2011年2月22日火曜日

☆宇野誠一郎:『悟空の大冒険』(ウルトラヴァイヴ/CDSOL1397-8)


手塚治虫原作だが、このTVアニメはキャラクター原案のみが手塚治虫というべきであり、若き虫プロダクションのスタッフが自由に作ったので、スラップスティックアニメの快作に仕上がった。

手塚治虫はマンガにおいてはお釈迦様のような存在で、他の漫画家がどれだけ素晴らしい作品を書いても、所詮、お釈迦様の手の内というまさにマンガの「神」なのだが、アニメに関しては制作に関わると演出に疑問符が多くついてしまうのに、好きなことは人語に落ちないという、困った大先生だった。その中でこの「悟空の大冒険」は手塚の原作の「ぼくのそんごくう」はあるものの、ほとんど関係なく作ることができた。これは制作側にとっては、ラッキーだったといえよう。

手塚は「ぼくのそんごくう」の当時、初のアニメーション化(実際は原作と構成のみ)となった東映動画長編アニメ「西遊記」への不満があり、それがもとで自身がやりたいことができるアニメ制作会社を作らねばと虫プロダクションを設立していた。(この「西遊記」は、エンディングを悲劇にしたいと思っていた手塚と、それまでのストーリーを無視して悲劇を作ろうとしていた手塚の方針に反対した東映動画スタッフで対立、結局、退屈な作品で終わってしまう。手塚の考えたエンディングでもダメだったことは明白。冗長な演出が続いていた東映動画が生まれ変わるのは森康二、大塚康生、月岡貞夫らが中心となった「わんぱく王子の大蛇退治」からであり、その後に若き宮崎駿、高畑勲が中核となって「太陽の王子ホルスの大冒険」が作られ、東映動画、日本のアニメの全盛期がやってくる。やはりアニメ制作の中で育った若いスタッフの感覚が、世界を変えていったのであり、それはこの「悟空の大冒険」にも通じている)

この「悟空の大冒険」は、自身の虫プロダクション制作なので、リベンジの場でもあったのだろうが、なにしろ手塚は乗りに乗っていた時期なので、関わっていられなかったのだろう。放送直前の1966年には、私が個人的に日本の漫画史のベスト3に入ると確信している大傑作「W3」を書いており、「バンパイヤ」「フライングベン」を残し、そしてライフワーク「火の鳥」の黎明編を書き始めていた。1966年には手塚の思い入れが深いTVアニメ「ジャングル大帝」が終わり、「悟空の大冒険」の放映と平行して「リボンの騎士」のTVアニメがスタートされており、「悟空の大冒険」は必然的にノータッチとなった。

手塚は、音楽に関しては、実に素晴らしい審美眼を持っていた。富田勲を抜擢し、日本人離れした壮大な音楽を作らせたのは、手塚の最大の功績のひとつだが、もう一人、「悟空の大冒険」の音楽を担当した宇野誠一郎をTVアニメの「W3」(「ウルトラQ」の裏だったのでみなほとんど見ていない)とこの「悟空の大冒険」で使ったのも、手塚の大きな功績だ。宇野誠一郎はリズム主体で、実験的なBGMを作れる天才であり、こういうスラップスティックタイプのアニメにはドンピシャだった。根底に流れるジャズタッチのアレンジも実に洒落ている。また後の「ムーミン」で代表させる叙情的な音楽も得意であり、聴いていてハッとさせられる美しい旋律が出てくるのも大きな魅力。宇野誠一郎の音楽を追うのは、音楽ファンとしても大きな喜びだ。(佐野)
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