2025年4月23日水曜日

伝承民謡 スカボロー・フェア

  最近、少し興味があった英国伝承童謡のマザーグースについて調べていたら、サイモン&ガーファンクルのヒット曲「スカボロー・フェア」の情報に辿り着いた。有名曲なので存在は知っていたけれど、マザーグースにも含まれるのは今になって知った。

Scarborough Fair / Simon & Garfunkel

 サイモン&ガーファンクルの直接的なカバー元になっているのは、60年代英国のフォークリバイバル運動の中心人物だったマーティン・カーシーの弾き語りだそう。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、まだ学生だった1957年にトム&ジェリーとして、母国アメリカでデビューしたものの思ったようには売れず、その後ポール・サイモンはイギリスに渡った。その際に、フォーククラブなどでトラッドを弾き語っていたマーティン・カーシーの「スカボロー・フェア」を聴いたそうだ。当時この弾き語りに影響を受けたのはポール・サイモンだけではなく、ボブ・ディランも同曲からインスピレーションを得て「北国の少女」を制作している。もとは古くからの伝承民謡のため多くのバリエーションが存在する曲で、マーティン・カーシーはイワン・マッコール&ペギー・シーガーによる歌集のバージョンを元にしていると言われている。

Scarborough Fair / Ewan MacColl

 "スカボロー・フェア"というのは13〜18世紀頃、約500年もの間、イギリス北東部ヨークシャー州の海辺の街、スカボローで毎年夏に開催されていたマーケットのことだそう。サイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」の歌詞は、ある者がスカボローに住むかつての恋人への伝言を、その地へ向かう者に依頼する内容になっている。伝言には、

縫い目を残さず針も使わずにキャンブリックのシャツを作ってほしい

海と波打ち際の間に1エーカーの土地を見つけてほしい

といった、不可能な課題が提示される。そして、その伝言に対しての言葉なのか、繰り返し歌われる

パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム

という言葉。謎かけ歌として解釈が様々存在するけれど、ここで出てくるハーブは古くは魔法的な意味を持ち、災いから身を守るためのお守りとしても考えられていたことが、植物学者や民俗学者にはよく知られていることらしい。問いかけに応じると魂を奪われてしまうため、まじないとしてハーブの名前を唱えているというのがひとつの解釈だ。

 また、サイモン&ガーファンクルのバージョンでは、前述の恋人への伝言に、さらに1965年にリリースされたポール・サイモンのソロアルバム『ポール・サイモン・ソングブック』収録の反戦歌「ザ・サイド・オブ・ア・ヒル」の歌詞の内容が組み合わされているので、ここでの伝言は戦死した騎士の生前の恋人へのものかもしれないし、スカボローの恋人の方がこの世に存在していない、と解釈されることもある。

 「スカボロー・フェア」の歴史を辿れるところまで辿ると、19世紀後半にアメリカの文献学者フランシス・ジェイムズ・チャイルドが、イングランドやスコットランドの民間伝承バラッドを収集してまとめた、『チャイルド・バラッド』の整理番号Child #2にあたる「エルフィンナイト」に行き着くとされる。ここでは、妖精の騎士へ結婚を望む乙女に対して騎士が不可能な課題を提示し、乙女も同様に困難な課題を考案する。

 1993年にリリースされたフォーク・ドキュメンタリー番組のサウンドトラック『アコースティック・ルーツ』にはマーティン・カーシーとペンタングルのメンバーとしても知られるフォーク・ミュージシャンのバート・ヤンシュが共演したバージョンが収録されていて、ここでのタイトルは「エルフィンナイト」とされている。

The Elfin Knight / Martin Carthy · Bert Jansch

 「エルフィンナイト」から続く「スカボロー・フェア」の根幹は "不可能な課題" だと思うけれど、これがバージョンによって様々な効果を生んでいて面白い。有名な男女デュエットのものでは、お互いが不可能な課題を与え合い、達成できればあなたは恋人だと歌う。16〜17世紀から存在するとされている民謡が伝承の過程で変化しつつも、消滅することなく歌い継がれてきたと思うと、途方もなく壮大でわくわくしてくる。


参考・参照サイト



執筆者・西岡利恵

60年代中期ウエストコーストロックバンドThe Pen Friend Clubにてベースを担当。



■NEWアルバム『Back In The Pen Friend Club』をCD、配信にて発売中。

試聴トレーラー:

■ライブ
5/18(日) ​横田基地『日米友好祭2025』

詳細・ご予約

■クラウドファンディング
2枚組NEWアルバム『Songularity - ソンギュラリティ』
制作&レコ発ツアー応援プロジェクト

プロジェクトページ








































2025年4月16日水曜日

映画『BAUS 映画から船出した映画館』


映画を観る前のタイトルからの想像と、観た後とで、こんなにイメージの変わる映画があっただろうか。そうか、そうきたかと、にやりとしたくなる場面も。そして、バウスシアターを愛した人だけの映画でもなかった。むしろ、誰のこころにもあって、記憶のどこかに潜んでいる何かを思い起こさせるような共感の物語。

 



  映画を観る前と後とでイメージが変わったなと思う要素はいくつかあって、そのひとつが、説明的なセリフやシーンが少ない、ということだった。それはもう、潔いまでの少なさだった。そして、小さな記憶のかけらがひとつひとつ、大切に積み重ねるように綴られていることも。

  映画で描かれていたのは、吉祥寺の地で、映画館、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の物語。この家族にとって、映画館は家業だったということになる。それだけに、映画や映画館への思いも大きかっただろうし、経営を続けていく苦労も並大抵のことではなかったはずだ。兄弟や家族が中心となって経営するとなれば、遠慮もないから、言い合いになるようなこともあったかもしれない。時代が時代でもある。昭和のはじめから、戦争の時代を経て、戦後、人々の生活スタイルも街も娯楽もガラガラと大きく変貌した時代。90年という長い年月の間には、家族のあり方も変わる。山あり谷あり、濃密な内容と展開を、なんとなく想像していた。

 しかし違った。出会いや決断、ひょんな一夜、戦争の悲惨さ、家族の日常も、生と死も、大きな感情として表されるのではなくて、静かに進行していた。本当に必要なものだけを残して、削ぎ落とした感じ。大事な場面ほど、言葉が少なかった気さえする。

さて、タイトルにある「BAUS」とは、かつて吉祥寺(東京都武蔵野市)にあって、映画はもちろん、演劇、音楽ライブ、落語など型にも枠にもはまらず上演し、観客からも作り手からも愛された劇場「バウスシアター」のこと。2014年5月31日、惜しまれつつ閉館した。



 その歴史をさかのぼると、大正141925)年に創設された「井の頭会館」にいきつく。村の有志約100人が出資して、村の娯楽場としてつくられ、映画をはじめ、浪曲や浪花節などの興行も行っていたそうだ。この映画のなかで、支配人のセリフとして、「みんなここに来て、映画を観て、明日またがんばるための英気を養うんだ」というようなことが語られていた。まだ吉祥寺村と呼ばれていた時代。大正12年に起きた関東大震災で被害の大きかった地域から逃れてきた人も多く、吉祥寺村周辺の人口は急増したというが、まだまだ店などは少なく、娯楽らしい娯楽もなかったようだ。そんな時代に、人々がお金を出し合ってつくった場所は住民にとって大切な場所であったと想像できる。

 そして、昭和3(1928)年頃、この井の頭会館で働くようになったのが、本田ハジメとサネオの兄弟。吉祥寺の地で、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の、最初のふたり、である。兄弟は、「あしたを見つけにいく」と、故郷青森を飛び出し、東京に向かい、なぜか吉祥寺村にたどり着いたのだった。

 映画自体が、必要なものを残して、きっぱりと削ぎ落とした展開になっているのに、私があれこれ説明してどうする……()。まぁ、ここまでは、ざっくりと。  

※映画パンフレットの表紙。鈴木慶一さん演じるタクオがたばこのけむりをくゆらす場面は、映画のなかで印象的につかわれる。裏表紙の右下には、井の頭会館で弁士をつとめる兄のハジメの裏方として蓄音機でレコードをかける若き日のサネオ。このシーン、好きだなぁと思っていたら、表紙にも使われていた。 



手と音が語るもの

  もう1つ、気になったのは「手」の表現だった。説明的なセリフやシーンの少ない映画だったと先述したが、その分、登場人物の「手」が多くを語っていた気がする。

 中でも特に印象に残っているのは、武蔵野映画劇場(後に吉祥寺ムサシノ映画)の初日の場面だっただろうか、小学生のタクオと母のハマが並んで座って映画を観る場面でのこと。ふたりは手をつないでいる。ハマは優しい表情で目を閉じる。それだけなら、母と子のほほえましい場面なのだが、そのあとカメラがつながれた手にズームアップしたのだ。そしてハマは、つないだ手を優しくぎゅっとする。お母さん、ここにいるよ、大丈夫だよ、とでも言うように。

大人の手と小さな子どもの手がつながれている画像は、世の中にあふれている。検索すれば、山ほど出てくるし、とてもほほえましいものだ。

でもなぜか、この映画の流れのなかで、つながれた手がアップになった瞬間、胸騒ぎがした。そして予感は当たってしまった。その場面のあと、ハマは倒れ、亡くなってしまうのだった。

 ちなみにこの母子ふたりの場面にはセリフはなかった。短いシーンだが、セリフをつけようと思えば、つけられると思う。でもやっぱり、ここにセリフはいらないんだ。

あるいは、なんの場面だったか、ある小雨の降る夜、井の頭公園に来たサネオが、井の頭池に近づき、池に手を入れようとするシーンがあった。でも、池に手を入れる直前に傘がすっと差し出される。ハマとタクオがサネオを迎えに来たのだと思う。たぶんサネオを心配して。他にも、水に手を入れようとする場面が何度かあって、それもとても気になっている。

 

 映画を観たあとプログラムを読んだら、米倉伸さん(撮影)の寄稿の中に、手の表現について書かれている部分があった。

 甫木元空(うきもとそら)監督から「今回はできれば〝手〟を撮りたい」と提案があり、米倉さんも同じことを考えていたこともあって、話し合いを進め、全編にわたって様々な〝手〟のアクションを捉えていくことを選んだのだそうだ。そうか、だから手が印象的に画面に映る場面が多かったのか、と腑に落ちた。

  手そのものの表現というだけではなく、「この映画の中には〝何かを受け渡す〟という行為をもって語られる物語や、人々の関係性が多くある。社長からサネオへ、サネオからタクオへと引き継がれていく映画館、時を超えて引き継がれるアルバム、細かなことで言えばチケットをもぎる行為や、池のほとりに座り込むサネオに差し出される傘だってそうだろう」(プログラム・米倉伸さん寄稿より引用)。

 

そういうことで言うと、音と音楽もそうだ。挿入歌の中で、ある1曲が、アレンジを変えて何度か使われていて、それがとても印象に残った。メロディはとても優しく、シンプル。シンプルなだけに、アレンジによって曲のイメージは大きく変わり、意味合いも変わっていることが、よくわかったからだ。

 

ドレミミ- ミレ#ミファ ミ-レ-

シドレレ- レド#レミ レ-ド-

 

何度か流れる中で特に印象的だったのは、音楽を担当した大友良英さんによるエレキギターの演奏だった。歪んだ音。

以前、音楽は映画に一番近い構造を持っている、と、何かで読んだことがある。どちらも時間の軸の上につくる構造物。たとえば、映像が静かな動きをしている時に、音楽がドーンとつくと、映像に別の意味が生まれてくる。その逆パターンもあるだろう。登場人物のこころを表したり、補ったり、包み込んだり、作品の精神世界を大きく表現したり。大友さんが弾くエレキギターの音を、どう聴くか。

 

 先に、説明的なセリフやシーンが少なく、本当に必要なものだけを残して削ぎ落とした感じ、と書いたが、だからこそ響いてくる一言があったり、手の表現や音、音楽のつき方といった、言葉ではない部分の表現が雄弁で、とても豊かな感情につつまれた映画だった。



※2014年5月、バウスシアターが閉館するのに合わせて発行された『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』(ラスト・ハウス実行委員会編/株式会社boid刊)

 

 このWebVANDAでのコラムは、ひょんな縁がきっかけで書くことのなったのだが、実は、私はバウスシアターで映画を観たことがない。バウスタウン、バウスシアターという名前は「ぴあ」などの情報誌で知っていて、気になる映画館ではあって、結婚して吉祥寺の近くに引っ越してきたときには、何度かバウスシアターの前まで行ったこともあるのだが、ついに映画を観ることのないままに、閉館してしまった。

 そんな私が、バウスの映画の話を書いてもいいのだろうか。ネットやSNSには、「よく通いました」「バウスシアターは私の青春でした」といった言葉が並び、内心、ちょっと不安もあった(だから、途中からはバウス映画関係のネットものは見ないことにした)。

でもそんな不安は、映画を観終えたときには、さっぱりと無くなっていた。「バウスを愛した人だけの映画でもなかった」などの冒頭リードの文章は、この映画を観た直後の正直な気持ちだ。

 

それと、最初のほうで、「BAUS」について、「かつて吉祥寺にあった映画館バウスシアターのこと」と書いたが、映画の内容などを思い出しながらこうして原稿を書いているうちに、これはバウスシアターだけのことではなくて、BAUS的なもの、井の頭会館以降ずっと引き継がれてきて、そして〝映画づくり〟として今も続いている精神性や遺伝子のようなものを表しているのではないか、と思うようになった。だから、「バウスシアター」ではなくて「BAUS」なのだろう。違うかな。でも、それは観た人がそれぞれ思えばいいことかもしれないね。

 


井の頭公園と吉祥寺、そして自転車

  2025年3月22日。映画+監督舞台挨拶を観終わって、吉祥寺オデヲンを出る。土曜日夕方の吉祥寺は、人であふれていた。映画館を出てその雑踏の中に入っていったとき、なんだか映画のエンドロール映像の続きの中に自分がいるようで、奇妙な気持ちになり、思わずきょろきょろと周囲を見まわしてしまった。そして、そうだ、井の頭公園を通って帰ろう~と思い、吉祥寺駅を通り抜けて、公園のほうへ。 

井の頭公園手前のカフェでコーヒーを飲んでから公園に行ったら、すっかり夕暮れの空色になってしまった……。この日はまだ東京のソメイヨシノは開花前で、いつものゆったりとした週末夕方の井の頭公園という感じ。 井の頭公園の正式名称は「井の頭恩賜公園」という。大正6(1917)年5月1日開園。公式ページはこちら

※井の頭公園には園内の一画にバードサンクチュアリがあって、高さのある金網で区切られ、人間が決して入れないようになっている。そうした安心できる場所もあるし、武蔵野三大湧水池の1つに数えられる井の頭池もあることから、公園には数多くの種類の鳥がいる。井の頭公園のこうした取り組みは、本当に大事にしたい。池だけではなく、木々にも、普段あまり目にしない鳥たちがとまっているので、井の頭公園に行くことがあったら、ぜひ、静かに観察してみてくださいね。

 

 映画の中で登場人物たちは、よく井の頭公園を歩いていた。この映画は過去と現代を行ったり来たりするが、その過去のシーンでは、兄弟で、家族で、ときにひとりで、公園を歩く場面が数多くあった。家族の日常にとって、吉祥寺における映画館経営という家業にとっても、井の頭公園が大きな存在だったことが伝わってきた。

それは現代の場面にも受け継がれ、鈴木慶一さん演じる、年を重ねて白髪になったタクオも公園に来ていた。しかもその場面は、バウスシアターが閉館する最後の日という設定で、タクオは家族の写真アルバムを開いたり、公園の中を歩いたりして過ごしていた。

そういえば、自転車に乗って来ていたな。池のまわりの道を自転車を押してのんびり歩いていたり、停めた自転車にまたがって、なぜか全力でこいでいる場面もあった。あれは何だったのかな、タクオは井の頭公園で何を思っていたのだろう……なんていうことを考えながら公園を歩いていたら、下の写真の場所で、右のほうからギーコギーコと古い自転車の音が聞こえてきた。 

※写真だとわかりにくいが、けっこう急な坂道。


井の頭公園は、まわりを囲む道から池に向けて、急な下り坂になっている。アップダウンの多い公園だ。そこを、現代のタクオと同世代くらいの男性がギーコギーコと大きな音をたてて自転車をこいできて、通り過ぎていったので、おぉ~と思う。近所に住む人だろうか。慣れた坂道なのかもしれない。映画の中で現代のタクオも自転車で公園に来ていたけど、本物の拓夫さんも自転車で公園にいらっしゃるのかしら……(バウスシアターの総支配人であり、バウス閉館後は本田プロモーションBAUSの代表。本映画の原作『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』の著者)。

 

 そして、映画が終わりに近づいたころ、タクオの携帯に電話がかかってきて、短い会話を交わすとタクオは自転車に乗り、颯爽と公園を後にする。行き先はバウスシアター。閉館する最後の日。

それまで、アルバムをめくり、池のまわりを歩き……タクオのこころが井の頭公園から離れられないような感じもあったが、自転車に乗るときの顔は、やわらかですっきりとした表情だった。この日、井の頭公園に来て、長い時間を、ひとり、公園で過ごし、気持ちに区切りがついたのだろうか。……いや、〝ひとり〟じゃない、か。もう会うことは叶わなくても心に抱き続ける大切な人たちと、向かう先には映画館を一緒に守り続けてきた仲間たちがいる。

 

 バウスシアターは終わりの日を迎えたが、でも、街は変化し続け、「BAUS」も続いていることを映画を観た私たちはわかっている。そして、同じように、いろいろな街や人のこころにも大切な何かは消えることなくちゃんとあることも。

 

 余談

  昭和に入ると、吉祥寺、三鷹周辺の人口は急増する。鉄道が敷設されたこと、関東大震災で被災した人が移住してきたなどが主な理由だが、東京市内に比べると自然豊かで空気がきれいで、土地も安かった。あるいは、不況が時代を圧迫し、東京の中心部では思想統制などがきびしくなっており、特に文士などは、そうした場所から逃げるように移り住むケースもあったようだ。山本有三がそうだ。太宰治の場合はそれとはちょっと違うが、昭和14年、井の頭公園の裏手(住所でいうと三鷹村下連雀)に引っ越してきた。偶然にも、本田ハジメ・サネオ兄弟と同じ、青森出身である。また、「ちいさい秋みつけた」「夏の思い出」の作曲家として知られる中田喜直もこのあたりに住んでいた。「ちいさい秋みつけた」のメロディは井の頭公園を散歩している時に生まれたそうだ。園内にはピアノの形をした歌碑もある。

 鉄道の駅ができたなどの理由だけでは、映画や音楽、文学といった文化を発信するような街にはならなかっただろう。この街には何か、人々を引き寄せる魅力があったわけで、それが「井の頭公園」という「場」だった気もする。ハジメ・サネオ兄弟が吉祥寺に流れ着いたのも、案外、そうした見えない力のようなものに導かれたのかもしれない。

 

映画『BAUS  映画から船出した映画館』のCASTや上映館など詳しい情報は公式サイトでお確かめください。


●関連書籍

『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』ラスト・バウス実行委員会編 株式会社boid 2014年5月

『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』本田拓夫著 文藝春秋企画編集部 2018年12月



大泉洋子

フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区・目黒区のタウン誌、雑誌「アニメージュ」のライター、「特命リサーチ200X」「知ってるつもり?!」などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』『樹木図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』など。編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。

 



2025年4月6日日曜日

Various Artists:『Paul Weller Presents That Sweet Sweet Music』


 70年代後半にイギリスの音楽界にデビュー後、オルタナティブ・ロックや後のブリット・ポップ界でリスペクトされているポール・ウェラーが、自ら選曲したソウル・ミュージックのコンピレーション・アルバム『Paul Weller Presents That Sweet Sweet Music』(CDTOP 1655)をACE RECORDSからCDとアナログLPでリリースした。
 ポール・ウェラーはその音楽性だけに留まらず、ファッションやジャケット・アートなど、自身が影響を受けた60年代のムーブメント” Mods(モッズ)”を源流としたセンスにより、世代を超えて多大な影響力に与えており、”モッド・ファーザー”と称されている。日本の音楽業界でもWACK WACK RHYTHM BAND(ワック・ワック・リズム・バンド)の山下洋や、元Cymbalsで現TWEEDEES(トゥイーディーズ)沖井礼二など、筆者とインタビューで交流のある、拘り派ミュージシャンの間でも信奉者が多く、その影響力は母国イギリスを超えて世界に広がっている。

収 録 曲
1 God Made Me Funky - The Headhunters
2 Spanish Twist - The I. B. Special
3 Breakaway – The Valentines
4 Top of the Stairs - Collins & Collins
5 Don't Let the Green Grass Fool You - The Spinners
6 Black Balloons - Syl Johnson
7 Soulshake - Peggy Scott & Jo Jo Benson
8 I Can't Make It Anymore - Richie Havens
9 You Got to Have Money - The Exits
10 Pull My String (Turn Me on) - The Joneses
11 Run for Cover - The Dells
12 On Easy Street - O.C. Smith
13 It Ain't No Big Thing - The Radiants
14 Summertime - Billy Stewart
15 In the Bottle - Brother to Brother
16 Hard Times - Baby Huey
17 Maggie - Johnny Williams
18 When - Joe Simon
19 Pouring Water on a Drowning Man - James Carr
20 That's Enough - Roscoe Robinson
21 Blackrock "Yeah, Yeah" - Blackrock
22 Golden Ring - American Gypsy
23 Search for the Inner Self - Jon Lucien
24 Life Walked Out - The Mist
25 In the Meantime - Betty Davis
26 Beautiful Feeling - Darrell Banks



 弊サイト読者には説明不要であろうが、そんなウェラーのプロフィールに触れておく。1958年5月25日にイギリスのサリー州Wokingで生まれたウェラーは、十代前半にリード・ギタリストのスティーブ・ブルックスらスクール・メイト達とバンドを組んで、ベーシストとして音楽活動を開始する。メンバー・チェンジの末にセカンド・ギタリストのブルース・フォクストンとドラマーのリック・バックラーが参加するも、76年にブルックスが脱退したことで、ウェラーはフォクストンにベースにコンバートすることを勧め、自らボーカル兼ギタリストとしてフロントに立ち、The Jam(1976-1982)を結成させた。
イギリス国内では18曲ものトップ40シングルをリリースし、その内「Going Underground」(1980年)や「Town Called Malice」(1982年)など4曲はナンバーワン・ヒットに輝いたが、新たな音楽的可能性を望んだウェラーの脱退宣言を機に、バンドは1982年12月のフェアウェル・コンサートをもって解散した。

 直ちにウェラーはThe Jam末期から音楽的交流があり共通のセンスを持つ、キーボーディストのミック・タルボット(元デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、ザ・マートン・パーカーズ)と共にThe Style Council (スタイル・カウンシル/1983–1989)を結成し、1983年9月にミニアルバム『Introducing the Style Council』でデビューする。翌84年3月のファースト・フルアルバム『Café Bleu』ではジャズ、ソウル、ファンクからボサノヴァまでと様々なジャンルの楽曲を収録しており、音楽ジャーナリスト達の間では賛否両論になったが、セールス的にはまずまずの成果を出した。続くセカンド『Our Favourite Shop』(1985年6月)では全英アルバム・チャートでナンバーワンとなり、アメリカを除く欧米と日本でも好セールスとなり、彼ら最大のヒット・アルバムになっている。
 その後『The Cost of Loving』(1987年2月)では、彼らが敬愛したシカゴのニューソウルを代表するカーティス・メイフィールド、ルーサー・ヴァンドロスの『Never Too Much』(1981年)などで知られる名エンジニアのカール・ビーティ、また同時代のアメリカン・ソウル兄弟デュオのThe Valentine Brothersにミックスダウンを曲ごとにオファーするなど、ブラック・ミュージックに最接近する。続く『Confessions of a Pop Group』(1988年6月)ではクラシカルな組曲や60年代中後期のビーチボーイにおけるブライアン・ウィルソンからの影響を感じさせ、ポップ・ミュージックとしては振り切り過ぎたサウンドが、当時の平均的な音楽リスナーにとってトゥーマッチだったのか、チャート的には芳しくなく、失速してしまった。
 1989年のシングル「Promised Land」(ジョー・スムースのカバー)ではガレージ・ハウスにチャレンジして、このサウンドでアルバム製作もおこなったのだが、所属レコード会社ポリドールからリリースを拒否され、惜しくも解散してしまった。この幻のラスト・アルバム『Modernism: A New Decade』が陽の目を見たのは、10年後の1998年10月だった。
 
 スタイル・カウンシル解散直後のウェラーは、ソロアーティスとしてレコード契約も出来ないままでいたが、1991年5月シングル「Into Tomorrow」をThe Paul Weller Movement名義としてソロデビューする。翌1992年9月には盟友のビリー・ブラッグが所属するGo! Discsよりファースト・ソロアルバム『Paul Weller』を皮切りに、『Wild Wood』(93年9月)、『Stanley Road』(95年5月)とコンスタントにリリースし、音楽性や商業的にもそのキャリアを復活させて、2024年の最新作『66』までに17枚のアルバムを発表している。


アナログLPレーベル

 さて本作『Paul Weller Presents That Sweet Sweet Music』であるが、ウェラーの音楽活動の変遷を垣間見れる、良質なソウルやファンク・ミュージック26曲がコンパイルされていて、彼の熱心なファン向けだけとしてではなく、このコンピを切っ掛けにしてレアな曲をディグしていくのも一興ではないだろうか。
 ここからは筆者が気になった収録曲を解説していこう。冒頭の「God Made Me Funky」は、数多のレアグルーヴ・ナンバーの中でも聖典と呼ばれる、The Headhuntersの『Survival of the Fittest』(1975年)収録曲で、グループ名義のファースト・アルバムを代表する曲である。ベーシストのポール・ジャクソンのボーカルにゲストのポインター・シスターズのコーラスが掛け合うシンプルなコード進行で、ジャクソンとドラマーのマイク・クラークによる巧みなグルーヴに、当時20歳前後の若きギタリストのブラックバード・マックナイト(筆者はP-FUNKオールスターズの来日公演で彼のプレイを生で観ている)のファンキーなカッティング、マイルスの『Bitches Brew』(1969年)でも活躍したリーダーのベニー・モウピンによるフリーキーなテナーサックス・ソロが絡んでいく9分40秒の長尺ファンクだ。
 そもそもThe Headhuntersは、ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィスの弟子筋では最も才能を有して成功した、ピアニストのハービー・ハンコックの12thソロアルバム『Head Hunters』(1973年)を切っ掛けとして、参加ミュージシャンにより結成されたフュージョン・ファンク・バンドだった。因みにウェラーはスタイル・カウンシルのデビュー・シングルを「Speak Like A Child」というタイトルにしており、曲調やサウンド共に全く異なるのだが、ハンコックの6thソロアルバム『Speak Like a Child』(1968年)のタイトル曲からインスパイアしていたのではないだろうか。この様に異ジャンルからの飽くなき吸収力やセンスにウェラーらしさを感じさせる。
Herbie HancockとThe Style Council の
各『Speak Like a Child』

 Collins & Collinsの「Top of the Stairs」は、フィラデルフィア出身で父親もミュージシャンだったビル・コリンズが妹トニー・コリンズを誘って組んだ兄妹デュオのシングル曲だ。モータウン黄金期を支えたソングライター・チームで、夫婦デュオとしても活動したニコラス・アシュフォードとヴァレリー・シンプソンから提供され、唯一のアルバム『Collins And Collins』(1980年)にも収録されている。70年代ギャンブル&ハフの元でアレンジャーとして、Soul SurvivorsやThe Three Degrees等のセッションに参加していたジョン・デイヴィスが本曲のプロデュースとアレンジを手掛け、フィリーソウルの本極地であるSigma Sound Studiosでレコーディングされているので、この曲にもフィリーの名残がありつつ、ディスコ・ムーブメントで希釈された70年代ソウルからブラック・コンテンポラリーへのミッシングリンクになるであろうモダン・ソウルが展開されている。とにかくアシュフォード&シンプソンによるソングライティングとデイヴィスによるアレンジが素晴らしく、このコンピレーションの中でも人気曲になるだろう。この兄妹デュオはシングル3枚とアルバム1枚で活動を終えた。

 ここからはマイナーながら良曲にも触れたい。イギリスのレアなノーザン・ソウルとしてディグされているのが、The Exits の「You Got to Have Money」だ。彼らはロサンゼルス出身の4人組ボーカル・グループで、60年代後半に4枚のシングルのみリリースして、リードシンガーのジミー・コンウェルは解散後はソロシンガーとなり活動を続けた。この曲は1967年にGemini Recordsからリリースされたデビュー・シングル「Under The Street Lamp」のカップリング曲で、クレジットによるとメンバーの連名によるオリジナル曲だが、TEDDY RANDAZZO(テディ・ランダッツォ)に通じる作風が耳に残って離れない。アレンジ的には2台のギターにベースとドラムの基本的なリズムセクションにコンガを加えているのが注目点で、恐らくH=D=Hが手掛けていた頃のフォートップスを意識していたのだろう。
 Brother to Brotherによるギル・スコット・ヘロンの「In the Bottle」(1974年)のカバーは、ノーザン・ソウル・ブームの時期に散々語られてきたので軽く触れるに留めるが、オリジナルのThe Midnight Bandの演奏に比べて、このヴァージョンの方がタイトで巧いのは間違いない。ベーシストのシンコペーションとドラマーの正確なキックを聴けば理解出来るが、彼らはシルヴィア・ロビンソンが設立したTurbo Recordsに所属しており、本作のレコーディングでは、The Momentsのアル・グッドマンとハリー・レイが共同プロデューサーとして仕切っていたので、手練なミュージシャン達が参加していたのだろう。

 Baby Huey(ベイビー・ヒューイ)の「Hard Times」もノーザン・ソウル・ナンバーとしてポピュラーで、シカゴのCurtom Recordsから1971年にリリースされた『The Baby Huey Story: The Living Legend』に収録され、同レーベルを設立したカーティス・メイフィールドがソングライティングとプロデュースを手掛けている。当時のカーティス・サウンドに通じるサイケなワウワウをかましたギターをフューチャーした、ブルース進行のファンキーなシカゴ・ソウルである。この曲はThe Headhuntersの「God Made Me Funky」と同様に、多くのヒップホップ・アーティストにサンプリングされているが、サビのホーンのリフ・パターンは、ピーター・ガブリエルが1986年に全米チャートナンバーワンを果たし大ヒットさせた「Sledgehammer」(『So』収録)にもオマージュされている。
 残念なことにヒューイは、本作レコーディング期間の70年10月に薬物使用の心臓発作により26歳の若さで急死したため、カーティスが残りのレコーディングを完成させたという。それによりヒューイのバックバンドThe Babysittersの演奏ではなく、Curtomの手練なセッション・ミュージシャン達が差し替えている可能性があり、この曲でも明らかにヘンリー・ギブソンらしきコンガのプレイが左チャンネルから聴ける。

Life Walked Out / THE MIST 

 The Mistの「Life Walked Out」もマイナーながら良曲だ。ノーザン・ソウルとして注目されていたことで、2018年に日本でアナログ7インチとしてリイシューされたのが記憶に新しい。謎の多いグループなのだが、彼らはカンザス出身の4人組ボーカル・グループで後にThe Visitorsとなる。地元カンザスでThe Chi-litesとのライブ共演により、同グループのユージン・レコードの知己を得てBrunswick RecordsのサブレーベルのDakar Recordsからシングルを4枚リリースしている。このThe Mist時代のシングルはグループには無許可でTwinight Recordsから1971年にリリースされたもので、そのような複雑な契約になった経緯はあるにしろ、この「Life Walked Out」のクオリティには目を見張るものがある。
 ソングライティング・クレジットはBilly Durham、Leamon Coxとプロデュースも手掛けたMark Davis(マーク・デイヴィス)の名義になっているが、キーマンのマークに注目したい。若干14歳から名門のChessやVee Jay Recordsでセッション・ピアニストや写譜スタッフを務めキャリアをスタートさせ、弊誌ではお馴染みのソフトサイケ・バンドのRotary Connectionや同メンバーだったミニー・リパートンの初期ソロ作で裏方を務め、その後Motown Recordsでマーヴィン・ゲイやダイアナ・ロス、The Jackson 5といった大物アーティストのレコーディングに関わるようになる。この曲の陰影に満ちたコンポーズの素晴らしさはそんなマークの才能に寄るところが大きい。バッキングは恐らくThe Chi-litesでも演奏しているシカゴ・ソウル系のスタジオ・ミュージシャン達ではないだろうか。

 ラストのDarrell Banks(ダレル・バンクス)の「Beautiful Feeling」は、オハイオ州マンスフィールド出身のソウルシンガーのセカンドアルバム『Here to Stay』(1969年)からシングルカットされたミドルテンポの感動的なバラードだ。1937年7月生まれのバンクスはデトロイトに出て、66年にRevilot Recordsと最初の契約をし、その後名門アトランティック系のATCO Recordsや名門のStax系のVoltと契約して生涯で2枚のアルバムと7枚のシングルをリリースした。オーティス・レディング系譜のシンガーとして才能に恵まれなら、悲運にも1970年に警官に射殺され32歳の若さで亡くなっている。
 この曲はデトロイトをベースに活動するThe Brothers Of SoulのBobby EatonとFred Bridges、Knight BrothersのRichard Knightの3名のソングライティングで書かれており、名匠Don Davisがプロデュースを手掛けている。豊かなオーボエのオブリガード、それとストリングスはヨハン・パッヘルベルの「カノン」中盤のフレーズを模して奏でるなど、アレンジ的にも凝っていて素晴らしく、このコンピを締め括るに相応しい名曲だ。
 
 最後に総評として、ウェラーの類まれなソングライティング・センスを育んだ、ノーザン・ソウルを主としたソウル・ミュージックの懐の深さを詰め込んだ、良質なコンピレーション・アルバムであると確信した。この解説を読んで興味を持ったポール・ウェラーの熱心なファンや弊サイト読者は是非入手して聴いて欲しい。

(テキスト:ウチタカヒデ