2010年9月28日火曜日

★軍艦島・長崎・吉野ヶ里ツアー2010

軍艦島・長崎・吉野ヶ里ツアー2010

佐野邦彦





 長崎県の南西17.5kmの沖合いに浮かぶ廃墟の島、通称・軍艦島(本当は端島という)は、みなさんはその異様な姿をどこかテレビなどでご覧になってご存知のことだろう。
たった南北480m、東西160mしかないこの小さな岩礁の島に、かつては5267人もの人が住んでいたという。良質の石炭が採れるこの島は明治から本格的に三菱が炭鉱として開発し、従事する多くの抗夫やその家族を住まわすため、なんと大正5年に日本初の鉄筋コンクリート7階建ての高層住宅が作られた。こんな昔に鉄筋のアパートが作られたなんてそれだけでも驚きだ。その後も急増する人口を養うため、次々と高層アパートが作られ、最初から計画的に作られたわけではないので迷宮のごとく、SFに出てくる近代都市のように島は成長していった。緑がほとんどないこの島にビルが林立し、その姿を海上から見ると軍艦の姿そっくりだったので、この島は「軍艦島」と呼ばれるようになる。特に島の中央部の大きな煙突から給湯用ボイラーの黒い煙が沸き立つと、軍艦そのものに見えた。
ところが石油へのエネルギー転換により昭和49年に廃坑となり、84年間続いたこの三菱の「企業城下島」から、住民は全て去っていった。コンクリートの高層住宅群が残るこの工業都市跡は、その驚異の密集度もあいまって荒れ果ててもその寂寞とした光景が逆に魅力となり、密かにファンを増やしていた。ただ、なんの航路もなかったため島に渡るのは困難で、私個人は憧れの地として現在の佇まいを記録したDVDを見て保存するなど、軍艦島ファンの一員として地道にコレクションを続けていた。その軍艦島に遂に転機が訪れた。
2009年4月に、上陸解禁となったのである。昨今の廃墟ブームが後押ししたのかもしれない。波高0.5m以上、風速5m以上、視程500m未満、このいずれかに該当すれば上陸禁止と厳しい条件がありながら、この1年間で6万人の観光客が上陸を果たした。大人気である。先月に八重山へ行ったばかりだが、一昨年の7月から貯め始めたJALのマイルがもう12万マイルも貯まっている。期限もあるしそろそろ使おうと思っていた。これは軍艦島で使うしかない!と急遽、夏休みの残りを使って長崎・軍艦島ツアーに出発することにした。海で泳ぐわけではないこのツアーに子供達はあまり興味がなく、夫婦だけで行くことにする。では出発しよう。

☆9月10日(金)

 予約が遅かったせいもあるが、やはり「タダ券」だといい時間は空いていない。金曜の最終の午後4時発、それしか空いていなかった。そして帰りは月曜の朝一、8時15分発である。だからもったいないが金曜の午後と、月曜は一日休みをもらう。
 長崎空港へは午後5時55分に付き、荷物は最小限に減らしていたので預ける荷物がなくすぐに空港の外に出られた。空港から市内までは高速バスで40分だ。往復だと1200円(期限なし)のチケットを買い、バスに乗り込む。
市内の新地前というバス停で降り、ホテルへ向かおうとするが、その道は中央に市電が走り、バスも走っているのに、横断歩道に信号機がない。でもみんな平気で道路を渡っていく。同じように道路を渡り始めるとバスも車もみな止まってくれる。長崎は道が狭いので、人も車も市電も、お互いを思いやって調整しているのだ。これは目からウロコだった。
この市電、滞在中、何度も乗ったが、信号でその都度停まるし、交通ルールは車と一緒。時々専用線の場所もあるが、車と一緒に走る時は、車と同じである。そしてさらに驚いたのは、電車の中にバスと同じ降車希望のボタンがあることだ。押さないで、また駅で待っている人がいないと「通過します」と通り過ぎてしまう。つまりバスと同じなのである。歩いてすぐの場所に上町駅がある私にとって、環七の信号で止まる世田谷線のローカル度が気に入っていたが、この長崎市電はレベルが違った。まさに市民の足だ。120円と安いし、とても気に入ってしまった。市電はいいね、ホント。
私は極端な性格をしていて、目的地までは最短でいかないと気がすまない。だから沖縄の離島間では船があっても飛行機があればそちらを使う。時間の無駄がないのでスケジュールが立てやすいというのが最大の理由だが、ともかく飛行機は早いから好きだ。だから電車の長旅はまったく興味がない。特に電車が利用できても九州、北海道は飛行機以外考えられない。ただ、こうやって目的地に付いてしまえばバスよりは市電。そのローカルな感じが魅力になる。
 ホテルは安い上に温泉にも入れるドーミーイン長崎を使う。私自身は熱い風呂が苦手なので温泉にはいかない(部屋の風呂で十分)が、妻が好きなのだ。朝食は帰りの日など時間的に食べられないので、素泊まりプランにする。すると信じられないほど安上がりだ。妻には申し訳ないが、私はいい旅館で、部屋でご馳走を...なんていうのが嫌いで、外へ行って食べたいものを食べるのが好きなので、旅館はおよそ利用したことがない。そして一刻も早く外へ出かけて、行きたい場所に行きたいという人間なのである。
 その点、このホテルはロケーションがいいし、なにしろ中華街のまん前なので、外食にもってこい。
 荷物だけ預け、さっそく日本三大夜景という稲佐山(残りのふたつは函館と神戸)へ向かう。なぜ、今日かというと、明日の天気は晴れのち曇り、あさっては曇り時々雨とイマイチなので、晴れている今日に行くしかないと即断したからだ。夕食なんて二の次だ。
稲佐山にはロープウェイがあるそうだが15分に1本じゃ少ないな。でもそのロープウェイのある場所まで行くのにバスかタクシー。バスだと帰りはもう便がない...。とりあえず長崎駅まで出てみようと、まずは市電に乗る。駅前にはタクシーが並んでいるので、それに乗って稲佐山へ行きたいと伝えると、稲佐山へ行って展望台で待っていて帰りはホテルまで送ってくれるパックがあり、4500円だという。これはお得!行きの車内で運転手さんが、いつもだと黄砂で霞んでいるんだけど、台風が来た(2日前に長崎の近くを通過)あとだから、空気が澄んでいて今日はきれいですよ、と太鼓判を押してくれる。
その言葉の通り、展望台からの夜景はため息がでるほど美しかった。長崎はすり鉢のような形をしているので家々の明かりが山の中腹まで並び立体的であり、坂が多い町なので安全のため灯りを着けっぱなしにしているので灯りも多い、そして三大夜景の全ての場所がそうだが、湾が切れ込んでいて灯りのない海によって光の帯に形が生まれ、それがアクセントとなって美しさが増している。

昔行った函館もきれいだったが、風があって寒くてゆっくりできなかったっけ。神戸の夜景はそんなに有名だとは知らなかった。一昨年の12月には神戸にいたんだ。クリスマスボウルというアメフトの高校日本一を決める試合(「アイシールド21」だね)で、その決勝に子供が通っている早大学院が出場し、応援しに夫婦で行ったのだ。子供は生物部でアメフト部とは関係なかったのに、日本一がかかっているなら応援に行こうと、衝動的に行ってしまった。その前の年も決勝まで進出したのに関西代表の大産大附属に負けており、今年も決勝戦の相手は奇しくも同じ大産大附属、これはリベンジを果たすしかない。その試合は歴史に残る接戦となり、終了1分前にロングパスによる逆転のトライを果たし、万歳三唱をして都の西北を歌っていたら、終了14秒前に力で押し込まれ再逆転のトライを許し敗戦という、悔しいが手に汗を握る好ゲームだった。この試合をきっかけにアメフトの魅力に目覚めアメフトファンになってしまったほど。ただ、もともと日帰りの予定だったので、夕方5時ごろの新幹線で帰ってしまったが、一泊して六甲からの夜景を見ていけばよかったなどと瞬間にそんなことが頭をよぎっていた。それほど稲佐山の夜景が見事だったのだ。
しばらく見とれていたが、次に夜景をなんとか撮ろうと悪戦苦闘を始めた。デジカメで普通に撮ると露光が足らないので、光の数も量も少ないさみしい写真になってしまう。なんとか夜間撮影用のモードを探しだしたが、今度はシャッターが切れるまで4秒くらいバルブが開いているので、手持ちだと何度撮っても光がぶれてしまう。手すりにカメラを載せて撮ってもぶれる。結局、10枚以上撮ってまあまあと言えるのはこの1枚だけ。広角でないので夜景の一部だけだ。長崎に行ったら是非、自分の目で見てきて欲しい。やはり自分の目だけがその美しさを、正しく捉えられるから。

☆9月11日(土)

 軍艦島ツアーの予約はインターネットでできる。やまさ海運の「軍艦島上陸コース」の予約が必要だ。1日2回船が出て、それぞれ180席あるのだが、1ヶ月前に見たのに予約が取れたのは土曜の午後便と日曜の午前便のみ。それも数席が残っていただけで、今日の午後の方はあとから3席だけキャンセルがあってやっと予約が入れられたという大人気ぶりだ。だから今日の午前は長崎市内見物をすることにした。市電に乗ってまずは国宝の門が2つあるという崇福寺へ向かう。ここは長崎に来訪した中国人達がキリシタンでないことを幕府に見せるために作られた唐寺である。ここへ航海の神で守り神である媽姐をかついで滞在中、媽姐堂に祭り、また帰るときには爆竹などを鳴らしながらにぎやかに持ってかえったという。ちなみにこの媽姐は女の神様で、船に女を乗せると嫉妬して大時化を起こすとか。だから船は女が乗れないという掟ができていたらしいのである。土曜日だというのに誰もいないお寺は閑散としていた。


国宝の門も仏像も媽姐堂も真っ赤だったり、キンキラだったり、真っ青だったり、日本のそれ(その当時はこういう色だったらしいが)とはまったく違っていて、まさに中国。このお寺は珍しく全て撮影自由だった。次に同じ唐寺の興福寺へも行くが、ここも本殿の中は中国そのものだった。撮影はできなかったが中国皇帝のような媽姐が祭られていて、その横に千里先の風向きを予知する大きな耳を持つ「順風耳」と、千里先を見通すことができる三つの目を持つ「千里眼」の二鬼神。まったく崇福寺と同じだ。ああ、ここは中国なんだ、異質だなと再確認して2つの寺を後にする。
続いて近くにあるめがね橋へ行く。日本初の石作りの2連アーチ橋で、川面に映る佇まいが美しい。1634年にその当時の興福寺の住職が建てたそうで、どうりで近いわけだ。橋の中央部から川を見下ろすと下に30cmほど出っ張った場所があり、欄干からコインを落としてその上にうまく乗ることができれば幸運が訪れるとかどこかに書いてあったので10円玉を落としてみた。すると石の部分で弾んだが、その周りに生えている植物の根に引っかかり、ギリギリで止まった。ラッキー!


今、就活中の長男よ、きっといいことがあるぞ。そのあとは電車に乗って大浦天主堂へ。実は長崎に行く前から、私は自然が作った風景が好きなのであって、人間が作ったものにはあまり興味がない。ましてや欧米人の作ったものにはさらに興味がなく(皆さんご存知のとおり、熱狂的な米英のロック&ポップミュージック・ファンなのにね。音楽は死ぬほど好きだがその文化には興味がないので、欧米に行きたいと思ったことがない。ちなみに終生、憧れの地はギアナ高地をかかえる南米で、他にウユニ塩湖、レンソイスの大砂丘、イースター島、ガラパゴス諸島、ナスカ、マチュピチュそして中米メキシコのマヤのティカルと夢に描く場所ばかり。宝くじでも当たればすぐにでも半年くらいかけて回りたい)教会なんて...と思っていた。事実、御茶ノ水のニコライ堂なども入ってはみたものの特に感銘は受けていなかった。だから大浦天主堂にもほとんど期待していなかったが、これは大きく裏切られることになる...。





 天主堂の中はステンドグラスからの極彩色の光の帯が、雲から太陽が顔を覗かせるたびに司祭が立つ場所に降り注ぎ、実にきれいだ。この演出は凄い。昔の人はこれだけで神が降臨したかのように思えただろう。椅子にこしかけてその光の芸術を眺めていたときに、教会内に流れるナレーションでキリシタンの苦難の逸話を聞く。江戸時代末期の1865年、この教会を建てたフランス人司祭に数人の住民が近づき、そっと自分たちはキリスト教徒です、聖母像を見せていただけないかと声をかけたという。豊臣秀吉から続くキリシタン弾圧の中、250年間もの間、教会も神父もいない中で信仰を守り通した長崎の住民の存在のニュースは世界を駆け巡り、当時のローマ法王は世界的にも類をみないこの出来事に深く感銘を受け、東洋の奇跡として祝福したそうで、見上げると住民達が見ることを切望していた聖母像が目の前にあるではないか。歴史の重みがそこにあり、キリスト教徒でなくても感動する。
そして続いてキリシタン弾圧の歴史館へ行く。本物の踏み絵がいくつもあり、また仏像を模倣したマリア像、仏像の後ろに密かに彫られた十字架など、信者の苦難の歴史に見入ってしまった。これだけ迫害されても何百年も守り通す信仰の力とは何なのだろうか。その中、日本人に絵で煉獄を伝えようとしたド・ロ神父の版画が並んでいたが、これは花輪和一のマンガそのもので思わず見入ってしまった。花輪さん、ここから影響を受けていたのか...。なんか楽しくなってきたぞ。
そしてさらに足を進めるとコルベ神父の記念館に入る。これは驚きだった。コルベ神父とは、アウシュビッツ収容所に入れられていたが、脱走者の見せしめに任意で収容者を選んで餓死させる餓死刑に選ばれた男が自分には家族がいると叫んだこと聞き、望んで身代わりとなることを申し出て、ナチスに殺されてしまった聖人である。コルベ神父の偉業はよく知っていたが、あのコルベ神父がここ長崎にいて、布教をしていたとは知らなかった。長崎にいた頃のコルベ神父の写真に釘付けになり、そこに書いてあったエピソードのひとつひとつを丹念に読んでいく。助けられた男はその重さに長く話すことが出来なかったが、後年、このことを語り継ぐことが自分の使命と思い、語り部となって死ぬまで世界で講演を続けていたという。
私はキリスト教徒ではないが、こういう素晴らしい人のことをじっくりと知ることができ、幸せな気持ちになれた。どの宗教かなどは一切関係ない。肉体ではなく心の「愛」を持った人のことを知ることは喜びである。こういう自己犠牲をいとわない尊い行いは、もちろん後世に語り次いでその徳を広めていくべきだが、こういう超人的な方ではなく、後世にも残ってはいかないが、社会の片隅で支えあって生きるホームレスにも強く引かれている。ホームレスのドキュメンタリーがあると必ず見ているが、何も持たない者だからこそ得られた心の愛がここにもある。もちろんホームレスの一部の人の話なのだが、大量のモノに囲まれ、モノ無しではいられない自分だからそこ、欠けているから部分に強く引かれるようだ。「無一物中無尽蔵」という禅の言葉があるが、何もない中に全てがある−仏教でもキリスト教でも全てを捨てることに真理を見つけている。自分にとってはその境地は最後まできっと無理。でも目指すところは分かる。
なお、このコルベ神父は、普通だと100年以上、認定されるまでに時間がかかる「聖者」として、異例のスピードでバチカンに列聖されている。ここ長崎は原爆の惨劇を受け、そこにいたコルベ神父はアウシュビッツで虐殺される。まったく人間とはなんと愚かしいものか。しかしこういうコルベ神父のような人がいるから、人間を信じる気持ちにもなれる。
 大浦天主堂で思いもかけず胸が一杯になってしまったので、となりのグラバー園はなんとも思わないまま、回り終わってしまった。あ、そうそうこのグラバーさんは、端島(軍艦島)炭鉱の最初のオーナーだったとか。縁はあるな。
あとは午後、いよいよ軍艦島上陸クルーズである。
 軍艦島上陸クルーズ(上陸料込み4300円)は人気があり、やまさ海運の受付ではこれから乗る午後の便のキャンセル待ちに午前便から待っていた人がいるほど。予約しておいてよかったー。
ただ、午前中から少し風が吹き出していたのが気になるところ。早くに乗船したので、軍艦島が見える右側のデッキの席を確保する。長崎港から軍艦島までは1時間弱だ。船内ではずっとナレーションが流れている。放送で指摘されるよりも前に軍艦島が手前の島に重なるように見えてきた。カメラとビデオを交互に回しながら近づく軍艦島を追う。そして遂に軍艦島だけがはっきりと見える。恋焦がれていた島の全景を見て、ドキドキしてきた。なんてカッコいい姿だろう。

廃墟であろうが、見せることを目的としないで、機能優先で作られた、テクノロジーの究極の姿は美しい。変な例えだが、軍用のものがカッコよく見えるのと同じである。無駄が無い。どんどん軍艦島の姿が大きくなっているのに船内放送は、「海の状況によっては上陸できずに周遊コースに変わる場合もあるのであらかじめご了承ください」と、不吉なことを言っている。この9月は上陸率が90%を超える、1年で最もいい月なのだ。ちなみに7月は上陸率が34%と月によって大きくバラつきがある。やまさ海運によると年間平均の上陸率は約7割(運休の1月を除く)、この海の状態なら大丈夫なんじゃないかと、はやる気持ちをおさえながら待っていると、上陸時には2班に分かれて行動するのでこれから軍艦島見学カードを配りますとの放送が。やった!これで上陸決定だ。

ドルフィン桟橋と呼ばれる桟橋に接岸すると乗務員はすばやく飛び降り、てきぱきとロープで船体を固定していく。かなり厳重な固定だ。ここ軍艦島は波が荒いので、嵐の時には7階建てのビルの上をはるかに波が超えて居住者の通路に潮が大量に降り注ぐという。
配られたカードを首からかけ、総勢180人が島へと渡っていった。最近作られたと思われるトンネル通路を抜けると、目の前に小高い岩盤がそびえ、右手に廃墟となったアパートが目に飛び込む。ああ、憧れの島に上陸しているんだ。インターネットで画像を見て、ずっと思い描いていた島の情景、それが目の前に広がっている。島旅にはいつもそういう興奮がある。だから止められない。さらにここは10年以上待った軍艦島だ。
軍艦島はそのSF的景観に憧れたのだが、そういえば24年前に新婚旅行でいったタヒチのボラボラ島は、島の中央にそびえたつ山(オテマヌ)があり、「冒険ガボテン島」のような島に行きたい!という子供の時からの夢を叶えに行ったっけ。昔からずっと変わらないな、そういうとこ。
 島内で回れるのは島の外周の1/5も無い、手すりの中の100m程度の見学用通路だけだ。テレビやビデオで見たそそり立つビル群や、島の岩盤をそのまま利用してくりぬくようにビルを作り自然と人工物が一体となった迷宮都市のような佇まいは、見ることができない。潮で腐食が進み、風化が著しい軍艦島の建物は、危険が一杯なので近くへ寄れないのだろう。長崎市が許可して見学を許しているのだから、安全面重視は仕方のないことだ。でも危険承知で、取材のように足を踏み入れたい!と思っているのは私だけであるまい。
 通路には3箇所で説明する人がいて、詳しく語ってくれる。桟橋から一番近い場所から最初に右に見えた大きな建物は端島小中学校だ。


各学年3クラスずつあったらしい。目の前の岩盤の上に立つのが幹部職員の住宅と貯水槽。この島は水が大事だったので、飲み水には不自由しなかったものの、風呂は共同、トイレも共同で、水を節約していた。炭鉱から出てきて全身煤で真っ黒になった抗夫達も、汚れを落とすのは海水で、真水は上がり湯しか使えなかった。ところが幹部職員住宅だけは各住戸に風呂とトイレがあったそうで、いつの世もエラい人は特別扱いだ。やれやれ。

目の前が開けて見えるのはここが石炭を運び出す拠点だったから。コンクリートの建物がなかったし、プレハブや木造の建物は全て吹き飛んでバラバラになってしまった。中央部の一部残る赤レンガの跡は事務所だったようだ。
そして一番奥の説明場所、ここの目の前に建っていた建物は跡形もないがその奥に大きく見えるビルが、大正5年に作られた日本最古の鉄筋コンクリートアパートの30号館である。


六畳一間の独身寮といったところ。目の前で見たかったビル群や、岩盤と一体化した日給社宅、そこから島の一番上の神社まで登ることができる地獄段と呼ばれた階段など主要な建物はみな見えない裏側に位置していた。これは帰りに海から見るしかない。

 この島の暮らしは快適だったようだ。なにしろオーナーは三菱である。三菱が全ての面倒を見ているので、給料はサラリーマンの倍はもらっていたらしいし、家賃に光熱水費を加えても昭和49年の段階で月に10円も払えば済んだというから、要はタダ同然だったのである。そして学校、幼稚園はもちろん、映画館、パチンコ店、マージャン店、飲み屋から隔離病棟まで備えた病院、神社からお寺まであり、また建物同士は連絡通路でつながり、企業城下町であることから住民同士のコミュニケーションも良く、住みやすかったと元住民の評判はとてもいい

同じ炭鉱でも西表島にあった個人企業が経営していたウタラ炭鉱は、マラリアに高温多湿という劣悪な環境の中、賃金はろくに払わず、たまらず逃げ出すと捕まえてリンチというタコ部屋だったのだが、それに比べると雲泥の差だ。ここ軍艦島では、当時のサラリーマンの三種の神器と言われたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫を多くの家で持っており、さらに当時の写真を見るとステレオや電気炊飯器などもあってかなり裕福な暮らしぶりをしていたといえる。
 我々は荒れ果てた廃墟のビル群しかみたことがないので、この軍艦島の繁栄ぶりが分からないが、人が住んでいた時の写真は「軍艦島 海上産業都市に住む」(岩波書店)で見ることができるので、興味を持った方はamazonで即日、買えるから、是非手に入れて見て欲しい。



ビルの間の端島銀座と呼ばれた通りをひきめきあって歩く主婦の群れ、露天では多くの店が出てそこにも多くの主婦が溢れ、学校の校庭ではナイターで子供が野球の練習をしている。夕暮れの岸壁で釣り糸を垂れる男の後ろには大海原が広がり、そののどかな風景にこの島の暮らしの良い面を感じることができるだろう。
 軍艦島にいられたのはたったの1時間。我々デッキにいた人間は手前から見て奥で終わるので必然的に帰船は後ろになる。だから帰りのデッキはみな先客に占領されてしまった。よって甲板から人の間をぬってしか写真が撮れない。でもご覧いただけるとおり、遠景でのカットは「未来少年コナン」で、バラクーダ号からインダストリアを見ているかのよう(雰囲気だけど)だったし、日給社宅なども見ることができ、少し満足できた。
 帰りに次の日も予備で予約を入れていたのでキャンセルして帰るが、天気が崩れた翌日は上陸中止になっていたので、上陸できて本当に幸運だった。前の日程でも後の日程でもダメだった。今年は与那国の海底遺跡も見られたし、ラッキーが続くな。
 夜は早くにホテルに戻れたので、中華街の蘇州林という店へ行く。「まっぷる」で、皿うどんでもっともトップで紹介されていたからだ。雑誌に掲載されている中華街の人気店の閉店は8時とか早いので、昨晩は行けなかった。大盛りの皿うどんを注文したら楽に2人分の大盛りで、極細めんに具がたっぷりのあんがかかり、旨い、旨すぎる!今まで食べたどの皿うどんよりも旨い。これで確か1200円だったと思う。旨くて安くて文句の付けようがない。感動して明日も行こうと決めた。

☆9月12日(日)

この日、本来は対馬へいく予定だった。この島の北端からは対岸50kmほどにある韓国が見えるというので行ってみたかったのだが、今日は途中、雨が降るという天気予報なので、これじゃ見えないなと、早朝に飛行機のキャンセルを入れる。だいたいそんなに韓国を見たいわけではなかったし、この対馬は南北82kmと広いので一周するのは困難だと言われていた。最北端と最南端ぐらいしか観光スポットがない島なので、片方しか行けないのに1日使うのはもったいないという気持ちもあったたので、特に惜しい気持ちはなかった。
それでは妻が行きたいといっていた佐賀県にある吉野ヶ里遺跡へ行くことにしよう。長崎駅でレンタカーを借り、高速で1時間半くらいで吉野ヶ里へ着いてしまった。意外と近いな。高速の途中で雨に遭ったし、高速を出ても怪しい雲が山の方にかかっているので途中のコンビニで傘を買っておいた。
遺跡は吉野ヶ里遺跡公園の中にあり、駐車場代300円、入園料400円を払って広い広い公園の中へ入っていく。この公園中に、当時の集落がそのまま復元されている。もともと遺跡があった場所に土を盛って埋め戻し、その上に建てているので位置も当時と同じなのである。
入った当初は日差しが強く、何も陽を遮るものがないのでともかく暑い。その中、周辺にある竪穴式、高床式など、教科書で習った懐かしい住居を見て歩く。そして倉と市と呼ばれる倉庫群の集落に入る。ずらりと並んだ大型の倉庫群に、ここ吉野ヶ里が大きなムラだったことを感じることができる。そして南内郭へ入る。高い物見櫓へ上がると、そこをずっと取り囲む柵や堀、遠くまで立ち並ぶ住居にムラというより一国家であったことが分かってきた。


吉野ヶ里遺跡、南内郭の物見櫓から。


突然の雨にけぶるムラ。中央奥でひときわ高い建物が主祭殿



堂々たる北内郭の主祭殿。中国にならい偉い人は北に住む。


最強のパワースポット、北墳丘墓

すると突然大雨が。雨にけぶる遺跡は趣きがあるが、ここで買っておいた傘が役立った。どうも今回はうまくいくな。さらに北内郭へ進むと、大きな主祭殿がある。この中で当時の祀りごとの模様が等身大の人形で再現されていたが、吉野ヶ里の王とそれを囲む多くムラ長が2階では祀りを行っており、3階では祖先の霊の声を聞く儀式を巫女が行っていて、弥生時代の日本の模様がリアルに伝わってくる。
こういったクニの中の大きなクニが邪馬台国であり、そして有力なクニの王が天皇となってこの日本が出来ていったのである。そして王や身分の高い人達が埋葬された北墳丘墓をくりぬいて作った展示室へ入る。発掘された時と同じに甕棺(カメカン)が並んでいるが、この形、これは諸星大二郎の「暗黒神話」で武内宿禰が入っていたタイムカプセルそのものだ!この中に保護液が入っていて...などと考えると楽しくなってくる。なにしろ「暗黒神話」は好きなマンガを10選べと言われれば必ず選ぶ、大好きな作品なので、そんな想像だけで楽しい。
公園を出て、みやげもの屋で、武器の盾に刻印されていた巴形銅器の模様を入っているものを探すがひとつもない。事務所に聞くと、公園内の展示室の中でキーホルダーが売っているはずというので、園内へ戻る。それは受付の人(入場料がないから素通りしてしまう)の横で、買って欲しくないかのごとくひっそりと売られていた。太陽のマークに見えたが、これは沖縄で魔よけとして置いてあるスイジ貝の形を金属に置き換えたものとされていて、ここ北九州を中心に、弥生時代に関東まで広がっており、当時の日本の共通の魔よけだったようだ。






しかし、個人的にはやはり太陽の形にも思える。歴史的にも多くの地で太陽は信仰の対象だった。沖縄で太陽のことを「ティダ」というが、ティダ→テイダ→テンタウ→テントウ(お天道様)に変化したという。沖縄語とヤマトの古語(奈良時代)は共通している単語が多かった。今よりも文化的に密接に結びついていた可能性があり、琉球では最高神は太陽(ティダ)神だったことから、ヤマトでもその影響を受けていたのではないだろうか。
日本全国の遺跡と神話を結びつけた「暗黒神話」や、こういったモノの由来などを思い巡らすと、俄然、遺跡が楽しく見えてくるから不思議だ。このあと、長崎に戻って出島の資料館に行ったが、幕末の西洋からの遺物が中心で興味を引くものはなかった。だいたい今、ブームの坂本竜馬に、今現在は思い入れがない(毎週「週間江戸」を購読している江戸時代好きの私にとって、幕末は今のところ関心が薄い)ので、なんだか退屈な展示だった。
夕飯は昨日の蘇州林へ行き、皿うどんにプラスして長崎チャンポンも注文するが、これも絶品だった。このお店、長崎旅行に行かれたら是非。
翌日は朝、6時20分にホテルを出て高速バスで長崎空港へ行き、10時前には羽田に到着した。何しろ歩き回った旅だったので、その日を休みにしておいて正解だった。初めは軍艦島だけが目的だった長崎−しかし、見所は満載で、町の雰囲気もよく、食事も美味しいし、とてもいい旅だった。まだ見逃した場所もあるので、機会があったら再度、訪れたい場所である。まだマイルはたくさん残っているし。でも次は高千穂峡に行きたいという妻の願いを叶えてあげないといけないかな。いつでも旅行は一人で全てを決めているから、たまにはネ。
 















☆ビギン:『ビギンの島唄オモトタケオ3』(テイチク/TECI1284)

 ビギンの島唄が大好きだ。なぜかというと、ベースを島唄に置きながら、ビギンの本来の音楽スタイルをきちんと残しているからだ。沖縄の離島に11回も通い続けている私は、島唄は島の中で聴くことが好き。本土の民謡は苦手でまったく聴かないが、沖縄の島唄は聴ける。
特に旅先で、おじいが三線を引いているのを聴くと、思わず足が止まってしまう。島へ行っている時は、いつも聴いている海外のロックやポップスはまったく聴く気がなく、レンタカーでは地元のラジオから流れる島唄だけを聴いている。まさに沖縄の空気と島唄は一体であり、その場所で聴くのが好きなので、東京へ戻ると聴く気がなくなってしまう。しかしビギンは島唄ブームの元祖と言われていながら、8年も島唄のアルバムを出さなかった。いつも自然体の彼らは自分のやりたい曲をやりたいので、島唄はビギンの一面であり、いくらヒットしても、いくら評価が高くても、ビギン=島唄と思われるのが嫌で、こうやって8年も空けたのである。だからコテコテの島唄にはしない。三線を使い、沖縄の音階を使い、ウチナーグチ(沖縄の言葉。沖縄では子音がaiuiuなので「オ」(0)は「ウ」(U)になり、キ(ki)はしばしば変化するようにチ(chi)に、さらに同じ子音が続く時はつなげて伸ばすのでナワ(nawa)はナー(na-)
になるので「オキナワ」な「ウチナー」となる)を使っても、ロックやポップスの要素は残っている。そこがいい。だからいつでも聴きたくなる。今度のアルバムには1枚目の「涙そうそう」や2枚目の「島人ぬ宝」(「ぬ」とは助詞でこの場合は「の」。だから「島人の宝」の意味)のようなキラーソングはない。キラーソングが置かれていた1曲目は沖縄の伝統である「祝い古酒(クース)」の歌だ。子供が生まれた時にその年の泡盛を床下などに貯蔵し、成人した時に一緒に飲むという、なんとも素晴らしい習慣の歌だが、ヒットするにはローカル色が強すぎる。次の「でーじたらん」はカメラ撮影、ビデオ撮影に振り回され、家族の会話もおろそかにデジタルの編集に没頭する現在の父親達を通して、どこでもなんでもいつでも手に入れられる現代社会に欠けている人と人のつながりを「でーじ足らん」(「デージ」とはウチナーグチで「とても」という意味)と皮肉る快作だ。2曲ともアップテンポのナンバーで、3曲目になってようやくしっとりとした泣かせるナンバーが登場する。「パーマ屋ゆんた」(「ゆんた」とは八重山で労働の唄のこと)は、内地に進学していく娘さんに、その子の髪を赤ちゃんの頃から切っていたパーマ屋(美容院)のおばさんが送るメッセージの歌だ。「色を抜いても重ねても髪の根っこは染まらんさ」「髪は切っても揃えても同じようには伸びないさ」「だからパーマ屋があるわけさ」という言葉は深い。メロディも詞も美しい、このアルバムの文句なしのハイライトである。その他では「オジー自慢のオリオンビール」のアンサーソング(?)ともいえる「アンマー我慢のオリオンビール」が面白い。沖縄では年中行事があり、その都度、男は飲んでばかり。女達はその裏で料理を出し、片づけをし...と実に大変なのだが、そんな女性(「アンマー」とはお母さんのこと)の苦労を感じさせてくれる面白い歌である。このアルバムで最も収穫だったのは「爬竜舟」だ。沖縄の伝統である海の安全や豊漁を祈願する舟の競争「ハーリー」を描いた歌だが、全編、ウチナーグチなので、我々ヤマトの人間には歌詞の意味は歌詞カードを見ないと分からない。しかしこの曲は三線などの楽器を使いながら堂々たるロックナンバーに仕上がっており、バンドの「The Weight」を思わせるコーラスといい、ウチナーグチ(八重山方言だからヤイマグチかな)がこんなに見事にロックになるとは思わなかった。さすが!(佐野)





☆Gary Lewis:『Listen!』(New Sounds/CRNOW20)

私はかつて『Soft Rock A to Z』の中で「ゲイリー・ルイス(&ザ・フレイボーイズ)の最高傑作は『Listen』」と書き、ゲイリー・ルイスを紹介する度にその事を強調してきたが、その一押しのアルバムが遂にCherry Red傘下のNew Soundsよりリリースされた。
このCherry Red傘下にはRev-Olaがあり、VANDAの別働隊のようにVANDA Recommendのアルバムをリイシューしてくれるので、実に頼もしい存在だ。このアルバムが素晴らしいのはサウンドと選曲である。前作の『New Directions』からそれまでのようなイージーなヒット曲のカバーを収録曲から外し、当時としてもレベルの高い曲をカバーとして選ぶようになった。これはスナッフ・ギャレットに変わって中心となったプロデューサーのゲイリー・クレインと、タートルズへの曲提供で知られるアラン・ゴードン=ゲイリー・ボナー(ゲイリーはプロデュースを担当したゲイリー・クレインではなくこの二人が中心とはっきり語っている)のセンスが大きい。そしてアレンジャーもレオン・ラッセルからジャック・ニッチェ(『New Directions』にはニック・デカロなども含む)に変わり、サウンドに深みが出た。ただスナッフ・ギャレット=レオン・ラッセルのコンビはシングルを作らせたら最強で、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの大ヒットは全てこのコンビが担当(デビューから7曲連続全米トップ10入り。その後の2曲もトップ20内)していて、この二人のサウンドがゲイリー・ルイスのサウンドとなっていることは間違いなく、私も大好きなのだが、ことアルバムになると、シングル以外の曲が往々にしてチャチだった。明らかに手を抜いていた。トップ10に入るヒットがなくなったのは1966年で、ビーチ・ボーイズが『Pet Sounds』、ビートルズが『Revolver』をリリースしたこの年はポップ・ミュージック・シーンがシングル中心からアルバムの時代へとシフトする転機だった。この年の暮れにゲイリーは徴兵されたため、ライブは出来なくなったが、レコーディングは続けられた。スタッフを一新したゲイリー・クレインとボナー=ゴードンは、アルバムを価値のある曲で埋め、1967年という時代にふさわしいアルバムを作ることに成功する。『New Direction』で試行した洗練されたサウンド作りがこの『Listen!』で結実している。メイン・コンポーザーはゴードン=ボナーが担当、静と動の変化が聴きものであるタートルズでお馴染みの「She'd Rather Be With Me」、牧歌的で深遠なサウンドを持つハーパース・ビザールでも知られる「Small Talk」、解放感のある「New Day」、重量感のあるシングル曲の「Jill」(シングルにしては地味で52位止まり)の4曲は、メロディの深度、洗練されたサウンドでまさにソフト・ロックと呼べる傑作に仕上がった。そして雄大な「Look Here Comes The Sun」、3拍子を巧みに組み入れた「Angel On The Corner」、ジャック・ニッチェと一発で分かるウォール・オブ・サウンドの「Happiness」が素晴らしいし、ティム・ハーディンの書いた「Don't Make Promises」「Reason To Believe」もいい味を出している。しかし最も素晴らしいのは最後を飾る「Young And Carefree」だ。流麗で心地よいこの3連符の曲は、ソフトロック・ファンなら誰でも一瞬で心を奪われる大傑作と言えよう。そして難しい曲が多いこのアルバムでのゲイリー・ルイスのヴォーカルは裏声も使いこなし、声に透明感があって実に見事だった。ヴォーカル面でも最高傑作である。ライブが出来なかった時期なので、ソロ名義にしたのだろう。ただこのアルバムはノン・チャートで終わり、ゲイリーは次作のプロデュースをスナッフ・ギャレットに戻すことになる。かつて来日した時にゲイリーに直接インタビューができたが、そこで感じたのは、ゲイリーはエンターティナーであり、ヒットした曲には思い入れがあり雄弁に話すが、どんなに素晴らしい曲であってもアルバム曲でしかない「We'll Work It Out」の話題などには興味を示さなかった。この2枚のアルバムについてははっきりと「いいとは思うけど40人のオーケストラを雇わないといけなくてステージではできない。今までのファンはついてこられなかったからさっぱり売れなかった。お金をたくさん損して、自分にとっての利点はなかった。」とにべもなかった。そして成功していた時の実質的なボスはレオン・ラッセルで、彼が最高だとも語っていた。成功しなかったからゲイリーの評価は低いが、音楽的な評価は間違いなく『Listen!』が一番だ。このCDはステレオ、モノと2イン1で、シングルのカップリングだったゴードン=ボナー作の「New In Town」も収録されていた。このWeb VANDAの読者の方なら必ず購入すべき、マスト・バイ・アイテムである。(佐野)
Listen


2010年9月26日日曜日

ネオGS再考~GoGo!Poodles<後篇>




ゲイリー芦屋氏(作曲家、ex土龍団)企画/インタビュー/文による
ネオGS再考~GoGo!Poodles<後篇>
前篇に引き続きGoGo!Poodlesの佐々木たま子さんにお話を伺う。プードルズの解散に至る過程からその後のレーベル・オーガナイザーとしての活動まで、最新作『Tamallel World』に至る足跡を辿る。

GoGo!Poodles マイスペース

ゲイリー芦屋(以下G);GoGo!Poodles(以下プードルズ)の数少ないライブはどの様な場所、雰囲気でやっていたのでしょう?

佐々木たま子(以下T);プードルズはレパートリーが少ないのでステージも20分くらいでした。基本はカラオケで歌うというスタイルですが、友達のバンドにバックをお願いして一度だけ生で演った事もあったかも...。ライブの企画はEgg-manとかでCHEESEと一緒に出る事が多かったですね。代々木公園(いわゆるホコ天)とかでもやった事ありました。(※筆者脚注;例えば85年のEgg-manでのプードルズデビューライブの競演者を見ると、坂本みつわ(ex東京ブラボー)、沖山優司、CHEESE、GO-BANG'S、ニャンコプラトニカといった面々。さらに87年6月のEgg-man、ミント・サウンド主催「ビート・ミンツVol.2」ではファントムギフト、CHEESEと競演している)。

【GoGo!Poodles(プードルズ)】 

G;プードルズのためにたま子さんが書き下ろした曲は「夢みるTammy」「レモンの気持ち」の2曲ですが、レパートリーの半分くらいをお書きになっていたCHEESE時代と比べて、よりティーネイジ・ポップス度が濃くなってる気がします。精度が上がってるというか...。
歌い方もCHEESEとプードルズでは大分変えていらっしゃいますよね?

T;いや、歌い方は変えてるつもりはないですね。ただプードルズでは意図的にキーを上げて作っているので結果的にそういう風に感じられたのではないでしょうか?

G;プードルズとして小西康陽さんの映画の仕事で歌った事がある...との事ですが、これはどんな話だったのかお聞かせ願えませんか?

T;イタリアのアニメーションの祭典に出品する映画の仕事でした。このお仕事もやはり小森さんから話しが来ました。実はね、私に直接オファーって来ないのです。一説によると私が変人なので、人前で喋るな!って(笑)。確か渋谷か六本木かその辺りの明るい雰囲気のスタジオだったかな。緊張していたのでまずはその作品を見せて下さったのを憶えています。
お魚や海藻等のパステルカラーが綺麗なアニメーションで、イカの踊り子姉妹が歌うシーンのボーカルを頼まれたんです。もうバックの音とメロディーはできていましたが、歌詞が決まっていない...。何回かメロディーを聴いた後、そうだ!「ビキニスタイルのお嬢さん」でやろう...って事になって一気に歌詞が出来上がりました。私達もすぐに覚えてしまえる程楽しい歌詞で、本当に楽しい録音でした。だけど小西さんが何故私達を呼んで下さったのかは謎なんです。なんでなんだろう?

G;という訳でプードルズ篇も佳境ですが、解散に至る過程を教えて下さい。

T;解散と言っても妹ですからねぇ。個人的な契機で言うならばペイズリーブルーのライブを見た時に、私はポップスしか歌えないからダメだなって思っちゃったんですよね。と同時に、にわかネオGSみたいな人達が増えネオGSもどきのバンドがライブをやったりってのを見かけるようになってガッカリした事も大きいかも。
ミント周辺のバンドは勿論みな本気で頑張ってる人達なのですが、ムーブメントとして認知され出すと業界ぶった人が流行りに便乗してしゃしゃり出て「自分がムーブメントの先駆け、裏の仕掛人」的な顔をするのが嫌でした。私はMilkshakesが好きだったので、そういう人達にああいう泥臭くてだらしない、不良っぽいシーンを崩されて行くのが嫌だったんです。もっともそういった便乗組の人達は新しい音楽が出るとすぐにそっちへ移行して行きましたが...。
それからネオGSというシーンがメジャーになる事によってサロン化し、選民思想的な雰囲気になっていった事...、アレはちょっと嫌だったなあ。やはり美大系の人が多かったからか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというか、アンディ・ウォーホルとファクトリーみたいな空気になって、みんな勘違いしてその気になってしまっていたような気がします。例えばイーディー・セジウィックが一時期もてはやされたけど、他の素材が見つかれば皆一気にそちらに群がる...みたいな扱いでしたよ。こちらは真剣に音楽をやっているのに、そういう事を受け止めてくれた人がどれだけいたでしょうか。そもそも取り巻きやお客さんが一体となってまず暗黙のドレスコードがあって、60's的な踊りや立ち居振る舞いを強要する場の空気があったし、結局最後までそういう場に馴染めなかった私たちはただでさえ浮いていたと思うから尚更ですね。シーンがメジャーになってくると、純粋にバンドをやりたくて頑張ってる人達の中にそんな薄っぺらなファッション感覚みたいな空気が入り込んで来る事が悲しかった。ネオGSというシーンは若いパワフルなバンド達が作っ たもの以外の何者でもないのに...。そんなネオGSというシーンとの距離感、小森さんとの音楽的方向性のズレ、自分のやりたい音楽の居場所のなさ、そんな中で「もう止めよう、やるだけ1人よがりだ」と客観的に思ってしまったのです。

G;たま子さんにとって、ネオGSというムーブメントを総括するとどの様なものだったのでしょう?

T;あの時代、ネオGSとは...「小森さんが選んだガレージ・サウンドの集結」だった様な気がします。本当にどこかのガレージでマイク立てて一発録りみたいな...。音質悪いんだけれどバンドの蒼いエネルギー爆発してる音楽、って事でしょうか。ネオGSの方々には、最高の時代だった筈です。だって60年代さながらに古着着ておめかしした女の子達が、前のめりになって キャーキャー叫びながらライブを楽しんでいましたからねぇ。私はと言えば、ネオGSの中に居るという感覚は全くありませんでした。そりゃ好きなグループもありましたよ、コレクターズの前身のバイクとか。ネオGSファンの女の子と友達になったりもしましたが、バンドの横の繋がりは全くありません。さっきも言いましたがシーン自体の雰囲気に馴染めなかったんです。
私はどっちかというと人見知りで家に引きこもっていたり、とにかく1人で良く考え事してましたね。ネオGSの独特の雰囲気は私とは全く別ものでした。そしてこの中に居るのは違う気がしていたし、私のやりたい事は決して実現できない事を思い知らされた「諦め」の時代でもありました。

G;プードルズを解散後、音楽活動再開に目が向く事はあったのでしょうか?
それとも解散以降はたま子さんは自ら主体となって創作する(歌ったり演奏したりという)現場から完全に降りてしまった?

T;プードルズを止めて暫くはライブは見る方に徹していました。その後一切の音楽、音を耳に入れなくなりました。ずっと心の中にやりたい音楽がありましたが、諦めたのです。私が思い描く音楽と周囲の絶賛する音楽はかなり違っていたから...。かと言って新しいシーンを切り開く程の力もない...。とあるガールズ・バンドをプロデュースしようと録音までしていましたが原盤権で揉めて嫌になってしまい、「もう音楽はやらない!」とかって決めて逃げ出したのです。

G;たま子さんの表現手段の中で自分で歌うより他のいいガールグループを世に出したい...というプロデューサーとしての方向性があって、それが今年リリースされたたま子さんプロデュースのオムニバス『Tamallel World』まで繋がってると思いました。初めて聴いた時にプードルズだった方がこれをリリースするとはなんとブレてないんだ...とちょっとした衝撃だったのです。
というわけで『Tamallel World』のリリースまでの時間軸を埋めていきたいと思うのですが、まず『Tamallel World』は、たま子さんのレーベルであるGirl Friend Recordsからのリリースですが、品番がGFR-2となっています。という事はGFR-1というレコードがあったのでしょうか?

T;はい。86年にリリースしたオムニバス・アルバム『Amusement Park』がそれです。もっとも当時はまだプードルズ活動中でしたし、レーベル・オーガナイズなんて言えるレベルではありませんでした。ナゴム・レーベル、地引雄一氏、高護氏、そして小森さん等、皆さん本格的に運営されてる方々の隙間にポチンと佇んでいる感じでしたね。とにかく斉藤美和子さんの声質と言葉遊び満載の詞に魅せられて、斉藤美和子さんの「Lonely Stardust Dance」という曲を世に出す為に作ったようなものです。周囲のバンドに声がけをして、皆様快く引き受けて下さいました。D-DAY+沖山優司、少年ナイフ、EVA-1等が入ってます(EVA-1のバックは初期ヤプーズ)。もっともこのアルバムを出すにあたり、「イヤ、まだ私らしさが出せていない」と欲張りな気持ちが芽生えたのも事実です。 (※筆者脚注;『Amusement Park』は95年にテイチクよりCD再発)

G;私は「Lonely Stardust Dance」を知らなかったのですが、イントロから「I Wonder」なこの曲はまさにジャパニーズ・ウォール・オブ・サウンドの傑作ですね。もし聴いた事がない方がいらっしゃったら是非聴いてみて下さい。

話を戻しまして...、ガールフレンドの1枚目から今年の2枚目までの間のリスナーとしての音楽的変遷を教えて下さい。「そういえばあんなのにハマった時期もあったな」とか...。

T;かなり長い間、音楽を受け入れられない時期が続きました(MAD3だけは聴いていましたが...)。世の中の音楽も変わり果ててしまい、まあ色々な音楽がはやりすたりしましたが、安室、華原、倖田等のavex系などは勿論全く受け入れられませんでした。やはり60年代が一番肌に合うのでしょうね。色々と逡巡しては最後に60'sのガールズに戻ってしまうんです。あっ、つんくの「チュッ!夏パ~ティ」をテレビで見たときは、やりたい所全部やってるなぁとは思いました。 歌う子の顔、衣装、踊り、曲のサビの切ないコード進行、「あ~、アタシもこんな曲一曲あるんだけどなぁ」って...。そんなぐらいです。

『Tamallel World』(2010年) 

Girl Friend Records マイ・スペース(『Tamallel World』収録曲の試聴ができる。動画も有り)
http://www.myspace.com/tamallel

G;『Tamallel World』を作ろうというきっかけは何だったのでしょうか?いつ頃から画策し、どのような経緯でリリースまで漕ぎ着けたのでしょうか?。

T;『Tamallel World』はプードルズをやっている時から、「いつか私らしいアルバムを作りたい!」と思い描いていた完成形の1つです。言葉では上手く表現できないのですが、ずっと胸に残ってしまう様な曲をレコードにしたかったのです。そういう音楽にたまたま20年後に出会っただけなんですよ。だからゲイリーさんに「一貫性がある」と思われたのでしょうね。
『Tamallel World』を作ろうとしたきっかけは、やはり「CHEESEのCDを作ろう」と言う作業がきっかけでした(※筆者脚注;『ハイ!チーズ』2009年8月、ミント・サウンドより発売、CHEESEのソノシート既発音源に加え当時の未発表音源を網羅したコンプリート版CD)。

『ハイ!チーズ 』(2009年 コンプリート音源CD) 

その時に80年代当時、作りたいと考えていたガールグループのレコードの事も思い出したんです。あの時負け犬の如く逃げた自分が恥ずかしい!これは出さなければ一生情けない思いが残る!...と考えたのです。しかし、誰と話してもCDは売れないよ、との答え。それでも形にして見ようと決心しました。リサーチは簡単でした。ネットでガールグループとか60年代とか検索すれば沢山出て来ます。約1ヶ月片っ端から見て行きました。例えばK.O.G.A Recordsはかなり私の好きな路線で参考になりました。『Tamallel World』のA面に収録されている札幌のマーガレッツはここでリリースしています。いくつかグループをピックアップした中から、ホームページの写真、衣装、内容を吟味して、「おっ?!」って感じたバンドをYou Tubeで聴いたり、そもそもどの辺りの人脈と繋がっているのか等も重要な点で、そのグループの音楽仲間の曲なども丁寧に確認しました。 そして選びに選んだ2組、マーガレッツとリコッツにメールを出してレパートリーを送って貰ったんです。その時点で既に私の中ではこの2グループを出したい!と確実に決定していたのですが...。

G;たま子さんはマーガレッツ、リコッツのレコーディング、選曲にどの程度かかわっていらっしゃいますか?

T;マーガレッツ、リコッツとも先に音源をもらっていましたのでそこからの選曲ですね。マーガレッツには「必ずオリジナルを入れて欲しい」とお願いしました。本当にDEVO君はいい曲書くなぁ、と陶酔していましたので...。リコッツのオリジナルは、もう全て入れても良いくらいどれも素晴らしかったので選曲はおまかせしました。「好きよ」を最後にいれてくれれば!と願っていたら、やはり最後にまわしていてくれたのでとても満足しています。

G;最後の質問です。『Tamallel World』はどういう人に聴いて欲しいですか?。
年代、どんな音楽を好きな人...などなど。

T;60年代の文化・風俗が好きな方、パワーポップ、そして歌謡曲好きの方には是非聴いて頂きたいです。このアルバムを何度か聴いていく中で、楽曲の完成度の高さを感じ取って下されば幸いです。何年か過ぎ、再度聴きなおした時に、新鮮さと懐かしさが交差する事を願っています。

筆者はリアルタイムでネオGSシーンを体験できた世代ではあるが、残念ながらプードルズのライブを実際に目にする事はできなかった。ただ「Tokyo Night」1曲だけが手許にあっただけで、後は自分で勝手に想像するしか手はなかったのだ。たま子さんとの数ヶ月に渡るやり取りの中で、当時録音した全音源を聴かせて頂いたばかりか、なんとプードルズのデビューライブのDVDまで見せて頂いた。まさに想いは時を超える...って奴。23年かかったけど。結局、筆者が拘り続けていたプードルズはまさしくネオGSというムーブメントの根幹に関わるグループであり、たま子さんへの取材は実は改めてネオGSとは何だったのか問い直す作業でもあったのだ。
GSと銘打ってはいるがオリジナルのグループ・サウンズとは全く別次元の音楽でありその単純な比較は意味がない。ネオGSの「GS」には「ガレージ・サウンド」だけでなく「ガールグループ・サウンド」の意味も込められていた。散々言われている事ではあるが、パンク~ニュー・ウェイヴを通過しガレージ、パンク的解釈でそういった音楽を体現して見せたネオGSというシーンは、あの時代に於いて回顧としてではない60年代の文化・風俗への正しい再評価の眼差しであったのだと思う。その視線はたま子さんの中で純粋培養され、今年『Tamallel World』という形で結実したのではないだろうか。最後にここまで本稿にお付き合い下さった皆様へ、是非『Tamallel World』を聴いてみて下さい。また筆者としては、名著「ナイロン100%」と去年刊行された「THE GROOVY 90'S~90年代日本のロック/ポップ名盤ガイド」を埋めるミッシングリンクとしてこの辺りのシーンを纏めた書籍を読んでみたいものです。

2010年9月19日日曜日

ネオGS再考~GoGo!Poodles<前篇>




ゲイリー芦屋氏(作曲家、ex土龍団)企画/インタビュー/文による
ネオGS再考~GoGo!Poodles<前篇>

皆さんはGoGo!Poodlesという80年代、東京で活動していたガールグループをご存知だろうか?音源としては87年4月にミント・サウンド・レコードからリリースされたネオGSのオムニバスアルバム『Attack of...Mushroom People!』に「TokyoNight」というエレキ歌謡風の1曲が収録されたのみ。そう、GoGo!PoodlesはネオGSというムーブメントの中にあったグループなのだ。
筆者は当時この名盤の誉れ高い『Attack of...Mushroom People!』をすり切れんばかりに愛聴していたのだが、中でもストライクスやワウワウ・ヒッピーズなどを抑えて最も繰り返し聴いていたのがこのGoGo!Poodlesの「Tokyo Night」。しかしネオGSガイド本「いかすビートにしびれるサイケ(近代映画社)」に紹介ページはあるものの音源としては自主制作のカセットのみリリースで、なおかつ88年当時は既に流通は停止、入手は不可能とまで書かれていた。「Tokyo Night」があまりに素晴らしい名曲だったので是非他の曲も聴いて見たいとずっと思っていたのだが、聴ける術もないままに23年...しかし今年の春に偶然GoGo!Poodlesのマイスペースなるものを発見、そこに当時のカセット音源が全てアップされているではないか。恐る恐る聴いてみる...と、オリジナル、カバーともに「これが当時聴けてたら!」という素晴らしいティーネイジ・ポップス&ガールグループ・サウンドだったのだ!早速メンバーの佐々木たま子さんに連絡を取って当時の話、現在の活動など色々聴かせて頂いた。


 【GoGo!Poodles(プードルズ)】 

GoGo!Poodles マイスペース
http://www.myspace.com/thepoodles1225

GoGo!Poodlesは佐々木たま子、恵美姉妹によるザ・ピーナッツ的な形態のボーカルグループ。結成は85年、解散は自然消滅的な形なので明確ではない(が88~89年辺りだろう)。
ご存知の通りネオGSというシーンはその後の渋谷系と地続きなシーン。だがある日突然ネオGSなるシーンが降って湧いた訳ではなく、そこに至る前史として東京ロッカーズからニューウエイブに流れた人脈が大きく関わっている。その辺りの事情についてはアスペクト社刊行の「ナイロン100%」を併読して頂けると更に歴史認識のイメージが膨らむと思う。という訳でGoGo!Poodlesだ。姉の佐々木たま子はプードルズ以前にやはりネオGSに括られたCHEESEというガール・バンドのギタリストとして活動しており、件のネオGSコンピにおいてもCHEESEのキャンディー・パワー・ポップな名曲「恋のダンスホール」が収録されている。
まずはCHEESE時代の話から聴いてみよう。

CHEESE マイ・スペース
http://www.myspace.com/haicheese

ゲイリー芦屋(以下G);CHEESEの結成はいつ頃だったのでしょう?そして音楽性はどのようなものでしたか?

        【第1期CHEESE】

佐々木たま子(以下T);81年、同じ高校の同級生4人で結成しました。その時のバンド名はジェニー。83年にボーカルの子が抜けて3人編成になり、そこからCHEESEとグループ名を変えたんです(※筆者脚注;メンバーは宇野美里=b・Vo、松村町子=Dr・Vo、佐々木たま子=g・Vo)。音楽的には外道やジューシーフルーツ、ルースターズのコピーなどから始めてその後オリジナルを作るようになりました。外道はあのバカバカしさに惹かれてレコードを買ったのでしょうね。今も外道はCHEESEにとって大きな影響を残したバンドと思っています。外道はアルバムよりライブですね。あの迫力、変な衣装やMC、パフォーマンス、そして演奏に比べポップなメロディー。ある意味ゲイリー・グリッターの様に悪趣味で見たく無いんだけど見ちゃう、みたいな。

G;なるほど、パンクやパワーポップをかわいく...といった辺りがCHEESEの当初目指した世界なのですね。CHEESEのオリジナル曲はどれも大好きなのですが、その中でたま子さんの曲はやはりどこかティーネイジ・ポップスやフィンガー5、LAZYの様な歌謡曲経由の洋楽(どちらも都倉俊一の手がけたグループ)の香りが漂っているように感じます。音楽的なルーツとか作曲法とか教えて下さい。

T;特別に楽器を習った事はありません。最初の音楽的な記憶は2歳ぐらいの頃に両親が買って来た童謡のアルバムセットでしょうか。あとよく友達のお兄さんやお姉さんの部屋に入り込んでは勝手にレコード聴いたりしてましたね。ビートルズやツェッペリン、カーペンターズ、ボブ・ディランとか憂歌団とか...。60年代ポップスは、きっと子供の頃普通にテレビやラジオで流れていたので、当たり前の様に耳に入っていたのでしょうね。普通にアイドル好きでしたから、BCRやショットガン、LAZY、エアロスミス、ジェフ・ベック、スタンリー・クラークなんて流行りの曲も聴いていました。まあ子供の頃から思春期にかけてはあまりにも沢山の音楽が飛び交う時代でしたので、雑食の私には逆に決め手がありませんでした。 ギターを始めたのは16歳かな?独学で覚えたので、知ってるコード数が少ない日本一単純なギタリストだったかも。曲を作るのは本当に「夢の世界」に行かなければならないので大変時間がかかります。まずストーリーを考えて、頭の中で映画化します。すっかり入り込んだら一つ節を作りひたすらその節ばかりずっと脳内で繰り返して、後でピアノでバックの音の和音を弾きながらメロディーをつけていく...そんな感じです。

G;CHEESEはどういった経緯でネオGSというシーンに取り込まれていったのでしょうか?

     『SWITCH ON』(87年 ソノシート現在廃盤)

T;取り込まれたという感じではないですね。そもそも「ネオGSという括り」は完全なる後付けでした。CHEESEはEgg-manで自分たちの企画ライブをよくやってました。キャ→、D-DAY、ピンクキャッツなど女の子バンドに声をかけて...。機材も自分たちで買ってたし意外に自力で行動するパワフルなバンドだったんですよ。集客力もなかなかあったと思うし、誰もが知ってる某大手の音楽事務所から声かけられたりしましたね。そんな中でミント・サウンド・レコードの小森敏明さんがCHEESEのライブを見て声をかけて下さったのが一つのターニングポイントですね。

G;その後、件の『Attack of...Mushroom People!』はじめ、数々のネオGSのグループのアルバムをリリースしてたミント・サウンド・レコードですね。ミント・サウンドの小森敏明さんといえば言うなればその後のネオGSというかガレージ・シーンを語る上でのキーパーソンですよね。その辺りの小森さんのパッケージ戦略とか、ミント・サウンドと関わるようになってどの様に音楽性が変化したのかなど教えて下さい。

『Attack of...Mushroom People!』(87年)

T;ミント・サウンドを私が語るなんておこがましい程お世話になりました。実際、ネオGSがどの様な流れであんな風になったのかは私も知りません。 小森さんの交友関係からなのか、人づてで集まったのか?小森さんからすれば、今まで自分の居た場所がたまたまネオGSとして盛り上がっただけで、目論みと言える程の物は無かったんじゃないでしょうか。そんな人達が20代の血気盛んな時期に勢いつけてやっているから、メジャーや雑誌メディアがすぐに便乗したのかしらね。小森さんには色んな音楽を聴かせて貰ってCHEESEは大きな影響を受けてます。何もかも今までとは違う環境を見せられ、知らなかった曲をどんどん聴かされ...。ガールグループばかり入った選曲テープを貰った時はどうしたら良いか解らなくなりました。Nikki and the Corvettes、B-girls、Milkshakes、Revillosやら海賊盤ビートルズやらモノクロームセットなんか...。

G;なるほど、その辺りのガレージサウンドとCHEESEの音楽性は通じるものがありますね。小森敏明さんといえば、ミント・サウンド以前は81/2(はっかにぶんのいち)のギタリストとして活動されてましたが、東京ロッカーズ~ニューウエイブシーンについては当時ご存知でしたか?
T;全く知らないです。貧乏高校生にはツバキハウスは敷居が高いし、三つ編みしてオボコイわたしなぞとーても行ける場所じゃないですよ。80年代初頭のアンダーグラウンドな音楽シーンはどんな感じだったのか、私も知りたかったです。

『ハイ!チーズ 』(2009年 コンプリート音源CD) 

G;84年12月にたま子さんはCHEESEを脱退、その後GoGo!Poodles(以下プードルズ)を結成されてます。まずはCHEESE脱退に至る経緯から教えて下さい。

T;ミントに出入りするようになって色んな音楽を聴かせて貰っていたのですが、自分の出来る音楽はCoolsoundには程遠い歌謡曲...。ゆっくり考える時間も、聴き分ける気持ちの余裕もなくて段々と毎日が色褪せてきたんです。音楽性の相違なんて大それた理由じゃ無いんです。
あんまりにも刺激的な海外の音楽と、自分のできる音楽が一度に頭に入らなくて自爆してしまったのです。それから半年くらいは引きこもりになって音楽を聴いていました。(※筆者脚注;佐々木たま子脱退後のCHEESEはドラムに平ヶ倉良枝を加え第2期CHEESEへと移行。平ヶ倉良枝はその後、フリッパーズ・ギター、コーネリアス、オリジナル・ラブ、L⇔Rなどのサポートやレコーディングに参加、トラットリアからソロデビューもしている)。

G;そしていよいよ85年9月にプードルズの結成となる訳ですが、結成に至るまでの過程を教えて下さい。

T;プードルズを始める前に小森さんから「Tokyo Night」を歌って欲しい、と依頼があったのです。「Tokyo Night」はそれ以前から暖めていた小森さんの曲なんです。 まぁ、やって見ようかな?くらいの軽いノリで歌入れしながら始まったのがプードルズです(※筆者脚注;ここで録音された「Tokyo Night」は後に『Attack of...Mushroom People!』で発表されたテイクとは全くの別テイクで、よりソリッドなガレージ感溢れる仕上がりで歌詞も長い)。
グループの命名は小森さんで、私も子供の頃からプードルを飼っていたので即決定しました。曲作りについては、当時小森さんの自宅には8トラックのマルチレコーダーがあって簡単な録音ができる環境だったので色んなミュージシャンが出入りしていたんですね。プードルズの曲の下地を作りつつ、スタジオを訪れた人に「一曲やりませんか?」みたいな感じでサラリと弾いて貰ってました。それらを最終的に小森さんと私でまとめる...それがプードルズでした。そうそう、それからボーカルはやはりハモリたいナァと思ったので、妹の恵美を連れて来てどんなもんか歌ってみました。下のラインを歌って貰ったのですが、ハモる初めの所だけ私が音決めしてフンフンと歌うと真似して歌う。次に私がメロディーを歌うと勝手に下を作って歌い始める...ハイ、出来上がり! 恵美参加決定!ってな感じです。

【GoGo!Poodles(プードルズ)】

G;小森さんのスタジオに遊びに来た色んなミュージシャンの手が加わっているのですね?例えばどの様な方が参加されていますか?

T;ブラボー小松さんやROGUEのギタリスト、香川誠さんなどですね。ブラボー小松さんのギターは例えられないほどの感動がありました。「こんなギターが弾けたらなあ」という尊敬と嫉妬のような気持ち。香川さんはROGUEでミント絡みのバンドとライブをやったりしてたから、多分その流れでチョロッと寄った時に弾いて貰った...って感じじゃないでしょうか。

G;例のネオGS本を見ると「音楽的アドバイザーのSTINKYとガールグループ・サウンドをやろうという事で意気投合」とあります。このSTINKYなる人物はどういう方なのですか?
また「Tokyo Night」の作者としてもクレジットされているToshiさんという方は?

T;そのSTINKY君こそ、小森さんですよ。Toshiというクレジットも小森さん。自分なりに色々と使い分けていらっしゃるようなのでそっとしておいてあげましょう(笑)。

G;なるほど!やはりそういう事だった訳ですね。話を戻しますが、活動を始め
たプードルズは具体的にどの様な音楽を志向してどんな活動をされていたのでしょうか?

T;ライブは余りやっていなくて、どちらかというと録音に重点を置いたグループでした。オリジナルを作ったり、小森さんの持ち曲をピックアップしたり、オールディーズのカバーやってみたり...色々です。グループのコンセプト的にアネットはかなり意識しました。「パジャマ・パーティー」と言う曲をイメージしています。女の子が夜、友達の家でお喋りしたり、お化粧の練習をしてみたり、ボーイフレンドの話しをしたり。このイメージを広げたかったんですね。レパートリーだった「イチゴの片思い」なんかはナンシー・シナトラ版をお手本にしました。
ナンシー・シナトラの甘えん坊っぽい歌唱は、フルーツシリーズを考えていた私にはとっても参考になりました。あとリンダ・スコットも潜在意識に働きかける程何度も聴き込み、スターシリーズも作ろうかな?って...。その他参考にしてたのは、アン・ルイスの『チーク』と言うアルバム、それから歌謡曲のポピンズや高見知佳も捨て難いし...ガールズはどこまでもイメージが広がります。

G;プードルズとして録音された曲は全部で16曲でした。Delmonasの「Peter Gunn Locomotion」のカバーに代表されるガレージサウンドとティーネイジ・ポップスのカバー、そして両者を繋ぐようにたま子さんと小森さんのオリジナル曲が混在している...という印象を受けました。プードルズは結局どっちのベクトルを追求したかったのでしょうか?

T;何故ガレージとSWEETが混じっているか?ガレージは小森さんがやりたかった事でしょう。私はガレージをやる必要は無いと考えていました。そもそもプードルズのボーカルは私じゃダメだ、とさえ思っていたのです。もっとティーンの女の子の甘ったるい声...例えばロビン・ワードのような声をイメージしてましたし、曲もコニー・スティーブンス「Sixteen Reasons」みたいな曲を作りたかった...。
ガレージ系はやる人が沢山居ましたし、私の入る隙間は無い。でもラモーンズみたいなポップなパンクならやれるかも...でもそこまでやる必要が?みたいな気持ち。とにもかくにも迷走してましたね。そんな中で小森さんと私のズレは次第に明確化してきたんです。結局自分のグループなのか、小森氏のやりたい事の一部分なのかを明確にせずスタートしてしまったツケがまわって来た、という感じでした。それに当時の音楽シーンは勢いのいいバンドサウンドやガレージ、モッズ系などが主流で私の居場所は皆無でした。ティーンエイジLOVEな音楽はかったるい時代だったんでしょう。

G;当時リスナーだった僕の感覚で言わせて頂ければ、実はそこには垣根はなかったと思ってます。映画「さらば青春の光」でモッズ達がロネッツ「Be My Baby」で踊る象徴的なシーンがありましたよね。ネオGSというシーンはそういうリスナー感覚まで再現していた、と感じています。結果として僕はプードルズの音楽に嵌ってしまった訳ですし...。実は需要は大きかった筈ですよ。
取りあえず前篇はここまで。この後、ネオGSブームは終焉へと向かい、プードルズは解散。佐々木たま子さんは自らのレーベル、Girl Friend Recordsで良質なガールグループ・サウンドを送り出す事になる。丁度この取材を始めた頃にリリースされた最新のGirl Friend Recordsのカタログ、『Tamallel World』はマーガレッツ、リコッツの2グループをフィーチャーしたオムニバス・アルバムで、現在進行形の良質なガールグループ・サウンドを堪能できる傑作であった。後篇ではプードルズの解散からその後の佐々木たま子さんのレーベル・オーガナイザーとしての活動を掘り下げ、『Tamallel World』に至る足跡を辿る。是非ともこの機会に最新作『Tamallel World』も併せて試聴してみて頂きたい。最後にVANDA読者向けマメ知識を一つ。CHEESEといえばメイド・ファッションのコスプレが有名ですが、それはPaper Dollsに影響を受けてやっていたとの事。なるほど!
『Tamallel World』(2010年) 

Girl Friend Records マイ・スペース(『Tamallel World』収録曲の試聴ができる。動画も有り)
http://www.myspace.com/tamallel