では収録曲を解説しよう。タイトル曲の「菜の花」は、北川自身による複数のアコースティック・ギターのカッティングが有機的に絡むファースト・テンポのカントリー・ポップで、流線形にも参加する山之内俊夫のエレキギターのフレーズが随所にちりばめられている。そしてこの曲のパンチラインは2ndフックの「♪伝えきれない想いを 歌に乗せ届け 君のもとへ」にある。この甘美なメロディのたたみ掛けは、ニック・デカロもカバーしたスティーヴィ-・ワンダーの「Happier Than The Morning Sun」(『Music Of My Mind』収録・72年)のそれを彷彿とさせる多幸感を生んでいる。またユーミン(荒井由実時代)の「やさしさに包まれたなら」(『MISSLIM』収録・74年)が好きなシティポップ・ファンは是非聴くべきだろう。 『ティー・フォー・スリー』で「カナールの窓辺」を提供した長谷作の「ハッピーエンドをちょうだい」は、彼が主宰するユメトコスメの「嘘だよ、過去形じゃなくて...!」(14年)に通じるチェンバロの刻みにヴォブラフォンとピチカットのオブリが印象的なソフトロックだ。目眩く縦横無尽な動きをするストリングスのマジックは長谷の得意とするところだが、この曲でも遺憾なく発揮されている。 筆者は彼がストリングス・アレンジを手掛けたNegiccoの「おやすみ(アルバムVer)」(『ティー・フォー・スリー』収録)がいたく好きであり、こっそり16年のベストソングの1曲に挙げた程だった。
これらの詳細は別稿を参照されたい、再び本盤に話は戻るが、多くの再発盤ではクレジットにはBruce Johnston-Mike Loveとの記述が見られる、レコード盤にはB.Johnstonしか表記がなく事の真相は明らかではないが、Daywin Musicを手がかりに実演権団体であるBMIのデータベースではBruceとMikeの名が登記されていることが確認できた、しかしMikeは近年BMIからASCAPへ楽曲の預託を変更しており、当時の状況は不明ではあるがBMIに所属する音楽出版社にあったものと予想される。 似たような表記は実はThe Beach Boysのアルバム、Sunflower収録のSlip On Through,Got To Know The Womanにも見られる。Dennis単独の作曲となっているがDaywin Music/Brother Publishing Companyとなっておりデータベース上ではGregg Jacbsonが共作者と登記されている。 Daywin MusicはBruce Johnston,Terry MelcherやDoris Day関連の楽曲管理を行いながら存続する。Arwin Productionの相方のArtists MusicはBruceの作曲したI Write The SongsがBarry Manilowの大ヒットで70年代脚光を浴びることとなる。 そして80年代以降Daywin MusicとMikeが再び関わっていくことになる、The Beach BoysによるKokomoやSummer In Paradise,Rock'n Roll To The Rescueの作曲にMikeとTerryが参画したからだ、ここでやっとDaywin MusicとMikeの名前が一緒にクレジットされることとなった。 (text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)
まず佐野さんは当然ながらSoft Rock系を中心にThe BeatlesやBeach Boysなどのビッグ・ネームを中心に、中原さんには彼の専売特許であるソウル系、Cliffマニアの松生さんには1960年代のヴォーカリストをメインということになった。そして雑食系の私は三人から外れたリユニオンものやアイドル、それにニュー・ウェーブ系など、あまり語られることのないものについてジャンルを問わず万遍なくということになった。また佐野さんは音源のみだけでなく、「25」に引き続き映像作品を取り上げた「Rock & in LD & DVD Part 2」を7Pにも及ぶボリュームで気合のこもったレビューをまとめている。 さてこの特集だが、それまでのVANDAとは一線を駕するような企画だったが、4人4様の視点での持論を展開し、かなり興味深い読み物になった気がする。その内容は多くの音楽ファンに好意的に受け入れられたようだった。それはしばらくしてRC誌が「ロック・ライブ・アルバム1960-1979」(2004年1月)の特集を組んだことでも、その注目の度合いが高かったことように感じられた。ただ個人的には、佐野さんが担当した『Four Seasons Reunion(Curb)』『Beach Boys I Concert(Brother)』『Association(Warner Bros.)』や、中原さんの『Four Tops(Dunhill)』『Spinners(Atlantic)』については思い入れが強く、いつか何らかの形でまとめてみたいという想いは残った。
なおこの「26」で私は恒例の「Music Note」も寄稿しているが、この「1975年」ともなると、まとめていく過程で当初スタートした時期とは違う方向に向いているのが気になった。元々、ラジオ番組のヒット・チャートのチェックから当時の音楽傾向を探るということから始めた連載だったが、この頃になるとあらゆる情報網から得た音楽シーンの傾向をまとめているように感じた。それはこの年に私が夢中になっていたものは、Three Dog Nightの「You」のように日本独自ヒットもあったが、ほとんどは英米でのヒット曲が中心で、日本のチャートでは下位に属していたものが多かった。
ところで前回の投稿でもふれたが「26」が発売される前の1999年12月には私がはじめて関わった商業本『Pop Hit-Maker
Data Book』(バーン)が発刊されている。そして、2000年3月にはVANDA監修として5冊目となる『ハーモニー・ポップ』(音楽之友社)も発刊している。この本を監修したのは佐野さんだが、ジャンルを「US」「UK」「Jazz」「Soul」「Folk」「Psychedelic」「In Japan」と7つに分け、その巻頭には佐野さんや中原さんなどが序文を書いている。なお、「In Japan」では恐れ多くも私が担当させていただいた。そして、ここでコメントを担当したことが、この年に発刊する『Soft Rock In
Japan』や『林哲司全仕事』に繋がっていくことになったのだった。ただ、その話をここでふれるとかなり長くなってしまうので次回に回すことにする。またこの本では、当時佐野さんが「和製ソフト・ロックの最高峰」と断言していたスプリングスのリーダー、ヒロ渡辺氏に「ハーモニーの音楽的解析」という専門分野での解説を寄稿いただいている。
なお、この「26」が発行されたのは2000年8月と、通常よりも2ヶ月遅れている。これは、彼が超多忙だったからでも、私の原稿提出が遅れたということでもなく、創刊号以来それまで編集に携わっていた近藤恵さんが出産のために引退されるというアクシデントが発生したためだった。この大ピンチを救ってくれたのが、当時音楽之友社に勤務していた(『Soft Rock A
To Z』の担当)木村元さんだった。当時、佐野さんの窮地を耳にした彼が自ら仕事の傍ら編集の業務を買ってくれたおかげで、無事VANDA26は発行出来る運びとなった。これまでの付き合いからとはいえ、本業をかかえながらも好意で引き受けてくれた木村さんに佐野さんは心より感謝していた。とはいえ、この作業は木村さん自身も相当きつかったようで、発行後「今回だけにしてほしい」と佐野さんに伝えたようだった。
前作のリード・トラック「チャンネルNo.1」よりスムーズなシーケンス・パートと、昭和文学が醸し出す詩世界との奇妙な融合が独特のグルーヴをもたらしてる。
このシーケンスのリズム・パターンはこれらテクノポップでは王道であるが、ルーツを辿ればエンニオ・モリコーネが映画『荒野の用心棒』(64年)のテーマ曲で使ったのが知られ、その後もビートルズのジョージ・ハリスン作「While My Guitar Gently Weeps」(『The Beatles / White Album 』収録 68年)の左チャンネルで鳴っていたりする。
AORファンにはドナルド・フェイゲンの「New Frontier」(『The Nightfly』収録・82年)を彷彿とさせるかも知れないが、一般的に知られるようになったのはやはりYMOの「Rydeen(雷電)」(79年)だろう。作者の高橋幸宏氏によれば黒澤明監督の『七人の侍』(54年)にインスピレーションを受けたというから、既出の『荒野の用心棒』がオーバーラップしたのかも知れない。
大谷英紗子:サックスのレコーディングとしては、「My little red book」と、「水彩画の街」が一番「今、録っているな〜」という感覚があったように記憶しています。他の録り終えている音源に音を重ねていく過程や、今回は全体的に「ここ」というベストなタイミングに音を当てはめていくことを意識したレコーディングでした。
そしてこのライヴの翌日には、通訳に岩井信氏を帯同してインタビューに臨んでいる。その中では、山下達郎氏が「土曜日の恋人」のモチーフとした「We’ll Work It Out」(1965年サード・アルバム『Everybody Loves A Crown』収録)は「レコーディング以来一度も演奏していない」、1967年の傑作第7作『New
Direction』で起用したGary
Bonner=Alan Gordon(注2)について、「あれは失敗だった。自分には、Snaff GarrettとLoon Russellのコンビがベストだった」など、興味深いリアルな本音を聞き出している。こんな貴重な話を引き出せたのは、熱心なファンとの交流で、Gary本人も大満足だったという証拠だろう。なおこの内容は「25」や、Web.VANDAでも報告されている。
では「25」の話に移るが、ここで佐野さんが熱心に発信していたものとして、「Rock & Pops In LD &DVD」と題したロックやポップスの映像ディスク・ガイドだった。当時、DVD再生可能なゲーム機「Playstation 2」の大ヒットで、それまでのビデオやLDから劣化しないDVDに切り替っていく流れをいち早く取り上げたものだった。当時、CDやLPだけでなく音楽ソフトをビデオ(VHS&Beta)やLDで大量に所持していた佐野さんは、全てをDVDに切り替えるべくハードを揃えていた。さらには「リージョン・フリーDVD再生機」も購入し、海外盤の貴重映像チェックも怠らなかった。そんな彼はどんな映像も永久保存にすべく、当時「VHSビデオ」「Betaビデオ」「LD」でコレクションしていた音楽ソフトを「DVD」(その後Blue Ray)やパソコンに接続して、貴重映像の保存に邁進していた。
またこの「25」では、「24」に続き“サライター(サラリーマン・ライター)”浅田さんの英国ポップスの研究文献「Roger Cook=Roger Greenaway」「John
Cater」「Tony Burrows」の充実したWorksが三作掲載されている。そんな彼とは前年に開催された「VANDA Meeting」にて「Can’t Smile Without You」(Barry Manillow等)の話で意気投合し、それ以来電話やメールで交流するようになっていた。とくに彼のH.P.『Too
Many Golden Oldies』を通じて英国ポップスについての情報交換を頻繁に行っていた。この回の掲載分では、以前より佐野さんから聞いていた部分もあり、そんな三者でのトライアングルな関係を楽しんでいた。またこの話を彼にすると、数日中に音源を収録したカセットが送られてきた。佐野さんは思い立ったら即日タイプの方で、こんなやりとり以外でも彼のお奨め音源を入手すると即カセット(その後、MD~CD-R)が送られてきた。これは私がJigsawやPilotなどを紹介して以来の慣例としてずっと続いた。
そんな話題をいくつか紹介しておくと、まず業界ネタとして1973年9月20日に飛行機事故で亡くなったJim Croce(享年30歳)が生前発売した3枚のアルバムの爆発的なセールスにより、1974年に発売元のabcは全米一の収益を上げて話題となった。ただ、その5年後の1979年には業績悪化により、MCA(現:Universal)に買収されて消滅してしまった。また、歌詞の話題としてサザン・ロックのLynyrd Skyntrdが発表した「Sweet Home Alabama」は、Neil Youngの「Southern Man」への返礼ソングだということで大きな反響を呼んでいだ。
さらに、“マエストロ”Barry White率いるLove Unlimited Orchestraの美しいストリングスの音が日本中に響き渡っていた。中でもKLM(オランダ航空)のCMや、伊勢丹の開店テーマに起用された「Love’s Theme」は新しい時代のインストとして広く愛聴された。また、テレビの情報番組『ウィークエンダー』(注3)のテーマとして起用された「Raphsody In White」も、土曜の夜の定番ソングとして長らくお茶の間に響き渡っていた。この話を聞いた佐野さんは「(ナレーションには)アイアンサイドもですよね!」と、話は泉ピン子さんをはじめとする当時のコメンテーターのことまで広がっていった。そんな時、「あんな昔の話がポンポンでてくるなんて凄い記憶力ですね。」と彼に感心された。それまで私自身は「お前は記憶力の活用を間違っている」と皮肉めいた言われ方をされており、佐野さんとの会話はその後のライター活動に自信を持つきっかけとなった。
そんな佐野さんはこの頃、CDのコンピや単行本の制作に邁進しており、この当時彼が手掛けた『The Beach Boys Complete』『All That Mods』などは大きな評判を呼び、外部から続々と研究本の依頼が舞い込んでいた。そんななか、『Pop Hit-Maker Data Book』の話があり、「今度は鈴木さんも参加してください」と誘いを受けた。初めてのギャラ設定の話でうれしい反面、そこに参加される方々の名前を聞いたとき、「私ごとき新参者が書いても大丈夫なんだろうか?」と一瞬不安に駆られた。ただ佐野さんから「鈴木さんのやり方で進めたら大丈夫!」と励まされ、これまで以上に慎重に考えたうえで、9組(Pop
Group2組、Songwriter&Producer7組)を担当させていただくことにした。正直なところ、Pop groupで「The Grass Roots」、Producerの「Steve Barri」もまとめたかったが、文面はともかくリスト制作に不安があり、この2組は見送ることにした。とはいえ、この続きは佐野さんの代名詞となった『Soft Rock A To Z』の全面改定版『SOFT ROCK The Ultimate!』(2002年)でまとめさせていただくことが出来た。
このように「25」の制作過程では、佐野さんとのやりとりを通して自分の手法に自信を持つことが出来た。ただ今回も余計なことに首を突っ込みすぎていたため、依頼されたコラムは1つだったのにもかかわらず、「3月末締め切り」を大きくオーバーし、GWが終わった5月6日になってしまった。その完成した「25」が届けられた際、その表紙の裏には、『The Beach Boys Complete』『All
That Mods』の紹介はもちろんのこと、現在進行中の『Pop
Hit-Maker Data Book』や、話を聞いたばかりの『Harmony pop』の紹介も掲載されていた。このように「25」発行以降は、佐野さんのみならず私も彼から受けたVANDA以外の仕事にも大きくかかわっていくことになる。