2016年6月5日日曜日

最も沢田研二が好きだった1975年~1978年の海外進出時のレコードリストを作ってみた。

かつて熱烈なファンだった沢田研二の、その中でも最も曲が好きだった「ジュリー海外進出計画」時代、つまり1975年から1978年のフランス語、英語のレコードのリストを作ってみた。アメリカでチョロっとレコード出して「ビルボード・ランクイン」なんて狙うお遊び感覚のものではなくて、KENJI SAWADAとしてフランス語、英語で、15か国で4年にわたりリリース、フランスで「Mon Amour,Je Viens Du Bout Du Monde(日本語で歌ったものは「巴里にひとり」)」はチャートの4位まで上がり20万枚を売り上げる大ヒットになったほどの成功も収めた。この時代の曲はフランス語では華麗に、英語では軽快なロックという2本立て、どちらも非常に魅力的だった。日本ではソロデビューからレコードを買っており、1973年の「危険なふたり」が日本歌謡大賞を取った時はテレビの前で思わずバンザイ、お手製の「祝…」の垂れ幕まで作ったほど。今ではお笑いになってしまうが、ロックの沢田研二は我々若者の代表であり、その時の対抗馬の五木ひろしは演歌で旧世代の代表、勝てないと言われていたロックが演歌に勝ったのだから喜びは半端なものではなかったのだ。そういう思いを抜いてもこの「危険なふたり」はカッコ良く、今でも3本の指に入るフェイバリットだ。そしてアルバムは同年の『Julie ある青春』が文句なしのベスト。このアルバムは加瀬邦彦と森田公一が半々を書いたがどれも最高のクオリティの曲が集まった奇跡のアルバムで、今でも愛聴しているほど。その後のシングルは「魅せられた夜」「巴里にひとり」という海外の作曲家の曲が素晴らしく、そして「危険なふたり」を書いた加瀬邦彦の「胸いっぱいの悲しみ」「恋は邪魔もの」「追憶」と続く大ヒットも最高だった。ただこのあとマイナー調のバラード系の曲が増え、作曲も大野克夫に移っていく。その変化の中では大野作の「勝手にしやがれ」が、ビートがあってキャッチーなロックナンバーで、念願の日本レコード大賞を受賞する。そして自分にとってはこの曲を最後にあまり沢田の曲を聴かなくなる。テレビではビジュアル面を目いっぱい生かしたパフォーマンスが人気を博し、沢田研二は全盛期を迎えるが、自分はテレビで見るだけのファンに下がってしまう。ただ、作曲家はワイルド・ワンズの加瀬からスパイダースの大野へ、バック・バンドは井上堯之バンド(スパイダースの井上と大野克夫、タイガースの岸部修三(今や俳優で知られる岸部一徳)、テンプターズの原口裕臣)というGS時代の仲間を大事し、そして成功を収めていく沢田の姿勢は実にカッコよかった。そしてビジュアルだ。若き日の沢田研二の美しさたるや、男の自分が見ても惚れ惚れするほどだった。『The Tigers Forever DVD BOX』で見られるタイガースの「僕のマリー」なんて見ているとこれこそ王子様、今の芸能界でもこんな美しい少年なんてどこにもいない。レベルが段違いなのだ。ジュリーはその後もずっと美しく、海外でも外人に一歩をひかないビジュアルがあった。そして自分が熱烈なファンであった時までは、テレビで共演した女性歌手がみな憧れたという美少年の姿を守っていた。その時までは…。さて下記の海外リリースだがアルバム3枚の内2枚は日本盤が出ているので1978年リリースのアルバム『Rock’n'Roll Child』はeBayDiscogsで容易に入手でき、これで大半の曲は揃ってしまう。残りはシングルのみの6曲だが、そのうちの2曲は日本でもリリースされておりシングル・コレクションBOXに入っているので足らないのは4曲が入ったシングル3枚だけだ。この4曲まで集めるかはファンの度合いによるが、最後のシングルとなった「In The City」のB面の「One Man And A Band(Katte ni shiyagare)」は「勝手にしやがれ」の英語版なのでこれだけは押さえておきたいところ。

 
★沢田研二の海外進出時ディスコグラフィー(19751978

※曲名の後の(F)はフランス語、(E)は英語。邦題のものは日本語。

 
1975 「Mon Amour,Je Viens Du Bout Du MondeF)」/Fugitive KindE)…「The Fugitive」と同じ曲」(Polydor)※フランス、ベルギー、オランダ、カナダ、スイス、ノルウェー、オーストリア、ギリシャでリリース

1975 「The FugitiveSingle Version)(E)」/I Was Born To Love YouE)」(Polydor)※イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インドネシア、香港でリリース
197411月に日本で沢田研二11枚目のシングル「愛の逃亡者-The Fugitive-」のタイトルで発売された。内容は同一。

1975 『KENJI』(Polydor/2480240)全曲英語。イギリス、インドネシア、香港でリリース  ※日本盤の『THE FUGITIVE 愛の逃亡者』と同一
Fugitive Kind(E) /Go Susy Go/(E)Walking In The City(E)/Saturday Night(E)/Run With The Devil(E)/Monday Morning Blues(E)//Juke Box Jive(E)/Way Back In The Fifties(E)/Nothing But A Heartache(E)/I Was Born To Love You(E)/L.A. Woman(E)/Candy(E)

1975 「Attens-Moi(F)/Juliana(F)」(Polydor)※フランス、ベルギー、オランダ、カナダ、スイス、スペインでリリース

1975 「Fou De ToiF)」/Ma Geisha De France(F)」(Polydor)※フランス、ベルギー、オランダでリリース

 

1976 『PARIS LONDRES TOKYO  KENJI SAWDA(Polydor/2490130)E)…英語、※日本盤の『KENJI SAWADA』と同一。3曲は日本語のままで、邦題で表記。
Mon Amour,Je Viens Du Bout Du Monde(「巴里にひとり」の原語版)F/Juliana(F)/ Seul Avec Ma Musique(F)/Go Susy GoE/追憶/時の過ぎゆくままに//Fou De ToiF/Ma Geisha De France(F)/Itsumi(F)/Run With The Devil(E)/ Attens-Moi(F)/白い部屋

1976 「Elle(F)/Seul Avec Ma Musique(F)」(Polydor/)※フランス、ベルギー、オランダでリリース

1976 「When The Lights Went OutE/Fooling Around With Love(E)」(Polydor)※イギリスでリリース

 

1977 「Julie LoveF)」/Les Filles De Ce Pays(F)」(Polydor)※フランスでリリース

1977 「Memories(E)/Long Ago And Far AwayE)」(Polydor)※西ドイツでリリース。日本では1か月遅れで沢田研二20枚目のシングルとして発売された。『沢田研二Single Collection Box Polydor Years』収録。

1977 「Tu As Change(F)/L'amour Esperanto(F)」(Polydor)※フランスでリリース

1977 「Rock’n’Roll ChildE/Belle Dame,Douce DameSingle Version(F)」(Polydor)フランスでリリース


1977 「Rock’n’Roll ChildE/You’re My LifeE)」(Polydor)※西ドイツ、ベルギー、オランダでリリース

 

1978 「In The CityE)」/One Man And A Band(Katte ni shiyagare)E)」(Polydor)※西ドイツのみのリリース。B面は「勝手にしやがれ」の英語版。

1978 『Rock’n'Roll Child』(Polydor/2480447フランス西ドイツでリリース
Rock'n'Roll ChildE/Belle Dame,Douce Dame(F)/ Attends-Moi,Je Reviendrai(F)Attens –Moiと同じ/L'amour Esperanto(F)/Julie LoveF/Les Filles De Ce Pays(F)//
L'amour EsperantoF/ Tu As Change(F)/ Long Ago And Far Away(E)/In The CityE/Elle(F)/ La VeriteF/ Mon Amour,Je Viens Du Bout Du Monde(「巴里にひとり」の原語版)F

(制作:佐野邦彦)
 
 

2 件のコメント:

  1. りゅうさく2016年6月12日 15:08

    初めまして。ジュリパラのツイッターから飛んできました。まとめ記事、当時に戻ったようで楽しく読ませていただきました。
    記載されていない事項をいくつか。。。
    PYG のメンバー、テンプターズからはショーケンと大口ヒロシです。ドラムの大口はPYG結成年1971年の8月[FREE with PYG]田園コロシアムライブのあと脱退し、原田裕臣が加入しました。同じ年の12月、ジュリーのソロ初の日生劇場リサイタルには井上グループとして原田裕臣が演奏しています。
    カナダで発売された[Mon Amour, Je Viens Du Bout Du Monde]のB面は、[FIGITIVE KIND]のフランス語ヴァージョンです。これは、日本ではジュリーのラジオ番組[沢田研二の愛をもとめて]でレコーディング直後の帰国時に1回だけ放送されています。
    [Mon Amour, Je Viens Du Bout Du Monde]はフランスでのヒットのあとスペイン語でも録音され、メキシコでシングル発売されているようです。
    初のイギリスシングル[FUGITIVE KIND]は、当時のイギリスではカールダグラスの[カンフーファイティング]という曲がヒットしていて、そのオリエンタル風のディスコサウンドには、ウーッ、ハーッ、の声が多用されていたため、同じような系統と思われないよう、急遽ウーッ、ハーッを抜いてミキシングをやり直してシングル発売されました。シンプルでこっちのほうが好きです。
    [One Man And A Band(Katte ni shiyagare)]は、香港を中心に東南アジアで発売されたLP[YESTERDAY TODAY]に[YOU'RE MY LIFE][FOOLING AROUND WITH LOVE]と共に収録されています。
    日本では東芝EMIへ移籍直前のポリドール最後のシングル[アマポーラ]のカセットテープ版に[FOOLING AROUND WITH LOVE][MY LOVE IS YOUR LOVE]のロンドンスタジオ録音版が収録されています。
    以上、懐かしさのあまりダダっと書いてしまいました。思い違いがあったら指摘してください。なにぶん40年前のことなので。。。。(汗)

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  2. 素晴らしいです!、ここまでよくまとめられましたね。恐らく同世代の方ではないかな~と思います。拝見させて頂きました。ありがとうございます。

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