2018年8月29日水曜日

佐野邦彦氏との回想録15・鈴木英之


前回の回想録は「VANDA28」の発行までをまとめたが、今回は定期刊行としてはラストとなった「29」の発行までの出来事について紹介する。この号の製作期間は2002年の中ごろから2003年の初夏頃になる。この時期、佐野さんはお父様の他界という悲しい出来事に接している。それは彼が自宅近郊にある実家に立ち寄った際の出来事で、彼が訪れた時にお父様は危篤状態だったという。その事態に同居のお母様は即救急に連絡を取るも、実家の歩道は狭く救急車入れない状況だった。そんな中、保健所勤務だった彼は救急士が到着する前に、しかるべき緊急処置を全て対応していた。しかしその甲斐なく、お父様は時既に遅く帰らぬ人となってしまったということだった。

そんな悲報に遭遇したとはいうものの、彼はこれまで同様に月1回のRadio VANDAは穴をあけることなくこなし、また当時怒涛のように発売されていた貴重音源のリイシュー盤やライヴ映像をチェックしてWeb.VANDAへの情報発信投稿も精力的に行っている。この頃のWeb.の閲覧数は60万を超えており、マニアックな音楽ファンにとって佐野さんの一挙一動が大きく影響を与えていたのがよくわかる。その量と内容がいかに濃かったかは、「29」のP8593の「Latest Items」に列記されたラインナップのフォントをかなり小さくなっていることでも判断できるはずだ。

またYou-Tube2005年開設)もスタートしていなかったこの当時の映像作品はかなり高価だったこともあり、一般には広く見られていたとは言えなかった。ただ、佐野さんは貧欲に興味のある映像は即入手してチェックしまくっていた。珍しいものを入手すると、「絶対、これ見ておくべき!」とばかりに早々にダビングして送られてくることが多く、私はその恩恵に預かっている。そのおかげもあって彼との会話はさらにコアなものになっていった。

さらにそれまで大好評を得ていた『Soft Rock A To Z』の大改訂版『Soft Rock A To Z The Ultimate!』も9月に発刊している。その内容は初版発刊以来、新たな発見記事についてVANDAを通じて追記させていたものを反映させたコンプリート版で、これまで資料提供という協力者のポジションだった私も、新規執筆者として参加させていただいている。佐野さんが大ブレイクを遂げた「VANDA 18」以降、お互いに刺激し合ってそれまで注目されていないジャンルを紹介した集大成いう出来に仕上がったと思っている。何せこの本で紹介されている大半は、リアルな時期では都内のショップ等で「カット盤の帝王」的なものが大半で、当時は3500円や1100円でも売れ残っていたものばかりだった。当時、そんな「屑」同然の扱いのアルバムを聴き漁っていた私の記憶と、それを探求する佐野さんとの付き合いからまとめられたものも多く、印象深いものばかりだった。


このように以前にも増して精力的に勤しんでいた佐野さんだったが、そんな彼でも一向に進展せず難航しているものがあった。それは、かなり以前から多くの知人たちに執筆の協力を呼び掛けていた「リスナーのための音楽用語辞典(仮題)」だった。それは単に一般の音楽用語を羅列して解説するのではなく、項目を音楽ファンの視点でまとめるということを着眼点にしたもので、読み物としても成立するような画期的なコンセプトを持った本になる予定だった。

当初、私は「音楽的な用語は無理」とばかりに、ビンテージ・ギターのコレクターで多くのコピー・バンドを掛け持ちしていた後輩のK君に振っていた。ただ、佐野さんからリアルタイマーとしての時代的を反映したような項目をというリクエストがあり、「少しだけなら」という感じで手伝うようになった。そこで私が挙げたものは、個人所有の「ぴあ」などの情報誌やFM雑誌などから検証する、「名物ロック喫茶」「名物ライヴ・スポット」「名物レコード・ショップ」「来日公演チケット購入プレイガイド」「人気ラジオ・テレビ音楽番組」など、十代後半から二十代に直接見聞きした概況を記憶の限りまとめるといった項目だった。それを話すと佐野さんは「それって絶対鈴木さんしか出来ないもの!」として、思いっきり背中を押してくれた。ただまとめ始めてみるとあまりにも守備範囲が広がりすぎ、膨大な量になってしまい、コンパクトにするため書き直しの毎日となった。また音友の木村さんから「各項目の内容のレベルにばらつきがあり、全体的なバランスに問題がある」とダメ出しされ、延期に次ぐ延期となり、ついには棚上げ状態となってしまった。そのデータについては、木村さんから佐野さんに渡され、その他のメディアに持ち込んだようだったが、その後どのようになったかは不明だ。


そんな頃、「26」の編集に尽力してくれた木村さんから「VANDAを音友の出版ルートにのせませんか?」という話を持ち込まれている。前回でもふれていたが、この時期のVANDAは佐野さんと松生さんそれに私の三人で編集費用を負担するという状態だった。彼にしてみれば経済的な問題が解消でき、私と松生さんへの負担を解消できるということもあり、一時は音友傘下も選択肢の1つとして検討していたようだった。ただ、この頃には出版業界はかなり斜陽産業化しており、「Web.VANDA」と「Radio VANDA」を通じ、制約のない自由な活動が軌道に乗ってきていた。そんな事情もあり、ある時に彼から「VANDAはこれまで通りにやっていきたいので、今後も負担協力お願いしたい。」という連絡が入った。

とはいえこの頃の私は、約一年間本業の傍ら、出張取材をくり返し、全精力を注いで完成させた『林哲司全仕事』のやりきり症候群で、精根尽き開店休業だった。その気分転換にと遊び半分で、「Web.VANDA」のパクリネタを探求する「Sound of Same」への投稿に夢中になっていた。ある時、「サンデーソング・ブック」で「パクリネタ特集」があり、調子にのってレポート用紙10枚ほどを封書で番組宛に送付している。ちなみにその放送日は、少し前にインタビューを取らせていただいた竹内まりやさんが参加する「夫婦放談」の回だった。番組では「滋賀県の誰かさんから封書で送られてきました。」と紹介された。とはいえ調子にのって、恐れ多くも達郎さん絡みのネタもふれていたが、それらについては「どんだお門違い!」とバッサリ切り捨てられてしまった。ただ、この番組を聞いていた多くの知人たちから、「「滋賀の誰かさん」って鈴木さんでしょ?」と頻繁に連絡が入り、改めてこの番組が幅広い聴取者に支えられている事を実感した。この件を佐野さんに話すと、「大丈夫、気になったから読んだんだよ!内容が屑だったら、ゴミ箱直行のはず!」と励まされ(?)ている。


そんな宙ぶらりんな状態のなか、当時勤務していた会社の体制が変更となり、仕事環境も閑職セクションから営業職に配置転換となり、且つ単身赴任の身になったので、ライター活動を少々手控えざるえない状況になっていた。そんな時期ではあったが、以前から頻繁に協力依頼を寄せられていた松生さんからは「近くなりましたね!」とばかりに大歓迎され、彼にいくつか付き合わされるようになっている。まずは彼のライフ・ワークの1つであるCliff Richardの来日公演への誘いだった。この来日は1976年以来の27年ぶりということもあって、彼はインタビューをとるなど、精力的に活動していたようだった。そんな彼が「良い席が取れたんで行きませんか?」と頻繁に誘われ、公演日は平日であったが、「終電に間に合う範囲で」との約束で、東京国際フォーラムに足を運んでいる。ただその公演時間は翌日の仕事に差し支えそうで、残念にも最後まで見ることは叶わなかった。


そんな流れで、次に松生さんから協力要請を受けたのは、幼児向け番組「おかあさんといっしょ」「ひらけ!ポンキッキ」「みんなのうた」等の挿入歌などを検証するキッズ・ミュージックへの協力だった。アニメのテーマ関係は佐野さんの守備範囲だったので、「それ以外」ということで調べ始めた。この当時は、長男の影響でNHK教育(現、Eテレ)にて放送されていた「ハッチポッチ・ステーション」にはまっており、また子供の幼少時代にはかなり耳馴染んでいたジャンルだったので、こちらはかなりその気になってまとめている。ところが、やりはじめると海外物の「セサミストリート」や、「童謡」から「小学校唱歌」にも手を付けずにはいられなくなり、リストも膨大になってしまい収拾がつかなくなってしまった。そこで、単なるリストつくりにならないよう、子供たちと一緒に聴いていた「ディズニー・アニメ」「ひらけ!ポンキッキ」をはじめ、ヒーローものの主題歌など自分自身の体験とリンクする曲を中心にまとめていった。


とはいえ松生さん的には主観を入れず、リストを優先させたいという意向だったので、その時点で彼と共同作業は無理と判断して降りることにした。このコラムについては「29」で、「みんなのうた~キッズ・ミュージックの楽しみ~」として松生さん単独でまとめている。私はその後も検証を継続したが、納得できるレベルまでに到達できず、残念ながら未だ「塩漬け」状態のままだ。とはいえ、この調査中には幼少時に言葉が素付かないながらも、ヒーローものでは「仮面ライダーRx Blackと「超力戦隊オーレンジャー」、ポンキッキの「ゴロちゃん」「かいぶん21めんそう」等を一生懸命歌っていた我が子たちの顔や歌声が頭に浮かび、これまでで一番充実した時間となった。

こんな中途半端な状態の中、K君から「29」の内容について「今度はKarapana やらせてもらえません?」という問い合わせがあった。元々、彼はHawii系音楽に造詣が深く、ぴったりだと思い「こだわりがはっきりしていたら、ジャンルは問わないと思うよ。」と快諾した。そんなK君の申し出に「そろそろ自分も」という気になり、そこで頭に浮かんだものが、「Starbuck」と「The Osmonds」だった。前者は、リーダーのBruce BlackmanがEternity’s Childrenに在籍していた関係もあるのでVANDA的にも面白いと思ったが、後者はあまりまともに取り扱われてはいないアイドルもので、佐野さんに確認を取ることにした。ただ「それをまとものまとめられるのは鈴木さんくらいしかいないから、やるべきですよ。」という返答で、今回はこの2つをまとめることにした。


最初に手掛けたものは、一般には「Moonlight Feels Light(恋のムーンライト)」の一発屋というイメージの強いStarbuck。あえて断っておくが、彼等はコーヒーのスターバックスとは全く無関係だ。まずそのファースト・アルバムの成り立ちがとてもユニークだったのが忘れられない。それは表ジャケは「プログレ風」、裏ジャケは「サザン・ロック風」ながら、サウンドは思いっきりポップス!そして、サウンドの要はBo WagnerのマリンバとBlackmanのやる気のなさそうなヴォーカルだった。サウンド展開は、一本調子な感じもあったが、自分的にはかなりはまった。レコード会社がPrivate StockからUnited Artistに移籍したサードではWagnerが脱退してしまうが、ホワンとした浮遊感のあるキーボード・サウンドは魅力的だった。そしてサードを最後にバンドは解散するが、Blackmanはヴォーカリストとデュオを組みKoronaを結成しているがレコーディング活動は終焉を迎える。その後は、Blackmanを中心にWagnerをはじめとする昔の仲間とStarbuckを再編してライヴ活動をしている。そんな彼らの映像も、今ではYou-Tubeで簡単に閲覧できるので、是非チェックしてほしい。余談ながら、このStarbuckの特徴である楽器マリンバは、人気シンガー星野源さんがはまっているという話を耳にした。それは現在放送中のNHK朝ドラ『半分、青い。』のテーマ「アイデア」でもしっかり確認することが出来るのでこちらも要チェックだ。


そしてもう一つ、The Osmonds1960年代に日本では「カルピス」CMで人気の高い兄弟グループだった。しかし、1970年代突入と共に敏腕Mike Curb (注1)により、大ブレイクを果たしている。それは当時全盛期だったJackson 5(以下、J5)の好敵手とし評されるほどの活躍ぶりだった。そのスタートはJ5風のバブル・ガム・ソウルだったが、後には自身のレーベル「Kolob」を設立し、セルフ・プロデュースによるバンド活動を展開し、「Crazy Horse」などロック・ナンバーをヒットさせている。これら一連のヒット曲は、当時のNHK「レッツ・ゴー・ヤング」で、アイドル達によく取り上げられていたので、耳にされた方は多いと思う。その後の彼らは本来のヴォーカル・グループとして、往年のヒット・カヴァーで人気を集めており、人気者Dannyに至ってはミスター・カヴァーソング・シンガー(注2)と称されるほどだった。アイドル好きの私には恰好の題材で、これが後にVANDA30でまとめることになる「1970年代アイドルのライヴ・アルバム」に繋がった気がする。捕捉になるが、このコラムは2007年春に単身赴任先近郊のFM局で、当時大ブレイクを果たしたばかりの嵐と対比したプログラムで放送(70分)している。


この「29」発行から雑誌VANDAはしばらく休刊状態となり、「30」が発行されたのは10年後の2013年だった。この10年間は、佐野さんにとっても私にとっても、多くの出来事に直面している。そこで次回以降の回想録は、雑誌VANDA空白期間から「30」への軌跡を紹介して完結する予定だ。

(注1)1970年当時傾きかけていた古参MGMレコードに20代の若さで社長に就任し、V字回復させた才人。なおこの時、副社長に就任したのはまだ10代のMicheal Llyodが起用されている。その後、Warner傘下にCurbを設立し、Four Seasonsの復活や、Pink Ladyの全米進出にも関わっている。

(注2)Danny Osmondのソロ(妹Marieとデュット含)はカヴァー・ソングが基本で、唯一の全米1位曲もSteve Lawrenceの「Go Away Little Girl」(1962年全米1位)だった。なおオリジナルでのヒットは1988年に全米2位を記録した「Soldier of Love」のみだった。



2018年8月27日23:00

0 件のコメント:

コメントを投稿