2017年11月18日土曜日

small garden:『歌曲作品集「小園」』 『out of music Single』(small garden studio/SGRK-1601,1701)

 

small garden(スモールガーデン)は、小園兼一郎(コゾノ ケンイチロウ)によるソロ音楽・ユニットだ。
ソフトロックやネオ・アコースティック、ジャズ・ミュージックのエッセンスを内包し、女性ヴォーカリストを迎えてAOR~シティポップとして昇華させたサウンドを展開している。
ソングライティングやアレンジ、全ての演奏はもとより、ミックスダウンからマスタリング、アルバム・パッケージのデザインまで一人で担当するという小園のプロフィールにも触れておく。 

都内で生まれ育った彼は、小学生の頃にテレビでナベサダ(渡辺貞夫)やマルタの姿を観て、サックス奏者に憧れたという。高校生の頃よりサックスを始めてジャズにのめり込み、某音大のジャズ科へと進学する。
そこでは中村誠一氏や山下洋輔氏から手ほどきを受けていたが、ジャズ・ピアニストとしてあまりにも著名なハービー・ハンコックに強く影響を受け、作曲業へ転向し学校を中退してしまう。その後音楽制作会社へ入社しサウンドクリエイターとして数年勤め、フリーランスとなる。
現在ではゲーム音楽のクリエイターを活動しながら、この音楽ユニットsmall gardenを2016年に始動した。

今回ここで紹介するのは、そのファースト・アルバム『歌曲作品集「小園」』(16年10月)と、今年の9月にリリースされたミニ・アルバム『Out Of Music』である。
 まずは『歌曲作品集「小園」』から解説しよう。

 

初めて冒頭「木漏れ陽」のイントロを聴いてから筆者は、small gardenに世界観に引き込まれてしまった。
チェンバロ(ハープシコード)のフレーズにアコーステックギターの刻み、フルートのオブリが柔らかい木漏れ陽を感じさせて、イタリアの地方都市に佇んでいるような錯覚をしてしまった。ディープな映画音楽ファンには説明不要だが、エンニオ・モリコーネが60年代後半にマカロニ・ウエスタンやオーケストレーションを駆使した大作の狭間で手掛けた、所謂カルト映画のラウンジ感漂うサウンド・トラックを彷彿とさせるのだ。
本アルバム収録曲の八割でリード・ヴォーカルを取る野沢菜のナチュラルな声質と相まって、このアルバムの代表曲として第一にお勧めする。

2曲目の「ほたる」は、ボッサのリズムを基調としながら、ジャズ・ピープルらしいピアノのインタープレイが光るポップスとして完成度が高い。ストリングス・アレンジの細部に渡る構成も見事である。
インスト小曲の「間奏」(同名曲が収録されているのでpart1としておく)には、ウェイン・ショーターの『Native Dancer』(75年)で聴けるサックスの響きのように心地よく、続く「かわたれ」の前奏として効果的だ。
その「かわたれ」はゆるいシャッフルで演奏され、柔らかい中域を強調したホーン・セクションの色彩はハンコックの『Speak Like A Child』(68年)の影響を感じさせる。こういったサウンドの随所にエレメントが見え隠れしているのがジャズ学科出身らしい。

「靄」は80年代シティポップというカテゴリーで捉えてもおかしくない曲であるが、ユーフォニウムのソロや生演奏風のサウンドにシーケンス音を有機的に絡めたり、NY派のジャズ系ドラマーがプレイするようなフィルが聴けたりと、細部に渡ってかなりの拘りが感じられる。
これだけ解説して元も子もないが、筆者好みである佐藤準が手掛けていた頃の今井美樹のサウンドにも近く、それは野沢菜のヴォーカル・スタイルに起因しているかも知れない。
「間奏 (part2)」はピアノだけによる演奏の小曲だが、ビル・エヴァンスの『alone』(68年)の断片を聴いているようなひしひしとした孤独感がたまらない。

小園自身がリード・ヴォーカルを取る「斜陽」は、アルバム中最もコンテンポラリーなAORサウンドで、ソウル・ライクなホーン・アレンジ、インタールードのような独立した間奏、ラリー・カールトン風のギター・ソロなどは、北園みなみ経由のドナルド・フェイゲン・サウンドと言えるだろう。
そしてラストの「Fill Up Your Life」ではAkane(あかね)という女性シンガーが参加しており、この曲の作詞をしたVeronica(日本人らしい)の紹介から、偶然にもリード・ヴォーカルを取ることになったという。この曲ではフォーリズムとコンガに、ストリングス・セクションを加えたシンプルなサウンドがキャロル・キングのあのアルバムを彷彿とさせて好きにならずにいられない。小園自身によるソプラノ・サックスのソロも効果的だ。


続いて最新作のミニ・アルバム『Out Of Music』について解説しよう。


   

このミニ・アルバムは前作に比べて明らかに軸足をAOR~ライトメロウ・サウンドに寄せており、新たに迎えられた女性ヴォーカリストのyukky(ゆっきー)も多くのソウル、シティポップ系バンドでライヴ経験も豊富な実力派らしい。声質的にも尾崎亜美を彷彿とさせて個性が際立っている。
冒頭の「蓮花」は70年代ニューソウルのテイストを持つメロウな曲で、フェンダーローズを中心としたリズム・セクションにストリングスを加えていえる。ミニー・リパートンをこよなく愛するソウル・ファンは聴くべきだろう。
続く「流る星」もサウンド的には同質であるが、こちらには80年代初期のパトリース・ラッシェンのテイストを感じる。小園自身も掛け合いでヴォーカルを取っており、バックのコーラスも二人で担当しているようだ。ややハーモニー・ピッチに危うさを感じる箇所があるが今後改善されていくだろう。

「湖畔」は前作収録の「間奏(part2)」のメロディをモチーフとして発展させたと思しい、小園自身がリード・ヴォーカルを取ったシティポップだ。曲の後半の女性ヴォーカルは、ピアニストでもあるRomihi(ろみひ)が担当している。
ラストの「H.S.P」はこれまでのメロウな3曲とは異なる、ブルージーながらテクニカルなジャズ・ファンク調のサウンドがご機嫌で、ドナルド・フェイゲンの『Kamakiriad』(93年)に通じる。この曲でリード・ヴォーカルを取る小園の乾いた声質とのギャップも逆に面白いかも知れない。筆者的にはこのミニ・アルバム中最も好みである。

今回某SNSを通じて小園氏より筆者にコンタクトがあり音源を聴かせもらったのだが、こういったケースはこれまでも多々あった。中にはWebVANDAや筆者の趣味性を本当に理解してコンタクトを取ってきたのか疑いたくなる音源が多かったので、当初は然程期待をしていなかったのだが、そんな迷いも「木漏れ陽」のイントロ4小節を耳にして一掃された。
密かに活動している音楽家やその楽曲との出会いとはそういうものなのかも知れない。
自主製作ながらアマゾンでの取り扱いもあるので、気になった読者は是非入手して聴いて欲しい。
(ウチタカヒデ)

2017年11月15日水曜日

佐野邦彦氏との回想録・鈴木英之

VANDAの創設者である佐野邦彦氏が、20171031日に60歳の若さで逝ってしまった。
そんな彼の訃報を知ったのは、彼と一緒に取り組んだJigsawのリイシューCDのサンプルが届き、その報告メールを送ろうとしていた矢先だった。

 葬儀は「密葬」と聞いたが、なんとしても彼の現生の姿を目に焼き付けておきたく、奥様と弟の芳彦さんに参列の承諾を取り、滋賀からトランプ大統領来日を翌日にひかえ戒厳令体制の東京に向け新幹線に飛び乗った。新横浜から東急線を乗り継いで、世田谷の会場玄関で15年ぶりに弟の芳彦さんと合流、そして(電話ではおなじみだった)奥様に初めてお会いし、ご持参されていた彼の最期の仕事となったJigsawCDから葬儀用に使用するアルバムを選定させていただいた。そのアルバムは第4作『I’ve Seen The Film, I’ve Read The Book(邦題:愛の想い出)』で、かねてより彼とJigsawの最高傑作と認めていた作品だった。葬儀中に「Who Do You Think You Are(恋のあやまち)」が流れると、「やっぱりこっちがHeywoodsより良い出来だよね!」と会話したことが昨日のことのように頭をよぎった。




お通夜と本葬では、声だけや名前だけしか存じ上げない方たちとご一緒させていただいたが、そんな葬儀の最中にWeb.VANDAの管理人であるウチタカヒデ氏より、佐野さんの意志を継続していくためにサイトへの参加を要請された。正直なところ、佐野さんが築き上げた功績に迫れるようなものを寄稿できるかは不安ではあったが、彼の「佐野さんを忘れないためにも是非!」という呼びかけに、私が役立てるのであればと参加を承諾した。

そもそも佐野さんと知り合ったのは、VANDAが日本の音楽シーンに一石を投じたVANDA18を発行した1995年だったので22年前になる。
きっかけは私の購入した本が不良品で交換を要請したところ、彼から「零細企業なので不良品をみせないと印刷会社に返金請求が出来ないので現品の返送をお願いしたい」という連絡が入った。そしてせっかく戻すのだからと掲載内容の添削と要望事項などをまとめたレポート用紙を5枚ほど添えて返送した。その数日後、彼から本に添えて謝罪と執筆参加の要請が書かれた手紙を受けとり、彼と直接やり取りをして私がリクエストした「Grassroots」を寄稿することになった。とはいえ、本来漫画好き(元漫画家志望)で文字が苦手の私が文章を書くなんて夢にも思っていなかった。その初寄稿は翌年のVANDA20号に掲載されているが、今となってはとても人に見せられたものではないレベルのものだった。




 その後は彼と頻繁にやりとりするようになり、佐野さんの「それいいね!それ面白そうだよ!」といった流れで寄稿が継続し、いつの間にかレギュラー執筆陣の一人に加えていただき現在に至っている。

そんな私だったが彼から「鈴木さんが知らないことは誰も知らないよ!」とのせられ、佐野さんとは別次元の内容をまとめられるまでに成長させていただいた。おかげで何冊もの本を出版するチャンスに恵まれ、これをきっかけにテレビ・ラジオといったメディアにまで活動の幅を広げられるようになった。これはひとえに佐野邦彦さんという存在あってこそ成し遂げられたもので、彼なしには今の自分はなかったと心より感謝している。ということで、ここへの投稿は彼との回想録を中心にまとめていくことにする。
 
佐野さんとの回想録の1回目は、彼にとって私と最後の共同作業となったJigsawについて紹介させていただく。
そもそもJigsawの始まりは彼との交流が始まって1年ほどたった時期の雑談の中からスタートしたものだった。彼から「何か面白いネタはないですかね?」の問いに「1970年代ものでもよければ、JigsawPilotなんかどうですか?」と返答した私は音源をダビングして60分テープを2本送付した。ただその時点では「Jigsaw=Sky High」というイメージが強かった彼はさほど期待はしていなかったようだった。数日後「鈴木さん、両方とも凄く良いよ!」と連絡があり、この二組のコラムは199712月発行のVANDA23に掲載された。 



 ちなみに私が佐野さんに渡したJigsawの音源は「BASFSplash」時期の音源だったが、彼はそれ以前と以後の音源まで探し(末尾にSpecial Thanksとして私と並列表記されているクールハンド竹内氏経由?)、世界に出しても見劣りしないほどの素晴らしい内容に仕上げてくれた。この文面を見たリアルタイマーのファンだった私は、改めて彼の探究心の旺盛な姿に舌を巻いた。これ以降の佐野さんとのJigsaw回顧録については、かなり長くなってしまうので、次回で紹介したいと思う。

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2017年11月12日日曜日

WebVANDA執筆陣への参加に際して・平川雄一

度々WebVANDAにて拙バンド、ザ・ペンフレンドクラブの新譜レビューやインタビューを掲載して頂いた身であるが、この度、当サイトの執筆者として参加する運びとなったことは、まさに光栄至極だ。

故・佐野邦彦氏とはFacebook上での交流から始まり、ザ・ペンフレンドクラブ新譜発売の際に推薦文を依頼、寄稿して頂く、という間柄だった。
毎回、病床にも関わらず改行無しのビッチリと文字で埋められた推薦文を賜るにつけ、そのバイタリティーに驚いたものだった。

佐野氏に来年発売予定の新譜のライナーノーツを依頼した。アルバムはソフトロック色の強いものであるため、「佐野さんしかいない」と。

推薦文に引き続き、またも私からの不躾なライナー執筆依頼。幸い佐野氏には喜んでは頂けたが、闘病生活での不自由さ故、全面的な執筆は固辞された。形として残るためか、佐野氏の責任感を感じた。そして「2か月先の体調も見えない状況なのでサブとして曲解説のみ承る、原稿料はいらない」と仰ってくれた。

そのメールでのやり取りの翌日に佐野氏は逝去された。

2017年11月5日、都内斎場
佐野氏との最初で最後の直接の対面となった。気丈に振る舞う奥様、頼もしい息子さん御兄弟、そして先立った息子の体をいつまでも優しくさするお母様の姿。斎場では佐野氏が最後にライナーを執筆されたジグソーが流れていた。

ご家族、ご友人、関係者と一緒に棺に別れ花を入れ、火葬場にも参列、周りの勧めでお骨を骨壺に入れさせてもらった。1997年の佐野氏が編纂された「ザ・ビーチ・ボーイズ・コンプリート」をボロボロになるまで読んだ20年前のあの日。まさかこんな日が訪れるとは夢想だにしなかった。

その時、WebVANDAのウチタカヒデ氏、VANDA関係者の方々とも合流し、その後、執筆者として招待された次第だ。

ザ・ペンフレンドクラブの平川雄一として、一音楽ファンとして、私らしく執筆していければと思う。

以後よろしく願いします。

平川雄一

WebVANDAに新たな執筆者を迎えました


WebVANDAの主であり、ソフトロック、ポップスなどの音楽ファンに多大な影響を与えながら、去る10月31日に惜しくも永眠された佐野邦彦氏。
今後もこのWebVANDAでは、氏の遺志を継いでいきます。


ついては、氏と生前から交流があり信頼が厚かった方々を「執筆者(投稿者)」として新たに迎えました。

☆定期誌VANDAで佐野編集長を補佐していた中心メンバーで、レトロカルチャー研究家、フリーライターとして多くの著書も多く、地上波テレビやケーブルテレビの番組、FMラジオの番組にも解説者として出演している実績豊富なご意見番。


このお二人は、氏のご葬儀の際もはるばる遠方から駆けつけた方、また一度も面識がないまま式の最後まで参列下さったという方という、これ以上相応しい方は見当たらないことから、Web管理者のウチから直接依頼した次第です。
下記でご紹介したいと思います。


 鈴木 英之 氏



☆東京が誇る、拘り派ウェストコースト・ロック・バンドで、あのザ・ゾンビーズやジェフリー・フォスケット来日公演のオープニングアクトを務めた「ペンフレンドクラブ」のリーダーとして、またビーチボーイズのリイシュー・アルバムの解説や書籍にも参加するなど若き音楽通ミュージシャン。


 平川 雄一 氏 


今後のWebVANDAにも是非ご期待下さい。


WebVANDA管理者一同

2017年11月1日水曜日

弊誌VANDA編集長、佐野邦彦氏の訃報について

日頃よりWebVANDAをご愛読頂き感謝の念に堪えません。
2017年も残り少なくなり11月を迎えたばかりでありますが、非常に悲しいご報告をしなければなりません。
2012年9月より入退院を重ねて闘病中であった、弊誌VANDAの編集長である佐野邦彦氏が10月31日の朝に永眠されました。
享年60歳でした。 


佐野氏の活動は本Webの熱心な読者には説明不要なのかも知れませんが、91年の定期同人誌VANDAの創刊より”ソフトロック”という音楽カテゴリーを唯一無二の審美眼と洞察力で研究発表し、音楽ファンの間に新たな価値観を植え付けたと言っても過言ではないと思います。
現在本Webの共同管理者である私もその一人でした。
佐野氏の比類無き拘りは、VANDA誌前身となるミニコミ誌『漫画の手帳』(81年創刊)から既に開花されていたと聞きます。
現在のようなインターネット環境、それ以前のパソコン通信すら普及される遙か前の時代においての情報収集は想像を超える苦労があったと思います。
それを若干24歳ながら情熱をもって編集して自主出版していた事実は、尊ぶに値する行動力ではなかったでしょうか。
故人の業績を身内が賛美するのは愚かと思われるかも知れませんが、これまでに佐野氏が主監修し協力者の方々と共に出版してきた『SOFT ROCK A to Z』シリーズや『The Beach Boys Complete』等の書籍は、今後も音楽ファンのバイブルとして読み続けられるでしょう。
佐野さんのことを忘れないためにもどうか読み続けて下さい。

WebVANDA管理者一同

2017年10月29日日曜日

☆「探検バクモン 奈良文化財研究所驚き!平城京の民のホンネ」で泥の中から発見された一挙3千点以上国宝になった木に書かれた木簡には、庶民の不平や願望、役所用のIDカードなどが含まれ、最高に面白かった。


NHK「探検バクモン 奈良文化財研究所 驚き!平城京の民のホンネ」は最高だった。今から1300年前の奈良時代、日本には漢字が入ってきて、平城京で働く下級役人は、紙の代わりの木簡という小さな木に漢字を書き、消しゴムがないからそれを薄く削って何度も再利用していた。その大量の木クズが奈良の湿地帯の中で見つかってその一部で解析されたものだけ3148枚が一挙に国宝に指定された。水を含んだ泥の中でだったので保存できたのだが、そのまま普通に乾かすと縮んでダメになるため特殊処理を施し機械乾燥するまでの水に漬けたままのものがまだ膨大に残っているし、その前のただの木クズとしか思えないものを丁寧にはがしてゴミをハケで取ると文字が出てくるものもある。今後、国宝に追加されるものは数千点以上あるだろう。この木簡の凄いところは、当時の人間の仕事・生活・本音が分かることにある。例えば「給食の飯がまずい」「早く昇進させて欲しい」「借金お願いします」と書いたものや、上司の勤務評定があり「日勤320日夜勤185日」などとブラック企業もビックリの勤務実態が見てとれる。もちろん役所の指示書も多く軍の配置命令が日付入りで書かれていた。また名前の下の左横に指先と第1、第2関節の位置がマーキングされていてIDカードの先駆けが既にあったのには驚かされた。木簡の中には明らかな外人の横顔のイラストが描いてあるものがあり、当時の文献では平城京にペルシャ人が働いていたとあるので、これは真実。いたずら書きや、木で作った様々な玩具など、1300年前も今と変わらない庶民の生活が分かる。今までは貴族、その後は上級武士が作ったものばかりが残されているので、そこに「生活感」など出てこない。だからこそこの木簡は貴重で一気に国宝になったのだ。この時代の漢字は、中国から習ってきて時間が経っていないので、崩した漢字がないので、今の我々でも読める。時代を経て武士の間でのやり取りになると漢字が崩されていてもう我々にはヘビがのたくったようにしか見えなくなる。昔TVで「ビートたけしの教科書に載らない日本語の謎」という特番があって、文字のない時代から戦後、文語体を捨てて今の日本語になるまでを追った最高の内容だった。その中の奈良時代を見直してみると、最初、日本語を中国語の当て字にしていたら一音一音同じ発音の漢字を当てはめていたら漢字の量が膨大で大変なので、日本語の当て字で弥麻(ヤマ)は中国語の山(サン)と同じ意味だという事で、日本独自の訓読み、つまり山を(ヤマ)を読むことにして万葉仮名が出来上がり、日本語が画期的に進歩。「古事記」「日本書記」「万葉集」などが生み出される。ひながなが出てくるのは次の平安時代。奈良時代の日本語は8母音と今より3つも多く、「はひふへほ」は「パピプペポ」、「さしすせそ」は「ツァツィツゥツェツオ」、蝶々は「ディエップディエップ」と発音していたそうなので、「母上様、蝶々が飛んでいますよ」が「パパウエツァマ、ディエップディエップガツォンデイマツゥヨ」で会話していた。聖徳太子のいた日本ではこんな日本語を使いながら、僅かな数の貴族は自分の屋敷の中に馬の手配をする役所を置くなどの贅沢な生活を続け、それ以外の大半の庶民は一生、頭打ちの下級公務員ばかりで平城京に暮らし、昼も夜も休みのない過酷な勤務、役所が用意する食事はまずく、それでも少しでも出世したいと願う…などという実態が見えた。ただ役所には個人確認のIDカードがあり、ペルシャ人も働くなど国際性もあった。そして手作りで玩具を作り、落書きもするなど、息抜きの部分もちゃんとあり、生活は今と大きく違わなかったようだ。未解読の木簡が解読されれば、当時の庶民の本音がますます分かるだろう。日本の歴史で文字として残っているのは武士と貴族の残したものばかりで、庶民、それも本音が分かるものは江戸時代まで何もなかった。その間の900年間を埋めるものが唯一、この木簡なのだ。これからの解析が楽しみ。ちなみにNHK総合のレギュラーで一番好きなのは「ブラタモリ」だが、続いて「探検バクモン」。他では「ドキュメント72時間」、Eテレの「ねほりんぱほりん」も必ず録画する。残念なのは総合の特番で超力作なのに、全く再放送しない番組があるのが惜しい。4回に渡った「大アマゾン」の「ガリンペイロ」と「最後のイゾラド」は、ドキュメンタリーの頂点。いずれ紹介したい。(佐野邦彦)
 

2017年10月23日月曜日

☆宮治淳一:『茅ヶ崎音楽物語』(ポプラ社)


宮治淳一さんから「茅ヶ崎音楽物語」が届いた。これは嬉しい。いつ買おうかと思っていたが、最近は本を買っても体調で読み切る気力がなく、10冊以上読んでない本が積んであり本の購入は全て止めていたのだ。しかしこの宮治さんの本には格別な思い入れがあり、実際に届くと一気に読んでしまった。ただこの土日は体調が悪くパソコンを開く気にもなれない有様、でも気分が良くなった時に一気に読了した。加山雄三、加瀬邦彦、喜多嶋修、そして桑田佳祐を生んだ茅ヶ崎という奇跡の町の存在は知ってはいたが、それだけでなく、古くは中村八大、そして平尾昌晃、尾崎紀世彦も茅ヶ崎に住んでいたと知ってさらに驚いた。今でこそ、茅ケ崎の名は知られているが、小さな漁村で、古くは別荘街として売り出されたこの場所に、日本のポップス史上の最重要ミュージシャンがこんなに生み出されたなんて奇跡としか言いようがない。茅ヶ崎の人口は現在でも24万、ここにこれだけの才能が集まることはなぜなのか?生まれてから茅ヶ崎を離れたことがない生粋の茅ヶ崎人である宮治ささんはその事をさらに深く知ろうとし、こうして本にしてまとめ、映画にもなってしまった。この作業は音楽を愛し、何よりも茅ケ崎を愛する、宮治さん以外できない仕事だった。勤めは都心で通勤時間はかかるが、川を越えると自分の頭は会社から離れ、好きな音楽の世界の切り替わると宮治さんから聞いたことがあるが、このスイッチングがいいのだろう。自宅の一部はBrandinとレコード&カフェ(夜はお酒も)で、膨大な「宮治コレクション」を聴き、お客さんが持ちよって聴こともあり、音楽好きの楽園のような店を勤め人の傍らで作り上げた。これも今思えば、「音楽のまち」茅ケ崎への宮治さんの貢献だったのだろう。

明治時代に市川團十郎が広大な別荘を作ったことから茅ヶ崎は別荘地として知られていったらしい。山田耕筰や中村八大も住んでいたという。しかし本書の前半で最も思い入れを持って書かれているのは、加山雄三である。還暦を少し超えた宮治さんはほぼ私と同じ音楽体験をしてきているので、宮治さんが受けた衝撃は、自分とほぼ直結している。宮治さんの幼少期、茅ヶ崎の有名人といえば上原謙で、その息子が加山雄三として俳優デビュー、俳優でありながらシンガーソングライターという前例のない才能を持つ加山は1966年には「君といつまでも」が350万枚という大ヒット加山に夢中になった。しかし宮治さんがより好きだったのは同時発売されたエレキインストの「ブラックサンドビーチ」のシングルの方で、まだ小学生だった宮治さんはさすがに上原邸の玄関のベルを押すことはできなかったが、庭から加山とランチャーズが演奏するエレキインストが聴こえてきて、これが初めて生で聴くエレキコンボの演奏でずっと聴いていたという。なんと羨ましい想い出だろう。田園調布から2歳の時に環境の良さを考えて茅ヶ崎に引っ越してきた加山だが、有名俳優の息子ということもあって町中では遊べず、自作の手漕ぎ船で烏帽子岩まで行ってサザエなどを取っては夏休みを過ごしていたというワイルドなエピソードもあるほど。慶応高校に入学すると周りは政財界や文化人の有名人の子息が集まるセレブ校だったので、加山は特別視されず過ごしやすかった。この慶応高校時代には、裕福な家庭に育った平尾昌晃は湘南中学から家族や親戚がみな通った慶応高校に進学、加山を電車の中ではよく見かけたそうだが、高校時代は一度も会話したことはなかったいう。平尾はその当時、熱狂的に盛り上がったロカビリーに魅かれ歌手としての実力も評価されていたので、思い切って慶応高校を中退し、プロ歌手の道を選んだ。しかしロカビリーの大ブームはほどなく消えてしまうが、作曲ができる平尾は作曲家の道を選ぶ。布施明に書いた「霧の摩周湖」でレコード大賞作曲賞を受賞した平尾はヒットメイカーとなり、五木ひろしに書いた「夜空」がレコード大賞になるなど見事な転身を遂げた。話は戻って加山は、大学時代はカントリーバンドを作って進駐軍のキャンプなどで歌っていたが卒業で進路選択しなくてはいけなくなり、造船技師の夢はあったが就職すると俳優にはなれない、上原謙の息子という恵まれた立場を生かすべきという進言を受けて、東宝のニューフェースとして入社することを選ぶ。慶応幼稚舎出身の加瀬邦彦も田園調布に住んでいたセレブで、茅ケ崎へ引っ越してきたが、慶応高校時代に加山の妹に恋心をいだき、ボーイフレンドとなって加山の家へ足繁く通うようになり、エレキギターの魅力に魅かれて、バンド活動を開始する。「ワイルド・ワンズ」の名前は加山が名付けたものだった。そして作曲ができる加瀬は自信作の「想い出の渚」でデビュー、大ヒットになったのは存知のとおり。加瀬は加山の下にいるのでなく、最初はスパイダースに加入するものの意見が合わずに3カ月で脱退、その後寺内タケシとブルージーンズに加入し、またそこも辞めて自分のバンドのワイルド・ワンズを作る…という積極性がGSの人脈を増やしたのではないか。GSブームは3年ほどで収束してしまうが、加瀬は作曲家に転身し、沢田研二のヒット曲の多くを書き、「危険なふたり」で日本歌謡大賞を受賞するなど、後の活躍は見事の一語。そして茅ヶ崎には岩倉具視の子孫である喜多嶋修も住んでいて、母方の親戚でもあった。喜多嶋がギターを弾けるのを見た加山は茅ヶ崎に来る時は、まだ湘南学園の1年生だった喜多嶋とセッションを重ね、メンバー4人でバンドを作り、加山が茅ヶ崎に入る時はセッションに励んだ。そして19662月には加山は喜多嶋のランチャーズをバックに、全曲加山の英語の作詞作曲のアルバム『Exciting Sounds Of Yozo Kayama And The Launchers』をリリース、洋楽扱いで発売されたこのアルバムは。日本のポップス史に残る画期的かつ唯一無二の傑作となった。ちなみに驚く事に高校生の喜多嶋はフェンダーのジャズマスターのギターを持っていて、今の価格では200万くらい。こんなギターを買えたのはさすが岩倉一族としか言いようがない。しかしこの後のGSブームからエレキ=不良という「エレキ排斥運動」が全国の高校に吹き荒れ。湘南高校も禁止に。慶応大学に進学した喜多嶋は、加山にランチャーズとして単独で活動したいと告げ、喜多嶋の書いた「真冬の帰り道」がヒット、GS史上に残る傑作となった。GSブーム終了後、喜多嶋はロスに移住し海外での音楽活動に拠点を移す。そして尾崎紀世彦がいた。尾崎もGSブームの中ワンダースというグループにいたがヒットは無く解散する。しかし同じレコード会社でズーニーヴ―というGSのシングルの「ひとりの悲しみ」の可能性を信じていたプロデューサーが、阿久悠宇に歌詞を変えさせ、ソロになった尾崎に持ち前の声量を目いっぱい生かした「また逢う日まで」に変えてシングルにすると大ヒットになり1971年のレコード大賞まで獲得してしまう。尾崎はプロシンガーの道を極め、ローカル色を一切出さなかったので、茅ケ崎との関係は知られずじまいだったが、茅ケ崎の祭りの神輿かつぎに毎年来るなど茅ヶ崎愛は深かったという。

そして最後はもちろん桑田佳祐だ。宮治さんとは小中で同級生、中学では同じ野球部で、ビートルズのレコードを全部持っている桑田の家に放課後によく通ったという。高校は別の高校へ進学したが、自分の高校の文化祭に桑田のバンドを呼ぶなど交流は続いた。大学受験は現役で青山学院に合格していた桑田はバンド活動を開始していて、一年遅れて早稲田に合格した宮治さんに、ある日、名前の無かったバンド名に名前を付けてくれと依頼され、その時夢中で聴いていたニールヤングの「サザン・マン」と、ラジオで宣伝が流れていたファニア・オールスターズ来日のニュースを組み合わせて「サザン・オールスターズ」と名付けた。以降40年も使っているわけだが。宮治さんと桑田さんの細かいエピソードは本で読むのが一番。それまで尾崎紀世彦の家庭は分からないが、加山雄三から喜多嶋修までまあみな絵にかいたような裕福な家庭で、慶応つながりというセレブな関係がまぶしい。一般の家庭が出てくるのは桑田佳祐からだ。ただ裕福でセレブというだけでは音楽の才能など現れない。やはり茅ヶ崎のという場所が育んだとしか思えない。(佐野邦彦)