2020年3月28日土曜日

Once upon a time in Hollywood


 2019年公開の映画『Once upon a time in Hollywood』は批評家からの評価も高く、 日本国内興行成績は『Kill Bill』に次ぐ2位を記録した。さらに第92回アカデミー賞では10部門ノミネートの上、出演者Brad Pittは助演男優賞を受賞するという栄誉 まで得た。

 本作は1969年8月9日をピークにそれまでの半年間を架空の人物と実在の人物が 混在するストーリーとなっており、ラストシーンでは史実であるCharles Manson とその配下達(以下Family)が引き起こした連続殺人事件の一つRoman Polanski 邸でのSharon Tate殺人事件に向けた監督Quentin TarantinoからのHollywood流リベ ンジといえよう。犯罪サスペンスものとして一流の内容であるのは確かであるものの 今回は弊誌読者流視点の楽しみ方を紹介させていただく。
 前回拙稿でも述べさせていただいたが、The Beach BoysメンバーDennis Wilsonと Charles Mansonとの出会い・親交は1969年にあっても続いていた。そのあたりの 消息を匂わせるセリフが本作でも出てくるのだ。
 Charles MansonがPolanski邸に侵入し『Dennsi Wilsonの知り合いだがTerryはいるか?』 とPolanski邸の人物に尋ねるシーンがある。 TerryとはTerry Melcher、山下達郎もオマージュを捧げたBruce&Terryのメンバーに してByrdsなどのプロデューサー。このシーンで流れるのはPaul Revere & the Raiders の『Hungry』プロデューサーはもちろんTerry Melcher、作曲はBrry Man/Cynthia Weil 思わずニヤリとせずにはいられないシーンである。
 このシーンは実際の出来事に基づいており、検察の記録からわかるのはTery Melcher は現地(以下Cielo Drive)から転居済みであったので、既に不在であった。 Cielo Driveでは女優のCandice Bergenと同棲しており、下記の図のゲストハウスに 住むオーナーから本宅を借りて住んでいた。


Terry MelcherとCandise Bergen

Cielo Driveが空室予定なのを聞いて Roman PolanskiとSharon Tateが入居契約を結んだのが1969年2月12日、入居日が 2月15日であった。
 また、Charles MansonがPolanski邸に侵入した際(3月23日)の対応した相手が、 史実ではSharon Tateのお抱え写真家のShahroh Hatamiであった。映画では元交際 相手のJay Sebringであり、Jayは当時の大人気ヘアスタイリストで多くの有名人を 顧客に持っていた。


1963年4月5日のThe Beach Boysこの時もJayのスタイリング

 なお、The Beach Boysもデビュー以来お世話になっており、Brianも一時期Jayの店舗 を行きつけにしていた。
 また、guest houseに住んでいたオーナー宅へ夜間に再度侵入したとの証言も残っている。
 本作ではアウトテイクになったが、別の家でTerryを探し求めるMansonのシーンがある。 そこでは『実はThe Beach Boysの20/20に入ってる曲を提供している』などとMansonに 言わせているのだ!正式テイクに採用されていればファンも身を乗り出しているだろう。
 また本作の主役の一人、Leonaldo DiCaprio演ずる俳優人生の岐路に立つハリウッド俳優 Rick Daltonの邸宅はPolanski邸の正門の向かって右側に位置しており、史実とは違う設定。
 当然架空のキャラクターの家なので実在しない場所ではあるが、作品のところどこに虚実混ざっているところが本作の魅力だ。


1967年には閉鎖されていたが何故か映画の中では1969年に復活

 同様のことが撮影セットでもあり、1969年には閉店していたナイトクラブPandora's Box が再現されている。同所は結成当時のThe Beach Boysがよく出演していた場所であり、Brianの最初の妻Marilynとの出会いの場でもあった。
 その他のキャスティングとして若き日のSteve McQueenや女優である一方girl singerとして 弊誌ではおなじみConnie Stevens、またサウンドトラックでも使われている"Mama Cass" Elliot に Michelle PhillipsのThe Mamas and The Papas勢。制作にはColumbiaが関わってい たので、Screen-GemsやOdeつながりでLou Adler役もいるかと思ったが残念ながら出演なし。

 2019年はMansonとFamilyが起こした連続殺人事件からちょうど50年、米国内では事件 発生時から熱烈に追いかけるウォッチャーがおり、その当時を回顧する著作や企画が 多く行われた。


Tom O'Neillによる20年間にわたる労作 

 それらの中でも弊誌向けの内容となっているのが本作である。 そもそもManson事件は法廷では殺人罪による有罪判決済みであるが、本作の筆者は 事件の再整理をしていくうちに公判記録と警察や検察の尋問記録と様々な証言との 食い違いを発見していく。筆者は真摯にこれらの現実に向き合えば合うほどタイトルの とおりChaos=混沌に包まれていく。と、いう内容であり大きな陰謀や超自然的な存在 を取り出すような奇抜な仕掛けもない。


本国ではベストセラーかつManson研究の入門書

 Manson事件を研究する上で必須といえば、Manson事件では検察官を務めたVincent Bugliosi によるHelter Skelterである。Manson事件を総括する目的で書かれた本であり、事件の指揮をとった人物による公判記録の解説本と言っていい内容となっている。この公式見解の中の矛盾をTomはVincentへのインタビューを行ったり 愚直に食らいついていく。
 Terry Melcherについては公判ではほとんで証言がなく裁判の中では、Mansonとは面識はあったものの向こうから会いにくるのみで数度会った後、事件前には 交流もフェード・アウトしたことになっていた。ところが、警察などの公式記録を調べると なんと犯行前後に渡って会ってレコーディングなどに立ち会っていた、と言う証言まで出てくるではないか、さらにはVincent自身がTerryから同様の証言を得ていることも判明する。他のManson本と違い本作の面白いところはTerry Melcherへ筆者が突撃インタビューを行う所だ。筆者をなだめすかすかと思えば、逆上したり生々しい生前のTerry Melcherの様子が窺われるのは本作のみだ。同時にDennis Wilsonの共作者として有名なGregg Jakobson("Celebrate the News", "Forever"が有名)の果たす立場の大きさが今まで以上であったことが、行動範囲の大きさから分かる。
 Greggは孤児であったが養家がLos Angelesになったので地元の学校では多くの有名人の子弟と交流し、次第にHollywoodで芸能関係の職を得ることとなった、スタントマンやタレントスカウトを経てBruce & Terryとも仕事をするようになった。The Beach Boysがハワイ公演の際、前座がBruce & Terryだったので彼らを通して Dennisとは意気投合し、それ以来親交を深めてきた。

 GreggはMansonの裁判でも積極的に参加し多くの証言を行っており、当時の内幕の一部をLance Fairweatherの変名でRolling Stone誌へ寄稿している。Greggの一連の行動は実はDennisや Terryの代理と思われる行動もあり、実際そのように行動している記録もあるため謎はまだまだありそうだ。
 現在でもThe Beach Boysサイドから積極的にMansonに関するコメントは殆どない。
 1968年リリースのリングルB面Never Learn Not To LoveはManson作であったことは今では明らか であるが、1971年のRolling Stone誌のインタビューで実はManson作であったことと、作曲者の クレジットは行わない代償として10万ドル相当の物をMansonに渡したことをDennisが答えているのが初出である。その後原曲Cease To ExistからNever Learn Not To Loveへと改作されたことに激怒したMansonはDennisiと親交を断ったことが多くの評伝類で記されているがDennis本人は明言していない。



 1971年Rolling Stone誌"Beach Boys: A California Saga, Part II"で DennisがManson作品『Cease To Exist』を元にした旨認めた 過去の取り上げ方を手元の資料で確認してみると 。

●Friends/20/20(CDP 7 93697 2)米国盤 
 1990年にCDで未発表曲を加えた過去のリマスター盤が好評を博した ここにおいても、Never Learn Not To Loveについての解説は原曲はCease To Existとだけ言及し Mansonの記述は一切ない、ライナーの最後にあるBrianのコメントも一切ない。 。

●The Beach Boys/David Leaf (1985edition) 
 The Beach Boys伝の中でも基礎的文献になるであろう名著、David Leaf 自身も彼らからの厚い信頼を得ている。
 なんとわざわざCharles Mansonの章(2ページ)を設けている、基本的にVincentの著書からの公判記録であり何故かNever Learn Not To Love改作のくだりがすっぽり抜けている。

●Heroes And Villains True story of the Beach Boys/Stevens Gaines
 1988年に邦訳でも上下2巻で出版され、当時としてはスキャンダラスなバンドヒストリーを 描いたものとして話題となった。
 レコードコレクター誌でも”『ビーチ・ボーイズ リアル・ストーリー』が生み出した 新たな誤解/山下達郎”という記事が出るほどであった。
 オリジナルのペーパーバック版では19ページにわたりVincentの著作プラス独自取材から得た Mansonとの関わり、Never Learn Not To Love改作時のMansonの怒りも記述している。

●The Nearest Faraway Place/Timothy White
 邦訳でも出版され、バンドヒストリーというよりは生活文化誌を徹底した取材と解説で彩る名著。
 アカデミックな分、Mansonについては1ページ半の記述ありNever Learn Not To Love改作時のMansonの怒りについては記述なし。

 ●The Real Beach Boy/John Stebbins
 バンドというよりDennis Wilson伝なのでMansonとの関わりは避けられず、独自取材による逸話も 多い。Mansonについては11ページの記述ありNever Learn Not To Love改作時のMansonの怒りについては記述なし。

 現在でもManson案件は上記の様な取り扱いであり、音楽的な見地からのアプローチはないかと 思っていた矢先、2019年にDVDのリリースがあった。


Manson Music From An Unsound Mind(2019 DVD) 

 Mansonの事件前からの音楽面での軌跡を辿るという企画で見ごたえのある内容となっている。以前にもドキュメンタリー映画で『Cease To Exist』(2007)があったが過去映像の編集 が大半であり、DennisやTerryに見捨てられたMansonが両者に怨恨を持ち犯行に至るストーリー となっている。
 本作はインタビューも豊富でGregg Jakobson, Stephen Desper, Phil Kaufman, Ed Roach, Ernest Knapp, Jon Stebbins, Dominic PrioreとThe Beach Boys関連の関係者総動員でファンも楽しめる内容となっている。
 本作で述べている犯行動機が他と少し違い、例の終末思想というより、ヒッピー・コミューン指導者の裏の顔として行っていたが 薬物取引でのいざこざから起きた殺人を隠蔽し警察捜査撹乱のためBlack Pantherの仕業に見せかけた、というものだ。また、音楽業界へのキャリアの可能性を最後に断ち切ったのはTerryと印象付けているが、Mike Love界隈からの同調圧力か?
 最後に本作及び手元の資料から分かるMansonのセッションを記録しておく。


 人生の大半を矯正施設や牢獄で過ごしたMansonであったが、幼少より歌声に優れ、またギターを戦前のギャング団の大物Alvin Karpisから教わり、遂には年に数十曲の自作曲も持っていた。獄中生活中にThe Beatlesの米国上陸にも影響された、その間独学でScientologyや 洗脳技術を身につけ、1967年西海岸へ移送された。
 Frankie Laineばりの歌声とギターの腕前を評価したのが、当時薬物所持で入獄中だった Phil Kauffman、後にGram Parsons死去時彼の遺体を無断で持ち出し火葬した奇行で有名になるが、当時はHollywoood界隈で端役俳優やRolling Stonesの運転手を勤めていた(どこか 映画Once Upon A Time In Hollywoodに重なるところが面白い。)
 両者は釈放後連絡を取り合い、既にFamilyを率いつつあったMansonに目をつけたPhilは「イエス・キリストみたいなイかれた連中がいる」と、Universalへ映画と音楽両方で売り込んだ。その後UniのGary Strombergよりレコーディングのオファーが届く。セッションは3時間以上行われるが、 音楽及び映画についての話は進展しなかった。マスターテープは現存しており、上記ドキュメンタリー映画『Cease To Exist』の中でBrian邸での録音と称されて使われている。
 その後、Familyが増え根城をMalibuにある廃屋Spiral StarecaseへMansonは移した、 短期間であったがバンドThe Milky Wayを結成しライブは短期間だけで解散する。
 その当時 Mansonは作家Robert A. Heinleinの作品を耽読していた、この事は後に終末思想へと影響を 与えたと言われている。
 ちなみにHeinleinの『夏への扉』山下達郎にも影響を与えており インスパイアされた同名の曲がアルバム『Ride On Time』に収録されている。



 1968年8月頃(殺人事件のちょうど1年前)にGold StarまたはVan Nuys近郊のスタジオで セッションが行われる、後に出るMansonのアルバムLIEのマスターテープとも言われている。ちなみにVan NuysはOnce Upon A Time In Hollywoodの主役の一人Cliff Boothが暮らす トレーラーハウスの近くにあるドライブインシアターがある場所だ。
 同時期にBrian邸でのセッションが行われた、これはDennisがMansonを自身の Brother Recordからデビューさせようと決めたので、デモテープ作成の必要があったためだ。Steven Desperの証言では制作にはTerry Melcherも関わっていると話しており、目的は不明である。レコーディングはMansonとハウスエンジニアのSteven Desperとの二者で行われた。レコーディング中はMansonとFamilyの奇行に辟易し、特にBrianの妻Marilynは彼らの不潔さには激怒していたとのこと。当時のテープは事件後も破棄されていない模様。
 さらに1968年末から1969年初頭にDennisの家でTerry MelcherはMansonとデモを試聴し、Cielo Driveへ移動後Columbiaとの契約の可能性を探りレコーディングの話をしていた。 その後Gregg JakobsonからMansonの意を受けたのか?
 Manson一味が当時暮らしていた Spahn Ranch(映画の中でも再現されており、盲目のオーナーまで登場 映画村のような場所)へ来訪を促される。それを受けてTerry Melcherはwrecking crewの一員でもあるギタリストMike Deasyを同道させた、彼は野外録音システムを持っていたからだ。現地では愛と平和のコミューンが待っているかと思われたが、実際は暴力と洗脳が支配するデストピアであることが間もなく分かり幾つかの演奏を収録した後退去した。その後もGreggを通じで何度もオーディションの申し出がMansonよりあったが、Terryは固辞し続けた。
 また同時期目的は不明であるがLos AngelesのWilder Brothers Studioでレコーディンが行われている、このことは公判記録にもあり、あくまでMansonとGreggとの間で行ったことになっている。Wilder Brothers Studioは名前のとおりWarner,Walter,Georgeの三兄弟で戦前/ 戦後をコーラスグループで活躍し、その後スタジオ業も営んでいた。なお、Wilder BrothersがLes Brown楽団にいた当時、メンバーの一人Georgeはリードシンガーと結婚する 。 その名はDoris Day Terryの実母である。
 Greggの行動を見ると、どうやらTerryやDennisの意を受けてMansonとの間に立って重要な役割を果たしていたようだが、現在でもGreggは当時の自身の状況を話してくれているが The Beach Boys周辺には悪影響が及ばないようなスタンスを続けている。
 近年Steven Desperがネット上で明かした事実によれば、上記Brian邸でのセッションは 『心して聞いていただきたい、(あのセッションは)"event"の起きた数週間前だった』 とのことである。"event"がManson一味の殺人事件であるならば、実際は1年後の1969年7月頃になってしまう、そうなれば今までのTerryやDennisの行動が全く違うものになる。

 前回の拙稿でも述べたとおり、Dennisは1969年中葉までマスメディアにはMansonとの親し身をアピールしている、Stevenの発言は逆にこれを補完することになってしまうのだ。
 今後もThe Beach Boysサイドはこの件は明確なコメントもなく避け続けるであろう。
 1969年4月9日人気テレビ番組The Mike Douglas ShowにThe Beach Boysは出演し、当時リリースしたばかりのシングル『I Can Hear Music』に続き、Mansonの曲『Cease To Exist』を下敷きにした、『Never Learn Not To Love』を演奏した。
 『I Can Hear Music』のB面は 『All I Want To Do』である、あえて全米にこの曲を披露したDennisの内面はいかに?
 Mansonへの決別だったのか? それともMansonエバンゲリストとして全米に向けた第一声であったのか?


Mike Douglas Show出演時の画像

Manson逮捕後リリースされたアルバム『LIE』より


The Beach Boysと同郷のバンドRedd Crossのカバー

 (text by MaskedFlopper)

2020年3月22日日曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・バンド編 PYG期)

  1968年にピークを迎えていたGSブームは、1969年3月ザ・タイガースのトッポ脱退、更に追い打ちをかけるように発生した5月のオックス赤松愛の失踪・脱退で、彼らが在籍していたバンドだけでなくGSブームそのものが終焉に向かうきっかけとなった。 そして1970年にはGSの存在は完全に過去のものとなり、ブームを牽引していた多くのグループが解散の道を選んでいる。少し余談になるが、この連鎖で引退した中には才能ある人材も多々あり、最も惜しまれた筆頭はザ・テンプターズの松崎由治といえる。この見解については故鈴木ヒロミツ(元モップス)も公の場で発言している。 

  そんななか1960年代末に、台頭していたニュー・ロックのバンドを結成する計画を目論みが発生していた。そのメンバーはザ・テンプターズの萩原健一(以下、ショーケン)と大口広司、ザ・スパイダースの井上堯之と大野克夫で、そこにザ・タイガースのサリーが加わった。そして沢田がこの「構想」に呼びかけられ、ザ・タイガース解散直後に井上堯之をリーダーに、本格的ロック・バンドを目指す「PYG(ピッグ)」が結成されることになった。 
  そんな沢田をソロにと目論んでいたナベプロも彼を会社に残すため、新バンドを同社に所属させるという条件でこれを認め、新バンドやメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」を設立している。

   当時、欧米ではクリームを解散したエリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーが、元トラフィックのステーヴィー・ウィンウッドと結成したブラインド・フェイスがスーパー・グループと呼ばれていた。そんなこともあって、GS界のトップスターたちで結成された彼等は、日本のスーパー・グループとして大きな話題となって取り上げられた。なおこのグループ名は、同じナベプロ所属だったアラン・メルリ(ジャズ・シンガー、ヘレン・メルリの実子、1979年<I Love Rock' N Roll/ジョーン・ジェット>の作者)のアイディアで「豚のように蔑まれても生きてゆく」を元に、本来の「PIG」を「PYG」にもじったものだった。 

  このように周囲の期待を大きく集めたPYGのデビュー・コンサートは、1971年3月20日に京大西部講堂で行われた第1回 MOJO WEST になった。しかしこのフェスの共演が当時から伝説化していた村八分であったことも重なり、会場に集結した硬派なロック・ファンから、“GS残党の寄せ集めバンド”と反発され聴衆から猛烈な罵声を浴び、その場は大混乱となっている。そんな騒動は主催者側の内田裕也が聴衆を説得し、収拾する結末という散々なものだった。
  さらに4月に開催された日比谷野外音楽堂の「日比谷ロック・フェスティバル」に出演した。ところがここでも会場に詰めかけたロック・ファンから関西地区と同様に嵐のような「帰れ!」コールを浴びせられる。そんななかで始まったPYGの演奏だったが、その最中にステージに物が投げられるなどの大騒ぎが発生している。また客席側でも沢田とショーケンのファン同士のいざこざが発生しており、物々しい状態になった。 

  こうしてPYGの船出はまさに暗中模索ともいえるとなった。そして4月10日にファースト・シングル<花・太陽・雨>(30位:8万枚)が発売され、8月10日にはファースト・アルバム『PYG!』も発売された。なおこのアルバム初回盤は、ジャケットに描かれた豚の鼻を押すと泣き声が出る特殊仕様で話題を呼び、また沢田たちを支える熱狂的ファンの絶大な支持もあって、チャートの10位(2.4万枚)を記録している。


  ただこの<戻れない道>で幕を開けるアルバムは、ヴォーカルを際立たせるためか楽器の録音レベルが抑えられ、特にドラムスに至っては極端に低く(この時期のPolydor特有)、そのせいかバンド色が薄く感じられた。それは、この時期の海外で主流となっていた(敏腕プロデューサー、フェリックス・パパラルディがクリームで試みた)ドラムスの演奏パートを中央に据えたライヴの臨場感溢れるものとは逆行したものだった(シングルではやや解消)。
  また7月には今も沢田によって演奏される機会の多いセカンド・シングル<自由に歩いて愛して>(24位:9.3万枚)をリリース。ちなみにこの曲はアルバムの<ラヴ・オブ・ピース・アンド・ホープ>に日本語詞をつけたものだった。 そして11月10日には、8月16日の田園コロシアムで開催したライヴ盤『FREE with PYG』が発売となっている。そこには当時のロック・シーンを象徴するナンバーが数多く収録されているが、タイガース時代のレパートリーも見受けられるなど、目指す方向性が定まっていないようにもとれた。ただここでの収録模様はスタジオ作とは違い、バンドとしてのグルーヴ感がしっかり録音され彼らの熱気が伝わってくるものだった。 

  しかしこのライヴがリリースされる直前の同年9月、ドラムスが大口広司から原田祐臣(元ミッキー・カーチス&サムライ)にメンバー・チェンジしている。その新体制での11月1日には「萩原健一+PYG」のクレジットでサード・シングル<もどらない日々>(91位:0.5万枚)がリリースされた。 
  そんな中、同日には沢田が初のソロ・シングル<君をのせて>を発表する。今では飛鳥のカヴァーでも知られる名曲だったが23位(10万枚)止りだった。さらに12月にはセカンド・アルバム『JULIE IN LONDON』が発売となり、まるでバンドから離脱するかのような活動に至っている。 

   翌1972年にはショーケンが主役扱いのテレビ・ドラマ『太陽にほえろ!』が大ヒットし、彼の俳優としての評価が徐々に高まる。この時期にはショーケンが参加できるときはPYGとして、参加できないときには「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになっている。 
  また、のちに井上堯之バンドの代表曲と言えるほど有名になった『太陽にほえろ!メインテーマ』や同ドラマのサウンド・トラックも、レコーディング時は「PYG」としてレコーディングされ、マスターテープのラベルや録音日誌には「PYG」と明記されているという。 その後沢田は本格的にソロ歌手へシフト、ショーケンも同年7月にソロで<ブルージンの子守唄>(92位:0.5万枚)をリリースする傍ら俳優へ、そして残りのメンバーはそのまま「井上堯之バンド」へ移行していった。 

  そんなPYGは同年11月の第5作シングル<初めての涙>以降、一度もPYG名義でのレコード発売はない。ライヴも同年夏の「日劇ウエスタン・カーニヴァル」を最後にPYGとしての主だった活動がなく(12月には「沢田研二と井上堯之グループ」で出演)、正式に解散が発表されたわけではないが、結果論的に「消滅」あるいは「解散」となったものとされている。

  沢田自身、1975年頃までは、PYGのオリジナル曲やレパートリーを積極的にコンサートに取り上げ、雑誌インタビュー記事などで彼が井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」と表現し「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見されるこの。ことから、メンバー内の意識は1973年以降もしばらくPYGのままであったと推測される
 ところが1974年5月27日「夜のヒットスタジオ」で沢田とショーケンのジョイントによる「PYG」のパフォーマンスが披露されるというサプライズが発生した。このようにPYGは翌1975年にオリジナル・メンバーのサリーが脱退し俳優に転向する頃までは、ショーケンが参加できればPYGとしての活動も継続していく意向があったようにも思える。

 その後、PYGのメンバーが公の場で顔を合わせるのは1977年になる。そこは「第16回日本レコード大賞」にて沢田が<勝手にしやがれ>で大賞を授賞式した晴れ舞台だった。その壇上にはショーケン、それにピーを除く元ザ・タイガースのメンバーが並び、そしてこの曲の演奏を担当したのは作曲者の大野克夫が在籍する井上堯之バンドと、ほぼPYGのメンバーが勢揃いすることになった。
  なお翌1978年夏に行われたショーケンのコンサートには沢田が、翌日に開催された沢田のナゴヤ球場ライヴにショーケンが飛び入りして、そこでは<自由に歩いて愛して>を歌っている。 

 ここまでが、沢田のバンド時代の軌跡を追ったものだ。この時代におけるシングル売上げ(ザ・タイガース、PYG)は約426万枚で、当時としてはトップ・クラスだったというのは言うまでもない。そんな後の大活躍については次回以降の「ソロ編」でふれることにする。

 ここからは補足となるが、1981年1月に有楽町日劇取り壊しを前に、内田裕也が中心となって「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」が開催された。そこには往年の人気GSが再結成して参加し、その中にはピーを除くザ・タイガースの姿もあった。
  そしてこれをきっかけに1981年11月に解散時のメンバーにトッポが参加した「同窓会」と銘打った再結成(~1983年)に繋がっている。なおこの時期に集結したのは、トッポを盛り立てるという目的もあったといわれている。
 そこでは単にライヴ活動をするだけでなく、オリジナル・アルバム『THE TIGERS 1982』を発表している。そして久々の新曲<10年ロマンス>(20位:16.4万枚)<色つきの女でいてくれよ>(4位:42.7万枚)をヒットさせ、改めて根強い人気を証明している。



 
  またさらに30年を経た2013年12月3日には、ファン待望となる44年ぶりにピーとトッポが揃った1969年以来のオリジナル・メンバーによる復活ライヴが日本武道館で実現。その12月27日の東京ドーム公演には、病を押してシローがゲスト登場し、これにより結成以来初めて6人のメンバーが公の場で一堂に会することとなり、歴代メンバーが全員勢ぞろいしたオリジナル・メンバーでの「ザ・タイガース復活コンサート」が開催されている。
 このような催しに今なおファンが詰めかけるのは、ザ・タイガースは単に懐かしのGSというだけでなく、今も燦然と輝く永遠のアイドル・グループであり、沢田は「星の王子様ジュリー」として輝きを失っていないことを証明したといえるだろう。 

 ◎PYG 『Free With PYG』 1971年11月10日 /  Polydor /  MP-9096/1 国内チャート 24位 / 0.8万枚 
2019年7月24日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-7597 ) 
①Black Night (ディープ・パープル:1970)、②Walking My Shadow (フリー:1969)、③Every Mother’s Sun(トラフィック:1970)、④Country Comfort(エルトン・ジョン:1971/ロッド・スチュワート:1971)、⑤Bitch(ストーンズ:1971)、⑥ Speed King(ディープ・パープル:1970)、⑦Cowboy(ランディ・ニューマン:1971/ニルソン:1971/スリー・ドック・ナイト:1971)、⑧Love In Vain(ロバート・ジョンソン:1937/ストーンズ:1970)、⑨To Love Somebody、⑩Traveling In The Dark(マウンテン:1971)、⑪ 淋しさをわかりかけた時、⑫何もない部屋、⑬悪魔(Sympathy For The Devil )(ストーンズ:1968/ブラッド、スエット&ティアーズ:1969)、⑭I Put a Spell on You、⑮自由に歩いて愛して、⑯ハイヤー(I Want To Take You Higher)(スライ&ザ・ファミリー・ストーン:1969)、⑰ゴナ・リーヴ・ユー(Babe, I'm Gonna Leave You) (ジョーン・バエズ:1962/レッド・ツェッペリン:1968)、18. 祈る 

 約1年前、タイガース田園コロシアム公演が収録された同じ場所で、8月16日(月)に開催されたPYGのライヴ・アルバムだ。タイガースの『サウンズ・イン・コロシアム』と聴き較べると、プレイ・スタイルがより当時の音楽シーンに敏感に反応していることがよくわかる。 デビュー時は、その結成の成り立ちに罵倒されることが多く、満足な演奏をさせてもらえなかったようだが、このコンサートは好意的な観客ばかりのようで、これまでになく気持ちの良さそうな雰囲気が伝わってくる。 
 選りすぐりのメンバーがそろっただけあって、バンド自体の力量は聞きごたえ十分のプレイに満ちている。また演奏だけでなく、②③④⑤⑦⑧⑰といったロック・ファンを唸らせるような選曲をしているところでも、彼らの本気度が伝わってくる。特に⑰でのジュリーはロバート・プラントを彷彿させる迫力が伝わってくる。 欲を言わせてもらうなら、⑮のようなロックっぽいオリジナルがもう数曲あれば、洋楽カヴァーとのバランスがとれ、さらに充実した仕上がりになった感もする。   

参考1:カヴァー収録曲について
 ①Black Night 
 1970年、ヴォーカルにイアン・ギランを擁した第二期ディープ・パープル(以下、パープル)のファースト・シングル。この曲は当時「ロックは絶対にヒットしない」と言われていた名古屋で火が付き全国ヒットに繋がったと言われている。これをきっかけに彼らの1972年来日公演は実現した。そしてこの公演を収録したライヴ盤『In Japan』が日本のみ発売となったのはご存じの通りだ。なおこのアルバム初回盤には、特典として公演のネガ・フィルムがついていた。その翌年には『Made In Japan』のタイトルで英米リリースの運びとなり、世界的な名声を手中に収めることになった。 
②Walking My Shadow 
 1969年3月にリリースされたフリーのデビュー作『Tons of Sobs』収録曲。このアルバムは1960年代後期のブリティッシュ・ブルースの影響が色濃く反映され、本国では不発で、米国でも197位程度の反応しか得られなかった。 
③Every Mother’s Sun 
 1970年4月に発表されたトラフィック第4作目アルバム『John Barleycorn Must Die』収録曲。このアルバムはブラインド・フェイス加入のためバンドを離れていたステーヴィー・ウィンウッドがソロ用に制作を始めたものだが、結果として1969年の『Last Exit』以来となるトラフィックの新作に発展したものだった。当時、バンドの再結成作として大いに話題となり、全米5位全英11位を記録し、バンド史上最も成功したものとなった。この曲の作者はスティーヴィーと長年の相棒であるドラムス担当のジム・キャパルディ。
 ④ Country Comfort 
 邦題:故郷は心の慰め。1970年に<僕の歌は君の歌(Your Song)>で、頭角を現したエルトン・ジョンが、1970年に発表したサード・アルバム『Tumbleweed Connection(エルトン・ジョン3)』の収録曲。同年には、ロッド・スチュワートがセカンド・アルバム『Gasoline Alley』でカヴァーしている。 
⑤Bitch
  1971年にストーンズが、自身のレコード会社ローリング・ストーンズ・レコードから第1作としてリリースした『Sticky Fingers』収録曲。この曲はアルバムより先行シングルとなった全米1位(全英2位)など、世界的大ヒット<Brown Sugar>のカップリング曲。 ⑥Speed King 
 1970年、第二期パープルのファースト・アルバム『In Rock』のトップ収録曲。ここでのイアン・ギランによるリトル・リチャードばりの度肝を抜くシャウトは、ハード・ロック・ファンに大きな衝撃を与えた。このアルバムの登場により、彼らは日本でハード・ロック界のトップ・グループに躍り出た。 
⑦Cowboy 
 米国のいぶし銀ソング・ライター、ランディ・ニューマンの1968年発表のファースト・アルバム『Randy Newman』収録の牧歌的ナンバー。1970年に<うわさの男(Everybody’s Talking)>のヒットで、その名が知れ渡ったニルソンが第6作『Nilsson Sings Newman』に収録。また同年にはスリー・ドック・ナイトが、第4作『It Ain’t Easy』でカヴァー。 ⑧Love In Vain 
 邦題:むなしき愛。ストーンズのキース・リチャードをはじめ、多くのギタリストに影響を与えたといわれるブルース・ギタリスト、ロバート・ジョンソンが、1937年のセッションで残したナンバー。1970年にストーンズが発表した、彼らを代表する傑作アルバムのひとつ第10作の『Let It Bleed』でカヴァー。 
⑩Traveling In The Dark  
 邦題:暗黒への旅路。伝説のスーパー・ロック・トリオ、クリームのプロデューサーとして一世を風靡したフェリックス・パパラルディが、巨漢ギタリストレスリー・ウエストを擁して結成したマウンテンのナンバー。1971年発表の傑作サード・アルバム『Nantucket Sleighride(邦題:マウンテン3)』(全米16位/全英43位)収録曲。日本では独自にシングル・カットされている。 
⑬悪魔
  邦題:悪魔を憐れむ歌。ストーンズが1968年にジミー・ミラーをプロデューサーに迎え、発表した第8作『Beggers Bunquet』に収録された代表曲のひとつ。なお、この曲のレコーディング風景は、ジャン=リュック・ゴダール監督による音楽映画『ワン・プラス・ワン』として記録された。また、翌1969年にはブラッド、スエット&ティアーズが、サード・アルバム『B,S&T. 3』で大幅にアレンジしたカヴァーを発表している。 
⑯ハイヤー 
 ジャズ界の巨匠マイルス・ディヴスにも影響を与えたといわれるファンク・ソウルの祖スライ・ストーンが、1969年に自身のバンドを率いて第4作『Stand!』で発表した一大傑作ナンバー。この曲は1969年に開催された伝説のウッドストック・フェスティヴァルでの白熱のパフォーマンスで有名になり、彼らの代名詞的ナンバーとして語り継がれている。 ⑰ゴナ・リーヴ・ユー 
 元々は1962年にフォーク・シンガー、ジョーン・バエズがサード・アルバム『In Concert』で演奏し、その存在が知られるようになった。さらに1968年にはレッド・ツェッペリンがデビュー作『Led Zeppelin』で取り上げ、ロック・ファンにも幅広く知られるようになっている。なお、近年になって1950年代に女性シンガー、アン・ブレドンによって書き下ろされたナンバーということが判明している。 

  1982年に「ザ・タイガース同窓会」と銘打ち、3月17日日本武道館と4月4日大阪フェスティバルホールで復活コンサートを開催。この模様は空前の3枚組(CDでは2枚組)で完全収録盤がリリースされた。参考にセット・リストのみ掲載しておく。 

『A-LIVE 』 1982年5月10日 /  Polydor /  MP-9096/1 国内チャート 24位 / 0.8万枚 CD 1994年5月21日( VICL-61241/4 Disc3 ) 
2002年4月24日(初回限定紙ジャケ)
①十年ロマンス、②僕のマリー、③銀河のロマンス、④廃墟の鳩、⑤シーサイド・バウンド、⑥星のプリンス、⑦落葉の物語、⑧白夜の騎士、⑨朝に別れのほほえみを、⑩忘れかけた子守唄、⑪.風は知らない、⑫スマイル・フォー・ミー、⑬淋しい雨、⑭Time Is On My Side 、⑮Under My Thumb(ストーンズ:1966/ザ・フー:1967)、⑯ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man) (ザ・ビートルズ:1965)、⑰Do You Love Me (コンチュアーズ:1962/ブライアン・プール&ザ・トロメローズ:1963)、⑱Twist And Shout (ポップ・ノーツ:1961/アイズレー・ブラザース:1962/ザ・ビートルズ:1963)、⑲Tell Me (ストーンズ:1964)、⑳Yellow River、㉑Holiday (ビージーズ:1967)、㉒ジョーク(I Started A Joke)、㉓Lalena、㉔Look Up In The Sky、㉕BA・BA・BANG、㉖野バラの誓い 、㉗生きてることは素敵さ、㉘色つきの女でいてくれよ、㉙君だけに愛を、㉚モナリザの微笑み、㉛青い鳥、㉜花の首飾り、㉝誓いの明日、㉞ラヴ・ラヴ・ラヴ、㉟美しき愛の掟、㊱シー・シー・シー、㊲十年ロマンス、㊳色つきの女でいてくれよ 
                               (鈴木英之)

2020年3月15日日曜日

『SPLIT EP SERIES VOL.3』リリース・インタビュー(*blue-very label*/blvd-010)


昨年11月にクリスマス・コンピ『Natale ai mirtilli』を紹介した*blue-very label*(ブルーベリー・レーベル)から今月25日に『SPLIT EP SERIES VOL.3』がリリースされる。このシリーズはカセットテープ・フォーマット(デジタル音源のダウンロードコード付き)という形式で、拘り派音楽ファンにも人気のようだ。



今回は弊サイトでも高評価している女性シンガーソングライターの小林しのと、ネオ・アコースティック・バンドSloppy Joeのリーダーで、ボーカル兼ギターの岡人史によるソロユニットIvory Past(アイボリーパスト)が各々3曲提供している。 
弊サイト読者にはお馴染みだが、小林しのはharmony hatch(ハーモニー・ハッチ)のヴォーカリスト兼ソングライターとして99年にデビューし、coa recordsより2枚のアルバムをリリースして02年に解散し、ソロへと転身し、ファースト・アルバム『Looking for a key』(16年)、18年には7インチ・シングル『Havfruen nat』をリリースしている。

My Coffee Momentの主メンバーで結成されたSloppy Joe(スロッピー・ジョー)は、06年にミニアルバム『trying to be funny』でデビューし、11年にはフルアルバム『With Kisses Four』をリリースしており、カジヒデキ氏がファンを公言するなど同業者にも人気が高い。
Sloppy Joeを率いた岡人史のソロユニットIvory Pastは、12年にTrixie’s Big Red Motorbikeのライブ・イベント用スプリット・カセット参加のために活動を開始した。16年にはMiles Apart Recordsからカセット・シングル、18年にはSnow flakesとのスプリット・カセットを各リリースしている。
ユニット名は英国バーミンガムのネオ・アコースティック・バンド、Felt(フェルト)の同曲タイトル(『The Pictorial Jackson Review』収録 88年)からインスパイアされていると思われるが、そんな80~90年代の英国ギターポップ・バンドからの影響を受けて活動を続けている。
筆者は昨年とあるライブ・イベントで、Ivory Pastの演奏を聴いて岡の声質やスタイルにやられてしまった。ザ・スミス信奉者だった十代の頃の血が騒いだと言って過言ではない。
さてここではそんな岡と小林におこなったミニインタビューをお送りしたい。

●今回のリリースの参加された経緯を教えて下さい。 またコンセプトについてレーベルオーナーの中村氏からサジェスチョンはありましたか? 


Ivory Past(岡 人史)

岡人史(以降 岡):下北沢にBlue-very Recordsがあったころにお会いして以来、中村さんにはかれこれ20年以上お世話になってきました。その中村さんのレーベルの記念すべき第1弾コンピレーションに、僕が別に活動しているSloppy Joeで参加させていただきました。 
そして今回ソロ名義のIvory Pastでお誘いをいただきました。特別なサジェスチョンはありませんでしたが、レーベルコンセプトのひとつにネオアコやギターポップといったものを感じていましたので、自然体で臨ませていただきました。  


小林しの

小林しの(以降 小林):レーベルオーナー中村さんが経営するレコード店、ディスクブルーベリーに私が所属するレーベル「philia records」の全作品を置いてくださったご縁で、数年前からよくお店に伺うようになりました。
2018年に中村さんが「ブルーベリー・レーベル」を始められ、「Split ep series」という2組のミュージシャンによるスプリット音源をシリーズでカセットテープで出していくという企画にお誘いいただきました。中村さんからは英詞曲で提供してほしいとのご依頼をいただきました。 

 ●提供曲について、ソングライティングとレコーディングの時期を教えて下さい。

岡:2019年の11月から12月に曲作りを行い、年末年始にレコーディングからミックスまでを行いました。なかなか曲を作り貯めておけるタイプではないので、いつもリリースのきっかけがあって制作することが多いですね。 
今回の収録曲は、曲調はそれぞれ違いますが、いずれも故郷の景色、故郷への思いなどをイメージしています。ストレートにハッピーな曲も好きですが、自分の曲作りでは、憂愁、刹那、晩秋、夕景といった感情や情景が感じられるものにしたいと思っています。

小林:B-1「forget me not」は私の作詞作曲、編曲は高口大輔さん(the Sweet Onions)で、2019年に作りました。B-2「Large gate」は作詞作曲が近藤健太郎さん(the Sweet Onions、The Bookmarcs)、the Sweet Onionsの2000年頃の未発表曲を提供していただきました。 B-3はthe orchidsの「a kind of eden」という曲のカバーです。
「Split ep series」はカバー曲を1曲という決まりがあり、レーベルオーナー中村さんが好きな曲とのことでご提案いただきました。編曲はこちらも高口さんです。レコーディングは3曲とも2019年の夏~秋にかけて行いました。



●レコーディング中のエピソードで何か特筆すべきことはなかったですか?

岡:収録したカバー曲は、中村さんからCherry Red周辺から選んでみてはとお話をいただき、いくつかの候補で悩みましたが、一番初めにCherry Redでネオアコと言えばと頭に浮かんだThe HepburnsのThe World Isを選びました。
そして小林しのさんがカバーしたのも大好きなThe Orchidsで、とても素敵なカバーに驚きました。僕がmy coffee momentとして活動していたおそらくこちらも20年ほど前、小林しのさんのHarmony Hatchとは何度か共演しました。それ以来の共演にも、いろいろなご縁を感じながらレコーディングしました。

小林:「forget me not」、「a kind of eden」はThe Laundriesの遠山幸生さんにギターを弾いていただいたのですが、その際、遠山さんのご縁で作曲家青木多果さんのスタジオで録音させていただきました。どんどん重なっていく魔法のようなギターフレーズに感動しました。 
「Large gate」は高口さん、近藤さん二人でアレンジを考えてくださり、宇宙に漂うような美しい曲になりました。 「a kind of eden」の間奏のハミングはthe Carawayの嶋田修さんで、光が差したような温かさが生まれました。 また、「forget me not」は私もギターを弾いています。今回は英詞と風邪でボーカル録音に苦労しましたが、その時にしか出せない声質になったような気がして満足しています。

●ソングライティングやレコーディング中に聴いていた曲を5曲ずつ選んで下さい。

岡:○ Will She Always Be Waiting / The Bluebells 
  ○ Downhill / Days
  ○ In an Empty Hotel / Northern Portrait
  ○ Anything Anything / The Holiday Crowd
  ○ Letters To The Girl / The Proctors 


小林:○ A Kind Of Eden / THE ORCHIDS
   ○ Svensktalande Battre Folk / Anna Jarvinen
   ○ D.S.P.S / DSPS
   ○ Birthday / Gia Margaret
   ○ Hard to Forget / Natalie Evans




●最後にこのSPLIT EPの魅力をアピールして下さい。

岡:80年代~90年代初期の英国インディバンドたち。今でも彼らの音がたまらなく好き!そしてそんな音に思いっきり影響を受けた現代のバンドも大好き!そんな方にニヤケながら聴いてもらえたら嬉しいです。
僕も単純にそんなバンドたちが好きで、自分でもそんな音が作れたらなと思って活動していますので。逆にIvory Pastを聴いてそういったバンドを聴いてみたくなったという方がいたら、更に嬉しいです。そんな方は是非Disques Blue Veryへ!  

小林:私はHarmony hatchというインディーギターポップバンドを昔やっていて、きらめいたり歪んだりするギターの音が大好きなんです。
ソロ活動をはじめてからは日本語でポップス寄りな曲を作っていましたが、今回は原点回帰と新境地をあわせたような気持ちで、このカセットテープに私の大好きなインディーギターポップが詰まっています。
小林しの名義での発表ではありますが、編曲の高口さんやthe Sweet Onionsはじめ、参加ミュージシャンの皆様やブルーベリー・レーベル中村さんの発案のおかげでいつもとはまた違った面のある特別な音源になりました。また、スプリットということでA面のIVORY PASTさんのきらめく曲たちから続けて聴くと、とても深みのある作品になっていると思います。

 Disques Blue Very予約サイト:http://blue-very.com/?pid=148625190 

(インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)

2020年3月7日土曜日

The Pen Friend Club:『Along Comes Mary/Love Can Go The Distance』リリース・インタビュー


 2月22日のステージをもって4代目ボーカリスト藤本有華が脱退したThe Pen Friend Club(ザ・ペンフレンドクラブ)が、今月11日にCDシングル『Along Comes Mary/Love Can Go The Distance』をリリースする。
 シングルとしては18年12月にライブ会場限定販売したRYUTistとの『Christmas Delights / Auld Lang Syne』、オフィシャル・シングルとしては18年4月の7インチ・アナログ『飛翔する日常 / Don’t Take Your Time』以来と約2年振りとなる。

 両タイトルとも既存曲のカバーだが、メインタイトル「Along Comes Mary」を見て驚喜するは、弊誌監修の『ソフトロックA to Z』や弊サイト読者をはじめとする熱心なソフトロック・ファンだろう。
 オリジナルは1966年3月8日にアソシエイションが発表したサード・シングルで、ビルボートとキャッシュボックス共に10位以内にチャート・インし彼等の出世作となった記念碑的曲でもある。 ソングライティングはタンディン・アルマーで、のちにビーチボーイズの「Marcella」(『Carl And The Passions – "So Tough"』収録 72年)や「Sail On, Sailor」(『Holland』収録 73年)をブライアン・ウィルソンらと共作しているミネアポリス出身のソングライターであり、当時ブライアンとも親しく交流していた。
 オリジナルを聴いて分かると思うが、ハル・ブレインの特徴的なドラミングを中心にレッキングクルーの巧みな演奏をバックにした、サイケデリックで独創的なコーラスが肝になっている。このコーラス・アレンジこそ当時アソシエイションのプロデューサーだったカート・ベッチャーのアイディアであり、彼等の成功のきっかけを作ったキーマンだったのである。


 カップリングの「Love Can Go The Distance」は、ご存じ山下達郎氏の『On The Street Corner 3』(99年11月)に収録のオリジナル・アカペラ曲で、先行シングルとしてリリースされて同年のNTTコミュニケーションズのCMタイアップにされたのを皮切りに2003年にはジャックス・カードのCM「アンモナイトと六法全書編」で再び使用されて話題となった。山下の楽曲にアラン・オデイが英語歌詞を付けた美しいバラードで、On The Street Cornerシリーズで取り上げるドゥーワップを主体としたカバー曲よりコンテンポラリーな曲調である。同アルバムではテディ・ペンダーグラスの「LOVE T.K.O.」(80年)カバーとともにいいアクセントとなっていて聴き飽きない。

 さてここではザ・ペンフレンドクラブのリーダー平川雄一、弊サイトでは『ガレージバンドの探索』を連載しているベースの西岡利恵、名ドラマーの祥雲貴行の3人におこなったインタビューをお送りする。

 ※写真前列左より 
大谷英紗子(Sax) / 藤本有華(Main Vo, Cho) /
平川雄一(各種Gt, Cho) / リカ(AGt, Cho) /
ヨーコ(Organ, Cho) / 中川ユミ(Per) / 
西岡利恵(Ba) / 祥雲貴行(Dr)  

●ザ・ペンフレンドクラブ(以下ペンクラ)としては久し振りの新作リリースですが、やはり本作はボーカルの藤本さんが脱退するメモリアルとして企画したんでしょうか?

平川雄一(以降 平川):はい、そのとおりです。実は次の7thアルバムの収録曲としてこの2曲をやる予定だったんですが、藤本有華脱退により急遽、現体制でのラストシングルに切り替えて作成しました。階段のジャケ写もアルバム用だったんです。

●収録曲はいずれもThe Associationと山下達郎氏のカバーですが、選曲した理由は?
 これまでカバーしてこなかったThe Associationは、VANDAの書籍でも取り上げてきたソフトロック・グループですが以前から愛聴していましたか?

平川:はい、勿論です。ただ「Along Comes Mary」に関しては、西岡利恵が「これやりたい」と言ったのがきっかけで取り上げました。
 「Love Can Go The Distance」は僕が以前から大好きで、いつかやりたいと思っていた曲です。90年代後期にNTTのTVCMで初めて聴いたときは本当に衝撃的でした。

●ペンクラならではとして拘ったアレンジのポイントはなんでしょうか?
 またメンバーのお二人にはカバーするにあたって演奏面で気を付けたことを聞かせて下さい。

平川:「Along Comes Mary」は僕の宅録は最小限に、ペンフレンドクラブのメンバーで出来ることを重視し、現在のバンドの音を形にする事を大切にしました。コーラスも普段なら僕の多重録音で済ませるところを近年加入したリカとそいと僕の3人でハモりました。リカのアコギもしっかり入れました。(普段のレコーディングでは竿類は全部僕がやります。) ライブではタンバリンとカウベルを中川ユミが担当しているので、そのまま彼女のプレイを録りました。(普段ならパーカッションも僕がやっています。) 
 あとオリジナルにある笛を大谷英紗子のサックスに置き換えたり。オリジナルのハンドクラップの音量が大きすぎると感じていたので適正な音量にしたり。そんなとこですかね。

 「Along Comes Mary」の藤本有華の歌唱はこれまでで最難関だったことと思います。実際、大変苦労していました。ただ藤本の歌でしか実現できなかったカバーでもあります。少なくとも日本人による「Along Comes Mary」の説得力のあるカバーは後にも先にもこのペンクラのヴァージョンを於いて他にないでしょう。エッヘン。(すごい狭いとこで勝負してるなあ…。だがそこがいい。)

 「Love Can Go The Distance」は「Along Comes Mary」とは違い、藤本のリードボーカル、リカとそいによるコーラス最高音部や掛け合いコーラス以外は全て僕の歌唱、演奏です。
 ただただ原曲の風合いを壊さないように作りました。テンポが非常に大事な曲で、原曲と全く同じクリックを作成し、それに合わせて演奏しました。とはいえラスト、勝手に転調しちゃっていますけどね・・・最後に半音上がるのが好きなんです。「日本一のラスト転調男」と呼んで頂いて構いません。

 西岡利恵(以降 西岡):サードアルバム以降ベースは自宅録音だったので、スタジオで録るのは久しぶりだったんです。

 『Along Comes Mary』はライブでもやっていた曲だったのと、ドラムと一緒に録ったのもあって、録音を意識しすぎずライブみたいな感覚で弾きました。

祥雲貴行(以降 祥雲):サビのブレイク前のフィルはどうアレンジしようか迷った末、ほぼ原曲そのままにしました。自分ではあまり思いつかないような長めでちょっと特殊なフィルだったので、自分がやるとどんなニュアンスになるのかを観察しながら叩きました。

 サビのそれ以外の箇所、基本パターンの頭打ちのリズムでは、かっこいいコーラスをさらに盛り上げるようにストレートなビートになるよう意識しました。

 

●このシングルで藤本さんが参加するラスト・レコーディングとなりますので、彼女に向けたメッセージをどうぞ。

平川:藤本さん、あのとき大ピンチだったペンクラに加入してくれて本当にありがとう。長い間歌ってくれてありがとう。藤本さんでよかった。お疲れさま。体冷やさないようにね。

西岡:藤本さん、スタジオで最初歌う時なんとなく試してみます~みたいな感じでふわふわしているのに(笑)歌い始めると完璧にこなしちゃうのがかっこよかったです。のびやかで綺麗な歌声だけどパワフルな表現もできたり、英語の曲もなんなく心地よく聴かせる藤本さんの魅力、歌唱力を感じるのにこのシングルの2曲は最高。形に残せて嬉しい。メンバーがやめていくのは一番つらい大きな変化だけど、これまで一緒に長く活動してきたこと大事にします。


祥雲:とにかく体調に気を付けて、自分のペースでこれからも音楽を継続してください。(あと例の連中と今度こそ飲みに行きましょう。)


●最後にこの『Along Comes Mary/Love Can Go The Distance』のアピールをお願いします。

平川:買わないなんてウソだろ?

西岡:どちらの曲もカバー作品として良いものにするのはとても難易度が高い、普通なら選ぶのを躊躇してしまいそうなほどの原曲ですが、ペンフレンドクラブだからこそ実現できた、第5期の集大成としてふさわしいものになっていると思います。 ぜひ長く聴いていただきたいです。


祥雲:「Along Comes Mary」は原曲の独特な渋さを残しつつ、よりタイトで新鮮な感じに仕上がっていると思います。上の質問で回答した点にも注目して楽しんでみてください。 


 「Love Can Go The Distance」はレコーディングには参加してないですが少し書かせてください。

昨年の12月、銀座のライブで藤本さんがソロで歌った「Love Can Go The Distance」には、会場の空気全体をあたたかく包み込むようなパワーがあり、ある種の神がかり的な領域に入っていたようにも感じました。そしてこのシングルにも、あのときと同等の力が確かに込められています。

 思い返してみるとあのライブの日、歌い手と聴き手双方の意識が一か所に集中していたという印象があり、それが特別な雰囲気を作り上げていたように思います。 またそのときに自分が最も強く感じたのは、藤本さんの脱退を惜しむ気持ちというよりは、これからのことに思いを馳せたくなるようなポジティブなものでした。


なので、できれば皆にもあまり感傷的にならずに聴いてほしいと個人的には思っています。 いずれにしても心を傾けて聴く価値のある名演であることには違いないので、ぜひCDを手に取ってじっくりと楽しんでください。 


 (インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)



2020年3月1日日曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・バンド編 Tigers期)

 今回は20世紀最大の男性アイドルのひとり「ジュリー」こと沢田研二のライヴ・アルバムについてレビューする。このコラムは1970年代に活躍したアイドルについてまとめているが、沢田の正式デビューはグループ・サウンズ(以下、GS)のトップ・グループに君臨した「ザ・タイガース」で1967年だ。ただ彼の正式ソロ・デビューは1971年であり、そして1970年代におけるアイドル・シンガーとしての活躍ぶりは目を見張るものがあった。そんな1979年には当時のトップ・アイドルのひとり石野真子が<ジュリーがライバル>というタイトルの曲をヒットさせ、1970年代アイドルのひとりとして語る価値があると思う。

 そしてタイガース解散後は、GS界きってのトップ・グループから人気メンバーが集結した「PYG(ピッグ)」へ参加、その後正式にソロ・シンガーとなっている。そんな沢田の軌跡を「バンド~ソロ編」の順で紹介するが、今回は「バンド編」をGS期とロック期に分け、GS期のザ・タイガースでの活動を振り返ってみる。  

 まずは始動となった「ザ・タイガース」だが、バンドは彼を除く4人[森本太郎(以下、タロー)、岸部修三(現:一徳、以下サリー)、瞳みのる(以下、ピー)、加橋かつみ(以下、トッポ)]が大阪で見たザ・ベンチャーズに刺激され1965年1月に結成した「サリーとプレイボーイズ」だった。当初はインスト主体バンドだったが、ビートルズ等の影響でヴォーカリストを擁したバンドへの転換をはかり、専属ヴォーカリストを物色した。そんな彼らが目を付けたのが、四条河原町のダンスホール「田園」のハコバン「サンダース」バンド・ボーイ兼ヴォーカル担当の沢田だった。  
 そして1966年元旦、沢田はピーをリーダーとした「ファニーズ」に加入。当時の活動拠点は大阪・難波のジャズ喫茶「ナンバー一番」。当初は週2回のステージで、回数を重ねるごとに人気が上昇し、演奏回数も増えていった。そして、この年5月に京都会館で開催の「全関西エレキ・バンド・コンテスト」で、ローリング・ストーンズ(以下、ストーンズ)の<サティスファクション>で優勝に輝き、翌6月にはホーム・グラウンドでのトップ・グループに成長。

 その評判は東京方面にも伝わり、著名人が彼らのライヴに足を運び、東京のプロダクションと接触を持ち、彼らを高く評価した内田裕也(当時、ブルージーンズ専属ヴォーカリスト)からスカウトされる。そんな彼を経由して「テレビに出るチャンスが多い事務所」というメンバーの意向も反映され、渡辺プロダクション(現「ワタナベエンターティンメント」以下、ナベプロ)と契約を結ぶ。

  そして同年11月に東京に進出し、バンド名を「ザ・タイガース」と改名(すぎやまこういち命名)、リーダーもピーからサリーに変更された。なお彼らの初テレビ出演は、すぎやまこういちがディレクターを務めていた『ザ・ヒットパレード』(フジ系)で、そこではポール・リビアとレイダースの<Kicks>を演奏している

  その後、日本グラモフォンのポリドール(現ユニバーサル・ミュージック)と契約。翌1967年2月には<僕のマリー>でレコード・デビューを果たしたが、この時点では数あるGSの1つにすぎなかった。そして第2弾スタッフ間では「あまりに騒々しい」など難色を示す声もあった<シーサイド・バウンド>の発売で状況が一変。この曲はデビュー曲に不満を持つメンバーの意向が尊重され、ザ・ビートルズのEP<Twist And Shout>をモチーフにしたジャケットで発売し大ヒットを記録。続く<モナリザの微笑>も連続ヒットと、それまでGS界の頂点に君臨していたスパイダースとブルーコメッツの牙城を切り崩す最右翼に躍り出た。 



 そして、11月5日にはファースト・アルバム『The Tigers On Stage』を発表。これは8月22日東京・サンケイホールのリサイタル模様を収録したライヴ作であり、そのレパートリーは洋楽カヴァーが多く、彼らのテーマ曲も「ザ・モンキーズ」から拝借したものだ。ちなみに、デビュー・アルバムがライヴだったのは数あるGSでも彼らだけだ。その当時のGSはライヴにおいては積極的に洋楽カヴァーを演奏しているが、タイガースはその選曲センスも抜群だった。ストーンズの<Time Is On My Side>は彼らの演奏で有名になったとも言われ、またポール・ジョーンズ(元マンフレッド・マン)の映画主題歌<傷だらけのアイドル(Free Me)>が、日本で話題になったのも彼らが演奏していたからという説もあるほどだ。そんなファンたちはコンサートで、良質な洋楽の洗礼を受けていたといえるだろう。

 ただ、このアルバムが発売された当日は、皮肉にも奈良あやめ池の野外ステージで開催された公演にて、押し寄せたファンが将棋倒しになり、多くのファンが負傷するという事故が発生。この事件以来、世間からGSに対し「風紀を乱す存在」「見るのは不良行為」なる烙印が捺され、以後彼らのような“長髪GSは世間からボイコットされる。とくにGSのコンサートには、学校やPTAの厳しい取り締まりが始まった。更に過敏に反応したNHKは人気番組『歌のグランド・ショー』で、当時収録済みのタイガース出演部分をカットするという暴挙に出た。また『NHK紅白歌合戦』にも対象外とされるなど、あまりに偏見の強いものだった。とはいうものの、そんなタイガースも1989年『NHK紅白歌合戦』の「紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナー」に初出場、そこでは<花の首飾り><君だけに愛を>を演奏している。


 このように世間からは逆風状況ではあったが、翌1968年1月リリースの<君だけに愛を>は、沢田の“指さしポーズ”に日本中のファンが熱狂し、GS史上でも屈指の名曲となった。ただ、当時一大旋風のアングラ・ソング<帰ってきたヨッパライ/フォーク・クルセイダース>が1位に君臨し、惜しくも2位止まりに終わっている。余談になるが、このようなノベルティー・ソングに1位を阻止された名曲には<木綿のハンカチーフ/太田裕美>がある。この時期には<泳げたいやきくん/子門正人>(史上初のシングル初登場1位・11週連続、454万枚以上)によってトップのチャンスを逃している。 


 話はタイガースに戻るが、この大ヒットにより彼らはGS界のトップ・グループに登りつめ、3月10日には日本人アーティストとして初の日本武道館単独コンサートを開催。そこには「月刊明星」3・4月号の招待券抽選に当選した1万2,000人ものファンが押し寄せ、スタッフは「あやめ池事件」の二の舞を踏まぬよう神経をとがらせていたという。当日は、初の主演映画『世界は僕らを待っている』主題歌となった5枚目のシングル<銀河のロマンス>と、映画の挿入歌でトッポ初リード曲<花の首飾り>(「月刊明星」1968年1~2月号で「タイガースの歌う歌詞」募集)の発表会も敢行した。そんな話題性と楽曲の素晴らしさもあって、このシングルは彼らにとって初のチャート1位(7週間)に輝き、売上げもGS史上最大のセールス(公称は130万とも200万枚超とも)を記録している。なお、募集歌は<ホリディ>(1967年/ビージーズ)を歌っているトッポをみたすぎやまこういちが、わずか30分で書き上げたものだった。ただ、歌詞の応募者の大半が沢田歌唱を想定とするがだったため、不満を漏らすファンもあったようだった。 

 さらに8月には彼らのファースト・アルバムに収録された<スキニー・ミニー>を連想させるような6枚目のシングル<シー・シー・シー>も連続1位(50万枚)を記録し、ゆるぎないGS界のトップ・グループに君臨した。余談になるが、当時中学生だった私は海水浴場やブール・サイドで、この曲を耳にタコができるほど聴かされた記憶がある。なお、GSには今も歌い継がれる名曲が多々あるが、1位獲得曲は彼らの2曲とテンプターズの<エメラルドの伝説>だけだった。補足ながら、当時はタイガースが「日本のビージーズ」、テンプターズは「大宮のストーンズ」とも言われた。だがタイガースはテンプターズ以上にストーンズ・ナンバーを多く歌い、沢田もミック・ジャガーを意識したパフォーマンスを展開している。なぜタイガースがビージーズと呼ばれていたかは、<マサチューセッツ>が日本で1位を獲得するほど人気が高く、所属が同じポリドールだからとも推測される。

  この爆発的人気を象徴するかのように、8月12日には日本における初の球場コンサートを後楽園球場で開催している。なおこのコンサートは一般にも大きな話題となり、当時の漫画「歌え!!ムスタング」(原作:福本和也、画:川崎のぼる/少年サンデー)の一コマに取り上げられている。どのように書かれているかは、国会図書館や京都マンガ博物館等の所蔵でチェックされたし。 
 そんなこの時期にはテレビで彼らを見ない日はないほどの人気頂点にあった。特に1967年12月からオンエアされた「明治製菓」のCMソングは、一般のヒット曲以上に日本列島の隅々まで響き渡った。そして、1968年春~69年秋までの間(合計3回)には「ザ・タイガース声の出るソノシート」(*1)が購入者プレゼントとして企画(包み紙150円分と切手70円が一口)された。 

 そして、1968年にはザ・モンキーズの来日公演(同年10月3・4日本武道館)の際に、彼らの希望で直接会う栄誉を持つ。さらに、テレビ番組『モンキーズ・ショー』のスポンサー(明治製菓)の絡みもあってトッポがタイガースを代表してディヴィー・ジョーンズとマイク・ネスミスとの対談に臨む機会を持っている。そこでは、トッポが持参したセカンド・アルバム『世界は僕らを待っている』を手にしたマイクから、「素晴らしいジャケットだ!」の称賛から始まった。そしてトッポは、「12月には僕の自作を収録した最新作が出る」とコメントするとディヴィーが興味を示し有意義な音楽談義に花を咲かせていた。

 そんなトッポ自作<730日の朝>収録したサード・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』は、ゴールデン・カップスの『ブルース・メッセージ』と並び、GSが生んだ大傑作と今も語り継がれているものだった。このアルバムは「旧約聖書」をコンセプトにしたトータル・アルバムで、メンバーのオリジナル曲も含む意欲作だった。その収録曲は、名曲の誉れも高い<忘れかけた子守唄>をはじめクオリティも高く、名作に恥じない楽曲が並び、日本の音楽シーンを牽引していた彼らにふさわしいものだった。さらにタロー作の<青い鳥>はシングル・カット(別テイク)され、大ヒット(4位:33.6万枚)。当時LPは驚異の20万枚超えの大ベストセラーとなった。 
 また、アルバム発売に先駆け<廃墟の鳩 / 光ある世界>(3位:30.3万枚)がリリースされているが、そのジャケットは伝説のバンド、バファロー・スプリングフィールドのサード・アルバム『Last Time Around』をモチーフ(その後、<美しき愛の掟><嘆き>にも)にしたものだった。
 

 そして、同月には主演第二作『ザ・タイガース 華やかなる招待』も公開され、タイガースはGSブームの牽引者として、さらに揺るぎない地位を確立している。しかし3月にはトッポがバンドを脱退し、一大ショックが日本中を駆け巡った。ファンにとっては<青い鳥>カップリング曲<ジン・ジン・バンバン>のエンディングで、メンバー同士による和気藹々とした笑い声を聴いていただけに青天の霹靂ともいえる事件だった。当時中学3年だった筆者の学校でも女子たちの動揺はすさまじいもので、なかでも私の憧れだった「ジュリーと同じポイントにほくろのある女子」を筆頭にこの話題に騒然としていた。とはいえ、新メンバーがサリーの弟・岸部シロー(以下、シロー)と報道されるや、「すごくハンサムらしい」と胸を膨らませており女心の移り気の速さに驚かされた。 

 シロー加入後の3月25日にはトッポ在籍時録音済みの<美しき愛の掟>を再録音版でリリース、4位(26.7万枚)と健在ぶりをみせた。その人気は海外にも伝わっていたようで、翌1969年3月1日にはアメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙にメンバー写真が掲載されている。これは日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾った最初で最後の栄誉だった。
  そんななか7月にシロー加入後、3作目の主演映画『ザ・タイガース ハーイ! ロンドン』を公開。また同月には映画の撮影で滞在したロンドンでの録音、ビージーズのギブ三兄弟提供曲<Smile For Me>(3位:28.4万枚)が発売された。このシングルは日本のB面曲<淋しい雨>をA面にして英国発売するなど、この年も話題に欠くことはなかった。ちなみにこの映画にはバリーが友情出演している。なお、この曲はビージーズがデモを録音したと聞くが、残念ながら筆者は未聴だ。当時この二大グループのジョイント・コンサート計画があったらしいが、ビージーズ多忙のため実現しなかったようだ。 

 この頃には急速にGSブームは完全に終焉に向っていたが、相変わらず沢田の人気は絶大だった。その事実はこの年に修学旅行で京都観光に出かけた際に感じさせられた、それは女子の一番気を惹いたスポットは「沢田の実家」だった。同乗のバスガイドが「ご覧ください」とコメントすると、女子が片側に寄りすぎバスが傾くほどだった。
 そんな12月には沢田がソロ・アルバム『JULIE』をリリース(公式データは6.9万枚だが、予約で15万枚あった報道も)、ここから<君を許す>(両A面<ラヴ・ラヴ・ラヴ>/18位:11.6万枚)がカットされた。1970年に入ると、岸部兄弟がソロ・プロジェクト『サリー&シロー トラ70619』を発表、タローはアイドル吉沢京子のデビュー曲を手掛けるなどメンバー個々が新たな道の模索始めている。

  この時期、所属事務所は沢田を将来的にソロ・シンガーとしての活動を目論み、沢田をバンド内で優遇して他のメンバーを「バック・バンド」として差別した。しかし彼はタイガース解散に最後まで反対し、あくまでバンド活動に執着した。そんな状況のなか同年3月リリースの<都会>は10位(14.4万枚)と健闘し最後のトップ10ヒットになった。 

 翌4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージでの「ザ・タイガース・ショー」を開催、また7月には沢田初の書き下ろし曲<素晴しい旅行>(15位:13.4万枚)をリリースするなど健在ぶりをみせている。ちなみに、この曲のモチーフは<シーサイド・バウンド>らしいが、井上堯之によるアレンジで<I Feel Fine/ザ・ビートルズ>を連想してしまった。
 そんな沢田はザ・ピーナッツに<男と女の世界><東京の女>(47位:6.7万枚)、ロック・パイロットには<ひとりぼっちの出発>などを提供し作曲家としての活動もはじめた。ちなみに、彼の作曲家最大ヒットは、1982年にアン・ルイスへ提供した<ラ・セゾン>(作詞:三浦百恵/3位:35.4万枚)だ。  

 この1970年後半にはGSの存在は完全に過去のものとなり、ブームを牽引していた多くのグループが解散した。ただ、タイガースはそんな逆境を拭い去るかのように11月には、12月発売予定の第5作アルバム『自由と憧れと友情』からの先行シング<誓いの明日>(18位:5.7万枚)をリリースした。しかし、12月7日ついに王者タイガースも解散を表明し、翌1971年1月24日に日本武道館で開催の「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に解散した。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたって生中継され、1月30日にはテレビで録画放映(フジ系)された。そしてこの模様を収録したライヴ・アルバム『ザ・タイガース・フィナーレ』は7月10日に発売されている。ただ、このアルバムの発売に先駆け2月に『サウンズ・イン・コロシアム』が発売されている。この内容は1970年8月22日に田園コロシアム(東京・大田区)にて開催された『田園コロシアム ザ・タイガース・ショー』のものだ。元々はライヴ映像として、同年11月頃からファンクラブ用に上映さていた音源らしい。解散という旬な時期のリリースということもあってアナログ2枚組ながら、国内チャートで3位を獲得。これは彼らの最高位で、改めて人気の高さを証明 した



※このライヴは1960年代リリースのため、参考リストとして収録曲のみ紹介しておく。 『タイガース・オン・ステージ』
 1967年11月5日 / Polydor / MP-1377 国内チャート 3位 / 3.7万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6698 )

 ①ダンス天国(Land Of 1000 Dance)(カニンバル&ザ・ヘッドハンダース:1965/ウィルソン・ピケット:1967/ ザ・ウォーカー・ブラザース:1968)~LA LA LA (シャムロックス:1966 )、②タイガースのテーマ (Theme Of The Monkees) (ザ・モンキーズ:1966)、③Ruby Tuesday(ストーンズ:1967)、④Lady Jane(ストーンズ:1966)、⑤Time Is On My Side (カイ・ワインディングと彼のオーケストラ:1963/・ストーンズ:1964)、⑥As Tears Go By (マリアンヌ・フェイスフル:1964/ストーンズ:1965)、⑦Skinny Minnie (ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ:1958/トニー・シェリダン&ビート・ブラザース:1964)、⑧僕のマリー、⑨シーサイド・バウンド、⑩モナリザの微笑み、⑪Everybody Needs Somebody (ソロモン・バーク:1964/ストーンズ:1965)、⑫Pain In My Heart (オーティス・レディング:1964/ストーンズ:1965)、⑬I'm All Right (ボ・ディドリー:1958/ストーンズ:1965) 、⑭ハーマンズ(G-クレフス:1961/フレディ&ドリーマーズ:1964/ハーマンズ・ハーミッツ:1964) 



『サウンズ・イン・コロシアム』 
1971年2月20日 /  Polydor /  MP-9361/2 国内チャート 3位 / 3.7万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6703 ) 

①Introduction~Honky Tonk Woman(ストーンズ:1969)、②(I Can’t Get No)Satisfaction(ローリング・ストーンズ:1966)、③Susie Q(デイル・ホーキンス:1957/ストーンズ:1964/クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(以下C.C.R.):1968)、④I Put Spell On You(スクリーミン・ジェイ・ホーキンス:1956/ C.C.R.:1968)、⑤Route 66!(ナット・キング・コール:1946/チャック・ベリー:1961/ストーンズ:1964)、⑥(Sitting On The)Dock Of The Bay(オーティス・レディング:1967)、⑦Bee Gees Medley[a. 獄中の手紙(I’ve Gotta A Message To You)(ビージーズ:1968)~b. Words(ビージーズ:1968)~c.ジョーク(I Started A Joke)(ビージーズ:1968)]、⑧Looky Looky(ジョルジオ:1970)、⑨Cotton Fields (ハリー・ベラフォンテ:1958/バック・オーエンズ:1963/ビーチ・ボーイズ:1969/C.C.R.:1969)、⑩監獄ロック(Jahilhouse Rock)(エルヴィス・プレスリー:1957/ジェフ・ベック・グループ:1969)、⑪Travelin’ Band(C.C.R.:1970)、⑫Lalena(ドノバン:1968)、⑬What’s I Say(レイ・チャールズ:1967)、⑭都会 ⑮ザ・タイガース・オリジナル・メドレー(花の首飾り/坊や歌っておくれ/モナリザの微笑/青い鳥/坊や歌っておくれ)⑯Smile For Me、⑰散りゆく青春、⑱美しき愛の掟、⑲想い出を胸に、⑳ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)(アダモ:1969)、㉑Anyboday’s Answer(グランド・ファンク・レイルロード(以下G.F.R.):1969、㉒Heartbreaker(G.F.R.:1969)、㉓素晴らしい旅行、㉔怒りの鐘を鳴らせ、㉕ラヴ・ラヴ・ラヴ  

  ザ・タイガースの解散直後に発表された通算第6作で2枚目のライヴ・アルバム。 
 当日の前座は、ハプングス・フォー、アラン・メリル、ロック・パイロットが務め、またタイガースの演奏には、かまやつひろしが⑬などにヴォーカルやオルガンで、㉕にはハプングス・フォーのクニ河内がオルガンで参加しているようだ。  長年のライヴ活動の成果もあってか、バンドのコンビネーションは良好で、とくに要となるサリーとピーのリズム・セクションも盤石で、サイケ調のフレージングを聴かせるタローのギターもあわせ、彼らがライヴ・バンドとしても円熟していたことを証明している。 
 ここでは、各メンバーが選曲したナンバーでヴォーカルを取り、各自の嗜好がうかがえて興味深い。ちなみに沢田以外のヴォーカル・ナンバーは、「⑤タロー、⑥サリー、⑦⑫シロー(⑫のバックは、ブレッド&バター)、⑧ピーだ(トッポのリード曲はシロー)。なお⑧では沢田がドラムを披露、これはタイガースが沢田のバック・バンドではないことを再認識させている。また、③④⑪㉑㉒といった選曲や、プレスリーで有名な⑩では、ジェフ・ベック・グループのカヴァーをお手本にしたプレイ、⑨は英国で話題となっていたビーチ・ボーイズのテイクで披露するなど、当時のトレンドにも敏感に反応している。 

参考1:カヴァー収録曲について 
①Honky Tonk Woman 
 1969年にストーンズがリリースした傑作ナンバー。オリジナル・メンバーのブライアン・ジョーンズ脱退後の初シングルで、後任ギタリスト、ミック・テイラー初参加曲。結果として、英米1位(英5週、米4週)に輝く大ヒットとなり、以後、彼らのライヴでは欠かすことのない定番曲。なお、この曲でプレイされている「オープンGチューンング」は、このセッションに参加したスライド・ギターの名手、ライ・クーダーが発案したとも言われている。なおこの曲は彼らが長年所属したDeccaでのラスト・シングル。 
②(I Can’t Get No)Satisfaction 
 ストーンズが1965年に発表した初の全米1位(4週間/年間3位)とミリオン・セラーを記録した彼らを世界的なバンドに飛躍するきっかけとなった代表曲の1つ。この原型はキースが寝ている間に思いついたメロディと、ミックが考えたバラードとラップ的なフレーズを合わせた曲で、当初二人はシングル化をこばんでいたという。 印象的なノイジーなギター・リフは、チャック・ベリーの<30ディズ>(1955年)などをヒントに生み出した。この曲があったからこそ、彼らはビートルズの最大のライヴァル的存在になり、今なお現役バンドとして活動出来ているといっても過言ではない。 
③Susie Q 
 オリジナルは、1957年のデイル・ホーキンスで全米27位(R&B7位)を記録。1964年にはストーンズがセカンド・アルバムでカヴァーしたが、一般にはC.C.R.が1968年のファースト・アルバムに収録した8分超ヴァージョンが有名。なお後に短縮版シングルが全米11位を記録し、C.C.R.快進撃の起点となっている。 
④I Put Spell On You 
 ショック・ロックの元祖とも称されるスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが1956年に発表した彼の代表作。1968年になってC.C.R.がファースト・アルバムに収録し、その後シングル・カットされ全米58位を記録。 
⑤Route 66 
 ジャズ・ピアニストで、ジャズ歌手ジュリー・ロンドンの夫としても知られるボビー・トゥループが1946年に書き下ろした代表作。「ルート66」とはイノイ州シカゴとカルフォルニア州サンタモニカを結ぶ国道で、歌詞には沿線の地名などが登場。 同年、ナット・キング・コールがヒットさせ、以後多くのアーティストによってカヴァーされスタンダードとなった。1961年にチャック・ベリーのカヴァー(第5作『New Juke Box Hits』)が発表されると、このヴァージョンをお手本にストーンズ(英米ファースト)やゼムなど、ロック・フィールドにも広がり、さらに幅広いジャンルでカヴァーされる。ストーンズは1969年ツアーのオープニングに取り上げ、同ツアーの正規ライヴ盤以前に出回っていた海賊盤『Liver Than You'll Ever Be』で確認することが出来る。 なお、1960年には、NHKやフジテレビで放映された米国(CBS系)同名テレビ・ドラマのテーマになり、主演のジョージ・マハリスが唄ってリヴァイヴァル・ヒットした。 
⑥(Sitting On The)Dock Of The Bay  
 1960年<Gettin' Hip>でデビュー、<Respect>(1965年/全米35位;R&B4位)、<Try A Little Terderness>(1967年/全米85位;R&B20位)などのヒットで知られる“ビッグ・オー”ことオーティス・レディングの最大ヒット。1968年発表のこの曲は、彼にとって初の全米1位となったが、彼はその前年12月に飛行機時事故で故人となっていた。なお、この曲は1960年代で初めてアーティストの死後にチャート1位を獲得したものとなった。 
⑦a. 獄中の手紙 
 1963年にオーストラリアでデビューしたギブ兄弟を中心に結成されたビージーズの1968年のヒット曲。彼らは、1967年に<ニューヨーク炭鉱の悲劇(New York Mining Disaster 1941)>英米デビューを果たしており、この曲はその8枚目のシングル。全米で8位を記録し、全英では<マサチューセッツ>に次ぐ2作目の1位を獲得。 
b. Words 
 ビージーズ1968年の第6作シングル。全米では15位、全英は8位を記録。
 c.ジョーク 
 ビージーズ1968年の第9作シングル。全米で6位を記録。 
⑧Looky Looky  
 後に、ドナ・サマーのプロデューサーとして一世を風靡するジョルジオ・モロダーが、ジョルジオ名義で1970年に発表したポップ・ソング。スイスでは3位を記録するなど、ヨーロッパを中心に大ヒットとなり、ゴールド・ディスクに輝いている。
 ⑨Cotton Fields 
 1940年に黒人民謡の王者レッドベリー(ハディ・レッドベター)が、<コットン・ソング>のタイトルで歌ったカントリー・ソング。この曲が広く知れ渡ったのは、ハリー・ベラフォンテが1958年にヒットさせ、1959年の名作『カーネギー・フォール・ライヴ』のレパートリーにしたからといわれている。1962年にはハイウェイメンがヒットさせ、その後バック・オーエンズ(1963年)やニュー・クリスティー・ミンストレルズ(1965年)などがこぞってカヴァーし、カントリーの定番となった。 そして、1969年にはC.C.R.が第4作『Willie And The Pour Boys(クリーデンス・ロカビリー・リヴァイヴァル)』に収録、1970年にメキシコでシングル・カットされ堂々の1位にまたビーチ・ボーイズも1969年の『20/20』に収録し、1970年にはシングルが英国では5位(全米103位)と大ヒットとなっている。 
⑩監獄ロック 
 1957年にエルヴィス・プレスリーが7週連続全米1位を獲得した大ヒット曲で代表曲のひとつ。なお、全英では史上初の初登場で1位獲得曲となっている。また、この曲はプレスリー3作目の主演映画『監獄ロック』の主題歌でもあった。 1958年には日本でも、小坂一也&ワゴン・スターズや平尾昌晃などにカヴァーされ、ロカビリー時代を代表するヒット曲となった。さらに1969年には、ヴォーカルにロッド・スチュワートを擁したジェフ・ベック・グループが、セカンド・アルバム『Beck-Ola (Cosa Nostra)』でカヴァーし、大きな話題となった。 
⑪Travelin’ Band
 1968年から1970年代初頭にかけて大ブレイクしたC.C.R.が、1970年に放った12枚目のシングル。このシンプルなロックン・ロール・ナンバーは、当時ロカビリー・リヴァイヴァルのブームに乗り2週連続全米2位の大ヒットを記録した。なお彼らには、この曲を入れて5曲[<Proud Mary>(3週連続)、<Bad Moon Rising>、<Green River>、<Lookin’ Out My Back Door>]も全米2位を記録しているが、全米No.1を獲得出来なかった歌手、音楽グループの中で最多の全米2位楽曲を持つという珍記録を持っている。 
⑫Lalena 
 1965年に<Catch The Wind>でデビューし、イギリスのボブ・ディランと呼ばれた吟遊詩人ドノバンが、1968年に発表した13枚目のシングル。1960年代中頃を象徴するようなサイケデリック色の濃いメランコリックなフォーク・トラッド・ナンバーで、全米では33位を記録している。ただ、英国では契約の関係でシングル・リリースされなかった。 ⑬What’s I Say 
 スティービー・ワンダーも敬愛した盲目の黒人シンガー、レイ・チャールズがアトランティック時代に発表した代表曲のひとつ。1959年全米6位(R&Bチャート1位)を記録。 
⑳ヘイ・ジュテーム
 サルバトーレ・アダモ1969年秋のヒット。日本では1972年に発表された日本語アルバム『アダモより愛をこめて(“bonjour amis japonais!”)』の収録曲で知られる。 
㉑Anyboday’s Answer 
 1969年に結成された米国を代表するハード・ロック・バンドG.F.R.が、1969年に発表したデビュー・アルバム『On Time』の収録曲。 
㉒Heartbreaker 
 G.F.R.1st収録曲で1970年には4thシングル。大ヒットではないがライヴの定番曲で、日本でよく知られるようになったのは、1971年7月後楽園球場初来日公演での暴風雨の中の観客による大合唱から。 

 『ザ・タイガース・フィナーレ』 
1971年7月10日 /  Polydor /  MR-5004 国内チャート 10位 / 3.6万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6705 ) 
①Time Is On My Side、②青春の光と影(Both Sides Now)(ジュディ・コリンズ:1968/ ジョニ・ミッチェル1969)、③Yellow River(クリスティー:1970)、④ヘンリー8世君(I'm Henry The Eighth I Am)(ハーマンズ・ハーミンツ:1966)、⑤どうにかなるさ(サリー&シロー:1970/かまやつひろし:1970)、⑥出発のほかに何がある、⑦友情、⑧僕のマリー、⑨シーサイド・バウンド、⑩モナリザの微笑、⑪花の首飾り、⑫青い鳥、⑬銀河のロマンス、⑭君だけに愛を、⑮誓いの明日、⑯ アイ・アンダスタンド(I Understand Just How You Feel)、⑰ラヴ・ラヴ・ラヴ 
※当日の【ビューティフル・コンサート】の全演奏曲は下記の通り 
第1部 1. Time Is On My Side、2.Susie Q、 3.I Put A Spell On You(アンソニー・ホーキンス:1956/C.C.R.:1968)、4.青春の光と影(Both Sides Now)5. The Dock Of The Bay、6. Yellow River、 7.ヘンリー8世君(I'm Henry The Eighth I Am、8. Honky Tonk Women、9.Cotton Fields、10.Lalena、11.ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)、12.Gimme Shelter (ローリング・ストーンズ:1969/G.F.R.:1971)、13.あの娘のレター(The Letter)(ボックス・トップス:1968/ジョー・コッカー:1970) 、14.光ある限り(Long As I Can See The Light) (C.C.R.:1969)、15.Anybody’s Answer、16.Heartbraker 
第2部 17.都会、18.白い街、19.どうにかなるさ、20.出発のほかに何がある、21.友情、22.世界はまわる、23.僕のマリー、24.シーサイド・バウンド、25.モナリザの微笑、26.花の首飾り、27.青い鳥、28.銀河のロマンス、29.スマイル・フォー・ミー、30. 淋しい雨、31.君だけに愛を、32.美しき愛の掟、33.素晴しい旅行、34.怒りの鐘を鳴らせ、35.誓いの明日、36. アイ・アンダスタンド(I Understand Just How You Feel)、37.ラヴ・ラヴ・ラヴ 

 1971年1月24日に日本武道館で開催されたタイガースの解散コンサート(ビューティフル・コンサート)を収録した、彼らにとって通算第7作、第3作目のライヴ・アルバム。 
 実際は『~コロシアム』のライヴ同様、第1部は当時のシーンを意識したナンバーや、長年演奏してきたお馴染みの洋楽カヴァーが演奏されている。そして2部では近年のオリジナル・ナンバーとヒット曲を演奏し、まさにフィナーレを飾るにふさわしい長丁場の公演(3時間超)だった。 
 しかし、このリリースされた公式アルバムは、当日の演奏曲が大幅にカットされており、大変物足りない仕上がりになってしまっている。GSの終焉では仕方ないとは思うが、トップ・グループのラスト・アルバムとしてもう少し敬意を払っていただきたかった。 

参考1:カヴァー収録曲について 
①Time Is On My Side 
 ノーマン・ミードの書き下ろしで、1963年にジャズ・トロンボーン奏者カイ・ワインディングと彼のオーケストラがオリジナルといわれる。その後、1964年にソウル・シンガー、イルマ・トーマスとストーンズがカヴァー[セカンド・アルバム(米『12×5』、英『No.2』)]した。なお、ストーンズ版は4枚目のシングルとなり、全米6位を記録。 
②青春の光と影 
 1961年『A Maid of Constant Sorrow』でデビューした“青い眼のジュディ”ことフォーク・シンガー、ジュディ・コリンズが、1967年に大ヒット(全米8位)させた彼女の代表曲。同年、グラミー賞ベスト・フォーク・パフォーマンス・オブ・ザ・イヤーを受賞し、アン・マレーやフランク・シナトラなど多くがとりあげ、スタンダード・ソングの仲間入り。この曲の作者ジョニ・ミッチェルも1969年のセカンド・アルバム『Clouds(邦題:青春の光と影)』でセルフ・カヴァーしている。 
③Yellow River 
 1967年<When The Work Is Thru'>でデビューしたジェフ・クリスティー率いる英国3人組クリスティーが1970年に発表した第4作。この軽快なナンバーはまたたくまに全英1位に輝き、全米でも23位を記録、日本はじめ世界26ヶ国で1位となった。彼らはこの曲に続く<想い出のサンバーナディーノ(San Bernadino)>が全英7位(独1位)、翌1971年の<うわさの男(Man Of Many Faces)>も独で2位と気を吐いている。 
④ヘンリー8世君 
 1964年に<朝からゴキゲン(I'm into Something Good)>でデビューした英国バンド、ハーマンズ・ハーミッツが1965年にリリースした米国6枚目のシングルで、<ミセス・ブラウンのお嬢さん(Mrs. Brown, You've Got a Lovely Daughter)>に続き、全米1位を記録した彼ら代表曲のひとつ。 
⑤どうにかなるさ  
 ザ・スパイダースのかまやつひろし(以下、ムッシュ)が、グループ在籍中の1970年に発表したソロ・デビュー曲(50位)。元々はザ・タイガースのサリーとシローのアルバム『サリー & シロー トラ70619』への提供曲だった。この曲はムッシュのルーツとも言われるハンク・ウィリアムスの<淋しき汽笛((I Heard That) Lonesome Whistle)>をモチーフにしたといわれている。なお1971年6月、スパイダース解散後に発表されたムッシュのセカンド・アルバム『どうにかなるさ/アルバムNo.2』に収録。 
⑯アイ・アンダスタンド 
 1961年に米国コーラス・グループ、G-クレスフが<蛍の光(Auld Lang Syne)>をモチーフに全米6位に送り込んだヒット曲。その後、1964年にフレディ&ドリーマーズやハーマンズ・ハーミッツがカヴァー。ちなみにタイガースのカヴァーはハーマンズがベース。

*1)A面は5種類で、「あなたに電話するピー」(盤の色は青、BGM「君だけに愛を」~ただし、タイガースの演奏ではない、以下同)、「あなたとドライブするサリー」(盤は黒、BGM「シーサイド・バウンド」)、「あなたとデートするトッポ」(盤は緑、BGM「落葉の物語」)、「あなたと散歩するタロー」(盤はオレンジ、BGM「モナリザの微笑」)、 「あなたにささやくジュリー」(盤は赤、BGM「星のプリンス」)。いずれも本人のナレーションが収録されており、メンバーの個性がよく分かる内容になっている。B面は共通で、全員が出演する「お部屋でおしゃべりタイガース」だが、最後に2曲収録されている。  この2曲のクレジットの記載はないが、ジュリーが「愛しのデラ」と紹介して始まる曲(作詩=山上路夫、作・編曲=すぎやまこういち)と、「チョコレートは、めぇ~い~じぃ~」のフレーズでおなじみの明治チョコレートCMソング(タイトルは「明治チョコレート・テーマ」で、作詩・作曲=いずみたく)。 後者は間奏部分に<落葉の物語>のフレーズがインサートされるタイガース・ヴァージョンだが、アレンジはすぎやまこういちによるものと思われる。 
                              (鈴木英之)