2018年2月28日水曜日

佐野邦彦氏との回想録9・鈴木英之

    今回は1998年6月に発行された「24」での佐野さんとのやりとりを回顧していく。この号には昨年、「企画22年・発掘作業5年」を費やした収録音源が全て初録音という“奇跡”の発掘音源『ロジャー・ニコルス・トレジャリー[デモ&CMトラックス](Roger Nichols Treasury)』を完成させた濱田高志さんの「Roger Nichols Interview」、また比類なきポップ・ソングの研究家“サラリーマン浅田”こと浅田洋さんの「Tony MaCaulay」などが掲載され、VANDA誌は、「ポップス研究誌」としてさらに充実したものになっている。

   

    私自身はVANDAを通じて、このお二人にはかなり影響されているので、そのいきさつなどを紹介しておく。まず今や“Michel Legrand研究家”として著名な濱田高志氏。私は常々佐野さんから「どこへでも足を運んで交渉取材する鈴木さんにいつも驚かされています。」と言われていたが、その活動のルーツは彼から伺った濱田さんの行動に感化されたものだった。 

   前回で「国会図書館」へ滋賀から通うようになったと書いたが、それは濱田さんがMichel LegrandのWorksをまとめたい一心で単身フランス在住のご本人の元へ出かけたという話を聞いたのがきっかけだった。ただ私の方は家計に負担を与えない最低限の範囲で通うという程度で、スケールは比べ物にならないので、決して誰かに自慢できるようなものではなかった。また「どこへでも」は、その昔佐野さんが「巨匠宮崎駿氏」との飛び込み取材に成功した武勇伝に少なからず感化されていたからかもしれない。 

   また「国会図書館」以外にも当時から通い始めた場所がもう1ヵ所ある。その場所は、石川県の金沢工業大学にあるPMC(ポピュラー・ミュージック・コレクション)だ。ここについては、偶然見た「めざましテレビ」(フジ系)の「ローカル鉄道の旅」なるコーナーで、「駅周辺の施設」として紹介されたのを見たのがきっかけだった。この地区は昔勤務経験があり地の利もあったので、翌週に車で訪問した。ところが何回か出向くうちに帰路がしんどくなり、もっと楽でかつ安上がりの移動手段を模索するようになった。そんな時に後輩から「青春18きっぷ」のことを聞き、金沢まで「朝6:00出発で現地10:00着、帰路は18:30発で22:30着」と日帰りが可能とわかり、頻繁に足を運ぶようになった。そんなある時、PMCスタッフNさんから「よく来場されていますが、どちらから?」と聞かれ「滋賀から青春切符で」と答えると、彼はその行動に感激され「私に出来ることなら、何でも言ってください」と言われ、以後担当者は変わったが現在も頼もしい協力者として良好な関係を築いている。

   さて話は私が影響されたもう一人浅田さんになるが、彼は“サライター(サラリーマン・ライター)”と名乗っているように、バリバリの企業戦士で平素は激務をこなしながら独自のポップス研究に邁進されている。またいち早くHP.も開設されているという姿勢には、さらに頭が下がる思いだ。そして私がVANDAでチャート記事をまとめていることを知ると、以前の投稿でもふれた「All Japan Pop 20(以下AJP)」についてまとめているM氏を紹介いただき、彼とも情報交換するようになり私のコラムに大きく寄与していただいた。さらに彼は私の敬愛する故八木誠さんや、国内外のミュージシャンとも交流を持つ頼もしい友人でもある。  

 

   そんな精鋭のお二人に加え、この号では15Pというヴォリュームの「Cliff Richard」で松生恒夫さんが登場している。彼は現役の医師で本業の分野では専門書を数多く出版し、近年では健康をテーマとしたテレビ番組にも数多く出演されている。

    では、彼がVANDAに参加するきっかけとなった経緯を含めたエピソードを紹介しておこう。 彼のことを初めて知ったのは、佐野さんとの会話の最中だった。突然「鈴木さんCliff Richardって詳しい?」と聞かれ、「ある程度なら」と返すと、すかさず「実はCliff をやりたいって人が、売り込みをかけてきているんだけど、私の周りにはあまり詳しい人がいなくて困っているんです。鈴木さん一度見てくれませんか?」と頼まれた。数日後、その原稿が届き、ざっと目を通したところ、その内容のコアさぶりに圧倒された。即、その感想をそのまま佐野さんに伝えると、「そうですか、では次回の号に掲載することにします。ところで言い忘れましたが、あれ書いたのお医者さんなんですよ。」と返された。

  その後、渋谷で開催されたVANDA関係者のミーティング会場で松生さんと会うことになった。そこで彼から積極的にアプローチを受け、2つ違いと世代的にも近いこともあり音楽談義に華が咲き、あっという間に意気投合した。そこで、彼があるクリニック勤務の医師だと知り、Cliff以外に加山雄三さんやボサノヴァの研究もしていることを知った。これほどコアに話が弾んだのは、後輩のK君や佐野さん以来だったので、お互いに有意義な時間を共有できた。それ以降、彼から毎日のように連絡が入るようになったが、その頻繁さと長さに、あっという間に家族にもお馴染みとなるほどだった。ちなみに彼はメールを使用しないので、今もその連絡は電話オンリーだ。  

    前置きがだいぶ長くなってしまったが、この号に寄稿したコラムについての話に移ることにする。まず連載の「Music Note」に加えて、まとめたものは元祖カナダ・ロック界の雄「The Guess Who」だった。このコラムも佐野さんとの何気ない雑談から発展したもので、常々「ヴォーカルのBurton Cummingsはルックスが良ければ、Paul Rogerよりも人気が出たかもしれない。」と力説していたことが発端だった。その成り行きから「そんなに好きなら、絶対にまとめるべき!」と勧められ、早速1969年のRCAでのデビューから1975年の解散を経て、リーダーBurtonのソロまでをまとめはじめた。

   ところが「マニアには本格的に全米進出を始めたRCA以前が注目されている。」と佐野さんに助言され、彼らがこのバンド名を名乗る前まで遡ることにした。とはいえ1960年代初期のアルバムはかなりの貴重盤で、当時地方在住の私には簡単に入手できるようなものではなかった。本来であれば全音源をチェックしてまとめるべきではあったが、今回はディスコグラフィーを完璧に仕上げることで、一部未聴音源があることは目をつぶっていただき、悪戦苦闘の末に完成した。

   その内容は『「American Woman」のみのバンド』というパブリック・イメージを払拭するレベルにまとめることが出来た。特にこのコラム用に制作した1961年から1988年までの「Family Tree」に関しては我ながら良くできたという達成感があった。また当時、佐野さんから「今回取り上げたことでRCA以前の音源がさらに注目されているようです。」と連絡をいただき、いつかは未聴音源をチェックして完全版をまとめたいという想いが強くなった。

    

 そして「Music Note」の1973年だが、年初は受験勉強真最中でまめにチェック出来なかった。またこの当時はアイドル歌手の麻丘めぐみさんにはまっており、愚かにも洋楽チャートよりも彼女の出演番組や、音楽雑誌よりも芸能雑誌の発売が気になっていた。そんな状態ゆえ勉強にはあまり集中しておらず受験は失敗、4月からの浪人生活は在京大学志望だったので上京し、新宿の親戚宅に居候させていただき予備校通いとなった。

  そんな東京での生活は、これまで受信できなかった民放FMが聴け、ラジオ局も複数、なおかつテレビ局も多く、「イン・コンサート」(注1)や「リブ・ヤング!」(注2)など映像でも音楽番組が見れるなど静岡とは全く別世界だった。さらにHunterなど中古盤のショップが都内に溢れ、その恩恵であらゆるジャンルのレコードがリーズナブルに入手することができた。ただそんな恵まれた環境ゆえ、受験勉強はより身が入らなくなってしまった。

  受験の友であった深夜放送も高校時代は『オール・ナイト・ニッポン』オンリーだったが、上京した頃には亀チャンや糸井(五郎)さんがいなくなったこともあって、定番は『セイ・ヤング』に移っていた。当時は今や“氷河期”を自称するせんみつ(せんだみつお)さんの放送にはまり、また当時の彼は「AJP」の司会も兼ねるほどの人気絶頂期で、彼のウィットに富んだ曲紹介は今も耳に焼き付いている。それはTom Jones並に高額となった来日公演チケット(S席18,000円!)が話題となっていたEngelbert Humperdinckの「A Place In The Sun(太陽のあたる場所)」の紹介には「ちょっとトイレがつらそうなヘ●デルベ●ジョ・フン●ルディンク!」、グラム・ロックのT.Rexでも「恐るべし、20センジ●リー・ボーイ!」などキレキレのギャグを連発していた。とはいえこんな話は佐野さんにはお叱りを受けそうでしばらく封印していたが、一言発したら前回紹介した「見せる●ルノレフ」同様に大爆笑だった。

   

 さらに深夜放送では名物コーナー「天才・秀才・バカ」を擁するチンペイ(谷村新司)さんの『セイ・ヤング』の影響もあって日本のロックやフォークもよく聴くようになっていた。それが加速するのは、秋頃に『ぎんざNOW!』(注3)の「新人歌手コンテスト」にエントリーされていたユーミン(当時:荒井由実さん)がピアノ弾き語りで歌う「きっと言える」を見てからだった。それはアイドル登竜門コーナーゆえ、会場審査員からの支持は1票で落選したが、彼女の登場は衝撃的だった。それ以降はコアな和物も聴くようになり、これが後に山下達郎氏(Suger Babe)に辿り着くきっかけとなった。この話題は佐野さんも知るところだったが、それをじかに見たうえリアルに記憶していることには驚かれていた。

   

 このように、この頃には和洋混在に聴いていたせいもあって、南沙織さんの「純潔」がVan Morrisonの「Wild Night」がベースになっているといっ事が気になるようになり、Albert Hammondの「It Never Rains In California(カリフォルニアの青い空)」が堺正章さんの「さらば恋人」が元ネタかも(?)と感じるようにもなった。こんな話は米国でも多々あり、有名なところではGeorge Harrisonの「My Sweet Load」がThe Chiffonsの「He’s So Fine(イカした彼)」に訴えられるなどだ。個人的には1972年のヒットClimax「Precious & Few(そよ風にキッス)」はAssociationの「Cherish」が元ネタと言われて騒ぎになっていたが、私は前者が大のお気に入りだった。そんな話を佐野さんにしたところ、「それならWeb.VANDAにコーナーを作るのでそこに投稿したらどうですか!」と言われ、以後Web,の「Sound Of Same」にコツコツ書き込みをはじめるようになった。

 こんな感じで、「24」の制作過程では前号以上に余計なことに気が回り、原稿の仕上げがまたまた遅延し、依頼されたコラムは「3月末締め切り」が、GWに突入した5月になってしまった。その完成した「24」が届けられた際、そこ差し込まれていた手紙には「今号より、VANDAは年1回、毎年6月刊となりました。」で始まり、「約半年で8,000を超すアクセスがあったWeb.VANDAを速報性のあるメディアとして活用する。」とあった。ただ、末尾には「基本はVANDA、年1回の発刊協力よろしく。」と締め、これまでのスタンスは崩さない意思も宣言していた。

 次回は、VANDAがさらに世間の注目が集まり、佐野さんが単行本やCD復刻のなどで、多忙化していく時期となった「25」の制作時期について紹介させていただく予定です。

(注1)1973年頃に東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送されていた海外アーティストのライヴ映像を放映するプログラム。コメンテーターは鈴木ヒロミツ氏(当時、The Mops在籍)が務め、ロック・バンド以外に、The Mopsの敬愛するソウル・グループの映像も頻繁に紹介されていた。

(注2)1972年4月から日曜の夕刻(74年からは深夜枠)にフジテレビで放映されていた若者向けの音楽、映画、ファッション等を紹介する情報番組。初期は愛川欽也氏が司会を務め、最先端の歌手やバンドのライヴ演奏や、来日アーティストもゲスト出演することもあった。また、この番組を一躍有名にしたものとして、1972年10月8日に行われた「ロキシー・ファッション企画」だった。ここに登場した矢沢永吉率いるキャロルは、他を圧倒する熱演を披露し、彼らはこの出演をきっかけに同年12月25日に「ルイジアンナ」で衝撃のデビューを飾る。また、73年12月20日には同年10月23日にフジテレビ第一スタジオにて収録した『ライブ・イン“リブ・ヤング”』をサード・アルバムとしてリリースしている。

 (注3)1972~79年にかけて毎夕刻 TBSで生放送されていた(東京ローカル)情報バラエティ公開番組。収録場所は東京銀座のスタジオ「銀座テレサ」で、初代司会はせんみつ氏。清水健太郎さんやラビット関根(現:関根勤)さんなどを輩出した「素人コメディアン道場」が有名だが、ブレイク前のキャロル(木曜)、フィンガー5(月曜)などがレギュラー出演していたことは有名。 

2018年2月27日18:00

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