー、そこに実川のハイトーン・ヴォイスが光る「ひとりぼっちの広場」は、従来にはないハイセンスな佳曲。アフロタッチのパーカッションにアコースティック・サウンドとハーモニーを乗せた「不言実行」も面白い。エレキギター、サックスをフィーチャーし、様々な展開をする洒落た「いらいら」も、新境地を開発しようという意気込みが感じられる。このアルバムの後にヒットを狙ったシングル「続・二人暮らし」をリリース、サウンド的には日本的な情緒のフォーク・ロックで、コーラスは少ないが本人達は満足した出来だといい、南こうせつがプッシュするなどラジオでは話題になったが、どのレコードもヒットしなかった。シングルA面になった3曲以外は全て初CD化で、貴重なリイシューだ。ディスク2は日本コロムビア移籍後の音源になる。まず1974年の先行シングルで、A面はフォークだが、B面の「私の小さなブティック」は、お洒落な愛らしいポップ・ナンバーで、歌い方もハイトーンで甘く、1979年以降の実川が感じられる快作だ。そしてアルバム『もぬけのから』がリリースされるが、ディレクターにしっとりとしたフォークが似合うと言われ、穏やかなフォークタッチの曲が多くなり、出来は不満だという。でもその中で光る曲があり、パイロットやラズベリーズを思い起こさせるパワー・ポップ風のギターが快調な「宝探し」や、ハーモニーとパーカッションが爽やかな「悪魔印のキャンディ」、哀調漂うメロディとコードが印象的な「ぼんやり」、シティ・ポップ・タッチの「地下鉄は終わり」、1979年以降のソロを予感させるトロピカルな「それから…」は十分聴く価値がある曲だ。1975年にマギー・メイのラスト・シングル「誓いのハイウェイ」はメロディもハーモニーも流麗で日本コロムビア時代のベスト・ソングのひとつ。B面のみ実川の曲ではないが、このアップなポップなナンバーもいい。この1975年にマギー・メイは解散するが、他にオムニバスのみの『永久保存版フォークあいうえお』にチェリッシュの「若草の髪かざり」のカバーを提供、さらにカルメンの1974年にシングルで実川が作詞作曲、演奏マギー・メイという「嘘みたい!?」も収録してあり、ディスク2も『もぬけのから』以外の曲は全て初CD化なのが嬉しいところ。アルバムには収録されていないが、1975年に実川が曲を提供し、とんぼちゃんのデビューシングルになったサビのメジャー展開とハーモニーが心地よい「貝殻の秘密」があるので、ご存知の方も多いと思う。この1975年にはあのSUGAR BABEが鮮烈なデビューを飾っており、その前に1973年には荒井由実が『ひこうき雲』、1974年『MISSLIM』、1975年『COBALT HOUR』と怒涛のリリースで既に日本のポップ・ミュージック・シーンを革新していた。マギー・メイでの活動は、この時期が潮時だった気がする。このCDで先に紹介した実川俊晴『TOSHIHARU JITSUKAWA POP SONGS 1979-2016』へつながるので、実川俊晴というほぼ無名の、しかし優れたミュージシャンの全ワークスを追えるようになったことは素晴らしいことだ。今のうちに必ず入手しておこう。(佐野邦彦)

※情報はこちらまで

*マギー・メイの情報はこちらまで(現状、販売元直営の芽瑠璃堂、あとはタワー、HMV、ディスクユニオンは確実に通販可能)




2017年2月1日水曜日

The Pen Friend Club:『Wonderful World Of The Pen Friend Club』(サザナミ・レーベル/SZDW1029) 平川雄一インタビュー

 

WebVANDAではお馴染みのペンフレンドクラブが、早くもフォース・アルバムとなる『Wonderful World Of The Pen Friend Club』を今月8日にリリースする。
昨年ボーカリストの交代劇があったものの、新たにサックス奏者をメンバーに加え、新生ペンフレンドクラブとして新たな第一歩を踏み出した。
またリーダー平川雄一がRYUTistへ楽曲提供したことで、彼らのサウンドの裾野が広がったといえる。
アルバムの詳しい解説については、弊誌佐野編集長と筆者による推薦コメントを読んで頂くとして、ここでは通算三回目となる平川氏へのインタビューを掲載したい。
The Pen Friend Club OFFICIAL WEBSITE
●各方面からの推薦コメント 


●まずはサード・アルバム『Season Of The Pen Friend Club』リリース後に高野ジュンさんが脱退し、3月には新たに四代目ボーカリストとして藤本有華さんが加入されていますよね。アルバム毎にバンドの看板メンバーの交代が続くというのは、リーダーとしてかなり大変な出来事だと思いますが、毎回スムーズに対応されていて感心しています。
苦労話もあると思いますが、その辺のエピソードを聞かせて下さい。

平川(以降H):はい、毎回アルバムが出る度にボーカルが脱退するのは最早ペンフレンドクラブ(以降ペンクラ)の風物詩と化した感がありますが、実際は「止むに止まれず」、「苦渋の決断」というのが実情です。
メンバーの交代には相当な体力が要ります。精神的にもキツいものがあります。
あとボーカル交代の場合、キーがほぼ全レパートリー変更されるので演奏するメンバーも大変です。とはいえ今回新たに加入したボーカル・藤本有華に出会えたことは本当に幸運でした。

●藤本さんは声量や声域的にも素晴らしいものがありますが、ペンクラに参加される前はどのような活動をされていたんでしょうか?

H:子供の頃から歌うことが好きで、よくディズニーやミュージカル映画の英語の歌を真似ていたそうです。
ただ社会人になるまではカラオケ程度で人前での歌唱は未経験だったそうです。 「歌いたい欲」を持ったまま就職後、会社の同僚たちとアコースティックバンド ”T-time.” を結成しますが、好評を得るも短期間で終了します。その後、初のフルバンド ”まいすぺ” を結成し、主に洋邦のスタンダード曲を演奏するバンドでしたが、このバンドも3年程で解散しています。
 「歌いたい病」を患ったままピアノ弾き語りを習いに音楽教室に通ったり(教室主催のコンクールで受賞)、ライブハウスのオープンマイクに参加したり。 そんな中、ペンクラからお呼びがかかった。そんな感じらしいです。 

●看板メンバーであるボーカリストが藤本有華さんに変わったことで、何か新しい変化はありましたか?
また翌月にはサックスの大谷英紗子さんが加入しますよね。バンド・サウンド的にも幅が出てきたと思いますが、具体的にはどんなことでしょうか?

H:藤本の歌唱力、英語の正確な発音は間違いなくペンフレンドクラブのサウンドをいい意味で変えました。「歌うこと」への藤本なりの美学、自信を感じます。
一緒にやっていて本当に頼もしいですね。
大谷は現役のクラシック科の音大生で(2017年1月現在)、音楽的素養に関しては僕が言うに及びません。やはり彼女にも演奏家としての美学、信念を感じます。藤本同様、非常に頼もしい存在です。
ライブではテナーとアルト。4thアルバムの録音ではバリトンサックスも演奏しました。おかげで僕の本当にやりたかったサウンドが実現しました。 (特に「Born To Be Together」や「Sherry She Needs Me」。) 

●大谷さんの参加も大きいですね。レッキングクルーにおけるスティーヴ・ダグラスの役割をしてくれるので今後の展開も楽しみです。
あとはバラード系の曲で彼女のサックス・ソロをフューチャーすることで盛り上がりますし、平川さんの作曲の幅も広がると思いますよ。

H:ですね。今回の4thアルバムでも数曲サックス・ソロを披露してくれています。大谷曰く「もっと80歳くらいのサックス奏者のように吹きたい(吹かねば)」とのことです(笑) 。
こういうことを言えること自体がいいなと思いました。

●今回のアルバムもサード同様に、オリジナル曲とカバー曲の比率が5曲と5曲ということですが、アイドル・ユニット RYUTistへの楽曲提供等(タイトル「ふたりの夕日ライン」)が創作意欲に火を付けたなど平川さんの中で心境の変化がありましたか?

H:もともと火はついていたんですが、油を注がれた形です。
RYUTist側からは「いつものペンクラらしい曲で。変にアイドルに寄せないで、自身の作品と思って作曲して欲しい。」というオファーだったので嬉しかったですね。なので最初からペンクラでセルフカバーするつもりで書きました。
「夕日ライン」というのは新潟の【日本海夕日ライン】という道路の名称でRYUTistのアルバムタイトルであり、そのアルバムのコンセプトでもあります。
ただ新潟とは元々縁の無いペンクラでやることを想定して「夕日ライン」を【夕日によってできるライン状の影】や【夕焼け空の雲間から射すサンバースト】などにも解釈出来るように、と思いながら書いたんですが...歌詞内で名言してないのでそこまでは伝わらないですよね(笑)。 ただの自分内設定です。


●アルバムに先行して、その『ふたりの夕日ライン』のセルフカバーをシングル・リリース(1月14日)して話題にもなっていますが、そもそもRYUTistに楽曲提供した経緯は?

H:新潟のバンド、鈴木恵TRIOの鈴木さんを介してRYUTistのディレクターさんから楽曲提供依頼のメールを頂きました。
ペンクラの最初期の頃から注目していたとのことで、大変熱烈なご依頼で嬉しかったですね。 他アーティストへの楽曲提供は未経験でしたが興味があったので二つ返事でお受けしました。 その後、カンケさん、so nice鎌倉さん、鈴木恵さんと作家陣が決まり、RYUTistを中心に作家間のつながりも強まりました。

●このRYUTistの『日本海夕日ライン』には、伝説のシュガー・ベイブ~山下達郎フォロワーのso niceを率いる鎌倉克行氏も楽曲提供していますが、直接彼と出会って何か得るものはありましたか?

H:話好きでとても気さくで本当に楽しい方ですね。ペンクラのこともお好きでいてくれてたり・・・村松邦男さんを紹介していただいたりもしました。

●今回もVANDA的にカバー曲の選曲が非常に気になります。 マン&ワイル(&スペクター)作のザ・ロネッツの「Born To Be Together」、グリニッチ&バリー(&スペクター)作のアイク&ティナ・ターナーの「River Deep-Mountain High」とフィレス・レコードづいていますが、この影響はどこからですか?
またフィフス・ディメンションでは全盛期を過ぎた71年作の隠れた名曲「Love's Lines, Angles and Rhymes」を取り上げていて、選曲的にも心憎いですが。

H:いずれも「好きな曲」です。 『Born To Be Together』はバンド初期からやりたかった曲です。こういう曲をやることに生き甲斐を感じています。
『River Deep-Mountain High』は藤本の好きな曲でもあります。アイク&ティナのレコーディング版とライブ版のいいとこ取りをしたような仕上がりを目指しました。
『Love's Lines, Angles and Rhymes』は「藤本なら実現できる。」と思い、取り上げました。 本人は「普段こんな歌い方をしないから恥ずかしい。」と語りますが、アルバム中、本人に一番ハマっている歌唱ではないかと思っています。
且つ、この曲は聴きどころの沢山ある仕上がりになりました。スネアのリムの響き。ベースの音色と動き。サックス、フルート、グロッケンの混じり具合。好きなトラックです。

●どの曲もオリジナルでアレンジが完成されているじゃない。カバーする際ペンクラらしさを感じさせることで気を配ったことは?

H:カバーする際、特に「ペンクラらしさ」は意識はしていません。ガレージバンドがこういった音楽を本気でやると、自ずと「らしさ」が出るんじゃないでしょうかね。
大きな声では言えませんが「オリジナルに勝ちたい(勝たねば)」という闘争心はあります。

  

●ビーチ・ボーイズのカバーが復活しましたが、65年のアウトテイクで、後にブライアンが98年のソロ作『Imagination』に「She Says That She Needs Me」と改名し収録された、「Sherry She Needs Me」ですが、これは平川さんならではの拘りですか?

H:これは昔から最高に好きな曲ですね。 ペンクラの2ndアルバム発売後くらいから密かに1人で録りを進めていたんですが、これまでずっと放置していました。 ある時、謎の音楽家・カンケさんがプライベートで録音したものを聴かせて頂いて、「俺もやらねば」という気になり今回の4thで取り上げた次第です。
基本的に65年BB版の音像をよりダイナミックに、明瞭にしようと。そこに98年BW版での追加要素を合わせたような仕上がりにしました。
このトラックはこれまでのペンクラ作品の中で一番好きです。特にテナーサックスとバリトンサックスの音色が最高です。

●なるほど、密かに一人多重録音でプリプロしていたんだ。
因みに平川さんはドラムまで演奏出来るので、マルチプレイヤーだと思いますが、メンバー含めたレコーディング本番までのプロセスを可能な範囲で教えて下さい。

H:メンバーの歌、楽器以外の素材は僕の方で全て予め宅録します。それをメンバーに聴いてもらって、各人に指示する感じですね。
ドラムのアレンジは祥雲(ドラマー:祥雲貴行)に全体の雰囲気を伝えて、あとは基本お任せです。祥雲アレンジの方が木目細かいので。

●サード・アルバムの山下達郎氏の「土曜日の恋人」に続き、大滝詠一氏の「夏のペーパーバック」を取り上げていますが、やはりペンクラのサウンドを聴く限り、この先人お二人の影響を受けていない訳は無いですよね?

H:もちろん、仰る通りです。日本人のミュージシャンで一番いいですね。次の5枚目の日本人カバー曲どうしようかなって感じです。

●オリジナル曲では一聴して「微笑んで」に惹かれました。 こんな名曲をどうやって作り上げたのか教えて下さい。

H:17年前、僕が18か19歳の時、まだ尼崎の実家で宅録をしていたときに原型を作りました。ほぼビートルズしか聴いていない時期です。
サビのメロディーは当時と全く同じで、Aメロ、Bメロはコード進行、メロディー共に変更しました。歌詞は全て書き直しました。
この曲は僕の原点みたいな存在なので、こうやって自分の納得のできる製品として完成させることが出来たのが凄く嬉しいです。あの頃の自分に聴かせたいです。

●ダイヤの原石は十代の頃に出来上がっていたんですね。そのデモも聴いてみたいですよ。サビメロは変わっていないということは、ソングライティング・センスが向上して、曲としての完成度を待っていたようで興味深いエピソードです。
こういった原石はまだあるんでしょう?

H:10代の頃作った曲で今でも出せそうなのは数曲あります。今後もちょっとづつ小出しにしていこうと思ってます。笑 あの頃のデモは・・・あのMDどこ行ったんかな・・・。見つかったらまたお聴かせします。

●最後にアルバムのPRと、レコ発ライヴ・イベントなど直近のライヴ・スケジュールをお願いします。

H:今回の4thアルバム『Wonderful World Of The Pen Friend Club』は目下ペンフレンドクラブの作品の中で一番出来がいいです。ぜひ聴いて確認してください。
2月以降のライブ予定はこちらです。

◎2/5 吉祥寺 伊千兵衛
◎2/19 HMV record shop渋谷
◎2/26 dues新宿
◎3/12 東高円寺 UFO Club


(インタビュー設問作成:ウチタカヒデ)



☆Pen Friend Club:『Wonderful World Of Pen Friend Club』紹介


2014年から年1枚アルバムを出しているPen Friend Club、待望の4枚目のアルバムがリリースされた。①『Sound Of…』②『Spirit Of…』③『Season Of…』に続いて今回は④『Wonderful World Of Pen Friend Club』で、次は何の文字でつなぐのかなという待つことも楽しい。オリジナル曲を作るPen Friend Clubに失礼だが、根っからの洋楽人間である自分にとって最も楽しみにしているのが、他の日本のバンドでは決してカバーしないであろう、マニアックな60s70sのカバー曲の数々である。これが完璧に自分の好きな曲と一致しているのでアルバムが出る度に嬉しくなってしまう。この4枚で必ず登場するのがフィル・スペクター・プロデュース作品だ。①でロネッツの「Do I Love You」、②もロネッツの「How Does It Feel」③はダーレン・ラブの「Long Way To Be Happy」、そして今回の④はロネッツの「Born To Be Together」になんとビックリ、アイク&ティナ・ターナーの「River Deep Mountain High」だ。スペクターのWall Of Sound60年代に完成していたので、70年代のスペクターの曲を入れないのは正解だ。さらに「Be My Baby」を選ばない所にセンスの良さが出る。本来はアルバム収録曲順に紹介するのが当たり前だが、他のライターがそうするだろうから、自分はカバー曲から紹介していこう。「Born To Be Together」は深いエコーは残しつつ、深淵なWall Of Soundの奥まで狙わないで、ヴォーカルの爽やかさを生かしたアレンジにしていた。ロックンロールのブリッジの部分も良くできている。スペクターのオーバー・プロデュースの極致ともいうべき「River Deep Mountain High」は、さすがにティナ・ターナーのダイナマイト・ヴォイスではないので、これも爽やかに、しかしロックンロールの部分はしっかり残している。後半のホーンやパーカッションが錯綜する部分も上手だ。続いて同じく愛してやまないのがビーチ・ボーイズのカバーだ。①では「When I Grow Up」「Darlin’」と2曲のカバーにプラス、ビーチ・ボーイズ加入前のブルース・ジョンストンの奇跡の傑作、ブルース&テリーの「Dont Run Away」で3曲、②は「Please Let Me Wonder」とグレン・キャンベルに書いた「Guess Im Dumb」、さらに一番マニアックな、映画のオープニングでもレコーディングでもビーチ・ボーイズがバッキングを担当したアネットの「The Monkeys Uncle」とこれまた3曲カバーしたので、③はお休みだった。しかしこの④では1965年の未発表曲「Sherry She Needs Me」という絶妙のカバーを持ってきた。この曲は後にブライアンが2ndソロでリレコしているが、このトラックは最も当時のビーチ・ボーイズを感じさせてくれるサウンドと歌声で最も楽しめた。キーボードの音像もいいし、リード・パートが平川氏に切り替わるのがとてもいい。そして最後に私が特に気になるマニアック枠。①ではトレードウィンズの「New Yorks A Lonely Town」(ただしイクイノックス時代にブルースらがカバーした「Londons…」やデイヴ・エドモンズの「New Yorks…」のテイストも感じられる)があり、②ではジミー・ウェッブ作・グレン・キャンベル歌の珠玉の名曲の中でもベスト1の「Wichita Lineman」、70年代のニール・セダカに惚れ込んでいる私にとって嬉しい「Love Will Keep Us Together(キャプテン&テニール用とは言わない)、そしてマニアックさでは最も泣いた1965年にシングルのみでリリース、サンディ・リンツァー&ダニー・ランデル作でボブ・クリューがプロデュースしたまさにフィリップス時代のフォー・シーズンズというラグ・ドールス「Dusty」がカバーされた。こんな曲をカバーするバンドがいまだかつてあっただろうか?そして出来上がりは音楽ファンなら誰でも大好きなフォー・シーズンズ・サウンド、知らなかった人には目から鱗という素晴らしいチョイスだった。③では先のグレン・キャンベル&ジミー・ウェッブの作品で2番目に好きな「By The Time I Get To Phoenix」、トレードウィンズのカバー「Summertime Girl」、初めての日本人ミュージシャンのカバーはなんと山下達郎、数ある名曲の中でも5本の指に入るほど好きな「土曜日の恋人」のカバーしてくれていた。しかし最も嬉しかったのは、大好きなテディ・ランダッツォ作・プロデュース、ロイヤレッツの「Poor Boy」のカバーだった。テディ・ランダッツォの凄さが分かる=プロ中のプロの証。今から20年くらい前に山下達郎さんの命を受けてコレクティングをしている方と知り合いになったが、その一人はご存知バリー・マン・ワークス。もう一人はその頃に日本人でほとんど誰も注目していなかったテディ・ランダッツォのワークスで、さすが山下さんだと嬉しくなった思い出がある。④は?さらに渋いフィフス・ディメンション6枚目のアルバムのタイトル曲「Loves Lines,Angels and Rhythms」のカバーで、声も歌い方もマリリン・マックーにとても似ていて、実はリードの方はこのタイプの曲を歌いたかったのだろうと一瞬で理解できた。そして前回の山下達郎に続くチャレンジ曲は、なんと大滝詠一の『Each Time』から「夏のペーパーバック」だ。大滝・山下、それも最も華麗なプロダクションの曲にチャレンジしようとするミュージシャンはまずいない。あのゴージャスでキラキラ輝くような大滝サウンドを忠実に追っても仕方がないと、ライブ用のシンプルなサウンドにしたのが良かった。さてここからようやくオリジナル。「ふたりの夕日ライン」はオープニングにふさわしいアップテンポでポップな快作、中間のギターもどこか懐かしくいい響きだ。「微笑んで」はミディアムテンポの佳曲でベースラインとちょっとヘヴィなリード・ギターが印象に残る。「ソーダ色の空」はカントリー・テイストの爽やかなタッチの佳作。「8月の雨の日」は本作のオリジナル曲で一番好きな、メロディアスで少し哀調があって爽やかでと…と全てが揃った傑作。絶対に聴いて欲しい作品だ。「Wonderful World Of Pen Friend Club」はギターのリフやブラスの音など、ビーチ・ボーイズの「Pet Sounds」と「Lets Go Away For Awhile」を思い起こされる印象的なインストで、高いセンスに舌を巻いた。相変わらず洋楽ファンをも満足させてくれるこの4thアルバム、おススメである。(佐野邦彦)

VANDA創刊までのいきさつと、営業を一人でやるには、実家の父母と祖母に発送準備をみな頼んだこと。翌日は年休でまず郵便局、取次の大手レコード店へは直接届ける。しかし頼りの父が亡くなったこともあってVANDAは休刊、大手の誘いは断った


VANDAは純然たるミニコミだった。創刊は1991年。はるか昔に木崎義二さんのPopsicle、大阪のForever RecordsForever Magazineがあって、既存の音楽誌ではまったく無視されていたBruce Johnstonミニ特集とかJoe Meek特集とか読んで自分もこういう価値ある紹介をしたいと思っていた頃、1985年だったと思うが、よく通っていった横浜のBack To The Rockの神谷さんに今度Rave Onという音楽ミニコミを作るから原稿料は出ないけど書いてくれる?と頼まれ1号はBruce Johnston Works2号はKinks Rarities、そして3号でそれまで日本ではやった人がいないBeach Boys Raritiesを書いた。すると世の中の隠れBeach Boysマニアが、この記事を書いている佐野って誰?と言う事になり、神谷さん経由で会うことになったのだが、それが宮治淳一さんだった。1988年に「Kokomo」が22年ぶりに全米1位になった時は「Beach Boys22年ぶりの1位を祝う会」をやりましょうとさそわれ、その時に宮治さんと一緒に来たのが萩原健太さんだった。その当時、日本の音楽は山下・大滝しか聴いていなかった私は、萩原さんに向かって「何のご職業をされていますか」と今考えると冷や汗ものの質問をしている。でも3人とも、ともかく話題はBeach Boys。和やかに飲み会は終わった。しかし私は1982年から当時最先端のマンガ家だった吾妻ひでおさんや、「未来少年コナン」で初監督をやってまだ無名の宮崎駿さんが知られるチャンスと言う時に、「漫画の手帖」というミニコミの編集人を頼まれ、内容は全てこちらに任せてもらって、版下つくりと営業は依頼した発行人の方という超楽な条件で1992年まで30冊も出していた。その中でどうしても音楽も入れたくて、自作のマンガの中でKinksLovin’ Spoonfulを出していた山田ミネコさんなどにはそのファンぶりを書いてもらうなどしていたが所詮、この本ではジャンル違い。そこで1991年に自分で好きな音楽のミニコミを作ろうと始めたのがVANDAだった。本を作るにはやはり知名度のある方の原稿が必要。でも自分は10年間、マンガとアニメーションの世界にいたので知っている方はマンガ家の方ばかり。で、初期のVANDAはそういうマンガ家の方に数多くの原稿を描いてもらい、本の特集の半分もそのジャンルだった。一挙両得を狙ったのだが、音楽とクロスオーバーしている読者は少なく、また著名なマンガ家に描いていただいた原稿はすべてタダ原稿(「漫画の手帖」の時代からそう)で、個人的な人間関係で描いていただいていたが、もちろんそうは頼めず、新規開拓用にコミケットでまだ無名だった南Q太さんなどをスカウトしたりしたが、どんどん音楽に比重が傾き、音楽誌としての色彩が強くなった。こういう雑誌が珍しかったのか、山下達郎さんはBeatlesBeach BoysBarry Mannの好きな曲アンケートに答えてくださり、常に好意的なブルーハーツのマーシー(真島昌利)さんは、BeatlesWhoKinksSmall FacesRolling Stonesの好きな曲アンケートにみな答えてくださり、コレクターズの加藤さん、古市さんも多くアンケートに参加していただけた。原稿を書くのは楽しかったが、「漫画の手帖」と決定的に違うのは営業をやらないといけない点だ。印刷費と送料が、本を売り上げとトントンでないと本は継続できない。版下つくりは別の人間がやってくれたが、一番シビアな収支は自分が仕切らないといけない

。出版当時の営業の苦労話は2016414日の記事「VANDAに強いる地獄の要求…」に書いたので、この記事とセットなのでまだお読みで無い方はご一読いただきたい。右サイドの「2016年」から「4月」を出して数枚、「前の投稿」で送ってみていただくか、ジャンルの「サブカル」を選んで4枚先を見ていただくかで、すぐ探していただける。

多い時は年4冊出していたVANDAの発送作業は、実家の父母と祖母まで手伝ってくれたからできた重労働だったことを書いておきたい。新刊が送られてくると、ほとんどが委託販売だったので、事前に各店に在庫を聞いて請求書と郵便の振込依頼書を作成、そして各店の売り上げ状況を見て新刊を送る冊数を決め納品書を作る。送る冊数は委託なので、打診はしない。発送は北海道から沖縄まであるので、数多くの段ボールが必要だ。ここで先日書いたように、私の勤務先の清掃の方ともツーカーなので、送るに適した段ボールはストックしておいてもらう。そして警備員に清掃の倉庫わきの駐車スペースを確保しておいてもらって一気に実家に届ける。私の作った納品書には新刊だけでなく在庫が少なくなったバックナンバーもずらりと書いてあるので、その総冊数を見て、持ってきた段ボールから適度なものを選ぶのは、父の仕事だ。父は理系の人間なのでそのあたりのチョイスは間違いない。そしてその箱を父がガムテープで組み立て、あとは父が母と祖母に指示してくれて各店ごとの段ボールが出来ていく。発送はゆうパックを使ったので、段ボールに本と納品書と、前の精算の請求書などを同封してもらって封をし、あらかじめ書いておいたゆうパックの伝票を貼ってもらって完成だ。取次の地方小出版流通センターはさらに面倒くさく、本の間にスリップ(本の間に挟まっていてチョコンと飛び出しているのでご存知だろう)を挟まないといけないが、印刷所に一定数だけスリップを刷ってもらって挟んでもらうとかなりコスト高になるので、号数の書いていないスリップを作っておいてその都度号数を記入し、本の間に挟んでもらう作業も実家にお願いしていた。その頃はまだ子供も幼稚園・小学校と小さく、妻が手伝いに行けないので、すべて実家でやってもらった。VANDAは家族全員で作っていたのだ。そして翌日、私は職場を年休で休んで、車に天井まで詰まったゆうパックをもって世田谷郵便局に裏から納品する。大量なので郵便車両が横付けするパーキングに停めて勝手に台車を借りて積み込み、終わったら局員に声をかけ、表に回って精算する。大量だと割引があるのだ。そして地方小出版流通センターには再度積み込んで、新宿まで納品、他、ON STAGE YAMANOとかWAVEなど大量に売ってくれる店は直接届けて挨拶をする。これも大事だ。

こうして続けていたVANDAをなぜ2003年に29号でいったん止めたか。一番は自分が紹介したい音楽をみな紹介してしまったことなのだが、祖母が亡くなり、最も頼りにしていた父が亡くなったので、もう営業の作業はできないと、本を作ること自体を止めたのだ。このように個人でのミニコミ作りはとても大変。おススメはできない。ただ大きなところから、自分のところからVANDAを出さないかというお誘いもいただいたが、編集の自由度が無くなるのが嫌なのでお断りしている。一寸の虫にも五分の魂かな。(佐野邦彦)


2017年1月29日日曜日

☆実川俊晴:『TOSHIHARU JITSUKAWA POP SONGS 1979-2016』(クリンク/CRCD5137-38)


実川俊晴と言うミュージシャンの名前を知らなくても誰でも『キテレツ大百科』の「はじめてのチュウ」は知っている。ただ「あんしんパパ」のクレジットで「帰ってきたヨッパライ」のような処理の声なので、彼は日本でもトップクラスのハイトーンの美しいヴォーカルを持ち、ファルセットは日本でもまさにトップといってもいい声を持つ凄いヴォーカリストであること、そしてポップセンスに溢れる曲を作詞・作曲できる、日本のブルース・ジョンストンのような存在であることをほとんど知らない。彼の少ないソロでのリリース曲は全て未CD化のまま、これは日本のポップ・ミュージックを知るうえで大きな損失だ。本CDは実川俊名義で1979年にSMSレコードでリリースしたアルバムと、1982年にTOSHIHARU名義でバウハウス(キング)からリリースした4枚のシングルを全て網羅しており、全曲が実川の作詞・作曲で、その類まれなポップセンスと美しいヴォーカルに驚かされるだろう。ディスク2はデモ集でこれも大半が初登場だ。実川の音楽歴は長く、1969年にマミローズ、1970年にハローハピーのドラム&ヴォーカルでデビュー、19721975年にはマギー・メイを結成、リーダー兼ヴォーカリストとして2枚のアルバムなど発表し、これらの音源はみな同じクリンクレコードからマギー・メイ『12時のむこうに アンソロジー1969-1975』としてリリースされた。本CDは実川俊晴のその後のソロとしての活動を集めたCDだ。先のCDではバンドとしてフロントに立っていたが、本CDでソロ活動を始めてからは、ほとんどのテレビ主演を断り、ジャケットでも顔を伏せ、ライブも行わず、レコーディング・アーティストとしての姿勢を徹底した。そのため本CDこそ、幻の、しかし実川俊晴のエッセンスが凝縮された作品と言えるだろう。

ではまずはソロとしてリリースされた音源を集めたディスク1から。最初はSMS1979年のアルバム『ふりむけば50億』から。実川がビートルズと同じくらいパイロットが好きだったという事を実証してくれるのが「愛してスーパー・スター」で、冒頭のアルペジオのエレキなんてまさに「Call Me Round」、メリハリの効いたポップなメロディとハーモニー、ハンドクラップ、文句なしでアルバムのベストソングだ。「博士の浮気」も三連符のピアノに載せたアップテンポのポップなメロディがパイロット風で、途中のア・カペラ・パートが光る。ただ最後がどんどんテンポアップして終わるのはもったいない。「アンニュイ」の歌いだしはタイトルのように歌もサンドもアンニュイだが、サビでは転調しながらミシェル・ポルナレフばりの素晴らしいファルセットで酔わせてくれる。こんなきれいなファルセットは大滝詠一、山下達郎も真似ができないレベル。本当に凄い。タイトルはふざけた曲のように見える「お殿様感傷旅行」はミディアムの素晴らしいバラードで、この曲もサビに見事なハーモニーがあり、リードは一部、電気処理している。オールドタイミーなバラードも得意で「とび始めた天使(エンジェル)」はリード・ヴォーカルとバック・コーラスのからみが最高で、アコースティックなサウンドが曲を生かしている。さらにアコースティックなサンドのバラードが「三時のホットケーキ」で、メロディの良さもあって実川のリード・ヴォーカルがいかに素晴らしい声質なのか実感させられる。ブリッジ以降はやはり素晴らしいハーモニーが登場、最後にはフランキー・ヴァリのようなハーモニーが聴ける。オールド・タイミーな「刑事(デカ)とホステス」ではコーラスの回転数を変えていて、この遊び心が後の「はじめてのチュウ」へつながるのでは。ディスコ・サウンド以降のビー・ジーズのようなハーモニーが楽しめるのは「遅刻の気分」だ。日本的なメロディとラテンビートが融合した「暗殺研究所」だが、実川らしいハーモニーのセンスが感じられる。シングルカットされた「鬼にかえろう」は日本的なエッセンスの入ったロックで、メロディもマイナー調、いい曲なのだが、日本の市場に寄り添ったか。B面の「プリティ・ボス」もマイナー調のロック・チューンで、この曲も曲の展開やハーモニーに聴くべきものがあるが、もっとポップな曲で勝負した方が良かった。

3年後の1982年にTOSHIHARUの名前で再度ソロで勝負するがシングル4枚でアルバムは出なかった。ファースト・シングルは「ラストソングはI Love You」はやはりマイナー調の日本的なポップ・ソングであまり光るものがない。B面のアコースティック・ギターだけのバッキングの「この夏には…」は中間にサイモン&ガーファンクルの「Bookend」のようなサビがあってこちらの方が魅力的。セカンド・シングル「クイーン・オブ・アイランド」はやっと実川のセンスを表に出してくれた傑作で、実川の美しいヴォーカルから始まりすぐにファルセットの見事なハーモニーで彩られる見事なポップ・チューン。B面の「ヤシの木陰にて」はウクレレだけのバッキングのバラード。リード・ヴォーカルを少し電気処理するのは実川らしい。幾重にもハーモニーが重なるのでウクレレだけの事を忘れる美しい佳曲だ。サード・シングル「た・け・し」はタイトルからは想像もできないフランキー・ヴァリも驚くほどの素晴らしいファルセットを挟み込んだ美しいバラード。B面の「うたかたの恋」はオールド・タイミーな雰囲気のロッカバラード風の曲で、相変わらずハーモニーも見事で、こちらがA面でも問題の無いクオリティ。最後のシングル「Angel~夢は1999~」はモータウンのようなベースで導かれて始まるポップ・チューンで、このサウンドも心地いい。B面の「あの娘にカナシバリ」はホンキートンクのピアノから始まるオールドタイミーな曲で、サウンドとハーモニーなど、実川のソロの最後にふさわしい曲だった。

ディスク2は作曲家に転身した実川のデモ集だ。まずは1980年のTV『のってシーベンチャー』ED曲用デモ4曲でまず明るくポップな「The Bubblegum Dancing Team」、同じ路線でややテンポが遅い「異次元の私」、レゲエ・タッチの「最後の楽園」、そして実川が好きと言うビー・ジーズの影響を感じる「そっとテレポーテーション」は、頭が「Melody Fair」そっくりで、この曲のみ私たちの好きな時代のビー・ジーズの影響だ。1985年の「愛は陽炎」はソウル風の曲だなと思って聴いていたら、ライナーを読むとデルフォニックスを意識したそうでやっぱり。1986年の松尾久美子に提供した「かすみ草 」は、歌謡タッチ全開のすぎやまこういちあたりが書きそうな曲。1987年の藤田淑子が歌ったTV『キテレツ大百科』ED用デモは、オールディーズ調。1989年に中学2年の女子3人のグループで実川がフォー・シーズンズの曲から名前を付けたRagdollというグループのデモ「恋のチャプター4」は、フォーシーズンズ・サウンドではないが60sのガールグループ風でいいアプローチだったが未発表で終わる。1991年のマキという女性ユニットMaJishのデモ「December in the Rain」はディスク2の曲の中で歌の上手さ、メロディの美しさで最も出来がいい傑作だがこれも未発表。同年の「放課後のサブリナ」は実川がのちに「あんしんパパ」名義で『安心パパストーリー』で発表した曲のデモ。ディスク1のTOSHIHARUの曲を彷彿とさせるミディアムの心地よいポップナンバー。1992年に嶋田トオルのシングル「I Love You」に提供した「WINTER ROSE」のデモは、心地いい曲だが、A面と言うクオリティではない。同年のOrika名義のデモ「おフロに入ろう」はポップで軽快なチューンだったが、未発表。1993年に今はあの人は誰?のクイズ問題に出てきそうなあのぜんじろうに書いたデモ「影の4番打者」はアルバム収録曲だったのでそのレベル。ちょっと戻るが実川の代表曲で1990年の『キテレツ大百科』のTVサイズの「はじめてのチュウ」はこれが初CD化。先の『あんしんパパストーリー』に収録されていたものの出来に納得できず2006年に再録音したオールドタイミーな「Wedding Bellはシャッフルで」と、20152016年に録音した3曲も収録された。なお冒頭の2010年録音の「はじめてのチュウ」のアコギ弾き語りヴァージョンは、作曲した時に極めて近いものだとか。最後のビートルズのカバーで知られる「Baby It’s You」は、実川がマギー・メイでデビューする前の1971年のライブという貴重音源である。なおこの実川俊晴のワークスや、先日のガロのマークこと堀内護のソロをリイシューしてくれているのは高木龍太氏で、その素晴らしい仕事に改めて感謝したい。(佐野邦彦)


*実川俊晴の情報はこちらまで(現状、販売元直営の芽瑠璃堂、あとはタワー、HMV、ディスクユニオンは確実に通販可能)