2001年6月30日土曜日

★第3回 八重山諸島ツアー2001

Journey To Yaeyama Islands 2001


佐野邦彦


竹富島・カイジ浜からコンドイビーチまでの浜

旅行も3回目ともなると余裕しゃくしゃくとなる。4〜7月の旅行パンフを検討すると、やはり「あ!熱帯アイランド石垣島」が一番リーズナブル。上の子が中学に入ったので、7月頭には期末テストがある。そのため、いつもより早く6月22日から行くことにした。宿泊はホテルミヤヒラで異論なし。東急観光に申し込んだところで、図々しくもホテルミヤヒラにメールを送って、今年も行くので昨年のように出来れば2人部屋を2つつなげてもらえないかとお願いをしてみると、そう用意いたしますという嬉しい返事が返ってくる。いやーいいホテルだ。


 今年の主眼は絶対また行くと1年間待った竹富島のコンドイビーチと、小浜島の沖に浮かぶ嘉弥真島(以下カヤマ島)、そして西表島だ。コンドイビーチは昨年同様大人1000円、子供500円で超お徳。これは東急観光。
新しく行くカヤマ島の目的は、この無人島に千匹以上住むといる野ウサギに会うこと。実は今、家でウサギを飼っていて、家中すっかりウサギファンな事からこの事実を知って即決した。
西表島だが、2年前はひとつの川を溯っていっただけで、石垣島より大きいこの島の一部しか見ることができなかったという思いがあった。今度は西表の3/4を巡る周遊道路の端から端まで、レンタカーで走ってみたい。カヤマはホテルミヤヒラ内に申込所があるので、行ってから申し込めばいい。西表のレンタカーは事前に申し込んでおこう。行きは大原港、帰りは船浦港にして乗り捨てがいいや。行きの船の時間と利用は7時間という事を、電話で直接現地のレンタカー会社に申し込む。これで準備は万端だ。
  しかしあまりに直前になって旅行会社に石垣島でのレンタカーを申し込んだため、安いプランは無くなり、あるのは大手レンタカー会社のプランで3泊4日で26000円程度と予算より1万円も高くなってしまった。
これは地元のレンタカー会社の方が安いかもと「やえやまGUIDE BOOK」を見て一番星レンタカーという会社へ電話すると、16000円でありますよとのまたまた嬉しい返事。これじゃ東急観光より安い。到着便の時間を告げて準備はすべて終わった。ちなみにカヤマ島の海水浴プランは大人4500円、子供3500円で計17000円。西表島のレンタカーは乗り捨て料金がプラスされ7時間で9000円とけっこう割高だった。
  行きの飛行機は子供がもう中1と小5なので早朝でも大丈夫と、早い時間帯を選択したが、出発一週間前の連絡では6:30分と最も早いフライトに。集合は1時間前の5:30だ。こいつはキツいなあと一瞬思ったが、石垣空港到着はなんと10:45分!これじゃもう1日遊べるなと内心ほくそ笑む。
後は天気だけだ。どうも長期天気予報はグズグズしていて1週間前では肝心な中2日の土日が雨ときどき曇りと嬉しくない予報。これが5日前だとくもり時々晴れに変わる。ラッキー。しかし3日前には再び雨ときどき曇りとなり、降水確率も60%と前よりもさらに高くなってしまった。前日でも予報は変わらない。どうやら台湾近くの台風2号の影響らしい。まだ6月だぜと文句を言っても始まらない。天気は神様しだいとあきらめて、旅行当日となった。


2001年6月22日(金)


  朝、5時30分と言っても、羽田空港は人が行き交っている。集合場所には3組のみ。それも東急観光かどうか分からず、石垣行きはうちだけかもしれない。チケットを受け取り、JAL931便に乗ると完全な満席である。那覇で乗り換えをするが今回は50分しかない。
かなり広い那覇空港をいったん1階まで降りて外へ出て、3階の団体カウンターでボーディングチケットを受け取り、2階の乗降口に行かないといけない。小走りで走り、ようやくJTA607便に乗ることが出来た。
  石垣空港には定刻に到着、眩しい日差しと、心待ちしていた八重山の暑さが我々を迎えてくれた。空港を出ると一番星レンタカーの人が「佐野さん?」と現れる。いつもだと車に乗ってレンタカーの営業所に行くのだが、車は空港内の駐車場に止めてあるようだ。カローラの前に立って、「この車なんだけどちょっとエアコンが良くないんだ。走っていると効くんだけど...。それでこっちの車(軽自動車)でもいいよ。こっちは効くから。どうします?」確かにカローラの方が大きいけど、エアコンが良くないのは南国ではたまらんな。「こっちでいいです」と軽自動車を選ぶ。車の傷ついた箇所の説明があり、それじゃとキーを渡される。「えっこれ、書かなくていいんですか」と聞くと、「別に細かいのは気にしないから」と笑う。「あと車はどこに返せばいいんですか」と尋ねると、「この駐車場にキーをダッシュボードの上に置いて鍵かけちゃっていいよ」という返事。いやーアバウト。気に入った。やっぱり南国はこれじゃなくっちゃ。
  ホテルミヤヒラの前の店で八重山ソバなどさっそく昼食に。今日は石垣の米原ビーチで時間を潰す予定だった。でも天気はいいよなあ。明日は雨かもしれないし。そうだと「やえやまGUIDE BOOK」をめくり出した。小浜島へ行く船は何時だ...おっ12時20分があるぞ。これは間に合うかな。「ちょっと待ってて。食事が来たら先に食べて」とひとり店を出る。すぐに目の前のホテルミヤヒラ内の三和トラベルに行き、「今からカヤマ島、間に合います?」というと大丈夫ですよとの返事。さっそくチケットを作ってもらって急いで店に戻る。「10分で食べて。すぐに出発」「えっ」とまあとんでもない奴だ。そばは3分で食べ、車と荷物をホテルに預け港に向かう。もう、汗ダラダラだ。
  小浜島行きは八重山観光の船だけ、25分で到着する。ここが「ちゅらさん」の舞台かと眺めても、当たり前だが見えるのは港だけ。桟橋の先に「カヤマ島」と書かれた小さな看板があり、そこへ行くと階段の下に小さなボートのような船が。それがカヤマ島行きの船だった。我々の他、2組を乗せて船はゆっくりとグリーンのラグーンを進む。カヤマ島は小さな平らな島だ。しかし折しも干潮で海はギリギリまで浅く、こんな小さな船でも容易に桟橋に近づけない。ぐるぐると迂回を繰り返しながらなんとかたどり着いた。
  ビーチは小さい。浮きに囲まれたネコの額ほどの場所だけがあそべる範囲。設備はあり、レストハウスで着替えてさっそく野ウサギを探す。裏手に白いウサギが数匹いるが近づくと逃げていってしまう。どんなに慎重に近づいてもさすがウサギ、パっと茂みに入っていく。この島はかつて人が住んでいて牛の放牧をしていたという。その人が撤退した時に置き去りにしていったウサギが繁殖して、千匹以上なったのだそうだ。しかしこうやって人前に姿を現すのは一部の人に慣れたウサギだけで、大半は島の茂みの中だとか。たくさんのウサギに囲まれる状況を想像していただけにちょっと残念。
そして海へ行くが誰も入っていない。みなパラソルの下で休んでいるだけ。子供達がシュノーケルで泳ぎ始めると、ひとり、ふたりと人が入りだし、最終的に10人程度がシュノーケリングを始めた。いつしか子供はその中で魚肉ソーセージを持って魚を集めていた女性とその年配のおかあさんからソーセージを分けてもらって大喜び。
  「お父さん凄い。魚がいっぱい集まってくるよ」知らなかった。こんなもので集まるなんて。以降、毎日魚肉ソーセージを持って海に入ることになった。女性はおおきなシャコ貝を見つけこちらへ持ってくる。「これ、おさしみにして食べると何千円もするそうよ。でも持っていけないし、あげるわ」とシャコ貝をもらう。長男はそれをもらうとさあ帰りな海にほうりなげた。一度食べてみてかったなあ...。
  海から上がり、島の一番高い丘へ上がっていく。ゆるやかな草原を歩き、5分ほどで頂上へ到着した。ここからは八重山を一望できる。石垣島、西表島、小浜島などがぐるりと点在し、まさにパノラマ。見事な景観だ。

帰りの船を待つべくレストハウスへ戻り着替えていると、長男が呼びにくる。
  「捕まえた!」すぐにカメラとビデオを持ってかけていくと、二男が大事そうにちょっと汚れて痩せた白いウサギを抱きかかえている。いつも家でウサギを抱いている、ウサギ大好きの二男は、最高に幸せな表情だ。ネコもそうだが、好きな人が抱くと抱き方がいいのか、逃げようとしない。この場合もウサギはおとなしく腕の中に収まっている。二男から長男の手に渡ってもおとなしいままだ。ちょっと期待外れのこの島で、最後にやっと楽しい思い出が出来たようだ。風は徐々に強くなり、帰りにはビーチパラソルも吹き飛ばしている。台風が来るのかな...と、大急ぎで空を横切っていく雲を眺めていた。
  ホテルミヤヒラのカウンターではメールで知らせてくれたとおり、2つキーをもらう。部屋へ入ってビックリ、広い。2部屋の内1部屋はまるでスウィート・ルーム。今までの部屋の倍以上の広さで調度品も違う。こんないい部屋を、あの低価格のツアーでいいのかと思わず恐縮するほどだ。3年連続利用したと言っても、こんないい部屋をサービスしてくれたホテルミヤヒラのホスピタリティには感激した。


2001年6月23日(土)


  昨日の夜は凄い風が吹き荒れていた。台風は台湾の方へそれていったが、昨晩の天気予報はその影響でくもり時々雨と言っていた。朝、起きたと同時に窓から海を見る。雨は降っていない。しかし海が波立っている。あの穏やかな海に白い波の帯がいくつも並んでいた。風はだいぶ収まったようだ。ただ波の高さは4〜5mで注意が必要と天気予報で言っているが、今ひとつピンと来ない。
  昨日、前倒しでカヤマ島へ行ってしまったので、今日はフリー。今まで行っていない八重山の島は黒島と新城島ことアラグスク、そして小さな鳩間島だけだ。小浜島はまがいなりにも昨日行った。アラグスクはチャーター便、鳩間島は週2便しかないので、現実的に無理。黒島へ行こう。人間より牛の方が多い島とあるが、海の透明度は群を抜くというので、それを楽しみにしよう。
  安栄観光に問い合わせると、船は通常どおり出ると言う。そしてレンタカーのない黒島でビーチとの送迎をしている黒島観光に電話して、船の時間を伝え迎えに来てもらう事をお願いする。船は25分で到着するはずだ。
9時発の黒島行きの船に乗り込むが、出発まで誰も乗ってこない。結局我々4人だけの貸し切り状態で船は出港していった。実は外洋に出て行く波照間行きは、この日どころか次の日も全便欠航だった。
黒島はその航路の多くが石垣港から西表の大原港へつながるように伸びるエメラルドグリーンの穏やかな海の中にあったので欠航にならなかったのだ。でも途中から一部外海へ出る部分もあったのだ。うちの家族しか乗っていなかったという事は、必ず利用者の中にいる地元の人すら利用しなかったという事だった。こうして恐怖の航海は、「貸し切り」でスタートした。
  湾の中からすでに大きな波が船体に当たり、船窓は波しぶきで洗われる。しかし船はいつも通りにどんどんスピードを上げて行く。すると波の衝撃も大きくなり、船は左右に、前後に揺さぶられ席の前のバーにつかまっていなければいられないようになる。
時折、運転している船長は、大丈夫かなと確認するかのようにこちらを振り返っている。そして船は青い外洋へ出た。窓からは船よりも高い大きな波がうねりながらこちらへ近づいてくるのが見える。そして船は突然エンジンを切る。そのまま行くと乗り切るのが大変な波が目の前にあるからだ。すると船はいったんふっと持ち上がり、ジェットコースターのように一気に波の底へ落とされる。下の子は「ホーウ」とジェットコースターに乗っているのと同じ歓声を上げているが、こちらの頭には転覆したらどうすればいいのかなんていう事が脳裏によぎる。
インターネットでは、しばしば天気を悪い日にこれらの八重山の定期船に乗った話が出て来て「地獄船」などの表現がされていたが、よく分かった。しかし船長と船員はまったく平気で、さすがウミンチュ(海の男のこと)だ。船が黒島港に入るとさすがにホッとした。
  船を降りると「黒島観光」と書かれたワゴン車が止まっていてさっそく乗り込むと、「揺れたでしょう。だってこちらから見ていてだいぶ揺れていたから」と話しかけられ、「そうなんですよ」と空気がなごむ。
海岸まで行くだけだったのだが、干潮にならないと今日はとても危険で泳げないですよとのこと、その仲本海岸はリーフがすぐ手前にあるが、波はリーフを楽々と越え、大きな波が音をたてて海岸に打ちつけていた。とても泳げるような状況ではない。でも「今は信じられないでしょうが、午後になって潮が引けば、歩いてリーフの近くまで行けますよ」と聞いてちょっとほっとする。しかしまだ10時頃。どうすればいいかなと思い始めた時、「どうします?お一人1500円、払っていただければその時間まで島内観光しますよ」と提案され、すぐにお願いしますと飛びついた。通常では海岸まで一人300円なのだが、その料金も含まれているので価格的にもとてもお得。さっそく黒島観光が始まった。

まずはウミガメの産卵で知られるこの島ならではの八重山海中公園研究所へ向かう。建物の中ではたくさんのウミガメの赤ちゃんが飼育されていて、とっても可愛い。建物の回りで尾が体長の2倍以上長い緑色のきれいなトカゲを二男が捕まえる。二男はさっそく研究所の人に見せに行き、その若い研究員は辞典を開いてサキシマカナヘビだと教えてくれた。そして大事そうにカナヘビを持つ二男を見て、「これは石垣島にもいるから、石垣島で離してもいいよ」と、ペットボトルに穴を開けてその中にカナヘビを入れてくれた。
その後は、多くの島にもある島どうしの連絡用に作られた昔の遠見台「フズマリ」に。「昇りますか?」とガイドさんはするするとよじ登っていき、子供達も続くが、ここは石を簡単に積み重ねただけなので足場がグラグラ、その石を下に落として当たりでもしたら大ケガは免れないのでちょっと緊張してしまう。確かに島を一望出来る頂上の景色は良かったが、降りるときはより慎重さが必要だった。その後、とてもきれいな西の浜に行き、そこでこの島の方がいいよねとカナヘビを離してあげた。

  日本の道100選に選ばれた一直線に伸びる白いサンゴの道は、選ばれたことがきっかけで道路が拡張され昔の面影がないという。島の現風景を島全体で徹底的に保護する竹富島とは違うと、ガイドの人は残念がっていた。その道を横切ると牛の放牧地帯に。道の両脇は見渡すかぎり草原で、ここは北海道かと錯覚をしてしまうほど。しかし草原の向こうにガジュマルの木が点在し、そこでここが南国だと分かる。
  この隆起サンゴ礁で出来た島は常に水不足で、昭和40年代まで水は大きな瓶に雨水を溜め、それを使っていたという。昔は子供と瓶を交換したくらい水は貴重なものだったが、今は近くの西表島から海底送水で水が送られてきて、島の牛もおいしい西表の地下水を飲んでいる。国のいたれりつくせりの牧畜保護政策で、島民は1億かかる工事でも1割を負担するだけで良く、返済も10年後からスタートするので、この岩だらけの台地にスタビライザーという岩石粉砕機を導入し、次々緑の野に変えていったそうだ。
  黒島では子牛を生育し、ある程度育ったところでセリにかけ、松阪にいけば松阪牛、石垣に行けば石垣牛になるのだという。子牛は一頭数十万、年2回のセリでそれぞれ10頭だけでも売ればサラリーマンの平均年収を上回ってしまう。そして何もないこの島、お金をつかうこともないので、今はみんな本当に裕福ですよと笑顔で話してくれたが、裏を返せばそれまでは産業もなく、苦労の連続だったのだろう。八重山では高校は石垣島にしかないので、島の子供はみな島を出ていき、その後那覇や東京へ行ったりして、そのまま女の子は帰ってこないそうだ。長男だけが島へいずれ戻ってくるが、みな嫁さんを連れて帰らないので、子供が少なくて困っていると苦笑いを浮かべる。この30代くらいに見えるガイドさんも独身なのだろうか。黒島の人口は現在220人しかいない。冬の日に自宅から自転車で島に一軒しかない売店に買い物に往復すると、行き帰りに誰にも出会わず、この島には自分しかいないんじゃないかと思ってしまうんですよとも。若い時にこの島で暮らすのは覚悟がいるだろう。
  その後は黒崎灯台、海の中へ一直線に伸びる伊古桟橋を見て回る。このガイドさん、八重山の知識がとても深い。聞いていて楽しいし、勉強になる。再び仲本海岸に戻ると、波は見事にリーフでせき止められ、リーフの中の海は腰までしかない。

さっそくシュノーケリングを始めるが、なにしろ風が強く、波のない海なのに風にあおられてかなりの流れが出来てしまっていた。しかしこんな条件の中でも魚は多い。雨はまったく降らず、陽もたまに射すが、強い風だけはどうにもならない。海から出てまだ白波が立つリーフの外を眺めていると、帰りの船が出るまでこの海岸で唯一の売店も兼任でやっていたガイドさんが近づいてくる。「ほら、あそこがアラグスク(新城島)。アラグスクの間(上地島と下地島の間)に白波が立っていると船が揺れるんですよ」と言う。確かに白い大きな波が立っている。「いやー揺れましたね」と返すと「でも海がうねっているだけなら大丈夫。三角波だと危ないけど。みんな船を運転しているのはウミンチュばかりだから平気ですよ。昔、たたきあげのウミンチュの人の運転で、通常では出ない波照間行きの船に乗ったけど、揺れで天井に頭がぶつかりましたからね。運転している人はそれでも大丈夫なんですが、乗っているお客さんの方がダメになってしまうんですよ。だから欠航になってしまうんです」との返事。そうか、こんな程度じゃまだまだなんだな、ウミンチュは凄いなと、改めて海の男の勇気に敬服する。
  帰りの安栄観光の船で料金を払おうとするが、船員さんがお釣りを持っていない。細かいのを集めたが300円ちょっと足らない。もうこれでいいですよとまけてくれる。いやーまたもアバウト、東京じゃとても考えられん。やっぱり南国はいいなと改めて思ってしまう。
  この黒島、際立ったような見所があるわけではないが人がいい。何と言っても黒島観光のガイドさんがその感じの良さ、知識の深さで、好感度は群を抜いていた。八重山海中公園研究所のやさしいお兄さん、お釣りをまけてくれた安栄観光の人など、人の印象では最高。また是非行ってみたい島だ。


2001年6月24日(日)


  この日はもう天気が回復している。ちょっと風があるが、この暑い八重山ではちょうどいいくらい。結局天気予報は外れ、雨の日が1日もなかったのは運がいい。おまけに揺れる船という貴重な体験もさせてもらった。
  今日は2度目の西表だ。8:50分発の八重山観光の巨大船「にーふぁいーゆーぶし」で大原港へ向かう。海はもうほとんど荒れていない。大原港までは35分、桟橋に待っていた「やまねこレンタカー」のワゴン車に乗り込み、大原の営業所へ向かう。船浦の営業所に乗り捨て、7時間の利用を確認してキーもらうが、今考えてみると車の現況を見ての傷のチェックはしていない。やっぱり西表島では大手もやっぱり南国...。
  すぐに近くにある西表周遊道路の南の終点へ向かう。車をとめ、うっそうとしたジャングルのような茂みを抜けると、美しい南風見田(ハエミダ)の浜が姿を現した。かなり広いビーチなのにいるのは我々だけ。浜にはヤシの実が2つ流れ着いていたが、どの島からのものなのか。
ここ八重山はホノルル、マイアミと同じ緯度だが、南の島と言えばすぐに脳裏に浮かぶヤシの木(ココヤシ)がほとんどない。原産がメラネシアと推測されるココヤシはとても役に立つ木だが、どこにでも生えている訳ではなかった。私が新婚旅行で行ったタヒチはボラボラ、モーレアとココヤシの木が島中になっているまさに南国そのもの景観を見せてくれたが、元々ココヤシはなく、白人が植民地を暮らしやすくすべく持ち込んだものだったと言う。南の島にココヤシは当たり前に生えるもの、美しいボラボラの風景は太古の昔のままだと思っていたのでこの事実には驚いた。そして八重山にはココヤシが生えていない。この木は大量の地下水が必要なので、隆起サンゴ礁の島は無理なのだが、西表の条件は十分だった。しかしその仲間で、役に立たない実しかつけないヤエヤマヤシが一部群落を作る程度。こうやって見ると遠い海を越えてやって来たものなのだろう。
  またこの南風見田には第二次世界大戦の最中、日本軍の諜報機関の軍曹の手によって波照間島民が集団でマラリアが蔓延しているこの浜に強制移住させられ、ほぼ100%がマラリアに罹り、その30%の477人が死ぬという悲惨な歴史があった。そのため波照間が見えるこの浜に、その思いを忘れないために残した「忘勿石」があった。軍部は米軍が上陸してきた際に、波照間島民は裏切って米軍に協力するのではと恐れて強制移住させたのだと言うが、まったくひどい話だ。同じ国民なのに信用していないということ。沖縄を捨て石にしたのも同様な理由が潜んでいるはず。沖縄だけでなく、ここ八重山にも戦争の災厄は降りかかっていたのである。
  さて、ここから大原に戻って「もともり工房」に寄る。お目当てはイリオモテヤマネコの手型のキーホルダーだ。ここのご主人がイリオモテヤマネコの通りそうな道に手形が取れるように仕掛けを作り、2年かけて取ったものだそうだ。快調に道を走っていると、今、自分の車にも貼ってある有名な「イリオモテヤマネコとび出し注意」の標識が出てくる。うっかり事故でもあったら大変と、スピードを落として進む。
  そして「西表野生動物保護センター」へたどり着いた。ここもずっと行きたかった所だ。なにしろイリオモテヤマネコの剥製が見られるのはここだけ。なんと4匹もの剥製が並べられていたが、みな交通事故で死んだものだという。世界中でここ西表島に100匹しか生息していない、今世紀になって5種しか見つかっていないという哺乳類の新種という、貴重この上ないイリオモテヤマネコなのに本当に惜しい。イリオモテヤマネコはなんと明るいところでも瞳孔の大きさが変わらないそうだ。それだけ原始的なネコなのだ。見た目は可愛いトラジマのネコ。それほど大きい訳ではないし、パッと見ただけでは気づかないのではないか。このイリオモテヤマネコの話をしていたら、職場の女性で、かつてTVクルーとしてイリオモテヤマネコの調査捕獲に同行し、生きたイリオモテヤマネコを見た人がいたのには驚いた。まったく世間は狭い。ああうらやましい。
  後は一気に周遊道路の逆の終点である白浜だ。白浜は穏やかな港でその日はお祭りの日だった。港には船浮行きの船が止まっている。白浜から船浮には陸路がなく、1日3〜4便の船が出るだけ。約50人が住んでいるこの自然の良港では、主に黒真珠の養殖をしているのだそうだ。この陸の孤島にも学校はある。そういう事前の知識があったので、この船に乗って行って見たい!と強い衝動にかられたが、もちろん帰れなくなるので無理なこと。先々の楽しみに残しておこう。

船浮からさらにサバ崎を隔てて網取という場所がある。ここは1971年に集団移転するまで人が住んでいたが、冬になるとサバ崎に三角波が立ち、本当の陸の孤島になるため廃村になったそうだ。しかし今はここに東海大学海洋研究所があるそうで、常時ではないだろうが人が住んでいるのである。
白浜からは週2便、船がある。そしてここも今はすっかり廃村になっているが、網取の奥にある崎山にも琉球王府によって強制移住させられた主に波照間島の人達が第二次世界大戦が終わるまで暮らしていたという。凄いことに島をさらにぐるっと巡った鹿川という場所にも1911年まで人が住んでいたそうだ。まったくこの秘境、マラリアが蔓延していた西表島の奥の奥に住むと暮らしはどれだけ苛烈なものだったのだろうか。
  最終目的地は2年前に訪れた星砂の浜だ。ここはサンゴが生い茂り、天然の良場。今度は魚肉ソーセージを持ってきたので、大型のブダイまで突進してくる。八重山のシュノーケリングでこの星砂の浜を凌ぐ所はないだろう。魚を見たい人にはここが絶対におすすめ。意外と深い場所があり、足がつかない所も出てくるので、泳げない人は浮輪を持ってくればいい。しかしそういう所は一瞬で、すぐに足が立つ場所が出てくるので、心配はほとんどいらないが。
浜には関西方面から来た女子高生たちが、わずかな休憩の間に海に入り、帰りに砂を集めている。どこの星砂の浜もそうだが、きれいな星形をしているものは人に踏まれてほとんどなく、干潮になって姿を現す海草の下あたりにまだ残されているのだそうだ。星砂とは有孔虫という生物の死骸だが、なぜかロマンチックな香りがするのはネーミングの勝利か。
  帰りは船浦港より。この日は揺れなかったが、前日は地獄だったという。船浦から石垣までの航路はいったん外洋に出る。外洋の流れはかくも凄いものなのだ。
  この夕方、石垣島で買い物にコンビニまで歩いていると、一見して島の人と分かる人に「石垣の合同庁舎はどこですか?」と尋ねられる。もちろん「すみません、旅行で来ているんで」と答えたが、いくら日焼けで真っ黒だといえ、ウチナンチュに間違えられたのは嬉しかった。


2001年6月25日(月)


  1年間待った竹富島のコンドイビーチ。早く行きたいと8時30分発の船に乗るが、10分の航海、それから送迎のマイクロバスと9時にはコンドイビーチに着いてしまう。折しも突然のスコール。すぐに雨は上がったが、浜辺にはでビーチパラソルの準備をしている売店の地元の人以外、誰もいない。
まだ空に雲が多いので海の色も濃いグリーンで、昨年のような色ではない。早く雲よ飛んでいけと空を睨んでいると徐々に青空の面積が増えて来て、雲の間から太陽が現れ、その強烈な日差しは一瞬にビーチを翡翠と瑠璃のグラデーションに変えてしまう。海が時間と共に美しく輝き出すのに合わせたかのように、他の観光客がビーチにやってきた。いつしか天上には雲がなくなり、太陽はもう全開だ。水温も一気に上がり、あの暖かい海が体を包んでくれる。まだ午前中、満潮なので海水が多く、深いと首のあたりまで水深がある。海から顔を上げると、水平線の彼方まで波ひとつない鏡面のような淡い緑の海がずうっと続いている。遂にこの楽園に戻ってきたんだ。
  いったん海から上がってビーチパラソルとデッキチェアを借り、荷物をまとめると、子供達を呼び寄せる。去年から見せたかった隣のカイジ浜への道だ。白い砂浜を4人で歩き始めた。

ほどなくコンドイビーチは見えなくなり、後は家族4人だけの空間。水平線には見事な白い雲が沸き立ち、その景観は非の打ち所がない。私は何度もシャッターを切り、この地上の楽園をカメラに記録しようとする。美しい海は他の八重山の島々にもある。しかしこの巨大なラグーンによって海の彼方までこの翡翠色が広がっていること、白い砂浜とそこに濃い緑の木々が生い茂っていること、波がないだけでなく人もいない静寂の中にあること、碧い空には白い雲のコントラストがあること、そのすべてが調和しているのはこのコンドイビーチからカイジ浜への道だけだ。

カイジ浜では2匹の子ネコが誰もいない売店の陳列する板の上で気持ち良さそうに寝ている。撫でてあげると手足を広げ伸びをしてくるりと外側を向いた。こんな所に住むネコはなんて幸せなんだろう。

コンドイビーチまで戻る道すがら、いつかここへすぐ来ることが出来る石垣島へ移住しよう、宝クジさえ当たれば行けるななど、この夢のような場所で、楽しい夢を見ていた。
 コンドイビーチは潮が干けると魅力が半減する。13:15分の船で石垣島へ戻り、その後はレンタカーで3度目の米原ビーチへ。コンドイビーチを見た後だと美しさでは比較にならないが、ここには魚がいる。午前中の日焼けでもう火脹れ状態になってしまった私は、3年目で初めて空いたアダンの木の下で寝転んでいた。ここの売店のおばさんとはもう馴染みのような気がする。すべて定価販売の良心的な店だ。
  アダンの木の下に戻り、ふと、ここに来ている間に発売されたドリームキャストの「ソニックアドベンチャー2」のソフトの事を思い出した。いつも買っている豪徳寺のカメレオンクラブへ携帯で電話して在庫を確認する。考えてみれば2100kmも離れている東京へ、石垣島の浜辺のアダンの木の下から電話をしていたシチュエーションがおかしくて、一人で笑ってしまった。
  石垣空港まで行く間に、虹色に輝く彩雲を見た。初めてだ。しかしカメラは撮り切ってしまってない。ビデオは荷物の中だしと考えている内に彩雲は消えていた。これ以上の体験は記憶の中だけで十分という事なのだろう。
  19:00発のJTA622便で那覇へ。東京行きは20:30発のJTA58便。乗り換えは40分で、行きの行程で書いた通り、道程は長いのに20分前に登場ゲートへ到着するには移動はたったの20分しかないということだ。
みな走っている。走るしかないのだ。これはひどすぎる。ケガをしていたり、お年寄りなら絶対出来ない移動だ。おまけにチケットに印刷された搭乗ゲートと実際の搭乗ゲートは変更されていたのに、団体カウンターの受付はその事を告げなかった。散々な乗り換えとなり、帰った次の日には東急観光にクレームを付けておいた。それは自分達の不満ではなく、次に利用する人のために。
  羽田には23:00着。東京は曇りで雨はない。こうして3年連続の八重山旅行は終わった。
  ケガも病気もなく、ほっとしている。次は北海道へ行く予定だった。しかし今は石垣島の手前にある宮古島が気になっている。職場で2人、宮古に行った人がいて、ここもいいらしい。やっぱり行くしかないな。行くなら他の島へも行きたいけど宮古諸島は選択肢があまりないみたい。石垣へも行けないかな。それも安く。来年の事だというのに今もパンフレットを見ながら、ベストプランを練っている。どうも先島の魅力から離れられなくなってしまったようだ。
 




2001年6月26日火曜日

Radio VANDA 第 15 回選曲リスト(2001/7/7)

Radio VANDA は、VANDA で紹介している素敵なポップ・ミュージックを実際にオンエアーするラジオ番組です。

Radio VANDA は、Sky PerfecTV! (スカパー) STAR digio の総合放送400ch.でオンエアーしています。

日時ですが 毎月第一木曜夜 22:00-23:00 1時間が本放送。
再放送は その後の日曜朝 10:00-11:00 (変更・特番で休止の可能性あり) です。

佐野が DJ をしながら、毎回他では聴けない貴重なレア音源を交えてお届けします。


 
冨田勲特集

1. マイティジャック ('68)
2.
宇宙船シリカ ('60)
3.
銀河少年隊 ('63)
4.
新日本紀行 ('63)
5.
ビッグX ('64)
6.
ガリバー号マーチ ('65)...from「ガリバーの宇宙旅行」
7.
ジャングル大帝 ('65)
8.
砂漠の嵐 ('65)...from「ジャングル大帝」
9.
星になったママ ('65)...from「ジャングル大帝」
10.
たまごの赤ちゃん ('65)...from「ジャングル大帝」
11.
ライヤのうた ('65)...from「ジャングル大帝」
12.
レオのうた ('65)...from「ジャングル大帝」
13.
戦え!オスパー ('65)
14.
リボンの騎士 ('67)
15.
チンクのうた ('67)...from「リボンの騎士」
16.
ワルツ ('67)...from「リボンの騎士」
17.
キャプテンウルトラ ('67)
18.
空中都市 008 ('69)
19.
青い地球は誰のもの ('70)...from70年代われらの世界」
20.
かあさんの四季 ('72)
21.
勝海舟 ('74)

 


2001年6月19日火曜日

☆Various:『Farm Aid Volume One』(Redline/74797-50032)

昨年のアルバムなので何を今さらと思われるだろうが、実は私はこのアルバムの存在に気づいていなかった!それで『The Beach Boys Complete 2001』にも掲載し忘れたため、ここで紹介しておきたい。このアルバムは「ファーム・エイド」なるアメリカの農業を守るためのチャリティー・コンサートのライブの総集編で、毎年ニール・ヤングやウィリー・ネルソンらの呼びかけで継続されているのだが、ここに96年10月12日に出演した時のビーチ・ボーイズの"God Only Knows"1曲が収録されていた。リード・ヴォーカルもハーモニーも力強く、無駄がなく、さすがおハコのナンバーだ。
(佐野)


☆Honeys:『The Honeys Collection』(ウルトラヴァイヴ/ 2032)


 ようやく待ちに待ったハニーズのコレクションがリリースされた。
 最初に見たトラックリストとは大分変わってしまったが、注目のトラックが多い。ハニーズのCDではこれがベストの内容だろう。
 なんといっても注目は未発表トラックで、その中でもベストがリック・ヘンが書いた68年の "Holiday"だ。リック・ヘンらしい洒落たメロディ、中間部のひねったハーモニーなど素晴らしい出来。他ではフィル・スローン=スティーヴ・バリの作曲・プロデュースの65年の未発表トラック "No Bobby No", "It's The Thought That Counts", "I Love You Much Too Much" も面白いし、63年にキャピトルからマーキュリーに移籍したニック・ベネットの元で録音した "In The Still Of The Night"、またジンジャーとダイアンが Jerry Capehart という名前で作曲したJerry Berryhillの "Love On The Run"も貴重だ。
 
 ブートでしか聴けなかった未発表の5曲からは一番出来のいいカントリ-ナンバー "Darlin' I'm Not Steppin' Out On You" のみが収録されている。初CD化は65年にトミー・ボイス=ボビー・ハートの作曲・プロデュースでリリースしたジンジャー&ザ・スナップス名義の "Seven Days In September/Growing Up Is Hard To Do" はキャッチーで内容がいい。
 その他ではハニーズが参加したゲイリー・アッシャー&ジ・アシャレッツやサファリーズの曲が入ったが、60年代のハニーズの曲で "Tonight You Belong To Me" のみ外されたのは、『Capitol Collector's Series』も買わせようというキャピトルの陰謀だろう。

(佐野)


2001年6月11日月曜日

☆Various:『Substitute The Songs Of The Who』(Edel/126612)

これは凄い、大物ばかりが参加した最強のフーのトリビュート・アルバムだ。メンバーは Cast, Ocean Colour Scene, Paul Weller, David Bowie, Pearl Jam, Fastball, Unamerican, Stereophonics, Phish, Sheryl Crow, Kelly Jonesといった面々。基本的にタイトなギターをビンビン響かせたビート・ナンバーが多いので、フーのファンも満足できる内容になっている。目玉はフーとケリー・ジョーンズが共演した2000年11月27日のライブ。メンバーはピート、ロジャー、ジョン、そしてザック・スターキーで、リード・ヴォーカルはケリーが取った。その迫力満点の演奏は、フーは未だに健在だということを感じさせてくれる。
(佐野)

Substitute: Songs of the Who