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2025年7月4日金曜日

短冊CDの日 2025 -シングルCDの祭典-


 2023年から展開されていた『短冊CDの日』のイベントが今年も7月7日”七夕の日”に開催される。
 これは1988年に8cmサイズのCDを短冊型パッケージにしたシングルCDが生産開始されて35周年となった、2023年から展開されている『短冊CDの日』のイベントで、再ブームの兆しを見せているのだ。90年代に青春時代を送った世代にとっては懐かしく、デジタル配信で育った令和の若い世代にとっては、この8cmサイズのCDのフォーマットは、アナログ盤やカセットテープと同様に音楽産業のリバイバル・ブームと言えるのだ。
 ここでは『短冊CDの日 2025』にエントリーされて、7月7日に同時リリースされる中から、弊サイトのカラーや筆者の好みやで選出した作品を詳細レビューで紹介したいと思う。

●短冊CDの日 2025 -シングルCDの祭典-公式サイトリンク



Wink Music Service 
『素直な悪女/ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME~』(VSCD9747)
 『Fantastic Girl/Der Computer Nr.3』(VSCD9748)
 『ミツバチのささやき/ロマンス』(VSCD9749) 

 昨年のキャンペーンでファースト・シングル『ローマでチャオ/ヘンな女の子』を取上げたWink Music Service(ウインクミュージック・サービス/以降WMS)は、同年7インチでリリースした3作の『素直な悪女/ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME~』、『Fantastic Girl/Der Computer Nr.3』、『ミツバチのささやき/ロマンス』を今年はエントリーしている。それぞれタイトル曲とカップリング曲に各インスト・ヴァージョンの計4曲を収録しており、7インチを所有するファンにもコレクターズ・アイテムとして必携である。
 
 各曲の詳細レビューはリンク先の当時記事を読んで欲しいが、弊サイト的にはソフトロック色が強く、筆者(管理人)が2024年のベストソングに選出したオーバンドルフ凜(りん)歌唱の『Fantastic Girl』が特にお勧めである。
 またこのパッケージでのヴィジュアルでもゲスト・ボーカルの美少女ハーフ・モデルのアンジーひよりと前出のオーバンドルフ凜、現役アイドルの白鳥沙南の存在感は大きく、WMSを主宰するベテラン・クリエーターのサリー久保田と高浪慶太郎による究極のポップ・ユニットの戦略は、音楽面以外にも成功しており、今後の活動にも期待するばかりだ。


Wink Music Service (左から高浪慶太郎、サリー久保田) 

アンジーひより    オーバンドルフ凜   白鳥沙南

◎『素直な悪女』+『Fantastic Girl』:詳細レビューはこちら
◎『ミツバチのささやき』(『It Girls』収録時):詳細レビューはこちら


 
平野友里(ゆり丸)『世界でいちばん熱い夏』(NRSD-3156)

 同じく昨年『超ゆり丸音頭』(プロデュース:ムーンライダーズ白井良明)をレビューしたアイドル・シンガーのゆり丸こと平野友里は、80年代後半にヒットした、PRINCESS PRINCESSの「世界でいちばん熱い夏」(1987年/最高順位:1位)と、渡辺美里の「恋したっていいじゃない」(1988年/最高順位:2位)のカバーをカップリングしたシングルでエントリーしている。サウンドプロデューサーには近年マスタリング・エンジニアとしても著名なmicrostar佐藤清喜が起用され、全ての演奏も手掛けおり、彼が得意とする英国エレクトロ・ポップのカラーも見え隠れしている。収録は各曲のカラオケ(インスト)・ヴァージョン含めた4曲に、「超ゆり丸音頭」を佐藤によりダブミックスした「超ゆり丸音頭(nicely nice dub mix)」を加えた計5曲となっている。 


 ゆり丸のプロフィールは前回のレビューを参照頂くとして、このカバーについて解説しよう。「世界でいちばん熱い夏」は、PRINCESS PRINCESSのボーカル奥居香の作曲、ドラム富田京子の作詞で、原曲のアレンジはバンドとプロデューサーである笹路正徳(フュージョンバンド元マライア出身)が共同クレジットされている。
 この曲を聴いてポップス・マニアは直ぐに分かると思うが、サビのオマージュ元はフランキー・ヴァリの「Can't Take My Eyes Off You」(1967年)だろう。ここでのカバーはオリジナルと異なり、このキャッチャーなサビを冒頭に持ってきて聴き手にインパクトを与えているのがグッドアイデアだ。基本アレンジは完成度が高かった原曲を踏襲しながら、コーラスやギター・カッティング・パターンを変え、シンセ・ドラムのアクセントを入れている。

 カップリングの「恋したっていいじゃない」は、渡辺美里による作詞、作曲は後にダンス&ボーカルグループSPEEDのプロデューサーとして活躍する伊秩弘将で、アレンジは大貫妙子やEPOなどを手掛けたベテランの清水信之。このオリジナルは渡辺自身が出演するコーヒーCMのタイアップ曲だったこともあり、アップテンポで躍動的な曲だった。遡る1984年にカセットテープCMのタイアップ曲で、日本でもヒットした米女性シンガー、Teri DeSarioの「Overnight Success」に通じる明快さはいかにも当時のヒットポップスである。
 ここでのカバーは佐藤がリスペクトする英国人プロデューサーのトニー・マンスフィールド風のシンセサイザーのサウンドが聴けてマニア心をくすぐる。両曲ともゆり丸の非凡な歌唱力によりオリジナルの完成度にも引けを取らないので、80年代ポップス・ファンにもお勧めである。
 またボーナストラックの「超ゆり丸音頭(nicely nice dub mix)」は、英国プロデューサーのエイドリアン・シャーウッドが1979年に設立したOn-U Sound Recordsに通じるダブミックスで、オリジナルを換骨奪胎した大胆なサウンドは新鮮に聴けてダンス・ミュージックとしても面白い仕上がりだ。 



TAMAYURAM (まゆたん✖️ルカタマ)
『bye-bye, tape echo』(NRSD--3153)

 TAMAYURAM(たまゆらむ)は、シンガー・ソングライターのルカタマと、嘗て『三宅裕司のいかすバンド天国』(通称イカ天)への出演で一躍知られた伝説のガールズバンド“マサ子さん”のボーカルまゆたんで結成された女性2人組ユニットだ。
 本作『bye-bye, tape echo』は、今年2月にリリースされたファースト『She’II ―あの子が世界を赦すまでー』と同様に短冊CDのフォーマットに拘ったセカンド・シングルとなる。
 アイドルグループ ”めろん畑a go go”出身のルカタマは、筆者の2024年ベストソングで選出した広瀬愛菜の「LA BLUE feat.MCあんにゅ ルカタマ」でフューチャーされるなど、その活動は多岐に渡るので記憶に新しいと思うが、このユニットもユニークな存在なのでここで取上げたい。 

左からまゆたん、ルカタマ

 タイトル曲の「bye-bye, tape echo」は、本作のプロデューサーである音楽ユニットdetune.(デチューン)の郷拓郎(ごう たくろう)がソングライティングとアレンジを手掛け、ギター以外の全ての演奏とプログラミングまで担当している。高域のまゆたんと中音域の柔らかいルカタマの声質のブレンドがこのユニットの魅力であるが、郷はそんなボーカル・パートが引き立つサウンド作りをしている。ラグディなドラム・ループにウーリッツァー系エレピや各種シンセで上物を構築し、サエキけんぞう率いる”ハルメンズX”のメンバーでもあるギタリストの吉田仁郎が複数のギター・トラックでプレイしている。

 カップリングは、ムーンライダーズが1986年にリリースし、筆者が最高傑作候補に挙げる『Don't Trust Over Thirty』のB面3曲目に収録された「A Frozen Girl, A Boy In Love」(作詞:滋田みかよ)のカバーである。ここでは同曲の作曲者でライダーズの武川雅寛がヴァイオリンとコーラス、また昨年古希を迎えた鈴木博文もコーラスでゲスト参加するという豪華さである。アレンジ的にはオリジナルより音数を減らしテンポをやや下げて空間を活かし、まゆたんとルカタマの個性あるボーカルのコントラストがより楽しめる。先人二方のコーラスもこのボーカルを引き立てながら、各々爪痕を残すパフォーマンスをしているのが、らしくて嬉しくなる。 

 また今回ここで紹介した、ゆり丸やTAMAYURAM以外のレーベルメイトも同日短冊CDをリリース予定なので触れるが、XOXO EXTREME(キス・アンド・ハグ・エクストリーム)から一色萌に続いてソロデビューした小日向まおの『永遠』(NRSD-3155)、富士山ご当地アイドルグループの 3776 (みななろ)の『さよなら渦巻きの中の私』(TANZ-3776)、そして嘗てヒットしたアニメ『らんま1/2』(1989年/原作:高橋留美子)の主題歌をカバーした、シンガー・ソングライター兼アイドルの小日向由衣の『じゃじゃ馬にさせないで』(NRSD-3152)と、個性派ぞろいなので是非注目してほしい。 

小日向まお『永遠』
(NRSD-3155)disk union 予約
3776『さよなら渦巻きの中の私』
(TANZ-3776)disk union 予約
小日向由衣『じゃじゃ馬にさせないで』
(NRSD-3152)disk union 予約



Usabeni & MaNaMaNa『女ともだち』(AVOC-1005)

 ムーンライダーズ絡みでは、鈴木慶一が作編曲とプロデュースを手掛けた野宮真貴のデビュー・シングル「女ともだち」(1981年/作詞:伊藤アキラ・資生堂CM曲)を、アイドルのUsabeni(宇佐蔵べに)と、ミライスカート出身のMaNaMaNa(林奈緒美)が、Usabeni & MaNaMaNaのデュオ名義で今回カバーして短冊CDでリリースする。
 彼女達は歌詞の世界そのままに実際の友達であるということもあり企画されたらしく、収録曲は同じバックトラックで、UsabeniとMaNaMaNaがそれぞれリードボーカルを取ったヴァージョンを収録し、お互いが双方のヴァージョンでコーラスを取っているという稀なレコーディングが施されている。

左からUsabeni、MaNaMaNa

 今回のカバーでは元相対性理論集団行動(活動休止中のため復活希望!/ドラム:西浦謙助)のリーダーである真部脩一がアレンジを担当し、オリジナルが持っていた慶一イズムなチャイニーズ・スケールのニューウェイヴ感覚を、よりキッチュなサウンドでリメイクしている。コーダにはオリジナルにはないアンニュイなシンセサイザーソロがあり、ライダーズの「鬼火」(『MODERN MUSIC』収録/1979年)を彷彿とさせてライダーズ・マニアとしては嬉しい。
 これらは嘗て『ハイファイ新書』(相対性理論/2009年)で聴けた真部の感覚にも近く、今回この組み合わせを実現させ、これまでにBase Ball Bearやフジファブリック等々多くのバンドを発掘、育成したA&Rマンで、プロデューサーの加茂啓太郎の企画力には敬服してしまう。
  Usabeni、MaNaMaNaのファンの他、初期相対性理論から近年真部が楽曲提供とバックバンドで参加するano(あの)のファンにもアピールするだろう。



スワンスワンズ
『お星さま採集~白鳥倶楽部のテーマ~』(SW-005)

 最後に今回プレスキットが送られてきて初めて知ったのが、2人組アイドルグループのスワンスワンズで、新曲の『お星さま採集~白鳥倶楽部のテーマ~』を初短冊CDでリリースする。
 彼女達は2022年4月に結成された完全セルフ・プロデュースのグループで、メンバーのあみは作詞を、あかりが振り付けを各々担当し、作編曲とバックトラックは彼女達が気に入ったクリエイター達に発注するというプロダクションで楽曲制作をおこなっている。大阪を拠点に活動し、東京や京都、名古屋など都市部でのライブイベントにも多く参加しているようだ。
 本作にはタイトル曲とカップリングの「パーフェクトスコール」、各インスト・ヴァージョンの計4曲を収録している。 

左からあみ、あかり

 アーテイスト写真をご覧の通り、まずは彼女達のロリータファッションに目を奪われてしまうだろうが、筆者はタイトル曲「お星さま採集~白鳥倶楽部のテーマ~」を一聴してその高度な音楽性に直ぐに魅了されてしまった。
 3分弱の尺なのだが、パート毎に転調とテンポチェンジを繰り返しメロディも極めて複雑で、あみのファンタジーな歌詞の世界にインスパイアされたであろうサウンドに仕上がっている。敢えて言えば、サイケデリックロックやプログレッシブロックのマニアにしか作れない楽曲であり、特にサビの「わたしたちは白鳥倶楽部・・・」からのパートのメロディはクラシック音楽の素養がないと編み出せないし、続くブリッジのペンタトニック・スケールのメロでクールダウンさせるテクニックも巧みだ。
 作編曲は大阪で活動するマルチプレイヤー兼エンジニアの吉井大希で、全ての演奏も彼が一人多重録音で担当しており、そのセンスも含め令和のシド・バレットロイ・ウッドと呼んでしまいたい。 

 カップリングの「パーフェクトスコール」は、一転してステディな打ち込みシティポップ・サウンドで、リズムパターンは竹内まりやの「プラスティック・ラヴ」(1984年)を踏襲している。不毛の恋愛を綴ったあみの歌詞もサウンドにマッチしていて、ドライブミュージックとしてリスニング可能だ。作編曲は大阪音大卒の若き作編曲家のマキシコーマで、キーボード類とプログラミングなどバックトラックも一人で担当している。ライブでの再現性が難しそうな転調が多い「お星さま採集」に比べ、この「パーフェクトスコール」は今後ライブ・レパートリーの定番になるかも知れない。


 以上紹介した各作品は短冊CDのフォーマットにより数量限定のため、筆者の詳細レビューを読んで興味を持った読者は、各リンク先から直ちに予約し入手して聴いて欲しい。

(テキスト:ウチタカヒデ) 

2025年6月15日日曜日

California Dreamland

  

 もしも米国音楽の地図に、ひときわ眩い光を放つ地点があるとすれば、それは間違いなくCaliforniaの海辺、波打つ西海岸にあるだろう。そしてその座標を指し示す星のひとつが、Brian Wilsonという存在だ。だが、その煌きは決して最初から祝福されていたわけではない。むしろその原点は、土埃舞う中西部にあった。Wilson一族は、移ろいやすい気候と単調な農業に苦しむ中西部の片隅から、新天地を求めて西へ向かった。米国の理想――自由、解放、再出発――それを信じた家族の、汗と涙の旅路だった。
California。それは楽園の象徴だった。しかし、現実はどうだ。そこに待っていたのは、経済的苦境、社会の冷淡さ、そして家族内部の圧力だった。Brianの父、Murry Wilsonは、自らの音楽的な夢に未練と期待を持ちながら、家庭にもその執念を託す。厳格で、時に暴力的な教育方針のもと、少年Brianはただ音に救いを求めた。ピアノの前、ビーチの風、AMラジオ。そこに彼だけのユートピアを築き始めた。だが、その逃避は甘美なものばかりではなかった。若くして名声を得たBrianは、60年代中頃から重度の精神疾患に苦しむようになる。統合失調症的な症状、幻聴、不安障害。そしてそれを和らげようとした薬物依存。音楽の天才として評価される裏側には、孤独と混乱に苛まれる青年の姿があった。
Brianの音楽は、単なるポップではない。1960年代、大英帝国から押し寄せた「British Invasion」が米国音楽界を席巻する中で、彼の存在は異質だった。彼は“反撃”しようとしたのではない。自分だけの音の宇宙を築くことで、英国勢の陰に色褪せない米国音楽の魂を示したのだ。『Pet Sounds』はまさにその象徴。コード進行は複雑で、多彩なハーモニー。動物の鳴き声や管弦楽とロックンロールコンボの層が交錯し、当時の若者(特に英国人)たちは「音楽って、こんなに広くて深かったのか」と目を見開いた。だが、Brianの世界は、ただ未来に向かって突き進むものではない。その音楽には、両親から影響を受けた戦前の米国ポピュラー音楽の遺伝子が、色濃く流れている。George GershwinやIrving Berlinの哀愁と洗練、Boogie-Woogieの溌剌さ、Doo-Wopの甘やかかつ滑稽なハーモニー、Jazzの自由な精神。彼の楽曲には、米国の音楽史が縦横に編み込まれ、重層的な音の物語が展開される。同時にそれはまるで、家族の歴史を語るような音楽だ。苦難の道を歩んできたWilson家の旅路。希望を胸に西へ進んだ彼らの軌跡は、米国建国の神話と重なる。その神話の続きを、Brianは音で描いた。『Smile』は完成に多くの年月と協力を要したが、まさに“西へ進んだ米国”が辿り着いた精神の地平を音にしたものだと言っていい。

彼の音楽に耳を澄ませば、そこには明るさと哀しみが混じり合う。主旋律の中に潜む切なさ。コーラスの重なりによって生まれる奥行き。転調とコード進行がもたらす予測不能の展開。そこには、愛というものの不確かさと、それでも信じようとする意志が込められている。恋のときめきと、失われた少年期のノスタルジアが交錯する。サーフィンと波の下に隠された、父との確執、兄弟との葛藤、精神的な苦悩。すべてが「音楽」という形で再構築されていく。まるで、人生そのものが一つの交響曲となって流れているかのようだ。
また、兄弟たちとの関係も彼の創作に大きな影響を与えた。Carl Wilsonの包容力あるボーカル、Dennis Wilsonの野性的でロマンチックな感性。これらはBrianの繊細な作曲に対する理想的な対位法となり、The Beach Boysというユニットの総体的な表現力を高めた。一方で、家族だからこその軋轢も存在し、それが時にグループの亀裂を生む原因ともなった。

今日、Brian Wilsonの音楽は改めて再評価され、若い世代にとっても新たな発見の対象となってきた。その理由は、彼の作品が単に懐かしさやノスタルジーに訴えかけるものではなく、音楽という手段を通して人間の感情、記憶、そして再生を描いているからだ。Brianの音楽は、私たちに問いかける——人生の痛みをどう乗り越え、どのように希望へと変えていくか。
Brian Wilsonは、単なる天才ではない。彼は、一族の歴史と米国の理想、ポピュラーミュージックの可能性と限界の狭間で、孤独にして壮大な戦いを繰り広げてきた存在だ。音楽という武器で、彼は“戦った”のではない。“語り” “許し”、そして“夢を見た”。Brianの出自と重なる米国西海岸という土地も、彼の音楽性を語る上で欠かせない。太平洋の広がり、陽光、そして新天地としての自由。西海岸は常に、米国人の理想と幻想が交差する場所であった。Brianはそこに現実と幻想の境界を曖昧にするような音楽を描き出し、西海岸の風土と精神を音に変えた。

そしてその夢は、時代を超えて今も響き続けている。今、彼の残した音を聴く時、我々はもう一度、米国という国の魂に触れているのかもしれない。希望、苦悩、家族、自由、敗北、そして再生――Brian Wilsonの音楽には、これらすべてが宿っている。西へ進んだ者たちが見た、果てなき空と水平線。その先に、彼の音楽が広がっている。その才能は人間の限界を超え、音楽を通して世界の構造を再構成するような力を持っていた。しかしその光のような才能ゆえに、同時に、この世界で生きることの苦しみも広く受け入れざるを得なかったのだろう。この世にただ一瞬だけBrianだけに聞こえてきた、幻のようなハーモニー。Brian Wilsonは、何かに選ばれた存在だった、それは、本当は天上に居るべき存在が、すこしだけ私たちのために降りてきてくれたのか?
80年余りの生涯は長いようで、しかし本人にとっては、この現世の衆生へ天上の調を響かせんとする「発声練習」のためのわずかな旅だったのかもしれない。

──そして最後に、このコラムを締めくくるにあたって、どうしても触れずにはいられない一点がある。それは、Brian Wilsonが一生心の底から愛した“食べ物”が、何だったのか──それを筆者が探り出せなかったことである。
いや、ピアノの前でうつむきながら「Surf’s Up」のコードを爪弾くBrianに、「一番好きな食べ物は?」などと尋ねるのは、あまりに場違いで無粋だ。しかし、その一言をこそ、誰かが聞いておけばよかった。サンドイッチだったのか?それともミルクシェイク?はたまた、ひと口頬張ればHawthorne Boulevardで車を駆け抜けた青春が蘇るような、西海岸特製バーガー、いやいやRoger Christianと夜を徹して語り合った際パクついたアイスクリーム・サンデーだったのか?──。
今となっては、それも永遠の謎である。
Brianの音楽は、あらゆるコード進行と情感、リズムと音色の選択によって、私たちに人生の奥行きを教えてくれた。しかし彼の胃袋が最も欲した一品──それだけは、音楽の中にすら残されていない。
ああ、それさえ聞いておけば、彼の魂をもうひと匙、味わえたかもしれないのに。
けれど──だからこそ、永遠の謎がまた一つ、彼の神秘の一部として私たちの心に刻まれるのかもしれない。

Your imagination running wild!

California Dreamland - A Tribute to Brian Wilson

Selection:MaskedFlopper,  Takahide Uchi(WebVANDA)

If there were a single spot on the musical map of America that gleamed more brightly than the rest, it would surely lie upon the sun-drenched shores of California, along the undulating edge of the western coast. One of the stars to mark that sacred coordinate is, without question, the figure of Brian Wilson. Yet his brilliance was not born of immediate blessing. Rather, its origin lay in the dust-choked hinterlands of the American Midwest. The Wilson family, wearied by the capricious weather and the monotony of agricultural toil, ventured westward in search of renewal. The American ideals of freedom, release, and new beginnings shimmered before them as a guiding light, their journey steeped in sweat and sorrow.

California was to be the promised land. And yet, what awaited was not paradise, but economic hardship, societal indifference, and mounting pressure within the family itself. Brian's father, Murry Wilson, having laid aside his own musical aspirations, channeled that frustrated passion into his household. Under his stern, at times violent, regime, young Brian sought solace in sound alone. At the piano, by the seaside, through the crackling of magic transistor radio, he began constructing a utopia of his own design. But this escape was no untroubled reverie. Attaining fame in his youth, Brian would soon find himself beset by profound mental afflictions. Schizophrenic episodes, auditory hallucinations, and crushing anxiety took their toll, further complicated by the lure and subsequent dependence on narcotics. Behind the image of the musical prodigy was a young man besieged by loneliness and confusion.

His music, then, is no mere confection of pop. Amidst the so-called "British Invasion" of the 1960s, wherein English bands stormed the American soundscape, Brian Wilson emerged as a singular force. Not by retaliation, but through the forging of his own sonic cosmos, he preserved the essence of American musical spirit. The album Pet Sounds stands as the very embodiment of this endeavour. Its harmonic complexity, its symphonic interplay of animal calls, orchestration, and rock instrumentation, left listeners—particularly the British—utterly astounded. "So music," they thought, "can reach such depths and breadths."

Yet Brian's musical vision was not merely futuristic. It bore within it the DNA of pre-war American popular music—the melancholy and elegance of Gershwin and Berlin, the exuberance of boogie-woogie, the sweet and ludicrous harmonies of doo-wop, the liberty of jazz. His compositions wove the American musical lineage into a multidimensional tapestry. At once, it resembled the chronicling of a family history. The journey of the Wilsons westward in pursuit of hope mirrors the very mythos of America itself. And Brian, in turn, drew out that myth in tones and melodies. Smile, though taking years and many hands to reach fruition, was nothing less than the spiritual frontier that America found upon arriving at the western edge.

Listen closely, and one hears in his music a mingling of brightness and sorrow. A melancholy nested in the melody, a depth revealed in the layered vocals, an unpredictability wrought by modulation and harmonic divergence. It is music suffused with the uncertainty of love and the wilful insistence upon believing in it nonetheless. The flush of young romance collides with the nostalgia of a lost "in my childhood". Beneath the surfboards and shimmering waves lie unresolved tensions with his father, fraternal conflict, and inner despair—all transfigured into music. As though life itself had become a symphony.

His brothers, too, exerted profound influence on his creations. Carl Wilson's tender voice and Dennis Wilson's wild, romantic spirit formed a counterpoint to Brian's delicate craftsmanship. Their union lent The Beach Boys a unique expressive power. Yet familial bonds are double-edged; the very closeness that birthed beauty also gave rise to fracture.

Today, Brian Wilson's work is experiencing a renewed appreciation, even among younger generations. This owes not to mere nostalgia, but to the fact that his music, through rhythm and harmony, engages with the full range of human sentiment: memory, emotion, and renewal. His songs ask us, again and again: how do we bear life's pain, and by what grace do we transform it into hope?

Brian Wilson is not simply a genius. He is a man who waged a vast and lonely battle at the intersection of familial legacy, American ideals, and the boundaries of popular music. He did not so much fight with music as he spoke with it, forgave through it, and dared to dream. The West Coast, his spiritual and geographical home, is crucial to understanding his voice. The Pacific's expanse, the ceaseless sun, the land of liberty—this coast has always been the site where America lays its hopes and illusions. Brian blurred the line between dream and reality, turning that coast's atmosphere into sound.

And that dream continues to echo across time. As we listen to his music today, we might feel we are once more touching the soul of a nation: its hopes, sorrows, kinships, freedoms, failures, and rebirths. The endless sky and horizon seen by those who journeyed west—Brian's music dwells just beyond them. His gift seemed to transcend the human, as though he reconfigured the structure of the world through music. Yet that very luminosity may have exacted a terrible price: to bear the pain of living in this world while channelling another.

That ineffable harmony heard by him alone, in a moment not meant for earth. Brian Wilson was, perhaps, a being chosen by something beyond, descending briefly from heaven to share with us his sound. His eighty-odd years upon this earth, for all their length, may have been naught but a fleeting sojourn—a mere vocal warm-up for performing the celestial.

—And as we bring this reflection to a close, one point remains unresolved, stubbornly lingering. Namely: what was the one food that Brian Wilson loved above all others? Alas, this author has failed to unearth the answer.

To ask such a question—"What is your favourite food?"—of Brian Wilson, head bowed over a piano, softly playing the chords of "Surf's Up"—is surely inapt, graceless even. Yet someone ought to have asked it. Was it a sandwich? A milkshake? A west-coast hamburger redolent of youth speeding down Hawthorne Boulevard"Fun,Fun,Fun"? An ice cream sundae shared with "Hot Rod head"Roger Christian during a night of fervent conversation?

We shall never know. That morsel of knowledge is lost to time.

His music teaches us the intricacies of life through every chord progression, every timbre, every emotional turn. But his truest craving—his deepest hunger—remains beyond the stave. Had we known, -wouldn' it be nice?-perhaps we might have tasted one final spoonful of his soul.

But then again—perhaps mystery is part of the divinity. And thus, one more eternal enigma is folded into the myth of Brian Wilson, never to be dispelled.

Your imagination running wild!

(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2025年6月11日水曜日

The Bookmarcs&近藤健太郎出演★possible pop songs vol.1

 3月5日にデビュー・アルバム『Strange Village』をリリースした、シンガー・ソングライターの近藤健太郎が、所属するThe Bookmarcsとソロの2形態で出演するライブイベントが、7月19日(土)に名古屋市で開催されるの紹介する。
 今月20日に渋谷で開催する青野りえのワンマンライブのバンマスで、The Bookmarcsの相方である作編曲家の洞澤徹とのデュオと、ソロでは『Strange Village』の共同プロデューサーの及川雅仁がサポートで参加し、近藤にとっては初の名古屋ライブとなる。
 また対バンには、近藤の『Strange Village』のレコーディングにコーラスで参加し、学生時代には才女フレネシとバンド活動をしていたという、名古屋市を拠点に活動をするポップ・デュオのthe vegetabletsの西田浩一と西田美紀も出演するので、彼らの地元ファンにとっても嬉しいイベントになっている。
 なおこのイベントは客席数が限定となっているため、The Bookmarcsと近藤健太郎のアルバムを聴いて興味を持った、名古屋市近郊の音楽ファンは早急に予約し参加して欲しい!


【関連記事】

近藤健太郎:『Strange Village』


◎The Bookmarcs:『BOOKMARC SEASON』
リリース・インタビュー こちらをクリック


◎近藤健太郎:『Begin』
リリース・インタビュー こちらをクリック



possible pop songs vol.1


the bookmarcs

近藤健太郎

the vegetablets

jennifer juniper


djフジワラヒロユキ
dj山口真輝

7/19(土) 開場18:00 開演18:30

@今池 Modern World
愛知県名古屋市千種区今池1丁目6-11 KAREN今池
BAR The Modern Lovers内 3F イベントスペース
TEL: 052-741-5855

限定35名 料金2800円(ドリンク別)



※蛇足だがこのライブイベントのフライヤーのモチーフになっているのは、1987年にリリースされた、Sheriff Jackのセカンドアルバム『 What Lovely Melodies!』(Midnight Music/CHIME 00.34 S)のジャケットである。英国人マルチプレイヤー・ミュージシャンのLewis Taylor(ルイス・テイラー)の変名ソロユニットで、筆者はリリース当時通っていたマニアックなレコード店の「一人XTCで超お勧め!」のポップコピーに興味を持ち試聴して、直ぐに購入し1、2年はコンスタントに愛聴していた。

 その後テイラーは1996年~2004年の間にソロでアルバムをリリースした後、60年代末期に結成されたサイケデリック・ロック・バンド"The Edgar Broughton Band”のリユニオン時にアンドリュー・テイラーとしてギタリストでバンド加入していた。ソロとしては2022年以降に3枚のアルバムをリリースして現在も活動中だ。

(テキスト:ウチタカヒデ)

2025年6月4日水曜日

Candy Opera:『The Patron Saint of Heartache』『45 Revolutions Per Minute & Rarities』

『The Patron Saint of Heartache』

 『45 Revolutions Per Minute & Rarities』 

 オブスキュアなネオアコースティック・バンドとして知られるイギリスの Candy Opera(キャンディ・オペラ)が、2020年のリユニオン後のファースト・アルバム『The Patron Saint of Heartache』(Ca Va? Records/Hayabusa Landings / HYCA-8089)と、2018年にリリースされた2作品の発掘音源集『45 Revolutions Per Minute & Rarities』(HYCA-8090)に日本独自のボーナス・トラックを追加して5月28日に新装リイシューしたので紹介する。また今年3月に『Strange Village』をリリースしたばかりのシンガーソングライター、近藤健太郎氏からのコメントも特別に掲載する。 

 まずキャンディ・オペラのプロフィールに触れておく。彼らは1982年にリヴァプールのケンジントンで、メイン・ソングライターのPaul Malone(ポール・マローン/以降マローン)を中心に結成されたネオアコ・バンドだ。同時期に同じリヴァプールで活動し日本でもよく知られたThe Pale Fountains(ペイル・ファウンテンズ)やスコットランド出身のAztec Camera(アズテック・カメラ)、またニューカッスル出身のPrefab Sprout(プリファブ・スプラウト)に通じるサウンドをはじめ、マローンのボーカルもプリファブのパディ・マクアルーンの声質を彷彿とさせていた。
 当時人気だったThe Pogues(ポーグス)やThe Go-Betweens(ゴー・ビトウィーンズ)といったバンド達のライブでオープリング・アクトにも抜擢され、イギリス国内の音楽誌でも取り上げられるようになる。そのようなジャーナリストからの評価によりEMIやGO DISCS!といったメジャー・レコード会社から契約オファーもあったが、メンバー脱退などの事情もありそれを固辞し、デモ音源のみ残して1993年に解散した。
 それから25年後の2018年、ドイツ・ベルリンの”Firestation Records”が彼らのデモ音源を気に入り、18曲収録したコンピレーション『45 Revolutions Per Minute』(FST 154)、続いて同じ年には未発表の11曲収録の『Rarities』(FST 162)をそれぞれリリースしている。このコンピの評判により、キャンディ・オペラはバンドとしてリユニオンすることになり、全て新曲を収録した事実上のファースト・オリジナル・アルバム『The Patron Saint of Heartache』(TURN73D)をドイツ・ユッヘンのレーベル”A Turntable Friend”からリリースして、完全復活するというミラクルをやってのけたのだ。このような奇跡的復活を果たせたのも、彼らの才能を眠らせておかなかったFirestation RecordsやA Turntable FriendのA&Rマンの手腕と言えるだろう。

現バンド・メンバー

 今回日本での新装リイシュー盤では、『The Patron Saint of Heartache』に3曲のボーナス・トラックを追加した全17曲、『45 Revolutions Per Minute』と『Rarities』を2枚組としてカップリングし、『Rarities』のディスクにボーナス・トラック1曲を追加し、これまでオブスキュア=世に埋もれ、詳細不明だった彼らのプロフィールについても解説されたブックレットが、それぞれ付属されているのでファンにとってはありがたい。

  ここでは各アルバムで筆者が気になった主要曲の解説をしていく。
 リユニオン後のファースト・アルバム『The Patron Saint of Heartache』は、ボーカル兼ギターのマローンを中心に、ギターのKen Moss(ケン・モス/元Shack)とBrian Chin Smithers(ブライアン・チン・スミザーズ)、ベースのFrank Mahon(フランク・マホン)、ドラムのAlan Currie(アラン・カリー)、キーボードとパーカッションのGary O'Donnell(ゲイリー・オドネル)の6名編成でレコーディングされており、プロデュースはバンド名義になっている。エンジニアリングとミックスは主にTom Roach(トム・ローチ)で、2曲のみAbbey Road StudiosでビートルズをはじめParlophone やApple Recordsのリイシュー・アルバムのリマスタリングを多く手掛けたGuy Massey(ガイ・マッセイ)がミックスを担当している。

  収録曲はそのマッセイがミックスした冒頭の「These Days Are Ours」から完成度が高く、躍動的ビートを繰り出すリズム隊にアルペジオとカッティングを複数ダビングしたギター・トラック、シルキーなシンセ・パッドが空間を埋めたサウンドは結成当時からスタイルを引き継いでいる。また実体験と言える人生賛歌的歌詞を書いたマローンの歌声も、繊細ながらエモーショナルで25年のブランクを感じさせる衰えはなく、今でもバンドの顔になっている。
 この曲ではキャンディ・オペラと同郷で、ジュリアン・コープが率いたThe Teardrop Explodes(1978~1982年)のキーボーディストだったポール・シンプソンがバッキング・ボーカルで参加しており、マローンのボーカルを支えている。 

 
These Days Are Ours / Candy Opera

  続く「Tell Me When The Lights Turn Green」もマッセイのミックスで、イントロから両チャンネルで聴こえるギター・アルペジオが美しいバラードで、メロディにはシカゴ・ソウルの匂いもする。この曲でアディショナル・キーボードとタンバリンもプレイしているドラマーのカリーは、第一期Candy Opera解散時メンバーだが、その後90年代にはFishmonkeymanというインディーズ・ギターポップ・バンドに所属しアルバム2枚とシングル6枚をリリースしている。
 リアルタイムでプリファブ・スプラウトを愛聴していた筆者が最も反応したのが、「Start All Over Again」だ。プリファブの『Jordan: The Comeback』(1990年)収録曲に通じるポジティブなメロディと不毛の愛を綴った歌詞、よくミキシングされたギターやシンセサイザーの配置と空間系エフェクターの処理が効いたサウンドは、一聴して好きになれずにいられない。

 
Start All Over Again / Candy Opera

 
 全編アコースティック・セットの演奏による「Five Senses Four Seasons」は英国トラッド系フォークに通じ、無垢な歌詞とよく溶け合い、コーダではアカペラになるという構成で美しい曲だ。コーラス4名の内クレジットされている女性のAmy Mahonは、ベーシストのマホンの妻か姉妹かも知れないが、そんなアットホームな雰囲気もこの曲の良さである。 
 「Real Life」も『Steve McQueen』(1985年/米国盤タイトル『Two Wheels Good』)の頃のプリファブに通じる曲調とサウンドを持ち、アルバム中盤にこんな良曲が収録されているのが嬉しい。シャウト系の高域になるとパディ・マクアルーンに酷似するマローンの声質も好きになってしまう。 
 一転してホーン・セクションとコンガ、女性コーラス2名が加わったファンク・サウンドの「Rise」は、『The Cost of Loving』(1987年)時代のThe Style Council(スタイル・カウンシル)に通じていて、このバンドの多様性を垣間見れる。作曲クレジットがメンバー全員の名義になっているので、こういったブラック・ミュージック趣向を持つメンバーが主導しているのだろう。

Paul Malone 

 本編ラストの「Crazy」は、リラックスしたビートとは裏腹に、都市開発により変わり果てていく風景を狂気じみていると嘆く歌詞のコントラストが興味深い。ここでは「These Days Are Ours」同様、元The Teardrop Explodesメンバーでマローンの友人らしきポール・シンプソンが再びバッキング・ボーカルで参加しており、ヴァースではほぼデュエットしている。マリアッチなトランペットを加えたサウンドや、コーダでハチロクのロッカバラード風になる構成もよく練られている。
  なおボーナス・トラックはオリジナルのドイツ盤収録の「Gimme One Last Try」「There Is No Love」に加えて、日本新装リイシュー盤では、「These Days Are Ours -Piano Version」「Wide Open Spaces」「She Won’t Let You Down」の3曲が追加収録されている。特に本作リードトラックの「These Days Are Ours」の ピアノ・ヴァージョンは、同曲のデモに近いヴァージョンと推測されるのでファンは必聴だろう。 


89~93年頃のバンド・メンバー

 続いてキャンディ・オペラの第一期(1982~1993年)のデモ音源を発掘したコンピレーションと、未発表曲集を日本独自に2枚組で新装リイシューした『45 Revolutions Per Minute & Rarities』について解説する。 バンド結成時キャンディ・オペラのメンバーは、マローンとモス以外にベースのMike Wiggins(マイク・ウィギンズ)、ドラムのIan Haskell(イアン・ハスケル)だった。このラインナップのデモは本作DISC1『45 Revolutions Per Minute』に4曲収録されている。 
 ポーグスやゴー・ビトウィーンズとのライブ共演でイギリス国内の評価が高くなっていった1985年には、マローンとハスケル以外のメンバーが脱退し、その後も幾度かのメンバー・チェンジを経て、89年にはマローンの他、ギター、キーボード等マルチプレイヤーのブライアン・チン・スミザーズ、ベースのフランク・マホン、ドラムのアラン・カリーという新体制でバンドを継続した。この頃は前説明の通り、EMIやGO DISCS!といったメジャー・レコード会社からのオファーもあったが契約に至らず、1993年に解散したという。このあたりの経緯はブックレットの解説に詳細が記載されているので、興味を持った音楽ファンは入手して読んでみて欲しい。 
 本作中1988~89年にレコーディングされた楽曲は録音状態が良く、デモとは思えない完成度なのでその中から中心に解説したい。
 DISC1冒頭の「What A Way To Travel」はシャッフル・ビートの軽快なギターポップで、デジタル・シンセサイザーのエレピやパッドの音色からローバジェットで製作された感はあるが、それが味となってプリファブの『Swoon』(1984年)や『Protest Songs』(1989年/レコーディング:1985年)に通じる。とにかく曲の良さとマローンの歌声が光っている。

 
What A Way To Travel / Candy Opera


 続く「The Good Book And The Green」も前曲と同メンバーによる爽やかなギターポップで、マホンとカリーのリズム隊による安定した演奏と、チン・スミザーズによるギターとキーボードの的確なプレイが、マローンのボーカルをサポートしている。
 4曲目の「Fever Pitch」は「What A Way To Travel」と同時期にレコーディングされた曲で、曲調やアレンジ共に初期プリファブ度が高く、サウンドの構築方法も参考にしていたのではないかと思える。
 「Time」では一転してロックンロール・サウンドで、チン・スミザーズによる荒削りなギター・ソロが聴ける。ローバジェットなデモ音源のコンピレーションのため、レコーディング・スタジオとエンジニアの違いで、この手のサウンドは他の曲とドラムの鳴りが大きく異なる筈であるが、マスタリングでよく補正されている。 
 結成時メンバーのレコーディング曲の中で最も可能性を感じたのは「Diane」で、ボサノヴァのリズムを持ったギターポップだ。1985年当時この様な曲を書いていた英国ミュージシャンは、スタイル・カウンシル全盛期のポール・ウェラーか、アズテック・カメラのロディ・フレイム、そしてプリファブのパディ・マクアルーンしかいなかったのではないだろうか。マローンの歌声にも若さを感じる。

 DISC2の『Rarities』は、『45 Revolutions Per Minute』や『The Patron Saint of Heartache』未収録のレアトラック集で、「What A Way To Travel」や「Rise」のデモ・ヴァージョン、「Nine Times Out Of Ten」「Fever Pitch」のライブ・ヴァージョンなどレアな音源が聴ける。
 未発表で秀逸な曲は「I Can See For Miles」で、初期スティーリー・ダンにも通じた不可思議で洗練さを感じさせるコード進行とメロディは一聴して虜になった。この曲はマローンのソングライティングにカリーが作曲で手助けし、プロデュースとエンジニアリングもカリーが担当している。演奏もマローンによるギター以外の全ての楽器をカリーがプレイしてるので、この時代からカリーはマローンにとっては不可欠な音楽的パートナーだったと推測する。

I Can See For Miles / Candy Opera


 スティーリー・ダン繋がりでは、冒頭曲の「Las Americanos」のイントロのギターリフは「Don't Take Me Alive」でヴァースは「Green Earrings」(共に『The Royal Scam』収録/1976年)だったり、「Between A Rock And A Hard Place」では全体的に「Do It Again」(『Can't Buy A Thrill』収録/1972年)を意識しているのが感じられる。これは1980年代中頃から90年代初期に掛けておこった”スティーリー・ダン症候群(Steely Dan Syndrome)”と捉えていいだろう。スティーリーのウォルター・ベッカー自身がプロデュースしたChina Crisis(チャイナ・クライシス)やノルウェー出身のFra Lippo Lippi(フラ・リッポ・リッピ)の直系から、ソングライティングやサウンドに影響が垣間見えるプリファブのパディ・マクアルーンやDanny Wilson(ダニー・ウィルソン)など。またサウンドはその影響下ではないが、スティーリーの代表曲をバンド名にしたDeacon Blue(ディーコン・ブルー)などこの時期にイギリスを中心に多く出現していたので、マローンとカリーも同胞だったと考えられる。
 これらの未発表曲はセンスや音楽性こそ高いのだが、キャンディ・オペラ本体とはスタイルが異なるので、あくまでマローンとカリーの趣味ユニットの音源と捉えていいかも知れない。いずれにしても、埋もれてしまうには惜しい才能であることは間違いないので、今回日本で新装リイシューされたことは非常に意義があるのだ。



【ミュージシャンズミュージシャン・推薦コメント】

 高校時代、季節はいつだったか忘れてしまったが、ある雑誌で遊佐未森さんが紹介していたPrefab Sproutの『From Langley Park To Memphis』のジャケットを目にした。同じ頃偶然に、近所の音楽に詳しい大学生のお兄さんから、こういうのも聴いてみなよと貸してくれたアルバム『STEVE McQUEEN』のカセットテープ。なんだか運命を感じて、ガチャガチャっと慌ただしくデッキの再生ボタンを押した。当時の自分が今まで聴いたことのない毛色、なんとも甘味な音楽がスピーカーから部屋全体に広がり、僕はすっかり魅了されてしまった。

 Candy Operaを聴いた瞬間、あの頃のトキメキ、高揚感、そして心がヒリヒリする感覚を思い出した。ネオアコというジャンルを知って、当時は意味もなく優越感に浸っていたものだ。なんとなく素敵な自分(笑)、妄想は全開だ。青く儚い世界。捻くれているくせに美しいものを求めていた。

 Candy Operaはリヴァプールのバンド。80年代に活躍していたにも関わらず、メジャーからの誘いを固辞していたそうだ。バンド名や活動スタイル、そして繊細な音楽から、美意識と一筋縄ではいかない瑞々しいオーラが満載だ。時代を超えて届いた奇跡の作品。今、出会えてよかった。
近藤健太郎(The Bookmarcs / the Sweet Onions)

◎近藤健太郎プロフィール:The Bookmarcs、the Sweet Onions、Snow Sheep、ソロで活動中。
それぞれボーカル、ギター、ピアノ、作詞、作曲等を担当。 
ラジオ番組『The Bookmarcs Radio Marine Café』(マリンFM)のナビゲー ター。『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-mix)準レギュラーとして出演中。
自主レーベルphilia recordsを主宰。CDリリース、イベント企画、また他アーティ ストへの楽曲提供やサウンドプロデュースも手掛けている(小林しの、藍田理緒 etc)。
2025年3月5日、ソロとして初のフル・アルバム『Strange Village』をリリース。



 最後にプリファブ・スプラウトとスティーリー・ダンを偏愛する筆者による詳細解説と、近藤健太郎氏のコメントを読んで、興味を持った弊サイト読者や音楽ファンは是非入手して聴いて欲しい。

(テキスト:ウチタカヒデ
















2025年5月25日日曜日

涙の中の音楽史:From Jimmy with Tearsの背景を追う

    


 音楽史には、商業的に成功を収めなかった名曲や、記録に残らなかったがその後に再評価された楽曲が数多く存在する。それらの多くは、時の流れに埋もれてしまったが、その裏には深い謎や隠れた才能が隠れていることが少なくない。その中でも1963年に録音されたThe Honeysの「From Jimmy with Tears」は、The Beach Boysファンの間でも話題になることは少なかった。この曲は、あの伝説的なJack Nitzscheが手掛け、The Honeysのセッションで録音されたものだが、リリースされることになったものの、商業的にはほとんど評価されることなく、時の流れに消えていった。

1963年5月16日付けのセッション・シート
リーダー欄にはJack Nitzche
Capitol側にはNick Venetのサインが確認できる

1963年5月13日、The HoneysはLos AngelesのCapitol Recordsでセッションを行った。セッションには、当時の音楽シーンで名を馳せたミュージシャンが集結していた。Hal Blaine(ドラム)David Gates(ベース)Leon Russell(ピアノ)Glen Campbell(ギター)といった錚々たる面々が参加し、そのセッションをまとめたのがアレンジャーのJack Nitzscheだった。Jackは一時にPhil Spectorの右腕と称されるほどの音楽的才能を持つ人物で、弊誌読者にはご存知の通り彼が手掛けた楽曲には後の音楽シーンに多大な影響を与えたものが数多くある。そのセッションで録音された「From Jimmy with Tears」は、シングルとしてリリースされたが、その商業的成功はほとんどなかった。シングル盤のA面には、Brian Wilson(The Beach Boys)が手掛けた名曲「The One You Can Have」が収録されており、この曲は確かにその後も高く評価されることとなった。しかし、同じシングルに収められた「From Jimmy with Tears」は、時の流れとともにほとんど忘れ去られた存在となってしまった。

当時の参加ミュージシャン一覧
Russell Bridges=Leon Russell

「From Jimmy with Tears」の楽曲そのものは、いささか平板なポップ・チューンと感じられるかもしれないが、その中に潜む西海岸特有のコンテンポラリーな雰囲気やアレンジの妙が光る。若きLeon Russellのキーボードの妙もいい味を出している。作曲家としてクレジットされたのはBuddy KayeとLeroy Glover。この二人の名前は、1960年代の音楽シーンにおいてはすでに広く知られた存在であった。Buddy Kayeは、Brill Building界隈の名作詞家としてその名を馳せており、彼の作詞による「Till the End of Time」はPerry Comoによってヒットし、10週連続トップを記録した。また、1962年にPat Booneによって発表された「Speedy Gonzales」もBuddyが手掛けた作品であり、世界的に大ヒットを記録している。その後、Buddyはブラジルや欧州などにも足を運び、Antônio Carlos JobimやCharles Aznavourといった世界的アーティストの楽曲に英詞をつけ、名曲を生み出していった。日本でも人気のあったテレビドラマ『かわいい魔女ジニー (I Dream of Jeannie)』のテーマ曲の歌詞も手がけており(ただし、2ndシーズン以降のみが歌入だ。一番有名なインスト版は多くのHip Hop系アーティストにサンプリングされている)その他にも、Cliff Richardの映画『Summer Holiday』のテーマソング「The Next Time」や、Dusty Springfieldの「All Cried Out」などのヒットを生み出している。

一方、Leroy GloverはR&Bやガール・グループ関連の音楽で活躍していたキーボーディストで、The Shirellsの「Foolish Little Girl」のオルガン演奏は印象的だ。また、1960年代前半からは、Feldman-Goldstein-Gottehrerのガール・グループ作品のアレンジャーとしても知られており、その音楽的背景からも「From Jimmy with Tears」がガール・グループ・サウンドを念頭に置いて作られた可能性が高いことがうかがえる。


1963年上半期にリリースされた楽曲の中から、Buddy Kayeのクレジットによる曲を洗い出してみると、いくつかの楽曲が次々と明らかになった。その中で、目を引いたのが「From Joanie with Tears」というタイトルの一曲だった。このタイトルを目にした瞬間、思わず息を呑んだ。なぜなら、その曲は「From Jimmy with Tears」とほとんど同じ曲に思えたからだ。タイトルが異なるだけで、実は中身は同じなのではないか? それとも、単なる偶然がもたらしたものなのか?その疑問が湧き上がった。さらに調査を進める中で、新たな事実が浮かび上がった。1963年4月25日になんと「From Joanie with Tears」という楽曲が登記されていたのだ。この日付が、まさにJack Nitzscheセッションの直前であったことを考慮すれば、これが「From Jimmy with Tears」と同一の曲である可能性は非常に高いのではないかと感じられた。しかし、シングル盤には「From Jimmy with Tears」としてクレジットされているのに、なぜか「From Joanie with Tears」というタイトルが公式に登記されている。この奇妙な事態、どうしても説明がつかない。これは単なる偶然だったのか、それとも意図的な変更があったのか?

                                                  
From "Jimmy" With Tearsのシングル盤の
クレジットも同じR.F.D.Music名義だ。
異名同曲の可能性が高まる

同時代のKaye-Glover作品だがやはりR.F.D.Music名義


このタイトルの違いは、いったい何を意味しているのか?その理由が解明されるまで、この謎は解けそうにない。それが商業的な理由から来るものなのか、アーティスト側の意図が反映されたものなのか、それともレコード会社の戦略的な動きだったのか?どの線を辿っても、背後には何か深い意図が隠されているような気がしてならない「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」――たった一文字の違いが、音楽の歴史の中でどれほど大きな意味を持つのか。それを解き明かすことで、この謎の先に潜む物語が少しずつ姿を現すのだろうか。それとも、このまま未解決のまま時の彼方に消えていくのだろうか。おそらく、Buddy KayeはIan Flemingの小説『From Russia with Love』(1957)からインスパイアを受け、「From Jimmy with Tears」という楽曲タイトルを思いついたのだろう。映画化も決定していたこの小説は、1963年下半期に公開された映画『From Russia with Love』によって世界的な注目を集め、大ヒットを記録することになる。この楽曲がリリースされた1963年は、まさに映画『From Russia with Love』の公開年であり、映画自体が大きな社会的・文化的現象となっていた。映画の公開とともに、James Bondというキャラクターは一気に世間の注目を集め、その後も続々と007映画が公開される中で、映画のテーマや関連するメディア、音楽などが一体となった流行が生まれていた。その映画の影響は多方面にも及び、同名の曲が一斉に注目されることを期待したかもしれない。しかし、残念ながら「From Jimmy with Tears」は、その流行の波に乗り損ねた、どころか波さえも掴むことは叶わなかった。

「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」が異名同曲であると仮定した場合、その視点の違いが与える意味は非常に興味深い。まず、言うまでもなく、「Jimmy」と「Joanie」はそれぞれ男性名と女性名である。これにより、同じメロディと歌詞が、実はまったく異なる感情の流れを生み出すことになるのだ。「From Jimmy with Tears」の場合、タイトルに示される「Jimmy」は男性名であり、歌詞の中で語られる手紙は、恐らくその男性から女性へのものだろう。涙に濡れた手紙は、恐らく男性が自らの感情を女性に向けて吐露する形を取っていると考えられる。彼が涙を流して送る手紙というのは、決して軽いものではなく、深い悲しみや後悔、愛情を込めたものであることが多い。つまり、受け取る側である女性は、その男性の感情を受け入れ、そこに込められた痛みや愛情を感じ取る立場になる。一方で、「From Joanie with Tears」のタイトルが示すのは、女性名「Joanie」からの視点だ。ここでは、手紙を送るのが女性であり、受け取るのが男性だという構造になる。女性が涙に濡れた手紙を送るとなると、そこには「Jimmy」とはまた異なる感情が込められているだろう。女性が涙を流して送る手紙というのは、男性に対して哀しみや寂しさ、もしくは別れの決断を告げる場面が多いのではないか。女性の涙は、男性にとってある種の告白のように感じられるかもしれないし、手紙を受け取った男性は、女性の真摯な想いを受け入れつつも、その深さに圧倒されることだろう。この視点の違いが生み出す感情のコントラストは、同じメロディを使っていても、全く異なる物語が紡がれることを意味する。つまり、同じ曲が男女の視点で歌われることによって、聴き手に与える印象や解釈が大きく異なるのだ。「From Jimmy with Tears」と「From Joanie with Tears」のタイトルの違いは、単なる名前の変更に過ぎないように見えるかもしれないが、その背後にある視点の違いは、歌詞や曲の感情的な方向性を大きく変える可能性がある。もしこの2曲が本当に同一の曲であり、ただタイトルだけが異なっているのであれば、その背後に隠されたテーマの違いを見逃すわけにはいかない。「From Jimmy with Tears」は、男性の苦悩と哀しみを受け止める女性視点であるとすると、「From Joanie with Tears」は、女性の悲しみや哀愁を受け止める男性視点を描いたものになる。この視点の変化により、リスナーが感じ取る情感は根本的に異なるものになるだろう。男性が涙を流して手紙を送る場面と、女性が涙を流して手紙を送る場面では、その受け取る側の感情や反応もまた、全く異なるものとして描かれるだろう。こうした視点の交替は、楽曲に対する理解を深める上で非常に重要だ。もしBuddy Kayeがこの2つのバージョンを意図的に作り分けたのであれば、それは歌詞やメロディに込められた感情の深さを異なる形で表現したかったからに違いない。

1960年代初頭、アメリカの音楽シーンには「Joanie」という名前で活躍した女性たちがいた。Joan BaezとJoanie Sommersだ。二人は異なる音楽スタイルで名を馳せた。
Joan Baezは、1960年代初頭に登場したフォークシンガーで、彼女の歌声は単なる音楽の枠を超えた社会的メッセージを持っていた。彼女の歌詞は反戦や公民権運動を強く支持し、時代の波に乗った。彼女の音楽は、当時の若者たちにとって、音楽以上のものを意味していた。それは、ただのエンターテイメントではなく、政治的な立場を明確に示す手段だったのだ。Joan Baezはその後も長いキャリアを持ち続け、フォーク音楽の代表的存在として、また社会運動のシンボルとして広く認識されている。
Joanie Sommersはポップ音楽シーンで一世を風靡したアーティストだった。彼女の代表作は1962年に発表された「Johnny Get Angry」。この曲は、彼女の明るく軽快な歌声が特徴的で、若者文化の中で非常に人気を博した。曲の内容は、女性が恋人に「もっと感情を表してほしい」と願うというもので、当時のティーンエイジャーにとって共感を呼ぶ歌詞だった。「Johnny Get Angry」は、まさにその時代の空気を象徴するような一曲であり、Joanie Sommersを一躍スターに押し上げた。彼女の歌声には、ポップスならではの元気で明るい雰囲気があり、60年代のティーンエイジャーたちにとって、まさに青春の象徴だったと言える。
二人のJoanieの音楽は、まったく異なるジャンルに属していた。Joan Baezはフォークと社会的メッセージを絡めた音楽で多くの支持を集め、社会的な変革を訴えかけた。一方で、Joanie Sommersはティーンポップの世界で、軽やかでキャッチーなメロディと共に、恋愛をテーマにした歌詞で多くの若者たちの心を掴んだ。二人の名前が共通して「Joanie」とあったことが、60年代の音楽シーンでのひとつの面白い偶然だが、彼女たちの影響力はそれぞれのスタイルで異なり、どちらも時代を象徴する存在だった。
「Johnny Get Angry」の歌詞は、女性が恋人に対して「もっと感情を見せてほしい」と願う内容で、多くの若者が共感を覚えた。それまでの歌詞においても「愛」や「恋愛」をテーマにしたものが多かったが、Joanie Sommersは少しユニークな視点で、感情的に表現を求める女性像を描いた。「Johnny Get Angry」は、リリース後すぐに大ヒットとなり、ポップシーンで強い印象を残す一曲となった。しかし、こうしたヒット曲にはしばしば「アンサーソング」が登場するという音楽業界の慣習があった。
この年、まもなくしてそのアンサーソングが登場することになった。1962年、同じく「Joanie」をタイトルにしたアンサーソング「Joanie Don’t Be Angry(Harmon 1009/1962)」が登場した。歌ったのは男性シンガーのVinnie Monte。この曲は、Joanie Sommersの「Johnny Get Angry」とは対照的に、男性の視点から反応したものだった。



アンサーソングの特徴は、元の曲の歌詞やテーマを逆手に取る形で、別の視点を提供する点にある。1950年代から1960年代にかけて、特にポップ音楽の世界では、ヒット曲に対する反応として数多くのアンサーソングが生まれた。「Johnny Get Angry」の場合もその例外ではなく、その逆転の発想から生まれたのが「Joanie Don’t Be Angry」だった。当時、アンサーソングは単なる歌の応答だけでなく、ファンにとってのエンターテイメントの一環として楽しむべきものだった。このような形態は、リスナーが同じテーマに対して異なる解釈を楽しめる余地を生み出し、音楽シーンにさらなる盛り上がりをもたらした。

さて、妄想的な仮説をひとつ立ててみると、「From Joanie with Tears」がもしかしたら、当時のアンサーソングの流れを意識して作られたのではないか、という考え方もできる。つまり、Joanie Sommersの「Johnny Get Angry」に対する男性視点の返答として、「From Joanie with Tears」が生まれたのではないかという仮説だ。Joanieの名前や涙にまつわるテーマが共通していることを考えると、この曲があの時代に特有のアンサーソングとして意図的に作られた可能性もあるだろう。証拠はないが、同じ1962年にリリースされた「Joanie Don't Be Angry」と同じく「From Joanie with Tears」が生まれたのであれば、当時のアンサーソング文化を反映した面白い一例として位置付けられることだろう。
さらに妄想を広げてみると、「From Joanie with Tears」が男性視点のアンサーソングとして作られたのであれば、その歌い手としてThe Beach Boysが考えられた可能性があるのではないか。1960年代初頭、The Beach Boysは音楽シーンで急成長を遂げ、特にプロデューサーNick Venetの手腕によってバンドは大きな成功を収めていた。しかし、当時のThe Beach Boysはユニークで個性的な音楽性が特徴であり、特にリーダーのBrianはユーモア好きな人物として知られていた。

この時期(1963年)、The Beach Boysは「Surfin’ USA」(1963年初春)という大ヒットを放ち、サーフィンブームとともにその名を広めたが、Brianは次々とノヴェルティ色の強い楽曲をリリースすることに対して難色を示したのではないかとも考えられる。というのも、音楽シーンでは「Surfin’ USA」の成功を追い風にし、似たような楽曲が続くことが予想されたが、Brianはその後の楽曲に対してより深みのある音楽性や異なるアプローチを求めていのたが事実である。しかしながら、Brianのユーモアを取り入れつつ、当時の音楽シーンにおけるユニークなアンサーソングの流行に乗る形で、この楽曲がバンドにとって新たな挑戦となったかもしれない。
結局、Brianはその後の曲においてノヴェルティ色を避け、より成熟しつつ革新的な音楽スタイルに移行していった。結果的に、「From Joanie with Tears」がThe Beach Boysの手に渡ることはなく、代わりに別のグループ、例えばThe Honeysのようなアーティストに提供されることとなったと考えると、この一連の流れには音楽業界の商業的な戦略とアーティストとしてのBrianのビジョンが大きく影響していたのだろう。このような妄想的視点から考えると、「From Joanie with Tears」がもしかしたら改題され、歌われることとなった経緯を探ることは、1960年代の音楽シーンにおける文化や創造性の動向を理解する手がかりとなるだろう。そして、もしThe Beach Boysがこの曲を歌っていたとしたら、どのようなアレンジや解釈が加わっていたのかを想像するのも、また音楽ファンにとっては魅力的な楽しみ方の一つであるに違いない。もちろん、これはあくまで仮説であり、時代考証そっちのけのシャレの一環として捉えるべきだが、それでも時代背景を踏まえた上で、このような流れがあったのではと想像することは非常に興味深い。

史実からの視点では、1963年の秋、The HoneysのアルバムリリースがNick Venetによって計画されていた。だがこの時期、The Beach BoysとVenetとの関係はすでに険悪なものとなっていた。プロデューサーとしての立場を巡る対立が深刻化し、最終的にNick VenetはCapitol Recordとの関係そのものも危機にあった。その瞬間、The Beach Boysの音楽制作は一時的に空白期間に突入した、Billboardの10月19日付の記事がその決定的な瞬間を報じる。

「Nick Venet Capitol Recordとの契約終了か」。

NickとThe Beach Boysとの一件を報じた
1963年10月19日付けBillboard記事
(後日NickはCapitolとはつかず離れずの関係になるのだが.....)

音楽業界の中で、Nickの離脱は瞬く間に広まり、The Beach Boysの未来がどうなるのか、多くの関心が集まった。この短い空白期間を経て、The Beach Boysの新たな担当A&RとしてKarl Engermannが登場。ここからが、Brian Wilsonが音楽的な舵取りを完全に握る転機となった。プロデューサーとしての権限がBrianの手に移ると、The Beach Boysのサウンドは急激に進化し、音楽的な革新の時代が始まったのだ。
そして、1963年12月上旬。The Honeysのシングル「The One You Can't Have / From Jimmy With Tears」(Capitol 5093)がリリースされる。このシングルの特筆すべき点は、A面「The One You Can’t Have」のプロデュースがBrian Wilsonのクレジットで行われたことだ。つまり、この時点で(既に徐々にだがBrianが主導権を取りつつあったが)Brianがプロデューサーとしての足掛かりを得るとともに、The Honeysのサウンドにもその革新が反映されることとなった。まさにこの時期、The Beach Boysは大きな転換期を迎えていた。Nick Venetの離脱から新たなプロデューサー体制への移行、そしてBrian Wilsonの手による音楽的進化。The Honeysのシングルは、ただのシングルにとどまらず、Brian Wilsonの音楽的成長を象徴する重要な一歩として記憶されるべき瞬間だったのだ。この時期のThe Beach Boysとその周辺の動きは、音楽史においても非常に興味深い章であり、Brianの革命的な音楽が形作られる過程を感じ取ることができる貴重な時間だった。その中で、The Honeysのシングルは単なるヒット作に留まらず、音楽業界における大きな転換を物語る象徴的な一枚となったのである。
The Honeysは商業的な理由や様々な背景によりアルバムリリースもなく、結局世に出ることはなかった。その後、彼女たちはSurfin/Hot Rodをテーマにした音楽や、ガールグループのバックコーラスとして地道に活動を重ねたが、注目を集めることはなく、無名のまま日々が過ぎていった。それからやっと6年後の1969年、待望の次作シングル『Tonight You Belong To Me / Goodnight My Love(Capitol 2454)』がリリースされるも、それもまた広くは知られることなく、ひっそりと消えていった。The Honeysの活動は、まるで「裏方」として音楽業界に埋もれていったかのような印象を与える。確かに一見すれば、その歩みは「涙の歴史」のようにも感じられるだろう。しかし、彼女たちの音楽には今もなお独特の魅力が息づいており、その存在感は後世にわたって静かに影響を与え続けているのだ。


(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)