2018年1月31日水曜日

佐野邦彦氏との回想録8・鈴木英之

早いもので、この投稿も8回目(今年2回目)になる。前回はVANDA22に掲載されたコラムについて佐野さんとのやりとりを紹介させていただいた。それらを仕上げるために休日や帰宅後の時間を全てつぎ込んでの制作は大変なものだった。こんな調子で安請け合いして続けていくのは、実に厳しいことだとおもいしらされた次第だ。その反省から佐野さんとの話が盛り上がっても、これからの投稿は予め決めていた「Music Note」一編に絞ろうと決めていた。ただ、この回想録の一回でもふれたように、「23」では佐野さんに推薦した「Pilot」「Jigsaw」について情報提供に協力していたので、実質は複数に関わったのが現実だった。とはいえ、このような作業を長年に渡って編集までやり続けている佐野さんの行動力には改めて敬意を表したい心境になった。

そんな状況ではあったが、この頃投稿i以外に最も興味を持っていたのはVANDAのバック・ナンバーの内容チェックだった。特にSuger Babe以来長年のファンだった山下達郎さんとのインタビューが掲載されていると聞いていた「3」は絶対に読んでみたかった。そんなバック・ナンバーについて佐野さんにその所在を問い合わせると、「全国で取り扱ってもらっているショップには(返本しないことを前提に)委託したままになっているので、どこかにはあるかと思いますよ。」とのことだった。

そこで、レコード探索に出かける際には、VANDAの取扱いショップでのバック・ナンバー探しも並行するようになった。まずは地元滋賀からスタートして京都・大阪・神戸と回るも、なかなか成果は得られず、次は自宅の滋賀から実家の静岡までの帰省経路にあるショップをターゲットにした。具体的には、岐阜・名古屋・豊橋・浜松などで、当然ながら静岡県内も行けるところは全て回る計画を立てた。そんな帰省の途中、名古屋の「バナナ・レコード」で自社の発行するフリー・ペーパーに「VANDA」の推薦文が掲載されている記事を発見した。「ここにもVANDAの支持者がいる!」と感激のあまり、自宅に戻ると即佐野さんに連絡を入れた。ところが、あいにく彼は不在だったので電話を取られた奥様にこのことの伝言をお願いした。すると「主人は人気あるんですね。」と。さらっとした返答に「そんなもんかなぁ」と気が抜けてしまった。




そんな出来事に気分良くし、少しずつではあるがバック・ナンバーを入手していったが、お目当ての「3」はどこでも売り切れだった。徐々に諦めムードが漂い始めていたが、ある時立ち寄った豊橋の「ラビット・フット・レコード」(ex.2003831日閉店)で、ついにお目当ての「3」をはじめ手元にない多くのバック・ナンバーを入手することが出来、「1」「2」以外はほぼ揃った。それをきっかけにVANDA誌の探索はここまででストップにした。この入手したバック・ナンバーを読み返し、改めてサラリーマンの傍らVANDAを発行し続ける佐野さんの情熱を再認識することができた。


少々話が本論からそれてしまったので、「23」の制作経緯に話を戻すことにする。この号に掲載した「Music Note」の1972年は、お気に入りのヒット曲をチェックするだけでなく、ラジオなどで耳にした自分好みの曲を血眼になって探すようになっていた時期だった。それゆえ当初は書きたいことだらけで、収拾がつかなくて困っていた。そこで佐野さんに相談すると、「ミュージシャンから派生した面白い話はなかったですか?」と尋ねられ、即座に浮かんだ出来事があった。

それはこの年の11月に発表されたRolling Stonesの来日公演(影の仕掛け人は、後に参議院議員糸山英太郎氏)のチケットを手に入れるため、友人と三人で上京したことだった。この時期は受験生の身でありながら、前売り券を手に入れるため、ふとどきにも3日間学校をエスケイプした。なおこの公演は73年の1/282/15回公演予定で、発売日は12/1だった。そこで「発売日の2日前なら余裕だろう」と意気込んで発売場所となった渋谷東急本店プレイ・ガイドを目指した。しかし、そこには既に1,000人以上詰めかけていて、行列はビルの地下駐車場に並び、13回の点呼を受けながら、空いた時間は渋谷・新宿界隈を彷徨っていた。この徹夜組は当日までに4,000人にも及び、その報道は新聞紙面を飾った。ちなみに、チケットの価格はS12,700円で、当時同じくスーパー・スターの来日として話題になっていたTom Jonesの来日公演のS30,000円(大阪公演は、33,000円)にくらべ、かなり破格の価格だった。(当時のOL平均月収50,000円程度)その話を聞いた佐野さんは、「それだけでコラムになりますね!」と絶賛された。その好反応に今回は触る程度で、いつか別の形でまとめようと思い、その後2012年に出版した『よみがえれ!昭和40年代』(小学館)で紹介した。




また、価格といえばChicagoの初ライヴ『Live At Carnegie Hal』のことも忘れられない出来事だった。そのアルバムはなんと「4枚組7,800円!」と、その価格設定に「誰が買うんだ!?」とうそぶいていた。本国では2枚組程度の価格で、輸入盤では2,000円ほど安く(その価格も決して安くはなかったが)売られていた。どうしても手に入れたい衝動を抑えられず、当時昼食代として渡された小銭をピン・ハネし、数か月昼食抜きにして貯めこみようやく手に入れた。「鈴木さんよくそこまでやりましたね。私は5,000円超えていたら諦めてますよ。」と佐野さんに言われたが、「いや、これはオールナイト・ニッポンの亀ちゃん(亀淵昭信氏)が学生時代にやっていたことを見習っただけです!」と付け加え、大爆笑になった。




そんなやりとりをしながら、その他にインパクトの強かった記憶を振り返った。そこでまず思い出したことが、Alice CooperのパンツをはいたLPレコード『Scholl’s Out』」だった。さらにこのレコード・ジャケットは、組み立て式で「学校の机」になる仕様で、その中からパンツLPが取り出せる仕掛けが話題になっていた。ちなみに、このパンツは『すいか/サザンオールスターズ』(1989721日発売)の付録の元ネタになっているので、かなりメジャーな話題のはずだ。そして、それと同じくらいインパクトのあったニュースといえば、フレンチ・ポップスの貴公子Michel Polnareffのパリ・オランピア劇場公演の「お尻丸出しポスター」で、当時は「見せるルノレフ」といじられていた。余談ながら、私の妻は「自分の葬儀には「愛の休日(Holidays)」を流して欲しい」と宣言するほど彼の大ファンで、彼女に前ではとても口に出来ない話だ。なお佐野さんと私が大変お世話になった元音楽之友社のK氏の初ライヴはポルナレフだったそうだが、親同伴だったのであのポスターみたいなことされたらどうしようかとドキドキしながら鑑賞していたとのことだった。




さてヒット曲の傾向だが、当時は新進のシンガー・ソングライター(以下、SSW)が続々と頭角を現していた。その代表的格としては、ギター初心者だった私でもEm7さえ押さえれば簡単に演奏できた「孤独の旅路(Heart Of Gold)」のNeil Young、後にMadonnaにもカヴァーされた「American Pie」のDon McClean、そしてEaglesの「Take It Easy」の作者であり、Jackson Fiveにも取り上げられた「Docter My Eyes」のJackson Brownらだった。

そんな彼らの活躍で日本でもSSWブームが到来していた。それは「結婚しようよ」で大ブレイクしたよしだたくろうをはじめとするElecレコード所属シンガー、泉谷しげる・ケメ・古井戸などが目立っていた。そんな話になると佐野さんは和製CSNYと呼ばれていたGaroについて熱く語りはじめた。彼とは「学生街の喫茶店」の位置づけで、「良い曲だけど、あれはGaroとしては...」「Garo1stと「美しすぎて」が最高!」という共通認識があったので、話は大いに盛り上がった。さらにTin Pan系が参加した『吟遊詩人』も、売れなかったけど音楽的にセンスの良いアルバムという評価も同意見だった。ただ後に「学生街の喫茶店」抜きのコピレーション『エッセンス・オブ・ガロ・ソフト・ロック・コレクション』(1998)をまとめるコアなGaroファンの佐野さんだったが、このCDに収録された「美しすぎて」をシングルではなく、アルバム・ヴァージョンで収録してしまったことをずっと後悔していたのが忘れられない。




こんな感じで、「23」の制作過程では余計な回り道をしていたので、今回もあまり余裕を持って原稿を仕上げることが出来ず、「締め切りは10/10」と受けていたが、完成したのは二週間遅れの10/24だった。その後完成したVANDA 23には「VANDA3冊目の単行本『All Mod Cons』の発売予告」と「次号よりVANDAは年一回発行、ネットのWeb.VANDAで毎月情報更新」と書かれていた。これ以降は本格的にネット参入していくことになり、佐野さんとの雑談で閃いたネタは雑誌ではなく、Web.へアップするようになった。本誌には私がこだわってまとめたコラムのみを掲載するようにした。




そんな状況にはなったが、ネットもさほど発達していなかったこの頃、私の情報源は相変わらずショップの巡回というアナログなものだった。そんな時に佐野さんから「音源が見つからなくて困った時には、国会図書館にいったらどうですか。あそこなら著作に関するものは全て揃ってますから!」という話を聞き、「国会図書館」でのチェックを始めるようになった。ただ、確かに全てチェック出来る場所ではあったが、「視聴は13点」(当時、現在は13点、13回まで)という制約があり、出向くときには慎重に厳選して向かった。そんな活動にシフトしていったが、関西や中部圏と違い東京と滋賀の往復は日帰りできるような距離ではなかった。そもそも個人的な趣味での活動だったので、移動手段は「高速バス」で安くあげ、泊りは京葉線の稲毛海岸に住んでいた後輩のM君のマンションを頼った。
VANDAに参加してから早2年、国会図書館通いで上京する事が増加し、何度目かの上京の際にやっと佐野さん本人に会う機会を持ち、彼の仕事帰りに三軒茶で合流した。偶然にも最終学歴が同じ中央(学部は別)という事を知り、音楽以外の話も含め大いに盛り上がった。そこでのディープな会話はこれが初対面とは思えないほどで、好奇心が強くなんでも聴きまくる雑食系の私は、頭脳明晰で探究心が強く研究熱心な佐野さんとお互いの意思疎通ができ、これから2017年までの付き合いが再スタートした。とはいえ、これ以降彼と生前直接会うことが出来たのはわずか5回だった。しかし、いつどこでどんな話をしたのか今も鮮明に頭に浮かぶほど内容の濃い付き合いだった。

 ということで、今回は「23」制作過程を通しての回想をまとめてみた。次回の振り返りでは、医者の松生さんがVANDAに参加するきっかけとなった経緯などについて紹介させていただく予定だ。



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2018年1月24日水曜日

Murry Wilson's very rare SP record

Murry Wilsonのソングライター期の活動について米国での研究によって徐々に明らかになりつつある。
今回Murry Wilsonの楽曲を含むSP盤を当方は発見した。 


The Bachelors
If The Sun Took A Shine To The Moon/Happy,Happy Holiday(Murry Wilson)
Palace Record 111 




The Bachelors
Uncared For/I'll Hide My Tears(Murry Wilson)
Palace Record PA-116  

早熟の天才Brianに立ちはだかるMurry Wilson、作曲家として大成できず、屈折した愛情を息子たちへ注いだ、というのがもっとも人口に膾炙しているものであろう。これらは70年代Brian復帰待望論の中、いくばくかの肉親同士の軋轢はあれど、悲劇の天才Brianという彼の才能を際立たせるため、西洋古典文学にありがちな近親憎悪というテーマを引用し忠実に伝記類の中で物語を組み立てたにすぎない。
実際、息子たちの不安定なデビューと違い、父の楽曲はマイナーからメジャーレーベルで取り上げられ、短期間ではあったが安定したリリースの実績があった。
極めて初期に確認されている作品は、当時本人は30代半ば、1951年The Four Flamesの歌う「Tabarin」という曲である。



このグループは多くの変名で1960年代中期まで西海岸で活躍したヴォーカルグループで多くのレーベルからリリースしており、同曲はSpecialty傘下のFideltyからリリースされた。
またバージョン違いかつThe Hollywood Four Flamesの変名でUniqueよりリリースされる。 ほぼ同時期にBob WilliamsがFederalから、The TangiersがDeccaよりリリースしており、同曲は酒場で起きた失われた恋を情熱的に歌い上げる形式となっている。
Murryの手がけたラブソングは、報われない過去の失恋といったテーマが多く、Brianの楽曲にも同様の傾向があり、父の影響がある程度うかがわれる。
また同曲のクレジットにGuild Musicとあり本誌読者ならお気づきと思われるが、The Beach Boys誕生にあたり大きな役割を果たしたMorgan夫妻の音楽出版社である。
したがって、MurryとMorgan夫妻の交流はThe Beach Boys結成前からあり、夫妻を通じてMurryは音楽業界について理解を深めていったのだ。
1952年にMurryはある楽曲についてGuildと契約を結んだ。
「Two Step,Side Step」という文字どおりダンス曲である。
「Tabarin」とは違い陽気なノヴェルティソングでダンスステップも考案された。このステップは社交ダンススタジオによるもので同スタジオは会場をSanta MonicaにあるAragon ballroomにおいていた。
伴奏は後に有名になるLawrence Welk Orchestraが担当していた。
このAragon ballroomはRock’nroll時代の到来と共に急速に寂れるが60年代中期に若手ミュージシャンにより使われだして再び活気を取り戻した、The Doorsが本拠地にしていた時期もあったが後年火災で消失する。
「Two Step,Side Step」で再び本誌読者はお気づきかと思われる、評伝類は同曲をLawrence Welkの演奏によるラジオ放送の点のみ取り上げることが多く、つかの間の栄光に浸るアマチュア作曲家Murry Wilsonというイメージで描写していることが多い。しかし突然自分の曲がラジオでかかるというのは極めて不自然ではないのか?
Murryはオンエアされることをあらかじめ知っていた、しかもラジオ局へ事前の根回しなどのプロの仕事が介在しているのと推定されるのが自然ではないのだろうか? そもそも「Two Step,Side Step」とはいかなる状況で世間に出ることになったのか?
The Four Flamesの楽曲提供からMurryとMorgan夫妻の関係は良好であり、新たな曲の売り込み先を探していた。ちょうど同時期に地元のPalace Record社長Alfred Schlesingerは南カリフォルニアのラウンジで演奏する三人組を気に入り自分のレーベルからデビューを画策する。
Schlesingerは法曹資格を持ちながらレーベル経営者という異色の経歴を持つ人物で、不思議なことに数年後The Beach Boysがデビュー音源を巡って訴訟があった際は代理人として関与している、その後も音楽業界に詳しい弁護士として業界でも有力者となり、バンドBreadの設立にも関与していた。 その三人組の名はThe Bachelors、ただし同名の英国出身グループではない、メンバーにまだ十代のJimmie Haskellがいた。Jimmieは母の友人のお陰で音楽業界にコネクションがきき、後にImpeiralに入社し、Rick Nelsonのアレンジャーとして頭角を現し様々な分野で活躍する。サウンドトラックから“さだまさしまで”とにかく幅が広く、本誌読者へは怪盤California'99がお勧めである、Millieniumのカバーが秀逸だ。

話をBachelorsまで戻そう、Morgan夫妻がSclesingerの話を聞き接触があり彼を自宅に招き「Two Step,Side Step」のデモなどを聴かせ他結果Murryの楽曲採用を快諾した。

その後レコーディングが行われるが、スタジオは当時完成したばかりのGold Star Studio! 
Murryも現場に立ち会ったとのことで、なんと親子二代で利用したことになるのだ Schlesingerの回想からは「Two Step,Side Step」/「I'll Hide My Tears」/「Fiesta Day Polka」 とのことである。
ただしこれらの音源は今まで確認されておらず、「Fiesta Day Polka」自体BMIに登録されていない事実があった。「I'll Hide My Tears」は前述のThe Four Flamesの変名The JetsがAladdinよりリリースしておりR&Bやヴォーカルグループコレクターも一目置くレア・アイテムとなっている。
今回のSP盤の発見で少なくとも、Palace Recordのレコーディングは実在したことが裏付けられ、さらに現在まで未確認であった「Happy,Happy Holiday」まで発見された。
このことから「Two Step,Side Step」のリリースがあったことが推定されるが、Palace Recordのディスコグラフィについての研究はまだ端緒についたばかりのため今後の研究に期待したい。
「Two Step,Side Step」のThe Bachelors先行リリースがあったと仮定した場合Murryのラジオ放送の逸話もうまく繋がってくる、すなわちThe Bachelorsのプロモーションの一つとしてLawrence Welkへ演奏を依頼したのだ。番組からヒット曲が出ればレコードも売れる、同時にダンスのステップも全米で流行すればLawrence Welkの番組も人気が出るし、社交ダンススタジオも入会者が増えて、お互いにとって利益がある、というのが背景にあったと思われる。
The BachelorsはヒットしなかったがMurryはプロの一員として音楽業界に橋頭堡を築いた。これらを裏付ける資料は皆無であるが、後に同曲はカバーされており、RCA Victor/King/Decca/Recorded In Hollywood からそれぞれ別々の歌手が録音してシングルがリリースされている。
The Bachelorsの企ては失敗に終わったが、Lawrence Welkはこのラジオ番組がきっかけで全国ネットへ移行し、テレビ番組も開始し長寿番組となる。Aragon Ballroomにあった社交ダンススタジオは世界でも指折りの社交ダンススタジオへと成長を遂げている。 
(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)

 

2018年1月10日水曜日

佐野邦彦氏との回想録7・鈴木英之

あけましておめでとうございます。
今年もWeb.VANDAをよろしくお願いします。
平成年号最後となる2018年第一回目の投稿は、佐野さんが肝いりで大プッシュしていたNeil Sedakaなどが掲載されたVANDA22でのやりとりを回想してみたいと思います。

まずVANDA21が届き、そこにはさまれた手紙には「ソフト・ロックA To Z」単行本出版のことと、「今後も流行に関係なく「いい音楽を紹介する」というスタンスを守って地道にやっていきたい」とあり、末尾には前回同様「次回締め切りは410日です」とあった。


このメッセージを受け、私は連載を始めた「Music Note」の1971年に早速取り掛かることにした。そんな中、佐野さんから興奮気味に「次回でNeil Sadakaを組みます。特に1970年代は凄く良いですよ!」とかなり熱い連絡が入った。私は’71年の「Superbird」以降リアルに聴いていたので、「Rocket時代の『Steppin’ Out』はいい曲結構ありますよね。
特に「Bad And Beautiful」「Summer Night」なんか」と切り出し、そして「’75の「悲しき慕情(Breaking Up Is Hard To Do)」の焼き直しは、’74年に出た『(DavidCassidy Live!』のテイクが元ネタだと思いません?」まで発展した。さらに「Captain & Tennilleがカヴァーして大ヒットした「愛ある限り(LoveWill Keep Us Together)」のオリジナルのバックは10㏄が演奏してますよね」といったかなりコアな話にまで及んでいった。ただ私は当時の音源を全部持っているわけではないので、手持ちに無い音源の話をされると、まごついてしまうこともしばしばだった。そんな時は彼が入手したLPをダビングしたカセットが次々に送付されてきた。


そんな経緯で佐野さんのSedaka研究に付き合うようになり、英米では収録曲が違うLPがいくつか存在することを初めて知り、改めて彼の研究熱心さに敬服した。
そんなある時、「Sedakaが再ブレイクした時期は、1960年代初期に一斉風靡したPaul Anka Frankie VarriRightous Brothersなんかもカム・バックしてましたよね。」という話に繋がり、そこでは彼お得意のFour Seasonsの話に広がり、まだ一度もあった事のない同志のとは思えないほど会話は弾む一方だった。すると、佐野さんから「そこまでご存知なら、鈴木さんも1970年代のPaul Anka書けませんか?」とリクエストされた。佐野さんのSedakaに対する思い入れが半端でなかったので、成り行き上Paul Ankaを書くことを安易に承諾したが、電話を切ったあとその安請けあいを後悔することになったが後の祭りだった。


ということで、22にも2本書くことになってしまい、とりあえず音源のチェックをすることにしたが、前回同様コラムをまとめるには音源不足は明らかで、前回同様京都・大阪へ探索ツアーとなった。ただ私がまとめようとする対象はプレミアもつかないようなありふれたものでああるものの絶対数が少なく、ゲットできたのは大阪のForeverで『Wake A Fine Line(マイ・ソングス~朝のとばりの中で)』のみだった。

とはいえひとつのことに集中できない私はせっかく遠出するのだからと、余計な音源にも手をのばし、当時王様が流行らせていた「直訳ロック」の元ネタとなった1970年代の日本語訳詞盤も買いあさっていた。そんななか、原稿の進行具合を問い合わせてきた佐野さんにForeverで「Questions 67&68(日本語版)」を見つけた話をすると、彼も興味があるようで即Foreverにオーダーをかけ、しばらくはこの話でもちきりとなった。

  当時は、Policeの「De Do Do Do,De Da Da Da」やMarliyn McCoo&Billy Davis Jr.の「星空の二人(You Don’t Have To Be A Star)」の日本語詞盤を入手したばかりだったので、自分の所持している音源をありったけダビングして佐野さんに送った。それが届くと即座に彼から連絡が入り、「鈴木さん、このネタ面白いよ!これもまとめてみてはどうですか?」と要請され、これまた佐野さんにのせられるように引き受けてしまった。
それにしても、VANDAには(締切厳守の)充実した作家陣が控えているのに、佐野さんは(内容はともかく)常に締切が危うい私に、よく3つもコラムを依頼したものだと感心してしまった。
そんな流れでコラムを3つ引き受けてしまったが、締切超過傾向癖だけは何とか回避しなければと、焦りながら音源収集に精を出していた。ただ思うように音源が集まらず内容が進行せず悶々とした日々が過ぎていった。
しばらくすると、関西方面から名古屋に足を延ばすようになった。
そこで偶然にも1982年に娘のDara SedakaがDavid FosterのプロデュースでリリースしたセカンドLP『ガール・フレンド(I'm Your Girl Friend)』(松本零士映画作品『1000年女王』の主題歌「星空のエンジェル・クィーン(Angel Queen)」を収録)を発見した。そのLPは即座に購入したが、私が持っているよりも佐野さんが持っていた方が価値があると思い、そのまま彼にプレゼントした。そこから1980年に父娘デュエット「面影は永遠に(Should’ve Never Let You Go)」が全米21位のヒットとなりSedakaの『In The Pocket』に収録されていたことを思い出し、佐野さんに連絡するも彼は収集済みの情報だった。

  こんな寄り道をしながら、当時のことがかなりリアルに頭に浮かぶようになり、とりあえずPaul Ankaからまとめることにした。ただ佐野さんのようにすべてを把握して、詳細を細かく紹介していくには自信がなかったので、Ankaが何回も再録する名曲「愛のバラード(Do I Love You)」と個人的なフェイヴァリット・アルバム『孤独なペインター(The Painter)』(1976年;未CD化)、それに山下達郎氏の『Circus Town』(1976年)A面と参加ミュージシャンが共通する1977年の『Music Man』など個人的に思い入れの強い作品を中心にまとめることにした。ということで、現在は名盤の誉れ高い『Wake A Fine Line』(1983年)については、AORとしては好盤であってもAnkaの存在感が薄く思えたので、軽い扱いにおさえた。こんなポイントで勢いだけで一気にまとめあげ、珍しく締め切り前の3月中に原稿は完成した。

第一関門をクリアし、次に取り掛かったものが「Music Note ‘71」だった。この年は新年からチャート番組にどっぷりつかり始め、夏には木目の美しい家具調の(今は消滅した)Sansui製ステレオを購入してもらい、こつこつとレコード収集に邁進しはじめた時期とも重なり、印象が強くネタには困らなかった。ちなみにステレオは、The Beatles(以下、B4)が新聞広告やT.V.CMに登場していた東芝IC Bostonが欲しかったが、電気店の勧めでこちらに落ち着いた。なおこのステレオは当時一世を風靡した4チャンネル・ステレオ(SQ4)で、このシステムで聴いた『天の守護神(ABRAXAS)/Santana』のサラウンド感は今も忘れられないほど感動ものだった。



第一関門をクリアし、次に取り掛かったものが「Music Note ‘71」だった。この年は新年からチャート番組にどっぷりつかり始め、夏には木目の美しい家具調の(今は消滅した)Sansui製ステレオを購入してもらい、こつこつとレコード収集に邁進しはじめた時期とも重なり、印象が強くネタには困らなかった。ちなみにステレオは、The Beatles(以下、B4)が新聞広告やT.V.CMに登場していた東芝IC Bostonが欲しかったが、電気店の勧めでこちらに落ち着いた。なおこのステレオは当時一世を風靡した4チャンネル・ステレオ(SQ4)で、このシステムで聴いた『天の守護神(ABRAXAS)/Santana』のサラウンド感は今も忘れられないほど感動ものだった。

 話はコラムに戻るが、この年は書きたいことだらけだったのでジャンル分けしてまとめることにし、<スクリーン関係><ビッグ・ネーム><’60年代物><ヨーロッパ・ヒット><ロック関連><ポップス><アメリカン・ポップ><アイドル>の8項目とした。なおこの年10月には、初めてロック・コンサート(Led Zeppelin)に足を運んだこともあり<ロック関連>に力が入った。内容については、元々この年から始めたいと思っていたほど自信があったので、一気に書きまくり、これまでまとめた中では一番スムースに完成した。完成直後、佐野さんに毎週「サザエさん」でB4CM(『Let It Be』のルーフ・トップ・コンサート映像)を放映していたことを話すも、残念ながら彼はあまり印象に無かったようだった。


そして、ロック・ミュージシャンが日本語で歌った曲の特集「EJ Songs」残すのみとなった。このコラムは佐野さんが特に楽しみにしていたものだったので、周りの知人たちに当時のことを確認しながら進めることにした。まず、当時の会社後輩Ka君に尋ねると「やっぱりScorpionsの「荒城の月」ですよ、確か「君が代」も演奏していたはず。」、旧勤務先で音楽評論家となった後輩Ko君は「Chicagoの「Lowdown」は日本語にしようか、英語にしようか迷いました。」、昔の部下U嬢は「Three Degreesの「にがい涙」は「夜のヒット・スタジオ」で見ました!」など興味深い話が色々と聞けた。
佐野さんは私が録音して渡した中の「星空の二人(You Dion’t Have To Be A Star)」(「ふたりの誓い(Two Of Us)」B)がお気に入りで、「日本語で歌われている唯一の全米No.1ソング」が口癖だった。

   このように予想以上の反応に、あっという間にまとめ上げた。ただ、寸評としてまとめるよりも本音の会話風にしたら面白いのではないかと思い、筒井康隆氏の『笑うな ショート・ショート集』(1975年)をモチーフに、飲み屋での雑談風にまとめてみた。そのまとめ上げた手法は、当時のことや音楽に興味のない同僚たちには大受けだったが、真面目な佐野さんからは「ちょっとふざけすぎ」とストップがかかり、普通の解説書に戻し入稿した。余談ながら、この会話手法は後にオファーを受けた『林哲司全仕事』の中で活用し、内容については地元のチューバ奏者S氏の番組「Boss Junアワー」(まりんぱる/FM清水)にゲスト出演し、2週(2時間)に渡って特集を組み放送させていただいた。


こんな経緯で悪戦苦闘した今回の原稿は、二週間ほど遅延してしまったが、どうにか無事仕上げることが出来た。その後に送付されたVANDA 22には「VANDA2冊目の単行本「Beach Boys Complete」が出版されます。」とメモがはさまれており、以前この本をまとめる際に山下達郎氏ご本人から、内容について直接電話があったという話を思い出した。

 また末筆には、「今回は特に多くの原稿をお書きいただき、ありがとうございました。」とあり安堵したが、「次回の締め切りは10/10です。」と編集長としての一言も忘れてなかった。なお、佐野さんが精魂込めてまとめたNeil Sedakaは1999年に来日し全国8ヶ所9公演の日本ツアーを敢行している。ただ、この公演でのレパートリーはほとんど1960年代のオールディーズが中心で、残念な事に佐野さんが力説した1970年代のナンバーはまばらで、公演に足を運んだ彼は落胆されていた事実を加えておく。 

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