2018年6月19日火曜日

Graduation Day 〜 When I grow up

今月(6月20日)はBrianの誕生日だ。
同時に今月はアメリカでは卒業シーズンに当たり、毎年9月から新学期が始まるのが常となっている、そのためか、9月にちなんだ歌も多い。
ご多分に漏れずBrianも卒業式を迎えており日付は1960年6月16日、学生時代の終焉は同時に大きなキャリアの入口を意味し、卒業後同窓生のAlとの邂逅がThe Beach Boysの結成に繋がっていく。
BrianとAlが在籍していた高校はHawthorne High Schoolといい、愛称は近在が農業地帯であったことにちなむ-El Molino-”粉引き小屋”であった。
開校は1951年という新設校で、戦中からHawthorne地区周辺に米国空軍及び民間企業の研究開発が盛んになった背景があり、これを契機に雇用の拡大と労働者の流入が全国からあったために戦後人口増大で児童数が増えたことに起因する。同校出身者のミュージシャンは本誌おなじみChris Montez(Brianとは同窓生)に、こちらもおなじみEmitt Rhodesというソフトロック勢がいる。
AlとBrianの学生生活はどのようなものだったのか?それらは多くのインタビューで明らかだ、筆者の手元にある高校の卒業アルバムからも様々なことがうかがわれる。
 
 
The Beach Boysの伝記でよく語られる、Dennis以外はサーフィンをほとんど経験していない、だから彼らは音楽しか興味無い文系人間だった、というのは少々事実と異なるイメージ操作である。
事実AlとBrianに限れば、もちろんBrianは高校入学前より音楽に耽溺していたものの、二人ともスポーツを好み音楽を愛した文武両道であった。 Brianの音楽の成績はその後の活躍とは全く真逆の結果で、課題で提出した自身の曲に落第に等しいFの評価が与えられるほどであった。
画像の人物は音楽教師Frederick Morgan。
後にBrianの功績に応える形でHawthorne High SchoolによってFからAへ見直しがされることとなった。 
 
 
特にAlはフットボールが好きで学校のチームに参加すると頭角を現し代表チームにも選ばれている、Alの出場した試合には数十年後も名勝負と讃えられる試合もある。
 
  BrianもAlのフットボール仲間であったが実力差からか、トップチーム昇格までには至らず後に退団していた。その後もBrianは関心を音楽に向かいつつも野球や陸上チームに所属しスポーツを楽しんでいた。
 

  Alはフットボール仲間のうち、歌が好きな友人もいたので当時流行していたKingston Trioに触発されて友人とグループ結成を思い立った。
それに応じたのがBob BarrowとGary Winfreyだった。3人でThe Tikisと名乗りフォークソング主体の演奏を得意とした、レパートリーの中にはThe Beach BoysがカバーしたSloop John Bの原曲The Wreck Of John B.も含まれていた。またメンバーのGary Winfreyは卒業後Alとは交流が少なくなるが60年代後半再会後は2人で曲作りをしていた時期もあり、そのうち2曲Take A Load Off Your FeetとLooking At TomorrowはアルバムSurf’s Upに収録されている。
Brianも音楽活動をスポーツと並行して開始しており、主に学内の集会やイベントでKingston TrioやR&Bのカバーをグループで披露していた。メンバーは固定しておらず後年発見された音源からはMike Loveの関与も確認されていてR&BのローカルヒットDelroysのよるBermuda Shortsの歌唱が聴くことができる。
当時のメンバーはCarlやDennisの参加はまだなく、同級生などが多かったようである。他の校内イベントでは替え歌として当時のR&Bヒット曲The OlympicsによるHully Gullyを歌っている。 (Carlが出演を出し渋り引っ張り出すためにつけたグループ名がCarl & the Passionsと伝わっている) 
この曲はご存知の通り、のちにThe Beach Boys Partyでもカバーされている。その他に卒業アルバムにも写真が残されているグループがありThe Kingston Quartetと名乗り読んで字のごとくKingston Trioの曲をレパートリーとし学内のイベントのみ活動している。メンバーは上記のThe Tikisの一部とBrianのスポーツ仲間から構成されていて、すでにBrianが高音を受け持つ四声ハーモニーが確立されていた。
メンバーの抱えるエレキギターはCarlからの借り物KayのSwingmasterであった。Kayはエレキギターメーカーの草分けであったが、その当時は他のメーカーに押され購買層はプロよりは廉価なものを求めるファミリー層が多かったようである。このギターもCarlの誕生日に父Murryから贈られたものとのこと。
 
  学内イベントでは有名人のコンサートも開催され、当時人気だったFour Prepsの画像も残されている。彼等はBrianも憧れるFour Freshmenスタイルのモダンなハーモニーを加えたポップスを得意としておりオリジナル曲や在籍がCapitolということで当時のBrianに何がしかの影響を与えたと言って間違いないだろう。
  
  Four Freshmenのハーモニーの話になるので時間を2年前に戻させていただく、その当時のBrianの誕生日プレゼントはWollensak1500と言うテープレコーダーであった。
 
  このプレゼントによって兄弟、時には家族でFour Freshmenのハーモニーなどを録音することで更に研究が深まることとなった。
父Murryの作曲活動は継続していたが、1950年代中盤移行のリリースは途絶えていた、本業が海外メーカーとの付き合いも増え多忙だったこともあったが、息子Brianの才能の伸長に寄与する何がしかの援助を考え始めた形跡が伺える。
16歳の誕生日より更に数ヶ月さかのぼった頃、Murryへ旧知のHite Morganから連絡があった知人がレーベルを立ち上げるのでリリース予定のシングルのリードボーカルを募集しているとのことだった。
レーベルオーナーはArt Laboeという人物でCalifornia各地のラジオ局で人気DJとして活躍しており、同時にレーベル事業を企図していた。リリース第一弾の楽曲は既に決定し、作曲者はBruce Morgan、Hite Morganの息子であり曲名はChapel Of Love。(後年ヒットしたDixie Cupsの曲とは同名異曲)
曲調はコーラスを交えたR&Bタイプの曲でコーラスパートは周辺で活躍していたいくつかのコーラスグループから集められた。 一部はLos Angeles周辺で活躍するThe JaguarsというコーラスグループでR&Bかつポップス寄りの曲想を得意とし、メンバーも様々な人種が集まっていた。ローカルヒットではあるがスタンダード曲のカバーThe Way You Look Tonightは好評を博していた。(後年同曲はThe LettermenでナショナルヒットとなりリリースはCapitolでプロデューサーはThe Beach Boysも関わったNck Venet) 
彼等のリリースしたシングルの中でDon't Go Home(R-Dell 117 1960年)はSurfer Girlを思わせる曲想でユニークだ。 またその他のグループではThe CalvanesがありLos Angeles周辺で活躍し大手のDootoneからも作品をリリースするも新作の機会がなく不遇を囲っていた。 彼等がユニークなのはHi-LosやThe Four Freshmenに代表されるテンションコードを含むモダンハーモニーを得意としていた点である。新作の機会を求めてHite Morganとも接触が増え幾つかのデモを当時のMorgan家のリビング兼スタジオで録音しており、未発表ではあるがThe Four Freshmenスタイルの曲 Lavenderを録音していることが判明している。
The Beach Boysファンならお気づきと思われるが彼等のデビュー前音源に収録されているLavenderと同じ曲でBrianへ某かの影響を与えていると思われる。
  話を再びBrianに戻そう、オーディションは予定通り行われたものの、残念ながらBrianのボーカル採用は決定しなかった。後に他のボーカルを加えてThe Hitmakersの名前でOriginal Soundというレーベルからデビューとなるも、グループ名の様にヒット曲に結びつくナショナルチャートに入ることはなかった。アルトの伸びやかなボーカルと深いコーラスが一体となり豊かなハーモニーが感じられる作品である、Brianがもし歌っていたらどうなったか?と思いを馳せる一曲である。Art Laboe自身も後にBrianを採用しなかったことを後悔していたという。
Original Soundはその後いくつもリリースを続け、Sandy Nelson、Preston Epps、Music Machineなどによる多くのヒット曲が生まれた、DJ出身であったArt Laboeは当時珍しかった。 ライブ方式のDJの経験からヒット中の人気曲以外にも過去の曲もリクエスト需要が多いことに気がつき、ある日Oldies But Goodiesという言葉を思いついた、それをそのままタイトルにして、過去の様々な曲を集めたコンピレーションアルバムをリリースしロングセラーとなる。
なんとArt Laboeは存命で90歳を過ぎてもラジオDJを続けているそうだ。
 


 また、後にMorgan家の所有するDeckというレーベルからBobby Williams名でChapel Of Loveはリリースされている。Original Sound盤と同じバックトラックを使い回転数を変えて録音したようだ。
 
 
The HitmakersのメンバーVal Poliutoによれば、「Art Laboeのオーディションは事前のリハーサルがあり、The CalvanesやThe Jaguarsメンバーと共にBrianとMorgan家によく出入りして制作現場やコーラスワークを学びその後もBrianと交流があった」と回想している。が、それらを裏付ける事象の確認はされていない。
1962年2月8日に行われたSurfin' Safariを含む数曲のセッションシートにはリーダーはBrian、他にDennisの名前が記載されているが、何故かAlの名前は手書きで二重線が引かれ下の欄にはVal Poliutoの名前が記載されている。さらにThe Beach Boysの所属がMorgan家所有のDeck Recordとなっているのが確認できる。
  (text by-MaskedFlopper- / 編集:ウチタカヒデ)

2018年6月16日土曜日

フレスプ「あなたに会えたら」

















フレスプは、石上嵩大(いしがみ たかひろ)による宅録ソロ・ユニット「Friendly Spoon」を母体にして今年正式結成されたばかりのバンドである。
Friendly Spoonは13年に7インチ・アナログ盤『夢の風船旅行』を自主制作で発表後、翌年にはファースト・アルバム『フレスプのファースト・アルバム』(14年)をウルトラ・ヴァイヴよりリリースしている。その後石上は音楽活動から一時離れていたが、フレスプとしてその活動を再開させた。
バンド・メンバーには、石上がかつて在籍したポップス・バンド「マンタ・レイ・バレエ」の同僚で、スカートのサポート・ベーシストとしても知られる清水瑶志郎、また「ポートレイツ」のドラマーでその他アーティストのサポートも多い井上拓己が参加している。
そしてヴォーカルにはFriendly Spoonにも参加し、十代の頃から地下アイドルとして活動している、姫乃たまが加わってバンドに花を添えている。因みに姫乃の父親は80年代中期にデビューした「ASYLUM」という伝説のロックバンドのメンバーらしく、才能のDNAは確実に引き継がれているのだろう。

フレスプとして初音源となるのが、今年5月に自主制作で発表した3曲入りシングルで、音源はDLコード付きの「巾着」というユニークな形態でリリースされた。
先日某SNSを通じて石上よりコンタクトがあり、筆者に音源が送られてきたので聴いてみたという訳だ。
収録されているのは、「未来予測」、「あなたに会えたら」、「水たまり」の3曲で、リードトラックと思しき「未来予測」はトニー・マコウレイのソングライティングにも通じるソフトサイケ感が漂うポップスで悪くない。アコースティック・ギターのみをバックに歌う「水たまり」は、姫乃のコケティッシュさがファンを魅了するだろう。
 
   
 
そんな中、筆者が初めて耳にした瞬間から最も注目したが、「あなたに会えたら」である。
エバーグリーンと表するのは簡単であるが、シャッフルのリズムで進行する無垢なメロディに、牧歌的なオブリガートと対位法のモダンなリフが有機的に絡むサウンドに、少女性のある姫乃の歌声との相乗効果で、WebVANDA読者をはじめとするソフトロック・ファンが惹かれるのは間違いない。
過去筆者が高評価したroly poly rag bear(ローリーポリーラグベア)の「The Melody Goes On」(『ryan's favorite』収録 03年)を彷彿とさせる、懐かしくもあり、誰もが惹かれるサムシングな魅力が慈愛に満ちた歌詞の世界にも投影しているのだ。

興味をもあったソフトロック・ファンは、石上が主宰するレーベル「フレンドリー工房」のサイトか、ライブ会場の物販で手にして欲しい。
フレンドリー工房・直売所 http://friendlykobo.theshop.jp/items/11550641 

 (ウチタカヒデ)

 

2018年6月3日日曜日

佐野邦彦氏との回想録14・鈴木英之



2001年末に『林哲司全仕事』の作業が終了後、「28」への掲載内容について佐野さんへ連絡することになっていた。そこでポップスを聴きはじめた頃からのファンだった「Bread」と「America」を挙げた。この2グループは日本でも根強い人気がありながら、これまできっちりとまとめられた特集が組まれたことがなかった。彼も「リアルタイマーの視点で是非やるべき」と言ってくれたので、自分の体験をベースにとことん追求してみることにした。




そんなやる気満々で取り掛かろうとしていた折、松生さんから連絡が入った。内容は作詞家・精神科医の北山修さん監修で『POP HEALING MUSIC~ポップスでリラクゼーション』をまとめているので、そこに掲載する<ディスク・コレクション>を頼まれた。それは佐野さんにも入っていたので、お互いの得意分野を優先してダブらないように各自2030枚程度まとめた。その後、この本が発売された20021月に、京都で北山さん主催する「言葉の力」コンサートがあり、松生さんと音友の木村さんがかけつけている。その当日、私はそのコンサートの打ち上げに呼び出され、京都まで出向いた。会場には北山さんはじめ、杉田次郎さんなど当日の出演者も参加されていた。私は単なる飛び入りだったので隅でおとなしくしていたが、主賓の北山さんの配慮でとても楽しい場を共有させていただいた。

  こんな寄り道をしてしまったので、佐野さんから指定された2月の締め切りは厳しくなってしまった。慌てて佐野さんに連絡をとると、今回の事情を理解してくれ、「6月発売なので、3月いっぱいにはお願いします」ということになった。ただ、K君が希望していた「Edger Winter」は私経由となるので、「2月中に」とくぎを刺されてしまった。とはいえ、このコラムはEdgar大ファンであるK君が傑作ソロ『Jasmin Nightdreams(ジャスミンの香り)』を力説したいというものだったので、こちらが請求する前に、即原稿を送ってくれた。

 このように心配事がすんなり片付き、まずBreadに取り掛かった。一般にはDavid Gatesをメインに語られており、軽視されがちなGemes Griffinも対等に扱い、加えて優れたプレーヤーであるMike BottsLarry Knecktelにもきっちりとスポットを当てられるよう資料集めに奔走した。ただ絶対に書きたかったのは、あまり知られていない、サード『Manna(神の糧)』の初回観音開きジャケ(CD化でも紙ジャケは未発売)の紹介だった。

またElectraレーベルのEPは「幼虫」LPは「アゲハ蝶」がプリントされていた仕様にも触れておきたかった。ちなみにこの仕様はいつごろからスタートしたかは定かでないが、1970年頃からは採用されていたようだった。ただ日本では当時の発売元Victor時代は(1972年まで)、「ギターおじさん」のブルー・レーベルで、配給元がPionnerに移動した1973年以降米国にあわせて採用となっている。




そして、彼らのセカンド・ヒット「It’s Don’t Matter To Me」はVictorでの邦題は「関係ないね」だったが、Pionnerに移って「気にしないで」にチェンジしている。まともに研究をされている方からすればどうでもいい話題かもしれないが、このこだわりが自分らしいという想いで一気にまとめた。この「新発見」については佐野さんも「その観察力は鈴木さんらしいね」と評してくれた。

ところでこのコラムを発表後、VANDA読者のとあるブレッド・ファンがH.P.を開設(注1)されている。ある時に彼から「鈴木さんの記事を読んで、立ち上げを決意した」と伺い、やって良かったと実感した。そして彼とはしばらく交流を持ち、1996年に発売されたコンプリート・ベスト『Retrospective』は極東を含むワールド・ツアーにあわせたものだと聞いた。ちなみにこのツアーには日本公演の予定があったらしいが見送りとなり、公演のあった台湾まで遠征したファンもいたという事だった。

その後、200610月に私が近隣のコミュニティFMBread特集(80分前後)組んだ際に、ファン代表として電話インタビューに登場していただいた。補足ながら、番組での彼からのリクエストは「Don’t Tell Me No」(『The Guiter Man』収録)だった。なおこのプログラムは企画・構成・音源調達・DJまで全て私一人で担当したもので、限られたエリアでしか受信できなかった。にもかかわらず、聴取者から大きな反響をよび、放送したFM局自体が評判となったと聞き、誇らしい気分を味わった。
そしてAmericaに移るが、彼等は日本でレコード発売前からその存在を知っており、また「Musrat Love」などではBreadにも通じる雰囲気があり今回まとめるのがベストだと思っていた。また全盛期の1976年武道館公演、それにDan Peek脱退後二人組となった1994年の再来日の大阪公演も見ているので、その軌跡をまとめながら感慨深いものが込み上げてきた。なお1976年の公演ではGerry Beckleyが観客席にOvationのギターを投げ込んでいる。私はその奪い合いになっていたギターの至近距離にいたので、ずっと残念な思いでいたが、今回終演後スタッフが回収に来たという話を聞き、興醒めしてしまった。

 さらに1980年中ごろから新作が途絶えた時期の話題では、Janet Jacksonが彼らのお気に入りであることを強調しておきたかった。それは「Someone To Call My Lover」(注2)は「Ventura Highway」をサンプリングしていることは有名だが、「Let's Wait Awhile(急がせないで)」(注3)も「Daisy Jane」によく似たフレーズが使用されている事実からも伺える。またこのコラムをまとめるにあたり、当時しっかり聴けていなかったDan Peekのソロも、K君を通じその音源が入手出来、自分ながら満足いく仕上りになった気がする。

 ちなみにこのAmericaBread同様、コミュニティFM20072月に特集番組を放送している。勿論このプログラムもVANDAに掲載した内容をベースに企画したもので、この特集ではJanet Jacksonとの関連に興味を持たれた方が多かった。




このような経過を経て「28」に寄稿するコラムは、約束の期日を半月ほど経過した414日にやっと完成にこぎつけた。何故、遅延常習犯の私が、鬼のような催促請求を逃れたかといえば、この時期の佐野さんは、Radio VANDA初の公開録音ひかえBrandin(注4)での収録作業準備で、余裕がなかったからだった。ちなみにこの収録は、ゲストに浅田洋さん、濱田高志を迎えた1回を2002310日、ゲストに佐々木雄三さん、宮治淳一を迎えた2回が2002419日に放送されている。
次回は、「29」発行までの経緯と、佐野さんが数年に渡ってすすめていた企画「Soft Rock A To Z」の大改訂版(仮題は「Soft Rock A To Z 2002」)、それに最終的に棚上げとなってしまった「リスナーのための音楽用語辞典」のやりとりなど、曲折の日々について紹介する予定だ

(注1)福岡在住のN氏による、H.P.Sound Of Bread”。
(注22001年の第8作『All For You』収録曲。アルバムから2枚目(通算44作)のシングルで全米3位、R&B.15位。全英でも11位を記録。
(注31996年のサード『Control』収録曲。アルバムから5枚目(通算15作)のシングルで全米2位、R&B.1位。全英でも2位を記録。
(注4)茅ヶ崎辻堂にあるGood Musicを楽しむ音楽カフェ。オーナーはVANDAでもお馴染みの宮治淳一氏。

2018年5月30日水曜日

追悼 西城秀樹



去る2018516日に1970年代一世を風靡したビッグ・スター西城秀樹さん(以下、ヒデキ)が急性心不全で亡くなった。その報道は「NHKニュース」や「報道ステーション」でもトップ扱いで、また号外が発行されるなど、ビッグ・ニュースとして日本中を駆け巡り、あらためて彼の存在の大きさが立証されている。なお彼は私と同年齢の63歳だった。



 実は私がこのWeb.VANDAへの投稿要請を受けたのには少なからず彼と縁がある。というのも、VANDA30に寄稿した70年代アイドルのライヴ>はヒデキさんのパフォーマンスに触発されてまとめたものだ。それは彼が75年のツアーで歌うMy Eyes Adored You(邦題:瞳の面影)」に衝撃を受けたことがきっかけだった。この曲を取り上げた彼の選曲センスに興味を持ち、生前の佐野さんに話したところ、「鈴木さんしかできないテーマだから、絶対にやってみるべき!」と興味を持ってくれたので、勢い任せで始めたコラムだった


現在Web.VANDAでは「佐野邦彦氏との回想録」を投稿しているが、これを済ませた後にはこのコラム完全なものに再構築してまとめる準備をしています。そこで今回はその予告とヒデキさんの追悼を兼ねて、彼が残したライヴ・アルバムを簡単に振り返ってみたいと思います。

ちなみに彼は1972年<恋する季節>でデビューし、同年に『ワイルドな17歳』でアルバム・デビュー、そして翌年には初ライヴ・アルバム『西城秀樹オン・ステージ』を発表している。以後、1985年までほぼ毎年(1982年除く)トータル15作のライヴ・アルバムをリリースしている。このコラムはその中で、1970年代にリリースした(ミュージカル除)10作について検証をしている。


今回はこの10作の中で、長年愛聴している1975『ヒデキ・オン・ツアー』、1978年『バレンタインコンサート・スペシャル/西條秀樹愛を歌う』、1979BIG GAME’79 HIDEKI』の3作を紹介する。なお曲の後の()内はオリジナル・タイトルと、オリジナル(とカヴァー)・アーティストと発表年になっている。


『ヒデキ・オン・ツアー』(1975.9.25.) <JRX-8017-18
①オープニング、②ブロー・アップ・マン、③愛を求めて、④恋の暴走、⑤Get Dancing(ディスコ・テック&セックス・オー・レターズ1974)、⑥瞳の面影(My Eyes Adored You)(フランキー・ヴァリ:1976)⑦港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド:1975)、⑧激しい恋⑨ケニーのバンプ(The Bump)(ケニー:1975)、⑩青春に賭けよう、⑪情熱の嵐、⑫ダイアナ(ポール・アンカ:1959)、⑬Blue Suede Shoes(カール・パーキンス:1961)、⑭朝日のあたる家(The House of The Rising Sun)(ボブ・ディラン:1962/アニマルズ:1965/フリジド・ピンク:1971/ジョーディー:1973)、⑮S.O.S.(エアロスミス:1974)、⑯Heartbreaker(グランド・ファンク・レイルロード:1971)、⑰この愛のときめき、⑱傷だらけのローラ(フランス語)、⑲この愛の終るとき(Comme Si Je Devais Mourir Demain)(ジョニー・アリディ:1972)、⑳明日への愛〜グッド・バイ・ガールズ

1975年に敢行されたヒデキ初の全国縦断コンサートを収録。演奏はふじ丸バンド(後のShogun)とザ・ダーツ、編曲は惣領泰則が担当している。
ハイライトは、吉野藤丸とのデュエットで歌い上げる②だ。個人的見解だがこの曲は⑤とソングライターが共通(注1)というところからのチョイスかもしれない。
さらにファンをステージに上げダンス大会⑨、続くヒデキのライヴ定番⑩(注2)
ではそのステージ上のファンと会場内の大合唱で一体感が伝わってくる。そしてジョーディーに触発されたとおぼしき⑮、ほとばしるエネルギーが発散するエアロスミスの初期ナンバー⑮のチョイスはいかにも彼らしい。
ちなみにこのライヴは『BLOW UP! HIDEKI~ヒデキ・オン・ツアー』としてテレビ放映され、後にビデオも発売されている。


『バレンタインコンサート・スペシャル/西條秀樹愛を歌う』(1978.6.25.<RVL-2053-4>
①オーバーチュア、②マイ・ファニー・バレンタイン(1937/ジュディー・ガーランド:1939/フランク・シナトラ:1945/チェット・ベイカー:1954)、③夜のストレンジャー(フランク・シナトラ:1966/ベット・ミドラー:1973)、④カタログ、⑤ロマンス(ナレーション)、⑥ラストシーン、⑦この愛のときめき⑧ナタリー(Umberto Balsamo1975)、⑨愛は限りなく(Dio Come Ti Amo)(ドメニコ・モドゥーニョとジリオラ・チンクエッティ;1965⑩ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン(ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス:1967/ヴァニラ・ファッジ:1968)、⑪心のラヴ・ソング(Silly Love Song)(ポール・マッカートニー&ザ・ウィングス:1976)、⑫ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema(アダモ:1969) ⑬ブーツをぬいで朝食を、⑭青春に賭けよう、⑮君よ抱かれて熱くなれ、⑯傷だらけのローラ、⑰セイル・アウェイ(ランディ・ニューマン:1971)、⑱若き獅子たち、⑲お休み(井上陽水:1973

1978214日「新日本フィルハーモニー」初共演の日比谷公会堂でのライヴ。夏の野外コンサートから一転し、オーケストラをバックに渋めのレパートリーで固められているところに注目したい。
それを象徴するのがシナトラのスタンダードをべッド・ミドラ風(注3)にアレンジした③、フルオーケストラでよりに洗練されたナンバーに仕上げている。またシュープリームスのテイクをベースにした⑩は、もしこの年にロッド・スチュワートが発表する新作(注4)収録のカヴァーを聴いていたとしたら、彼がどのように仕上げたのか気になるところだ。また⑰のような渋いチョイスにも好感が持てる。
こんな贅沢なライヴの中でファンとの一体感を強く感じさせてくれるのは、やはりファンの大合唱が始まる⑭だろう。補足ながら、この曲は後にアカペラでも録音されるヒデキのお気に入りで、彼のライヴには欠く事の出来ないナンバーだ。


BIG GAME’79 HIDEKI』(1979.10.9.)<RVL-2077-8
①オープニング、②ウィー・ウィル・ロック・ユー(クイーン:1976)、③ラヴィング・ユー・ベイビー(I Was Made for Lovin' You)(キッス:1978)、④オネスティ(ビリー・ジョエル:1976)、⑤ホット・スタッフ(ドナ・サマー:1978)、⑥いとしのエリー(サザンオールスターズ:1978)、⑦ブルースカイブルー、⑧ドント・ストップ・ミー・ナウ(クイーン:1976)、⑨エピタフ(キング・クリムゾン:1971)、⑩シェイク・ユア・ハンド(I Wanna Shake Your Hand)(ヴィレッジ・ピープル:1979)、⑪ゴー・ウエスト(ヴィレッジ・ピープル:1978)、⑫愛する君に(I'll Supply The Love)(トト:1979)、⑬勇気があれば、⑭ホップ・ステップ・ジャンプ、⑮この愛の終る時(Comme si je devais mourir demain)(ジョニー・アルディ:1972)、⑯ヤングマン(Y.M.C.A.)、⑰セイリング

⑯が空前の大ヒット直後1979824日に開催された後楽園球場コンサート。当日は1971年に開催された暴風雨のGFRコンサート再現のような悪天候で、収録不能でスタジオ録音と差し替え(⑦⑬)もあるほどだった。
ここではヴィレッジ・ピープルの曲が3曲もチョイスされ、⑪は人形劇「飛べ!孫悟空」(注5)の挿入歌でなければ、シングルにしても良いほどの出来ばえだ。ディスコ・ヒット③⑤はありがちな選曲だが、最新曲⑫のチョイスは流行に敏感な彼らしい選曲だ。
さらにここでの最大の聴きどころは雷鳴が効果的なSEとなって響き渡る中で歌うプログレの名曲⑨(注6)。そこにはヒデキらしい情念に満ちた幻想的な世界が感じられる。


 以後1985年までコンスタントに充実したライヴ・アルバムを発表しているが残念ながら、その膨大なリリース数のゆえ、コンプリートのCD化が遅れている。なおこの中で完璧な形でCD化されているのは、BIG GAME’79 HIDEKI』(1990RCA CD名盤選書/BVCK-380245>)のみで、その他には1999年に発売された6枚組 CDボックスとして、デビューから1985年までにリリースされたライヴ・アルバムのセレクション集があるにすぎない。
 今回の逝去により、ヒデキ関連のアイテムにオーダーが舞い込んでいるようだが、ライヴ・アルバムについては相変わらず置き去りにされたままだ。近年は野口五郎、岩崎宏美や桜田淳子など1970年代アイドルのライヴ・アルバムがオリジナルな形での復刻が進んでいる。この機会にヒデキのリアルな姿を体感できるライヴ・アルバムのコンプリートな形での復刻を願って止まない。

(注1)フォーシーズンズのプロデューサー、ボブ・クリューと1977年の全米1位「I Like Dreamin’」のヒットを持つケニー・ノーラン作。
(注2)例えるなら、沢田研二「気になるお前」、山下達郎「Let's Dance Baby」、角松敏生「Take Me To The Sky High」、Perfume「ジェニーはご機嫌ななめ」的なナンバー
(注31976年にベット・ドラーがサード・アルバム『ベット・ミドラー3Songs for the New Depression)』に収録したディスコ・ヴァージョン。
(注4)1978年のソロ第8作『明日へのキック・オフ(Foot Loose And Fancy Free)』。
(注5)197779年に放送されたテレビ人形劇。声優はザ・ドリフターズで、主題歌「スーパーモンキー孫悟空」はピンク・レディーが歌っていた。
(注6)Radio VANDA第117回(2010.1.7.)「洋楽カヴァー特集」にてオンエア。
201853016

2018年5月20日日曜日

桶田知道:『秉燭譚』(考槃堂商店/ KHDR-001)






















昨年5月に『丁酉目録』をリリースし、その後ソロ・アーティストに転じた桶田知道が、1年というインターバルでセカンド・アルバム『秉燭譚(ヘイショクタン)』を5月23日にリリースする。
 最早元ウワノソラという経歴は要らないかも知れないが、彼のサウンド・スタイルは多くの著名人をも虜にしている。最近約7年ぶりにニュー・アルバムをリリースしたTHE BEATNIKSで高橋幸宏氏とタッグを組む鈴木慶一氏(ムーンライダーズのリーダーとしても知られる)や、筆者と交流がある漫画家でイラストレーターとしても高名な江口寿史氏など音に拘りを持つクリエイターからも評価が高いのだ。
また昨年ソロ・アーティストとして独り立ちしたのを機に、自ら立ち上げたレーベル、“考槃堂商店”からの第一弾リリースという記念碑的作品となるので彼自身も感慨深いだろう。

   
  アルバムに先行して3月23日にはリード・トラックの「トラッカーズ・ハイ」のMVを公開し、mp3音源を無料配信して多くの音楽通を唸らせ、期待は高まるばかりだった。
前作『丁酉目録』より明らかに進化したサウンドの緻密さと詩情溢れる歌詞の世界観の融合は、やはり唯一無二の存在であることは間違いない。
また本作での新たな特徴としては、ソングライティングのパートナーとして桶田の友人である岩本孝太が加わったことだろう。彼は全10曲中8曲で作詞を手掛けているが、これが作詞家デビューとは思えない言葉のセレクトを持ち、スクリプト・ドクターとして本作には欠かせない存在となっている。
 
     
では本作の主な曲を紹介していこう。 
冒頭の「凄日(せいじつ)」は、木琴系シンセのミニマルなフレーズとフレットレス・ベースのラインが印象的なやや早いテンポの曲である。桶田自身の作詞で、古風な言葉選びがモザイクのように配置され前作『丁酉目録』からの世界観を踏襲している。
続く先行発表されたリード・トラックの「トラッカーズ・ハイ」は、循環コード・テクノの傑作として聴けば聴き込むほど耳に残る曲調とサウンドである。この曲に限らずだが、彼をはじめウワノソラの角谷やLampの染谷と永井など筋金入りの音楽通が作る曲は、リード・ヴォーカルの主旋律に対する間奏部の旋律、またオブリガートが非常に巧みに構築されていて、聴き終えた後のサブリミナル効果が高く、リピートさせる中毒性がある。
ともあれ江口寿史氏も絶賛したこの曲は本作を代表する1曲といえよう。

本作中筆者が最も好むのは、次の「逢いの唄」である。
4月初頭に本作のラフミックスが送られてきて、イントロもなくいきなり始まるこの曲の持つポテンシャルの高さに一聴して惚れ込んでしまったのだ。
岩本が描く刹那的青春のロマンティシズムな歌詞と、ハッシュ系ミッド・テンポのリズム・トラックのグルーヴが渾然一体となった美しさがここにある。
本当に多くを語りたくないが、今年のベストソングの第一候補と称すれば分かってもらえるだろう。

本作中盤となるインストの「篝」から「コッペリア」の流れは、ポップスの範疇では収まらないプログレッシブ・ロック的展開が非常に面白い。アナログ系シンセのフレーズが印象的なスローなミニマル・リズムを持つ前者から一転、緊張感のあるストリングス系シンセの刻みと鮮烈な変拍子が特徴的な後者のドラマティックな構成には脱帽する。
この曲では岩本によるレトロなSFテイストの歌詞がジブリ・アニメにも通じる。この感覚は「高原のフラウ」にも言えるが、歌詞そのものが映画のスクリプト的広がりを持っているのだ。
 
   
終盤の「船は漕いでゆけ」は2ビートの軽快な曲調に、ティンパニーの響きやバンジョーのフレーズがプリティーで牧歌的なサウンドになっていて、XTCの『The Big Express』(84年)にも通じる英国感が楽しい。
そしてラストの「砂の城と薊の花」は8分を超える大作バラードで、ほぼオーケストレーションとスネア・ロールのみをバックに歌われる。
映画的視覚を持つ歌詞とサウンドを誇る本作のエンドロールに相応しい感動的な曲と言えよう。  

なお本作は自主製作盤というスタイルのため扱う店舗も限られるが、桶田が主宰する“考槃堂商店”のオンラインストアでは予約を始めており、早い購入者には既に発送されているという。
筆者のレビューを読んで興味をもった音楽ファンは、是非入手して聴いて欲しい。

【考槃堂商店】特設ページ:https://www.kouhando.com/heisyokutan

 

(ウチタカヒデ)

2018年5月16日水曜日

佐野邦彦氏との回想録13・鈴木英之


この回想録も「VANDA27」まで進み、今回紹介する「28」の製作期間となった2001年の中ごろから2002年の春頃になるのだが、この頃佐野さんは本誌以外の課外授業がさらに加速していた。そんな佐野さんの主たるスケジュールは、月1回のRadio VANDA、そしてWebVANDAへの日々情報発信に勤しんでいた。
まずRadio VANDA、ここでは彼にしかできない“佐野ワールド”が全開だった。例えば第21回のPat Upton(注1)特集など、「世界広しといえどここでしか聴けないプログラム!」と独自の視点のプログラムが組まれていた。さらに、VANDAスタート以前から探求している富田勲関連のアニメ・サウンド・トラックの特集も第15回に放送しているが、さらに本誌「28」に連動した特集も第23回で放送している。

またWeb.には続々リイシューされるCDや、1960年代の貴重DVDを入手しては、投稿を続けていた。その活動状況はサラリーマンの片手間で出来る範囲を逸脱しており、その多忙ぶりに、VANDA28の入稿を終えたのちに体調を崩して寝込んだと聞いた。
とはいえ彼のもう一つのLife Workとしていた沖縄離島への家族旅行(1999年より開始)もきっちりとこなしている。この2001年は6/2225にかけて34日で敢行した八重山諸島旅行記は「28」に6Pに渡って詳細に記されている。私自身もスキューバーダイビングのライセンスを取得した直後は、沖縄離島(慶良間諸島にある会社所有保養施設)に通っており、離島には馴染みがあったので、興味深く読ませてもらった。
そんな私にも音友の木村さんから「先日対談した林先生からオファーがありました。」という課外授業のメールが届いた。内容は彼の音楽作家生活30周年を記念したHistory本の制作依頼で、コピレーションCD(注2)と連動した企画と伺った。個人的に同郷出身(注3.)で、また清水エスパルスのファン(注4.)という話題で、より親近感を持ったので舞い上がるような気分だった。余談ながら、前回のインタビュー直前に林さんが音楽を手掛けたテーマ・パークのひとつ「レオマワールド」(注5)に、事前調査と家族旅行を兼ねて出向いている。そのインタビューではほとんどふれることはなかったが、こんな形で役に立つとは思わなかった。

2001年の春に初の打ち合わせで上京することになったが、彼の書下ろし曲が(その時点で)1,500曲はあるという話を聞き、打ち合わせまでにそのリストをまとめねばとあせっていた。そこで金沢工業大学PMCスタッフに協力いただき、書庫に籠って、所蔵レコードをチェックさせてもらった。とはいえ限られた時間ゆえ、500曲程度しか調査出来ず、不安交じりで打ち合わせに臨んだ。
当日、開口一番「リストが完璧になっていない」ことを告げると、「大丈夫、私の方にありますから」と本人の持参リストが渡された。そこにまとめられていたのは200曲程で、私のリストを見た林さんは大変驚かれ、その場で「全権依頼」の信頼を得た。そんな流れで当日の打ち合わせはすんなりと進んだ。なおここに佐野さん不参加だったので、その日のことを連絡すると、「鈴木さんらしいね!」と笑っていた。
その日から年末に向けて『林哲司全仕事』の制作がスタートした。項目については「History」「Works」「Disc Selection」以外に、三島にある林さんのスタジオ訪問と、著名人とのインタビューのラインナップも(ここのみ敬称略)萩田光雄、竹内まりや、杉山清貴、新川博、朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一の7名がリスト・アップされた。すべてを一人でこなすのは厳しいと判断し、割り振りを決めた。まずスタジオ訪問は、ミュージシャンでオメガトライブのフリークでもある後輩K君と共同作業、彼には杉山さんのインタビューも依頼。また「まりやさんをどうしてもやりたい!」と手を挙げた松生さん、以外の5名を私が担当することにした。
この日から製作開始となったが、まず手を付けたのが、彼が手掛けた映画やテレビ・ドラマのサントラのチェックだった。幸いにもほぼ既発ビデオがほぼ揃ったので、しばらく映画鑑賞の日々が続いた。またインタビュー取材用資料として萩田光雄さん、新川博さんに関する編曲ワークス・リストつくりにも精を出した。
そして、いよいよ木村さん同行でインタビューを開始した。トップは林さんのYAMAHA時代の先輩であり、1970年代の日本の音楽シーンには欠く事の出来なかった重鎮で私の高校時代からの憧れ、作・編曲家萩田光雄さんになった。場所は品川プリンス・ホテルで、当日は林さんに関わったリストに加え、これまで手掛けた編曲リスト300曲程の作品を作成して臨んだ。対面時、そのリストに目を通された萩田さんはその内容に感心され、和んだ雰囲気の取材となった。林さんについては、「天国に一番近い島/原田知世」と「入れ江にて/郷ひろみ」(注6)にポイントをしぼっていた。それは大ヒットだけでなく、アルバム収録曲での印象が絶対必要と感じていたからだ。その回答をすんなりお話された萩田さんには「さすが!」と感嘆するばかりだった。その流れで、林さん関連以外の音楽談話にもお付き合いいただくことができた。そんな流れで初取材は充実度200%といえるほどだった。帰り際に萩田さんから「このリスト頂いていい?」との申し出に、私は「どうぞ、どうぞ」と即座にお渡しした。

幸先の良いスタートで、続いてはユーミンのバックなどで著名なキーボード・プレーヤで2000年には自身のレーベルを設立していた新川博さんとなった。場所は彼のスタジオで、ここにも本人のワークス200曲程度のリストを持参し、同行を希望したK君にも帯同してもらった。この取材も、リスト制作が功を奏し本論以外に大変興味深い裏話なども飛び出し、こちらも順調に終了した。その帰りには、新川さんの新作CDをお土産に頂き、「今回のリストをH.P.に使用したい」との要請を受け、帰宅後データ送信した。

この重鎮おふたりに続いては、林さんの存在無しには語れない杉山清貴さんとなった。当時は古巣Vapレコードに復帰(注7)で多忙中ながら、林さんのためにと快く協力していただいた。当初はK君単独予定だったが、原稿起こしのため私も同行した。取材はVap本社で、K君の満足げな表情に象徴されるように順調に進んだ。終了後、今回の本でも新作の告知協力する運びとなった。なお、このインタビューをきっかけに杉山さんは林さんに新曲のオファーを入れ、翌年リリースしている。またこの時期には『杉山清貴&オメガトライブBox/Ever Lasting Summer』を制作中で、その後この取材をきっかけにK君は『1986&カルロス・トシキ&オメガトライブBox/Our Graduation』のオファーを受けた。
このようにインタビューは順調に進行していったが、竹内まりやさんは新作(注8)キャンペーンで大忙しの中、体調を崩されてダウンされ、しばらく保留となってしまった。そんな訳で、他の対談相手(朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一)は予定が決められず、「電話インタビュー」に切り替え、音友の応接室に出向いた。
まずは朝妻一郎さん(注9)からスタート。ここでは私がFM雑誌で彼の存在を知ったまだ無名時代を中心に伺った。電話ながら、デビュー当時の興味深い情報を聞きだし、実りの多い取材となった。そして、映画プロデューサーの奥山和由さん。こちらは林さんが担当した映画のサントラ(注10)の話題に終始した。そこでは現在進行中の作品の話まで広がり、林さんの最新作(注11)の話にふれると、「その音源を是非聴きたい!」とかなり本気モードに及んだ。終了後即この話を林さんにお伝えすると、彼は感激してサントラCDを送付している。最後に音楽プロデューサー藤田浩一さん(注12)、彼には作曲家林さんと黄金コンビで大活躍したVap時代の活動を聞かせていただいた

このようにインタビューはほぼ完了し、次は林さんのスタジオ(三島の自宅併設)取材を敢行することになった。ここには、私とK君に木村さんの三人で23日のスケジュールで現場に出向いた。そこに向かう途中でK君と「林さんはどんな車乗っているんだろうね?」という話題になり「もしかして「真っ赤なロードスター」?」(注13)と身内ネタで盛り上がっていた。ここでの3日間は林さんに「音楽の監査官に家宅捜査を受けているみたいだ!」とコメントされるほど、徹底した取材に徹した。

その後、体調が回復したまりやさんとの予定が決定した。ただ、肝心の松生さんが学会の都合でキャンセルとなり、急遽私が呼び出された。しかし、その前日は台風の襲来で新幹線も空路も運休、唯一の交通手段となった各駅停車に飛び乗り、10時間以上かけてやっとの思いで上京。当日の会場は所属ワーナーの応接室で私と林さんそれにご本人の三者対談となった。会場に「こんにちは。」と現れた彼女はまだ咳き込んでおり回復途中のように写った。そこでは私がまとめたかなりコアな質問集で進行したが、気持ちよく懇切丁寧に対応いただけた。余談ながら、この取材で私はまりやさんから風邪をプレゼントしていただいたようで、帰宅後高熱で寝込んでしまった。この事を佐野さんに伝えると「それが一番の収穫でしたね!」、知人たちからは「せっかくならもう少し温存して寝込んでいたら良かったのに、もったいない!」といじられる始末だった。

このように春から秋まで、仕事以外のすべての時間を使い全精力を費やした『林哲司全仕事』は、年末の発売に間に合わせることが出来た。この作業の最終チェック終了後、私は過労が原因でダウンしてしまった。この時は激痛で身動きできないほどで、病院で診察を受けた。医師からは、「ヘルペス(帯状疱疹)ですね。薬出しておきましょう。」と言われ、窓口で受け取った薬の値段(保険提示で)「1万円」には仰天した。ただ、服用後漫画のように完治して「スゲー薬!」と感動した。
なおこの発売告知として、発売日1210日「読売新聞(関東版)」第1面に広告掲載。発売の週末には、林さんの新ユニットGRUNIONのインストア・イヴェント(新宿タワレコ)を実施するなど賑々しくプロモーション活動が行われていった。また佐野さんにお願いしてRadio VANDAでも、第20回の第二特集で私の収録したテープ音源を放送した。ちなみにこの本はVANDA名義で出版しているが佐野さんは直接参加していない。とはいえ発売後多くの読者から賞賛のコメントを頂き、胸をなでおろした。このように2001年はめまぐるしく過ぎていった。

このプロモーションが終了すると、「28」に掲載するコラムに取り掛かっている。ただ、課外事業の紹介がだいぶ長くなってしまったので、2002年々初から春にかけてのやりとりは次回にまわすことにさせていただく。

(注11969年全米12位のヒット「More Today Than Yesterday」を持つThe Spiral Staircaseのリード・ヴォーカリスト兼ソング・ライター。
(注2)『林哲司ソングブック~Hit&Rare Track~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~ナイン・ストーリーズ~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~タイム・フライズ~』『林哲司サウンドトラックス~Movie&TV Tracks~』の4作品。
(注3)出身は富士市、鈴木は清水市(現:静岡市清水区)。

(注41999124J1チャンピオン・シップ第2戦(清水vs磐田)を日本平スタジアムで観戦。林さんは「清水エスパルス」の公式応援歌「王者の旗」の作曲者。

(注5香川県丸亀市に1991開業したテーマ・パーク。私は無期限休園(20009月)に入る直前に来園。なお、この施設は2004年に「ニューレオマワールド」として再開。

(注6「天国に~」は林さんの初1位獲得曲。「入り江にて」は1979年『SUPER DRIVE』(24丁目バンド参加の「マイ・レディー」別ヴァージョン収録)への提供曲。

(注71983年オメガトライブでのデビューからソロとなった1990年までVap、その後Warnerに移籍。20017月にVapへ復帰し(第17作)『ZAMPA』を発表。

(注820018月発表の第9作(復帰4作)『Bon Appetit !』。

(注9フジパシフィック音楽出版社長(当時;現代表取締役会長)。Jigsawへ林哲司作の「If I Have To Go Away」を売込。この曲は全米93位、全英36位のヒットを記録。

(注10)『ハチ公物語』(1987年松竹富士)、『遠き落日』(1992年松竹)、『大統領のクリスマスツリー』(1996年松竹)など。特に1996年作の音楽を絶賛されている。

(注112000年フジ系で放送された今井美樹主演のテレビ・ドラマ『ブランド』。

(注12GSアウトキャスト~The Loveのメンバー。1975年「トライアングル・プロダクション」を設立し、プロデューサーとして、角松敏生、杉山清貴&オメガトライブ、菊地桃子を輩出。20091011日没。

(注13Tinker Bell/松田聖子』(1984年第9作)への提供曲。

20185152000