2018年5月30日水曜日

追悼 西城秀樹



去る2018516日に1970年代一世を風靡したビッグ・スター西城秀樹さん(以下、ヒデキ)が急性心不全で亡くなった。その報道は「NHKニュース」や「報道ステーション」でもトップ扱いで、また号外が発行されるなど、ビッグ・ニュースとして日本中を駆け巡り、あらためて彼の存在の大きさが立証されている。なお彼は私と同年齢の63歳だった。



 実は私がこのWeb.VANDAへの投稿要請を受けたのには少なからず彼と縁がある。というのも、VANDA30に寄稿した70年代アイドルのライヴ>はヒデキさんのパフォーマンスに触発されてまとめたものだ。それは彼が75年のツアーで歌うMy Eyes Adored You(邦題:瞳の面影)」に衝撃を受けたことがきっかけだった。この曲を取り上げた彼の選曲センスに興味を持ち、生前の佐野さんに話したところ、「鈴木さんしかできないテーマだから、絶対にやってみるべき!」と興味を持ってくれたので、勢い任せで始めたコラムだった


現在Web.VANDAでは「佐野邦彦氏との回想録」を投稿しているが、これを済ませた後にはこのコラム完全なものに再構築してまとめる準備をしています。そこで今回はその予告とヒデキさんの追悼を兼ねて、彼が残したライヴ・アルバムを簡単に振り返ってみたいと思います。

ちなみに彼は1972年<恋する季節>でデビューし、同年に『ワイルドな17歳』でアルバム・デビュー、そして翌年には初ライヴ・アルバム『西城秀樹オン・ステージ』を発表している。以後、1985年までほぼ毎年(1982年除く)トータル15作のライヴ・アルバムをリリースしている。このコラムはその中で、1970年代にリリースした(ミュージカル除)10作について検証をしている。


今回はこの10作の中で、長年愛聴している1975『ヒデキ・オン・ツアー』、1978年『バレンタインコンサート・スペシャル/西條秀樹愛を歌う』、1979BIG GAME’79 HIDEKI』の3作を紹介する。なお曲の後の()内はオリジナル・タイトルと、オリジナル(とカヴァー)・アーティストと発表年になっている。


『ヒデキ・オン・ツアー』(1975.9.25.) <JRX-8017-18
①オープニング、②ブロー・アップ・マン、③愛を求めて、④恋の暴走、⑤Get Dancing(ディスコ・テック&セックス・オー・レターズ1974)、⑥瞳の面影(My Eyes Adored You)(フランキー・ヴァリ:1976)⑦港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド:1975)、⑧激しい恋⑨ケニーのバンプ(The Bump)(ケニー:1975)、⑩青春に賭けよう、⑪情熱の嵐、⑫ダイアナ(ポール・アンカ:1959)、⑬Blue Suede Shoes(カール・パーキンス:1961)、⑭朝日のあたる家(The House of The Rising Sun)(ボブ・ディラン:1962/アニマルズ:1965/フリジド・ピンク:1971/ジョーディー:1973)、⑮S.O.S.(エアロスミス:1974)、⑯Heartbreaker(グランド・ファンク・レイルロード:1971)、⑰この愛のときめき、⑱傷だらけのローラ(フランス語)、⑲この愛の終るとき(Comme Si Je Devais Mourir Demain)(ジョニー・アリディ:1972)、⑳明日への愛〜グッド・バイ・ガールズ

1975年に敢行されたヒデキ初の全国縦断コンサートを収録。演奏はふじ丸バンド(後のShogun)とザ・ダーツ、編曲は惣領泰則が担当している。
ハイライトは、吉野藤丸とのデュエットで歌い上げる②だ。個人的見解だがこの曲は⑤とソングライターが共通(注1)というところからのチョイスかもしれない。
さらにファンをステージに上げダンス大会⑨、続くヒデキのライヴ定番⑩(注2)
ではそのステージ上のファンと会場内の大合唱で一体感が伝わってくる。そしてジョーディーに触発されたとおぼしき⑮、ほとばしるエネルギーが発散するエアロスミスの初期ナンバー⑮のチョイスはいかにも彼らしい。
ちなみにこのライヴは『BLOW UP! HIDEKI~ヒデキ・オン・ツアー』としてテレビ放映され、後にビデオも発売されている。


『バレンタインコンサート・スペシャル/西條秀樹愛を歌う』(1978.6.25.<RVL-2053-4>
①オーバーチュア、②マイ・ファニー・バレンタイン(1937/ジュディー・ガーランド:1939/フランク・シナトラ:1945/チェット・ベイカー:1954)、③夜のストレンジャー(フランク・シナトラ:1966/ベット・ミドラー:1973)、④カタログ、⑤ロマンス(ナレーション)、⑥ラストシーン、⑦この愛のときめき⑧ナタリー(Umberto Balsamo1975)、⑨愛は限りなく(Dio Come Ti Amo)(ドメニコ・モドゥーニョとジリオラ・チンクエッティ;1965⑩ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン(ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス:1967/ヴァニラ・ファッジ:1968)、⑪心のラヴ・ソング(Silly Love Song)(ポール・マッカートニー&ザ・ウィングス:1976)、⑫ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema(アダモ:1969) ⑬ブーツをぬいで朝食を、⑭青春に賭けよう、⑮君よ抱かれて熱くなれ、⑯傷だらけのローラ、⑰セイル・アウェイ(ランディ・ニューマン:1971)、⑱若き獅子たち、⑲お休み(井上陽水:1973

1978214日「新日本フィルハーモニー」初共演の日比谷公会堂でのライヴ。夏の野外コンサートから一転し、オーケストラをバックに渋めのレパートリーで固められているところに注目したい。
それを象徴するのがシナトラのスタンダードをべッド・ミドラ風(注3)にアレンジした③、フルオーケストラでよりに洗練されたナンバーに仕上げている。またシュープリームスのテイクをベースにした⑩は、もしこの年にロッド・スチュワートが発表する新作(注4)収録のカヴァーを聴いていたとしたら、彼がどのように仕上げたのか気になるところだ。また⑰のような渋いチョイスにも好感が持てる。
こんな贅沢なライヴの中でファンとの一体感を強く感じさせてくれるのは、やはりファンの大合唱が始まる⑭だろう。補足ながら、この曲は後にアカペラでも録音されるヒデキのお気に入りで、彼のライヴには欠く事の出来ないナンバーだ。


BIG GAME’79 HIDEKI』(1979.10.9.)<RVL-2077-8
①オープニング、②ウィー・ウィル・ロック・ユー(クイーン:1976)、③ラヴィング・ユー・ベイビー(I Was Made for Lovin' You)(キッス:1978)、④オネスティ(ビリー・ジョエル:1976)、⑤ホット・スタッフ(ドナ・サマー:1978)、⑥いとしのエリー(サザンオールスターズ:1978)、⑦ブルースカイブルー、⑧ドント・ストップ・ミー・ナウ(クイーン:1976)、⑨エピタフ(キング・クリムゾン:1971)、⑩シェイク・ユア・ハンド(I Wanna Shake Your Hand)(ヴィレッジ・ピープル:1979)、⑪ゴー・ウエスト(ヴィレッジ・ピープル:1978)、⑫愛する君に(I'll Supply The Love)(トト:1979)、⑬勇気があれば、⑭ホップ・ステップ・ジャンプ、⑮この愛の終る時(Comme si je devais mourir demain)(ジョニー・アルディ:1972)、⑯ヤングマン(Y.M.C.A.)、⑰セイリング

⑯が空前の大ヒット直後1979824日に開催された後楽園球場コンサート。当日は1971年に開催された暴風雨のGFRコンサート再現のような悪天候で、収録不能でスタジオ録音と差し替え(⑦⑬)もあるほどだった。
ここではヴィレッジ・ピープルの曲が3曲もチョイスされ、⑪は人形劇「飛べ!孫悟空」(注5)の挿入歌でなければ、シングルにしても良いほどの出来ばえだ。ディスコ・ヒット③⑤はありがちな選曲だが、最新曲⑫のチョイスは流行に敏感な彼らしい選曲だ。
さらにここでの最大の聴きどころは雷鳴が効果的なSEとなって響き渡る中で歌うプログレの名曲⑨(注6)。そこにはヒデキらしい情念に満ちた幻想的な世界が感じられる。


 以後1985年までコンスタントに充実したライヴ・アルバムを発表しているが残念ながら、その膨大なリリース数のゆえ、コンプリートのCD化が遅れている。なおこの中で完璧な形でCD化されているのは、BIG GAME’79 HIDEKI』(1990RCA CD名盤選書/BVCK-380245>)のみで、その他には1999年に発売された6枚組 CDボックスとして、デビューから1985年までにリリースされたライヴ・アルバムのセレクション集があるにすぎない。
 今回の逝去により、ヒデキ関連のアイテムにオーダーが舞い込んでいるようだが、ライヴ・アルバムについては相変わらず置き去りにされたままだ。近年は野口五郎、岩崎宏美や桜田淳子など1970年代アイドルのライヴ・アルバムがオリジナルな形での復刻が進んでいる。この機会にヒデキのリアルな姿を体感できるライヴ・アルバムのコンプリートな形での復刻を願って止まない。

(注1)フォーシーズンズのプロデューサー、ボブ・クリューと1977年の全米1位「I Like Dreamin’」のヒットを持つケニー・ノーラン作。1976年放映の「セブンスターショー」でもこの曲のパフォーマンスが確認できる。
(注2)例えるなら、沢田研二「気になるお前」、山下達郎「Let's Dance Baby」、角松敏生「Take Me To The Sky High」、Perfume「ジェニーはご機嫌ななめ」的なナンバー
(注31976年にベット・ドラーがサード・アルバム『ベット・ミドラー3Songs for the New Depression)』に収録したディスコ・ヴァージョン。
(注4)1978年のソロ第8作『明日へのキック・オフ(Foot Loose And Fancy Free)』。
(注5)197779年に放送されたテレビ人形劇。声優はザ・ドリフターズで、主題歌「スーパーモンキー孫悟空」はピンク・レディーが歌っていた。
(注6)Radio VANDA第117回(2010.1.7.)「洋楽カヴァー特集」にてオンエア。
201853016

2018年5月20日日曜日

桶田知道:『秉燭譚』(考槃堂商店/ KHDR-001)


 昨年5月に『丁酉目録』をリリースし、その後ソロ・アーティストに転じた桶田知道が、1年というインターバルでセカンド・アルバム『秉燭譚(ヘイショクタン)』を5月23日にリリースする。
 最早元ウワノソラという経歴は要らないかも知れないが、彼のサウンド・スタイルは多くの著名人をも虜にしている。最近約7年ぶりにニュー・アルバムをリリースしたTHE BEATNIKSで高橋幸宏氏とタッグを組む鈴木慶一氏(ムーンライダーズのリーダーとしても知られる)や、筆者と交流がある漫画家でイラストレーターとしても高名な江口寿史氏など音に拘りを持つクリエイターからも評価が高いのだ。
 また昨年ソロ・アーティストとして独り立ちしたのを機に、自ら立ち上げたレーベル、“考槃堂商店”からの第一弾リリースという記念碑的作品となるので彼自身も感慨深いだろう。

   
 アルバムに先行して3月23日にはリード・トラックの「トラッカーズ・ハイ」のMVを公開し、mp3音源を無料配信して多くの音楽通を唸らせ、期待は高まるばかりだった。
 前作『丁酉目録』より明らかに進化したサウンドの緻密さと詩情溢れる歌詞の世界観の融合は、やはり唯一無二の存在であることは間違いない。
また本作での新たな特徴としては、ソングライティングのパートナーとして桶田の友人である岩本孝太が加わったことだろう。彼は全10曲中8曲で作詞を手掛けているが、これが作詞家デビューとは思えない言葉のセレクトを持ち、スクリプト・ドクターとして本作には欠かせない存在となっている。

 
     
 では本作の主な曲を紹介していこう。 
 冒頭の「凄日(せいじつ)」は、木琴系シンセのミニマルなフレーズとフレットレス・ベースのラインが印象的なやや早いテンポの曲である。桶田自身の作詞で、古風な言葉選びがモザイクのように配置され前作『丁酉目録』からの世界観を踏襲している。
 続く先行発表されたリード・トラックの「トラッカーズ・ハイ」は、循環コード・テクノの傑作として聴けば聴き込むほど耳に残る曲調とサウンドである。この曲に限らずだが、彼をはじめウワノソラの角谷やLampの染谷と永井など筋金入りの音楽通が作る曲は、リード・ヴォーカルの主旋律に対する間奏部の旋律、またオブリガートが非常に巧みに構築されていて、聴き終えた後のサブリミナル効果が高く、リピートさせる中毒性がある。
 ともあれ江口寿史氏も絶賛したこの曲は本作を代表する1曲といえよう。

 本作中筆者が最も好むのは、次の「逢いの唄」である。
 4月初頭に本作のラフミックスが送られてきて、イントロもなくいきなり始まるこの曲の持つポテンシャルの高さに一聴して惚れ込んでしまったのだ。
 岩本が描く刹那的青春のロマンティシズムな歌詞と、ハッシュ系ミッド・テンポのリズム・トラックのグルーヴが渾然一体となった美しさがここにある。本当に多くを語りたくないが、今年のベストソングの第一候補と称すれば分かってもらえるだろう。

 本作中盤となるインストの「篝」から「コッペリア」の流れは、ポップスの範疇では収まらないプログレッシブ・ロック的展開が非常に面白い。アナログ系シンセのフレーズが印象的なスローなミニマル・リズムを持つ前者から一転、緊張感のあるストリングス系シンセの刻みと鮮烈な変拍子が特徴的な後者のドラマティックな構成には脱帽する。
 この曲では岩本によるレトロなSFテイストの歌詞がジブリ・アニメにも通じる。この感覚は「高原のフラウ」にも言えるが、歌詞そのものが映画のスクリプト的広がりを持っているのだ。
  
 終盤の「船は漕いでゆけ」は2ビートの軽快な曲調に、ティンパニーの響きやバンジョーのフレーズがプリティーで牧歌的なサウンドになっていて、XTCの『The Big Express』(84年)にも通じる英国感が楽しい。
 そしてラストの「砂の城と薊の花」は8分を超える大作バラードで、ほぼオーケストレーションとスネア・ロールのみをバックに歌われる。
映画的視覚を持つ歌詞とサウンドを誇る本作のエンドロールに相応しい感動的な曲と言えよう。  

 なお本作は自主製作盤というスタイルのため扱う店舗も限られるが、桶田が主宰する“考槃堂商店”のオンラインストアでは予約を始めており、早い購入者には既に発送されているという。
 筆者のレビューを読んで興味をもった音楽ファンは、是非入手して聴いて欲しい。

【考槃堂商店】特設ページ:
https://www.kouhando.com/heisyokutan

 

(ウチタカヒデ)



2018年5月16日水曜日

佐野邦彦氏との回想録13・鈴木英之


この回想録も「VANDA27」まで進み、今回紹介する「28」の製作期間となった2001年の中ごろから2002年の春頃になるのだが、この頃佐野さんは本誌以外の課外授業がさらに加速していた。そんな佐野さんの主たるスケジュールは、月1回のRadio VANDA、そしてWebVANDAへの日々情報発信に勤しんでいた。
まずRadio VANDA、ここでは彼にしかできない“佐野ワールド”が全開だった。例えば第21回のPat Upton(注1)特集など、「世界広しといえどここでしか聴けないプログラム!」と独自の視点のプログラムが組まれていた。さらに、VANDAスタート以前から探求している富田勲関連のアニメ・サウンド・トラックの特集も第15回に放送しているが、さらに本誌「28」に連動した特集も第23回で放送している。

またWeb.には続々リイシューされるCDや、1960年代の貴重DVDを入手しては、投稿を続けていた。その活動状況はサラリーマンの片手間で出来る範囲を逸脱しており、その多忙ぶりに、VANDA28の入稿を終えたのちに体調を崩して寝込んだと聞いた。
とはいえ彼のもう一つのLife Workとしていた沖縄離島への家族旅行(1999年より開始)もきっちりとこなしている。この2001年は6/2225にかけて34日で敢行した八重山諸島旅行記は「28」に6Pに渡って詳細に記されている。私自身もスキューバーダイビングのライセンスを取得した直後は、沖縄離島(慶良間諸島にある会社所有保養施設)に通っており、離島には馴染みがあったので、興味深く読ませてもらった。
そんな私にも音友の木村さんから「先日対談した林先生からオファーがありました。」という課外授業のメールが届いた。内容は彼の音楽作家生活30周年を記念したHistory本の制作依頼で、コピレーションCD(注2)と連動した企画と伺った。個人的に同郷出身(注3.)で、また清水エスパルスのファン(注4.)という話題で、より親近感を持ったので舞い上がるような気分だった。余談ながら、前回のインタビュー直前に林さんが音楽を手掛けたテーマ・パークのひとつ「レオマワールド」(注5)に、事前調査と家族旅行を兼ねて出向いている。そのインタビューではほとんどふれることはなかったが、こんな形で役に立つとは思わなかった。

2001年の春に初の打ち合わせで上京することになったが、彼の書下ろし曲が(その時点で)1,500曲はあるという話を聞き、打ち合わせまでにそのリストをまとめねばとあせっていた。そこで金沢工業大学PMCスタッフに協力いただき、書庫に籠って、所蔵レコードをチェックさせてもらった。とはいえ限られた時間ゆえ、500曲程度しか調査出来ず、不安交じりで打ち合わせに臨んだ。
当日、開口一番「リストが完璧になっていない」ことを告げると、「大丈夫、私の方にありますから」と本人の持参リストが渡された。そこにまとめられていたのは200曲程で、私のリストを見た林さんは大変驚かれ、その場で「全権依頼」の信頼を得た。そんな流れで当日の打ち合わせはすんなりと進んだ。なおここに佐野さん不参加だったので、その日のことを連絡すると、「鈴木さんらしいね!」と笑っていた。
その日から年末に向けて『林哲司全仕事』の制作がスタートした。項目については「History」「Works」「Disc Selection」以外に、三島にある林さんのスタジオ訪問と、著名人とのインタビューのラインナップも(ここのみ敬称略)萩田光雄、竹内まりや、杉山清貴、新川博、朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一の7名がリスト・アップされた。すべてを一人でこなすのは厳しいと判断し、割り振りを決めた。まずスタジオ訪問は、ミュージシャンでオメガトライブのフリークでもある後輩K君と共同作業、彼には杉山さんのインタビューも依頼。また「まりやさんをどうしてもやりたい!」と手を挙げた松生さん、以外の5名を私が担当することにした。
この日から製作開始となったが、まず手を付けたのが、彼が手掛けた映画やテレビ・ドラマのサントラのチェックだった。幸いにもほぼ既発ビデオがほぼ揃ったので、しばらく映画鑑賞の日々が続いた。またインタビュー取材用資料として萩田光雄さん、新川博さんに関する編曲ワークス・リストつくりにも精を出した。
そして、いよいよ木村さん同行でインタビューを開始した。トップは林さんのYAMAHA時代の先輩であり、1970年代の日本の音楽シーンには欠く事の出来なかった重鎮で私の高校時代からの憧れ、作・編曲家萩田光雄さんになった。場所は品川プリンス・ホテルで、当日は林さんに関わったリストに加え、これまで手掛けた編曲リスト300曲程の作品を作成して臨んだ。対面時、そのリストに目を通された萩田さんはその内容に感心され、和んだ雰囲気の取材となった。林さんについては、「天国に一番近い島/原田知世」と「入れ江にて/郷ひろみ」(注6)にポイントをしぼっていた。それは大ヒットだけでなく、アルバム収録曲での印象が絶対必要と感じていたからだ。その回答をすんなりお話された萩田さんには「さすが!」と感嘆するばかりだった。その流れで、林さん関連以外の音楽談話にもお付き合いいただくことができた。そんな流れで初取材は充実度200%といえるほどだった。帰り際に萩田さんから「このリスト頂いていい?」と光栄な申し出に、私は「どうぞ、どうぞ」と即座にお渡しした。

幸先の良いスタートで、続いてはユーミンのバックなどで著名なキーボード・プレーヤで2000年には自身のレーベルを設立していた新川博さんとなった。場所は彼のスタジオで、ここにも本人のワークス200曲程度のリストを持参し、同行を希望したK君にも帯同してもらった。この取材も、リスト制作が功を奏し本論以外に大変興味深い裏話なども飛び出し、こちらも順調に終了した。その帰りには、新川さんの新作CDをお土産に頂き、「今回のリストをH.P.に使用したい」との要請を受け、帰宅後データ送信した。

この重鎮おふたりに続いては、林さんの存在無しには語れない杉山清貴さんとなった。当時は古巣Vapレコードに復帰(注7)で多忙中ながら、林さんのためにと快く協力していただいた。当初はK君単独予定だったが、原稿起こしのため私も同行した。取材はVap本社で、K君の満足げな表情に象徴されるように順調に進んだ。終了後、今回の本でも新作の告知協力する運びとなった。なお、このインタビューをきっかけに杉山さんは林さんに新曲のオファーを入れ、翌年リリースしている。またこの時期には『杉山清貴&オメガトライブBox/Ever Lasting Summer』を制作中で、その後この取材をきっかけにK君は『1986&カルロス・トシキ&オメガトライブBox/Our Graduation』のオファーを受けた。
このようにインタビューは順調に進行していったが、竹内まりやさんは新作(注8)キャンペーンで大忙しの中、体調を崩されてダウンされ、しばらく保留となってしまった。そんな訳で、他の対談相手(朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一)は予定が決められず、「電話インタビュー」に切り替え、音友の応接室に出向いた。
まずは朝妻一郎さん(注9)からスタート。ここでは私がFM雑誌で彼の存在を知ったまだ無名時代を中心に伺った。電話ながら、デビュー当時の興味深い情報を聞きだし、実りの多い取材となった。そして、映画プロデューサーの奥山和由さん。こちらは林さんが担当した映画のサントラ(注10)の話題に終始した。そこでは現在進行中の作品の話まで広がり、林さんの最新作(注11)の話にふれると、「その音源を是非聴きたい!」とかなり本気モードに及んだ。終了後即この話を林さんにお伝えすると、彼は感激してサントラCDを送付している。最後に音楽プロデューサー藤田浩一さん(注12)、彼には作曲家林さんと黄金コンビで大活躍したVap時代の活動を聞かせていただいた

このようにインタビューはほぼ完了し、次は林さんのスタジオ(三島の自宅併設)取材を敢行することになった。ここには、私とK君に木村さんの三人で23日のスケジュールで現場に出向いた。そこに向かう途中でK君と「林さんはどんな車乗っているんだろうね?」という話題になり「もしかして「真っ赤なロードスター」?」(注13)と身内ネタで盛り上がっていた。ここでの3日間は林さんに「音楽の監査官に家宅捜査を受けているみたいだ!」とコメントされるほど、徹底した取材となった。

その後、体調が回復したまりやさんとの予定が決定した。ただ、肝心の松生さんが学会の都合でキャンセルとなり、急遽私が呼び出された。しかし、その前日は台風の襲来で新幹線も空路も運休、唯一の交通手段となった各駅停車に飛び乗り、10時間以上かけてやっとの思いで上京。当日の会場は所属ワーナーの応接室で私と林さんそれにご本人の三者対談となった。会場に「こんにちは。」と現れた彼女はまだ咳き込んでおり回復途中のように写った。そこでは私がまとめたかなりコアな質問集で進行したが、気持ちよく懇切丁寧に対応いただけた。余談ながら、この取材で私はまりやさんから風邪をプレゼントしていただいたようで、帰宅後高熱で寝込んでしまった。この事を佐野さんに伝えると「それが一番の収穫でしたね!」、知人たちからは「せっかくならもう少し温存して寝込んでいたら良かったのに、もったいない!」といじられる始末だった。

このように春から秋まで、仕事以外のすべての時間を使い全精力を費やした『林哲司全仕事』は、年末の発売に間に合わせることが出来た。この作業の最終チェック終了後、私は過労が原因でダウンしてしまった。この時は激痛で身動きできないほどで、病院で診察を受けた。医師からは、「ヘルペス(帯状疱疹)ですね。薬出しておきましょう。」と言われ、窓口で受け取った薬の値段(保険提示で)「1万円」には仰天した。ただ、服用後漫画のように完治して「スゲー薬!」と感動した。
なおこの発売告知として、発売日1210日「読売新聞(関東版)」第1面に広告掲載。発売の週末には、林さんの新ユニットGRUNIONのインストア・イヴェント(新宿タワレコ)を実施するなど賑々しくプロモーション活動が行われていった。また佐野さんにお願いしてRadio VANDAでも、第20回の第二特集で私の収録したテープ音源を放送した。ちなみにこの本はVANDA名義で出版しているが佐野さんは直接参加していない。とはいえ発売後多くの読者から賞賛のコメントを頂き、胸をなでおろした。このように2001年はめまぐるしく過ぎていった。

このプロモーションが終了すると、「28」に掲載するコラムに取り掛かっている。ただ、課外事業の紹介がだいぶ長くなってしまったので、2002年々初から春にかけてのやりとりは次回にまわすことにさせていただく。

(注11969年全米12位のヒット「More Today Than Yesterday」を持つThe Spiral Staircaseのリード・ヴォーカリスト兼ソング・ライター。
(注2)『林哲司ソングブック~Hit&Rare Track~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~ナイン・ストーリーズ~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~タイム・フライズ~』『林哲司サウンドトラックス~Movie&TV Tracks~』の4作品。
(注3)出身は富士市、鈴木は清水市(現:静岡市清水区)。

(注41999124J1チャンピオン・シップ第2戦(清水vs磐田)を日本平スタジアムで観戦。林さんは「清水エスパルス」の公式応援歌「王者の旗」の作曲者。

(注5香川県丸亀市に1991開業したテーマ・パーク。私は無期限休園(20009月)に入る直前に来園。なお、この施設は2004年に「ニューレオマワールド」として再開。

(注6「天国に~」は林さんの初1位獲得曲。「入り江にて」は1979年『SUPER DRIVE』(24丁目バンド参加の「マイ・レディー」別ヴァージョン収録)への提供曲。

(注71983年オメガトライブでのデビューからソロとなった1990年までVap、その後Warnerに移籍。20017月にVapへ復帰し(第17作)『ZAMPA』を発表。

(注820018月発表の第9作(復帰4作)『Bon Appetit !』。

(注9フジパシフィック音楽出版社長(当時;現代表取締役会長)。Jigsawへ林哲司作の「If I Have To Go Away」を売込。この曲は全米93位、全英36位のヒットを記録。

(注10)『ハチ公物語』(1987年松竹富士)、『遠き落日』(1992年松竹)、『大統領のクリスマスツリー』(1996年松竹)など。特に1996年作の音楽を絶賛されている。

(注112000年フジ系で放送された今井美樹主演のテレビ・ドラマ『ブランド』。

(注12GSアウトキャスト~The Loveのメンバー。1975年「トライアングル・プロダクション」を設立し、プロデューサーとして、角松敏生、杉山清貴&オメガトライブ、菊地桃子を輩出。20091011日没。

(注13Tinker Bell/松田聖子』(1984年第9作)への提供曲。

20185152000

2018年5月13日日曜日

Lamp『彼女の時計』(Botanical House/BHRD-008)リリース・インタビュー後編

 5月15日に8作目『彼女の時計』をリリースするLampのインタビューを前編に続き、後編をお送りする。
 ここでは過去作品についても振り返り語ってもらったので、最近作から彼等のサウンドに触れたファンには興味を持って聴いて欲しい。


(左より榊原香保里、永井祐介、染谷大陽)

●先行で「Fantasy」のMVが公開されていますが、80年代前半の映像を元に榊原さんが編集を担当されていますが、曲の世界観にも絶妙に合っていると思います。
このMV制作はどのようなイメージで作られましたか?

 

榊原:80年代前半に大学生だった方の「自主制作フィルム」をお借りして作りました。 撮影後、未編集のまま頓挫してしまった映画だそうです。長回しの映像素材を少しずつ切り貼りして、凡庸な青春のイメージで全体の流れを作りました。
当時の街の雰囲気や若者がすごく良くて、今回の音色にもぴったりですよね。貴重な素材を提供していただきました。

●画質から推測するとマスターは16か8ミリフィルムのようですが、当然デジタルに変換してから編集したんですよね?

榊原:これは8ミリですね。デジタル変換はその方がやってくれました。 自分たちでデジタル変換する場合は両国に専門店があって、いつもそこにお願いしています。


●自分が手掛けた曲はなかなか選べないと思うので、自作曲以外でこのアルバムで印象に残っている曲を各々挙げて、その理由を語って下さい。

染谷:永井の曲は4曲とも初めて聴いた時のキラキラ輝いている感じがどれも等しく印象的です。「あ、すごく良い感じ。早く進めよう」っていう気持ちになりました。

榊原:「Fantasy」です。すごく好きな曲だからです。今回のアルバムの中で一番早くかたちになって、サウンドのイメージも纏まっていた。この曲に連れられてここにいる、という感じがしています。

永井:「車窓」ですかね。理由はLampでしか聴けない音楽になっている、気がするからです。

   

●確かに「車窓」は不思議なムードの曲でLamp以外では聴けないですよね。この曲の着想は? 

染谷:この曲は、シコ・ブアルキ、タヴィーニョ・モウラ、フランシス・ハイミ、ミルトン・ナシメントあたりの影響があります。あまり言うとつまらなくなるので、ミュージシャンの名前までに留めておきます。

●以前のライブでも演奏されていた「Fantasy」と「1998」の完成度は甲乙付けがたいです。ところでクレジットを見ると、本作中永井さんの全ての曲で染谷さんはプレイしていませんが、俯瞰的立場でディレクションをしていたのでしょうか?


   

永井:基本的には僕一人の作業ですけど、途中の音源は共有しているので、その都度アドバイスはもらっていました。一人の作業というのは往々にして視野が狭くなりがちなので、アレンジやプレイ内容など、色んな部分で助けてもらっていますね。

染谷:永井の曲を聴かせてもらえるのは、制作終了まで残り2~3ヶ月という時期なんですけどね...

●また本作では前作での北園みなみさんのようなバーサタイルなアレンジャー兼ミュージシャンが参加していませんが、当初からレギュラー・メンバーだけでレコーディングしようというプランだったですか? 

染谷:意図があったわけではないですが、そうなります。だいたい僕らのアルバムを振り返ると分かりますが、アレンジャーが入る方が珍しいですから。


●WebVANDAという音楽研究サイトの性質上からの質問なのですが、このアルバムの曲作り、またレコーディング中に愛聴していたアルバムを何枚でも挙げて下さい。

染谷:Dori Caymmiの88年のセルフタイトルのアルバム、Marcos Valleの83年のセルフタイトルのアルバム、Beto Guedesの84年の『Viagem Das Mãos』、Chico Buarqueの1987年の『Francisco』、Ivan Linsの87年の『Mãos』、Francis Himeの73年のセルフタイトルのアルバム、Rosa Passosの1stアルバム、Milton Nascimentoの『Notícias do Brasil』です。

永井:期間が長いので難しいですけど、ここ数年好きで聴いているのはマイケル・フランクスの80年代の諸作ですかね。80年の「One Bad Habit」くらいまでは今までも好きでよく聴いていましたが、最近はむしろそれ以降のタイトルの方を好んで聴いています。あと80年代のマルコス・ヴァーリも好きですね。特に83年の「Marcos Valle」はかなりお気に入りのアルバムです。

榊原: Flavio Venturini『Nascente』『O Andarilho』、Prefab Sprout『Steve McQueen』『Swoon』、may.e『私生活』、Sunset Rollercoaster『Jinji Kikko (EP)』、あと、ヴォーカル録音の前にElsa LunghiniとGlenn Medeirosのデュエット「Un Roman d'Amitié」を聴いたりしていました。


●僕は『そよ風アパートメント201』(2003年)のデビューからLampの歩みを見てきたのですが、アルバム毎にそのサウンド・スタイルは進化しているけど、Lampならではの美学があったからこそ、唯一無二の存在になりえたのだと思います。
そこで過去の作品を振り返って、当時を思い出しながら各アルバムについて一言お願いします。(タイトルのリンク先に当時のインタビューまたはレビューを掲載)

1.『そよ風アパートメント201』(03年)
染谷:今となっては、そんなに人にお薦めしたいアルバムではないですけど、当時はとにかく無我夢中で作りました。 メンバー以外の人が関わる初めての共同作業はかなり困難なものでした。

永井:色々と苦い思い出の多いアルバムですね。なぜこんなにも思い通りの音楽が出来ないのか、というその後もずっと続く苦悩の始まりのアルバムです。


2.『恋人へ』(04年)
染谷:永井が一番自己表現にこだわったアルバムかと思います。今でこそ名盤と言う人も多いですが、リリース当時の評判は良くなかった印象です。永井の「ひろがるなみだ」を軸に構成したアルバムでした。

永井:「ひろがるなみだ」を作ることができたのが大きかったと思います。初めて作曲に満足できた曲ですね。

   
染谷:究体音像製作所3部作、最後の作品。制作の終盤はやりこみすぎて、リリースした時はあまりこれに自信が持てていなかった思い出があります。永井の「冷たい夜の光」を中心に据えて作ったアルバムでした。

永井:『恋人へ』のセールスが良くなかったこともあり、気合いを入れて作り始めましたが、最後の方は疲れ果て、投げ出してしまったような記憶があります。あと、このアルバムあたりからベースを弾くことの面白さを分かり始めたような気がします。その感じがプレイに出ているように思います。


 4.『ランプ幻想』(08年)
染谷:誰かに「どんな音楽をやっているの?」と言われて、まず初めにこれを差し出すことはないと思います。ただ、これはこれで色んなところに良さがあると思ってます。

永井:このアルバムで僕がやりたかったことは、冒頭3曲の流れがほぼ全てです。今聴くとそんなに完成度は高くないですけど、初めて自分の思い通りのことができた感じがして満足しました。
あとは完成した「雨降る夜の向こう」を聴いた時に、やっとバンドのオリジナリティが出来てきたような気がしました。

榊原:ファーストからお世話になってきた究体音像製作所を離れ、スタジオで録音をするようになりました。この『ランプ幻想』を出したことで、自分たちは変わっていったと思います。また、このアルバム以降、聴いてくださる方との結びつきが強くなった気がしています。

   

 5.『八月の詩情』(10年)
染谷:これはリリース以来ずっと好きな作品ですね。後悔といえば、最終的な仕上げの部分で音圧を上げすぎたので、やり直せるならそこだけやり直したいです。

永井:アルバムの最後に収録されている「八月の詩情」は録音やアレンジに後悔があるんですけど、自分が作った中では特に気に入っている曲です。ジャケット写真は僕が伊豆の方に旅行に行った時に撮影したものです。

榊原:アルバムの為に録音していた数曲から、夏という季節をテーマに急遽まとめたアルバムですけれど、いい意味でコンパクト、統一感のある良い作品になりました。


6.『東京ユウトピア通信』(11年)
染谷:ちょっと力みすぎたかなと思いますが、僕のピークがここにあると言っても過言ではないかなと思います。作曲家として乗りに乗った時期の作品です。こちらも前作の経験を活かせず、最終的に音圧を上げすぎました。そういう点でこれはレコードの方が良い音で聴けるのではないでしょうか。夢中で作業をしていると段々冷静さを失っていくんですね。

 永井:ジャケット含め完成度の高い作品だと思います。

   

7.『ゆめ』(14年)
染谷:『東京ユウトピア通信』を出し終えて、何を作ろうというほぼゼロの状態から作ったアルバムでした。その分、時間もかかりました。

永井:なんと言っても「さち子」に尽きると思います。この曲は良過ぎて自分のバンドの曲という感覚があまりありません。

榊原:永井の言うとおり、「さち子」は自分たちの曲ではないみたい。それまでの作品から漂う、「これでもかー!」という自我を感じないからでしょうかね。そこは、『彼女の時計』にも繋がっていると思います。

   


●最後に本作『彼女の時計』の魅力を挙げてアピールして下さい。 

染谷:なんでしょうね。Lampの作品が悪いわけがない。良いかどうかは別としてって感じでしょうか。

永井: 今までLampを好きだった人には新鮮に響く音楽だと思いますし、本作から初めて聴いたという人にも良いと思ってもらえる内容になっていると思います。派手さはありませんが間口の広い作品だと思うので是非聴いてもらいたいです。

榊原:メロディーも今までよりずっとシンプルになって、少しもの足りないかもしれませんが、これまでの作品を聴き続けてくださった方には、かえって新鮮に、純粋に、良いと思っていただけるものになったような気がしています。


 (インタビュー設問作成/テキスト:ウチタカヒデ)