2019年1月26日土曜日

small gardenが「木漏れ陽」のMVと「残夏」をフルレングスで公開

 2017年11月に紹介した小園兼一郎(コゾノ ケンイチロウ)によるソロ・ユニットsmall garden(スモールガーデン)の『歌曲作品集「小園」』から、リード・トラック「木漏れ陽」のMVが昨年12月より公開されている。
 この曲を初めて耳にした時の印象は今でも憶えているが、イントロの4小節を聴いて直ぐにsmall gardenに世界観に引き込まれてしまった。 
 チェンバロ(ハープシコード)のフレーズにアコーステック・ギターの刻み、フルートのオブリ等のサウンドにはエンニオ・モリコーネ、スウィートなヴァースとビターなサビのメロディー・ラインを活かすコード進行にはマイケル・フランクスからの影響を感じさせる。そして何よりリード・ヴォーカルの山本ひかり(野沢菜)のナチュラルな声質によって、この曲が一層ブリリアントな輝きを放っているのだ。


   

  そして、昨年リリースされたサードEPの『歌曲作品集「小園Ⅱ」』から、筆者が昨年のベストソングとして選出した「残夏」と、「シュールポワール」が、筆者の希望もありフルレングスで試聴出来るようになっている。 

 「残夏」 

「シュールポワール」

 前者はかのスティーリー・ダンの「aja」に通じるハイブロウなジャズ・ロック・ソナタであり、フルレングスで聴いてこそこの曲本来の真価を得られる。
後者は無重力な5拍子のリズムと独特なコード進行が特徴的なソウル・ポップだ。



 興味を持った良識ある音楽ファンは、『歌曲作品集「小園」』と『歌曲作品集「小園Ⅱ」』を入手し、高音質でじっくり聴いて欲しいと切に願う。 
(テキスト;ウチタカヒデ


2019年1月16日水曜日

【ガレージバンドの探索・第四回】 Downliners Sect


ガレージバンドとして一括りにはできないかもしれないけれど、ガレージ愛好家からの人気も高いDownliners Sect(ダウンライナーズ・セクト)。
長年聴いてはいたものの、どんなバンドなのか詳しく知らなかったので活動の流れを整理してみることにした。1977年に再結成し現在も続いているのだけれど、主に60年代の活動を対象にした。

1962年 
ロンドン近郊のトュイッケナムで、後にDon Craineの名で知られるMichael O' Donnellが、Downliners Sectの前身となるThe Downlinersというバンドをスタートした。
バンドの名前はJerry Lee LewisのB面曲「Down The Line」からきているそうだ。 このバンドはフランス・ツアーに行ったりコンテストに出たりもしていて活動は精力的だったようだけれど、コンテストで決勝にいったにも関わらず一部のメンバーがガールフレンドの事情で現れずチャンスを失ったり、トラブルが多かったらしい。

1963年
メンバーチェンジを経て、リズムギター、ボーカルのMichael O' Donnell、ドラマーのJohnny Sutton、リードギターのMel Lewis、もともと別バンドではドラマーだったArthur Keith Evansがベース、ボーカルとなり、この4人で心機一転スタートする。
始めはChuck Berryの曲を演奏していたようだけれど、The Rolling Stonesを観て影響を受け、StonesスタイルのR&Bを演奏し始める。しかしMel Lewisは医者を目指す為早い段階で脱退。リードギターとしてTerry Clemson(後にTerry Gibsonに改名) が加入した。
バンド名はDownliners Sectに変更され、Michael O' DonnellはDon Craineに、Arthur Keith EvansはKeith Grantにステージ・ネームを変更した。初期アルバムのクレジットは元の名前のままだったりするので混乱しやすい。

この時代、Alexis Kornerが経営するザ・イーリング・クラブ(元イーリング・ジャズ・クラブ)などに出入りし、Alexis Korner、Cyril Daviesが結成したAlexis Korner's Blues Incorporatedの元でブルースを学ぶ若いバンドが数多くいた。Downliners Sectもその中のひとつで、特にCyril Daviesからの影響が強かったようだ。
ロンドンの多くのクラブで演奏し評判となっていたDownliners Sectには、当時Steve Marriott、Rod Stewartなどが加入を希望したそうだけれど、断ったという。
この頃からDon Craineが着用したディアストーカー・ハットは彼のトレードマークとなった。
※80年代の終わりに結成されたイギリスのガレージバンド、Billy Childish率いるThee Headcoatsのバンド名はこのDon Craineの帽子に由来している。

90年代に、このThee HeadcoatsとDownliners Sectの合体ユニットでのEPとアルバムがリリースされている。
Thee Headcoats Sect Featuring Don Craine『Headcoats On』(LYNCH 1-EP) 1991
Thee Headcoat Sect『Deerstalking Men』(SCRAG 8-CD / SCRAG 8.CD / SCRAG 8-LP) 1996
Thee Headcoats Sect『Ready Sect Go!』(ASKLP 99/ASKCD 99) 1999

Downliners Sectの最初のレコーディングは1963年で、 「Cadillac」と「Roll Over Beethoven」を録音していたのだけれど、これは80年代までリリースされなかった。
最初のリリース作品は、この年ロンドン中心部のスタジオ51(Ken Colyer Jazz Club)で録音されたライブ盤EP『At Nite In Gt. Newport Street』(Contrast Sound RBC SP 001)で、マイナー・レーベルでの小規模なものだったけれど人気があり、特にスウェーデンのラジオ局で頻繁に流されたことと、あるスウェーデンの裕福な家の娘に気に入られたことが、北欧で人気に火がつくきっかけとなったらしい。

1964年
Studio 51で出会ったハーモニカプレイヤーのRay Soneが加入。
その後バンドは音楽出版社Campbell Connellyと3年間でアルバム3枚、シングル年間3枚の契約を結んだ。Campbell ConnellyはEMI/コロンビアと原盤、出版契約を結び、Mike CollierプロデュースでDownliners Sectの第1弾シングル、Jimmy Reedのカバー「Baby What’s Wrong」をリリース。
「Baby What's Wrong」/「Be A Sect Maniac」(Columbia DB7300)
年の終わりにはR&Bのカバー中心の1stアルバム『The Sect』(Columbia 33SX1658)をリリースした。参加しているセッション・ピアニストはおそらくIan Stewartのようだ。
※John Paul Jones、もしくはBrian Jonesという説もある。(スペイン盤(Munster Records‎–MR244)では、収録曲「One Ugly Child」のピアノはJohn Paul Jonesがクレジットされている)


同時期に録音された第2弾シングル、The Coastersのカバー「Little Egypt」は翌年スウェーデンで大ヒットする。
「Little Egypt」/「Sect Appeal」(Columbia DB7347)
第3弾シングル「Find Out What's Happening」はヒットに至らなかったそうだけれど、個人的には気に入っている曲。原曲はThe Spidells。
「Find Out What's Happening」/「Insecticide」(Columbia DB7415)


※その他、この年に録音されるも失われていた音源が収録されたEP『Brite Lights-Big City』(RBCSP 002)が2011年にリリースされている。

1965年
この年の春、Ray Soneはライブに遅刻したことで解雇される。新たなハーモニカプレイヤーとしてPip Harveyが加わり、新体制でバンドはスウェーデンを訪れた。
ストックホルムのアイスホッケースタジアムでの演奏は、10,000人を超える観客を前にしてのものだった。静まらなければコンサートを止めると警察が制するほどの盛り上がりだったそうだ。夏の終わりにスカンジナビアでツアーを行い、クラブやアミューズメントパークで大観衆に向けて演奏した。

そんな人気が高まっている中、これまでとスタイルの異なるカントリー志向の2ndアルバム『The Country Sect』(Columbia DB7817)をリリースする。
アルバム単位での大胆な路線変更に戸惑うファンも多かったらしい。これまでのDownliners Sectのファンからもカントリーのファンからも評判が悪く、ここからの曲はライブでは滅多に演奏されなかったという。


この年リリースされたシングル「Wreck of the Old '97」の原曲は1903年に起きたサザン鉄道の列車事故を歌ったオールドタイム・バラッドで、カントリーミュージックに大きな影響を与えた曲。
1933年に、この事故現場の地元住民だったDavid Graves Georgeが原作者として名乗りを上げ裁判で認められるも、その後の上訴でRCA Victorの所有となった。
「Wreck Of The Old '97」/「Leader Of The Sect」(Columbia DB7509)

別の2枚のシングルは『The Country Sect』からの曲で、1枚が「I Got Mine」。Tommy Collinsのカバーで、テレビ放送もされスウェーデンでヒットした。
「I Got Mine」/「Waiting In Heaven Somewhere」(Columbia DB7597)

もう1枚「Bad Storm Coming」はDon Craine、Keith Grantによって書かれたオリジナル曲で、ヒットには至らなかったものの、他のミュージシャンにカバーされたりと、評判は良かったらしい。
「Bad Storm Coming」/「Lonely And Blue」(Columbia DB7712)
『The Country Sect』の前にも変わったEPをリリースしていた。 『The Sect Sing Sick Songs』(SEG 8438)という4曲入りのコンセプトEPで、1曲目の「I Want My Baby Back」の原曲はJimmy Cross(アメリカのラジオプロデューサー)が1965年にリリースしたノベルティ / デス・ソング。恋人同士でThe Beatlesのコンサートに行った帰り道に交通事故に遭い、彼女が亡くなってしまうという歌。Downliners Sectのカバーでは、セリフの“The Beatlesのコンサート”の部分を“Sect(Downliners Sect)のコンサート”と置き換えて歌っている。
BBCには禁止されていたけれど、スウェーデンのラジオで度々流された。

 

1966年
ある日ライブに行く途中メンバーはPip Harveyを迎えに行き、家の前で待っていたけれど彼は現れずそのまま行方をくらましてしまう。原因は定かではないけれど、警察に追われていたらしい。
4人になったメンバーは再びロックサウンドに戻り、1966年春、3rdアルバム『The Rock Sect’s In』(Columbia 33SX 6028)をリリースした。


この年リリースされたシングル「All Night Worker」はスタンダードなR&Bのカバー曲で、原曲はRufus Thomas。
「All Night Worker」/「He Was A Square」(Columbia DB 7817)
次のシングル「Glendora」はRay Stanleyによって書かれた、マネキンに恋をした男の歌で、1956年にリリースされたJack Lewis with Zippy Simms Orchestraバージョンが原曲である。同年にPerry ComoやGlen Masonがカバーしている。Downliners Sectは、1963年のBilly Youngのバージョンを直接の参考にしていると思われる。
「Glendora」/「I'll Find Out」(Columbia DB7939)

年の終わり、メンバー達は状況に不満を持ち始める。
音楽シーンは変わりR&Bが下火になっていたことに加え、プロデューサーのMike Collierにも不満を感じていた。メンバーが書いた曲でもクレジット表記を自分に偽ろうとする人物だったらしく、Mike Collier作となっていても実際は作曲に関わっていない可能性もあるようだ。
この時期リリースされたシングル曲「The Cost Of Living」の原作者はGraham Gouldman, Peter Cowap, Harvey Lisberg。
最初のリリースはDownliners Sectと思われるけれど、もともとは別のミュージシャンへの提供曲だったかもしれない。 詳しい経緯がよく分からなかったけれど、Graham GouldmanのHPでは仕事のひとつとしてDownliners Sectのバージョンが記載されていた。Graham Gouldmanのデモをそのまま使用していて、追加録音されたのはアコースティックギターとボーカルだけのようだ。
「The Cost Of Living」/「Everything I've Got To Give」(Columbia DB 8008)

1967年
Don CraineとKeith Grantは新しくDon Craine’s New Downliners Sectをスタートする。ラインアップはリードボーカルDon Craine、ベースボーカルKeith Grant、リードギターBob Taylor、キーボードMatthew Fisher、ドラムKevin Flanagan。
R&Bの要素は維持しつつも、サイケデリックなスタイルへと変化する。 オルガン奏者のMatthew Fisherはバンドに長くは滞在せず、別のオルガン奏者Barry Cooperが加わった。パジャマでステージに立つなど変わった人物で、メンバーと観客の両方を驚かせた。
この新体制で、パイから1枚のシングルをリリースしている。
「I Can’t Get Away From You」/「Roses」(Pye 17261)

しかしDon Craine’s New Downliners Sectも長くは続かず、Don Craineが飽きてバンドを去り、その数か月後Barry Cooperも脱退。バンドはKeith Grantが引き継いだ。

1968年~1969年 
Johnny Suttonが1968年に復帰するも、この年の終わりKeith Grantもバンドを離れ、実質Downliners Sectは一旦終了する。
1968年~1969年にスウェーデンのレーベルJukeboxから3種類のコンピレーションEPがリリースされていて、それぞれに1曲ずつDownliners Sectの曲が収録されている。
Jukebox(JSEP-5580)(Downliners Sect /Spider収録) 
Jukebox(JSEP-5584)(Downliners Sect / Lord Of The Ring収録)
Jukebox(JSEP 5586)(Downliners Sect / White Caterpilla 収録) 

参考・参照サイト 
http://www.angelfire.com/rock3/yardbird_sect/secthistory1.html 
http://www.makingtime.co.uk/downliners.html#.W_lCuuj7RPY
https://en.wikipedia.org/wiki/Wreck_of_the_Old_97
http://ontheflip-side.blogspot.com/2014/07/downliners-sect-glendora.html?m=1 

【文:西岡利恵(The Pen Friend Club)/編集:ウチタカヒデ】

2019年1月6日日曜日

Brian Wilson December 10, 1966 Letter.

平成の世から新たな御代へと移り変わる候となった、思えば先帝の御代から平成には様々な変化があった。音楽メディアにおいては、レコードからCDという大きな流れがあったが、今上帝治世の末にはCDからレコードという動きもある。
弊誌ゆえの贔屓の引き倒しではあるが、The Beach Boys/Brian Wilson復権の動きも昭和〜平成になり次第に大きくなっていったと言えよう。 1980年代はKokomoの大ヒットもあったが、Smile/Pet Sounds再評価の動きは1970年代中葉以降米国で活発化していた。1985年にドキュメンタリー映画American Bandのリリースで未公開映像や音源の数々は多くの関心を呼んだ。
一方旧作の再発は依然として進まなかったが、主にSmileのbootlegリリースのインパクトは大きく、日本にも80年代初頭には伝搬している。 1984年刊行の雑誌Forever 第6号においてその衝撃が特集され、その後米国においてもDomenic PrioreによるSmile録音時のドキュメント本『Look, Listen,Vibrate,Smile』が刊行され、The Beach Boys研究の金字塔を打ち立てている。




Smileのbootlegについて音源の流出経路はほぼ特定されていて、1979年に刊行された公式バイオ本の著者Bryon Preissとその周辺と推定されている。
理由は定かではないが、(一説によればBrianがMFQのThis Could Be The Nightをカバーしたかったが手元に音源がなく、第三者に依頼し、提供した報酬としてコピーしたテープを渡したという説もある)米国国内で関係者やライター周辺では通称Preiss Tapeとして流通していたことは確かである。
冒頭に述べたように当時の音楽メディアはテープかレコードしかなく、bootlegのレコード音源はPreiss Tapeの数世代コピーという状態であった、現代のリスナーならば身銭を切って購入するようなことは到底考えられない品質だが、ノイズの向こうから聞こえるセッションの断片は想像力をたくましくさせたものである。
筆者の記憶では80年代中葉では最初の入荷時即品切れとなり西新宿では数万円で売られていた記憶がある。
80年代以降はCDが本格的に普及し、音質も向上し1987年に世界初Smileのbootlegが登場している、こちらもダビングされた音源のコピーか何かが多かったが、それと並行してCapitolもThe Beach Boysの旧作のCD化作業を始めており、Mark Linett(先年、映画のLove and Mercyでカメオ出演している)中心に音源のデジタイズ及びマスタリングの進行を伝えるレファレンス用のテープが作成されており、これらはスタジオ関係者へ配られ、高音質のSmile音源がすでにこの時点で存在していた。 
1990年になると当時としては高音質デジタルマスタリングされたと思しきbootlegで、日本製とも言われる名盤?T-2580のリリースがあった、以降は正規盤CDやbootlegの怒涛のリリースが始まるが割愛する。 

1966年当時のBrianの息吹を伝えるアイテムを当方のコレクションから紹介しよう。

日付は1966年12月10日Smile session真っ只中の手紙であり、奇しくもGood Vibrationsが全米チャート・ナンバーワンと記録された日である。



その内容は、 

”しばらく手紙でやりとりしよう。(何かわからないけど)結果をもたらす出来事が起きるはずだと思っているよ。
何かコメントしてね。
アルバムのトレンド
シングル
コンサート
映画
広報
写真
それじゃ ブライアン”  

手紙の宛先はFred Vail、The Beach Boys結成当時から興行面で大きく関わりがあり、当時十代ながら南カリフォルニアの新興バンド中心の興行で頭角を表し、次第に全国ツアーでも興行のブッキングなどを任された人物である。
The Beach Boysにライブアルバムを提案したのもFredであり、彼の声はアルバムBeach Boys Concertの冒頭で"And now,from  Hawthorne,Califorinia,to entertain you tonight"の部分で聴くことができる。
この手紙の時点ではFredは設立前後のBrother Recordの要職にいた関係からBrianとの親密さが感じられ、筆致からはBrianの何かに憑かれたかのような興奮が伝わってくる。
(text by MaskedFlopper / 編集:ウチタカヒデ)