2016年11月1日火曜日

大人気の「真田丸」。その真田丸の実証実験、真田の戦いの歴史、なぜ日本政府と豊臣が同じ桐紋なのか、そして日本各地の戦国武将や古今の武将の祭りについて紹介しよう。


家族で夢中になって見ている番組はNHKの「真田丸」だ。もともと「週刊江戸」という雑誌を全巻買ったほどの江戸時代好きだがそれは日本独自の文化が好きなのであって特に戦国武将のファンという訳ではなかった。しかしその中でも真田幸村(本名は信繁だが以降この名中心で表記する)の勇猛果敢さと知力、忠義ぶりに魅かれていたが、その真田家の大河ドラマが始まるというので、今まで一度もまともに見たことがない大河ドラマを、「真田丸」では初回から録画もしつつ、家族で揃って見始めた。妻は戦国時代に興味はなかったが、長野出身である。信州の英雄である真田幸村なので妻のほうから見なくちゃという話が出た。息子は戦国時代をはじめ、日本の戦い全てと古代中国の戦いが好きな戦記マニア。これでSF系とゲーム以外に興味がないもう一人の息子以外の3人で夢中になって見ることになった。現在は大坂城に入場した真田幸村が大坂冬の陣のために、タイトルにもなった出城の真田丸を築城するところだ。圧倒的な徳川勢を迎え撃つ豊臣方の中心となった幸村が、その作戦を豊臣の中枢に否定されてしまうが、幸村の力強い支えとなる後藤又兵衛(基次)、毛利勝永と心が通じ合い、血沸き肉躍る瞬間が始まるところ。
最近この真田丸の真実をまずBSテレビ朝日が特集し、そしてNHKBSプレミアムで「大坂冬の陣・真田丸徳川撃退の秘密」で実証実験を行った。ここでは真田丸は今まで言われた大坂城の城壁の一部ではなく、徳川勢を迎え撃つために大坂城の弱点である南側に、幸村が出城として構築したもので、天王寺区にあったという事が分かったという。戦闘用の出城なので天守閣など作らず、宿営地として既存の寺を使った。ここからのNHKの実証実験が面白い。当時の火縄銃の射程は30mなので堀幅は40mで堀の向こうからの徳川の弾丸は当たらない。堀の深さは8mで真田丸の塀は2mで計10mの高低差がある。堀に降りると①「まきびし」に先を尖らせた木を組んだ「乱杭」がありまず容易に進めず、②次に火縄銃の命中精度が高い20m先に柵があり、それを超えると③に徳川の進行を妨げる先を尖らせた木を組み合わせた「逆茂木」がある。さらにその先には④土を格子状に掘った「障子堀」も抜けないといけない。この実験のため①のかわりにペットボトル、これを倒したらそこで負傷離脱、②は簡易に作った高い鉄柵、③は「逆茂木」をどけないといけないので積んだタイヤをパイロンに移し替えないといけないとし、④はトラックの荷台を乗り越えることにした。迎え撃つ真田軍は塀に縦横15㎝の隙間しかない「鉄砲狭間」からサバゲーの銃を1発撃つが、当時の火縄銃と同じで20秒間隔としタイマーを渡される。場所は実験の舞台となった学校の3階。さらに真田丸の塀は2階建てだったので2階部分は火縄銃を持った塀が自由に走って撃てる「武者走り」があり、そこは一つ上の屋上部分だった。真田丸の火縄銃は2階建てなのでそれぞれの角度で死角を補い、障害物にてこずる徳川勢を狙い撃ちできる。実験では真田軍は12階に5人ずつ配した計10人、徳川勢は50人。これは実際の大坂冬の陣での真田軍3000人、徳川勢15000人の5倍の兵力差を当てはめたものだ。するとこの実験で徳川勢は42人が討ち死に、8名しか生き残ったものはいなかった。まるで「風雲たけし城」を見ているかのようで爆笑しながら見れて楽しい。

もうひとつの実験は門。門は真田の得意とした最初門は破られると仮定して「桝形」と呼ばれた90度曲がったところに作った第2の門だ。徳川軍は丸太を4人で持って5歩下がって10回門をつけば徳川軍の勝ち。長野の松代城(「犬伏の別れ」で徳川方に付いて幕末まで大名として残った兄の信之の城)を使い、真田軍は第2の門の上の左右前方と3方向から攻撃ができる。城を傷つけられないのでサバゲーの銃の代わりにカラーボールを20秒毎に投げるのだが、真田軍10名に対して最初は徳川軍30名で門を破ろうとしたが5回突いたところで全滅、次に徳川軍を50名に増やすと狭いところに徳川軍のしかばね累々で身動きできず逆に4回突いただけで全滅してしまう。実際に大坂冬の陣で徳川軍は真田丸で大きな敗北を喫して撤退し、和睦の代わりにこの真田丸の破壊も条件とした。

戦上手の父の昌幸は2回にわたり上田城で、大軍の徳川軍を打ちのめしている。最初は2000人の手勢で徳川軍7000人を死者1300人と葬り、真田の死者は10数名と圧勝だった。関ヶ原の戦いでは2000人の真田軍に対し徳川秀忠は38000人で攻めたが完膚なきまでに叩きのめされ、秀忠軍は小諸へ撤退を余儀なくされている。幸村は父と共に戦い、その知恵をしっかりと吸収していた。

大坂冬の陣後の和睦で豊臣方は、真田丸を壊され、大坂城で最も大事な堀をすべて埋められ防御がなくなった夏の陣で、六文銭の旗に真っ赤な甲冑の「赤構え」の真田軍が一気に徳川軍を切り裂き、徳川家康の本陣へ突入、馬印まで倒し、徳川家康に2回自害を覚悟させた総攻撃が行われる。当時の絵図にも真田軍のみ真っ赤で覆われ、まるでシャアだ。カッコ良さに惚れ惚れしてしまう。結局多勢に無勢、幸村は討ち死にするわけだが、家康は何度も「これは真田の首か?」と尋ね、都合父子で4回も煮え湯を飲まされた真田を恐れ続けた。事実、大坂夏の陣の前、家康は幸村に徳川方についたら信濃一国を与えると調略したが、幸村は「日本国の半分を与えると言われてもお断りします」と男気を見せた。この幸村の最後に薩摩の島津忠恒は「真田日本一兵(つわもの)古よりの物語にもこれなき由」と絶賛、諸大名は真田の武勇にあやかろうとその首から遺髪を争って奪い合い、守り神にしたという。徳川家康の懐が深いところは、豊臣と石田三成の事は徹底的に弾圧したが、散々やられた真田幸村に関しては、「負けと分かっていても最後まで主君に尽くした忠義者」としてその勇猛果敢さを伝えることを禁止しなかった。そのため江戸時代でも「真田十勇士」などとして庶民の心に残っていった。

たとえ幸村が家康の首を取ったとしてもすでに征夷大将軍は秀忠に譲っており、大将ではなかった。そして幸村の最初の名案である、秀忠軍が来る前に、籠城と思っている家康の裏をかいて撃って出て京都をおさえ伏見城にいる家康の首を取るという策を、真田達を浪人者と軽んじた豊臣上層部が拒絶、大坂冬の陣の真田丸でも徳川に裏切るための出城ではないかと疑われ、大坂夏の陣では城は無防備にされ、大将の秀頼が出陣すれば士気が大いに上がると進言しても息子可愛さの淀殿に断られ、まあ豊臣中枢ははっきりいってボンクラ揃い、豊臣の滅亡は必定だった。

ちなみに豊臣家の桐の紋章は、日本政府の紋章と同じだが、これは朝廷では菊紋に次ぐ紋章で、足利尊氏、豊臣秀吉らが用いていたが、現在は日本政府が用いている。

この「真田丸」で本編の後に真田ゆかりの地が紹介されていくのだが、関ケ原合戦のあと西軍で秀忠軍を破った真田昌幸・信繁(幸村)親子に秀忠は強硬に死罪を主張したが、昌幸の長男の信之とその妻の父である徳川の重臣・本田忠勝の必死の嘆願で、和歌山の九度山村に流罪となり14年間(徳川の許しはなく昌幸は死去、残る幸村が脱出するまでの期間)幽閉され、信之は生活に困窮する昌幸・幸村に援助を続けたのだが、その九度山村では今でも真田の祭りを行っていること、高野山の蓮華上院に真田の位牌が祀られていることが紹介され、母親から興奮して電話がかかってきた。母の実家は九度山の隣の和歌山のかつらぎ町であり、ここら一体では住民が亡くなったあとはみな蓮華上院に戒名を付けてもらうように1日待つことが習慣であって、東京にいた母親の父が亡くなった時は和歌山まで送って蓮華上院で戒名を付けたということを嬉しそうに語っていた。(父と私は東京生まれだがまだ2代、息子2人から3代となるのでそこから江戸っ子。ただし厳密には下町生まれなので、世田谷生まれの我が家は微妙である)

そして別番組では、大阪では今も真田幸村は英雄で、銅像が建てられるなど愛されていることが嬉しかった。長野だけでなく、大阪、和歌山でも愛されていたのだ。

ただ私は徳川家康も高く評価している。応仁の乱から100年続いた戦国時代を終わらせ、262年も続く戦争のない太平の世を作り、外国の侵略を許さなかったからだ。

最後に日本各地で行われる武将の祭りを紹介して終わりとしたい。

真田幸村の人気は高く、戦国ゲームや戦国武将好きのアンケートでは織田信長を抜き首位、そしてこの2人に続くのは上杉謙信、伊達政宗、武田信玄が常に上位を占めるが、父の真田昌幸も続く。最近は石田三成も上位に入っていた。徳川家康、豊臣秀吉はその下であり、戦国時代ファンの間では後塵を拝している。真田家は各地で愛されていて長野の上田真田祭り(昌幸・幸村)、松代で松代藩真田十万石祭り(信之・幸村)、和歌山の九度山真田祭り(昌幸・幸村)、さらに群馬の上州沼田真田祭り(信之)と4か所で行われ、その高い人気を誇る。他では岐阜と滋賀の安土町で織田信長、愛知の岡崎と静岡で徳川家康、名古屋・京都で豊臣秀吉、そして名古屋市まつりでは織田、豊臣、徳川が名古屋ゆかりと三英傑まつりとして総取りしている。甲府では武田信玄(小学校の頃に武田信玄の風林火山の旗印に惚れて習字の作文はこの長い漢文の旗印を書いた。ちなみに祖父母は山梨)、で武田勝頼のまつりもある。上越市ではもちろん上杉謙信だが、関ヶ原後に跡継ぎの上杉景勝が山形の米沢に移封させられたので米沢でも上杉祭りが行われる。宮城の大崎市で伊達政宗、熊本では加藤清正、金沢で前田利家、小田原で北条(早雲から氏直まで5代)といった有力武将があるが、福井で朝倉義景、大分で大友宗麟、高知で長宗我部元親など若干地味な武将も数多くあり、古くは源平で源頼朝は鎌倉ではひっそりだが頼朝が上陸した千葉の鋸南町で行われ、平清盛は広島で行われている。平家を倒した立役者でありながら頼朝に殺された源義経の方がずっと人気があり、鎌倉、岩手の平泉の藤原まつり(奥州藤原氏)のメイン、そして福島の国見町とゆかりの3か所で行われている。茨城では戦前では考えられなかった平将門まつりがある。戦前の皇国史観では朝廷に逆らった足利尊氏、平将門らは大悪人と教えられ、まつりもなかった。今も足利氏のまつりはないが、京都の時代まつりに戦後から室町幕府も加わった。徳川家康→狸親父といったネガティブなイメージングは明治政府が前政権を貶めるための行ったものだ。戦前は大英雄の楠木正成は神戸の湊川でまつりがある。幕末の中心の薩長では、鹿児島で島津家を祀った照国神社の六月灯で目立たずひっそり(祭りはないが鹿児島では西郷隆盛が圧倒的な人気で、子供用の偉人伝から揃っている。一方、大久保利通は人気なし)行われるだけ、萩では萩時代祭として毛利の大名行列があるが奇兵隊の方が人気があるもよう。坂本龍馬は個人で高知・京都で、負けた幕府側では会津まつりで会津藩を偲び、箱館五稜郭祭では官軍VS榎本・土方軍とあるが土方歳三に人気、東京の日野市でそのハンサムぶりで圧倒的人気がある土方歳三の出身地としてひの新選組祭りが行われている。(佐野邦彦)
 

0 件のコメント:

コメントを投稿