2020年2月23日日曜日

集団行動ワンマン企画 「POP MAGIC vol.1」




昨年筆者が選ぶ2019年の邦楽ベストソングにも選出した集団行動(しゅうだんこうどう)が、 今月28日にワンマン・ライブを開催するので紹介したい。
リーダーでギタリストの真部脩一を中心に、ドラマー西浦謙助、ベーシストのミッチー、そして紅一点のヴォーカリスト齋藤里菜の4人の他、サポート・キーボーディストの奥野大樹(ルルルルズ)を加えたパフォーマンスは、どのバンドとも異なる魅力を放っている。
またナンセンスな演出とMCも非常に面白く、トータルで楽しめるステージとなっているので興味を持った音楽ファンは是非足を運んで欲しい。


2020年2月28日(金) 渋谷LUSH
 集団行動ワンマン企画 「POP MAGIC vol.1」
 ●OPEN 18:30 / START 19:30
 ●ADV 3500 / DOOR 4000 (+1D ¥600 ) 
・ライブポケット URL:https://t.livepocket.jp/e/0228lush
 ・イープラス URL:https://eplus.jp/sf/detail/3162460001
※入場順 先行→ライブポケット→イープラス 


なお彼等は昨年4月のサード・アルバム『SUPER MUSIC』以降、配信限定シングルとして3ヶ月連続で3曲をリリースしている。遅くなったがそちらの曲にも触れておこう。

「ガールトーク」

19年9月第1弾の「ガールトーク」は真部と西浦がかつて所属した相対性理論の初期エッセンスを持った、真部ペンタトニック・スケールというべきメロディに齋藤のキュートな歌唱が上手くはまっている。


「キューティクル」

続く同年10月の第2弾「キューティクル」は、ブリリアントなシンセサイザーのイントロから小気味いいビートを刻む。フックはH=D=Hよろしくポジティヴなリフレインで高揚させる。


「マジックテープ」

そして11月の第3弾「マジックテープ」はよりダンス・ミュージックの色が強くなり、真部の16ビート・ギターカッティングやシンベのベースラインのファンキーさと、齋藤のクールな歌唱のコントラストが面白い。
以上の3曲は次作のフォース・アルバムにも収録されると思うので期待したい。 

(ウチタカヒデ)


2020年2月16日日曜日

SO NICE:『光速道路』(JET SET / KTYR001)


昨今のシティポップ・リバイバルのきっかけの一つになったとされる伝説のバンド、so nice(ソー・ナイス)が代表曲の『光速道路』を新装7インチ・アナログ盤で2月19日にリリースする。
この『光速道路』は2014年4月19日のRecord Store Dayに初7インチ化され、直ぐに完売となった。筆者も開店前から店頭に並び手に入れたものだ。

2014年盤・鎌倉氏と江口寿史氏のサイン入り】 

そもそもso niceは、1976年に日本大学芸術学部の“フォークソング・クラブ”内で鎌倉克行と松島美砂子によって結成された、シュガー・ベイブ及び山下達郎の学生フォワー・バンドである。
バンド結成のきっかけとなったのは、リーダーの鎌倉が1975年5月24日のティンパンアレイ・フェスティバルを観に行った際、オープニング・アクトを務めていたシュガー・ベイブの演奏に感銘を受け、早速会場でアルバム『songs』を購入し音楽仲間に聴かせてコピーを始めたからだという。
その後1979年にビクター主催の『大学対抗フォークソング・コンテスト』に出場し、見事優勝するなど玄人筋(審査員には杉真理氏も)からの評価も高かったが、プロ・ミュージシャンは目指さず、同年卒業記念として自主制作盤で200枚のみリリースしたアルバムが『LOVE』である。 
このアルバムは28年後の2007年に某SNSのシュガー・ベイブ・コミュニティで突然取り上げられ、ネットオークションでも高値で落札されて話題となった。 1976~79年当時としてはこういったスタイルのバンドはマイノリティーであったと推測するが、鎌倉をはじめメンバー達の先見性には脱帽してしまう。


【so nice 現メンバー】 

今回紹介する『光速道路』は『LOVE』収録曲中屈指の名曲で、前出の通り2014年に続いて今回新装リワーク盤として7インチでリリースされる。 なお前回は収録時間の関係で回転数が33RPMだったが、新装版では待望の45RPMとなっている。改めて解説するが、タイトル曲は『songs』をコピーして研究した成果が滲み出ており、イントロには「SHOW」、ヴァースとフックには「今日はなんだか」の影響を感じさせ、現在聴いても色褪せることは全くない。

 
『光速道路』

カップリングはこの『光速道路』をDJ Bossa★DaとHF  International(平岩克規、福田征希)のによりリワーク(リアレンジ)されたバックトラックに、鎌倉が新たに歌入れしたレゲエ・ディスコ・ヴァージョンを収録している。このリワーク・ヴァージョンはパターン・ミュージックとしてのグルーヴが強調されており、DJユースとしては勿論だがシティポップ・ファンも新鮮な感覚で聴けるのだ。

またジャケットイラストは前回の2014年盤と同様、漫画家でイラストレーターの江口寿史氏が担当し、なんと新たに描き下ろしている。
一見前回の流用かと見間違えそうだが細かく見ると気付く筈で、光速をイメージする光のパース、女性のサングラスの影や後ろ髪の毛先、車内ではシフトレバーの微妙なポジション、バックミラーに写る人物、パネルの速度メーターとタコメーターやカーシガーソケットのライト、カーオーディオの型式などなどその違いを探すのも面白いかも知れない。
なおこの新装7インチ・アナログ盤は既に予約分が完売している店舗も多いので、興味をもったシティポップ・ファンは、リリース日に店頭分を早急に入手することをお勧めする。

リリース元: JET SETサイト 

(ウチタカヒデ)

2020年2月4日火曜日

山下達郎ライヴ・クロニクル Part-2(1978~80)

 
 2月4日は山下達郎さんの67歳の誕生日です。このタイミングで、今から40年以上前ブレイク以前のライヴ活動の軌跡を紹介出来るのは良い記念だと思う。

 Part-1では大学生だった頃に衝撃の出会い、そして初ライヴ体験をした1977年までをまとめてみた。この時期は大学4年で就活も始めており、卒業後は地元に戻るつもりだったので彼のライヴも見納めのつもりだった。しかし「オイル・ショック後遺症」の余波で地元企業の就職戦線は全滅となり東京で就活を始めた。ただ本音は留年覚悟で開き直っており、度胸試しと大手企業ばかりに履歴書を送付。ところが予想に反して、立て続けに内定連絡が届き、やっと社会人の仲間入りができた。 
 そんな経緯で東京には1981年まで暮らすことになり、在京生活メリットを活かしてコンサートにはよく通っていた。おかげで1980年に達郎さんが<Ride On Time>でブレイクを果たす瞬間まで見届けることができた。
 

 このPart-2ではそんな達郎さんが全国区になるまで足を運んだコンサートについてまとめてみた。 就活から解放された1977年末から1978年年初頃には達郎さんの認知度は極めて低く、一人でも多くに知ってもらいたいとばかり、自分なりの広報活動をしていた。
 まず、飲み会があれば、ダンス・ミュージック用にと<Windy Lady><Solid Slider>のテープ持参で参加していた。またバンド仲間には、Gregg Allmanの『Playin’ Up Storm(邦題:嵐)』トップの<Come And Go Blues>は<Windy Lady>が元ネタだと唱えて2曲のテープを持ち歩くことも忘れなかった。 

 その頃「六本木PIT INN」で達郎さんのライヴが3月8・9日に開催されるニュースが飛び込んできた。さらにこのライヴは“ライヴ・レコーディング”されるという予告もあった。とはいえこの時期はまだまだ洋楽志向派で、2/8には『Silk Degrees』で大ブレイクを果たしたばかりのBoz Scaggs、それに2/22には本邦初お目見えとなったレーザー・ビームの飛び交うELOの「Out Of Blue Tour」日本で武道館へ足を運んいた。

 そんな達郎さんのライヴを楽しみにしていたさなか、就職内定先から泊まり込みによる「新人内定者研修」の連絡が届いた。なんとその日程は達郎さんの「六本木PIT INN」ライヴにかぶる日程で、目の前が真っ暗になってしまった。ただその合宿先は「代々木オリンピック選手村」とあり、ライヴ会場とは至近距離だったことに気が付き、開催日の夜に宿泊所を抜け出すことに発想を切り替えた。と、そのつもりでいたのだが、予定よりも研修時間が長びき、しかも研修を実施している会社が数社あり夜の見回りはかなり厳重になっており、“ライヴ・レコーディング”に立ち会うという夢は泡と消えてしまった。

 そんなこともありながら、研修終了後は即入社式となり、正式に社会人の仲間入りをした。就職先は東証一部上場企業だったが、社内では罵倒が飛び交う業界でも悪名高い“ブラック会社”と知り、出社初日で逃げ出したい心境になった。とはいうもののGW帰省した際に、保証人の叔父より「石の上にも三年」と念を押され、しばらく籍を置くことにした。
 そんな五月病を何とか切り抜けつつあった5/24、3月の「六本木PIT INN」での達郎さんのライヴ・アリバム『it’s a Popin' Time』を手に入れた。その後しばらく、ライヴに立ち会えなかった無念を晴らすように聴きまくっていた。このアルバムの心地よさは、日ごろ会社での重圧を忘れさせてくれるほどの活力剤となった。

 この時期に東京FM(FM Tokyo)で、Suger Babeのラスト・ライヴが放送されるという情報を入手。最高の音質で残しておきたいと思い、初めてTDKのハイポジ・カセット「SA」を入手して、オーディオ・マニアの同僚に録音を依頼している。

 その後、仕事は相変わらず低調状態ではあったが、余暇のレコード探索とコンサート通いで何とか持ちこたえていた。そんな年末の12/3には英国メロディー・メーカー誌で「Band Of The Year」と「Best Live Act」に選ばれたGenesisの来日公演に新宿厚生年金会館へ出かけている。
 この時期には、達郎さんのニュー・アルバム『Go Ahead』が12/20発売と、12/26には「Go Ahead 発売記念コンサート」が渋谷公会堂で開催されるインフォメーションがあり、良い年末が送れそうで気持ちがはずんでいた。



 がしかし、12月の会議で「目標達成率以下の者は、年末年始休暇没収」という恐喝めいた訓示があった。8月にも「盆休み没収事件」もあり、その時期は何とか乗り切ったが、今回はかなりやばい状況だった。とはいえコンサート予習に備え12/19に佐々木レコード社へ駆け込み『Go Ahead』を入手。この新作は「週刊FM」でも高評価されており、一週間後のライヴがさらに楽しみになった。
 だが仕事は絶不調の毎日で食事ものどを通らず、前日12/25には“拒食症”による栄養失調で倒れ救急車で病院に担ぎ込まれた。その入院事件が功を奏したためか、翌日も静養で休みが取れ、堂々と渋谷公会堂に向かうことができた。

 ◎1978年12月26日(火) 『Go Ahead Concert』 渋谷公会堂 
 満杯とはいえない館内だったが、熱狂的な達郎マニアの熱気にあふれていた。ただ、ニュー・アルバムの予習はそこそこで、個人的には『it’s a Popin' Time』の新曲の方が馴染んで聴けた。なおこのライヴで鮮明に覚えているのは、クールズのプロデュースをニュー・ヨークでしてきた話と、達郎さんのライヴで初めてセットが登場した<Space Crush>のパフォーマンスだった。
 そして、メンバー紹介をフューチャーした<Let’s Dance Baby>、まだクラッカーは登場していない。ラストは<Circus Town>で、アンコールは私が初めてバンド体制で聴いた<Down Town>で大満足のライヴだった。
 しかし達郎さん初心者だった同行女子の帰路での感想「この人、きっとメジャーにはなれそうもないわ。」には相当テンションが落ちた。 

 といったところで、1979年に入ると来日公演のラッシュで頻繁に日本武道館に向かっている。まず2/26にはMicheal McDonaldが加入したばかりのThe Doobie Brothers、3/2はLinda Lonsadt、3/26には<September>を発表したばかりの全盛期Earth, Wind & Fireと頻繁に武道館公演を堪能していた。 

◎1979年6月2日(土) 『Flying Tour Part 1』日本青年館 
 このライヴには弟と向かったのだが、初めての会場ということもあって、入場した時にはオープニングの<ついておいで>のコーラスが聴こえており、不覚にも遅刻した。 慌てて席に着くと<Windy Lady>が演奏され、新しいバンド・メンバーが紹介された。
 この当時は達郎さんも来場客もライヴ・ハウスのノリで、会場内は掛け声の応酬合戦だった。 <Paper Doll><Candy>と進み、一息ついてトークが始まる。
 そこではCMソングの話になり、勢い余って自ら“一生の不覚”とコメントして<いちじく浣腸>の弾き語りも飛び出し、大喝采を浴びた。その続きで「近々、Coca-ColaのCMが出るのでお楽しみに!」と期待をさせる話題も提供してくれた。
 トークのあとは<Love Celebration><Escape>と続き、以後達郎さんのライヴでは定番となる「アカペラ・コーナー」。この日は<Wind>を披露し、<Minnie><潮騒>とゆったりとしたナンバーに繋がった。 
 コンサートの後半は、フェイヴァリット・ナンバーと紹介して<On Broadway>から<Solid Slider><夏の陽>へと続く。ここで、達郎さんから「初めての方が多いみたいですが、いかがですか?」と投げかけられ温かい声援が飛ぶ。
 そして「最近、大阪のDiscoで流行っている曲を」と、噂の<Bomber>が登場。ここでは、田中章弘さんと上原ユカリさんの強靭なリズム隊に椎名和夫さんのギターが唸り、吉田美奈子さんと大貫妙子さんのコーラスも冴えわたった。 続く<Let’s Dance Baby>では後に恒例行事となる“クラッカー” が前方の席でさく裂!このサプライズには達郎さんも驚きで調子が狂い、しばらくはキーが安定しなかった。
 ラストは、石田ゆり子さんのCMデビュー作JAL沖縄キャンペーン・タイアップ曲<愛を描いて-Let’s Kiss The Sun->で総立ちとなった。 アンコールは手拍子で<So Much In Love>、そして昨年末の渋谷公会堂でも大いに盛り上がった<Down Town>の再演と、静岡から上京してきた弟も大満足のライヴだった。

  帰路に就くと会場の外では「ファンクラブ入会募集」のチラシや、年内発売予定の『MOONGLOW』告知フライヤーが配られていた。そのフライヤーには曲目も印刷されていたが、1曲目に<想い>(正式には<夜の翼(NIGHTWING)>になる)とあり、「大瀧さんのカヴァーがオープニング?」と勝手に勘違いをして、その場を後にした。 
 
 補足になるが、達郎さんは最近のサンソンで「クラッカー起源」を、「80年のライヴ・ハウス」と答えていらしたが、私はこのコンサートで体験した。しかも演奏中の達郎さんが驚いたくらいなのでここが発端だと思っている。 

◎1979年9月1日(日) 『Flying Tour Part 2』 関内・横浜市民ホール 
 ここにはファースト・コンサートに行ったバイト仲間と参戦。今回関東圏は横浜市民ホールだけだったので初めて関内への遠征だった。 
 10/21に発売予定の『MOONGLOW』から新曲が聴けるだろうとふんでいたが、トップに<夜の翼(NIGHTWING)>が登場し<Solid Slider>へ。2曲が終わると「ローディーが辞めてしまいまして、やる気にある方募集してます。」と切り出し笑いを誘う。 
 そして「6/2の日本青年館にいらしていた方はどれくらいいらっしゃいますか?」の問いかけに大きな拍手。「何回もすみませんね」とほぼ常連客で埋め尽くされた会場とコミュニュケーションをとりつつ進行し、<Paper Doll><ついておいで>と続いた。 
 その後のトークでは「最近頭が薄くなって、禿げたら引退します!」と笑いを誘い、「12/26に渋谷公会堂で大きなコンサートやる予定なので、是非いらしてください!」と勧誘告知。 続いてはお馴染み<Windy Lady><Candy>、終了後のトークでは「RCAレコード内に作った自身のレーベルAirからリリースする新作のシングル予定曲を初披露します」と<永遠のFULL MOON>を演奏。 
 そして、定番のアカペラ・コーナーでは<Blue Velvet>、その流れで<潮騒>。その後はレコーディングの話題で、達郎さんがプロデュースした『Ann Lewis/ Pink Pussy Cats』、さらには『限りなく透明に近いブルー』サウンド・トラックの話にふれる。そこで後者に収録した曲としてYoung Rascalsの<Groovin’>。レコーディングのテイクよりも、ハードで躍動感のある演奏だった。
  その後<Hey Their Lonely Girl>を挟んで、N.Yでのぼったくりタクシーを皮肉った<Yellow Cab>、<Hot Shot><Let’s Kiss The Sun>で閉め。アンコールは<Last Step><夏の陽>。 
 

 10/21に待望の新作『MOONGLOW』が発売になったが、今回の購入先は「佐々木レコード社」ではなく、当時住んでいた竹ノ塚駅近隣のショップだった。これは私なりの広報活動の一環としての行動で、店に入るなり「山下達郎さんの『MOONGLOW』ってアルバムが発売になったはずですが、入荷してますか?」と伺う。店員に探させたうえに、わざわざ視聴し、「これこれ!」と頷きながら購入した。 

◎1979年12月26日(水) 『Flying Tour Part 3』渋谷公会堂 
 この日のオープニングはドラムがけたたましく響く中、「Ladys And Gentlmen, Tatsuro Yamashita Super Concert, 1979 Shibuya Public Hall Tokyo」「Are You Ready? 」「Yaeh! O.K. Here We Go, Take it Easy, Hey! Tatsuro Yamashita Get it on! Joyin’ on」というやたら派手なDJのスピーチで<Bomber>がスタート。周りを見回せば、客層がそんな雰囲気。
 2曲目は<Paper Doll><ついておいで>といったいつもの達郎さんに戻り、やっと落ち着いた。そしてトークが始まり、このライヴからリズム隊の二人(B.:伊藤広規、Dr.:青山純)と、チキン・シャックのサックス・プレーヤー土岐英史氏が参加したことを報告、この布陣で80年代以降の達郎サウンドが担われることになった。
 その後、『MOONGLOW』からの新曲<Rainy Walk>が演奏され、ライヴが落ち着きを取り戻したところで難波弘之さんの初ソロ作『Sense Of Wonder』の紹介があり、達郎さんの提供曲<夏への扉>を演奏するも、出だしにコケでしまい仕切り直し。ここでは1番を達郎さん、2番を難波さんというリレー。このRobert A. Heinleinの小説をモチーフに仕上げたSFタッチの曲を「今年一番の出来」と断言していた。 
 続いて横浜のライヴでも披露されていた<永遠のFULL MOON>、ファンにはお馴染みになっていた「アカペラ・コーナー」。この日はThe Shanelsの話題にふれると「来てるぞ!」と反応があり達郎さんもタジタジ、そこで<Most Of All>を披露。
 アカペラに続いては<潮騒>、横浜でも演奏した新曲<Hot Shot>になるが、この日は椎名さんのギター・ソロがさく裂。<Monday Blue>で一息ついて、次のトークでは三波春夫さんの話で独演会状態となる。
 次は「「ひろったタクシー、パラノイア」とは何事だとタクシー業界からクレームがついた。」というエピソードが紹介された<Yellow Cab>を横浜に続いて演奏。 さらにファンク度を増した<Windy Lady><Solid Slider>。
 そして<Let’s Dance Baby>では「日本青年館公演」のでの噂が行き渡っていたかのように、より数を増したクラッカー隊がさく裂。この日の達郎さんは動じることはなかった。エンディングでは美奈子さんとター坊のコーラスに合わせて「♪Let’s Dance Baby♪」の大合唱。 さらに昨年の渋谷同様、ステージにセットが準備された<Space Crush>、エンディングでは達郎さんのアカペラが廻廊のようにドラマチックな轟き、ラストは<Circus Town>。 
 会場総立でアンコールは、メンバー紹介を挟んだ初披露の<Funky Flashin’> で幕。 
 

 なお私は達郎さん同様に、昨年11/12このライヴ後40年ぶりに渋谷公会堂(Line Cube Shibuya)に足を運んだ。その際私の隣席には小学生風の少女がお母さんに連れられて座っていたが、最初は場になれず「ふて寝」していた。
 それが、<クリスマス・イブ>で「どこかで聴いたような」といった雰囲気で目を開けると、<アトムの子>では「翻訳コンニャク(らしい)」で飛び出した「アンパンマン」に大喜び。さらに<ハイティーンブギ>になると、飛び跳ねてお疲れ気味のお母さんを立ちあがらせるほどだった。 
 私自身ソロ・デビュー以来長らく達郎さんのライヴに通いつめているが、こんな小さな子供が喜んでいる光景を見られる日が来るとは想像もしてなくて、ほんわかした

 年が明けた1980年1/26には芝郵便貯金ホールで、『Flying Tour Part 3 追加公演』が開催されているが、この時期は来日公演ラッシュでパスしてしまった。ちなみに、2/6には新宿厚生年金大ホールのDaryl Hall & John Oates、2/14は中野サンプラザPolice、2/17は新宿厚生年金大ホールのJ.D.Souther、それに3/9には中野サンプラザのTOTOといった面々の初単独ライヴを堪能していた。 この時期の私はかなりの来日公演に足を運んでいるが、当時の達郎さんはこれらのミュージシャンとも決してひけをとらない存在だった。

 そんな中、達郎さんがMaxellカセットテープのCMに起用されるというニュースを聞き、再び達郎熱が沸騰してきた。その新曲5/1の発売<Ride On Time>を前に、達郎さんが登場するCMとタイ・アップ曲を聴き、「凄い!」と感激した。  この曲をひっさげたツアーも発表となり、即チケット確保に走った。だがあり得ないほど入手困難状態になっていて、彼のライヴでは初めて二階席からの観覧となった。 

◎1980年5月3日(日) 『Ride On Time Concert ‘80』 中野サンプラザ・ホール 
 オープニングは今に繋がるようなコーラス~Overture~<Love Space>で、「渋谷公会堂公演」とはうって変わり原点回帰したような印象だ。なおこのライヴからコーラスが和田夏代子さんと鈴木宏子さんに変わり、吉田美奈子さんが外れている。 
 そして<永遠のFULL MOON><雨の女王>が続く。トークに入り「今日は思いっきりたくさん曲をやります!」に、「たつろ~ぉ」と黒い歓声が飛び交う。達郎さんの「キャンディーズ聴きに来てんじゃないんだから!」の一言で場内大爆笑。そんな流れで<Rainy Walk><Paper Doll><ついておいで>へ、ブレイク後初ライヴとあって、演奏側も聴衆側も充実した時間を共有している。 
 そして、もうお馴染みとなった「アカペラ・コーナー」、この日は<Blue Velvet><Alone>。引き続いての演奏は<Love Celebration><Storm><Touch Me Lightly>。後半は<Sunshine-愛の金色->、お馴染みの<Bomber>、<Let’s Dance Baby>、とノリノリ・ナンバーで退場。
 アンコールでは達郎さん初の大ヒット<Ride On Time>、そして<Down Town><Let’s Kiss The Sun>もきっちり聴けた。 
 ◎1980年8月2日(日) 『Ride On Time Concert In HAYAMA』葉山マリーナエメラルドプール 
 当時のキャッチフレーズ「夏だ!海だ!達郎だ!」をそのまま置き換えたようなシュチュエーションで行われたライヴ。当日は会社の研修で箱根におり無念の涙。なおこの日はChanels(82年以降Shanelsに改名)との共演予定だったが、彼らが「新聞沙汰」で没になり単独公演になっている。
 途中で雨天になり、達郎さんは初めてで「ライヴ・ハウスが洪水になったと思って」とコメント。 この模様はFM東京の「Maxcell Your Pops/Big Summer Present/Tatsuro Yamashita 」でオンエアされた音源での体験だった。 
 のっけから<恋のBoogie Woogie Train>、ここでは「この吉田美奈子の書いた素敵なフレーズを歌おう」とアゲアゲ、次は「僕がステージでやる曲で1番好きなナンバー」とコメントして<永遠のFULL MOON>。<潮騒>に続いて、「天気が良ければ真正面に陽が上がって、このミラーに反射するはずだったんだけど」と雨天を恨みつつ<夏への扉>。  
 この日のハイライトは達郎さんのフェイヴァリット<Groovin’>。エンディングでは難波さんと椎名さんのアドリブから達郎さんのギター・カッティングの応酬、さらに会場からリクエストを募って何と「100回!」のカッティング。  
 後半は<Bomber>、<Let’s Dance Baby>では、「心臓に♪」で演奏が止まりクラッカーの大砲撃、「ホント、よくやるよ!」と演奏再開、そして「Let’s Dance Baby~♪」の大合唱。ラストはノンストップでメンバー紹介をフューチャーした<Funky Flashin’>、そしてアンコールは大ヒット<Ride On Time>で約3時間のステージ。 

 そして待望の新作『Ride On Time』発売日は9/21だった。当日は月曜で会社での打ち合わせ後に、営業車でお茶の水に直行。着せ替えジャケット付きの特典LPをDisc Unionの開店時間まで待機し、11時ジャストに店内へ駆け込みゲットしている。 
◎1980年12月28日(日) 『Ride On Time Concert ‘80』 中野サンプラザ・ホール 
 無伴奏での<I Beleve To My Soul>に続いては私が待っていた<夏への扉>! 作者の達郎さんも美奈子さんもお気に入りの<Rainy Day>、勝新太郎さんの一声でシングルB面となり“幻の名曲”と紹介された<いつか>は印象的だった。 
 そして個人的には初めてライヴで聴いた弾き語りの<過ぎ去りし日々’60 Dream>の選曲には驚いた。また12/5発売になったばかりの『On The Street Corner』の話で、「限定盤なんで持っている人は自慢しましょう。」と言って、今回のアカペラは未収録だった1959年Framingos<I Only Have Eyes For You>。 
 メンバーが登場して「僕のフェイヴァリット・ソング」と告げて<La-La-Means I Love You>、エンディング近くは<Let’s Dance Baby><Funky Flashin’><Ride On Time>とお馴染みのナンバーで畳掛ける。アンコールは<恋のBoogie Woogie Train>で決まり! 


 私は1981年3月に東京の勤務先を退職し、夏には静岡に戻り再就職している。そこでも1983年12/6の静岡市民文化会館公演を観覧していた。この日の開演時間は18時とやや早めだったが、「私のライヴは3時間に及ぶので、会場の事情でこの時間のスタートですみません。」と、昨年の渋谷公演と同じコメントをしていた。ただその後は頻繁に転勤を命ぜられ、仕事に邁進する日々で達郎さんに触れる機会は約10年間も遠のいてしまった。 

 そんな私がライヴ通いを再開するのは、長い転勤生活と管理職から開放され、滋賀在住になった頃だ。それはこの地でVANDA誌を通じ、佐野邦彦さんとの付き合いが始まったことがきっかけとなった。
 ある日彼から「達郎さんのファンクラブに入会すれば、入手し難いチケットが確実にゲットできるし、毎年未発表音源がもらえる」という話を聞き、即入会したことで完全にスイッチが入った。佐野さんとの付き合いが無ければ、今回のようなブレイク前夜の達郎さんの話をまとめることなどなかったはずだ。そういった意味でも、佐野さんとの記憶はいつまでも消滅することはないだろう。 
                                 (鈴木英之)

2020年1月20日月曜日

さとうもか:『melt bitter』(SOUND SKETCH,Inc./ANCP-004)


さとうもかは岡山県出身の20代半ばの若い女性シンガー・ソングライターだ。今月22日にファースト・シングル『melt bitter』をリリースする。
彼女は2015年にファースト・ミニアルバム『THE WONDERFUL VOYAGE』でデビュー後、その個性的な歌声と唯一無二のソングライティングによる楽曲をライブで披露し、多くの音楽ファンを魅了してきた。これまでに『Lukewarm』(18年)と『Merry go round』(19年)の2枚のフルアルバムと、デジタル・シングル3枚、同EPを1枚リリースしている。


タイトル曲の『melt bitter』のテーマは、18年のデジタル・シングル『melt summer』の続編という位置づけでサウンド的にも新機軸となるバンド編成アレンジでトライされている。
ジャケットのイラストにも触れるが、スウィートでシュールな世界観をアメリカン・ポップ・アートとして昇華しているのは、大阪府出身のイラストレーター中島ミドリだ。
ではこのシングルの収録曲について解説しよう。

 

タイトル曲の「melt bitter」は所謂Ⅱ-Ⅴ進行を基調とした黄金のコード進行のソングライティングと、バンド・メンバー達とのヘッド・アレンジでサウンドはクリエイトされている。
さとうのヴォーカルとコーラスの他、エレキギターとベースは中川翔太、ドラムは金本聖也、ウーリッツァー系のエレピなどキーボードは小川佳那子がそれぞれ担当している。彼女の楽曲としては新境地サウンドであり、コーラス・アレンジにはチャカ・カーンの匂いもするのでR&Bファンにもアピールするかも知れない。

音楽通には説明不要で下記のプレイリストを聴いて理解出来ると思うが、グローヴァー・ワシントンJrとビル・ウィザースによる「Just the Two of Us」(『Winelight』収録80年)を代表とするⅡ-Ⅴ進行の名曲は多く存在し、それ以前もシェリル・リンの「Got To Be Real」(78年)やボビー・コールドウェルの「What You Won't Do for Love」(78年)が知られ、後年もアイズレー・ブラザーズの「Between the Sheets」(83年)、ジャミロクワイの「Virtual Insanity」(96年)も一部のパートはその系譜だろう。
日本ではFLYING KIDSの「幸せであるように」(90年)や椎名林檎の「丸ノ内サディスティック」(99年)、近年ではあいみょんの「愛を伝えたいだとか」(17年)等々と、そのアーティストにとって代表作となっている曲が多く、このコード進行によるマジックは聴く者の琴線に触れているので、さとうの曲もきっと注目されるだろう。


続く「ひまわり」は、アレンジとプログラミングにエズミ・モリ(ESME MORI)が参加しており、母子の愛情を綴ったハートウォームでナチュラルな歌詞に先ず惹かれるが、複数のパートで構成された曲の展開がとにかく素晴らしい。某大手化学メーカーの洗剤の動画広告としてタイアップ・ソングに抜擢されたのも記憶に新しい。
ラストの「かたちない日々」は、小川佳那子のアコースティック・ピアノだけをバックに歌ったドラマティックなバラードで、ローラ・ニーロに通じる叙情的なサウンドと歌声が耳に残って離れない。 
(ウチタカヒデ)


2020年1月19日日曜日

The Beach Boys, 1969: I’m Going Your Way (Capitol/UMG, 2019)


2020年を迎え、来年はThe Beach Boysもデビュー60周年を迎えることとなる、50周年の際はBrian一派を復帰させたが、来年はどうなることだろうか。
The Beach Boysの名跡はMike一派が長年取り仕切り、Mikeの新年のTwitterでは 自身の家族との写真を多用し、家族の繋がりやその価値の大切さを強調している。
これは共和党保守系シンパならではの所作であり、来る大統領選挙へのアピール なのかそれともBrian合流への秋波であるのだろうか?
2019年の年の瀬にようやくリリースとなった本作である、収録曲は3曲と少ない。理由としては既発表曲が多いのと、現段階では噂であるがSunflowrセッション周 辺の音源を集めたボックスセットのリリース前のサンプラーE.Pとしてのリリース であるとの憶測もある。

1969年のThe Beach Boysといえば低迷期の真っ只中であり、レコード及び興行 の米国内収入は落ち込み、年初リリースのアルバム20/20も国内セールスも同様 に伸び悩んだ。20/20とは日本で言うところの視力1.0である、視界良好どころか先のことなど見通せる状況ではなく自ら置かれた窮状への大きな皮肉となっている。


1969年4月のマネジャーのNick Grillo主導によるCapitolへの再監査そして訴訟、それらは主にCapitol側の売り上げやロイヤルティの過少計上などによるものであった、(1967にCapitol側へ同様の申し立てを行い、Brother Record設立とCapitolとの1969年中の契約満了という点では決着していたが)このことからCapitolとの関係はさらに対立を生んでいく。

Capitolとの契約解消を伝えるBillboard紙4月12日の記事
上記の記事では、訴訟はもちろんのこと、今後はBrother Recordを中心に原盤制作や他のアーティストのマネジメントや興行プロデュース、金融、医療、と多方面に渡る活動がうたわれており、また、16トラックレコーダーを備えたスタジオ建設まで約束していた。
華々しい未来を訴えながらも、Capitolとの契約解消が将来到来することに備えて、新たな契約先としてドイツ資本のDeutsch-Grammophoneレーベルに白羽の矢が建てられた。理由としては当時まだまだ海外での興行及びレコードセールスは順調であり特に英国での人気は衰えていなかったのでヨーロッパ市場の維持を考えていた。
ところが急転直下契約の話は立ち消えとなる、5月下旬シングルBreak Awayのリリースに先立って英Disc & Music Echoの記者のインタビューでなんとBrianが「2年近く前から実はThe Beach Boys帝国は崩壊の危機にあって財務上問題を抱えている」旨の発言をしてしまったからだ。現に上記の通り人気やセールスは低下し、Brother Recordからの様々な出資は不動産事業、医療機関、金融事業、マーチャンダイジングなどに投資されたものの、日本のタレント商法の末期と同様、回収不能となっていた。


 1969年5月30日付けのDisc and Music Echo見出しが「僕らは破産寸前!ビーチ・ボーイズ」

これでもか、というくらい不幸続きが頻発してしまうと、モチベーションも下がる と思いきや、1969年のレコーディング・セッションではForever,San Miguel,Got To Know The Woman,Celebrate The News,Slip On Through,とDennis作の名曲が上半期だけで集中して生まれている。このことはDennisの制作活動の活発さを物語っている。以下3曲を紹介させていただく。

1.I'm Going Your Way (Alternate Vocal Take)-Dennis Wilson- 

録音は7月8日Wrecking Crewの根城であったGold Star 
冒頭のカウントはHal BlaineでDennisが"Pick up those sticks"と叫んでいるのを聴くことができる。
長らくブートレグで出回ったきたタイトルではCalifornia Slideでおなじみの同曲であるが、本作ではブートレグで聴かれているヴァージョンと若干異なり、ヴォーカル部分が本作では重ね録りして2トラックでややステレオの位相を構成しているが、 ブートレグではシングルモノトラックであり、歌詞の2番目のあたりからブートレグではタンバリンの音が入っている。
両サイドのギター(Ed CaterとMike Deasy、前年MikeはTerry Melcherと同道しMansonの元を訪れ録音を手伝っていた)もブートレグでは埋もれがちな音質に対して、本作ではクリアになっている。おそらくMark Linettの手によるマスタリング時のEQあるいは、オリジナルの8トラックマルチマスターからギターパートを抜き出してシンクロさせているのかもしれない。
他にもまだ数十のテイクが存在しているらしいので、今後リリースかもしれないボックスセットに期待したい。
歌の内容については確かにヒッチハイカーの女性との逢瀬、そして性的な内容を暗示させる内容である。歌詞は未完成とはいえ、当時のCapitolのお偉方としてはリリースに踏み切れない部分があったであろう。初正式リリースの本作は未発表の背景としてManson Familyとの関係が取りざたされている。さらに深読みすれば、やはりMansonの思想との連関性に気づかずにはいられないのだ。
本作のレコーディングから一ヶ月を過ぎた直後の8月9日にManson主導のSharon Tate殺害事件が起きている、その背景にあるのはManson自身の終末思想であると 裁判では結論づけている。終末思想とは、いずれ到来するMansonが統治する世界の 前に人種間の大戦争が起きるという世界観を指し、The BeatlesのHelter Skelterが 歌詞の中で予言しているとMansonは思い込んでいた。


英国内のHelter Skelter 

実際のHelter Skelterは遊園地などにある遊具である。上の画像の通りぐるぐる回る 滑り台であって、この無意味な大騒ぎの様をThe Beatlesを楽曲にしただけであり、 ラウドロックの元祖となった。
Mansonはこの上昇下降の大騒ぎを人種間の支配が入れ替わる階級闘争と解釈し、ハルマゲドンが近づいていると夢想していたのだ。
Californiaは起伏に富み、当時のミュージシャンが多く集ったLaurel Canyonや北西部にはDevil's Slide、それからLos AngelsとMalibuの間にはTopanga Canyonがあり、 ここでNeil YoungがAfter the Gold Rushを制作し、Mansonも一時近所に根城があった。
歌詞の中のCalifornia Slide=Californiaの大地という大きな滑り台、である。Californiaの大地における支配層の入れ替わり、最終戦争〜新しい世界の到来という文脈がManson familyからすれば解釈できる。Dennis自身はMansonの思想にどこまで近づいたかは不明であるが、前年冬から両者は住まいも別々であったものの、Manson familyとの交流は1969に入っても続いていたことは雑誌のインタビューで明らかだ。


英Rave誌9月号で1969年5月に行われたインタビューDennisはMansonをWizardと誉めたたえる この時点ではまだMansonの犯行とは誰も思っていなかった 

冒頭にも述べさせていただいたが、The Beach Boysという大名跡を預かる Mikeは現在のブランドイメージを共和党保守層の価値観に設定している。 それがMikeの権力の源泉であり収益の源である以上、価値の維持のため 何があっても出したくない音源であろうことは間違いない。
Brian一派のカウンター・カルチャーやドラッグ体験の価値感をうまく芸術性 という美辞麗句に置き換え昇華させたMike一派にしては大英断ではないだろうか?
12月28日はDennisの命日でもあり、最期は酒色に耽り薬物の影響でバンド活動から遠ざけられたと聞く、これはDennisへの鎮魂なのだろうか?

2.Slip On Through-Early Version-Dennis Wilson-

言わずもがなアルバムSunflowerの第一曲目であり、ラテンやソウルのフレイバー漂う The Beach Boysの新たな方向性を示す名曲。録音は二回にわたり行われている。 本作セッションのヴァージョンは採用されず、二回目のBrian邸でのものが採用され ている。
本作は採用されなかったヴァージョンであり、録音スタジオはGold Star並びにSunset Soundで、1969年7月8日 9日 14日の三日間にかけて行われた。
冒頭"third generation take two"の声が聞こえるが、Slip On Throughの原タイトルを実 はthird generationではないか?と思ってしまうが、おそらくreduction mixの過程で生 じるテープの種類をthird generationと呼んでいたのであろう。
BrianもPet Soundで多用していたreduction mixの手法では4トラックレコーダーと8ト ラックレコーダーを多用する。

まずインストパートを録音、
(例)first generation tape
ギター トラック1
ベース トラック2
ホーン トラック3
ピアノ トラック4
そして上記のトラック1から4を一つにまとめた音を8トラックレコーダーへ録音
second generation tape
上記トラック1から4 トラック1にまとめる 残りのトラック2から8をヴォーカル及びコーラスを録音
(またはトラック2から3をヴォーカル及び4から8をそれぞれコーラスの二度録り)
そしてこれらをミックスした音源を録音したものが、
 third generation tape
となり最後にアクセントのある効果音やヴォーカルを追加し完成 

The Beatlesの場合は4トラックレコーダーをシンクロさせ事実上8トラックの録音を実現していた、両者の手法では理論上無限にトラック数が増やせることとなるが、 実際は録音を重ねるたびにノイズが増えたり、音質の悪化やピッチのズレが生じていた。

以下は私見ながら 本作の場合、エンジニアのStephen Desperはステレオ定位を好んだので
8トラックレコーダー二台を使用し(Wally Heiderからのレンタル)
first generation tapeでは(おそらく7月8日 Gold Star)
 ギター ベース ピアノ ドラム+カウベルまたはティンバレスetc をそれぞれ2トラックずつ録音
second generation tapeでは(おそらく7月9日 Gold Star)
上記の8トラックを2トラックにまとめつつ、残りの6トラックをブラスとタックピアノを重ね録り 
third generation tape では(おそらく7月14日 Sunset Sound)
上記の演奏をさらにミックスして2トラックにまとめたものに対し
ギターに2トラック Jerry ColeあるいはDavid Cohenのギターを録音
そして残りのトラックはヴォーカル及びコーラス用に空けておく といった内容ではないかと思われる

Sunflower収録の原曲と本作との違いは聴いてすぐわかる通りヴォーカル無しの ヴァージョンであり、演奏時間も数十秒長い。また本作の方がキーが半音程度低くなっている、原曲はレコーディング時に回転数を上げた可能性がある。
また、ブラスアレンジも異なっており本作の方はGold Star産のSpector作品にありがちな次第に音が重なり厚くなっていく劇的効果をもたらすアレンジである。
リズムセクションも本作ではドラムとキハーダにタンバリンとシンプルであるが、 原曲ではパーカッションも加わりリズムパターンが豊富な曲調となっている。
ドラミングについていえば、淡々としながら終盤に向かって劇的に盛り上げる奏法 であり、原曲と明らかに違いチューニングも低めであり、フィルの入り方などからHal Blaineである。
また、原曲で聴かれる発信音のような音はカウベルあるいはティンバレスにPhillips製のディレイをかけて処理したものであり、同じ手法はDo It Againのイントロで聴かれる。
ディレイマシンの再生ヘッドの間隔を近づけることにより歪んだ音像効果を得た もともとツアーでヴォーカル用に用意した機材をStephen Desperが活用した。


Phillips社テープディレイEL 6911 円形の部分の再生ヘッドの間隔を調整し発信器のような音を作った

原曲でのドラムはDennisでも違う方のDennis Dragon、兄弟のDarylと長兄のDougでCapitolから64年にThe Dragonsでデビュー後、元々Bruce JohnstonとDougが遊び仲間だったツテで1967以降のThe Beach Boysのツアーメンバーとなる。
生家がそもそも西海岸では著名なクラシック演奏家であった所以かアレンジなどで 頭角を表し、Darylはキーボーディストとしてツアーやレコーディングで活躍する。
1972年のアルバム『Carl & The Passions/So Tough』で参加するもツアーから脱退後はCaptain&Tenilleを結成しメンバーCaptainとして70年代にヒット曲を連発する。
Dennisは後年Surf Punksを結成、南カリフォルニアのサーファーの習俗とパンクを合わせたユニークなサウンドで80年代活躍する、なんとThe Beach Boysの対抗馬として父Murryの手がけたThe SunraysのI Live For The Sunをカバーしている。The SunraysのリーダーRick Hennは1969年の夏からBrianとSoulful Old Man Sunshineで関わっており、1977年Doragon家の長女Kateと結婚している。




3.Carnival(Over The Waves)-José Juventino Policarpo Rosas Cadenas-

Brian邸1969年12月録音と伝わる
1969年下半期になるとBrian邸での録音が増加する。理由としては、4月12日の記事の 通りに新スタジオの建設が終了し機材の更新があったためである。この頃から2インチのテープに対応した16トラックレコーダーの導入がレコーディングの効率化をもたらした。
機材の調達先はWally Heider Studio、Brian邸のスタジオ建設に初期から関わっている。
Brother Recordとエンタテイメント系会社Filmways(主に番組制作などが主業、Sharon Tateもタレント契約していた)の間でスタジオ建設投資に関するパートナーシップを結んでWally Heider Studioへの投資を行っていたので機材のリースも 有利な条件で契約することができた。


16トラックレコーダー 3M-M56


Quad Eight社のコンソール(Elecrrodyne ACC-1204をベースにQuad Eightカスタム仕様の30イン)


 Elecrrodyne ACC-1204

Capitolとの契約は満了したが、あと一枚アルバムリリースが履行事項として存在 していた(残念ながらリリースに至らず翌年70年Live In London-後に米国内ではBeach Boys '69に改題し76年発売-のリリースで決着する)同時にRepriseとの契約 がまとまったものの、アルバムリリースへのゴーサインがレーベル側から色よい 返事がなく、セッションを続けていた。本作はそれらのセッションの一曲。
以前からブートレグで聞くことはできたが、今回はほぼフルヴァージョンであり 音質もクリアである。理由としては上記のスタジオ機材の更新があったことと 16トラックレコーダーの機能を生かしたレコーディング方法が挙げられる。
インスト部の録音はおそらく4トラックにまとめて残りの10〜12トラック全てに ヴォーカルを充てている。おそらく五声のハーモニーに対してそれぞれ2〜1 トラックを充ている、従来ならば五声全部を一旦録音しもう一度別のトラックに 同じパートを録音していたが、本作では一声ずつなのでクリアかつリッチな分厚 さなエフェクトを得ることに成功しており、録り直しのリスクも減りある意味 働き方改革が行われている。
本作の原作者はJosé Juventino Policarpo Rosas Cadenas、メキシコの作曲家で 邦題では波濤を越えてで知られるワルツの名曲である。
1884年米国New Orleans で開催された万国産業綿花百年記念博覧会に於いて母国の楽団とともに演奏した のが初出とのこと。
この博覧会の日本ブースを取材で訪れたのがPatrick Lafcadio Hearn、後の小説家小泉八雲である。
小泉は縁あってこの後来日し、神戸でも居を構え新聞記者として生活していた、小泉も思い出のスマハマを散歩したのだろうか?



 (text by MaskedFlopper)

2020年1月14日火曜日

The Pen Friend Club☆藤本有華ラストステージ・ミニインタビュー



弊サイト読者をはじめ耳の肥えたポップス・ファンを魅了していたザ・ペンフレンドクラブ(以下ペンクラ)の4代目ボーカリスト藤本有華が、2月22日のライブでバンドを去ることになった。

16年3月に加入後ライブ活動から加わり、翌17年の4thアルバム『Wonderful World Of The Pen Friend Club』からはレコーディングに参加していた。続く18年の5thアルバム『Garden Of The Pen Friend Club』はオリジナル・アルバムとしてはこれまでの最高傑作であり、藤本の貢献度も極めて高かった。また同年11月のクリスマスソング・アルバム『Merry Christmas From The Pen Friend Club』での名唱も忘れがたい。
筆者としては、今後これを超える傑作をメンバー達と一緒にクリエイトして欲しかっただけに、彼女のバンド脱退は極めて残念である。
楽器プレイヤーの演奏力は日々の鍛錬で備わっていく要素が強いが、いいボーカリストはそれを超えて天性も必要となるため、藤本の存在は非常に大きかった。

彼女のラストステージだが、詳しくは本記事文末に記載しているので、早期に前売チケットを予約して、バンド在籍最後の歌唱を是非聴いて欲しい。
ここではそんな藤本の最後の独占ミニ・インタビューをお送りしたい。


●約4年間ペンフレンドクラブのメンバーとして在籍した中で、思い出深いエピソードをお聞かせ下さい。

藤本有華:“メンバーとして"ではないのですが、初めてリハに参加した日を今でも一番よく覚えています。ボーカルを引き受けるか検討中の中、北千住のスタジオで初めてリハに参加しました。
ライブを一度観に行ったことはあったものの、音合わせや話すのは初めてでしたので行くまでは緊張でした(笑)。
ですが、リハの後に近くのファミレスに行くと、みんなとても気さくに話しかけてくれて"楽しく活動していけそうだな"と、ほぼその時には引き受けようと決めていたと思います。
もし私がボーカルになったら…のペンクラの一年先位までの仮のスケジュールがどんどん出てきて、それを楽しそうに話すリーダーとメンバーの姿(いつもの姿)が印象的でした。


●これまでのライブ演奏を通して、ペンクラのマイ・ベストソングを選んで下さい。僕個人的には、フィフス・ディメンションの「Love's Lines, Angles and Rhymes」のカバーはどのライブ会場でも歌唱力と表現力が秀逸だと思っていました。

藤本:かなり考えましたが、、ライブでのベストソングは、お客様たちが"一番良いよね!"と思って下さっているものが私にとってもベストソングなのです。ですので自分では選べません!(笑)

代わりに思い出深い演奏と、一番歌えてよかった曲を挙げさせて頂きます。


一番思い出深いのは、ライブで初めて「微笑んで」を披露した時です。

それまでにソロで出演する他のライブでは何度か披露していたのですが、ペンフレンドクラブのライブで、メンバーの演奏で歌ったことはその日まで一度も無く、それが初めて出来た時はかなり胸いっぱいでした。

そして一番歌えて良かった曲は、「恋人たちのクリスマス」です!

元々大好きな曲で、歌のレッスン教室の発表会などで歌ったりもしていたほどです。まさかこの曲をカバーしてCD音源として残せて、ライブでも披露できて、お客様にとても喜んで頂けて、こんな日が来るとは夢にも思っていませんでした!2019年はほぼ通年で歌っていましたしね(笑)。クリスマスソングなのに沢山歌えて嬉しい限りでした!



【微笑んで】

●最後にペンフレンドクラブのファンの方々に一言お願いします。

藤本:ペンフレンドクラブのボーカルを引き受けてからもうすぐ4年になります。"毎年ボーカルが交代する"というジンクスを破るという目標をたてて活動を始め、めでたく達成し、その後の数年はあっという間に過ぎて行った様に感じます。
数えきれないほどのライブ、CD発売、各種イベント、遠征、どれも掛け替えの無い良い経験、思い出です。
ここまで続けて来られたのはメンバー、スタッフ、関係者の皆様、そして何よりお客様のお陰です。本当に有難うございました!
WebVANDA さんにも、節目節目でいつも取り上げて頂き、ソロ活動についても紹介して頂いて感謝しております。
残り2回のライブ(+α?)、最後まで精一杯頑張りたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします!



【ザ・ペンフレンドクラブ・ワンマン  
Add Some Music To Your Day Vol,24】
2020/2/22(土) 
吉祥寺スターパインズカフェ
Main Act : The Pen Friend Club
Opening Act : カンバス
開場/11:00 開演/12:00
前売¥3000+1drink / 当日¥3500+1drink 


(設問作成/文:ウチタカヒデ)