2018年4月25日水曜日

佐野邦彦氏との回想録12・鈴木英之


前回は「VANDA26」が発行された2000年の中ごろまでについての記憶を回想してみた。この「26」の裏表紙には、この時点で発刊されていた6冊が写真付きで掲載され、近日発刊予定の「ソフト・ロックA To Z:日本編(正式題:Soft Rock In Japan)」と「ビーチ・ボーイズ・コンプリート:New Edition(正式題:ザ・ビーチ・ボーイズ・コンプリート:revised edition」)も紹介されていた。前者は私がほぼ主導的なポジションで関わらせてもらったが、後者については佐野さんのLife Workという認識でいたため、執筆するには恐れ多い気がして情報提供者としては協力を惜しまなかったが、メンバーからは外させていただいた。


このようにこの頃は佐野さんだけでなく、私をはじめVANDAに関わっていたメンバーも課外授業が盛んだった。ただ、彼には本誌を発行していくために絶対に解決しなければならない重要課題があった。それは本誌の編集作業をどのようにしていくかということだった。そんな折、本誌「26」の編集に尽力いただいた(当時)音楽之友社(以下:音友)に勤務されていた木村さんより「音友への売り込み話」があったようだった。佐野さんにとって費用負担の軽減という願ってもない誘いではあったが、スポンサーを持つことで、これまでポリシーとしていた「自由なスタンスでの活動が制約されるのではないか?」と考え、積極的には行動に出なかったようだった。そんな悶々とした時期が続いていたが、ある時これまでVANDAが発刊する単行本の表紙を手掛けていたデザイナーのO氏から「格安で協力する」という申し出があり、佐野さんとしてはその方向で進めたいという気持ちが高まっていた。とはいえ、この好意を受け入れるための費用をどのように捻出するかという壁にぶち当たっていた。

そんな悩みを耳にした松生さんから私に「二人で費用を協力しませんか?」という連絡が入った。要するに、編集費を三等分して負担するという持ちかけだった。正直なところ、医師をされている松生さんと私とでは経済状況が違うので即答は出来なかったが、これまでの佐野さんへの恩返しにという気持ちから、「27」以降の編集代金を負担することを承諾した。この申し出に佐野さんは大変喜んでくれ、「負担分として本誌のページを提供するので、自由に書いて下さい」という話を頂いた。

こんなありがたい提案をいただいたが、この時期はSoft Rock In Japan」の内容吟味や割り振りなどに追われていたため、その時点では「Three Dog Night(以下、TDN)」くらいしか思いつかなかった。本音は高校時代から長らく聴き続けていた(特に日本では)軽視傾向にあるポップ系バンドについてまとめてみたい願望は持っていた。ただこの多忙状態ではVANDAとして発表できるレベルでまとめる自信がなかったので、その他の掲載については追々お願いすることにした。



少々話はそれるが、この当時一番はまっていたのは、子供の影響でテレビ番組「Hatch Potch Station」だった。ご存知の方も多いと思うが、この番組はグッチ祐三さんを中心にしたマペット・バラエティ番組で、NHKEテレ(旧NHK教育)で歴代最高視聴率を記録したことでも話題となっていたプログラムだ。内容は架空の駅で繰り広げられるコント番組だが、音楽ファンには「What’s Entertaiment」なるベタな洋楽を本人のコスプレをしてなりきりで歌う童謡替え歌に熱い視線が集まっていた。

ただ放映時間が、朝や夕刻でリアルでは見る事はほとんどなく、録画予約して週末にまとめて聴くのが常だった。その映像は佐野さんにも定期的に送っていたが、彼から「Oさんもあの番組のファンみたいで、全部チェック出来ないと嘆いてましたよ!」と伺い、Oさんと連絡を取りお互いに収録した録画ソフトを交換するようになった。余談ついでながら私のイチオシは「マホービン・ゲイ/山口さんちのツトム君」だった。この中味はMarvin Gayeが「Let’s Get It On」リリース時期に出演した「Soul Train」出演時のコスプレで、Marvinの生前ラスト・ステージとなった「Motown 25th Concert」でのパフォーマンスを彷彿させる「What’s Goin’ On」の替え歌で「It’s Got Too Go E No(いつが都合良いの)」とシャウトするところが大のお気に入りだった。なおこの番組は大好評につき、番組終了後も数年間「ハッチポッチあんこーる」として継続されていた。私はそれらも含め必死でチェックしていたが、ずっと気になっていた「しってる・ポルナレフ/雀の学校(シェリーに口づけ)」「グランド・ファン・クラブ・レイルロード/かもめの水兵さん(ロコ・モーション)」は、You Tubeが普及した現在でも残念ながらお目にかかった事がない。

 話がだいぶ脱線してしまったのでVANDAに話は戻すが、「27」に向けて佐野さんが熱中していたものは、Radio VANDA20007月で放送した「富田勲ミニ特集」が評判となったのに気を良くした「劇伴奏時代の富田勲」だった。それが証拠に、当時Radio VANDAの音源と一緒に「富田勲テレビ主題歌」テープを必ず同封してくれた。私も幼少より『手塚アニメ』『円谷プロ特撮作品』は、生活の必需品として慣れ親しんでおり、「ソノシート」「ビデオ・ソフト」もかなり所持していたので、盛り上がらないはずはなかった。まず『特撮』では、プラモデル絡みで「キャプテン・ウルトラ」「マイティジャック」、これは電話口で映像が再現するほど熱い会話に及んだ。そして、『アニメ』では「ジャングル大帝」「リボンの騎士」が中心となった。特に後者は、主題歌が「前半」「後半」「インスト」と3パターンあり、それがそれぞれ微妙に違う事や、新進ギタリスト押尾コータローさんのインディーズ時代のセカンド『LOVE STRINGS』(20013月)に絶妙なカヴァーが収録されていたこともあって、こちらもかなり大盛り上がり状態だった。


次にこの「27」で私が自信を持ってまとめたのはTDNだった。彼等はVANDAに初めて寄稿したGrass Roos同様、ポップスにはまり込んだ1970年前半に聴きまくっていたバンドのひとつだった。ちなみに彼らのファンになったのは、ギターとキーボードの絡みが絶妙なソフト・ロック「Out In The Country」(1970年全米15位)を聴いた事がきっかけだった。そして初めて手にしたLPは大ヒット「喜びの世界(Joy To The World)」(1971年全米1位)を収録した『Naturally』、この中で一番のお気に入りはBreadを彷彿させるように清々しい「Sunlight」だった。なお、このLPの国内盤購入後しばらくして米国初回盤は特殊仕様と気がつき、あわてて買い直した。とはいえ、この事実は2013年に紙ジャケCDが発売になるまでそのジャケットの存在を知る方は少なかったようだった。



 ちなみに、TDN197319741975年そして1993年と4回来日しているが、私は再結成後のラスト来日しか行くことは叶わなかった。ただ、2回目のマジシャン・キーボードSkip Konteが加入して8人組公演となった来日は、弟が静岡公演での演奏を録音してくれたので、ほぼ全盛期のライヴを疑似体験することができた。また、私が行った1993年のステージではCSNY風に椅子腰かけで「Sunlight」「Out In The Country」のメドレーを披露し、(来場客は少なかったが)大喝采を浴びていたのが印象的だった。ある時、この話を佐野さんにすると「それは是非聴きたかった」と残念がったのが忘れられない。



このように、「VANDA27」の原稿もやらなければならない状態にはあったが、優先事項は年末までに発刊しなければならない「Soft Rock In Japan」だった。この割り振りについては、「大瀧詠一」「山下達郎」「Garo」などビッグ・ネームは佐野さん、「オメガトライブ関連」「村田和人」「Piper」「ハルオフォン」といったバンド系は後輩のK君、そして私は作曲家としての「林哲司」「小田裕一郎」などのポップな作曲家と松生さんやSKさんが見送ったものを万遍なく手掛けることにした。

そんな折、編集担当の木村さんから「どなたかのインタビューを取ろうと思うのですが、希望はありますか?」という連絡が入った。私は間髪を置かず、「林哲司さんと話がしてみたい!」とリクエストをした。他の候補としては、松生さんから「杉真理さん」と挙っていたが、結果として私の希望が通った。

このインタビューはこの年の秋、東京駅の近郊にある喫茶店で、木村さん立ち合いの中で私と松生さんK君そしてSKさんの4人で実現した。なお佐野さんは「餅は餅屋」ということで、今回参加したメンバーに預ける形となった。特に当日の私はかなり興奮気味で、約25年前に購入したお気に入りのLPBack Millor(:1)を持参して、その場に臨んだ。当初は、1時間程度という約束であったが、かなりコアな質問の応酬に、林さんもかなり熱心に対応いただき、倍以上の時間を共有させていただいた。帰りには持参したLPにサインをいただき、忘れられない一日となった。ここでの内容はかなり充実したものだったが、これを文面に起こすという面倒な作業が残った。誰も作業に手を挙げないので、木村さんから「鈴木さんやってくれない?」と頼まれ、仕方なく引き受けた。そこで、休日返上でまとめ上げたものの、紙面の関係でわずかP4しか掲載できなかった。ただ、この時の対応が林さんご本人に好印象を持っていだけたようで、翌年の『林哲司全仕事』オファーに繋がっていくのだが、その話は長くなるので次回にまわすことにする。


インタビューを終えた後、「Soft Rock In Japan」での担当パートをまとめ、着々と完成に向かって進んでいった。このように、この本の「企画・構成」は佐野さんになっているが、最終的にかなりの面で私も関わっていた。当時このようなテーマの本は珍しいチャレンジで、発刊された際のMM誌でも、「『Harmony Pop』の亜流」と切り捨てられている。とはいえ、一般にはかなり好評に受け入れられ、最終的には完売することが出来きた。さらには、K君にまとめてもらった山本圭右さん(Piper)から「我々のことにこれだけのページさくの大変だっただろうな」(注:2)という感謝の弁をいただくという話もあり、やって良かったと胸をなでおろした。そして、発売から半年を経過した20016月には『Soft Rock』(シンコーミュージック)なるタイトルの類似本が発刊されている。この事実からも、我々の着目点に間違いはなかったと感じた。



その後、発刊直後に佐野さんから「Radio VANDAでプロモーションをしましょう!」という話になり、10回目の放送となる20012月の第2特集で「日本のソフト・ロック」をオンエアすることになった。ただ、当時の私は滋賀在住だったので、テープ編集したものを制作して流すことにした。その作業に協力してくれたのは金沢工業大学PMCで、年末に資料探索で出かけた際に、館内スタジオの録音機材を借りて収録した。そのカセットを佐野さんに送付し、オンエアする運びとなった。なおその音源は、林さんの自演曲「Rainy Saturday And Coffee Break」、それに以前私が佐野さんへチョイスして送った音源から、「これこそがソフト・ロックのきわめつけ!」と太鼓判を押してくれたカルロス・トシキ&オメガトライブ『be yourself(1989)のトップに収録されている「失恋するための500のマニュアル」だった。


こんな流れで、単行本の作業は完了した。あとは、20013月に迫っていた「27」の寄稿分をまとめなければならなかったが、時間の関係でTDN以外には「Soft Rock In Japan」の書き残し、「一発屋」といった安易なものしか書きあげられなかった。しかし、音楽以外にアニメにも造詣の深い佐野さんは、新婚旅行で向かった「冒険ガボテン島」によく似たタヒチにある「ボラボラ島」旅行記を一気にまとめている。これは彼のポリシーである「人生は家族と趣味のためにある」の実践記録で、こんな自作自演の旅行記は彼が病に倒れるまでずっと継続している。また、その手記は病床にあっても、旅立つ数日前まで懸命に綴り続けていた。

このような経過を経て「27」は20016月に、O氏の手によるセンス・アップされたパッケージに新装され、無事発行の運びとなった。このサンプル本にはいつものように、彼からの手紙が送付されており、そこには「音友への売り込みは慎重に考えたいので、次回も費用負担のご協力お願いします」とあり、「その負担分として8Pと、鈴木さんから依頼されたKさんにも4P、計12Pを提供します。」と書かれていた。ただ編集を受けてくれているOさんから、「より良い誌面に仕上げたいので、十分な時間が欲しい」との要望があったとのことで、「次回「28」の締め切りは1ケ月早めて20022月にします。」とあった。それはその時点で、私主導となる本格的なオファーが入っていたので、遅延癖のある私に早めの準備をするようにと、VANDA編集長として佐野さんからの苦言だった。

次回は、「28」発行までの経緯と、1年がかりで完成させた林哲司さんの本についての悪戦苦闘の日々について紹介することにする。ところで今朝方、Facebookより「今日は佐野邦彦さんの誕生日です。誕生日のメッセージを投稿しよう」というメッセージが届いた。彼が存命であれば、61歳の誕生日だった。思えば彼が亡くなる三週間前に、彼から誕生日の祝福メッセージが届いた。本来であれば、本日私がメッセージ送信しなければならないのだが、それも叶わぬことになってしまったので、この投稿を亡き彼への祝福メッセージとしたい。

(注11977年に発売されたセカンド・ソロ・アルバム。ここには大橋純子&美乃屋セントラル・ステーションが1976年に発表した『Rainbow』で取り上げた名曲「Rainy Saturday And Coffee Break」の自演ヴァージョンが収録されている。なお、林氏は(この時点でインスト除き)6枚のソロ作品を発表しているが、このアルバムは2012年にタワーレコード限定販売にて待望の初CD化されている。

(注2)「Soft Rock In Japan」では大御所「山下達郎」「大瀧詠一」でも2P枠ながら、Piperには1.5Pを割り振っており、この扱いにリーダーの山本圭右さんが感激してくれた時の話。なお、当時所属していたユピテルの音楽事業撤退で、長らく廃盤状態となり中古市場で高騰していたPiper4作品が、20183月に(K君の解説付)待望の初CD化の運びとなった。

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2018年4月10日火曜日

Nao☆:『菜の花』(T-Palette Records/TPRC–0199)

 
 新潟在住のアイドル・ユニットNegiccoのリーダー、Nao☆の生誕を記念したソロ・シングル『菜の花』が4月11日にリリースされる。 16年5月にここでNegiccoのサード・アルバム『ティー・フォー・スリー』を取り上げた際も同様だったが、シングルとはいえ強力なカップリングなので、WebVANDA読者をはじめとする音楽通も満足させる内容となっているので紹介したい。
 
   
 
 タイトル曲「菜の花」は、作詞をNao☆自身、作曲・編曲をROUND TABLEの北川勝利が担当し、カップリング曲「ハッピーエンドをちょうだい」は、作詞を岩里祐穂、作曲・編曲をNegiccoのサウンド・プロダクションではお馴染みのユメトコスメの長谷泰宏が担当している。
09年にROUND TABLEの『FRIDAY I'M IN LOVE』リリース時に長谷はアレンジャーとして参加しており、ここでもインタビュー記事を掲載したので読者も記憶にあるかも知れない。
 早くからシティポップ系サウンドをクリエイトしている北川と、ソフトロック・サウンドを研究し尽くしている長谷による楽曲提供は正しく強力なカップリングといえよう。
 また80年代から作詞家としてキャリアのある岩里祐穂(いわさと ゆうほ)にも触れておこう。 80年に“いわさきゆうこ”としてシンガーソングライター・デビュー後、女優として活躍していた今井美樹への作詞提供で一躍知られるようになり多くの作品を残している。特に「地上に降りるまでの夜」(『MOCHA』収録・89年)や「瞳がほほえむから」(89年)は日本のニュー・ミュージック(シティポップ)史において後世に残る名作ではないだろうか。
 Nao☆自身もウワノソラの「Umbrella Walking」(桶田知道作で後に『陽だまり』収録・17年)をフェイバリット・ソングの1曲に挙げており、Negiccoでは「土曜の夜は」(シングル及び『ティー・フォー・スリー』収録)をウワノソラの角谷博栄にオファーするなど、この手のサウンドを好んでいるのもうなずける。

 
 
 では収録曲を解説しよう。タイトル曲の「菜の花」は、北川自身による複数のアコースティック・ギターのカッティングが有機的に絡むファースト・テンポのカントリー・ポップで、流線形にも参加する山之内俊夫のエレキギターのフレーズが随所にちりばめられている。そしてこの曲のパンチラインは2ndフックの「♪伝えきれない想いを 歌に乗せ届け 君のもとへ」にある。この甘美なメロディのたたみ掛けは、ニック・デカロもカバーしたスティーヴィ-・ワンダーの「Happier Than The Morning Sun」(『Music Of My Mind』収録・72年)のそれを彷彿とさせる多幸感を生んでいる。またユーミン(荒井由実時代)の「やさしさに包まれたなら」(『MISSLIM』収録・74年)が好きなシティポップ・ファンは是非聴くべきだろう。

 『ティー・フォー・スリー』で「カナールの窓辺」を提供した長谷作の「ハッピーエンドをちょうだい」は、彼が主宰するユメトコスメの「嘘だよ、過去形じゃなくて...!」(14年)に通じるチェンバロの刻みにヴォブラフォンとピチカットのオブリが印象的なソフトロックだ。目眩く縦横無尽な動きをするストリングスのマジックは長谷の得意とするところだが、この曲でも遺憾なく発揮されている。
 筆者は彼がストリングス・アレンジを手掛けたNegiccoの「おやすみ(アルバムVer)」(『ティー・フォー・スリー』収録)がいたく好きであり、こっそり16年のベストソングの1曲に挙げた程だった。

 
   
 そして何より重要なのは、神様からのギフトと言っても過言ではない、Nao☆のちょっとハスキーでスウィートな声質にある。80年代アイドル・シンガーを彷彿とさせる所謂 “キャンディ・ボイス” ”聖子声” に男性達は虜になること間違いない。興味を持ったシティポップ及びソフトロック・ファン、そして80年代アイドル・ファンは是非入手して聴くべきだ。
 (ウチタカヒデ)


2018年4月7日土曜日

45 Rpm Bruce & Terry - GIRL IT'S ALRIGHT NOW/DON'T RUN AWAY-Columbia 43582


詳細なディスコグラフィは別稿にてご覧いただくとして、本誌ではおなじみのBruce JohnstonとTerry Melcherの大傑作である。
Don't Run Awayは実はB面扱いだったのはあまり知られていない。


本作は1966年4月上旬前後にリリースされたがチャートインしなかったものの、1966年4月9日号のBillboard誌にてPop spotlightコーナー(これからチャートインしそうな有力曲紹介コーナー)でChris MontezやSam Cookeと並んで好意的にレビューされていた。
このレビューの記事においてはGirl  It's Alright Nowが最初に取り上げられており、Don't Run Awayは一言"Flip"としか言及されていない。
ちなみにこの週は、我らがThe Beach BoysのSloop John B.がTop40以内に急上昇し、Brian WilsonのCaroline NOがTop60になんとかチャートインしている。




TerryことTerry MelcherはBruce & Terry の所属していたColumbiaでは売れっ子プロデューサーで、本盤と同時期にTerryの手がけたシングル盤はPaul Rever and RaidersのKicks、若き日のTaj MahalにRy Cooderを擁したRising Sons、デビューで関わったByrdsは楽曲の権利やマスタリングの音質でTerryとは冷戦状態となったので、他のプロデューサーを迎えEight MilesHighをリリースしていた。

本盤の画像をご覧いただくと、プロデュースはTerry Melcher音楽出版はDaywin Musicとクレジットされている。Terry Melcherは有名な話であるが、歌手のDoris Dayの実子である。
Doris自身は結婚を数度しており、当時マネージャー兼プロデューサーだったMarty Melcherと結婚した。その後Terryは父の籍に入りMelcherの氏を名乗ることとなった。
MartyはDoris関連の楽曲管理のためにArwin Productionを設立する、Martyは既にArtists MusicとDaywin Musicという二つの音楽出版社を立ち上げており、両者の名前を組み合わせたArwin Production及びレコードレーベルのArwinを設立する。
Martyは1968年急逝するが、後年このArwinを通じてDorisの多額の収益が怪しい投資先に流れ一部Martyに還流されていたことが判明している。
そういった背景があるもののArwinからはナショナルヒットがそこそこ出ており、一番の稼ぎ頭はJan and Arnieで、Jenny Leeは全米8位を記録する大ヒットとなる。
Janは後にJan and DeanとなるJan Berryのことで、当時Bel Air地区にあった自宅のガレージで高校の友人とコーラスの録音に興じていた。
時々Bruce Johnstonは誘われてピアノで参加していた。その頃Terryは少し離れたガソリンスタンドで放課後アルバイトしており、Janを介してTerryと知り合いとなり、親交はこの後も続くこととなる。
Janのサウンドは仲間内では好評だったので、パーティーで使うためにアセテート盤を作成するため出向いたスタジオで、当時ArwinのA&RだったJoe Lubinがたまたまテープの編集で入ったスタジオの隣から聞こえてきた楽曲が評価され、Arwinからデビューとなった。Joe Lubinは英国人で黒人音楽好きが高じて米国に移住したという異色の経歴を持っており、音楽ビジネスの関わりではLittle RichardのTutti Fruttiの作曲者にも名を連ねたり、西海岸でR&B系のレーベルを設立して積極的に黒人ミュージシャンを登用して楽曲制作を行っていた。
その中にはPlas JohnsonやEarl Palmerなどがおり、後のWrecking Crewのメンバーが西海岸のスタジオに結集する先駆けとなった。
Janに知己があったBruceは、友人のSandy Nelsonの録音や制作に関わりヒットを生むという結果を出す。同時に友人のKim Fowleyの紹介で次第にJoeを通じ音楽ビジネスへと本格的に参入していき、Arwinとは作家契約を結実しBruce and Jerryの名前でデビューしてプロデュースワークも身につけた。後にDel-Fi,Donnaなどで制作畑に移り、Rock'n Roll時代に乗り遅れたColumbiaは若い才能を欲していたのでBruceは入社後先にA&Rで入社していたTerryとともに活躍していく。
彼らの活躍に反比例するかのごとくArwinのレコードリリースは減少していった。


これらの詳細は別稿を参照されたい、再び本盤に話は戻るが、多くの再発盤ではクレジットにはBruce Johnston-Mike Loveとの記述が見られる、レコード盤にはB.Johnstonしか表記がなく事の真相は明らかではないが、Daywin Musicを手がかりに実演権団体であるBMIのデータベースではBruceとMikeの名が登記されていることが確認できた、しかしMikeは近年BMIからASCAPへ楽曲の預託を変更しており、当時の状況は不明ではあるがBMIに所属する音楽出版社にあったものと予想される。
似たような表記は実はThe Beach Boysのアルバム、Sunflower収録のSlip On Through,Got To Know The Womanにも見られる。Dennis単独の作曲となっているがDaywin Music/Brother Publishing Companyとなっておりデータベース上ではGregg Jacbsonが共作者と登記されている。
Daywin MusicはBruce Johnston,Terry MelcherやDoris Day関連の楽曲管理を行いながら存続する。Arwin Productionの相方のArtists MusicはBruceの作曲したI Write The SongsがBarry Manilowの大ヒットで70年代脚光を浴びることとなる。
そして80年代以降Daywin MusicとMikeが再び関わっていくことになる、The Beach BoysによるKokomoやSummer In Paradise,Rock'n Roll To The Rescueの作曲にMikeとTerryが参画したからだ、ここでやっとDaywin MusicとMikeの名前が一緒にクレジットされることとなった。

(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)


2018年4月4日水曜日

佐野邦彦氏との回想録11・鈴木英之


今回紹介する「VANDA26」が発行された2000年は、ネットの「WebVANDA」に続き、5月からは放送メディアであるラジオ番組「Radio VANDA」をスタートさせるという、佐野さんの存在が大きくクローズ・アップされた時期だった。

 そんな佐野さんではあったが、彼はきわめて自然体なスタンスだった。ある時、「サンデー・ソング・ブック」(以下:サンソン)で山下達郎さんが彼のことを絶賛するコメントをいれたことがあった。その放送を聞いた私は、即座に彼へ連絡を取り「すごいじゃないですか!」と伝えるも、彼は聞き逃しており、「なんとかその放送音源手に入れてくれませんか?」と頼まれてしまった。当時はまだ「ラジコ」もなく、録音した方にダビングしてもらうしかなく、かなり苦労して入手した。それを収録したカセットを送ると彼は無邪気に喜んでくれた。そんなことがあり、それ以来「サンソン」はチェックするだけでなく、ダビングをするのが常となった。

 話は「26」に戻るが前回でもふれたように、ここでは私と佐野さんのノリで決めた「ライブ・アルバム特集」がトップを飾っている。このコラムは当初佐野さんと二人でまとめる予定だったが、せっかくやるなら何人かで取り組んだ方が面白くなるはずということになり、中原さんと松生さんにも参加していただくことにした。その役割分担はそれまでの経歴から自然に決った。


まず佐野さんは当然ながらSoft Rock系を中心にThe BeatlesやBeach Boysなどのビッグ・ネームを中心に、中原さんには彼の専売特許であるソウル系、Cliffマニアの松生さんには1960年代のヴォーカリストをメインということになった。そして雑食系の私は三人から外れたリユニオンものやアイドル、それにニュー・ウェーブ系など、あまり語られることのないものについてジャンルを問わず万遍なくということになった。また佐野さんは音源のみだけでなく、「25」に引き続き映像作品を取り上げた「Rock & in LD & DVD Part 2」を7Pにも及ぶボリュームで気合のこもったレビューをまとめている。

さてこの特集だが、それまでのVANDAとは一線を駕するような企画だったが、4人4様の視点での持論を展開し、かなり興味深い読み物になった気がする。その内容は多くの音楽ファンに好意的に受け入れられたようだった。それはしばらくしてRC誌が「ロック・ライブ・アルバム1960-1979」(2004年1月)の特集を組んだことでも、その注目の度合いが高かったことように感じられた。ただ個人的には、佐野さんが担当した『Four Seasons Reunion(Curb)』『Beach Boys I Concert(Brother)』『Association(Warner Bros.)』や、中原さんの『Four Tops(Dunhill)』『Spinners(Atlantic)』については思い入れが強く、いつか何らかの形でまとめてみたいという想いは残った。


なおこの「26」で私は恒例の「Music Note」も寄稿しているが、この「1975年」ともなると、まとめていく過程で当初スタートした時期とは違う方向に向いているのが気になった。元々、ラジオ番組のヒット・チャートのチェックから当時の音楽傾向を探るということから始めた連載だったが、この頃になるとあらゆる情報網から得た音楽シーンの傾向をまとめているように感じた。それはこの年に私が夢中になっていたものは、Three Dog Nightの「You」のように日本独自ヒットもあったが、ほとんどは英米でのヒット曲が中心で、日本のチャートでは下位に属していたものが多かった。


このようになったのは、1974年から大学生として東京での生活が始まり、静岡時代よりも数段に情報を収集できる環境になっていたからだった。1975年当時の私は、気になる曲を耳にするとパチンコ屋の景品棚をチェックして、お目当てが見つかればそのレコードを手に入れるために台に向かうことがよくあった。さらに、(今は亡き)Hunter(特に大井町店と都立大店)やDisk Unionなどで中古レコード店の探索巡回といった生活もパターン化していた。ゆえに内容がラジオ番組のヒット・チャートをチェックしたものをまとめるというものではなくなりつつあった。タイトルにしている「Note」は「チャートのチェック記録」でなく、「レコードの購入記録」というマニアックな音楽シーンを語るものに変化していた。


また洋楽中心だった内容も、1971年の『GARO』や1974年に『Take Off(離陸)/チューリップ』を聴いて以来、日本の音楽にも慣れ親しんでいた。また当時の友人でアグネス・チャンの熱狂的ファンに彼女のレコードを聴かされ、そこに参加していたMoonridersやキャラメル・ママなどバック・ミュージシャンに興味を持つようにもなっていた。さらに神保町のササキレコード社の店内に偶然流れていたSuger Babeの『Songs』を耳にして、山下達郎というミュージシャンに衝撃を受け、その後は彼が参加していた作品のチェックを始めた。その中で『MISSLIM/荒井由実』に聴かれる、クリアな美声に強く惹かれ、完全にはまってしまった。そして気がつけば、テレビでは「ナショナルまきまきカール」「不二家ハートチョコレート」などCMで彼の声が頻繁に流れていた。ちなみに、私はSuger Babeのライヴ・スケジュールは「ぴあ」でまめにチェックしていたが、残念ながら参戦は出来ずに終わっている。ただ、当時FM番組でオンエアされたライヴ放送を聴くことが出来たのが、バンドの生体験だった。このように和物についても洋楽並にコアな聴き方をするようになっており、タイトルから内容が逸脱しそうな時期になってきたので、この連載は1975年で封印することにした。


余談になるが、この1975年には元Four SeasonsFrankie Varriが「My Eyes Adored You(瞳の面影)」で全米1位にカム・バックしているが、日本ではさほど話題にはならなかった。そんな中、西城秀樹はこの年に行われたツアーのセット・リストにこの曲を加えていた。なお、この公演はテレビ中継もあり、その歌唱シーン(『オン・ツアー』に収録)も放映されている。このことは、その後「VANDA 30」でまとめることになる「1970年代アイドルのライヴ・アルバム」の元ネタとなった。ちなみに、それにもっとも興味を持ってくれたのは、バリバリのジュリー(沢田研二)・ファンの佐野さんだった。


そしてこの1975年を振り返ると、「我が巨人軍は永久に不滅です。」で現役を引退した長嶋茂雄選手が監督となってジャイアンツが断トツの最下位となり、広島カープが球団創設以来初優勝を遂げ、「赤ヘル旋風」が吹き荒れていた。こんな世情を反映して、「がんばれ!ジャイアンツ」(アラジン・スペシャル)なるナンセンス・ソングが一部で大盛り上がりしている。また、私と佐野さんとの最後の共同作業となったJigsawが「Sky High」で大ブレイクを遂げ、彼らが初来日を果たした年でもある。とはいえ、この曲の日本でのブレイクは、ミル・マスカラスが登場テーマに使用するようになった翌1976年だった。


ところで前回の投稿でもふれたが「26」が発売される前の199912月には私がはじめて関わった商業本『Pop Hit-Maker Data Book』(バーン)が発刊されている。そして、20003月にはVANDA監修として5冊目となる『ハーモニー・ポップ』(音楽之友社)も発刊している。この本を監修したのは佐野さんだが、ジャンルを「US」「UK」「Jazz」「Soul」「Folk」「Psychedelic」「In Japan」と7つに分け、その巻頭には佐野さんや中原さんなどが序文を書いている。なお、「In Japan」では恐れ多くも私が担当させていただいた。そして、ここでコメントを担当したことが、この年に発刊する『Soft Rock In Japan』や『林哲司全仕事』に繋がっていくことになったのだった。ただ、その話をここでふれるとかなり長くなってしまうので次回に回すことにする。またこの本では、当時佐野さんが「和製ソフト・ロックの最高峰」と断言していたスプリングスのリーダー、ヒロ渡辺氏に「ハーモニーの音楽的解析」という専門分野での解説を寄稿いただいている。


なお、この「26」が発行されたのは20008月と、通常よりも2ヶ月遅れている。これは、彼が超多忙だったからでも、私の原稿提出が遅れたということでもなく、創刊号以来それまで編集に携わっていた近藤恵さんが出産のために引退されるというアクシデントが発生したためだった。この大ピンチを救ってくれたのが、当時音楽之友社に勤務していた(『Soft Rock A To Z』の担当)木村元さんだった。当時、佐野さんの窮地を耳にした彼が自ら仕事の傍ら編集の業務を買ってくれたおかげで、無事VANDA26は発行出来る運びとなった。これまでの付き合いからとはいえ、本業をかかえながらも好意で引き受けてくれた木村さんに佐野さんは心より感謝していた。とはいえ、この作業は木村さん自身も相当きつかったようで、発行後「今回だけにしてほしい」と佐野さんに伝えたようだった。

最後になるが、「25」発行からこの「26」までは、私も木村さんの担当で3冊の単行本発刊に関わっていただいており、この時期のVANDAは彼なしには成立しなかったともいえる。次回は、「27」の経緯と並行して木村さんとの連携で完成させた本についての経緯についてもふれていくことにする。
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