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2024年2月3日土曜日

2023年の収穫

 大谷翔平のLos Angeles Dodgers移籍報道は年末のメディアを席巻し、日米の野球ファンを驚きと興奮に包んでいる。Dodger StadiumはWilson兄弟実家があったHawthorneから車で数十分の距離に位置する、実父Murryも野球観戦にあしげく通ったのだろうか?
 MLBファンなら周知の事実であるが、L.A Dodgersは戦後1950年代中葉に東海岸から移転した事実がある。New YorkはBrooklynに本拠地を置いていたBrooklyn Dodgersは、長い間地元の誇りとして栄光を築いてきたが、1950年代半ばになると、球団の経済的な課題や古くなった球場の問題が表面化する。オーナーのWalter O'Malleyは、これらの課題に立ち向かうため、新天地への移転を決断せざるを得ない状況に直面した。1957年、O'Malleyは球団をLos Angelesに移転させると発表する。1955年に地元New Yorkでワールドシリーズの栄冠に輝いたにもかかわらず、当時のスポーツ界において移転は異例の出来事であり、ファンやメディア、地元ニューヨーカーたちに衝撃を与え、地元のファンは喪失感や悲しみに包まれ、この出来事は「Brooklynの悲劇」として知られている。
移転により、球団は急速にファンを魅了し、地元の支持を集めていく。DodgersはLos  Angelesに本拠地を置いたことで、西海岸の熱狂的な野球ファンとの結びつきを深め、MLBの規模拡大の一翼を担うまでになる。1962年スタジアム開場後、ドジャースは数々の成功を収め、遂に1963年にはワールドシリーズで制覇を果たした。球団はLos Angelesの象徴として、多くの名将や名選手が在籍し、大谷の移籍により栄光ある瞬間をこれからも築くことだろう。

1962年4月10日開場記念バッジ、我らのThe Beach Boysといえば、
Capitolデビューはまだまだ先で
デモテープ鋭意作成中の浪浪の身であった

 Dodgers移転発表時はBrianにとっては10代後半で、野球やフットボールに明け暮れた年頃から次第に音楽へ軸を移しつつあった時期に重なる。The Beach Boysの立身出世物語とDodgersの発展とは奇しくも一致する。実際には発展していくLos Angeles近郊の都市労働者増加と消費の拡大(Wilson家 Love家の家運と一致する)を元にしたO'Malleyの冷徹な計算が背景にある。Dodgersの成功とともにO'Malleyは西海岸の不動産投資で成功する。ならばBrianもDodgersの大ファンでは?と勘ぐってしまうが、ファンを公言しているコメントはない。唯一確認できるのが自伝『I am Brian Wilson』( 2016)でのコメントだ。意外だったのが「ホントはねDodgersファンじゃないんだよね、僕はYankeesファン」とあるではないか、Brianは野球の腕に自信があったようで特にセンターを得意とした。Mickey Mantleら名選手を擁するYankeesに憧れがあったようだ。

本書中第二章で野球話を披露している

 Mikeのコメントも確認できないが、DodgersとThe Beach Boysは西海岸の大きなシンボル同士!
 経営者としてはこのブランディングを利用しない手はない!と考えたのだろう。ソロ作『Looking back with Love』(1981)のジャケットに佇むのはDodgersキャップのMikeがそこにいる。


 さらに2012年とはDodger Stadium開業50周年であった。同時にThe Beach BoysのCapitolデビュー50周年でもある、そこで開業とデビュー記念イベントをジョイントで開催しDodgersの歴史とThe Beach Boysの歴史を結びつけることにちゃっかり成功している。

Brian2008年のイベントでの勇姿

2012年Dodger Stadiumにて

 かと思えば、1980年代にSan Francisco Giantsの試合にも出演しライブを開催している。San Francisco GiantsといえばDodgersとライバル関係にあり、我が邦の巨人阪神の関係に近いものがある。実は球団の東海岸から西海岸への移転はGiantsの方が先鞭をつけている、いくらなんでも節操無さすぎでは.....と思ってしまうが、90年代以降はDodgersに寄せていることが多い。

こちらはGiantsのユニフォームで登場

San Francisco Giantsで活躍した選手で同姓同名のBrian Wilsonがいる、長い黒髭がトレードマークで名前のみならず風貌が70年代のThe Beach Boysにいても全く違和感がなくファンからも親しまれた。ちなみに50周年ツアーの際ゲストで参加しピアノまで披露している。

Giants時代のBrian Wilson


閑話休題

極私的蒐集譚となるが、ついにBrian Wilson関連盤のうち長年探し求めていた盤に巡り会うことができた。
Dino, Desi & Billy 「Lady Love」(Reprise 0965 1970年)

Brian Wilson関連盤は必ず正規盤とプロモ盤両方を蒐集することとしていたが、本盤のみ長年正規盤が入手できずに歳月は流れ三十余年。プロモ盤は容易に入手できたが正規盤にはなかなお目にかかる機会がない、つまりは売れなかったということか?それからというもの遭遇してもプロモ盤のみの歳月が続き、昨年(2023年)にあっけなく発見することができた。流れ流れて何故かデンマークの業者から格安で入手できた、円安と原油高で本体価格より送料の方が遥かに高いのは仕方がない。
往時、音楽愛好者たちは、デジタルの潮流が押し寄せる前に、アナログのレコードに魅了され、その手に入れるために歩んだ道には数々の困難がひそんでいた。今日の利便性とは異なり、当時のレコード収集は真の冒険であったと言ってもいいだろう。デジタルの世界が未だ顕れぬ時代、音楽情報は乏しく、音楽雑誌やラジオ、友人たちの口コミが唯一の手段であった。新しいリリースや稀少なアルバムについての情報を得るには、膨大な時間と労力を費やす必要があった。当時はオンライン購入がなく、レコード店が唯一の頼みの綱だった。しかし、未知のアーティストの作品を見つけることは極めて難しく、しばしば遠方へ足を運ぶ必要があった。当時のコミュニケーション手段は、手紙や電話が主要なものであり、友人や仲間との交流は限られていた。他のレコード収集者と情報を共有し、アイテムのトレードや販売を行うにも、手書きの手紙や電話で行うことが一般的であった。これらの手間と時間をかけたコミュニケーションが、収集者同士の強固な絆を生み出した。情報の遅れや不確実性が潜む中で結ばれる友情は、現代の瞬時のコミュニケーションにはない特別なものであった。
筆者も米国に存在していたサーチサービス業者に依頼するもことごとく梨の礫、さらには米国の雑誌にトレードやウォントリストを数度掲載するも全くお門違いの問い合わせがほとんどであった。中には大コレクターにつながる妙縁もあり収穫がなかった訳でもなかったが。余談だが
ようやくコレクションに加わった正規盤(右)

一番多かったのは
トレードの依頼だった、いわゆる物々交換だ。ゲームソフト数本と貴重な盤と交換することもあった、時代によっては当時出たてのポケモンカード数十枚とトレードしたこともある。アイテムの詳細情報を得ることも極めて難しかった。写真や詳細な説明が容易に手に入らないため、手に入れたアイテムの実物を確認することは難しく、信頼性を確保することは至難の業であった。特に遠方のレコードショップや収集家から購入する場合、自身の判断力や信頼性のある情報の入手が求められる。それが難航することは少なくなかったが、その過程もまた、レコード収集の一環として楽しいといえば楽しい。ネット時代は検索が中心となる、Brian Wilson memorabiliaなどで検索すると幾百のSan Francisco GiantsのBrianの髭面が延々と表示されたのはいい思い出だ。
これらの試練を経て手に入れたレコードは単なる音楽のメディア以上の価値を持ち、30年以上もの歳月をかけて追い求めたレコードが手に入った瞬間、その感慨深さは言葉に尽くし難い。

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