2017年3月11日土曜日

昭和30年代末から昭和40年代の三軒茶屋はいったいどういう所だったが、地元のみんなが通った駄菓子屋「がっちゃんこや(ガッチャン小屋)」の思い出中心に語ろう。



その店は、玉電の三軒茶屋駅の線路際にあった。今のキャロットタワーが立っているその場所だ。駄菓子と安いプラモデル、銀玉、パチンコなどのオモチャを売っているいわゆる駄菓子屋で、私を含めみな「がっちゃんこや」と呼んでいた。本当の店の名前は「オモチャの丸高」だったように思う。誰が、いつ、そう呼び出したのか分からない。私と弟はどちらもバス通学で地元の小学校に通っていなかったので、道路ですれ違う近くの同年代のガキには通せんぼをされたり嫌な思い出しかなく、話もしなかったので、地元の「彼ら」から聞いたわけでもない。しかし三軒茶屋に住む子供達の誰もがその店を「がっちゃんこや」と呼んでいた。

渋谷から二子玉川園へ行く路面電車の玉電・玉川線が走っているのが今の国道246。三軒茶屋交差点で角の協和銀行(今のビッグエコー。建物は同じ)で分岐した世田谷通りから下高井戸方へ行く玉電・下高井戸線(現・世田谷線)の三軒茶屋駅は今よりもずっと三軒茶屋交差点の近くにあった。駅と言うよりただの人だまりだが。

今のマクドナルドあたりは茶沢通りとつながる「文華マーケット」という穴倉のような商店街があり、よく母親に連れられて文華マーケットで買い物をしたのだが、昼でも薄暗く、床は土で常に水溜りがどこかにあり、そして漬物のようなすえたにおいが商店街全体を覆っていた。私はこの不潔な文華マーケットが大嫌いで、文華マーケットが町の中心にあった三軒茶屋は、恥ずべき地名であり、小学校の友人には三軒茶屋に住んでいるとは言わず、バス停名の「昭和女子大」と答えていたほど。

この文華マーケットは、二度に渡る不審火により焼け野原になり、これがきっかけになって三軒茶屋は大きく変わっていくことになる。中学生の時だった。大好きだった深夜放送の谷村新司のセイヤングを聞いていた時に、三軒茶屋の文華マーケットが火災で炎上中という臨時ニュースが入った。隣の部屋で同じ番組を聞いていた弟と、「聞いたか?」「おう、見に行こう」と夜中にもうもうと白煙が上がる現場を見に行ったことを思い出す。汚い文華マーケットが焼けることは嬉しいことだった。少し焼け残り、一カ月もしない内に残りにも火がついてきれいさっぱり焼けた。広大な焼け野原に真っ先に出来たのが、当時としては最先端の存在だったマクドナルド。冴えない印象の三軒茶屋の街中に、目に鮮やかなマクドナルドの赤色は眩しいほどで、それはあきらかな変化を感じさせてくれた。

時代は戻って、文華マーケットの入り口が今のマクドナルドとして、その横は玉川通りから大きく弧を描いて今の世田谷線への軌道につながっていた。下赤井戸線の三軒茶屋駅、駅というべきか路面に人が溜まっているだけの場所だが、そこは世田谷通りに面していた。その先にあるのが不二家だ。

三軒茶屋で最も洒落た場所のひとつは駅前の不二家で、大きなペコちゃんが置いてあるその二階のレストランで、チョコレートパフェなどを食べさせてもらうことが楽しみだった。がっちゃんこやは、さらにその先を右に曲がったところにあった。横に長い引き戸の古い駄菓子屋だ。そのすぐ先は世田谷線の踏切があった。

 がっちゃんこやでいつも買っていたのは、駄菓子だった。試験管のような容器に入っていた原色のゼリー状のものとか、印象に残る駄菓子はあるが、自分が好きでしょっちゅう買っていたのは、甘酸っぱい梅だった。ビニール袋の中にその梅は入れられていて、1個単位で売ってくれる。大きさは2種類あり、確か3円と5円とか、とにかく10円以内で買えたのだ。そしてその梅は、小さく切った新聞紙に挟んで渡された。

10円で複数のものが買えるというのは子供にとって大きい。親や祖母からもらった硬貨を握り締め、店先であれこれ悩みながら、何を買うか考える。

店にはおばあさんとおじいさんが二人いて、多くいたのはおばあさんだった。

 寡黙で穏やかなおじいさんに比べおばあさんはうるさくて怖い。「これ幾ら?」「これは?」と何度も値段を聞いていると、その内に「早く決めとくれ」と怒られてしまう。でも子供にとっては簡単に決められない。だから店に入るとき、おばあさんが立っていると、心構えが違った。早く決めないとまずい。ちょっとした人生勉強でもあった。

 しかし小学校高学年にもなると行く回数が減りはじめ、中学生になってからがっちゃんこやへ行ったのはパチンコを買った時だけだ。当時通っていた中学校は建て替えで新校舎が出来、木造の旧校舎は取り壊しを待つだけになっていた。私と友人はパチンコを買って、その旧校舎のガラス窓を小石で片っ端から穴を空けていた。小さな石で高速で打ち出すと、弾丸で撃ったようなきれいな穴が空く。これを目指して、何日も通ってガラスを割っていたのだが、何年か前に、どこかの地方でこういう取り壊し前の学校のガラス窓を割っていたことが大ニュースになり、割ったOBは器物損壊か何かで逮捕されていた。無価値のものを割って犯罪者扱い、嫌な世の中になったものだと暗澹たる気持ちになったもの。

 余談になるが、中学の頃だったと思うが、よく帰りにタクシー4人乗り込んで自由が丘へ行って、レコード屋などに通ったが、ついでに踏切の線路に10円玉や5円玉を置いて電車に踏ませて硬貨がペラペラになって何倍も大きくなる実験?を何回かやった。イカ焼き器のプレスにかけたのと同じだ。もちろん犯罪行為なのでダメだが、我々はバカじゃないから脱線の可能性があるから厚みのある小石などは一切置かず硬貨のみ。ちなみに電車通過後のペラペラコインは熱くて触れないので要注意だ。

 そして高校生になってからのことだ。プラモデルで、がっちゃんこやなら売っているかもしれないと思いだし、久々に店に訪れた。

ガラガラと引き戸を開けると、あの怖いおばあさんが出てきた。

「いらっしゃい」と穏やかに声をかけられる。顔も柔和だ。驚いた。あの頃から身長が大きく伸び、おばあさんを見下ろしている自分は、おばあさんにとってはもう子供の客ではないのだ。

欲しいものを探している間に目に飛び込んだのは、この老夫婦の質素な生活だった。身長が伸びたから初めて店の奥の居間の中の様子が見えた。丸いちゃぶだいと、ステレオくらいの大きなラジオ。全てが長く使い込まれたものばかりで、贅沢なものは何一つなかった。裸電球が照明だったのでその黄色の光は全てをモノトーンに染め、清貧さを際立たせた。子供達がにぎりしめた、汗のしみこんだような10円ばかりを集めてこの二人は暮らしてきたのだ。裕福な暮らしなどできるはずがなかった。その時にこの老夫婦がとても身近なものに思えた。

 それからしばらくして、母親から「がっちゃんこやのおじいさんが死んだ」と聞かされた。あのやさしいおじいさんは天国へ旅立ったのか。年だからな。仕方がない。

さらに1ヶ月を経た頃、残されたおばあさんが交差点の角の第一勧業銀行近く段差に腰掛けて身を丸めて休んでいた。おばあさんを店の外で見るのは初めてで、その疲れた姿は、自分の記憶の中のこわいおばあさんのイメージとはまったく違う、小柄な老婆の姿だった。おばあさん、大丈夫かなと、心がさざめいた。

 それから1週間ほどしておばあさんも亡くなったと聞いた。おじいさんの跡を追うようにすぐに旅立ったのだ。よかったな。これでいいんだ。これでいい。

なぜかとても幸せな気持ちになった。

そしてがっちゃんこやは、私にとって大切な、記憶になった。

 

この「がっちゃんこや」の事については、弟が自分のブログに別の文を書いていた。その時に寄せられた文を紹介したい。

 

当方、昭和37年の太子堂生まれです。幼少期から自然に「ガッチャン小屋」という言葉を使っていて、友人たちとの間では「第1ガッチャン小屋」とか「第2ガッチャン小屋」とか、街中に点在する「ガッチャン小屋」に勝手に番号を振っていました。

なぜか駄菓子屋であっても「ガッチャン小屋」と呼ばない店もあり、店の雰囲気や品揃えによって、子どもながらに区別していたのではないかと思います。

お書きになられているブォグに登場の、『三軒茶屋の玉電の踏み切り近くの「ガッチャン小屋」』は、当方も記憶に残っています。気性の荒そうな老婆と腕に小さな瓢箪の入れ墨をしていた老夫婦確が経営していて、店舗に続く居室には裸電球が下がっていた記憶があります。

その店はすでになく、太子堂小学校の隣りにあった「第1ガッチャン小屋」も、とうの昔になくなってしまいましたね

 

この文は一週間前くらいに弟におしえてもらったのだが、ネットでいくら探してもカケラすら見つからなかった「がっちゃんこや」の初めての資料で、これだけで感激した。まず地元の子供達の正式名称は「ガッチャン小屋」だったのだ。「小屋」は、ふにおちる。この彼が書いている「第1ガッチャン小屋」のような店には記憶がある。小学校高学年の頃に「タイガーロケッティ」という金属の入れ物にピッタリと入る固形燃料を入れ、この金属容器には小さな穴が空いていてそこに導火線を突き刺す。その店にはカッターで切れるバルサ材という超軽量の木も売っていて、それで船を作って「ロケッティ」を固定、導火線から固形燃料に火が着くとその小さな穴からガスが一気に噴き出して、船が通常ではあり得ない高速で進むというものだった。オフシーズンで使っていない学校のプールへ忍び込んでよく実験したものだが、途中で固形燃料が切れ、船が回収できない事態が多発して止めた思い出がある。高校卒業後ぐらいにはその「第1ガッチャン小屋」を探しにいったが、この「第1ガッチャン小屋」は当時、烏山川添いにあり、川を渡る橋の向こうにその店はあった。しかしもう川は暗渠になってしまって、当時の映像が少しも蘇ってこない。もう店もなかったようだが、まったく手がかりがなかったので、ガッカリして帰った記憶がある。何よりも最も驚いたのはあのおじいさんに腕に小さな瓢箪の入れ墨があったということだ。他の人にはどうでもいいことなのかもしれないが、自分にとって知らなかった非常に重要な情報だった。

 

最後に昭和32年生まれの自分にとって、昭和30年代末から昭和40年代前半の三軒茶屋の思い出で、終わりにしたいと思う。

 私の家から三軒茶屋の方角の先に富士山があるのだが、小学生の頃、平屋の実家の屋根に上ると富士山が見えていた。その富士山は、現在の西友の前に建っていた「緑屋」という3階建て程度のデパートが出来て見えなくなってしまったのだが、それほど三軒茶屋には高い建物が存在していなかったのである。家の周りには空き地がけっこうあり、銀玉鉄砲を使った戦争ごっこにはもってこい、そして歩いて30メートル程先には、電話を持っていない人が消防車を呼ぶための赤い電信柱が立っていた。そこには透明なプラスチックの覆いの下に大きなボタンがあり、子供心にそれを押したくてしようがなかった。その赤い電信柱の横の空き地には防空壕の跡が残っていて、その地の底へ繋がっているような地下へと続く真っ暗な階段は、子供にとっては恐怖そのものであり、誰一人その階段を下りようとはしなかった。

 小学生になると茶沢通りにある塾に通うようになった。当時は塾というのは企業ではなく、個人が夜、小学生を集めて自宅で教える程度なものだ。その茶沢通りでは定期的に縁日があってその日には出店があの狭い通りにずらりと並ぶので、それを見ながら帰るのが楽しみだった。月に3回くらいあったように思う。ハッカパイプ、重りが入ったうずら程度の楕円形のタマを木で作った滑り台状の通路を転がりながら落とすオモチャなど、今もまだあるのだろうか。裸電球の黄色い灯りに照らされた縁日の光景は、暖かい思い出として脳裏に残っている。

(佐野邦彦)

※写真は上から順に①懐かしいロケットエンジン、タイガーロケッティ②この文の舞台である「がっちゃんこや(第2ガッチャン小屋)」は写真の左奥先を右に曲がった場所にあった③第1ガッチャン小屋があった暗渠になる前の烏山川(氾濫中の写真)


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