2020年5月19日火曜日

名手達のベストプレイ総集編


 昨年3月に名ドラマーのハル・ブレイン氏の逝去を追悼することで始まった「名手達のベストプレイ」は、回を重ねてアレンジャーのニック・デカロ氏の第6回まで続いた。
 名手達を敬愛する参加者によるベストプレイの選曲という試みは、個人的趣味が大きく反映される訳だが、選者は筆者と交流のあるミュージシャンばかりだったのでその拘り方は一筋縄ではいかない、興味深い企画になったと思う。

 今回ここではそれを振り返る機会として、各タイトルに記事をリンクして、選曲されたプレイリストの試聴用サブスクリプションを並べて再紹介する。是非プレイリストを聴きながらリンク先の記事を再読して楽しんで欲しい。
 また同時にこの企画を今後も継続すべく、新たな参加者を募集しています。
 昨年同様に現役ミュージシャン兼拘り派オーディエンスで興味を持った方は、本記事のコメント欄から管理人宛にどしどし応募して下さい。


   



   









  







 (企画 / 編集:ウチタカヒデ)


2020年5月13日水曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・ソロ編 井上バンド-1)


 さて今回は沢田研二がソロになって発表したライヴ・アルバムについてまとめていくことにする。その前にまず彼のソロの歩みだが、正式なソロ・デビューは1969年12月にリリースされた『JULIE』だ。ただ、この時期はタイガース在籍中でシングルとなった<君を許す>はタイガース名義になっている。 

 ということで、事実上ソロのスタートとなるのはPYG在籍中の1971年11月1日に発表した<君をのせて>ということになる。この曲は「合歓ポピュラー・フェスティバル」参加曲として注目されるも、当時は23位ということでGSの頂点に立ったトップ・スターとしてはいささか物足りないものだった。当時は沢田自身あまり乗り気ではなかったナンバーだったらしいが、後にデビュー30周年作の1996年にリリースの<愛まで待てない>カップリングに<君をのせて1990version>として収録している。またASKA(元チャゲ&飛鳥)が1995年の『NEVER END』でカヴァーするほどの名曲だった。

  しかし、その翌月に発表したセカンド・アルバム『JULIE II』は、ロンドン録音に加えそれまでの活動にゆかりのメンバー作品でかためている。ここから翌1972年3月に<許されない愛>がシングルとなり、ソロ初のトップ10(4位)入りを果たす。それと同時に井上堯之バンドを従えて前年の12月に日生劇場公演を収録した『JULIEⅢSAWADA KENJI RECITAL』、年末にも10月の同会場公演の『JULIE Ⅴ』を発表し、ライヴ・アーティストとして存在感を際立たせている。

  なおこのライヴ・アルバムを挟んだ9月には全曲沢田の作詞作曲による『JULIE Ⅳ~今、僕は倖せです』をリリースしている。その後、発表の<あなただけでいい>(5位)<死んでもいい>(9位)も連続ヒットとなり、年末にはこれまで排除され続けていた「NHK紅白歌合戦」に初出場(第22回)を果たす。 このように、ソロ活動を軌道に乗せた沢田は、1973年に<あなたへの愛>もトップ10入り(6位)と完全にチャートの常連になった。

 そんな“ロック・シンガー・ジュリー”を象徴するものとなったのが、松木恒秀氏(注1)の鋭いギターが印象的な<危険なふたり>だった。この曲はソロ初の1位(65.1万枚;年間5位)を獲得し、第4回日本歌謡大賞を受賞するなど、ソロとしての人気を確固たるものとした。余談になるが、このヒットに歓喜した一人にジュリーの大ファンだった佐野邦彦氏もいた。

  そして、再びロンドン録音を敢行した『JULIEⅥ ある青春』を発表。このアルバムは作品としての評価も高く、なんといっても以後沢田のライヴでは欠く事の出来ないキラー・チューンとなっている<気になるお前>が収録されたことだった。


  翌1974年最初のシングルはバンドを意識したジャケットの<恋は邪魔もの>(4位)で、続く7月には彼にとって2曲目の1位(57.9万枚)となる<追憶>をリリース。 このように国内では向かうところ敵なしといった沢田が、その勢いで敢行したのはバンドを率いて全国をツアーすることだった。この日本初(注2)となる「Julie Rock'n Tour’74」と題されたツアー(16都市34公演)は各地で大きな反響をもって迎えられた。このジュリーの先駆的試みがあったからこそ、それまでの日本では「巡業」というスタイルだった地方公演が、本格的にツアーとして開催されるきっかっけとなった。それを即実践していたのは西城秀樹で、翌年1975年には富士の裾野からスタートしたヒデキ初の全国縦断コンサートを敢行している。

 またこの時期からスタイリストやアートディレクションに早川タケジ(注3)が参加しており、以降斬新なファッションが披露されることになった。そのお披露目となったのは7月のツアー初ステージとなった日比谷野外音楽堂の公演で、そこでのジュリーは全身インディアン風の出で立ちでファンの前に登場している。

  そしてこのツアー中には、郡山で開催された伝説のロック・イヴェント「ワン・ステップ・フェスティヴァル」(注4)にも参加している。このフェスの参加は主催者の一人内田裕也氏からの依頼を受けたものだったようだが、当時このような催しに芸能界のトップ・スターが参加するのは異例中の異例だった。普通であればこのような存在の登場には、硬派のロック・ファンから「帰れ!」コールを浴びせかけられるのが通例(注5)だった。しかしそこでは圧巻のパフォーマンスで、他を寄せ付けないほどの実力を見せつけ、来場者をうならせていたという。これ以降毎年全国ツアーを恒例行事として決行するようになっているが、この続きは「Part-2」にまわすことにする。 

(注1)1968年頃からギタリストとしてスタジオ・ミュージシャン活動を開始。その後、 自身のバンドを結成、同時期にPlayersなど数々のバンドにも参加。1977年から は山下達郎のサポート・メンバーにも参加する。彼の門下には、和田アキラ(Prism) や山下達郎などがいる。2017年6月18日惜しくも68歳にて逝去。 

(注2)初めてツアーを実行したのは1973年秋に敢行した吉田拓郎だった。それは「海外にはツアーというものがあるらしい」という情報をもとにした試行錯誤の中での見切り発車だった。 ただ、この手法はそれまで興行を仕切ってきた業者と大きな軋轢を生み、会場の 確保もままならないケースもあったという。 

(注3)1947年生まれの画家兼デザイナーで、芸能人スタイリストの草分け。ヴィジュア ルな時代を創造した鬼才で、1988年アートファッション20世紀ファッション・イラストの巨匠たち展において日本人で唯一選出されている。 

(注4)1974年8月4日~10日まで福島県郡山で開催された日本初の野外ロック・イヴェント。ここにはサディスティック・ミカ・バンドや四人囃子など39組の日本精鋭ミュージシャンと、アメリカからヨーコ・オノ&プラスティック・小野・スーパー・バンドとクリス・クリストファーソン&リタ・クーリッジ夫妻(当時)が参加。 

(注5)1970年代初頭までは、ロックやフォーク・ファンにはアーティストのメジャー化に否定的な風潮があった。“フォークのプリンス”と呼ばれていた吉田拓郎も<結婚しようよ>のヒットでメジャー入りした際に、フォーク・ファンから「帰れ!」コールを浴びている。沢田もPYG時代の1971年3月に京大西部講堂で行われた第1回MOJO WEST参加の際に、ロック・ファンからその洗礼を受けている。




『Julie Ⅲ 日生リサイタル』 1972年3月10日 / Polydor / AR-9001 
国内チャート 11位   5.5万枚
①何かが始まる(I Feel The Earth Move)(キャロル・キング:1971)、②Hello Goodbye(ザ・ビートルズ(以下B4):1968)、③Get Back (B4:1969)、④風にそよぐ葦、⑤美しい予感、⑥ 愛に死す、⑦許されない愛、⑧嘆きの人生、⑨船出の朝、⑩電話の唄、⑪Mamy Blue (ポップ・トップス:1971)、⑫GENTLE SARAH(Thomas F. Browne:1972) 、⑬鳥になった男、⑭タイガース・メドレー(スマイル・フォー・ミー~嘆き~素晴らしい旅行~シーサイド・バウンド~ラヴ・ラヴ・ラヴ~君だけに愛を~花の首飾り~銀河のロマンス~落葉の物語~僕のマリー~青い鳥 ~都会 ~モナリザの微笑み)、⑮君をのせて、⑯傷だらけのアイドル(Free Me)(ポール・ジョーンズ:1967) 、⑰TELL EVERYONE (フェイセス:1971) 、⑱ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)、⑲祈る 

  セカンド・アルバム『JULIE IN LONDON』を発表した直後に行われた1971年12月24日 日生劇場での公演を収録。まだ、PYGは正式に解散していない時期だっただけに、ファンとしては待望だったのかは微妙なところだ。ただ、PYG参加とともに封印したタイガース・ナンバーを歌い、アルバムの発売に合わせてリリースした⑦も披露されている。PYGナンバー⑲が収録されてはいるが、事実上ソロ活動のスタートと言えるだろう。 

参考:カヴァー収録曲について 
① 何かが始まる 
 キャロル・キングが1971年に発表した15週連続全米1位に輝くセカンド・アルバム『つづれおり(Tapestory)』の収録曲で当時の邦題は<空が落ちてくる>。彼女はこの年のグラミー賞で4部門(最優秀アルバム賞、最優秀女性ポップ・ヴォーカル、最優秀レコード賞<It’s Too Late>、最優秀楽曲賞<君の友だち(You’ve Got A Friends)>)受賞。このアルバムはその後約6年間(306週)に渡り全米チャートに留まる金字塔となり、当時のシンガー・ソングライター(以下、SSW)ブームを牽引する代表格となった。

②Hello Goodbye
 B4が1967年にリリースした19枚目のオリジナル・シングル。彼らにとって、13作目の全英1位ヒットとなり、<She Loves You>の7週間連続の記録に並んだ。 

③Get Back
 B4が1969年にリリースした19枚目オリジナル・シングル、アップル設立後のセカンド・シングル。映画『Let It Be』のハイライトとなった「ルーフ・トップ・コンサート」でのハイライト曲にもなった。

 ⑪Mamy Blue 
 シャンソンのスタンダード<パリの空の下(Sous le ciel de Paris)>の作者Hubert Giraudが書下ろしたヒット曲。複数の競作盤がリリースされるが、スペインのポップ・トップス版がヨーロッパや日本で大ヒットした。 

⑫GENTLE SARAH 
 英国のSSW、Thomas F. BrowneがVertigoからリリースした唯一のアルバム『Wednesday’s Child』収録曲。オリジナルは哀愁感の漂う英国のスワンプ・ソング風。

⑯傷だらけのアイドル 
 元マンフレッド・マンのヴォーカリスト、ポール・ジョーンズが1967年に主演した同名映画のテーマ曲。 

⑰TELL EVERYONE 
 フェイセスの1971年セカンド・アルバム『Long Player』収録曲。作者はオリジナル・メンバー、ロニー・レーン。なお彼は1974年にリリースしたファースト・ソロ『Anymore for Anymore』で、セルフ・カヴァーしている。 



『JulieⅤ 日生リサイタル』 1972年12月21日 /  Polydor /  MR-9121/2 
国内チャート14位   5.7万枚
①I Believe In Music (マック・ディヴィス:1968) 、②Clementine、③Jealous Guy (ジョン・レノン:1970)、④今、僕は倖せです、⑤青春、⑥心の友(With A Little Help From My Frirnd (B4:1967)) 、⑦The Letter (ボックス・トップス:1967) 、⑧60才の時(Sixty Years Old (エルトン・ジョン:1969))、⑨I(Who Have Nothing)(トム・ジョーンズ:1969)、⑩Traveling Band、⑪Johnny B. Good (チャック・ベリー:1958)、⑫Trouble (エルヴィス・プレスリー:1958) 、⑬湯屋ちゃん、⑭Blueberry Hill (ファッツ・ドミノ:1956) 、⑮のっぽのサリー(Long Tall Sally(リトル・リチャード:1956)、⑯Shake Rattle And Roll (ビル・ヘイリー&コメッツ:1954) 、⑰あなただけでいい、⑱死んでもいい、⑲What’d I Say、⑳Give Peace A Chance (プラスチック・オノ・バンド:1969)、㉑Song For You (レオン・ラッセル:1970)、㉒捨てないで(Ne Me Quitte Pas (ジャック・ブレル:1959)、㉓Amor Miio (ミーナ)、㉔Without You (バッドフィンガー:1971/ニルソン:1972) 
 
 1972年10月17日-21日 日生劇場でのライヴを収録。この時期は初のセルフ・プロデュース作『JULIE Ⅳ~今、僕は倖せです』をリリースした直後で、内田裕也に捧げた⑬も披露されている。PYG時期の反省か未消化の最新ロック・ナンバーをレパートリーにせず、“ジュリーらしさ”を感じさせるチョイスになっているように思える。 

参考:カヴァー収録曲について 
①I Belive In Music  
 オリジナルは1970年にマック・ディヴィスがリリースし全米117位(A.C.25位)の小ヒット。日本では沢田研二が自ら訳詞を手がけて歌い、のちに多くの歌手がカヴァーをするようになった。なお彼の代表曲は1972年に全米1位となった<愛は心に深く(Baby Don’t Get Hooked on Me)>。 

②Clementine 
 日本では<雪山讃歌>として知られる。元は1946年のジョン・フォード監督の「アメリカ映画『荒野の決闘(My Darling Clementine)』の主題歌。 

③Jealous Guy 
 ジョン・レノンが1971年にリリースした傑作セカンド・アルバム『Imagine』収録曲。、多くのシンガーによって歌い継がれるスタンダード・ナンバー。 

⑥心の友 
 今やリンゴ・スターの代名詞となっているB4世紀の傑作『S.G.P.』(1967年)収録曲。1968年にメジャー・デビューを飾った不世出のヴォーカリスト、ジョー・コッカーの初ヒット曲(全米68位、全英1位)。とくに、ウッドストックにおけるジョーのパフォーマンスは、彼の名声を一躍高めるものだった。 

⑦The Letter 
 1967年にボックス・トップスが全米1位(年間2位)に送り込んだ彼らの代表作。なおグループは翌年4月には<Cry Like a Baby>を2位に送り込んでいる。1970年にはジョー・コッカーがカヴァーし、彼初の全米トップ10ヒット(7位)となった。 

⑧60才の時 
 エルトン・ジョンが1969年に発表したセカンド・アルバム『Elton John』の収録曲。 

⑨I(Who Have Nothing) 
 1970年にトム・ジョーンズがリリースした30作シングル(全米16位、全英14位)。オリジナルは1961年にJoe Sentieriが<Uno Dei Tanti>としてイタリアでヒットさせた。1963年にジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが英詞をつけベン・E・キングによって歌われ、全米29位を記録。 

⑪Johney B Good 
 1958年にチャック・ベリーがリリースした12作シングルで、全米8位、R&B.2位を記録。B4からプレスリーをはじめ世界中のミュージシャンにカヴァーされたスタンダード。なおローリングストーン誌の選ぶ“オール・タイム・ギター・ソング”では1位にランクされた。

⑫Trouble 
 エルヴィス・プレスリーが1958年の主演映画『King Creole』挿入歌として発表。後に1968年に全米NBCで放映された『Comeback Special』のオープニングを飾ったナンバーとして広く知られている。 

⑭Blueberry Hill  
 もともとは1940年にグレン・ミラー楽団がヒットさせたものだが、一般には1956年にファッツ・ドミノが歌って全米2位に送り込んだヒットの方が圧倒的に有名だ。 

⑮のっぽのサリー 
 ジャンピング・スタイルでパワフルにピアノを弾きまくるシャウター、リトル・リチャードが1956年にリリースした15作シングルで、ソウル・チャート初1位(全米13位、全英3位)を獲得した代表曲のひとつ。この曲はポールマッカートニーのお気に入りで、1964年にB4名義EPでカヴァーされ、さらに広く知られるところとなっている。 

⑯Shake Rattle And Roll 
 オリジナルは1954年黒人ブルース・シンガー、ジョー・ターナーの34作シングルでソウル・チャート1位(全米22位)を獲得。同年にはビル・ヘイリー&コメッツが9作シングルとしてリリースして全米9位(全英4位)のビッグ・ヒットとなった。さらに1956年にはエルヴィス・プレスリーも録音し、ロックン・ロールの定番曲となっている。 

⑳Give Peace A Chance 
 1969年7月にジョン・レノンがB4在籍中にプラスチック・オノ・バンド名義でリリースしたデビュー・シングル。全英2位でオランダでは1位を記録、全米では16位だったものの、1970年以降には反戦運動の讃歌になっている。それを決定付けたのは、1970年に「カンヌ国際映画祭」で「審査員特別賞」を受賞した映画『いちご白書(The Strawberry Statement)』のラスト・シーンがあげられる。 

㉑Song For You 
 1970年代初期“最後のスーパー・スター”と呼ばれていたレオン・ラッセルの代表曲。1970年に自身のレコード会社シェルターでのファースト・アルバムに収録。1971年にアンディ・ウィリアムのカヴァーが全米82位になり、同年には、ダニー・ハザウェイ、ヘレン・レディメリー・クレイトンがこぞってカヴァー。1972年にはカーペンターズが4作目のアルバムのタイトル曲とし、今や「アメリカン・クラッシック」のスタンダード・ナンバー。 

㉒捨てないで 
 シャンソン歌手ジャック・ブレルが1959年に発表した代表曲のひとつで、日本では<行かないで>の邦題で知られている。オリジナル・タイトルは<NE ME QUITTE PAS>、英語圏では<If You Go Away>のタイトルで、幅広い層に歌われているスタンダード。 

㉓Amor Miio 
 イタリアの人気女性シンガー、ミーナのヒット曲。作者は1960年代から活躍したイタリア出身の作詞家Mogol(本名:Giulio Rapetti)と、作曲家兼歌手Lucio Battisti、のコンビによるもの。 

㉔Without You 
 オリジナルは1972年バッドフィンガーがセカンド『No Dice』に収録。B4ナンバーと思いこんだニルソンが1972年にピアノ・アレンジでカヴァーし全米1位の大ヒットを記録。1994年にはマライヤ・キャリーがカヴァーして全米3位を記録しているスタンダード。



『Julie Ⅶ 沢田研二リサイタル』 1973年12月21日 /  Polydor /  MR-9127/9 
国内チャート 14位 / 5.3万枚 
①悲しみも歓びも、②Kansas City(リトル・リチャード:1959)、③I Feel So Good (フェイセス:1971)、④よみがえる愛、⑤忘れじのグローリア(GLORIA)(ミッシェル・ポルナレフ:1973)、⑥Cavar Of Rolling Stone(Dr.フック&ザ・メディシン・ショウ:1972)、⑦Cotton Fields、⑧I'll Never Leave You (Nicole Croisille:1968)、⑨気になるお前 、⑩メドレー:①Move Over (ジャニス・ジョプリン:1970)~②The Jean Genie(デヴィット・ボウィ:1972)~③被害妄想~④You Gatta Move(ストーンズ:1971)~⑤Honkey Tonk Woman~⑥Get Back、⑪ある青春、⑫ユア・レディ(ピーター・スケラーン:1972) 、⑬ひとりぼっちのバラード、⑭胸いっぱいの悲しみ、⑮許されない愛、⑯危険なふたり、⑰ロックンロール・メドレー:①Trouble~②君だけに愛を~③恋の大穴(エルヴィス・プレスリー:1959)~④Johney B. Good~⑤愛は?人は?~⑥やすらぎを求めて~⑦怒りの鐘を鳴らせ、⑱悲しみのアンジー(Angie)(ストーンズ:1973)、⑲あなたへの愛、⑳I Belive In Music、㉑Honkey Tonk Woman 

 名作『JULIEⅥ ある青春』発表後に1973年10月10日 中野サンプラザで開催されたライヴをなんと3枚組というヴォリュームでリリースされた。ここでは以後定番となるキラー・チューン<気になるお前>が初披露されている。なお⑥はタイガースが「Rolling Stone誌」の表紙を飾ったことがどれほどすごいことかを説明するためにセット・リストに組んだようで微笑ましく感じる。 

参考:カヴァー収録曲について 
②Kansas City 
 1952年にリトル・ウィリー・リトフィールが<K.C.ラヴィング>のタイトルで発表した。1959年に<カンタス・シティ>に改題されウィルバート・ハリソンが歌い全米1位を記録。そして同年にリトル・リチャード、1964年にはビートルズが『For Sale』に収録した事で広く知れ渡る。 

③I Feel So Good 
 20世紀のブルース音楽の発展における重要人物の一人であるブルース・シンガー、ビッグ・ビル・ブロンジーが書下ろしたブルース・ナンバー。1971年にロッド・スチュワートが在籍したフェイセスのセカンド『Long Player』で8分を超すライヴ・テイクを収録。 

⑤忘れじのグローリア 
 フランスの国民的人気シンガー、ミッシェル・ポルナレフが本国で1970年(<僕は男なんだよ(Je suis un homme)>B面)、日本では1973年<愛の休日(Holidays)>に続いてリリースされた大ヒット曲。 

⑥Cover Of Rolling Stone 
 1970年代に人気を博したポップ・グループ、Dr.フック&ザ・メディシン・ショウ(後にDr.フックに改名)が1972年の4作目のシングルで全米6位を記録。この曲は音楽雑誌「Rolling Stone誌」の表紙になりたいというミュージシャンの曲で、彼らはこの曲のヒットで見事「1973年3月29日号」の表紙に起用されている。 

⑧I'll Never Leave You 
 1966年のフランス映画『男と女(A Man and a Woman)』のサントラに参加したシャンソン歌手で女優のNicole Croisilleが1968年にリリースしたナンバー。 

⑩-①Move Over 
 優れた歌唱力と個性的な歌声で不世出の女性ヴォーカリスト、ジャニス・ジョプリンの遺作となった1971年の第4作(ソロ2作)『パール』収録曲。本国ではこのアルバムから<ミー・アンド・ボビー・マギー>がシングルとなり全米1位となっているが、日本ではこの曲が<ジャニスの祈り>のタイトルでヒットした。 

~②The Jean Genie 
 デヴィット・ボウィがグラム・ロックカーとして名をはせていた1973年に発表した第6作『Aladdin Sane』収録曲。アルバムに先駆け1972年にリリースし全英2位となり、人気を決定的にした。 

~④You Gatta Move 
 オリジナルは1940年代から伝わるゴスペル。1965年にミシシッピー出身のブルース・シンガー、フレッド・マクダウェルによってカントリー・ブルースとして録音され、ポピュラーなナンバーとなる。1971年にはストーンズが世界中で1位となった『Sticky Fingers』に収録し、その後も重要なレパートリーになっている。

⑫ユア・レディ  
 1972年に英国S.S.W.ピーター・スケラーンがリリースし、全英3位(全米50位)を記録した自身の最大ヒット。 

⑰-②恋の大穴(A Big Hunk o’ Love)
  エルヴィス・プレスリーが1959年にリリースした12曲目の全米1位曲(2週間)。曲を書いたAarlon SchroederとSyd Wychのコンビはレスリー・ゴーアの全米1位曲<It’s My Party>(1963年)の作者としても知られた存在。 

⑱悲しみのアンジー  
 ストーンズが1973年にリリースした6曲目(バラードは2曲目)の全米1位曲。この曲は同年8月に発表した『山羊の頭のスープ(Goats Head Soup)』からの先行シングルで、当時はデヴィッド・ボウィのワイフ(アンジェラ)を歌ったといった噂でも騒がれた。なお幻に終わってしまった年初の来日公演の記念盤になったかもしれなかった。 



『1974 One Step Festival ライブ』 2019年3月6日(2005.) /  UPER FUJI / FJSP-369 ①内田裕也Mc Introduction、 ②恋は邪魔もの、 ③The Letter、 ④Move Over~The Jean Genie~We Got Move、 ⑤C.C Rider(ミッチー・ライダー&デトロイト・ホイールズ:1965)、 ⑥To Love Somebody、 ⑦お前は魔法使い、 ⑧湯屋さん、 ⑨恋の大穴、 ⑩MC、 ⑪Johnny B.Good~のっぽのサリー~Whole Lotta Shakin Going on(ジェリー・リー・ルイス:1957)~Tutti-frutti(リトル・リチャード:1955)~のっぽのサリー、⑫追憶, ⑬悲しい戦い、 ⑭I Want to Take You Highter(スライ&ザ・ファミリー・ストーン:1969)、 ⑮気になるお前、⑯内田裕也Encore Introduction、 ⑰What'd I Say


  2005年リリースのワン-ステップ総集編(4枚組CD)には、<恋は邪魔もの><恋の大穴><追憶>の3曲が収録。そして、2019年の21組の単独CD発売時にジュリー盤も登場。ここには初日8月4日の大トリに出演した64分全てを収録。内田裕也が飛び入りしたロックンロール・メドレーでは、チャック・ベリーを意識した“ダック・ウォーク”を披露したというほど、ジュリー自身もフェス参加を楽しんでいる様だ。アンコールを含め予定時間をオーバーするロック魂溢れるライヴを見せつけている。    

参考:カヴァー収録曲について 
⑤C.C Rider 
 アメリカで人気の高いフォーク・ブルース・ナンバー。1960年代になってミッチー・ライダー&デトロイト・ホイールズ(1965)やアニマルズ(1966)のカヴァーが全米トップ10ヒットとなり注目される。そしてエルヴィス・プレスリーが1970年の『On Stage』(全米11位)に収録以来、一般にも広く知られるようになった。 

⑪Whole Lotta Shakin Going on 
 ジェリー・リー・ルイスが1957年にSUNレコードからリリースした代表曲のひとつで、全米3位とソウル&カントリー・チャートで1位を記録している。 

~Tutti-frutti  
 リトル・リチャードが1955年にリリースした14作シングルで、ソウル・チャート2位(全米21位、全英29位)を記録した初の大ヒット・ナンバー。後に、エルヴィスやB4もカヴァーした代表曲のひとつ。 

⑭I Want to Take You Highter  
 マイルス・ディヴィスをも虜にしたファンク・ミュージックの革命児スライ・ストーン。彼が1969年3月にスライ&ザ・ファミリー・ストーンとしてリリースした第4作で一大傑作『Stand!』収録曲。なお1969年8月に40万人が集結したウッドストック・フェスティヴァルのパフォーマンスは、早朝4時(8/17)の出番にもかかわらずオーディエンスを熱狂させ、フェスの主役のひとりになっている。

                               (鈴木英之)

2020年5月6日水曜日

Saigenji :『Live “Compass for the Future”』(Happiness Records / HRBR-017)




 18年の9thアルバム『Compass』(HRBR-013)が好評だったSaigenji(以降サイゲンジ)が、全16 曲を収録した2 枚組ライヴ・アルバム『Live “Compass for the Future”』を5月13日にリリースする。
 本作のライヴ・ソースは、19 年3月29日と9月6日の2 日間で演奏された30数曲の中から厳選された16曲が収録され、『Compass』から10曲、ファーストアルバムの『SAIGENJI』(02年)をはじめ、『la puerta』(03年)『Innocencia』(04年)、『Music Eater』(06年)、『Medicine for your soul』(08年)、『One voice one guitar』(12年)から各1曲ずつ選ばれている。ライヴ・パフォーマーとして圧倒的な存在感を放っている彼の魅力を余すこと無くパッケージした内容となっている。バッキング・メンバーは、『Compass』のレコーディングと同様にドラムの斉藤良、ベース(ウッドベース)の小美濃悠太、ピアノの林正樹の3名をはじめ、女性キーボーディストのスミレディ、パーカッショニストの南條レオが参加している。

 ジャンルを超えたシンガー・ソンングライター兼ギタリストとして唯一無二の存在であるサイゲンジのプロフィールについては説明不要と思われるが、『ACALANTO』(05年)の10周年記念リマスター盤のリイシュー時に再掲載した筆者のインタビュー記事を参照して欲しい。
 また20年前から彼のライヴをチェックしている筆者としては、なにより生で体験することを強くお勧めしているのだが、本作を1ヶ月以上聴き込んでその選曲センスとヴォリュームで充分楽しめた。
 ここでは筆者が気になった主な収録曲の解説と共に、サイゲンジ本人が本作のモチーフとして選曲したプレイリストを掲載するので試聴しながら読んで欲しい。


 本作は『Compass』の冒頭曲「First song(for our tales~Magia)」から始まる。スタジオVerからアレンジ的に大きな変化は無いが、斉藤と小美濃のリズム隊のダイナミズムと林の繊細なピアノのコントラストがこの曲の世界観をよりビビッドにしており、後半のサイゲンジのヴォーカリゼーションのインタープレイにも引き込まれてしまう。
 続く「朝と摩天楼」は、ジャズ・フィールドでプレイしているリズム隊の2人の本領が発揮されており、スタジオVerにはない林によるピアノ・ソロも効果的である。極めつけは縦横矛盾なスキャットと掛け合うパートがライヴならではの醍醐味だ。『Compass』では曲順が入れ替わって本作では3曲目に「Dance of Nomad」が収録されており、同作のリード・トラックとしてライヴでも映える存在であったのは間違いなかった。特にサルソウルとサンバを融合させた斎藤のドラミングはこの曲の肝である。

 本作ディスク1のハイライトとしてジャズスタンダード・カバーの「On Green Dolphin Street」にも触れておきたい。記事後半で紹介しているプレイリストのコメントでサイゲンジ本人が語っているが、ジョン・コルトレーンのプレイにインスピレーションを受けてライヴ・レパートリーにしているという。なるほど小美濃のベース・プレイはポール・チェンバースのそれを意識しているが、林のピアノはウィントン・ケリーのそれより自由度が高く、長いソロ・パートで激しく暴れ回る。そのプレイに触発されたか、小美濃と斎藤も各々のソロで徐々に熱を帯びて、後半のサイゲンジのスキャットと激しく掛け合って大団円を迎える。正しく圧巻のプレイとはこのことだ。


 ディスク2ではセカンド・アルバム『la puerta』のリード・トラック「走り出すように」から始まる。当時からライヴで人気の高い曲で15年後もニューソウルとミナス・サウンドが溶け合った感覚は息づいている。ここではスミレディのオルガン・ソロ~サイゲンジのスキャット~南條のパーカッション・ソロの流れが聴きどころだ。
 「Heartbeat」は『Compass』収録中筆者が最も好きな曲で18年の年間ベスト・ソングにも選んだ程だが、ライヴの生演奏ではアコースティックなヒップホップ感覚が更に増していて、観客とのコールアンドレスポンスも楽しい。
 このディスク2のハイライトはやはり「Music Junkie」になるだろう。オリジナルは5thアルバム『Music Eater』収録で、08年の『LIVE! LIVE! LIVE! vol.1』でも取り上げられていたが、本作ではその倍近い16分を超える尺で収録されている。 ファンには説明不要かも知れないが、曲のタイトルはサイゲンジの音楽的姿勢を体現しているのに他ならない。ゆえにここでの林、小美濃、斎藤による巧みで長いインタープレイや観客とのコールアンドレスポンスもサイゲンジ・ワールドのエレメントとなって聴く者の心に大きく響くのだ。

 疑似ライヴ体験できるとも言える本作『Live “Compass for the Future”』に興味を持った音楽ファンは、是非入手して聴いて欲しい。
 なお来週5月12日にリリースを記念して弾き語り生配信を予定しているので、詳しくは下記の動画をチェックしよう。

【2020/5/12 弾き語り生配信のお知らせ】 


『Live “Compass for the Future”』のモチーフとなるプレイリスト
 / Saigenji 



◎プレイリスト・コメント 
 実はここのところほとんどYouTubeでフラメンコばかり観ていたいので、必ずしもこのリストは正しくないんですが、結局自分はJazzが好きなんだな、と最近痛感していて、家でCDをかける時はほとんどブルーノートなどのJazzでした。
 1と6はyoutubeのtiny desk concertのライブバージョンを聴いていました(観ていました)。生音ヒップホップはやはり好きですね。
 3,4,5は我が永遠のアイドルたち。
 みんな天に召されてしまいましたね。合掌。
 7,8はライヴ盤に収録したカバーのオリジナル音源です。二曲とも我が生涯の重要なレパートリー。特にコルトレーンのOn greenは自分の強力なインスピレーションになっています。 YouTubeにしかないかも。
 9のSo what はこの世で一番カッコいい曲だと思っています。
 10 最後に一曲だけ自分の曲を。現在進行形の自分を表現する最も端的な曲です。ライヴ盤のバージョンでは林正樹くんのソロが最高です。

1 Anderson Paak  "Come down" 

2 Wayne Shorter  "Juju" 

3 Paco de Lucia  "Rio de la miel" 

4 João Gilberto  "Eu sambo mesmo" 

5 Bill Withers  "Ain't no sunshine"

6 Common  "letter to be free"

7 Caetano Veloso  ''Tonada de luna llena"

8 John Coltrane  "On green dolphine street"

9 Miles Davis  "So what"

10 Saigenji  "Dance of nomad"  


(テキスト:ウチタカヒデ)


2020年4月18日土曜日

【ガレージバンドの探索・第八回】The Enfields - Friends Of The Family


60年代の学生ガレージバンドに関しては、ひとつのバンドを詳しく知ろうとする人は多くないと思う。わたしもWebVANDAの連載を始めるまで、曲単位で聴いていてあまり個々のバンドについて調べることがなかったのだけれど、少し詳しく調べてみるようになると、その過程で発見する関連の曲がすごく良かったり、メンバーの意外な経歴が見つかったりするのがおもしろい。今回は、「I'm For Things You Do」という曲が好きだったThe Enfieldsのことを調べた。一般的に広く知られてはいないけれど、世界中の一定数のフォークガレージやサイケガレージ、トワイライトガレージ愛好家やコレクターから愛され続けているようなバンドだと思う。 

【結成当初のラインアップ】
  Ted Munda(ボーカル、ギター)Charlie Berl(ボーカル)
John Bernard(リードギター)
Bill Gallery(ベース)
Gordon Berl(ドラム)

1964年、デラウェア州ウィルミントンでThe PlayboysとサーフロックバンドのThe Touchstonesという2つのバンドが統合する流れでThe Enfieldsが結成された。中心人物はソングライターでボーカル、ギターのTed Munda。
Ted Mundaと Gordon BerlはThe Playboysのメンバーで、John Bernard、Bill GalleryはThe Touchstonesのメンバーだった。Charlie BerlとGordon Berlは兄弟。ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けていた彼らは、ロンドン自治区エンフィールドに因んで名付けられた有名なライフルからとって、バンド名をThe Enfieldsとした。

1966年にRichie Recordsからシングルを3枚リリースする。プロデューサーはVince RagoとTony Pace。最初に「In the Eyes of the World」(Richie 669)が地元でヒット。この曲はTed Munda とCharlie Berlの共作のようだ。A面、B面とも同じ曲を収録し、DJがどちらをかけても良いようにした。次にリリースした、フォークロックの影響が強い「She Already has Somebody」(Richie 670)ではさらに大きなヒットが続いた。
B面曲の「I'm For Things You Do」はThe Zombiesの影響が反映されている。この2ndはA面、B面ともTed Munda作。


I'm For Things You Do / The Enfields


この頃までにThe Enfieldsはウィルミントンで最も人気のあるバンドになっていたそうだけれど、全国的に認知されるには至らなかった。
3rdシングルはバラード曲「You Don't Have Very Far」(Richie 671)。B面の「Face to Face」はおそらくThe Whoの影響があったようだ。

Bill Galleryが進学のためにバンドを去り、The Wrecking Crew(後にThe Blues Magoosに加わったGeoff Dakingが在籍していたローカルバンド)のJohn Rhoadsがベースで加わる。


1967年の初めにラストシングルとなる「Twelve Month Coming」 / 「Time Card」(Richie 675)をリリース。チャートには記録されなかった。
その後Charlie Berlが徴兵され、バンドは解散した。

The Enfields解散後、Ted MundaはJohn Rhoads と、地元の別のバンドThe TurfsのメンバーだったWayne Watson(ギター) 、Jimmy Crawford (ドラム)を加えてFriends Of The Familyを結成。1967年の5月にFrank Virtueプロデュースの下、フィラデルフィアのVirtue Recording Studiosで6曲のデモを録音する。Kama Sutra Recordsなど、いくつかのレーベルが興味を示したものの契約には至らなかった。


1967年のうちにJohn Rhoadsがバンドを去り、Ray Andrews(ベース/ボーカル)、Lindsay Lee(オルガン/ボーカル)が加わる。
1968年7月、新体制で5曲が録音された。プロデューサーはJoe Renzetti。

1991年にリリースされたDistortions Recordsのアルバム『The Enfields / Friends Of The Family - The Songs Of Ted Munda』(Distortions Records ‎– DB 1003)にはThe Enfieldsの全音源と、Friends Of The Familyの1967年の音源が収録された。そして1993年、Get Hip Recordingsから出たCD版(GHAS-5000CD)では、未発表だったFriends Of The Familyの1968年の音源5曲も追加されている。わたしは今回調べるまでThe EnfieldsのFriends Of The Familyというタイトルのアルバムだと思っていて、後半だいぶ雰囲気が変わるなあと思っていたら違うバンドの音源がまとまっていたらしい。


Friends Of The Familyはこの他に、アルバムには収録されていない1968年のシングル
「Can't Go Home」 / 「How You Gonna Keep Your Little Girl Home」(Smash Records ‎– S-2144)もある。これは、Cameo Parkway Recordsのスタッフ・ライターNeil Brianが録音したものだそうだ。


Can't Go Home / Friends Of The Family

Friends Of The Familyの録音はそれが最後のようだけれど、Ted Mundaはその後も様々な活動を続けている。ガレージに関連するところでは、The Blues Magoosにも在籍していたようで、1969年リリースのThe Blues Magoos 「Let Your Love Ride」(Ganim, G-100)はTed Mundaの作だった。


【文:西岡利恵】



参考・参照サイト


https://en.wikipedia.org/wiki/The_Enfields#cite_note-Jason_(Enfields)-


http://therisingstorm.net/the-enfields-friends-of-the-family/


http://musicofsixties.blogspot.com/2012/09/the-enfields-enfieldsfriends-of-family.html


http://musicofsixties.blogspot.com/2012/09/the-enfields-enfieldsfriends-of-family.html


2020年4月11日土曜日

追悼 志村けん~音楽で語るAnother Side


  去る2020年3月29日に昭和・平成年間を通じ、日本はもとより世界中に笑いを発信し続けていた「日本の喜劇王」の一人、志村けんさんが「新型コロナ・ウィルス」感染による肺炎のために、70才の生涯を全うされた。 

 私は1954年生まれで彼とは5歳違いだ。彼が荒井注さんの脱退を受けて、正式にドリフターズのメンバーに加入した1974年4月には既に大学生になっており、当時さほど興味を持っているわけではなかった。 

 そもそも私がドリフに夢中になっていたのは1969年の中学生時代までで、その頃も『8時だよ全員集合!』よりも『コント55号の世界は笑う』に興味が移っていて、彼がドリフに加入した時期は完全に「ドリフ離れ」していた。しかも1985年9月に幕を下ろした『8時だよ!~』の末期には、『オレたちひょうきん族』に夢中になっていたので、彼を語るのはおこがましいものかもしれない。 

 ただ、私はハナ肇とクレイジー・キャッツ(以下、クレイジー)にはじまるコミック・バンドへの興味が高く、いかりや長介とザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)はもとより、ドリフ脱退組のドンキー・カルテットやウガンダ・トラ在籍時のビジー・フォー(彼らも渡辺プロダクション)あたりまで、かなりコアなコミック・バンド・マニアだ。 特に1960年代、「シャボン玉ホリデー」等で繰り広げられた、クレイジーとドリフのジャム・セッションによるアドリブから発展するギャグの応酬には心ときめいたものだった。

 ちなみに、志村さんが1968年にいかりや長介さんへの弟子入りを目指したのは、「音楽性の面」からだったという。そこから彼も私同様にクレイジーとドリフのコミック・セッションに心惹かれていた一人だったとも推測される。補足になるが、志村さんは中学以来熱狂的な「ビートルズ・ファン」だったということで、1966年7月2日に日本武道館公演でのザ・ビートルズ日本公演に足を運んでいると聞く。その時に隠し撮りした「ジョンのサン・グラス着用」写真をパネルにして持っているとのことだ。 

 ちょっとした笑い話になるが、私は1971年9月23日にレッド・ツェッペリンの初来日公演を日本武道館で体験しているが、オープニングの<Immigrant Song>で見た間奏でのステージ・アクションに「まるでドリフだ!」という不謹慎な連想をしてしまっている。 

 さて話は志村さんに戻すが、そんなコミック・バンドとしてのドリフでのポジションはギターだったというが、私自身は彼のギタリストという印象が薄い。それはカトチャンのようにハナ肇さんとのドラムでのバトル・シーンを頻繁に拝見した記憶がないからだ。ただ、三味線や琵琶といった楽器を変えての奏者としての印象は鮮烈なものだった。そのテクニックは鮮明に焼き付いており、また真剣なプレイの最中に時折ズッコケるといった伝統的なオチで笑いを取るスタイルには、彼がコミック・バンドのメンバーであることを再確認したものだった。 

 彼がドリフでブレイクしたネタは、1976年から唄いだした日本人で知らない人はいないほど有名な「東村山音頭」だった。しかしこのヒットは荒井注さん在籍時のドリフと基本ラインは同じで「クレイジーのようなオリジナルを避け、カヴァー・ソングや民謡等で勝負」という手法だった。言い方を変えれば、この時点での彼のネタはファンや一般に向けてドリフターズの正式メンバーとして立派に認知された成果だったが、それは従来路線のドリフに同化した結果だったといえるものだった。
  また1980年前後に大反響を呼んだ「カラスの勝手でしょ~♪」は、1972年以降に登場した<タブー>をBGMにしたカトチャンの「ちょとだけよ~」のストリップ・ネタ同様に、当時のPTAから「低俗番組」として目の敵にされている。こんな事例でも、彼はドリフの伝統をしっかり引き継いでいた存在だった。

 そんな志村さんが、「ドリフの~」ではなく「志村けん」という一コメディアンとして彼らしさを前面に打ち出して頭角を現すのは、1979年に始めた「ヒゲダンス」といえるだろう。 この曲のリズムは1970年代後期に「セックス・シンボル」の称号を与えられていたアメリカのR&B.シンガー、テディ・ペンダーグラスの曲からフレーズをリフレインしたカヴァーで、1979年にリリースしたサード・アルバム『Teddy』(注1)の収録曲<Do Me>だ。ただこの曲は本国でのシングル曲ではなく、1980年に<「ヒゲ」のテーマ>(注2)が大流行となった日本でのみシングル・カット(注3)されたナンバーだった。これは彼がソウル・ミュージック等に造詣が深いレコード・コレクターという側面からの成果だったといえるだろう。 

 またドリフ名義ではあるが<ドリフの早口ことば>(注4)もソウル・ミュージックからのひらめきと言われている。それはシュガーヒル・ギャングの<Rapper’s Delight>(注5)にウィルソン・ピケット1971年のヒット<Don’t Knock My Love Pt.1>(注6)のバック・トラックをはめ込んだものと一般には伝えられている。ただそれのみならず、この曲はダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイの共演アルバム『Dianna & Marvin』(注7)に収録された<Don’t Knock My Love>(注8)が1974年にヒットしたことも影響していたのように思える。 

 このような彼のソウル・ミュージックに触発されたセンスは当時、音楽業界からも注目された。その評価は1980年前後に発刊されていた音楽雑誌『jam』などからオファーを受け、ソウル系アルバムのレビューを寄稿する「ソウル・ミュージック評論家」としての顔を持つことに繋がっている。 

 更に「志村けん」としての代名詞と言われる「変なおじさん」の元ネタは、沖縄を代表するバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」の1977年本土デビュー曲(沖縄では1972年)として知られたナンバーだ。そんなこのシングルには「赤塚不二夫イラスト版ジャケット」(注9)があり、このイラストは「変なおじさん」を連想させるものだった。個人的な見解になるが、彼はこのイラストに触発されて「変なおじさん」を考案したのではないだろうか?もしそうであったなら、こんなところにも彼の音楽にこだわったギャグ・センスのひらめきに非凡さを感じる。 

 そして、1988年からは『志村けんのだいじょうぶだぁ』で、だいじょうぶだぁファミリーが様々なコスプレをして歌い踊ったことで話題になった<ウンジャラゲ>(注10)で視聴者を虜にしている。
 この曲はいかりやさんがドリフ時代「クレイジー的な音楽にはかなわない」とばかりに避けていた「ハナ肇とザ・クレイジー・キャッツ」のオリジナル・ナンバーだ。しかも、この曲はクレイジーの大ヒットではなく、クレイジー末期の1969年にリリースされた<あんた>のB面曲だったのだ。こんなことろから引っ張り出して再構築させているところにも、彼のギャグに対する探求心の旺盛さに圧倒させられるばかりだ。しかもこのカヴァーは、オリジナル・アレンジのままという大胆なものだった。
 なお、この曲では「中森明菜」「田原俊彦」など多くのシンガーを巻き込んだパフォーマンスが評判になった。そして「志村けんとだいじょうぶだぁファミリー」として「夜のヒットスタジオ」 に出演しているが、その際には大先輩植木等さんが登場し、御大の前で本家以上のパフォーマンスを披露している。


 とはいえ彼の功績は、過去の遺産を消化して見事に自分流のものに仕上げるものばかりにあらず、オリジナル・ユニットを通じてもそのギャグ・センスを爆発させている。そんなお馴染みのコンビと言えば、1993年田代まさしさんと組んだ<婆様と爺様のセレナーデ>(注11)、そして研ナオコさんとのユニット「けん♀♂けん」の<銀座あたりでギン!ギン!ギン!>(注12)が思い浮かぶはずだ。 
 とはいえ彼の矛先は、このようにありそうなメンバーだけでなく、2002年には当時一世風靡していたモーニング娘からの派生ユニット「ミニモニ」と組むという想定外のコンビをも誕生させている。そこでは「バカ殿様とミニモニ姫」名義で<アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄>(注13)をリリースし、何と「ゴールド・ディスク」を獲得するほどのヒットにつなげた。 


 そんな志村さんだが、彼は生前ジュリーこと沢田研二さんとの交流が深かった。その交流は彼がドリフに加入する前の「マックボンボン」時代に、ジュリー・コンサートの前座を務めていた頃から続いていたようだ。 
 そんな二人は2001年には『ジュリけん』(文化放送)という1時間番組で1年半近く共にしていた。この縁からか同年10月13日には『二人のビッグショー』での共演に繋がっている。さらに、2003年7月19日~8月9日の『沢田・志村のさぁ、殺せ‼』では舞台共演も実現しているが、これらは全てジュリーからの希望だったという。 このように日本を代表するシンガーであるジュリーが共演を切望していたのは、彼のコントには音楽の息吹が脈づいていたという証だったのではないだろいうか。

 近年の音楽の楽しみ方は「観賞用」としてではなく、完全に「BGM化」している。そんな昨今の世情ではあるが、志村けんさんの愛した「音楽ネタ・コント」の伝統は、後進に末永く引き継がれていかれることを祈るばかりだ。
 最後なってしまったが、改めて志村さんが生み出した沢山の「笑い」の功績に感謝し、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。 


(注1)1979年6月 23日 Teddy Pendergrass 3rd『Teddy』 U.S.5位 R&B.1位 
(注2)たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
    1980年2月25日発売 (SMS) SM06-52 5位 32.3万枚 
(注3)1979年 Teddy Pendergrass (Philadelphia International) 06SP-454 
(注4)いかりや長介とザ・ドリフターズ 第13作Single 
    1980年12月21日発売 (SMS) SM07-81 10位 23万枚 
(注5)1979年9月 16日 The Sugarhill Gang 1st Single U.S.36位 R&B.4位U.K.3位 
(注6)1971年4月 Willson Picket 36th Single U.S.13位 R&B.1位 
(注7)1973年10月26日『Dianna & Marvin』U.S.26位 R&B.7位 U.K.6位Japan1位 
(注8)1974年Dianna & Marvin 4th Single U.S.26位 R&B.7位 
(注9)喜納昌吉&チャンプルーズ 1977年11月5日発売 フィリップスFW-2007 
(注10)志村けんと田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー
     1988年11月2日発売 ポニーキャニオン7A-0919 20位 10.1万枚
     ハナ肇とクレイジー・キャッツ 第20作Single<あんた/ウンジャラゲ> 
     1969年7月10日発売 東芝音楽工業 TP-2186 
(注11)1993年12月17日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 48位 2.9万枚 
注12)2001年10月28日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 41位 2.7万枚 
(注13)2002年4月24日発売 Zetima EPCE-5156 3位21.2万枚

                         2020年4月2日鈴木英之