2018年2月18日日曜日

『Springs Live Picnic 2018』ライヴレポート

2月10日に東京は千代田区神田神保町の楽屋(らくや)で開催されたSprings(スプリングス)のライヴ『Springs Live Picnic 2018』の模様を紹介したい。
Springsは、VANDA読者にはお馴染みの書籍『HARMONY POP』(2000年/音楽之友社)、『ソフト・ロック in Japan』(2001年/音楽之友社)に企画・構成、執筆で参加している音楽家のヒロ渡辺(渡辺博之)が、土屋剛、シンディ浅田と組んでいるソフトロック・グループである。
そもそもSpringsは 95年にドラマーでマルチ・ミュージシャンでもあるヒロ渡辺とヴォーカリストのシンディ浅田の二人により結成され、翌96年にセクサイト・レーベルよりミニ・アルバム『SPRINGS』でデビューした。同年デビュー作にも参加していたキーボーディストの土屋剛を正式メンバーに加えるもシンディの脱退により、翌97年に二代目ヴォーカリスト毛利公美子を迎え、同年アルバム『PICNIC』をリリースする。
その後活動休止の期間を経て、2009年のシンディのソロ・アルバム『I Remember You~メモリーズ・オブ・ローラ~』の制作をきっかけにオリジナル・メンバーでリユニオンし現在に至る。

さて今回の『Springs Live Picnic 2018』だが、2016年の『SPRINGS 20th ANNIVERSARY PREMIUM GIG』以降1年ごとに開催されているライヴのようだ。
ヴォーカルのシンディを中心に、アコースティック・ギターのヒロ渡辺(リード・ヴォーカルも取る)とキーボードの土屋剛がそれぞれコーラスをつけるというシンプルな3人の編成で、彼らやシンディのソロ・アルバム同様に中村俊夫氏がプロデューサーという繋がりから、ゲストにシンガーの原めぐみ(元アイドル歌手から女優、タレントに転身して活躍している)が参加していた。
当日のセットリストは以下の通りであるが、WebVANDA読者をはじめとするソフトロック・ファンには垂涎の選曲といえよう。


【第一部】
01. Don't Go Breaking My Heart
02. Workin' On A Groovy Thing
03. I'll Be Back
04. Snow Queen
05. The Carpenters Medley:
 I Won't Last A Day Without You~
 A Song for You~
 We've Only Just Begun~
 Top Of The World
06. Samba Take Seven (Lola’s Theme)
07. Under The Jamaican Moon
08. In The Morning

【第二部】
01. Our Day Will Come
02. There’s A Kind of Hush(All Over The World) ※ with原めぐみ
03. I Love How You Love Me ※ with原めぐみ
04. トビラ~Everlasting Love~ ※ with原めぐみ
05. Love On A Two Way Street
06. Guess I'm Dumb 07. The Drifter 

【アンコール】
01. God Only Knows 
02. Don't Take Your Time


冒頭の「Don't Go Breaking My Heart」から「I'll Be Back」、「Snow Queen」、ラストの「The Drifter」、そしてアンコールの「Don't Take Your Time」は、日本におけるソフトロックの聖典とされた『Roger Nichols & The Small Circle Of Friends』収録曲である。これはSpringsが男女3声のハーモニーを大事にしていることを如実に現している。
またカーペンターズ・メドレーでは、現在もカリフォルニア在住というシンディによるネイティヴな英語歌詞の発音と美声によりカレンの歌声を彷彿とさせた。実際シンディは多くの国内CMでカーペンターズのカバーを歌っているので、知らず知らずの内に耳にしている人も多いはずだ。
他にもニール・セダカの「Workin' On A Groovy Thing」やニック・デカロのカバーで知られるスティーヴン・ビショップ作の「Under The Jamaican Moon」、ルビー&ザ・ロマンティックスの「Our Day Will Come」、ブライアン・ウィルソン作で昨年逝去したグレン・キャンベルの「Guess I'm Dumb」など通好みのカバー曲で観客を唸らせた。

オリジナルの「In The Morning」や「Love On A Two Way Street」はライヴではお馴染みで、ファンにとっては欠かせないナンバーだろう。
シンディのソロ・アルバム『I Remember You~メモリーズ・オブ・ローラ~』からは「Samba Take Seven (Lola’s Theme)」が演奏されボサノヴァのリズムが心地よかった。
ゲスト・シンガー原めぐみのコーナーでは往年のファンの皆さん(メグミン隊か?)からの声援で大いに盛り上がったのは言うまでも無い。特に原自身が作詞して、渡辺が曲を提供し土屋がアレンジした「トビラ~EVERLASTING LOVE」は、ロネッツの「Do I Love You」の影響下にある完成度の高い曲である。


こんな素敵なライヴであったが、筆者的に最大のハイライトは、アンコールで弊誌編集長、佐野邦彦氏に捧げた「God Only Knows」の演奏だった。渡辺氏から語られる知られざるエピソードと心のこもった熱唱には思わず感激してしまった。
佐野氏もそのリユニオンを心より願っていたであろう、Springsの最高のパフォーマンスに心酔した一夜だった。


(文&写真:ウチタカヒデ / 写真提供:シンディ浅田氏、撮影:皆川幸男氏)

 

2018年2月12日月曜日

shinowa:『Flowerdelic』 (LITTLE EYES IN A MEADOW/LEIM-002CD)

















昨年6月に16年ぶりの新作シングル『Snow, Moon, Flowers』で、その活動を本格的に復活させていたshinowa(シノワ)が、2月5日に満を持してフル・アルバム『Flowerdelic』をリリースした。
shinowaはリーダー兼リードヴォーカル、ギタリストの山内かおりとギタリスト兼プログラミングの平田徳(ヒラタハジメ)を中心に結成され、60年代中後期のサイケデリック・ロック、80年代後期~90年代初期のシューゲイザー/オルタナティヴ・ロックに通じるそのサウンドは、海外のミュージシャンや音楽関係者にも評価が高く、耳の肥えたVANDA読者なら興味を持つ筈だ。 

前回のレビューと重複するが改めて最新のプロフィールを紹介しておこう。
彼らは96年に大阪で結成されたサイケデリック・ギター・ロックバンドで、GYUUNE CASSETTE 傘下の Childish Soupより『bloom~光の世界』を01年にリリースし数度のメンバーチェンジのあと、野有玄佑(ベース&ドラム)が加入して現在の男女3人組となっている。 11年には米サイケデリック・ポップバンド、MGMT(エム・ジー・エム・ティー)より直々にオファーを受け、彼等の来日公演のオープニングアクトを務めた。
また昨年リリースした『Snow, Moon, Flowers』は、全米で数年前からカセット・ブームを牽引しているカリフォルニアのBURGER RECORDSのコンピ・カセット『BURGER WORLD JAPAN』(17年9月) に収録され、その後英レビュー・サイト  VINYL FACTORY でレビューが掲載された。
この状況を知れば、現在も彼らが国境を超えて高く評価されていることを理解出来るだろう。
なお本作は『Snow, Moon, Flowers』と同様にHammer Label主催で、シンセサイザー・プログラマーやエンジニアとして、ムーンライダーズや渋谷系のクルーエル・レコーズから歌謡曲フィールドまで幅広く活躍していた森達彦氏がプロデュースとミックスを手掛けており、その手腕が随所で発揮されている。

   
では本作で筆者が気になった主な曲を解説しよう。 
冒頭の「One」は山内のソングライティングにエダナマイが英歌詞をつけた、80年代後期~90年代初期のクリエイション・レコーズのサウンドに通じるギター・ポップで、ディストーション・ギターやノイジーなシーケンス音をループして空間系エフェクトで処理したトラックと、山内のスウィートなヴォーカルとのギャプが実に素晴らしい。リズム的には8と16ビートにサンバ系のブラジリアン・ビートのエッセンスを持ち独特の浮遊感を醸し出している。本作のリード・トラックとしてそのクオリティは高い。
「Sit with the Guru」はVANDA読者ならご存じの通り、Strawberry Alarm Clockのカバーでセカンド・アルバム『Wake Up...It's Tomorrow』(68年)に収録された、「Tomorrow」(67年)に続く先行シングル曲である。ここでのヴァージョンは彼ららしさと言うべきサウンド・エフェクトが目映いサイケデリック・ポップに仕上がっており、Strawberry Alarm Clockのオリジナル・メンバーで作曲者の一人であるマーク・ワイツも絶賛している。
ワイツからのコメントはshinowaオフィシャル・サイトで読んでみて欲しい。 因みに彼らはバンド結成当初からこの曲をレパートリーとしており、本作には最新ヴァージョンをレコーディングしたということだ。

   

昨年初頭、shinowaの音源を初めて聴かせてもらった時から筆者のフェイヴァリットだったのが、「Silent Dawn」である。ギター・ポップとシューゲイザーにそのルーツの一つというべき60年代サイケデリック・ロックのエッセンスが程よくブレンドされたブリリアントな曲で、単独でソングライティングした山内のヴォーカルに施されたモジュレーション・ディレイ系のエフェクト処理も相まってドリーミングである。
続く「Unisol」も山内単独のソングライティング曲であるが、シューゲイザー的サウンドは影を潜めたプリティーなギター・ポップと思いきや、後半にはしっかりファズ・ギターとフリーキーなオルガンのフレーズがちりばめられていて侮れない。この曲には長崎を中心に活動するアコーディオン(fisarmonica)奏者のLOCOがマリアッチなプレイで参加している。
ラストの「Red Flower」は『Snow, Moon, Flowers』カップリングの「Almost Certain」(原曲:「たしからしいということ」)と同様に、『bloom~光の世界』収録の「赤い花」を英歌詞化しリアレンジした曲である。プログレッシブ・ロックの要素もある変拍子のこの曲も山内のソングライティングあり、彼女の才能の奥深さを思い知らされる。
なお本作はCDとアナログ・アルバム、またカセット・テープの3媒体でリリースされており、CD以外は限定生産のため興味を持った読者は早期に入手すべきである。
 shinowa OFFICIAL WEB SITE
(ウチタカヒデ)

 

2018年1月31日水曜日

佐野邦彦氏との回想録8・鈴木英之

早いもので、この投稿も8回目(今年2回目)になる。前回はVANDA22に掲載されたコラムについて佐野さんとのやりとりを紹介させていただいた。それらを仕上げるために休日や帰宅後の時間を全てつぎ込んでの制作は大変なものだった。こんな調子で安請け合いして続けていくのは、実に厳しいことだとおもいしらされた次第だ。その反省から佐野さんとの話が盛り上がっても、これからの投稿は予め決めていた「Music Note」一編に絞ろうと決めていた。ただ、この回想録の一回でもふれたように、「23」では佐野さんに推薦した「Pilot」「Jigsaw」について情報提供に協力していたので、実質は複数に関わったのが現実だった。とはいえ、このような作業を長年に渡って編集までやり続けている佐野さんの行動力には改めて敬意を表したい心境になった。

そんな状況ではあったが、この頃投稿i以外に最も興味を持っていたのはVANDAのバック・ナンバーの内容チェックだった。特にSuger Babe以来長年のファンだった山下達郎さんとのインタビューが掲載されていると聞いていた「3」は絶対に読んでみたかった。そんなバック・ナンバーについて佐野さんにその所在を問い合わせると、「全国で取り扱ってもらっているショップには(返本しないことを前提に)委託したままになっているので、どこかにはあるかと思いますよ。」とのことだった。

そこで、レコード探索に出かける際には、VANDAの取扱いショップでのバック・ナンバー探しも並行するようになった。まずは地元滋賀からスタートして京都・大阪・神戸と回るも、なかなか成果は得られず、次は自宅の滋賀から実家の静岡までの帰省経路にあるショップをターゲットにした。具体的には、岐阜・名古屋・豊橋・浜松などで、当然ながら静岡県内も行けるところは全て回る計画を立てた。そんな帰省の途中、名古屋の「バナナ・レコード」で自社の発行するフリー・ペーパーに「VANDA」の推薦文が掲載されている記事を発見した。「ここにもVANDAの支持者がいる!」と感激のあまり、自宅に戻ると即佐野さんに連絡を入れた。ところが、あいにく彼は不在だったので電話を取られた奥様にこのことの伝言をお願いした。すると「主人は人気あるんですね。」と。さらっとした返答に「そんなもんかなぁ」と気が抜けてしまった。




そんな出来事に気分良くし、少しずつではあるがバック・ナンバーを入手していったが、お目当ての「3」はどこでも売り切れだった。徐々に諦めムードが漂い始めていたが、ある時立ち寄った豊橋の「ラビット・フット・レコード」(ex.2003831日閉店)で、ついにお目当ての「3」をはじめ手元にない多くのバック・ナンバーを入手することが出来、「1」「2」以外はほぼ揃った。それをきっかけにVANDA誌の探索はここまででストップにした。この入手したバック・ナンバーを読み返し、改めてサラリーマンの傍らVANDAを発行し続ける佐野さんの情熱を再認識することができた。


少々話が本論からそれてしまったので、「23」の制作経緯に話を戻すことにする。この号に掲載した「Music Note」の1972年は、お気に入りのヒット曲をチェックするだけでなく、ラジオなどで耳にした自分好みの曲を血眼になって探すようになっていた時期だった。それゆえ当初は書きたいことだらけで、収拾がつかなくて困っていた。そこで佐野さんに相談すると、「ミュージシャンから派生した面白い話はなかったですか?」と尋ねられ、即座に浮かんだ出来事があった。

それはこの年の11月に発表されたRolling Stonesの来日公演(影の仕掛け人は、後に参議院議員糸山英太郎氏)のチケットを手に入れるため、友人と三人で上京したことだった。この時期は受験生の身でありながら、前売り券を手に入れるため、ふとどきにも3日間学校をエスケイプした。なおこの公演は73年の1/282/15回公演予定で、発売日は12/1だった。そこで「発売日の2日前なら余裕だろう」と意気込んで発売場所となった渋谷東急本店プレイ・ガイドを目指した。しかし、そこには既に1,000人以上詰めかけていて、行列はビルの地下駐車場に並び、13回の点呼を受けながら、空いた時間は渋谷・新宿界隈を彷徨っていた。この徹夜組は当日までに4,000人にも及び、その報道は新聞紙面を飾った。ちなみに、チケットの価格はS12,700円で、当時同じくスーパー・スターの来日として話題になっていたTom Jonesの来日公演のS30,000円(大阪公演は、33,000円)にくらべ、かなり破格の価格だった。(当時のOL平均月収50,000円程度)その話を聞いた佐野さんは、「それだけでコラムになりますね!」と絶賛された。その好反応に今回は触る程度で、いつか別の形でまとめようと思い、その後2012年に出版した『よみがえれ!昭和40年代』(小学館)で紹介した。




また、価格といえばChicagoの初ライヴ『Live At Carnegie Hal』のことも忘れられない出来事だった。そのアルバムはなんと「4枚組7,800円!」と、その価格設定に「誰が買うんだ!?」とうそぶいていた。本国では2枚組程度の価格で、輸入盤では2,000円ほど安く(その価格も決して安くはなかったが)売られていた。どうしても手に入れたい衝動を抑えられず、当時昼食代として渡された小銭をピン・ハネし、数か月昼食抜きにして貯めこみようやく手に入れた。「鈴木さんよくそこまでやりましたね。私は5,000円超えていたら諦めてますよ。」と佐野さんに言われたが、「いや、これはオールナイト・ニッポンの亀ちゃん(亀淵昭信氏)が学生時代にやっていたことを見習っただけです!」と付け加え、大爆笑になった。




そんなやりとりをしながら、その他にインパクトの強かった記憶を振り返った。そこでまず思い出したことが、Alice CooperのパンツをはいたLPレコード『Scholl’s Out』」だった。さらにこのレコード・ジャケットは、組み立て式で「学校の机」になる仕様で、その中からパンツLPが取り出せる仕掛けが話題になっていた。ちなみに、このパンツは『すいか/サザンオールスターズ』(1989721日発売)の付録の元ネタになっているので、かなりメジャーな話題のはずだ。そして、それと同じくらいインパクトのあったニュースといえば、フレンチ・ポップスの貴公子Michel Polnareffのパリ・オランピア劇場公演の「お尻丸出しポスター」で、当時は「見せるルノレフ」といじられていた。余談ながら、私の妻は「自分の葬儀には「愛の休日(Holidays)」を流して欲しい」と宣言するほど彼の大ファンで、彼女に前ではとても口に出来ない話だ。なお佐野さんと私が大変お世話になった元音楽之友社のK氏の初ライヴはポルナレフだったそうだが、親同伴だったのであのポスターみたいなことされたらどうしようかとドキドキしながら鑑賞していたとのことだった。




さてヒット曲の傾向だが、当時は新進のシンガー・ソングライター(以下、SSW)が続々と頭角を現していた。その代表的格としては、ギター初心者だった私でもEm7さえ押さえれば簡単に演奏できた「孤独の旅路(Heart Of Gold)」のNeil Young、後にMadonnaにもカヴァーされた「American Pie」のDon McClean、そしてEaglesの「Take It Easy」の作者であり、Jackson Fiveにも取り上げられた「Docter My Eyes」のJackson Brownらだった。

そんな彼らの活躍で日本でもSSWブームが到来していた。それは「結婚しようよ」で大ブレイクしたよしだたくろうをはじめとするElecレコード所属シンガー、泉谷しげる・ケメ・古井戸などが目立っていた。そんな話になると佐野さんは和製CSNYと呼ばれていたGaroについて熱く語りはじめた。彼とは「学生街の喫茶店」の位置づけで、「良い曲だけど、あれはGaroとしては...」「Garo1stと「美しすぎて」が最高!」という共通認識があったので、話は大いに盛り上がった。さらにTin Pan系が参加した『吟遊詩人』も、売れなかったけど音楽的にセンスの良いアルバムという評価も同意見だった。ただ後に「学生街の喫茶店」抜きのコピレーション『エッセンス・オブ・ガロ・ソフト・ロック・コレクション』(1998)をまとめるコアなGaroファンの佐野さんだったが、このCDに収録された「美しすぎて」をシングルではなく、アルバム・ヴァージョンで収録してしまったことをずっと後悔していたのが忘れられない。




こんな感じで、「23」の制作過程では余計な回り道をしていたので、今回もあまり余裕を持って原稿を仕上げることが出来ず、「締め切りは10/10」と受けていたが、完成したのは二週間遅れの10/24だった。その後完成したVANDA 23には「VANDA3冊目の単行本『All Mod Cons』の発売予告」と「次号よりVANDAは年一回発行、ネットのWeb.VANDAで毎月情報更新」と書かれていた。これ以降は本格的にネット参入していくことになり、佐野さんとの雑談で閃いたネタは雑誌ではなく、Web.へアップするようになった。本誌には私がこだわってまとめたコラムのみを掲載するようにした。




そんな状況にはなったが、ネットもさほど発達していなかったこの頃、私の情報源は相変わらずショップの巡回というアナログなものだった。そんな時に佐野さんから「音源が見つからなくて困った時には、国会図書館にいったらどうですか。あそこなら著作に関するものは全て揃ってますから!」という話を聞き、「国会図書館」でのチェックを始めるようになった。ただ、確かに全てチェック出来る場所ではあったが、「視聴は13点」(当時、現在は13点、13回まで)という制約があり、出向くときには慎重に厳選して向かった。そんな活動にシフトしていったが、関西や中部圏と違い東京と滋賀の往復は日帰りできるような距離ではなかった。そもそも個人的な趣味での活動だったので、移動手段は「高速バス」で安くあげ、泊りは京葉線の稲毛海岸に住んでいた後輩のM君のマンションを頼った。
VANDAに参加してから早2年、国会図書館通いで上京する事が増加し、何度目かの上京の際にやっと佐野さん本人に会う機会を持ち、彼の仕事帰りに三軒茶で合流した。偶然にも最終学歴が同じ中央(学部は別)という事を知り、音楽以外の話も含め大いに盛り上がった。そこでのディープな会話はこれが初対面とは思えないほどで、好奇心が強くなんでも聴きまくる雑食系の私は、頭脳明晰で探究心が強く研究熱心な佐野さんとお互いの意思疎通ができ、これから2017年までの付き合いが再スタートした。とはいえ、これ以降彼と生前直接会うことが出来たのはわずか5回だった。しかし、いつどこでどんな話をしたのか今も鮮明に頭に浮かぶほど内容の濃い付き合いだった。

 ということで、今回は「23」制作過程を通しての回想をまとめてみた。次回の振り返りでは、医者の松生さんがVANDAに参加するきっかけとなった経緯などについて紹介させていただく予定だ。



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2018年1月24日水曜日

Murry Wilson's very rare SP record

Murry Wilsonのソングライター期の活動について米国での研究によって徐々に明らかになりつつある。
今回Murry Wilsonの楽曲を含むSP盤を当方は発見した。 


The Bachelors
If The Sun Took A Shine To The Moon/Happy,Happy Holiday(Murry Wilson)
Palace Record 111 




The Bachelors
Uncared For/I'll Hide My Tears(Murry Wilson)
Palace Record PA-116  

早熟の天才Brianに立ちはだかるMurry Wilson、作曲家として大成できず、屈折した愛情を息子たちへ注いだ、というのがもっとも人口に膾炙しているものであろう。これらは70年代Brian復帰待望論の中、いくばくかの肉親同士の軋轢はあれど、悲劇の天才Brianという彼の才能を際立たせるため、西洋古典文学にありがちな近親憎悪というテーマを引用し忠実に伝記類の中で物語を組み立てたにすぎない。
実際、息子たちの不安定なデビューと違い、父の楽曲はマイナーからメジャーレーベルで取り上げられ、短期間ではあったが安定したリリースの実績があった。
極めて初期に確認されている作品は、当時本人は30代半ば、1951年The Four Flamesの歌う「Tabarin」という曲である。



このグループは多くの変名で1960年代中期まで西海岸で活躍したヴォーカルグループで多くのレーベルからリリースしており、同曲はSpecialty傘下のFideltyからリリースされた。
またバージョン違いかつThe Hollywood Four Flamesの変名でUniqueよりリリースされる。 ほぼ同時期にBob WilliamsがFederalから、The TangiersがDeccaよりリリースしており、同曲は酒場で起きた失われた恋を情熱的に歌い上げる形式となっている。
Murryの手がけたラブソングは、報われない過去の失恋といったテーマが多く、Brianの楽曲にも同様の傾向があり、父の影響がある程度うかがわれる。
また同曲のクレジットにGuild Musicとあり本誌読者ならお気づきと思われるが、The Beach Boys誕生にあたり大きな役割を果たしたMorgan夫妻の音楽出版社である。
したがって、MurryとMorgan夫妻の交流はThe Beach Boys結成前からあり、夫妻を通じてMurryは音楽業界について理解を深めていったのだ。
1952年にMurryはある楽曲についてGuildと契約を結んだ。
「Two Step,Side Step」という文字どおりダンス曲である。
「Tabarin」とは違い陽気なノヴェルティソングでダンスステップも考案された。このステップは社交ダンススタジオによるもので同スタジオは会場をSanta MonicaにあるAragon ballroomにおいていた。
伴奏は後に有名になるLawrence Welk Orchestraが担当していた。
このAragon ballroomはRock’nroll時代の到来と共に急速に寂れるが60年代中期に若手ミュージシャンにより使われだして再び活気を取り戻した、The Doorsが本拠地にしていた時期もあったが後年火災で消失する。
「Two Step,Side Step」で再び本誌読者はお気づきかと思われる、評伝類は同曲をLawrence Welkの演奏によるラジオ放送の点のみ取り上げることが多く、つかの間の栄光に浸るアマチュア作曲家Murry Wilsonというイメージで描写していることが多い。しかし突然自分の曲がラジオでかかるというのは極めて不自然ではないのか?
Murryはオンエアされることをあらかじめ知っていた、しかもラジオ局へ事前の根回しなどのプロの仕事が介在しているのと推定されるのが自然ではないのだろうか? そもそも「Two Step,Side Step」とはいかなる状況で世間に出ることになったのか?
The Four Flamesの楽曲提供からMurryとMorgan夫妻の関係は良好であり、新たな曲の売り込み先を探していた。ちょうど同時期に地元のPalace Record社長Alfred Schlesingerは南カリフォルニアのラウンジで演奏する三人組を気に入り自分のレーベルからデビューを画策する。
Schlesingerは法曹資格を持ちながらレーベル経営者という異色の経歴を持つ人物で、不思議なことに数年後The Beach Boysがデビュー音源を巡って訴訟があった際は代理人として関与している、その後も音楽業界に詳しい弁護士として業界でも有力者となり、バンドBreadの設立にも関与していた。 その三人組の名はThe Bachelors、ただし同名の英国出身グループではない、メンバーにまだ十代のJimmie Haskellがいた。Jimmieは母の友人のお陰で音楽業界にコネクションがきき、後にImpeiralに入社し、Rick Nelsonのアレンジャーとして頭角を現し様々な分野で活躍する。サウンドトラックから“さだまさしまで”とにかく幅が広く、本誌読者へは怪盤California'99がお勧めである、Millieniumのカバーが秀逸だ。

話をBachelorsまで戻そう、Morgan夫妻がSclesingerの話を聞き接触があり彼を自宅に招き「Two Step,Side Step」のデモなどを聴かせ他結果Murryの楽曲採用を快諾した。

その後レコーディングが行われるが、スタジオは当時完成したばかりのGold Star Studio! 
Murryも現場に立ち会ったとのことで、なんと親子二代で利用したことになるのだ Schlesingerの回想からは「Two Step,Side Step」/「I'll Hide My Tears」/「Fiesta Day Polka」 とのことである。
ただしこれらの音源は今まで確認されておらず、「Fiesta Day Polka」自体BMIに登録されていない事実があった。「I'll Hide My Tears」は前述のThe Four Flamesの変名The JetsがAladdinよりリリースしておりR&Bやヴォーカルグループコレクターも一目置くレア・アイテムとなっている。
今回のSP盤の発見で少なくとも、Palace Recordのレコーディングは実在したことが裏付けられ、さらに現在まで未確認であった「Happy,Happy Holiday」まで発見された。
このことから「Two Step,Side Step」のリリースがあったことが推定されるが、Palace Recordのディスコグラフィについての研究はまだ端緒についたばかりのため今後の研究に期待したい。
「Two Step,Side Step」のThe Bachelors先行リリースがあったと仮定した場合Murryのラジオ放送の逸話もうまく繋がってくる、すなわちThe Bachelorsのプロモーションの一つとしてLawrence Welkへ演奏を依頼したのだ。番組からヒット曲が出ればレコードも売れる、同時にダンスのステップも全米で流行すればLawrence Welkの番組も人気が出るし、社交ダンススタジオも入会者が増えて、お互いにとって利益がある、というのが背景にあったと思われる。
The BachelorsはヒットしなかったがMurryはプロの一員として音楽業界に橋頭堡を築いた。これらを裏付ける資料は皆無であるが、後に同曲はカバーされており、RCA Victor/King/Decca/Recorded In Hollywood からそれぞれ別々の歌手が録音してシングルがリリースされている。
The Bachelorsの企ては失敗に終わったが、Lawrence Welkはこのラジオ番組がきっかけで全国ネットへ移行し、テレビ番組も開始し長寿番組となる。Aragon Ballroomにあった社交ダンススタジオは世界でも指折りの社交ダンススタジオへと成長を遂げている。 
(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)

 

2018年1月10日水曜日

佐野邦彦氏との回想録7・鈴木英之

あけましておめでとうございます。
今年もWeb.VANDAをよろしくお願いします。
平成年号最後となる2018年第一回目の投稿は、佐野さんが肝いりで大プッシュしていたNeil Sedakaなどが掲載されたVANDA22でのやりとりを回想してみたいと思います。

まずVANDA21が届き、そこにはさまれた手紙には「ソフト・ロックA To Z」単行本出版のことと、「今後も流行に関係なく「いい音楽を紹介する」というスタンスを守って地道にやっていきたい」とあり、末尾には前回同様「次回締め切りは410日です」とあった。


このメッセージを受け、私は連載を始めた「Music Note」の1971年に早速取り掛かることにした。そんな中、佐野さんから興奮気味に「次回でNeil Sadakaを組みます。特に1970年代は凄く良いですよ!」とかなり熱い連絡が入った。私は’71年の「Superbird」以降リアルに聴いていたので、「Rocket時代の『Steppin’ Out』はいい曲結構ありますよね。
特に「Bad And Beautiful」「Summer Night」なんか」と切り出し、そして「’75の「悲しき慕情(Breaking Up Is Hard To Do)」の焼き直しは、’74年に出た『(DavidCassidy Live!』のテイクが元ネタだと思いません?」まで発展した。さらに「Captain & Tennilleがカヴァーして大ヒットした「愛ある限り(LoveWill Keep Us Together)」のオリジナルのバックは10㏄が演奏してますよね」といったかなりコアな話にまで及んでいった。ただ私は当時の音源を全部持っているわけではないので、手持ちに無い音源の話をされると、まごついてしまうこともしばしばだった。そんな時は彼が入手したLPをダビングしたカセットが次々に送付されてきた。


そんな経緯で佐野さんのSedaka研究に付き合うようになり、英米では収録曲が違うLPがいくつか存在することを初めて知り、改めて彼の研究熱心さに敬服した。
そんなある時、「Sedakaが再ブレイクした時期は、1960年代初期に一斉風靡したPaul Anka Frankie VarriRightous Brothersなんかもカム・バックしてましたよね。」という話に繋がり、そこでは彼お得意のFour Seasonsの話に広がり、まだ一度もあった事のない同志のとは思えないほど会話は弾む一方だった。すると、佐野さんから「そこまでご存知なら、鈴木さんも1970年代のPaul Anka書けませんか?」とリクエストされた。佐野さんのSedakaに対する思い入れが半端でなかったので、成り行き上Paul Ankaを書くことを安易に承諾したが、電話を切ったあとその安請けあいを後悔することになったが後の祭りだった。


ということで、22にも2本書くことになってしまい、とりあえず音源のチェックをすることにしたが、前回同様コラムをまとめるには音源不足は明らかで、前回同様京都・大阪へ探索ツアーとなった。ただ私がまとめようとする対象はプレミアもつかないようなありふれたものでああるものの絶対数が少なく、ゲットできたのは大阪のForeverで『Wake A Fine Line(マイ・ソングス~朝のとばりの中で)』のみだった。

とはいえひとつのことに集中できない私はせっかく遠出するのだからと、余計な音源にも手をのばし、当時王様が流行らせていた「直訳ロック」の元ネタとなった1970年代の日本語訳詞盤も買いあさっていた。そんななか、原稿の進行具合を問い合わせてきた佐野さんにForeverで「Questions 67&68(日本語版)」を見つけた話をすると、彼も興味があるようで即Foreverにオーダーをかけ、しばらくはこの話でもちきりとなった。

  当時は、Policeの「De Do Do Do,De Da Da Da」やMarliyn McCoo&Billy Davis Jr.の「星空の二人(You Don’t Have To Be A Star)」の日本語詞盤を入手したばかりだったので、自分の所持している音源をありったけダビングして佐野さんに送った。それが届くと即座に彼から連絡が入り、「鈴木さん、このネタ面白いよ!これもまとめてみてはどうですか?」と要請され、これまた佐野さんにのせられるように引き受けてしまった。
それにしても、VANDAには(締切厳守の)充実した作家陣が控えているのに、佐野さんは(内容はともかく)常に締切が危うい私に、よく3つもコラムを依頼したものだと感心してしまった。
そんな流れでコラムを3つ引き受けてしまったが、締切超過傾向癖だけは何とか回避しなければと、焦りながら音源収集に精を出していた。ただ思うように音源が集まらず内容が進行せず悶々とした日々が過ぎていった。
しばらくすると、関西方面から名古屋に足を延ばすようになった。
そこで偶然にも1982年に娘のDara SedakaがDavid FosterのプロデュースでリリースしたセカンドLP『ガール・フレンド(I'm Your Girl Friend)』(松本零士映画作品『1000年女王』の主題歌「星空のエンジェル・クィーン(Angel Queen)」を収録)を発見した。そのLPは即座に購入したが、私が持っているよりも佐野さんが持っていた方が価値があると思い、そのまま彼にプレゼントした。そこから1980年に父娘デュエット「面影は永遠に(Should’ve Never Let You Go)」が全米21位のヒットとなりSedakaの『In The Pocket』に収録されていたことを思い出し、佐野さんに連絡するも彼は収集済みの情報だった。

  こんな寄り道をしながら、当時のことがかなりリアルに頭に浮かぶようになり、とりあえずPaul Ankaからまとめることにした。ただ佐野さんのようにすべてを把握して、詳細を細かく紹介していくには自信がなかったので、Ankaが何回も再録する名曲「愛のバラード(Do I Love You)」と個人的なフェイヴァリット・アルバム『孤独なペインター(The Painter)』(1976年;未CD化)、それに山下達郎氏の『Circus Town』(1976年)A面と参加ミュージシャンが共通する1977年の『Music Man』など個人的に思い入れの強い作品を中心にまとめることにした。ということで、現在は名盤の誉れ高い『Wake A Fine Line』(1983年)については、AORとしては好盤であってもAnkaの存在感が薄く思えたので、軽い扱いにおさえた。こんなポイントで勢いだけで一気にまとめあげ、珍しく締め切り前の3月中に原稿は完成した。

第一関門をクリアし、次に取り掛かったものが「Music Note ‘71」だった。この年は新年からチャート番組にどっぷりつかり始め、夏には木目の美しい家具調の(今は消滅した)Sansui製ステレオを購入してもらい、こつこつとレコード収集に邁進しはじめた時期とも重なり、印象が強くネタには困らなかった。ちなみにステレオは、The Beatles(以下、B4)が新聞広告やT.V.CMに登場していた東芝IC Bostonが欲しかったが、電気店の勧めでこちらに落ち着いた。なおこのステレオは当時一世を風靡した4チャンネル・ステレオ(SQ4)で、このシステムで聴いた『天の守護神(ABRAXAS)/Santana』のサラウンド感は今も忘れられないほど感動ものだった。



第一関門をクリアし、次に取り掛かったものが「Music Note ‘71」だった。この年は新年からチャート番組にどっぷりつかり始め、夏には木目の美しい家具調の(今は消滅した)Sansui製ステレオを購入してもらい、こつこつとレコード収集に邁進しはじめた時期とも重なり、印象が強くネタには困らなかった。ちなみにステレオは、The Beatles(以下、B4)が新聞広告やT.V.CMに登場していた東芝IC Bostonが欲しかったが、電気店の勧めでこちらに落ち着いた。なおこのステレオは当時一世を風靡した4チャンネル・ステレオ(SQ4)で、このシステムで聴いた『天の守護神(ABRAXAS)/Santana』のサラウンド感は今も忘れられないほど感動ものだった。

 話はコラムに戻るが、この年は書きたいことだらけだったのでジャンル分けしてまとめることにし、<スクリーン関係><ビッグ・ネーム><’60年代物><ヨーロッパ・ヒット><ロック関連><ポップス><アメリカン・ポップ><アイドル>の8項目とした。なおこの年10月には、初めてロック・コンサート(Led Zeppelin)に足を運んだこともあり<ロック関連>に力が入った。内容については、元々この年から始めたいと思っていたほど自信があったので、一気に書きまくり、これまでまとめた中では一番スムースに完成した。完成直後、佐野さんに毎週「サザエさん」でB4CM(『Let It Be』のルーフ・トップ・コンサート映像)を放映していたことを話すも、残念ながら彼はあまり印象に無かったようだった。


そして、ロック・ミュージシャンが日本語で歌った曲の特集「EJ Songs」残すのみとなった。このコラムは佐野さんが特に楽しみにしていたものだったので、周りの知人たちに当時のことを確認しながら進めることにした。まず、当時の会社後輩Ka君に尋ねると「やっぱりScorpionsの「荒城の月」ですよ、確か「君が代」も演奏していたはず。」、旧勤務先で音楽評論家となった後輩Ko君は「Chicagoの「Lowdown」は日本語にしようか、英語にしようか迷いました。」、昔の部下U嬢は「Three Degreesの「にがい涙」は「夜のヒット・スタジオ」で見ました!」など興味深い話が色々と聞けた。
佐野さんは私が録音して渡した中の「星空の二人(You Dion’t Have To Be A Star)」(「ふたりの誓い(Two Of Us)」B)がお気に入りで、「日本語で歌われている唯一の全米No.1ソング」が口癖だった。

   このように予想以上の反応に、あっという間にまとめ上げた。ただ、寸評としてまとめるよりも本音の会話風にしたら面白いのではないかと思い、筒井康隆氏の『笑うな ショート・ショート集』(1975年)をモチーフに、飲み屋での雑談風にまとめてみた。そのまとめ上げた手法は、当時のことや音楽に興味のない同僚たちには大受けだったが、真面目な佐野さんからは「ちょっとふざけすぎ」とストップがかかり、普通の解説書に戻し入稿した。余談ながら、この会話手法は後にオファーを受けた『林哲司全仕事』の中で活用し、内容については地元のチューバ奏者S氏の番組「Boss Junアワー」(まりんぱる/FM清水)にゲスト出演し、2週(2時間)に渡って特集を組み放送させていただいた。


こんな経緯で悪戦苦闘した今回の原稿は、二週間ほど遅延してしまったが、どうにか無事仕上げることが出来た。その後に送付されたVANDA 22には「VANDA2冊目の単行本「Beach Boys Complete」が出版されます。」とメモがはさまれており、以前この本をまとめる際に山下達郎氏ご本人から、内容について直接電話があったという話を思い出した。

 また末筆には、「今回は特に多くの原稿をお書きいただき、ありがとうございました。」とあり安堵したが、「次回の締め切りは10/10です。」と編集長としての一言も忘れてなかった。なお、佐野さんが精魂込めてまとめたNeil Sedakaは1999年に来日し全国8ヶ所9公演の日本ツアーを敢行している。ただ、この公演でのレパートリーはほとんど1960年代のオールディーズが中心で、残念な事に佐野さんが力説した1970年代のナンバーはまばらで、公演に足を運んだ彼は落胆されていた事実を加えておく。 

2018192200

2017年12月30日土曜日

The Beach Boys rare early '65 stage photo without Brian Wilson,Glenn Campbell as a substitute.


筆者の友人でビーチ・ボーイズのレア・アイテム・コレクターが、今回は世界初公開であろう貴重なショットを提供してくれた。
ブライアンがツアー活動から離脱後、サポートメンバーとして加わったグレン・キャンベルを中心に撮影された65年2月のステージの模様である。
グレンはブライアンから引き継いだフェンダー・プレベのホワイト・モデル、アルはストラトキャスター、カールはヘッドがホッケー・スティックにように長いフェンダー・エレクトリックXIIのプロトタイプを各々プレイしている。デニスのドラム・セットは当時愛用していたcamcoだろうか?バスドラのヘッドのロゴがないので確認できない。
何よりこのコンポジションからのカラー画像を目にするのは、コアなビーチ・ボーイズ・コレクターも初めてではないだろうか。
音楽ファンならご存じの通り、惜しくもグレンは今年8月8日に81歳で逝去した。
この場を借りてあらためてご冥福を祈りたい。
(個人所蔵のポジフィルム画像により、無断転載と営利目的の使用を禁じます)

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The Beach Boysの歴史の中で12月は大きなイベントが起きることが多い1964年12月7日Brian Wilsonは最初の妻Marilynと結婚する。
春先に強権的で過干渉だった実父Murryを解雇し、心の安定を得られるかに見えたが楽曲制作の一切、ツアーなど全ての予定に追われプレッシャーは高まるばかりでありさらなる安定を求めてBrianは結婚を選んだ、しかしその安定もわずか十数日で終わる。
1964年12月23日Houston公演のため飛行機に乗り込んだThe Beach Boys一行のうちBrianがパニック症状を起こし一時錯乱状態となるもなんとかHoustonに到着する。現地のホテル逗留後もBrianの症状は安定せず、翌日の公演が危惧された。

ここからの記述は各種の伝記やドキュメンタリーで異なるBrianも含めて出演した、というものもあれば部屋にこもり翌日帰還したという話もある未確認であるが、現在も現地でDJを務めるRon Fosterという人物によれば、当時Detoursというバンドに所属し、何かのコネでThe Beach Boysの楽屋に入ることができたが楽屋でのBrianの様子は虚空を見つめ終始静かで、誰にも気がつかれないほどの様子であったとのことである、その後ステージに出たとのことであるが、真偽は定かでない。

経緯はなんであれ、The Beach Boysは南部のツアーをBrian抜きで行わざるを得なくなってしまったサポートメンバーの補充が考慮され翌日24日にGlenn Campbellの招聘が決定する。
今回のツアーの直前、The Beach BoysはABCTVの人気音楽番組Shindigに出演し当該番組のハウスバンドShindogsにGlenn Campbellが在籍していた。当時のメンバーは錚錚たる顔ぶれである。

Joey Cooper, Chuck Blackwell (drums), Billy Preston, 

James Burton, Delaney Bramlett, Larry Knechtel (on bass),
Leon Russell (on piano) and Glen D. Hardin.

その縁のみではないが、従来からレコーディング現場で双方の信頼関係は厚かったと思われる。

当時のGlenn Campbellはすでに売れっ子で多くのヒット曲のセッションで重宝され、音楽活動とは比重が小さいが俳優もしていた。
忙しさはむしろGlenn Campbellの方がBrianより多かったと思われるが、責任感からくるプレッシャーは段違いだったのだろう。
結局Glenn Campbell自身も多忙になりツアーへの同道が困難となり代役が検討されBruce Johnstonが1965年4月8日に決定する直前まで、後に70年代以降The Beach Boys関係で参加することになるEd Carterも検討されたが本人の事情で結局Bruceとなった。
そもそもCapitol契約後Al Jardineをメンバーに招聘した理由も音楽業界を熱望するAlの思いに応えたこともあるがAlにベースを任せてBrianはスタジオワークなどに専念しようという構想があったようである。
この後ツアーメンバーは安定し、Brianの制作活動も軌道に乗り始めるがこの数年後大きな試練が始まるのは誰も予想できなかっただろう。



今回紹介するアイテムは少なくとも1965年2月に現像されたものと推測されるので、Glenn Campbell加入直後のものと思われる。
画像の内容に戻ろう。何かの間奏でCarlのギターソロの瞬間をとらえたいい雰囲気が出ている。真剣な表情なのでオリジナル曲なのだろう。Alのバレーコードっぽい指使いも気になる。
観客の視線はステージ上というより端のどこかで、珍妙なモンキーダンスを踊るMikeに注がれているようだ。
会場の黄色い声援に応えながら演奏する気迫を感じる1枚である

Have a happy, healthy, peaceful Holiday Season, and all good things in 2018 with love and mercy!

(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)


2017年12月26日火曜日

佐野邦彦氏との回想録6・鈴木英之

今回はVANDAに参加してから、佐野さんとの雑談から生まれた連載企画「Music Note」を回想してみる。このコラムの始まりも、元々は乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙の中から発生したものだった。その内容は、VANDA18に掲載されたEdison Lighthouseの解説で「マイナー調の“What’s Happening”は失敗、その後なぜかマコウレイのプロデュースと記されている出来が極めて悪いチープな“My Baby Loves Lovin’”~」と書かれていたが、「“What’s Happening”は「悲しきハプニング」の邦題でAll Japan Pop 20(以下AJP;注1)年間12位、日本では10万枚以上のヒット。“My Baby Loves Lovin’”も「恋に恋して」の邦題で小ヒットしてます。」と書き添えて送ったものだった。

後日、佐野さんからその件について「あそこに書かれていた情報の元は何ですか?」と問い合わせがあり、私は「高校時代に毎週チャートをチェックしていたノートに書いてあるので間違いありません。」「それに「What’s Happening」は売れただけあって、(ローリー率いる)すかんちの「ペチカ」(9512作)にサンプリングされていますよ!」と返答した。そんなやり取りをしているうちに「その手書きした当時のヒット・チャートについて何か書けませんかね?」と彼から進言され、急遽始めることになったコラムだった。

そのはじまりについては私が洋楽を聞き始めた1970年からのスタートを提案されたが、この年の初めはまだ中学生で、当時の私は漫画家を夢見ていた頃だった。当然、音楽情報は全く疎く、せいぜいアニメのテーマ・ソングくらいしか興味がなく、洋楽といえばテレビで見ていたThe Monkeesを知っている程度だった。それに、春以降は大阪万博の話題で持ちきりだったので、この年にThe Beatles(以下、B4)が解散したことはおろか、存在そのものも知らなかった。そんな状態だったので佐野さんの期待に応えられるほどの内容にできる自信がなかった。

高校入学祝いに買ってもらった3バンド・ラジオで洋楽を聞くようにはなったが、正確には地元の静岡放送がオール・ナイト・ニッポン(以下、ANN)のキー局となった7月以降だった。ただ佐野さんからは「この時期、自分はチャート物から離れていた時期なので、当時のヒット状況は是非とも知りたい。」と言われ、さらに「何も概念のない聞き始めの時期に、どんなものに影響されていたかを知るいい機会じゃないですか!」と熱心に勧められ、この年から始めることになった。

そもそも私が洋楽を聴くようになったのは、ANN土曜深夜担当の亀ちゃん(元ニッポン放送社長亀淵昭信氏)の放送を聞くようになってからだった。この番組では「はがきぶん投げ作戦」(注2)なる1万円が当選する企画があり、それを目当てに(読まれも当選もしなかったが)リクエストをせっせと書くようになってからだった。そんなあるとき、「懐かしのゴールデン・ヒット(だったと思う?)」というコーナーで流れたB4の「抱きしめたい(I Wanna Hold Your Hand)」に衝撃を受け、洋楽の洗礼を受けた。


そして、当時上映していた『Let It Be』を見に行き、そこで併映されていた『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day’s Night)』が私の琴線に触れた。その後、この映画で特に印象に残った「Woh Woh, I~」の歌詞が出てくる曲を探しにレコード店を巡り、途中のフレーズだけでは店員も探しようがなく、清水の舞台から飛び降りる心境でLPを購入した。そこでお目当ての曲が「恋するふたり(I Should Have Known Better)」と知り、このアルバムは自宅の電蓄(ポータブル・プレーヤー)で毎日擦り切れるほどに聴きまくった。 
  
そんな経緯で、それ以降洋楽の世界にどっぷり浸かっていった。とはいえその頃のLP1,8002,200円、EP400円という価格だったので、私の小遣いではレコード購入はかなり慎重になっていた。そんな時に亀ちゃんが高校時代に弁当代をため込んでレコード購入にあてていたという話を聞き、即真似をして実践してみたが、23日で空腹に耐えられず断念(・・;)そこで、思い立ったのがヒット・チャート番組『AJP』を聞くことだった。それから地元の放送だけには飽き足らず、電波ノイズと闘いながら東京の放送にも手を伸ばし『TBS.Pops Hot 10(以下TP10;注3)』『ニッポン放送(不二家)Pops Best 10』『Your Hit Parade(以下YHP,文化放送)』などもチェックするようになった。

余談になるが、当時友人の兄が大学進学にあたり、60年代の音楽雑誌(Music LifeTeen Beat等)を処分するという話を聞き、約100冊を譲り受けた。この雑誌の運搬は毎日自転車の荷台に載せて一週間かけてせっせと運んだのだが、全部持ち帰った3日後に友人宅は火事で全焼してしまった。そんな経緯もあり、この音楽雑誌の譲渡には運命的なものを感じてしまった。もちろんこの雑誌は今も大切に保管し、私の執筆活動に欠く事の出来ない相棒として活躍してくれている。
話は戻るが、チャート番組を聞くのが日課となってからは、毎週のチャートをせっせとノートに記入するのが習慣となった。その後、「映画音楽」偏重のYHPは放送時間が遅く(日曜深夜)で重荷となり、またニッポン放送はTP10と時間がダブり、TP10で生まれて初めてリクエストハガキが読まれるといううれしい出来事もあり、結果としてTP10の常連となり、AJP 2つに絞って記入を続けていくようになった。以後数年間、この番組は欠く事の出来ない日課となっていたので、テーマ曲やホストのスピーチについては今も鮮明に記憶しているほどだ。

このように1970年はやっと洋楽に馴染んでいった時期なので、佐野さんのアドヴァイスでリアルなチャート・アクションには触れず、この年のトピックスを覚えている限りを列記して紹介することにした。まず、この年と言ったら男性化粧品マンダムのCMUn、マンダム」でお馴染み「男の世界(Lovers Of The World/Jerry Wallace」につきる。起用されたチャールズ・ブロンソンは、その勢いのまま主演映画「狼の挽歌」「雨の訪問者」も大ヒット。また、発売元の「丹頂化粧品」が「MANDOM」に社名変更をするなど、社会現象ともいえるほどの一大ブームとなっていた。


またYHPに象徴されるように、映画音楽がメインストリームにいた時期で、『ボルサリーノ(アラン・ドロン主演)』『さらば夏の日(ルノー・ベルレー主演)』『ガラスの部屋(レイモンド・ラブロック主演)』など人気映画スターの主演映画サントラが大いに賑わっていた。また、後にユーミンがバンバンに提供した曲のタイトルとして有名な『いちご白書』、そのテーマ「サークル・ゲーム(The Circle Game/Buffy Sainte=Marie」も爆発的にヒットしていた。そして映画といえば、B4の『Let It Be』。当時このサントラLPが写真集付3,900円(後に写真集なしで2,000円で発売)という現実離れした価格で販売されていたのが忘れられない。この話を佐野さんにした際、彼は「そんな値段では、欲しくてもとてもじゃないが手が出せなかったですよね。」と同情してくれた。
 ポップスでは、Shocking BlueVenus」の大ヒットでイントロ「B7sus4」コードを自慢げに弾く「にわかギタリスト」をよく見かけた。また、深夜放送の影響もあり「Mr.Manday/Original Caste」、「マルタ島の砂(The Maltese Melody/Herb Alpert & The Tijuana Brass」、「Train/1910 Fruits Gum Co.」など日本のみの大ヒットが続出した。そして深夜放送のみのヒットとして「便秘のブルース(Constipation Blues/Screemin’ J.Hawkins」、も忘れられない1曲だった。そんな日本独自といえば、(私には全く無縁の)ラブ・サウンドの使者Paul Mauriat Grand OrchestraLettermen。この二組は恋人たちのBGMの定番として、必聴アイテムだったことも付け加えておいた。

第一回の1970年はこんな感じでまとめ上げたが、手書きチャートを振り返って書いたわけではなかったので、佐野さんの反応が不安で仕方なかった。ただ、彼は「この内容は本当に面白い!次回以降も楽しみです。」との好反応で、「Music Note」というタイトルまで命名してくれた。こんな疑心暗鬼な船出だったが、VANDA 221971年からは正真正銘手書きヒット・チャート表をベースにした内容で書き、VANDA 261975年まで6回も連載は継続した。私としてはこの連載を始めて、やっとVANDAの一員になれたような気分になった。

ということで、この6回目が2017年最後の投稿とさせていただく。来年最初となる次回は、佐野さんがはまりにはまっていたNeil Sedakaについてのやりとりを紹介する予定だ。では平成年号最期となる来年もよろしくお願いします。


(注11962年にスタートした『9,500万人のポピュラーリクエスト』が、19675月よりこの番組名に改編され、19853月まで文化放送をキー・ステーションに全国34局ネットで放送されていた。当時の日本で最も信頼性の高い洋楽チャート番組。1970年前後のホストは「みのみのもんた」のフレーズが懐かしいみのもんた氏と高橋小枝子嬢のコンビ。当時のテーマは「Star Collector1967年日本独自シングル)/The Monkees」。

(注2ANNでは番組によせられたリクエストの中から毎回一万円を贈呈する企画があった。亀ちゃんの放送では当日まで届いたはがきをDJデスクから部屋中にばらまき、一番遠くに飛んだはがきが当選という名物企画。

(注3197173年にかけて日曜815900TBSラジオで放送していた洋楽チャート番組。ホストの音楽評論家故八木誠氏が独断と偏見で構成していたアメリカナイズされたプログラムが特徴だった。番組のテーマ曲は、「空想の色(Fancy Colours)」「僕らに微笑を(Make Me Smile)」(1969年『Chicago』収録曲)の組み合わせ。


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