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2025年4月16日水曜日

映画『BAUS 映画から船出した映画館』


映画を観る前のタイトルからの想像と、観た後とで、こんなにイメージの変わる映画があっただろうか。そうか、そうきたかと、にやりとしたくなる場面も。そして、バウスシアターを愛した人だけの映画でもなかった。むしろ、誰のこころにもあって、記憶のどこかに潜んでいる何かを思い起こさせるような共感の物語。

 



  映画を観る前と後とでイメージが変わったなと思う要素はいくつかあって、そのひとつが、説明的なセリフやシーンが少ない、ということだった。それはもう、潔いまでの少なさだった。そして、小さな記憶のかけらがひとつひとつ、大切に積み重ねるように綴られていることも。

  映画で描かれていたのは、吉祥寺の地で、映画館、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の物語。この家族にとって、映画館は家業だったということになる。それだけに、映画や映画館への思いも大きかっただろうし、経営を続けていく苦労も並大抵のことではなかったはずだ。兄弟や家族が中心となって経営するとなれば、遠慮もないから、言い合いになるようなこともあったかもしれない。時代が時代でもある。昭和のはじめから、戦争の時代を経て、戦後、人々の生活スタイルも街も娯楽もガラガラと大きく変貌した時代。90年という長い年月の間には、家族のあり方も変わる。山あり谷あり、濃密な内容と展開を、なんとなく想像していた。

 しかし違った。出会いや決断、ひょんな一夜、戦争の悲惨さ、家族の日常も、生と死も、大きな感情として表されるのではなくて、静かに進行していた。本当に必要なものだけを残して、削ぎ落とした感じ。大事な場面ほど、言葉が少なかった気さえする。

さて、タイトルにある「BAUS」とは、かつて吉祥寺(東京都武蔵野市)にあって、映画はもちろん、演劇、音楽ライブ、落語など型にも枠にもはまらず上演し、観客からも作り手からも愛された劇場「バウスシアター」のこと。2014年5月31日、惜しまれつつ閉館した。



 その歴史をさかのぼると、大正141925)年に創設された「井の頭会館」にいきつく。村の有志約100人が出資して、村の娯楽場としてつくられ、映画をはじめ、浪曲や浪花節などの興行も行っていたそうだ。この映画のなかで、支配人のセリフとして、「みんなここに来て、映画を観て、明日またがんばるための英気を養うんだ」というようなことが語られていた。まだ吉祥寺村と呼ばれていた時代。大正12年に起きた関東大震災で被害の大きかった地域から逃れてきた人も多く、吉祥寺村周辺の人口は急増したというが、まだまだ店などは少なく、娯楽らしい娯楽もなかったようだ。そんな時代に、人々がお金を出し合ってつくった場所は住民にとって大切な場所であったと想像できる。

 そして、昭和3(1928)年頃、この井の頭会館で働くようになったのが、本田ハジメとサネオの兄弟。吉祥寺の地で、劇場文化を約90年にわたり守り続けてきた家族の、最初のふたり、である。兄弟は、「あしたを見つけにいく」と、故郷青森を飛び出し、東京に向かい、なぜか吉祥寺村にたどり着いたのだった。

 映画自体が、必要なものを残して、きっぱりと削ぎ落とした展開になっているのに、私があれこれ説明してどうする……()。まぁ、ここまでは、ざっくりと。  

※映画パンフレットの表紙。鈴木慶一さん演じるタクオがたばこのけむりをくゆらす場面は、映画のなかで印象的につかわれる。裏表紙の右下には、井の頭会館で弁士をつとめる兄のハジメの裏方として蓄音機でレコードをかける若き日のサネオ。このシーン、好きだなぁと思っていたら、表紙にも使われていた。 



手と音が語るもの

  もう1つ、気になったのは「手」の表現だった。説明的なセリフやシーンの少ない映画だったと先述したが、その分、登場人物の「手」が多くを語っていた気がする。

 中でも特に印象に残っているのは、武蔵野映画劇場(後に吉祥寺ムサシノ映画)の初日の場面だっただろうか、小学生のタクオと母のハマが並んで座って映画を観る場面でのこと。ふたりは手をつないでいる。ハマは優しい表情で目を閉じる。それだけなら、母と子のほほえましい場面なのだが、そのあとカメラがつながれた手にズームアップしたのだ。そしてハマは、つないだ手を優しくぎゅっとする。お母さん、ここにいるよ、大丈夫だよ、とでも言うように。

大人の手と小さな子どもの手がつながれている画像は、世の中にあふれている。検索すれば、山ほど出てくるし、とてもほほえましいものだ。

でもなぜか、この映画の流れのなかで、つながれた手がアップになった瞬間、胸騒ぎがした。そして予感は当たってしまった。その場面のあと、ハマは倒れ、亡くなってしまうのだった。

 ちなみにこの母子ふたりの場面にはセリフはなかった。短いシーンだが、セリフをつけようと思えば、つけられると思う。でもやっぱり、ここにセリフはいらないんだ。

あるいは、なんの場面だったか、ある小雨の降る夜、井の頭公園に来たサネオが、井の頭池に近づき、池に手を入れようとするシーンがあった。でも、池に手を入れる直前に傘がすっと差し出される。ハマとタクオがサネオを迎えに来たのだと思う。たぶんサネオを心配して。他にも、水に手を入れようとする場面が何度かあって、それもとても気になっている。

 

 映画を観たあとプログラムを読んだら、米倉伸さん(撮影)の寄稿の中に、手の表現について書かれている部分があった。

 甫木元空(うきもとそら)監督から「今回はできれば〝手〟を撮りたい」と提案があり、米倉さんも同じことを考えていたこともあって、話し合いを進め、全編にわたって様々な〝手〟のアクションを捉えていくことを選んだのだそうだ。そうか、だから手が印象的に画面に映る場面が多かったのか、と腑に落ちた。

  手そのものの表現というだけではなく、「この映画の中には〝何かを受け渡す〟という行為をもって語られる物語や、人々の関係性が多くある。社長からサネオへ、サネオからタクオへと引き継がれていく映画館、時を超えて引き継がれるアルバム、細かなことで言えばチケットをもぎる行為や、池のほとりに座り込むサネオに差し出される傘だってそうだろう」(プログラム・米倉伸さん寄稿より引用)。

 

そういうことで言うと、音と音楽もそうだ。挿入歌の中で、ある1曲が、アレンジを変えて何度か使われていて、それがとても印象に残った。メロディはとても優しく、シンプル。シンプルなだけに、アレンジによって曲のイメージは大きく変わり、意味合いも変わっていることが、よくわかったからだ。

 

ドレミミ- ミレ#ミファ ミ-レ-

シドレレ- レド#レミ レ-ド-

 

何度か流れる中で特に印象的だったのは、音楽を担当した大友良英さんによるエレキギターの演奏だった。歪んだ音。

以前、音楽は映画に一番近い構造を持っている、と、何かで読んだことがある。どちらも時間の軸の上につくる構造物。たとえば、映像が静かな動きをしている時に、音楽がドーンとつくと、映像に別の意味が生まれてくる。その逆パターンもあるだろう。登場人物のこころを表したり、補ったり、包み込んだり、作品の精神世界を大きく表現したり。大友さんが弾くエレキギターの音を、どう聴くか。

 

 先に、説明的なセリフやシーンが少なく、本当に必要なものだけを残して削ぎ落とした感じ、と書いたが、だからこそ響いてくる一言があったり、手の表現や音、音楽のつき方といった、言葉ではない部分の表現が雄弁で、とても豊かな感情につつまれた映画だった。



※2014年5月、バウスシアターが閉館するのに合わせて発行された『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』(ラスト・ハウス実行委員会編/株式会社boid刊)

 

 このWebVANDAでのコラムは、ひょんな縁がきっかけで書くことのなったのだが、実は、私はバウスシアターで映画を観たことがない。バウスタウン、バウスシアターという名前は「ぴあ」などの情報誌で知っていて、気になる映画館ではあって、結婚して吉祥寺の近くに引っ越してきたときには、何度かバウスシアターの前まで行ったこともあるのだが、ついに映画を観ることのないままに、閉館してしまった。

 そんな私が、バウスの映画の話を書いてもいいのだろうか。ネットやSNSには、「よく通いました」「バウスシアターは私の青春でした」といった言葉が並び、内心、ちょっと不安もあった(だから、途中からはバウス映画関係のネットものは見ないことにした)。

でもそんな不安は、映画を観終えたときには、さっぱりと無くなっていた。「バウスを愛した人だけの映画でもなかった」などの冒頭リードの文章は、この映画を観た直後の正直な気持ちだ。

 

それと、最初のほうで、「BAUS」について、「かつて吉祥寺にあった映画館バウスシアターのこと」と書いたが、映画の内容などを思い出しながらこうして原稿を書いているうちに、これはバウスシアターだけのことではなくて、BAUS的なもの、井の頭会館以降ずっと引き継がれてきて、そして〝映画づくり〟として今も続いている精神性や遺伝子のようなものを表しているのではないか、と思うようになった。だから、「バウスシアター」ではなくて「BAUS」なのだろう。違うかな。でも、それは観た人がそれぞれ思えばいいことかもしれないね。

 


井の頭公園と吉祥寺、そして自転車

  2025年3月22日。映画+監督舞台挨拶を観終わって、吉祥寺オデヲンを出る。土曜日夕方の吉祥寺は、人であふれていた。映画館を出てその雑踏の中に入っていったとき、なんだか映画のエンドロール映像の続きの中に自分がいるようで、奇妙な気持ちになり、思わずきょろきょろと周囲を見まわしてしまった。そして、そうだ、井の頭公園を通って帰ろう~と思い、吉祥寺駅を通り抜けて、公園のほうへ。 

井の頭公園手前のカフェでコーヒーを飲んでから公園に行ったら、すっかり夕暮れの空色になってしまった……。この日はまだ東京のソメイヨシノは開花前で、いつものゆったりとした週末夕方の井の頭公園という感じ。 井の頭公園の正式名称は「井の頭恩賜公園」という。大正6(1917)年5月1日開園。公式ページはこちら

※井の頭公園には園内の一画にバードサンクチュアリがあって、高さのある金網で区切られ、人間が決して入れないようになっている。そうした安心できる場所もあるし、武蔵野三大湧水池の1つに数えられる井の頭池もあることから、公園には数多くの種類の鳥がいる。井の頭公園のこうした取り組みは、本当に大事にしたい。池だけではなく、木々にも、普段あまり目にしない鳥たちがとまっているので、井の頭公園に行くことがあったら、ぜひ、静かに観察してみてくださいね。

 

 映画の中で登場人物たちは、よく井の頭公園を歩いていた。この映画は過去と現代を行ったり来たりするが、その過去のシーンでは、兄弟で、家族で、ときにひとりで、公園を歩く場面が数多くあった。家族の日常にとって、吉祥寺における映画館経営という家業にとっても、井の頭公園が大きな存在だったことが伝わってきた。

それは現代の場面にも受け継がれ、鈴木慶一さん演じる、年を重ねて白髪になったタクオも公園に来ていた。しかもその場面は、バウスシアターが閉館する最後の日という設定で、タクオは家族の写真アルバムを開いたり、公園の中を歩いたりして過ごしていた。

そういえば、自転車に乗って来ていたな。池のまわりの道を自転車を押してのんびり歩いていたり、停めた自転車にまたがって、なぜか全力でこいでいる場面もあった。あれは何だったのかな、タクオは井の頭公園で何を思っていたのだろう……なんていうことを考えながら公園を歩いていたら、下の写真の場所で、右のほうからギーコギーコと古い自転車の音が聞こえてきた。 

※写真だとわかりにくいが、けっこう急な坂道。


井の頭公園は、まわりを囲む道から池に向けて、急な下り坂になっている。アップダウンの多い公園だ。そこを、現代のタクオと同世代くらいの男性がギーコギーコと大きな音をたてて自転車をこいできて、通り過ぎていったので、おぉ~と思う。近所に住む人だろうか。慣れた坂道なのかもしれない。映画の中で現代のタクオも自転車で公園に来ていたけど、本物の拓夫さんも自転車で公園にいらっしゃるのかしら……(バウスシアターの総支配人であり、バウス閉館後は本田プロモーションBAUSの代表。本映画の原作『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』の著者)。

 

 そして、映画が終わりに近づいたころ、タクオの携帯に電話がかかってきて、短い会話を交わすとタクオは自転車に乗り、颯爽と公園を後にする。行き先はバウスシアター。閉館する最後の日。

それまで、アルバムをめくり、池のまわりを歩き……タクオのこころが井の頭公園から離れられないような感じもあったが、自転車に乗るときの顔は、やわらかですっきりとした表情だった。この日、井の頭公園に来て、長い時間を、ひとり、公園で過ごし、気持ちに区切りがついたのだろうか。……いや、〝ひとり〟じゃない、か。もう会うことは叶わなくても心に抱き続ける大切な人たちと、向かう先には映画館を一緒に守り続けてきた仲間たちがいる。

 

 バウスシアターは終わりの日を迎えたが、でも、街は変化し続け、「BAUS」も続いていることを映画を観た私たちはわかっている。そして、同じように、いろいろな街や人のこころにも大切な何かは消えることなくちゃんとあることも。

 

 余談

  昭和に入ると、吉祥寺、三鷹周辺の人口は急増する。鉄道が敷設されたこと、関東大震災で被災した人が移住してきたなどが主な理由だが、東京市内に比べると自然豊かで空気がきれいで、土地も安かった。あるいは、不況が時代を圧迫し、東京の中心部では思想統制などがきびしくなっており、特に文士などは、そうした場所から逃げるように移り住むケースもあったようだ。山本有三がそうだ。太宰治の場合はそれとはちょっと違うが、昭和14年、井の頭公園の裏手(住所でいうと三鷹村下連雀)に引っ越してきた。偶然にも、本田ハジメ・サネオ兄弟と同じ、青森出身である。また、「ちいさい秋みつけた」「夏の思い出」の作曲家として知られる中田喜直もこのあたりに住んでいた。「ちいさい秋みつけた」のメロディは井の頭公園を散歩している時に生まれたそうだ。園内にはピアノの形をした歌碑もある。

 鉄道の駅ができたなどの理由だけでは、映画や音楽、文学といった文化を発信するような街にはならなかっただろう。この街には何か、人々を引き寄せる魅力があったわけで、それが「井の頭公園」という「場」だった気もする。ハジメ・サネオ兄弟が吉祥寺に流れ着いたのも、案外、そうした見えない力のようなものに導かれたのかもしれない。

 

映画『BAUS  映画から船出した映画館』のCASTや上映館など詳しい情報は公式サイトでお確かめください。


●関連書籍

『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』ラスト・バウス実行委員会編 株式会社boid 2014年5月

『吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記』本田拓夫著 文藝春秋企画編集部 2018年12月



大泉洋子

フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区・目黒区のタウン誌、雑誌「アニメージュ」のライター、「特命リサーチ200X」「知ってるつもり?!」などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』『樹木図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』など。編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。

 



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