2017年5月23日火曜日

桶田知道:『丁酉目録』(UWAN-002) 桶田知道インタビュー


















先月第一報で紹介したが、ウワノソラのメンバーである桶田知道が5月31日にファースト・ソロ・アルバム『丁酉目録」(ていゆうもくろく) 』を自主制作盤としてリリースする。
バンド同僚のいえもとめぐみと角谷博栄によるウワノソラ'67のサウンドと対極ともいえる、ワンマンの打ち込みサウンドは、ヒューマンで有機的な80年代エレポップに通じるが、当時リアルタイムでそのサウンドを聴き込んでいた筆者には懐かしくもある。とにかくジャンルの細分化が進み、明確なトレンド意識が瓦解した昨今では新鮮に聴けるだろう。
なお映像的な詩とシーケンス・ミュージック特有のグルーヴの融合が顕著に現れているリードトラックの「チャンネルNo.1」をはじめとする、全曲のソングライティングとアレンジから演奏はすべて桶田一人によるものだ。
9曲中6曲にはいえもとがヴォ-カリストとして参加し、「チャンネルNo.1」を含む3曲で桶田自身がヴォーカルを取っている。その他にこれまでのウワノソラ関連作のクレジットでは見掛けなかった中垣和之とウラアツシがコーラスとして「チャンネルNo.1」に参加している。
ここではリリースを間近に控えた、桶田へのインタビューを掲載する。

   

 ●まずはウワノソラとしての活動が、角谷君といえもとさんのウワノソラ'67と、今回のソロプロジェクトに別れた経緯を桶田君の視点から聞かせ下さい。

桶田(以下O):「ウワノソラ’67」のリリース時に角谷君が言っていた通り、各々の趣向の違いです。
ウワノソラ1stが出て直後くらいに次作について話していたら、角谷君が「ウワノソラ’67」の企画について話してくれました。
面白いと思いましたが、それを次作のサウンドコンセプトとして持っていくのは段階が早いね、ということになり、僕はその頃ロジャー・ニコルズをはじめA&M系を愛聴していたので、「いえもとさんをヴォーカルに立てて各々違うアプローチのものを作れたら面白いね」ということになりました。
結局僕が当初考えていたコンセプトは破綻してしまったのですが、そもそも「ウワノソラ’67」自体、あくまで本隊のサイドプロジェクトという位置付けなので、サウンドコンセプトの整合性よりも、各々が違う趣向のものを作るということで、この一連のサイドプロジェクトの流れに帰結させることが先ず念頭にありました。

●ロジャー・ニコルズやA&M系の曲調やサウンドでアプローチしたのも聴きたかったですよ。一応VANDAのサイトなので、その頃聴いていたアルバムを記憶の範囲で挙げて下さい。

0:68年作の『Roger Nichols & The Small Circle of Friends』は勿論、Paul Williamsの70年作のソロ『Someday Man』や両氏のデモ集『愛のプレリュード』は今でも愛聴しています。
その他The Parade『Sunshine Girl』 、Harpers Bizarre『The Secret Life』、The Match『A New Light』などはほぼほぼ不可抗力で行き着き、Free Designの『Kites Are Fun』『You Could Be Born Again』『Heaven/Earth』も同時期に買いました。あとは少し趣向が異なるかもしれませんが、Margo Guryan『Take a Picture』、The Millennium『Begin』をよく聴いていました。
邦楽ではピチカートファイヴの『Couples』、コーネリアスの『THE FIRST QUESTION AWARD』など、平たく言うところの「渋谷系」の中でも特にロジャー・ニコルズの影響を感じられる作品を聴いていました。日本語詞なので当初はある意味手引きのような作品でした。

●名だたるソフトロック名盤が並んでいますが、昨年リリースされたロジャー・ニコルズの未発表デモ及びCM・主題歌集の『Treasury』は聴きましたか?
曲作りのヒントが隠されているので、桶田君をはじめ若きソングライターは必聴ですよ。

0:『Treasury』は発売日に購入しました。これは本当に貴重なアルバムですね。ロジャー・ニコルズはもちろんですが、これは濱田高志さんの功績も大きいですよね。
職業作家の作品に興味を持ったらとことん追求したくなるので、特にDISC2にCM提供曲が収録されるという情報を得てからは発売日までずっとソワソワしていました(笑)。

●気が早いかも知れませんが、それぞれのサイドプロジェクト(ソロプロジェクト)の作品を発表したことで、ウワノソラ本体のセカンド・アルバムの制作にも着手していると考えていいですか?
また具体的にそちらのレコーディング状況はどうなっていますか?

0:ウワノソラ本体については非常にマイペースで進行しています。一進一退に近いので、現状特筆してお知らせすべき事がなく残念ですが、こちらも出来るだけ早くお知らせできるよう頑張ります。

●ウワノソラのセカンド・アルバムも首を長くして待っていますからね。

0:ありがとうございます。是非とも楽しみにお待ちいただけますと幸いです。

●今回のソロプロジェクトではこれまでのウワノソラや、当然ですがウワノソラ'67とサウンド・アプローチが全く異なりますね。 そもそも桶田君の音楽趣向は、本作のようなワンマンの打ち込みで構築していくサウンドだったんですか?

0:打ち込みモノも好きですが、もちろんそうじゃないのも好きです。 ウワノソラ1stの時の僕の曲や「Umbrella Walking」のように70s的なものも好きですし、今回趣向したもののように80s〜90sも好きで、個人的に一貫して趣向しているスタイルというのは特にありません。
音楽趣向というよりは、作業スタイルという点で打ち込みを選びました。ただ単純に一人で音を重ねていく作業が好きで、せっかくのソロ名義だし出来る限り一人でやりたいとも思っていたので。

●作業スタイルでの選択ということですが、例えばリードトラックの「チャンネルNo.1」は、分解能が低い頃特有のシーケンサーのグルーヴの曲ですから、打ち込みありきでの曲といえますよね?
よろしければ打ち込みで使用したシーケンサーやソフトを教えて下さい。

0:確かにそうかもしれませんね。「チャンネルNo.1」もそうですが、本作の中でも比較的生っぽいアプローチをしている「陸の孤島」なんかでも後ろの方でリズムボックスのような打ち込みをしています。
作業は全てLogic Pro Xで行いました。 今後は本物のCR-78や808も使ってみたいですけどね…。

●ウワノソラの1stでは「摩天楼」と「マーガレット」が桶田君のソンングライティングで、「さよなら麦わら帽子」と「恋するドレス」は曲のみ角谷君と共作でしたね。
ウワノソラ・ファンを代表して質問しますが、「摩天楼」のアレンジで「Jolie」風のオルガン・ソロやオブリは角谷君のアイディアだと聞いたことがあるけど、許せる範囲でバンドならではのヘッド・アレンジや共作の種明かしをして下さい、ここは桶田君でここは角谷君とかね(笑)。

0:「摩天楼」は高校時代に作った曲で、アレンジは角谷くんのアイディアが多くを占めています。尺と間奏部のブレイクする部分は原曲を反映していますね。
アルバム未収録ですが「Umbrella Walking」も同様で、僕が自らくすぶらせていた曲を角谷君が上手く仕上げてくれた感じです。
「マーガレット」は僕の編曲であると同時に唯一自分でギターを弾いている曲です…(笑)。
「さよなら麦わら帽子」では、Aメロは僕、Bメロ(サビ)は角谷君です。最初は超バラードだったんですけど気づいたらこういう仕上がりになっていました(笑)。
 そして「恋するドレス」なんですが、あれ実はクレジット表記ミスなんですよね(笑)、実際は全て角谷君によるものです。この場をお借りして訂正させていただきます(笑)。

   

●「摩天楼」や「Umbrella Walking」のエピソードは興味深いです。
年長メンバーである角谷君がサポートしてくれたという感じですね。
そして「マーガレット」での儚さは本作の収録曲でも行かされていると思いますよ。
また「さよなら麦わら帽子」がバラードだったとは意外です!
アルバム収録曲中最もクロスオーバーな展開だったからね。僕の古い知人でもあるヤマカミヒトミのサックスもそっちのテイストで吹いていますよ。

0:実際のレコーディングは角谷君主導でしたが、結果的に僕が作った当時指向していたサウンドとなり、自分主導では出来なかった部分などが分かったという点でも勉強になりました。
アルバムにアップテンポで軽快な曲が欲しいね、と言っていた時に僕がバラードを作っちゃったので(笑)。ヤマカミさんにも素晴らしい演奏をしていただいてとても感謝しています。

●アルバム・タイトルの『丁酉目録(ていゆうもくろく) 』には、古きよき文学の薫りがしますが、この影響はどこから?

0:特筆すべき影響はありませんが、ソロ名義で作品を出すということに大きな意味を感じ始めた頃、2017年に出るべくして出たという意味合いをこめて「丁酉」を冠したかったというのがあります。
十干十二支は60年周期なので、まぁこのタイトルは今年以外ありえないだろうなと(笑)。今年付けそびれると次は86歳になるまでこのタイトルは付けられないので(笑)。

●更に長寿命社会が進むわけですから、86歳でアルバムをリリース出来るかも知れませんよ (笑)。

0:そうなるといいですね(笑)。そのための第一歩として先ずこのアルバムを皆さん手に取っていただいて次作も作れるようにしなければいけません。何卒よろしくお願いいたします(笑)。

●曲作り中に特に影響を受けたアーティストやそのアルバム、曲があれば教えて下さい。

0:曲作り中に主に聴いていたのは、ムーンライダーズの『マニア・マニエラ』『青空百景』『ANIMAL INDEX』『最後の晩餐』や、平沢進さんの『時空の水』『サイエンスの幽霊』、ピチカートファイヴの『ピチカートマニア!』、そこから派生して、戸川京子さんの『涙』などです。
サウンド面でもそうですが、歌詞も印象的なアルバムだと思います。

●なるほど、特に「チャンネルNo.1」には『NOUVELLES VAGUES』(78年)から『マニア・マニエラ』(82年)の影響を強く感じました。
余談ですが、以前とあるバーで角谷君と明け方まで音楽談義した際、ライダーズの話にもなって最も好きな曲ということで、彼の趣味性から「週末の恋人」(『イスタンブール・マンボ』収録 77年)を当てたことがありましたが、ハース・マルチネス風の曲調にポルタメントが効いた退廃的な弦アレンジを施した芳醇なサウンドは時代を超越していますよね。
本作の話題に戻りますが、「お砂糖を少し」のサウンドにはやはりライダーズの「さよならは夜明けの夢に」(『イスタンブール・マンボ』収録 77年)の構築方を踏襲していて、いえもとさんのヴォーカルは大貫妙子風だし非常に感動的でした。挙げられたアルバム以外にも、坂本龍一が手掛けていた頃の大貫さんのアルバムを感じさせる瞬間がありましたが、いえもとさんのヴォーカルのカラーもあるかも知れませんね。

0:そうですね。ムーンライダーズの「さよならは夜明けの前に」や「スタジオ・ミュージシャン」(『NOUVELLES VAGUES』収録 78年)のようなバラードは作りたいなと思っていましたし、アルバムとして成立させるには必要なことだと、あくまで私感ですがそう思っています。
大貫妙子さんでいえば『cliché』(82年)をよく聴いていました。
シュガーベイブまで遡っても、大貫さん作の曲には影響を受けていると思っています。上述のウワノソラ1stの時の「マーガレット」はそのつもりで作った部分もありますし、いえもとさんの声の良さが一番伝わりやすいのはこういうバラードなのかとは思っています。そういった意味でも「お砂糖を少し」は一番安心して聴いて頂けるのではないでしょうか。

●『cliché』は名盤ですね。特に「色彩都市」は後生に残る曲だと思います。今年復活したあの小沢健二も「指さえも」(97年)でオマージュしていますよ。

0:「色彩都市」は大貫さんの作品の中でもっとも好きな曲です。
本家と並んで88年の薬師丸ひろ子さんのヴァージョンも愛聴しています。「指さえも」はオマージュだったとは知らなかったです。あらためて聴くととても新鮮な印象ですね。

●曲作りからレコーディングの期間は?またレコーディング中の苦労話や面白いエピソードはありますか?

0:だいたい2016年6月〜翌3月ぐらいです。打ち込み主体だったので作曲と同時に編曲、レコーディングも進めていました。比較的長いほうだと思うのですが、ワンマンスタイルは良くも悪くもスケジュールに左右されないので、今思うともっと長く、あるいは短くなった可能性もあります。
苦労話…になるかどうか分かりませんが、冬のとある晩、バイトから帰宅して自室に入った時、股の下を野良猫が駆け抜けていったんですよね。どうやら家の中に忍び込んでいたらしく、僕の部屋のドアだけ開けっ放しにしていたのでそこに落ち着いたようです(笑)。
家の中を逃げ回るので追い出すのに1時間以上かかり、その間自室に何度も出入りしてその度に荒らすもんですから「頼むからパソコンだけには触れてくれるな!今は制作中なんだ!」と説得しました(笑)。

●なんか都心では考えられない長閑な話ですが、今後は戸締まりをしっかりして下さい。 大事な機材も置いている訳ですから(笑)。

0:ご忠告ありがとうございます(笑)。 僕は別に猫嫌いとかそういうのではないので、あの時力ずくで追い出してしまった猫へのせめてもの気持ちを「お砂糖を少し」の歌詞の最後に記しています(笑)。
あまり歌詞について明言するのはちょっとアレですが、こればっかりはあの猫ちゃん無しでは思いつかなかったと思うので(笑)。

●なるほど「お砂糖を少し」の最終節「迷い猫おいで ミルクをあげよう」はそこからね(笑)。

0:詞を考えるのもすごく時間がかかってしまうのですが、こういったある意味貴重な体験っていうのはやはり良い刺激になるということをあらためて感じました(笑)。

●最後にこのアルバムの自己ピーアールをお願いします。

0:とりあえず、無事リリースの運びとなったことに安堵しています(笑)。生音が主だったウワノソラ1stやウワノソラ’67とはまた違う側面としてお聴き分けの上、お楽しみいただけたら幸いです。


インタビューは本題の『丁酉目録』はもとより、筆者が愛してやまないウワノソラのファースト・アルバムにも触れながら多少脱線したが、彼等のファンには楽しんでもらえたと思う。
ではインタビュー中触れていない曲も含め解説しておこう。
冒頭の「philia」は、坂本龍一が手掛けた、大貫妙子の「CARNAVAL」(『ROMANTIQUE』収録 80年)に通じるヨーロピアンなテクノAORで、複数のシーケンス音とパッドから構築されるクールなサウンドにいえもとのフラットなヴォーカルが非常にマッチしている。
続く「陸の孤島」は、トルコ民謡風変拍子のリズム・トラックとフレットレス・ベースが醸し出すサウンドと、かしぶち哲郎直系といえる懐古浪漫な歌詞の世界観が絶妙に溶け込んで完成度が極めて高い。
桶田がヴォーカルを取る「モーニング」は、80年代後期に流行ったラテン寄りのニュージャックスイング系の落ち着いたビートをバックに、一人称のネガティヴながらユーモラスな歌詞とのギャップが面白い。
余談だが筆者と交流のあるシンセサイザープログラマー、エンジニア、サウンド・プロデューサーの森達彦氏が本作中最も気に入った曲でもある。
「チャンネルNo.1」は、多くのリスナーがベスト・トラックに挙げそうだが、なにより曲構成の見事さには目を見張る。
ライダーズの「いとこ同士」(『NOUVELLES VAGUES』収録 78年)やバグルスの「Elstree」(『The Age of Plastic』収録 80年)に通じる泣きのメロディ、アクセントになっている男性コーラス(中垣和之とウラアツシ)がリフレインするパートは、「花咲く乙女よ穴を掘れ」(82年)のそれを彷彿させるし、エレメントを例えたら枚挙に暇がない程だ。

インタビューでは同じくライダーズの「さよならは夜明けの前に」(77年)のサウンドを引き合いに出した「お砂糖を少し」は、何より曲そのものが普遍的に素晴らしい。褒めすぎかも知れないが、宇野誠一郎氏を思わせる時空を超える幻想的なメロディーラインはただただ聴き惚れてしまう。
「有給九夏」からラストの「歳晩」への流れは本作のハイライトの一つでもあり、前者は小気味いいキュートなヴァースのサウンドが特徴的だが、意外な転回パートを内包していて聴き飽きないように工夫されている。
後者は以前ライブ会場限定で手売りされていたCD-R『あそび vol.1』にプロトタイプが収録されていたが、そちらのヴァージョンではいえもとがヴォーカルを取っていた。ここでのヴォーカルは桶田自身によるヴァージョンなので入手可能なら聴き比べて欲しい。間奏のシンセ・ソロが、デイブ・スチュワート&バーバラ・ガスキンの「I'm in a Different World」(84年 ドリフターズのカバー)を彷彿とさせて、多幸感に包まれながら本作を締めくくれるのだ。

以上のように極めて濃い内容ながら本作『丁酉目録』は、自主制作アルバムなので初回プレスは数に限りがあるため、インンタビューとレビューを読んで興味を持った読者は下記リンクからいち早く予約して欲しい。
ウワノソラ・オンラインストアでは5/31発売開始で、全国流通は6月14日を予定している。
ウワノソラ・オンラインストア

(設問作成、文:ウチタカヒデ)



2017年5月21日日曜日

諸星大二郎が93P 加筆した「暗黒神話」(集英社)から40年ぶりに刊行された。加筆が大半だが、書き直されたコマも多いので、旧版も必ず手放さず、よく見比べて読んで欲しい。


あさってから入院だが、病気がまた進行して足が動かなくなってしまった。これで4回目だ。厳しい状況だが、なんとか今回も進行をストップするようがんばる。先の事は考えず過ごす事が大事だ。さて本題。諸星大二郎の「暗黒神話」の単行本を初めて読んだのはジャンプコミックスが出たばかりの頃で、電車の中で読みだしたらあまりの面白さに興奮してしまい、「すげえ、本当にすげえ」とぶつぶつ呟き、数日この本の事で頭がいっぱいになってしまった。連載は1976年なので1970年代後半の事だ。これだけの興奮を与えてくれたマンガは、手塚治虫の「W3」以来。マンガ家が1000人かかっても、考え付かない、天才のみが生み出せるこの精緻なストーリーに、今もなお誰も到達できていない。日本神話、仏教、歴史、星座など全ての歴史的な伏線が、SFとして一気にパズルが組みあがってしまうのに驚愕するしかない。平凡な少年・武(たける)が封印されていた古代の神に聖痕を付けられた事でアートマンに選ばれ、本人は望んでいないのに8つの聖痕が全て付けられアートマンになる。ずっと武を見守り続ける、古代に唯一完成したコールドスリープの瓶で数百年ぶりに現れた武内宿禰、武がアートマンに選ばれたことに納得がいかず、殺人もいとわないクマソの子孫の菊池彦。その他にも数多くの登場人物が日本の多くの古墳や寺院に訪れ、スサノオ、ヤマトタケル、邪馬台国、金印、クマソ、施餓鬼寺、比叡山の阿闍梨、曼荼羅、馬頭観音、オリオンの三ツ星、馬の首暗黒星雲など数多くの伏線が、最後に一本につながっていくのだ。武はアートマンになり、全世界を支配する転輪聖王になるか、人々を救う仏陀になるかブラフマンに迫られる。本人は成りたくて成ったのではないと叫ぶが、ブラフマンはヤマトタケルだった武にもう後戻りはできない、もう宇宙の歯車のひとつだ。地球というちっぽけな星の支配者でおさまるか、地球を遠く離れて宇宙の秘密をのぞいてみるか、さらに偉大でさらに恐ろしい運命におもむくかお前の意思一つだと迫る。武は地球に帰りたい、でもそうしたら地球は?分からない…と意識を失い、目の前に赤色巨星となった太陽の下で、餓鬼しか動くもののいない地球にひとりでたたずむ。目の前には武の思うままに動かせる巨大な力を持った馬の首暗黒星雲が東の空から登ってくる。漫画の最後は「武は567千万年後の世界で弥勒になったのかもしれない」で終わる。たった一人で永遠の時間を生きなければいけない武の孤独と辛さに胸が潰れそうになった。「暗黒神話」は諸星大二郎を代表するマンガとして不動の人気を誇り、諸星のファンは手塚治虫から漫画界の名だたる一流マンガ家がみなファンと公言、あの宮崎駿も自分には絶対書けない絵と世界を持っていると大ファンであることを語っている。諸星ほどマンガ家の中で人気のあるマンガ家を他に知らない。「暗黒神話」は185Pの作品だったが、発表から39年後の2014年から2015年にかけて「画楽.mag」という雑誌に再掲され、その際に282P93P も加筆された。そして今年の3月にようやくその加筆された「暗黒神話」が集英社からA5の箱入りの約3500円という豪華本仕様で刊行された。加筆は原本では説明不足と諸星が思っていた部分、そして一番ページが多く加筆された武を追う菊池彦ら菊池一族の追跡劇があるが、重要なのはこのアートマンの出現に気付き、自分たちでできることとしてこの世に現れてしまった餓鬼を調伏する比叡山の阿闍梨の存在である。原作では阿闍梨が旅をしている間に武に偶然出会う形になっているが、改訂版ではその役は慈海という比叡山の僧が担っていて、武がアートマンかもしれないこと、餓鬼が現れしまったことを見てから、後にその阿闍梨に告げるが、阿闍梨は千日回峰行の真っ只中にもかかわらず、修行を中断(千日回峰行の中断は命と引き換えになるほど)して、餓鬼の調伏や曼荼羅を使ってアートマンとなった武をオリオンまで追っていくという原作と同じ役割を担うことになる。他は加筆だが、この部分は違う僧を登場させることから書き直しのコマが多い。そのため、昔のジャンプコミックスも手放してはならない。加筆部分は絵の違いでも分かる。(佐野邦彦)

2017年5月20日土曜日

小学館の名編集長の井川浩のマンガ週刊誌創刊、学年誌全盛の裏話などが存分に楽しめる「井川浩の壮絶編集者人生」(中島紳介著・トイズプレス刊)がおススメだ。


本書は小学館に1957年に入社、立大学時代から長嶋がプロ野球を支える選手になると確信して長嶋に新聞配達をして信頼を勝ち取り、「少年マガジン」と同日に創刊した「少年サンデー」は長嶋で、朝潮のマガジンを圧倒、そして「小学〇年生」になどの編集長として打倒講談社でライバル誌を廃刊に追い込み、「ドラえもん」を押して大成功、しかし小学館の労働組合との軋轢で異動を命じられ、小学館から角川書店へ転職して「ザ・テレビジョン」で成功、徳間書店の「アニメージュ」に対抗して「ニュータイプ」を刊行するなど、この小学館の編集者の井川浩は、私のようなマンガやアニメーションが好きな人間には、黎明期の努力と工夫に満ちた編集者の仕事ぶりは本当にワクワクして読んでしまう。そして何よりも嬉しいのは著者が中島紳介氏であること。中島氏とは80年代に私が「漫画の手帖」というミニコミを作っていた頃に何度か書いていただき、その文章の上手さと、資料性の高さに感服していた。その中島さんの著書だから文句なしの出来だと保障しよう。

まず井川の小学館入社のエピソードが凄い。その頃、講談社との競争で危機感を持っていた小学館は数千人の応募者から内定候補の30人ぐらいの学生を集め、「わが社は今、ネコの手も借りたい状況です。1月から学校の許可をもらって来られる人は手を上げてください」との総務部役員の問いかけにおずおずと手を上げた6人が採用されたという。その中に東京教育大出身の井川もいた。最初に配属されたのは「中学生の友」で副編集長に鍛えられたそうだが、その時に「自分ではこれはというものを見つけて、この事柄や人物に関しては誰にも負けない、俺が日本一だという専門の対象を3つ作れ」と言われ、そこで井川が住んでいた家の近くが立教大学のグラウンドで、まだ学生だった長嶋茂雄に目を付け、巨人に入団して10年後にはきっと立派なプロ野球選手になるだろうと思い、上北沢の下宿に住んでいた長嶋の自宅に取材に行くことになった。まだ入社2年目の新人にも関わらず、偶然一緒にいた川上哲治が長嶋に「この人は小学館で子供の為の雑誌を作っている偉い人だ。子供を大事にすれば、親御さんも君の事を応援してくれる。だからこの人と仲良くしなさい」と、そんな有り難い事を言ってくれた。ただまだ新人の自分の顔を覚えてもらわないといけないと、その上北沢の長嶋の下宿が広い下宿で長嶋の部屋から新聞受けまで遠いので、出社前に自主的に上北沢に降りて、新聞を長嶋の部屋まで届けて、それから出勤するという事を、長嶋が自宅を建てるまでの2年間、日曜日も休まず毎日続けたというから驚きだ。そういう努力もあって、昭和34年の同じ日に創刊された「少年マガジン」の表紙は朝潮だったが、「少年サンデー」の表紙は長嶋で、どちらにインパクトがあったかは歴然だろう。その後、長嶋は小学館の誌面に多く登場してくれてたが、長嶋は一緒に出演してくれる子供達を待たせる時に夏は家の中の涼しい場所、冬はこたつに入れて、分け隔てなく相手をしてくれたそうで、撮影はスムーズで、長嶋は気配りの人だったという。そして長嶋は井川の撮影や取材の依頼を断ったことは一度もなかったとのこと、律儀な人だ。ただ長嶋らしいエピソードもあり、小学館での作文コンクールの来賓は長嶋と王の交代で挨拶してもらっていたが、長嶋は井川に「井川さんは書くのが得意なんだから僕のスピーチも書いてよ」頼むのでいつも原稿を書いて渡していたのだが、自分で書いてきた王の方が井川のより上手なのには参ったの事()「少年サンデー」時代の思い出は、赤塚不二夫が凄くまじめな勉強家で、アシスタントの人達の会話を自分は2階で寝たふりをしながらテープレコーダーに録音しておいて後で聞き直して今の若者たちが何に興味があるのか研究していたそう。井川も最初は「おそ松くん」を変な漫画だなと思ったそうだが、そういう努力を見てああいうぶっ飛んだ漫画が描けたのだと理解したそうだ。ちなみに私はずっと「おそ松くん」が大好きで、子供が小学生の時は昔買った曙書房の全集で、1962年~1969年の連載なので子供達が読んだときは38年くらい前の漫画だった。おそ松達は10円の小遣いで大喜び、イヤミ達が100円で色々頼むと目を輝かせてバイトをするのに、そんな貨幣価値の違いなど一度も言わなかった。つまりそんなものはどうでもいいパワーがあるのだ。「おそ松くん」に夢中になっている子供達を見て、自分は心の中で密かにガッツポーズをしていた。劇画は当時読んだ人のノスタルジアの世界にしかいないが、赤塚は「天才バカボン」の前半まで(自分は「ウナギイヌ」や「レッツラゴン」がネタ切れとしか思えずダメ)は絶対、時代で錆びつかないと確信していたからだ。

さて話がそれたので藤子不二雄の「オバケのQ太郎」のエピソードも面白い。昔の学年誌や幼年誌、月間誌は付録が重要な「売り」であり、各社で競って子供の心を掴むよう考えていた。その頃「小学一年生」にいた井川は、学力テストの商品にQちゃんの特製消しゴムを作るようにしたが、その頃のQちゃんはまだ髪の毛がもじゃもじゃ頭で立体物として収まりが良くないので、自分が大学で習ったフロイトの「奇数は男性、偶数は女性を表す」の学説を思い出して、「毛は3本でどうでしょう?」と提案、それ以来Qちゃんの髪の毛は3本で決まったという。それ以降しばらく井川と藤子不二雄の仕事はなかったが、1970年頃「小学二年生」の編集長をやっていた頃、藤本、安孫子、マネージャーだった安孫子の姉がやってきて、「小学館の原稿料は世界一安いと思います。これではアシスタントの若手も育てられないし事務所も維持できない」と訴えられ、確かに少年誌のベテランと学年誌の子供向けマンガ家は銀座の高級バーとガード下の居酒屋で飲むくらいの差があったそうで、その訴えは十分理解できたものの会社の基準を勝手に変える訳にはいかないし…ということで、「小学館のサザエさんを作りましょう」と提案する。設定やキャラクターが変わらなければアイデア次第でいくらでも長く続けられるという考えだ。そこで藤子不二雄が描いてきたのが「ドラえもん」だった。井川は何度も「ドザエモン?」と聞き返したそうで、藤子は「これだけ漫画が溢れている時代に、一度聞いたら忘れられないタイトルにしたかった。井川さんが何度も聞き返してくれたんでこのタイトルで良かった」と見事な洞察力を見せる。単行本化の話の際に、少年サンデーの編集部は「21エモン」の方が上とプッシュ、社長は「ドラえもん」の単行本化に消極的だったので、「少年マガジンが「巨人の星」や「あしたのジョー」というストーリーマンガをヒットさせているので小学館の編集はギャグマンガを読まずそのままでは小学館の特性が失われてしまう」と訴え、今までの作品の中でのベスト作品集ということで社長は6巻だけ、単行本を許可してくれる。結果はみなさんもご存知のとおり、「ドラえもん」は超ベストセラーで45巻出たが、その内6巻までは最初の井川の編集のままだという。これ以上書くとキリがないので、是非購入してお読みいただきたいが、あのウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」が永久欠番になってしまったのは、1970年の「小学二年生」の中の怪獣カードが、出版された時でなく後に反核団体、被爆者団体から問題視され抗議を受け、小学館にとどまらず円谷プロが作品自体を封印してしまう事態になってしまった。確か自分の記憶では人間を血を必要とするスペル星人に「被爆星人」と小さく副題が付いていたのが問題視されたのだと思う。井川らは円谷プロの資料に基づいて作ったこと、小学館では原爆の悲惨さを描いた作品を掲載していたこと、他出版社でも数多く載っていることなどを訴えても、一切これらの団体は耳を貸してくれずにこういう残念な結果になってしまったのそうだ。この時代はこういう問題以外でも反安保など組合がともかく強く、従業員の待遇改善に土曜休業を認めてもらうなど尽力してきた。しかし組合の力にものをいわせた団体交渉が嫌いで、新入社員に組合に入らないよう話したことが組合の耳に入って社長より編集部から離れて別の部署に移って欲しいと言われ、小学館プロダクションに異動、そして2年後には小学館を辞めて角川書店へ転職するのだが、紹介はここまで。ちなみに自分も労働組合に入っていたが、自身の職場の待遇改善だけでなく、まったく関係ない組合の「動員」が数多くあり、自分は思想信条が合わない部分があるので一切参加しなかった。組合は政党の下部組織になっていて、それが嫌なのは井川氏も自分も同じだなあと思った次第。(佐野邦彦)

2017年5月19日金曜日

☆八重山126万、宮古70万と10数年で倍、680万の人でごった返す沖縄本島にならないかと危惧している。鹿児島県のため冷遇されている奄美群島と、宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島が残された聖域。観光客がほとんど来ない多良間島を90分特集した「島の恋文-沖縄県多良間島」がNHKで放送。出生率日本一はなんと多良間島だった。


八重山(石垣島を中心とした10の島々)の入域観光客数と宮古入域観光客数(伊良部島も含め橋で結ばれた5つの島々)の平成28年度の最終結果がやっと公表された。八重山1267千人、宮古703千人と、 自分が初めて八重山へ行った1999年の2.08倍、初めて宮古へ行った2002年の2.19倍も観光客が増えていて、昔の知る人ぞ知る人だけが集まる、日本で一番美しい静かな海が損なわれていくようで、心配だ。まあ沖縄本島も増えていて680万人、こんな人でごった返す島ではないのでまだ救われているが…。こうなると不便な島が隠れ家的存在になるので、宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島と、どの対岸に見える人口3人の島、(宮古)水納島には極上のビーチがあり残された聖域だ。また本土資本が投資し、国が補助金をつぎ込む沖縄県に比べ、その南端の与論島は22㎞しか離れてなく、同じ琉球弧ながら鹿児島県であることで可哀そうなほど観光客が少ない奄美群島も狙い目だろう。特に与論島は百合が浜を含め奇跡のビーチに囲まれた島なのでここは八重山・宮古を凌ぐかもしれないのに惜しい。

自分が最初に八重山に行ったのが1999年、宮古は2002年、家族4人で長男が小5の時から(2歳差)長男が大4で就職するまで年1回ずつ八重山6回、宮古6回の12回行った。ビルが立ち並びビーチも人が多い沖縄本島は魅力が無くゼロ。本島から250㎞南の宮古、450㎞南の八重山は、海の美しさが比較にならないほど綺麗でそして人が少ない。誰もいないビーチなんてザラだし、人気がある場所もmax50人くらい。どちらも琉球王国に占領された別々の国々なんで言葉も文化も違う。美しいビーチだけでなく安全なリーフ内に信じられないほどの熱帯魚に溢れたビーチがあって全て車で回れてしまう宮古、ビーチのレベルでは宮古に劣るが、日本一美しいビーチのニシハマがある波照間、ジャングルをカヌーとトレッキングで幻の滝まで走破する西表、海底遺跡と今も完璧な形で保存されているDr.コトー診療所が見られる与那国など10の島が全て日帰りできる八重山はまったく別の魅力に溢れているので、片方行っただけではお話にならない。家族4人で八重山・宮古の全有人島19に全部行くのが個人的目標で、最後の年にようやく達成し、心から満足したが、しかしその後も妻と2人で八重山2回、宮古に1回、後半は車椅子で行って、子供達とは行けなかった八重山の秘祭、西表島のジャングルに朽ちた炭鉱跡、日本最長の無料橋の伊良部大橋へ行けたので、行き残した場所がなく、今は思い出だけで十分。これ以上は贅沢。島別の魅力を語るのはキリがないので、興味のある方はWeb VANDAの簡易にまとめた抜粋版があるのでご覧いただきたい。(文末に掲載)本屋に売っている数多くの「石垣・宮古…」というガイド本は通り一遍で肝心な場所が載っていないがこちらは実踏済なので自信あり(笑)それとは別に各回ごとの旅行記も個別にアップしたので、南大東島や与論島など含め25回分ある。有給休暇は20日、夏休み5日は、毎年、旅行とVANDA制作・営業、Radio VANDA収録で完全消化していたので、最近よくアンケートになる「給料か休日か」の選択肢はもちろん自分は休日だが、休みの8割はVANDA関連なんで逆に仕事より忙しかったのだが…。下記は八重山・宮古の入域観光客数の推移。どちらもここ15年で倍以上と急増している。その原因ははっきりしていて八重山は2013年に新石垣空港ができ、その前は滑走路が1500mで東京からの直行便はJAL傘下のJTAの中型機のみだったが、今は2000mと並みの大きさになり通常の旅客機が就航できるようになりANAも直行便を就航、この年から年々急増している。またここ2年ほど主に台湾などからクルーズ船が就航し、2016年は193727人が外国人であり、なんと6人に1人と知って驚愕。宮古はこれも2015年の無料では日本最長(3540m)の伊良部大橋の開通で、一気に人気となり、驚くべき急増を遂げた。宮古島市のホームページでは外国人の数が分からないが、やはりクルーズ船が100回来ているという記事もあるので、相当数の外国人が来ていると思われる。

☆八重山入域観光客数              ☆宮古入域観光客数

H11年度(1999)   609,222      -

H12年度(2000)   584,677      -

H13年度(2001)   604,656     320,807

H14年度(2002)   626,442     340,992

H15年度(2003)   711,966     368,982

H16年度(2004)   718,737     383,363

H17年度(2005)   763,858     412,447

H18年度(2006)   780,091     389,358

H19年度(2007)   764,514     372,690

H20年度(2008)   773,546     373,440

H21年度(2009)   722,536     337,356

H22年度(2010)   707,811     404,144

H23年度(2011)   672,933     332,473

H24年度(2012)   742,098     413,654

H25年度(2013)   984,1861   400,391

H26年度(2014)   1,130,537     430,528

H27年度(2015)  1,180,192     513,601 ※2

H28年度(2016)   1,266,788     703,054

注;H23年度は東日本大震災のため少ない。

※1…2013/3/7 新石垣空港開港。

※2…2015/1/31 伊良部大橋開通。

(宮古の公表が歴代「年度」なので、「八重山」も「年度」に計算しなおし直して合わせてある。)

こうしてみると冒頭に書いたとおり自分が初めて八重山・宮古へ行った時の倍以上観光客が増えていて、昔を知っている私や友人達の間では残念な思いが強い。八重山のベスト1ビーチの波照間島のニシハマは多くても40人ぐらい、宮古のベスト1ビーチの吉野海岸も同程度、これはmaxの人数で、日本最高のビーチがほぼプライベートビーチなのが、人が溢れる沖縄本島にはない最高の魅力だった。今は倍だからな…。ただ最近行った人の話では、便数が少なく、外洋に出るので欠航もしばしばある波照間は運べる人数が決まっているので大きな変化がないというのが安心なところ。しかしみなみに「日本の美しいビーチ」は1位から3位が波照間島ニシハマ、宮古島・与那覇前浜、竹富島コンドイビーチで、他に3か所入ってベスト10の内6を八重山・宮古で3つずつ分け合い、順当な結果になったが、個人的には「他の3つ」は同意できず、もっといいビーチがある。観光客の数では昨年を除き八重山の半分しかない宮古だが、ビーチの美しさ・楽しさという一点で見たら、5つの島を3つの大橋で渡れる宮古の方が圧倒している。ただし八重山は石垣島の離島桟橋から驚くほど頻繁に出発する高速船で、一番近い竹富島で10分、一番遠い波照間島が60分で、毎日好きな島に渡って遊べる特別な楽しみがある。(通常、飛行機で30分の与那国島は船だと4時間もかかるので別にした。ただし日帰りは十分可能)竹富島を入れれば12島も可能だ。石垣島自体は栄えているが宮古島のような見どころはないので、石垣島は宿泊地で、毎日、さらなる離島へ行くのが定番だ。その中には、島の9割がジャングルで、カヌーとトレッキングでビーチにまったく頼らないで楽しめる西表島の存在は貴重で、宮古にはこういう場所はない。雨天でも楽しめる貴重な島だ。さてその八重山の平成28年(年度ではない)の島別の来島数は下記のとおり。石垣島はここへ来ないと他へいけないので群を抜いて多い。

H28年八重山島別入域観光客数

石垣島   1239244

竹富島    481832

西表島    329917

小浜島    190269

与那国島   39276

波照間島   35921

黒島     23770

鳩間島     4363

新城島     2924

嘉弥真島    2679

この中でおススメは波照間島、西表島、与那国島、黒島、竹富島の5つ。下位3つの鳩間島、嘉弥真島は小さすぎるし(ただし嘉弥真島は野生のウサギ天国)、新城島はの上地島は立入禁止の聖地だらけ、下地島は個人所有の牧場がほとんどでビーチのみ滞在可と制限が多い。大型リゾートがのさばる小浜島は文句なしで選外となった。

ちなみに沖縄本島の入域観光客数は、沖縄全体で発表されていたので八重山・宮古分を単純に引いただけでも680万人と圧倒的な数字だ。どおりであんなに人だらけな訳で、個人的では1日見ただけだがもう行きたいとは思わなかった。ちなみにその中の外国人観光客数は宮古分が公表されていないので推定だが最低でも183万と急増していて、台湾、韓国、中国、香港などが主流。九州も2010年から4回行ったが、主要観光地には中国語、韓国語が常に飛び交っていた。しかし自分が行った20142015年の八重山・宮古では、外国語は聞こえなかったが、今年行った人の話では、石垣島と宮古島で中国語がよく聞こえていたとか。勝手な思いだが、日本人も増えて欲しくないのにプラス外国人は辛い。八重山・宮古のビーチでは波の音だけがBGM、音楽は一切不要でビーチ・ボーイズも山下達郎も大滝詠一も聴いたことがない。音楽を聴くのは本土の海に遊びに行く時だ。人間の声は子供の声が聞こえるぐらいがベストで、人が増えるのは静けさを求めて来ているのにマイナス要因にしかならない。今、急増しているのは主にクルーズ船やLCCの団体客なので、案内はベタな場所と決まっているので避けることと、当たってもバスでの短時間の滞在なので去るのを待てばいい。

ちなみに八重山と宮古には米軍基地はない。最西端の与那国島に自衛隊基地が完成、石垣島と宮古島も自衛隊基地誘致が具体化していて、ここ12年の間に実現するだろう。台風でとんでもない災害が起きるこれらの先島には自衛隊の存在は災害復旧にも貢献するからメリットが大きい。ちなみに奄美群島にも米軍基地はなく、鳩山は一時、普天間の移転先は県外と言ってすぐ撤回したが、それは徳之島への移転で根回しもしなかったためにすぐに地元に拒否され頓挫した。地元への説得前に言ってしまったのだからアホとしかいいようがなく、だいたい県外といっても奄美群島は薩摩に散々搾取された過去があるので、はい、じゃあお受けしますなど言う訳がないのに歴史を知らないのは困ったものだった。一方安倍政権は辺野古のバーターにディズニーランド、UFJ誘致を持ちかけるが、企業側から採算が取れないと袖にされ、カジノという沖縄に不要なものも知事に拒否された。あまりに幼稚なアメだったが、そのアメに飛びつき、万博+カジノという自治体が出てきた。こちらは政権と結託しているから困ったものだ。

沖縄は米軍基地負担のバーター扱いで国の補助金も多く、観光県として伸びる一方だが、かわいそうなのが奄美群島である。奄美群島は鹿児島県であることから奄美群島の振興法は定められているものの年々減らされている。言語的には琉球言語圏だが、琉球王国の奄美支配には常に反抗していて、薩摩の1609年からの琉球支配の時に、琉球王国は奄美群島をすぐに薩摩に割譲した。奄美大島は鹿児島から387㎞と遠く離れていて、南東の喜界島は並びから少し離れているが、順に西に徳之島、沖永良部島、与論島と並んで沖縄本島への「琉球弧」の一部になっている。与論島と沖縄本島とは22㎞しか離れてなく、与論島のビーチの美しさは八重山を凌ぎ、宮古に匹敵、もしかするとそれ以上の美しさで最高の島なのだが、訪れる観光客は少ない。平成28年は過去最高の入域観光客数だったそうだが、沖縄と違って国の補助も僅かで、沖縄本島の680万、石垣島の126万、宮古島の70万に比べて可哀そうな数字だ。

H28年奄美群島入域観光客数

奄美大島   353315

喜界島     25833

徳之島     86418

沖永良部島   58312

与論島     54636

与論島へ2015年、奄美大島へは2009年の皆既日食騒動の時に行ったが、奄美大島では阪急交通社の激高価格ツアーなのに用意されたのは小学校の校庭のみで自分でテントを持っうのてきてそこで宿泊、食事はかなり歩いてコンビニのような店へ行っての自主調達というトンデモないプランだったのでよく覚えているが、自販機に並んでいたのが沖縄はさんぴん茶のみだが、奄美は緑茶の方が多く、明らかな違いを感じた。よりヤマト文化圏に近く、名物の鶏飯はとても洗練された逸品だが、その店で購入した弁当は安くかつ巨大で、これは沖縄並みだった(笑)

さて、最後に紹介する、冒頭に書いた宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島は、25分で到着する飛行機は39人乗りのプロペラ機が宮古島出発のみ12便、2時間かかるフェリーも宮古島から11便でなんと日曜運休。そのため観光客はほとんどいない。

☆多良間島入域観光客数(年度失念。多良間村として行政が別なので公表なし)

9900

この数字は、多良間で唯一取材される国の重要無名文化財の8月踊りと、多良間島マラソンに来る人が大半で、自分が八重山・宮古のビーチでもベスト5に入れるウカバには3回行って3時間遊んで計9時間いたが、観光客を見たのは1人だけだった。もうひとつのシャワーがあるふるさと海浜公園のビーチも、シャワーを使ってしばらくのんびりする間、他の観光客に出会うのはここも3年で11組ペース。これだけのプライベートビーチはちょっとない。そしてそのふるさと海浜公園の目の前に見えるのが(宮古)水納島だ。宮国さん一家が島全体を牧場にしているが、電話でお願いすると自分の船で往復してくれ、非常に設備の整って快適な空き家を貸してくれる。ただし食べ物、飲み物は多良間島の生協で買い込んでの自炊となる。貸家は1軒のみなので、島を半周する広大な白浜のビーチと美しい海は完璧なプライベートビーチとなる。本当の贅沢はこの両島にある。ただし(宮古)水納島へ行くのは、多良間と水納島の間の海流が速いので荒れやすく、少し熱帯低気圧が近づいただけで欠航と言われてしまい、自分も3回多良間へ渡ったのに2回は海が荒れているからと断られ、3回目にやっと渡れたという高いハードルがあるので留意する必要があるが、苦労した甲斐がある素晴らしい島だ。このようにまだまだ人が訪れないビーチがあるので、きちんとチョイスすると、特別な思いを味わえる。

この文を書いたばかりのタイミングでNHKBSプレミアムで「島の恋文-沖縄県多良間島」が放送された。島の半年の暮らしを追いかけた素晴らしい番組だ。冬中心なので天気が良くないのがちょっと残念だが、多良間島単独で90分の放送は今まで無かった。この島がTVで特集されたのは国の重要無形文化財の「八月踊り」だけで、「まっぷる」「るるぶ」で申し訳程度に多良間を1P取り上げるが、その写真は「八月踊り」、ビーチが写っても極小サイズ。しかしこの島の子供の出生率は3.14で日本一だ。島民の収入は低い。地方に行けば行くほど公務員の給料は高給とされるのだが、多良間村は日本の自治体最下位の1722位で366万円。1位の目黒区の半分以下だ。普通の村民の多くはサトウキビと漁業だけで子供を育てる。島には高校がないので、中学1年の娘に来客はあと3年だなと親に言う。親は微笑むだけだが、悲壮感はない。みな同じだからだ。親たちは「高校に出して、大学へとか幾らかかるかなんて考えていたら育てられないよ。」島では島民みんなで子供を見守り、協力して育てている。一方出生率最下位は渋谷区だそうだ。日本で最も高級な住宅街「松濤」を抱え、多良間とは比較にならない富裕層が住んでいるのに、子供は生まない。極端な言い方だが、渋谷は日本で一番子育てしづらい場所なのだ。よくTVや雑誌で「子供1人を大学まで卒業させるのは〇千万必要です」「老後資金は年金以外に〇千万必要」などとファイナンシャルプランナーかなんだか知らないが、最も金のかかるパターンを選択して、不安を煽っているあいつらはクズだ。信用してはならない。多良間島を見れば、「子供?今、アリゾナにいるよ」など、みんな島外に出していて、「この深夜の漁で4人育てたよ」というお父さんは、本土の船のような漁船はひとつもなくボートに網やモリで釣った魚で育てたのだ。そのやっと釣った中で最も大きなタコを、浜辺で何かの神事で飲んでいる友達(島民はみな友達)に、「これ持ってって」とポンと上げてしまう。飲んでいる人たちは「宝がきた」と喜ぶ。そして「みんなで何かやっていればあげたりもらったり。多良間の常識です。」とニッコリ笑う。島の言葉は難解な沖縄の言葉でも格別に難しい多良間語で、独特の鼻に抜ける音を使うので日本語では表示が出来ず、「リ」「イ」「ム」「ギィ」「ピィ」「ビィ」に「パ」のような〇が右上に付き、島の地名もそう表示されていて驚くはず。だからこの番組の90分、島の人同士の話には全て字幕が付く。字幕なしではカケラも分からない。実は宮古も八重山も同じだが、地元の人同士の話は外国語としか思えず、こっちを見てパッと日本語で話すのを見て、いつもみんなバイリンガルだなあと感心してしまうほど。島には毎月、旧暦による神事があって、冒頭では火の神様への祈願だった。たくさんの食べ物と泡盛を備え、いつもどうぞ召し上がってくださいと言ってから祈る。NHKのスタッフが「火の神様っているんですか?」と尋ねるとおばあは「いるよ。ヤマトにはいないのかい?」と笑う。沖縄全土に見られる大きな亀甲墓は、家族みんなで集まってお供えとお祈りとあとに一緒に飲食をする広いスペースがあるのが特徴だが、そこで天国で使うお金として、お金の形にへこんだ紙を燃やして祈っていたが、これは中華圏でよく見られる習慣だ。でも純日本の部分もある。これは素晴らしい習慣だと思ったのは旧暦正月に、その年の年男・年女がみな集まって食事会をしてみんなで公民館で盛大に祝う「トゥイ会」だ。赤ちゃんから80代を過ぎた老人まで一堂に介して交流を深めるのは素晴らしい事で、島を出て行った人も帰ってくる。これは他の自治体でも導入したらどうだろうか。八重山・宮古では他に実施しているところがあるらしい。ここに集まる時は女性は着物、男性はスーツか羽織袴で、これはヤマトだ。琉球風の服を着ている人はなく、あの服は本島観光用なのだろう。床屋さんは子供達に凧揚げを教えるためしばしば不在にしていて島民に「3回来たのに2回いなくて。今日も帰ろうと思ったらおーいと声をかけられた。凧揚げばかりでなくていてよ」と苦笑い。でも終わるとすぐに凧揚げに行き、自分よりかなり年上の足が不自由な老人に「〇兄。凧揚げ見に行こう」と声をかけ、その〇兄は子供達の後ろで嬉しそうに見ている。その他、サトウキビを植えた後は、雨が降るようにとみんなで集まって泡盛を飲んで祝い、島最大の製糖工場はなんと100日間24時間操業をするが、みんなの生活を守る金庫を前に祈る。一番、素敵だなと思ったのは害虫を袋に入れて集め、木の船を作ってからそこに害虫をつぶして大きな葉に包み、木の船に乗せて海に離して「島に害虫が来ない」ように祈る。色々な思いがこもった祈りがいい。それは島の人がみな集まって行うので、孤立する人などはありえず、みな友人、先輩、後輩で深くつながる。島唯一の有償運送の運転手(知っているオヤジだった)は、「多良間島が一番。島から出ようなど思わない」ときっぱり。しかし本土から来た若い嫁に多良間はどう?と聞くと「退屈!だって何にもない!」とはっきり言うのもおかしい。都会から来たら、このゆったりしたした暮らしはそう思えるだろう。100歳近いおばあは、道路を行き交う人に声をかけなから日がな宮古上布の原料になる植物の繊維を毎日、毎日ほぐしていて、本当に時間はそれぞれの人の中にある。(佐野邦彦)

Web VANDAの八重山・宮古ガイド


2017年4月29日土曜日

☆Ray Davies:『Americana』(Sony/31058)


退院したら待望のレイ・デーヴィスの新作『Americana』が届いていた。amazonで日本盤の方が早く届くとあったので日本盤にしたのだが、帯に10年ぶりのオリジナル・スタジオ・アルバムとあり、おや、その間に何枚も買ったがと思ったが、アルバム2枚は企画もの、あとはライブ盤ゲスト参加の2枚で、2007年の『Working Man’s Cafe』から確かに10年も経っていた。このアルバムは201310月に出版された同名のレイ・デーヴィス著の本を、レイ自身で音楽としてビジュアル化したくなったものだという。私はこの本を知らなかった。5か月以上入院していた頃で、余裕もなく、お恥ずかしいことに存在も知らないまま。ただ通して聴いてレイの思いが十分に通じる傑作で、このCD単体で楽しめば十分だ。本から3年半、レイの憧れのアメリカはさらに変容していて、新しい思いも加味されている気がする。冒頭でレイは『本作「アメリカーナ」はアメリカという国をテーマにしたアルバムというわけではないし、「アメリカーナ」と呼ばれる類の音楽に焦点を当てた作品というわけでもない。僕がアメリカを通じて表現しているのはより良い未来-あの素晴らしいハイウェイに沿って動いていく夢のような明るい未来である』の文で締めているが、果たしてそうだろうか。確かに最もイギリス人らしいイギリス人、つい最近、ナイトの称号をもらって「サー・レイ・デーヴィス」になった男が、それほど強い思いがアメリカにあるのかと思うが、アルバムを聴けばいかにレイがアメリカに憧れ、愛し、その問題点を見抜き、異質な人間を締め出そうとしている現状も見つめながら、最後はまだ希望は捨てない…という内容がいかにも彼らしく、このアルバムは、明らかにアメリカをテーマにしたアルバムで、アメリカへの強い思いが溢れている。「ではない」と言っているのは、現実のアメリカをシニカルに批判する類のアルバムではないという事だろう。自分もレイよりは若いが、TVに映る、勇敢なカウボーイや勇壮な騎兵隊の活躍を胸躍らせて見ていて、そして小学生の時は「コンバット」「爆撃命令」「特攻ギャリソンゴリラ」などのアメリカ軍の戦争TVドラマに夢中になり、「ウルトラゾーン(=アウターリミッツ)」「ミステリーゾーン(=トワイライトゾーン)」という日本のドラマにはないSFのタッチに震えながらハマり、そして分かりやすい「タイムトンネル」に胸躍らせた。TVの「ディズニーランド」もしかり、アメリカは日本より先に進んだ国で、正しく勇敢な国だと思ってみていた。そしてみな年を取るたびに色々な面が見えてきて、決してそうではないと思うのだけど、自分が好きになったロックを生み出したアメリカは特別な存在であり、アメリカの正義は正義ではなかったと自ら暴いていくアメリカの民主主義にも憧れを持ち続けた。レイは物質文明にアンチを覚えながらも、音楽ビジネスの中で逃れることなど到底できず、自分自身に矛盾を常に感じていたからこそ、進歩こそ正義と言う時代に昔からのコミュニティを大切にという曲を書き、時代と戦うことができず落ちていってしまう市井の弱い人を描いた。そして曲に政治や国に対する鋭いメッセージも入れ込んでいた。キンクスはイギリスで1960年代はシングル部門で成功を続けたが、アメリカではミュージシャンユニオンから締め出しを食ったあおりで、チャートに入った曲は少ない。しかし70年代の中盤までのRCA時代を抜けた後、ロックンロールバンドとして再生したアリスタでの大成功はアメリカだった。アメリカのファンが最もキンクスを受け入れ、スタジアムでコンサートが出来る偉大なバンドにキンクスを押し上げたのだ。よくアリスタ時代のキンクスを軽視するようなキンクスファンがいるが、アリスタ時代の溌溂としたキンクスの活躍がなければ、キンクスは今、ビートルズ、ローリングストーンズ、フー、キンクスと並び称される存在になってはいなかった。RCA時代も一定のファンはアメリカでもついており、その後のアリスタの大ブレイクを支えたアメリカに対してレイは並々ならぬ愛情を持っていることがわかる。まず冒頭の穏やかなカントリータッチの「Americana」で、実はアルバムの全てが含まれている。そしてアメリカ的なチープな文化は既に1966年の「Holiday In Waikiki」などで指摘していたが、このアルバムでもレイらしい曲想、キャッチーなフック、そこに「Tired Of Waiting For You」のリフを密かに織り込んだ傑作「The Deal」や、歯切れよく軽快な「Poetry」で、アメリカ文化のマイナス面を描いている。ただそこには攻撃性はなく、今のレイの立場を無視した書き方をしていない所がいい。何百億も稼いできたミュージシャンが、自らを一介の労働者のような視点で詞を書かれると誰でも嘘っぽく感じてしまう。自分が主人公の時は自嘲し、そうでない時は第三者の視点で描く。曲想はみな穏やかだ。そのあとはアコースティックギターで静かに始まるが、夢に生きるのかい?現実に生きるのかい?と歌う「Rock’n’ Roll Cowboys」、傍観者でいないで現状を変え、未来の世界(環境)を守ろうと訴えるドライなR&Bタッチの「Change For Change」で、レイは我々にアメリカにとどまらない問題点を突き付けてくる。そして自由社会を守ろうという「Change For Change」の締めに、全てにおいて一番大事なものは何かというレイの意思も強く感じた。レイは実際にニューヨークやニューオリンズに住んでアメリカ文化を十分に体験してきた。広大な大地に地平まで続くハイウェイ、その先にある虚飾と退廃に満ちた大都会、そういうアメリカがレイは好きだった。美しいバラードの「A Long Drive Home to Tarzana」、そしてキンクス風のエレキギターが入った「The Great Highway」という曲でレイの中の夢のアメリカ、でも到達できないアメリカが綴られる。この穏やかな2曲の後のさらに軽快なタッチの「The Invaders」で、一気に今のアメリカの現状に我々は叩き込まれる。入国管理官に「侵略者」と罵られる異文化の異国人。敵意を持った野蛮人、危険、アメリカの敵だ。僕たちの世界はすっかり変わり、二度と元には戻らない…現状のアメリカをとらえているが歌詞の内容と裏腹に曲想はカントリータッチで爽やか、怒りを吐き捨てるような曲にまったくしていないのがいかにもレイ。最後は「Wings Of Fantasy」で、現実を忘れて夢の中へ幻想の翼を広げ夢に生きる…と希望を捨てていないと添えながらヘナヘナ飛んでいくのもいかにもレイ・デーヴィスだった。(佐野邦彦)

 

2017年4月27日木曜日

佐野は4月24日に還暦となりました。闘病中の身ですが、今度ともよろしくお願いいたします。


424日で還暦の還暦の誕生日を迎えました。50回目の抗がん剤入院で退院前のベッドから書いています。今の写真は載せたくないので若い頃の写真でごまかさせてください(笑)5年前の8月に病気が分かった時には、還暦は難しいと思っていました、車椅子でお墓参りに行くと、父、祖父母みな80歳を超えているので、50代で彫られるのは嫌だなと(笑)でもお陰様でここまで来れました。これも1日ベッドにいる生活の中、Web VANDAFacebookで色々好きに書かせていただいた事が大きいと思います。日々バラエティと好きなドキュメンタリーを見て、毎日を笑って過ごし、明日のことは考えないというのが良かったのだと思います。CDやレコードが届けばそれを聴いてレビューし、本が届けばそれもレビューして、自分の納得いかない部分はダメと書くのが精神衛生上いいようです。最近は音楽以外も多く書かせていただいています。多趣味なもので毎回テーマが変わります。いつまで続けられるか分かりませんが、体調のいい時に精いっぱい書かせていただきますので、ご不満な点もあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。(佐野邦彦)


☆「ハイン地の果ての祭典」(新評論)を読んで、白人に滅ぼされた異文化の先進的デザインを知ろう。


寺田正典さんの紹介を見て、私が昔から大好きで追っていた南米最南端(パタゴニア。南極に近いので寒冷地)に住む奇怪なペイントと仮面に身を包んだヤーガン族についてまとめたおそらく日本で初めての書籍「ハイン地の果ての祭典」(新評論)を購入し、現在の入院中に読んだ。すると今まで色々なまとめサイトみたいなところの記事は違っていて、この奇怪は姿は「ハイン」という神聖な儀式の時のハレの姿であり、それぞれ役割があって名前もあった。そして「ヤーガン族」というのは大きなフエゴ島の最南端の海の近くに住む「ヤマナ族」のことでカヌーを使う海の民(もう一つ海の民には「アラカイフ族」もいた)だった。しかし今までその「ヤーガン族」として紹介されてきたこれらの多数の写真は島の北に住む陸の民「セルクナム族」の1923年の「ハイン」で撮影された写真であり、島には隣に他に山の民の「セルシュ族」も住んでいた。彼らは約12000年前にユーラシアからアメリカ大陸を縦断し、南の突端まで旅した民族だった。1980年頃にセルクナム、ハウシュでおおよそ3500人から4000人いて、もっと少数のヤマナ族もいたが、アルゼンチンとチリに分割され、アルゼンチン政府の許可で金鉱探索者や羊用の広大な牧草地を手に入れるためヨーロッパ人達は彼らを虐殺し始めた。殺された者、強制移住させられた者、そして最も多く死んだと思われたのはヨーロッパ人達が持ち込んだはしかなどの疫病で免疫のない彼らはバタバタと死に、1923年には500人程度に激減してしまった。勝手に食人種扱いされ、フランスに見世物として売られて行ったものもいた。夏に平均10度、冬は1.5度でマイナス20度の日もありさらに常にパタゴニア独特の強風が吹きつける厳しい環境で、裸にグアナコという草食獣の毛皮を巻いただけの彼らに対し(彼らは家では薪が必需品で素早く裸になって暖を取れる利点があった。ただし尋常ならざる新陳代謝を獲得していた)、ダーウィンは「ビーグル号探検記」で彼らの事を「彼らが自分の同類、仲間とは信じられない。下等動物が味わう楽しみとはどんなものか」と書き、キャプテン・クックも「世界で一番悲惨な人間」と蔑んだ。そうしてヨーロッパ人達は土地を収奪し、男たちは牧童として働かされ、わずかに生き残った500人でこの「ヤマナ」が行われた。全世界を我が物にしようとした白人達は南米ではスペイン人を筆頭にポルトガル人、ドイツ人、アフリカや中近東、インド、アジアではイギリス人、フランス人を中心にオランダ人、イタリア人、ポルトガル人、ドイツ人など、白人どもは暴虐の限りを尽くし、土地を収奪し、先住民を奴隷にし、逆らう者は野蛮人として、サファリのように動物として平気で殺した。ただそういう悪党の白人の中でも一部には心ある人がいて、ここではドイツ人宣教師が彼らの文化を守り残そうとし1923年に行われたセルクナム族の「ハイン」の写真と文が残されたのだ。1933年にはさらに人が減ってその時が最後の開催になってしまうのだが、その中では最も盛大な「ハイン」が記録で残されたのである。さて、この「ハイン」の事を書き出すと、要は本書1冊を紹介することになるので、それは興味のある人が買って読んで欲しい。「ハイン」には神話があり最初は女たちが男たちを支配するために行われていた秘祭だったという。しかしそのカラクリがバレて女たちは皆殺しにされ、男たちによる秘祭に変わった。この事は女たちには他言禁止で言ったらシャーマンに呪い殺されると厳しく言い聞かせれた。よってこれらの「ハイン」に登場する様々な奇怪な精霊たちの正体はみな男であり、獣脂と赤と白の粘土を裸体に塗り、一部黒炭の黒も使うが、これらの写真で「黒」に見える部分は「赤」だと思って見て欲しい。「ハイン」の間、男達はハイン小屋で女子供は別の場所にいた。男達はボディペインティングをして、精霊によっては革でお面を作って被った。ハイン小屋が作られそこには方角ごとに7人のボディペインティングに覆われたショールトがいた。初めてこの儀式に参加するクロテケンと呼ばれる少年達はショールト達に小屋で襲われ性器を強く引っ張られるなどの拷問を受けるなどの通過儀礼の後に、ショールトの正体を明かされ、女子供には決してこの儀式の事を漏らしてはならないという事から、一人前の猟師になったならば、獲物は20切れほどに分けてその場にいる全員に分け与え自分は最後に残ったものを取る事、その自制心が大事である。そうすれば自分が年老いた時に同じようにしてもらえるだろう。年寄りを敬い、病寂な者に思いやりを持つこと、後に自分がそうなった時に若者達が同様の敬意を持つであろう。全ての女は母であり、年老いても敬うこと。自分は大食いをせず肥満にならないで良き狩人になること、そして妻は太っている方が良い、それは夫が良き狩人である証だからだ。食べ物や快適さにこだわらない、友人に寛容であれ、頼まれなくても働く事、人様の役に立つことという、男としての規範を教え込まれる。非常に優れた教えだ。ただし侮辱は許してはいけない。家族や同族の物であっても必ず報復することという事も教え込まれる。ショールトは女子供の家へ行き、驚させ、家を破壊し、子供も叩き、恐怖を当たえる。そしてサルペンという女の巨大な精霊(もちろん男が担当。6mもあり裸の男たちが動きをサポートする)は少年のクロテケンを犯そう外で叫び声が聞こえ、犠牲になったクロテケンが数名、男たちに担がれて小屋の舞台に放り込まれる。そこではクロテケンはサルペンの子を身ごもらせたことになっていて、殺されたクロテケン、それは彼女らの息子なのだが、そこから臓物を引き出され血が溢れる。これはもちろん儀式で死んだふりをしているだけで、内臓や血はグアナコのものを使っただけだが、女たちは心から嘆き悲しむ。後に女には見えない(見せない)小さな精霊でクロテケンは復活するのだ。さて、クロテケンの大量虐殺劇の翌日にはサルペンの子供のクテルネンが生まれる。体の前面にブツブツのようなものあり最も怪奇な精霊だが、このブツブツのようものは白い綿毛で丈夫なグアナコの神経線維でつないだ。クテルネンはクロテケンの中でもほっそりとした一番小さく女に似たものがこの役を担った。ほとんど動けないクテルネンにはサポート役に2人の重鎮が付き、女たちは自分達のクロテネンが生んだ精霊だと狂喜していたという。復活までにはこういう儀式もあったのだ。他には角がある道化師として反サルペン派の精霊ハラハチェスがいて、サルペンの覇権を奪おうとする能力があるので、女たちを面白がらさせていたが、後にハラハチェスは捕虜を連れてきて殴打する振りをして捕虜を殺していく(ふり)。女たちは悲鳴を上げ、ハラハチェスに対して用意していた雪玉や泥玉を雨あられあのように降らせるが、捕虜の「死体」を外に置いて勝ち誇ったようにハイン小屋へ帰っていく。ケムール人のようなお面をかぶった2人は寝取られ亭主役のコシュメンクだ。ハイン小屋で妻が情事を楽しんでいるとコシュメンクは反狂乱になってハイン小屋の回りを飛び歩く。女達は遠くから大喜びでこの数時間も続くコシュメンクの大暴れを楽しんでいた。なおケムール人に最も似ているのはクランという役のどの天ともつながりのない女の精霊(もちろん男、ただし乳房を革の袋で作って少し膨らませてあり、陰部は覆って隠し女のような体つきだった。クランは情夫たちを一週間以上留め置き、男たちは帰ってくると頭は皇帝ペンギンの糞まみれになっていて、その間の事は何も覚えていない(ことになっている)。当然ひどい女として女達からは嫌われているが、写真がなくイラストだけが残され、それはチリの切手にもなっているが見るとこれがケムール人に相当近い。ウレンは島の北東部の精霊で、最も優雅ないたずら者としてハイン小屋にいて、男がハイン小屋の近くへ女子供を案内するとひょっこり現れ、その移動速度の素早さに驚嘆したという。ただこの精霊の意味は、北東部の男の大半が殺されるか疫病で死に、楽しませる存在というととしか分からなかった。最後は大きなクラゲのような全身の被り物をしたタヌだ。グアナコの皮などを使い高さもあうのでとても高さのある精霊で、そのためとても重くゆっくりとしか動けず転倒しないよう長老が付いた、4人のタヌがいるそうだが、その存在には諸説あるので謎の、しかし害のない精霊ということになっている。さてこれ以外にもまだ精霊がいて、長期間の行われる「ハイン」だが人口の減少で1933年を最後に出来なくなってしまう。こういう男子の秘密結社で行われる儀式はアフリカやパプアニューギニア、沖縄の八重山でのアカマタ・クロマタ、宮古島のパーントゥ・プナハなどでひっそりと続けられていて、女子供を驚かせるのはほぼ共通、部族間で死者がでると犯人ではない相手の部族の人間を害するペイ・バックの風習(今はパプアニューギニアでは法律で禁じられてはいるが…)がある場所もあり、八重山のアカマタ・クロマタは他の原始的な祭りと同様、祭りの中で生と死の再生が行われて感動の祭りになっていた。現在も行われている4島(というか4島の中のたった1部落)では日程も秘密、若い衆が道にたって部外者を近づけないように封鎖、ある島は人口が10人ちょっとなので祭りの期間は島出身者以外渡航も禁止するところもあり、唯一、部外者でも見に行ける島でも(ガイドブックには祭りの存在すら載っていないので役所などに問い合わせで調べるしかない)、「撮影・録画・携帯絶対禁止!」と至るところに看板があり、盗撮でもしようものならある島ではテレビカメラごと海に叩き込まれた、半殺しになったなどのニュースが出たほどなので、そんな勇気は誰も持てないだろう。ただし前も書いたがその儀式の神はジャングルがある島ならではの草装神で巨大で幻想的、日本にも沖縄にもない音階のコール&レスポンスのもの凄い歌と踊りで、最後は自然と涙がこぼれるほどの感動だった。「ウルトラマン」のスタッフには沖縄出身者がいてこのアカマタ・クロマタをモチーフにしてガラモンが出来たと言われている(滑稽にデフォルメされているが)ので、同じスタッフが作った「ウルトラQ」のケムール人は前述のクランのイラストを見て思いついた可能性は十分にあるだろう。このフエゴ島の厳しい暮らしの中でどれだけこの「ハイン」が1年に1回だけの楽しみだったか、今の人には想像もできないだろう。ヨーロッパ人に命も文化を葬り去られたフエゴ島の先住民。父母がどちらも先住民という最後の純粋な血筋のヤーマン族の老人は1999年に亡くなり、この世から純粋なフエゴ島の民族は消え去った。(佐野邦彦)