2017年5月20日土曜日

小学館の名編集長の井川浩のマンガ週刊誌創刊、学年誌全盛の裏話などが存分に楽しめる「井川浩の壮絶編集者人生」(中島紳介著・トイズプレス刊)がおススメだ。


本書は小学館に1957年に入社、立大学時代から長嶋がプロ野球を支える選手になると確信して長嶋に新聞配達をして信頼を勝ち取り、「少年マガジン」と同日に創刊した「少年サンデー」は長嶋で、朝潮のマガジンを圧倒、そして「小学〇年生」になどの編集長として打倒講談社でライバル誌を廃刊に追い込み、「ドラえもん」を押して大成功、しかし小学館の労働組合との軋轢で異動を命じられ、小学館から角川書店へ転職して「ザ・テレビジョン」で成功、徳間書店の「アニメージュ」に対抗して「ニュータイプ」を刊行するなど、この小学館の編集者の井川浩は、私のようなマンガやアニメーションが好きな人間には、黎明期の努力と工夫に満ちた編集者の仕事ぶりは本当にワクワクして読んでしまう。そして何よりも嬉しいのは著者が中島紳介氏であること。中島氏とは80年代に私が「漫画の手帖」というミニコミを作っていた頃に何度か書いていただき、その文章の上手さと、資料性の高さに感服していた。その中島さんの著書だから文句なしの出来だと保障しよう。

まず井川の小学館入社のエピソードが凄い。その頃、講談社との競争で危機感を持っていた小学館は数千人の応募者から内定候補の30人ぐらいの学生を集め、「わが社は今、ネコの手も借りたい状況です。1月から学校の許可をもらって来られる人は手を上げてください」との総務部役員の問いかけにおずおずと手を上げた6人が採用されたという。その中に東京教育大出身の井川もいた。最初に配属されたのは「中学生の友」で副編集長に鍛えられたそうだが、その時に「自分ではこれはというものを見つけて、この事柄や人物に関しては誰にも負けない、俺が日本一だという専門の対象を3つ作れ」と言われ、そこで井川が住んでいた家の近くが立教大学のグラウンドで、まだ学生だった長嶋茂雄に目を付け、巨人に入団して10年後にはきっと立派なプロ野球選手になるだろうと思い、上北沢の下宿に住んでいた長嶋の自宅に取材に行くことになった。まだ入社2年目の新人にも関わらず、偶然一緒にいた川上哲治が長嶋に「この人は小学館で子供の為の雑誌を作っている偉い人だ。子供を大事にすれば、親御さんも君の事を応援してくれる。だからこの人と仲良くしなさい」と、そんな有り難い事を言ってくれた。ただまだ新人の自分の顔を覚えてもらわないといけないと、その上北沢の長嶋の下宿が広い下宿で長嶋の部屋から新聞受けまで遠いので、出社前に自主的に上北沢に降りて、新聞を長嶋の部屋まで届けて、それから出勤するという事を、長嶋が自宅を建てるまでの2年間、日曜日も休まず毎日続けたというから驚きだ。そういう努力もあって、昭和34年の同じ日に創刊された「少年マガジン」の表紙は朝潮だったが、「少年サンデー」の表紙は長嶋で、どちらにインパクトがあったかは歴然だろう。その後、長嶋は小学館の誌面に多く登場してくれてたが、長嶋は一緒に出演してくれる子供達を待たせる時に夏は家の中の涼しい場所、冬はこたつに入れて、分け隔てなく相手をしてくれたそうで、撮影はスムーズで、長嶋は気配りの人だったという。そして長嶋は井川の撮影や取材の依頼を断ったことは一度もなかったとのこと、律儀な人だ。ただ長嶋らしいエピソードもあり、小学館での作文コンクールの来賓は長嶋と王の交代で挨拶してもらっていたが、長嶋は井川に「井川さんは書くのが得意なんだから僕のスピーチも書いてよ」頼むのでいつも原稿を書いて渡していたのだが、自分で書いてきた王の方が井川のより上手なのには参ったの事()「少年サンデー」時代の思い出は、赤塚不二夫が凄くまじめな勉強家で、アシスタントの人達の会話を自分は2階で寝たふりをしながらテープレコーダーに録音しておいて後で聞き直して今の若者たちが何に興味があるのか研究していたそう。井川も最初は「おそ松くん」を変な漫画だなと思ったそうだが、そういう努力を見てああいうぶっ飛んだ漫画が描けたのだと理解したそうだ。ちなみに私はずっと「おそ松くん」が大好きで、子供が小学生の時は昔買った曙書房の全集で、1962年~1969年の連載なので子供達が読んだときは38年くらい前の漫画だった。おそ松達は10円の小遣いで大喜び、イヤミ達が100円で色々頼むと目を輝かせてバイトをするのに、そんな貨幣価値の違いなど一度も言わなかった。つまりそんなものはどうでもいいパワーがあるのだ。「おそ松くん」に夢中になっている子供達を見て、自分は心の中で密かにガッツポーズをしていた。劇画は当時読んだ人のノスタルジアの世界にしかいないが、赤塚は「天才バカボン」の前半まで(自分は「ウナギイヌ」や「レッツラゴン」がネタ切れとしか思えずダメ)は絶対、時代で錆びつかないと確信していたからだ。

さて話がそれたので藤子不二雄の「オバケのQ太郎」のエピソードも面白い。昔の学年誌や幼年誌、月間誌は付録が重要な「売り」であり、各社で競って子供の心を掴むよう考えていた。その頃「小学一年生」にいた井川は、学力テストの商品にQちゃんの特製消しゴムを作るようにしたが、その頃のQちゃんはまだ髪の毛がもじゃもじゃ頭で立体物として収まりが良くないので、自分が大学で習ったフロイトの「奇数は男性、偶数は女性を表す」の学説を思い出して、「毛は3本でどうでしょう?」と提案、それ以来Qちゃんの髪の毛は3本で決まったという。それ以降しばらく井川と藤子不二雄の仕事はなかったが、1970年頃「小学二年生」の編集長をやっていた頃、藤本、安孫子、マネージャーだった安孫子の姉がやってきて、「小学館の原稿料は世界一安いと思います。これではアシスタントの若手も育てられないし事務所も維持できない」と訴えられ、確かに少年誌のベテランと学年誌の子供向けマンガ家は銀座の高級バーとガード下の居酒屋で飲むくらいの差があったそうで、その訴えは十分理解できたものの会社の基準を勝手に変える訳にはいかないし…ということで、「小学館のサザエさんを作りましょう」と提案する。設定やキャラクターが変わらなければアイデア次第でいくらでも長く続けられるという考えだ。そこで藤子不二雄が描いてきたのが「ドラえもん」だった。井川は何度も「ドザエモン?」と聞き返したそうで、藤子は「これだけ漫画が溢れている時代に、一度聞いたら忘れられないタイトルにしたかった。井川さんが何度も聞き返してくれたんでこのタイトルで良かった」と見事な洞察力を見せる。単行本化の話の際に、少年サンデーの編集部は「21エモン」の方が上とプッシュ、社長は「ドラえもん」の単行本化に消極的だったので、「少年マガジンが「巨人の星」や「あしたのジョー」というストーリーマンガをヒットさせているので小学館の編集はギャグマンガを読まずそのままでは小学館の特性が失われてしまう」と訴え、今までの作品の中でのベスト作品集ということで社長は6巻だけ、単行本を許可してくれる。結果はみなさんもご存知のとおり、「ドラえもん」は超ベストセラーで45巻出たが、その内6巻までは最初の井川の編集のままだという。これ以上書くとキリがないので、是非購入してお読みいただきたいが、あのウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」が永久欠番になってしまったのは、1970年の「小学二年生」の中の怪獣カードが、出版された時でなく後に反核団体、被爆者団体から問題視され抗議を受け、小学館にとどまらず円谷プロが作品自体を封印してしまう事態になってしまった。確か自分の記憶では人間を血を必要とするスペル星人に「被爆星人」と小さく副題が付いていたのが問題視されたのだと思う。井川らは円谷プロの資料に基づいて作ったこと、小学館では原爆の悲惨さを描いた作品を掲載していたこと、他出版社でも数多く載っていることなどを訴えても、一切これらの団体は耳を貸してくれずにこういう残念な結果になってしまったのそうだ。この時代はこういう問題以外でも反安保など組合がともかく強く、従業員の待遇改善に土曜休業を認めてもらうなど尽力してきた。しかし組合の力にものをいわせた団体交渉が嫌いで、新入社員に組合に入らないよう話したことが組合の耳に入って社長より編集部から離れて別の部署に移って欲しいと言われ、小学館プロダクションに異動、そして2年後には小学館を辞めて角川書店へ転職するのだが、紹介はここまで。ちなみに自分も労働組合に入っていたが、自身の職場の待遇改善だけでなく、まったく関係ない組合の「動員」が数多くあり、自分は思想信条が合わない部分があるので一切参加しなかった。組合は政党の下部組織になっていて、それが嫌なのは井川氏も自分も同じだなあと思った次第。(佐野邦彦)

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