2022年1月26日水曜日

Mott よみがえれ!昭和40年代(コラム Part-1)

 あけましておめでとうございます。2017年にVANDA創設者佐野邦彦氏亡き後から「Web.VANDA」の投稿者の一人として参加させていただき、早や4年が経過し、今回が2022年初の投稿になります。 
 これまで、「佐野邦彦氏との回想録」「1970年代アイドルのライヴ・アルバム」「FMおおつ音楽の館」「1970年代来日公演回想録」等を連載で投稿してきました。さらに今年から新たに私の肩書「レトロカルチャー研究家」にふさわしい投稿を始めることにしました。

 その内容は2012年に小学館から発刊された初の自己名義著書『よみがえれ!昭和40年代』の続編用として書きためておいた記事です。 元々この著書は小学館の編集者M氏から「レトロなジャンルであれば、小学館の得意分野なので、鈴木さん独特視点の記憶力でまとめれば面白いものが出来るはずです。」と勧められたものでした。
 そこでその期間を私の記憶がそこそこリアルに残り、最も好奇心が強く物欲旺盛な時期だった1965年(私は小学校5年)から始まる昭和40年代に設定しました。なおタイトルを西暦にせず昭和としたのは、日本独特の1月でなく4月から年度が始まるというニュアンスを込める意図からでした。更に東京という中心からの発信ではなく、静岡という地方在住だった私の東京への憧れや興味をサブカル的感覚で表現する手法でまとめています。
 
 そもそも今回投稿する内容は、著書が規定販売数をクリアして重版となれば、タイトルに「Mott」~を付けた続編を出版させていただこうと準備していたものでした。発売以来多くの方々の協力を得られたおかげで、そこそこの実績を残すことが出来ましたが、検討空しく重版実現までの実績には届きませんでした。

 ただ、このテーマは出版界に大きな影響を与えたようで、発売以来続々と同系列の書籍が世にあふれ、続編出版のタイミングを逃し、書き溜めたものは未発表となり放置されたままになっていました。そんな折、Web.を管理するウチさんから「新しいテーマ」の要請があり、せっかくの機会なので「Web.VANDA」で発表させていただくことにしました。 


 とはいえ、この著書は発売4年を経過した2016年に神保町の「東京堂書店」さんが、人気漫画家浦沢直樹氏とのコラボ企画へラインナップの一冊としてチョイスしていただきました。それがきっかけとなり、「テレビ朝日」さんで放映中の番組『シュシュ』への出演オファーをいただくという幸運にも恵まれ、元祖本作者としてのメンツは保てたように感じています。そんな経緯もあって、私の著書はほぼ10年経過した現在も「Kindle版」で現役本として読者を広げています。少々前置きが長くなりましたが、今回は発売中の著書では未公開の私的「時代考証」「昭和40年代史」から始めることにします 。

 

1.新聞紙面へのテレビ欄掲載位置
  昭和40年当時(正確には東京オリンピック以前)の日本の放送メディアの主役といえば、ラジオが絶対だった。それを証明するものが、新聞に掲載された番組表のポジションだった。新聞紙面の上半分がラジオ番組、下半分がテレビ番組という形式で、情報発信の主役はラジオだったことがよくわかる。 東京でも昭和35年までは「ラジオ上位」で、上下逆転は昭和36年以降だったが、静岡のような地方では、各家庭へのテレビ設置が整っていなかったようで、「テレビ局上位」の時代には時間を要していたようだ。
          
「朝日新聞 昭和35年12月2日(金) 5面」より抜粋
※画像使用でご指摘があり次第削除します。
            
 テレビ時代の到来と言えば、一般的に昭和38年の「現上皇様結婚パレード」以降とされている。しかし現実には翌年のオリンピック後にやっと新聞紙上で対等の形で掲載されるようになった。とはいえその当時でも最初に目線がいく左側の見やすい位置にはラジオ欄、そして右側にテレビ番組が掲載されていた。

  当時、私の住んでいた静岡の放送局はNHKとTBS系のローカル局静岡放送(SBS)だけだったのでかなり大きく掲載されていたが、東京や大阪のように民放のテレビ・ラジオ局が複数存在したある都会では、どのような扱いになっていたのかは、この著書の制作過程で閲覧した図書館所蔵の「新聞縮小版」で確認して知ることができた
 ただ同じ静岡県でも伊豆の東海岸地域は、(箱根等の山岳の障害物がなく)東京方面の放送が受信可能で、伊豆方面の新聞紙面がそのような扱いだったかは不明である。 
 余談になるが、そんなテレビ放送網は41年辺りまでは、視聴者の少ない時間帯は「テストパターン」なる休憩画面が昼前と夕方近くに陣取っていたほどだった。これはその後の地方の多局化で設立されたUHF放送局でもしばらくその状況は継続していた。 

 話は新聞紙面の話に戻るが、40年代中頃にはやっとラジオ欄が右、テレビ欄が左部分に格上げされている。そして前出の通り地方ではUHF放送開始が始まり、テレビ局の増加で番組欄も賑やかになるだろうと思われた。
 しかしながら、UHF放送受信には「コンバーター」なるチューナー設置が必要で、全世帯一斉に受信可能になった訳ではなかった。それがあたりまえの状態になるのは、受信機内蔵テレビが登場するようになってからで、初期のUHF局の番組欄は(現在のBS放送のごとく)誌面下半分以下に申し訳程度にしか掲載されていなかった。
 補足になるが、東京を中心とする首都圏は、オリンピックの開催された昭和39年年末にはテレビとラジオがしっかり隅分けされていた。 

 (文・構成:鈴木英之

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