2017年5月28日日曜日

shinowa:『Snow, Moon, Flowers』 (LITTLE EYES IN A MEADOW/LEIM001)



 今回紹介するshinowa(シノワ)は、96年結成の男女4人組のサイケデリック・ポップバンドで、6月1日に16年ぶりとなる新作『Snow, Moon, Flowers』を7インチ・シングルとして自主レーベルからリリースする。
 ギタリストの平田徳(ヒラタハジメ)と、リードヴォーカル兼ギタリストの山内かおりのソングライティングによる楽曲には、60年代中後期のサイケデリック・ミュージックからの影響が濃く、80年代後期~90年代初期のクリエイション・レコーズを中心としたシューゲイザー/オルタナティヴ・ロックに通じるサウンドは、VANDA読者はもとより往年のギターポップ愛好家にも強くお勧めする。

 そもそも彼等は大阪で結成し、GYUUNE CASSETTE 傘下の Childish Soupより『bloom~光の世界』を01年にリリースし数度のメンバーチェンジのあと、2010年には新たに内美乃(ベース)、野有玄佑(ドラム)が加入して現在に至る。
 また11年には米サイケデリック・ポップバンド、MGMT(エム・ジー・エム・ティー)より直々にオファーを受け、彼等の来日公演のオープニングアクトを務め、国籍を超えたミュージシャンズ・ミュージシャンとして知られているのだ。
 なお本作のプロデュース(カップリング曲はshinowaのセルフ)とミックスは、ギャングウェイのリリースで知られるHammer Label主宰で、シンセサイザープログラマーやエンジニアとして著名な森達彦氏が手掛け、彼等の新たな活動をバックアップしていることは注目に値する。

   

 では本作について解説しよう。
 タイトルの「Snow, Moon, Flowers」は、平田と山内による作曲にカワノミズホが英歌詞をつけた曲で、ギターのディストーションをロング・ディレイやリヴァース・ディレイでループしたと思しきトラックと、山内のスウィートなヴォーカルが融合した見事なサウンドである。真っ先にイメージしたのはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインだが、それだけではない彼等の個性も感じられた。
 とにかくこれまでの国内バンドでは少ないスタイルではないかと思う。
カップリングの「Almost Certain」は、山内単独のソングライティングで、英歌詞の翻訳をエダナマイが担当している。「Snow, Moon, Flowers」以上にヴィンテージ・サイケデリック・ロックな曲調で、シド・バレットがイニシアティブを取っていた初期ピンク・フロイドやトゥモロウを想起させる。

 なお本作は自主制作且つ限定プレスの7インチ・シングルのため、筆者のレビューやMVを観て興味を持った読者は、リリース当日となる6月1日に下記リンクのサイトから早期に購入して欲しい。
 その他の流通としてディスクユニオンでも現在予約可能であるが、直販サイトより出荷は遅れるとのことだ。

shinowa OFFICIAL WEB SITE

(ウチタカヒデ)

2017年5月27日土曜日

☆Beatles:『SGT. Pepper’s Lonely Hearts Club Band(Anniversary Edition)』(Universal/UICY78342)4CD+1Blu-ray+1DVD


DISC12017年ステレオリミックス、音圧が増してパワフルな感があり、自分はこれはこれで楽しめるだが、異論もあって当然。自分はアナログ&オリジナル信者ではないので色々楽しめる。

ただ自分にとって肝心なのは別テイクが集まったここからだでまずDISC2から。冒頭は「Strawberry Fields Forever」。今までの公式のデモは『Anthology2』の3テイクで、そこのジョンのギター1本のデモ「Demo Sequence」はない。このBOXでソロは必要ない。「Take1」はどちらもあるがBOXの方にイントロとジョンとカウントがあり5秒長い。「Take4」は初登場で前半部のアレンジは大分完成していてジョンのヴォーカルはシングルトラック。「Take7」は両方にありBOXはジョンの声のイントロが加わりジョンのヴォーカルはダブル、そして最後の演奏がフェイドアウトになっていくように崩して演奏する部分で終わるが、『Anthology2』は「Take7 & Edit Piece」のタイトルの通り崩して歌う部分の最後にレコードで最後の逆回転のドラム部分のセッションの模様を無理やりつないであるので総尺は1分ちょっと長い。非常にピッチの早い原型のオーケストラヴァージョンの「Take26」はBoxで初登場。「When I’m Sixty-Four」のアウトテイクは初。初登場の「Take2」はまだカウンターのコーラスのないシンプルなテイク。ポールがきちんと歌っているので聴ける。「Penny Lane(Take6-Inst)」は初登場でこの時からサウンドがクリアだ。ポーンがないので新鮮なインストになり色々な消されてしまった遊びが聴けて面白い。逆に「Vocal Overdubs/Speech」は曲を聴きながら(わずかに聴こえる)手拍子をしながら会話をし、イントロの部分にコーラスを小さく歌っているがレコードで使っていない。『Anthology2』で登場したポールのヴォーカルがシングルトラックで聴かせどころの中間部のピッコロトランペットのないテイクはこのBOXにはない。これにはエンディングにもピッコロトランペットが登場、そのままプロモシングルのみのメロディも吹いてくれるがガチャガチャ終わる。DISC4の「Capitol Records Mono US Promo Mix」は盤おこしと思われ音質は良くないが初のモノで最後がプロモのみのピッコロトランペットエンディング。『Rarities』のはステレオに継ぎ足したものだった。「A Day In The Life」の「Take1」はポールのパートにつなぐ24節が出来上がっていなのでピアノと声のカウント入り。ポールの部分も歌はないがジョンのパートに戻る部分の演奏は出来ている。そしてジョンの歌で最後の上昇部もまだできていないピアノとカウントのみ。「Take2」は普通のジョンの1234のカウントから始まり構成は「Take1」と同じだが、ポールのパートのアコギが切れ切れのカッティング、マルのカウントのエコーが大きい上にピアノの弾き方も違い、最後に本番で使用されなかったメンバーによるエンディングコードのハミングが入っている。「Orch Overdub」はオーケストラのみの上昇部の練習。「Hummed Last Chord Tks 8,9,10,11」はレコードではピアノの連弾のコードになってしまったが、Take2で聴けるメンバーのラストのコードのハーモニー練習。「The Last Chord」はそのピアノのラストコードの練習でピタリと合うとのレコード雷鳴のような音になる。DISC4の「First Mono Mix」はポールパートのつなぎはマルの24までのエコーたっぷりのカウントで、ポールのパートが歌は入るがまだ歌い方が一部違う。ジョンのパートは完成されているがエンディングはオーケストラなしでさらにピアノの弾き方が違い下降するベースも入るが最後のコード音なし。『Anthology2』のものは最初は「Take1」とあるがポールのパートは「First Mono Mix」のものに差替えたもの。そしてエンディングはオーケストラをもの持ってきてエンディングのコードは入れなかった「継ぎはぎテイク」だった。「SGT.Peppers Lonely Hearts Club Band」の「Take 1 - Inst」は4人だけのザックリした演奏でこれはこれで魅かれる。最後は次につなぐと決めてあったので適当に終わる。「Take 9 / Speech」はリードギターが完成していないがポールもジョンもきちんと歌っていてコーラスも決まり、4人の演奏だけなので迫力があっていい。最後のつなぐ部分はジョンが適当に歌っていて面白い。「Good Morning Good Morning」の「Take 1 - Inst, BD」はシンプルな演奏だけのインスト。「Take8」はジョンの歌のみがシングルで入り、4人の演奏だけなのでロックンロール色が強くてなかなかいい。『Anthology2』のものはジョンのヴォーカルがダブルでクリアにミックスされており、最後のリンゴのドラムもサウンドがクリアなので手数が多く聴こえるが内容は同じ。

続いてDISC3。「Fixing A Hole」の「Take1」はハープシコードのバッキングでポールがシングルで歌っているが完成度は高い。あの印象的なリードギターとコーラスはまだない。最後のアドリブヴォーカルもいい。「Speech And Take 3」は1分くらいの話し声などがあってから演奏が始まる。リードギター、コーラスがない上に歌はさらにアドリブメロディが多く、あとで元に戻したことが分かる。「Being For The Benefit Of Mr.Kite!」の「Speech From Before Take 1; Take 4 And Speech At The End)」はジョンがシングルで歌っていて、間奏部分にラララと歌ったりカウントを入れたりアドリブを入れている。『Anthology2』の「Take1 Take2」のTake2は歌いだしてすぐ終わってしまうがこれのみ。SEなどが入っていない「Take7」は『Anthology2』の「Take7」より歌いだし前のジョンのアドリブの歌が10秒ぐらい長い。ここでもジョンは前半間奏で歌を当てている。そして『Anthology2』の「Take7」の後半はSE入りにつないでフェイドアウトしているのでこれまた「継ぎはぎもの」だ。「Lovely Rita」のアウトテイクは初登場。「Speech And Take 9」は明るくポールがシングルで歌い、コーラスやSEなどは入っていない。後半の構成は出来ているが、ポールのアドリブのメロディがまだ多い。最後はジョンのヴォーカルが聞こえる。「Lucy In The Sky With Diamonds」の「Take 1 And Speech At The End」は出だしのメロディが同じ音の繰り返しでレコードと違っていて、中間とエンディングのコーラスは歌が入っていない。「Speech, False Start And Take 5」もまだ出だしの歌い方がレコードと違っている。ピアノなど前のテイクより完成しているがこれも中間とエンディングのコーラス部の歌は無い。『Anthology2』のものは出だしのメロディは同じく違っているが、中間とエンディングに歌とコーラスが入りより完成されたテイクだがBOXには入っていない。DISC4の「Original Mono Mix - No. 1」は通常のモノミックスだが冒頭にスタジオチャットや最初のハープシコードの1音の15秒がイントロに加わっている。「Getting Better」のアウトテイクは初で、「Take 1 -- Instrumental And Speech At The End」はジョンの声から始まりピアノからスタートしている。演奏としてはしっかりしていて、気合が感じられる。あのハイライトともいえるポールのベースは、Blu-rayの映像でポールが語っているようにベーシックトラックが出来上がってから入れるそうだが、「Take12」ではポールのベースランニングが披露され、完成に近づいていることが分かる。大好きな曲なので歌入りのものを是非入れてもらいたかった。残念!「Within You Without You」の「Take 1 -- Indian Instruments」は文字通り歌ナシのインストで、『Anthology2』の「Instrumental」と同じものだと思うがBOXの方のミックスがいい。「George Coaching The Musicians」はジョージが主に西洋楽器のバイオリンやチェロに微妙な節回しを口で歌って教えている。「She’s Leaving Home」のアウトテイクも意外な事に初登場、「Take 1 -- Instrumental」はマイク・リーンダーの指揮のもののオーケストラオケ。ジョージ・マーティンがシラ・ブラックのレコーディングで手が離せないというのでポールが急遽スコアを依頼した。「Take 6 -- Instrumental」も同じだが演奏がややスムーズ。どちらもオフィシャルでカットされた2番のリフレインの後、3番の歌が入る前の短く下降するメロディのチェロが入っている。ただまったく同じのが並んで歌もないのじゃあ…。DISC4の「First Mono Mix」はモノ盤のみのピッチの早いテイクだが、前述のチェロのカット前なので、2番の「…many years」のコーラスが入る233秒の後に下降するチェロが入って「Friday morning…」になるので初登場。「With A Little Help From My Friends」はアウトテイクが初めて。「Take 1 -- False Start And Take 2 -- Instrumental」だがシンプルな曲なのでバッキングもシンプル。しかしここに後からポールの絶妙なベースランニングと、対位法のコーラスが加わると、あんなにカッコ良く変身するから凄い。「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Reprise)」の「Speech And Take 8」はラフにポールのみが歌ったテイク。『Anthology2』の方のテイクはTake5、ポールのみがラフに歌うテイクだが、中間部の歌い方が明らかに違う。ディスク4はモノ盤と前述の補遺トラックで構成されている。

オマケのBlu-rayDVDは、内容は同じでアルバムのそれぞれのオーディオ・ヴァージョンがあるが、見たいのはビジュアルコンテンツで、1992年に作られた「The Making Of SGT.Pepper」が目玉。もうジョンはいないので、ポール、ジョージ、リンゴとジョージ・マーティンがこのアルバムが作る過程、作っていく過程が詳細に語られる。ジョージ・マーティンがミキサーをいじってどう音が作られていったかを聴かせてくれるのが多いが、ポールはこのアルバムをビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』の影響だとはっきり語っているし、サウンド作りなど大いに参考にしたと語る。またジョンの家にいつも車で行っては一緒に曲を作っていた…などのエピソードは聴いていて嬉しい。ジョージがインドへ行っても静かにしてもらえなかったとか、リンゴのドラムのテクニックをフィル・コリンズが絶賛し、でもリンゴは「他の3人がドラムに興味が無くて良かったよ」と笑ってかわすセンスがいかにもリンゴでいい。その他は「A Day In The Life」「Strawberry Fields Forever」「Penny Lane」のPVで『+1』で発表済み。しかしビジュアルコンテンツを探すのが冒頭の真っ赤な画面の黄色の線を右に変えないと出てこないというまあ不親切なもので、散々探してしまった。(佐野邦彦)



 



近況及びamazonでマイナス評価を付けた時に、こわいメールがamazonから送られてきた話。原文をそのまま載せているのでよくご覧ください


最初に近況。今回の入院でまた腫瘍が大きくなっていて神経を圧迫して足が動かなくなったことが分かった。他にも色々飛んだのはあるが一番の問題点はそこ。化学療法のCVD51回続けてきたけど、効きが悪くなったのは、先生いわく「強靭な免疫を持っていてそれで抑えてきた可能性が最初からあった。化学療法は免疫力を落とすので現状では95%以上、継続はマイナスに働くと思う。免疫力を落とさない方が延命できると思う」というのが4年間見てきてくれた信頼できる教授の話。自分のは稀少がんで、日本で一番治療実績があるのが今の東京女子医大。「この病気で最長記録だよだよ。」と笑顔で言われ、面談なんだけど、穏やかに終わった。用がないのならすぐに退院したいと無理をお願いし、夕方に退院した。CVDは次回予約は入っているけど、止めた方がいいか、訪問医の先生と話してそちらは決定することになる。訪問医の先生が自分のような治療ができなくなった患者を在宅で数多く見ているので、丸山ワクチンは無害だし、これだけでマーカーとかすごく悪いのにずっと元気な方がけっこういるというので、2か月前に始めたこれは続けていく。「見放された」とかそういう事ではなく、「どちらにメリットがあるか」という問題で、教授は「医学的にはマイナス。残る5%かいや1%かな、それがあるとすればこの治療がモチベーションになってやめると気力がなくなるということかな」。モチベーションは折れない。今まで何度ももうダメだと言われてきたから、そのぐらいじゃ負けない。水曜日に訪問医の先生が来て相談だけど止める方向性かな。自分の免疫力にかける。治ることはないのはどこまで伸ばせるかだから。

整形外科の先生が2回目の放射線はできないけど重粒子線なら出来るかもしれないからその実施病院に聞いてみたらと言うので、病院間の事なので適応なのか聞いてもらうことにはした。適応だとしてもかなり待つのは必須、その間にどこまで進むかは分からないし、God Only Knows。そもそも適応外の可能性が大きいし。

まあそんなでもがんばっています。書くのもモチベーションを落とさない事なので、体調が良ければ書いていきますのでよろしくお願いいたします。ちなみに写真は主がいない間に介護用ベッドで寝ている愛猫のベルとノエル。6月でもう14歳。自分よりずっと元気だなあ。

さてここで本題。

amazonのカスタマーセンターより、「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」により、発信者情報の開示を許可するか、拒否するならその理由を書いて〇月〇日までに返信してください、と尋常ならざるメールが届いた。それはあるソフトに対する一つ星評価が原因だ。このソフトは1カメ固定でずっと同じ景色を映すBVGのような作りだが、日本の美しいビーチNo1に選ばれたそのビーチの肝心な色がまったく出ておらず、珊瑚礁のリーフ内ならどこにでもある浅瀬のビーチの映像でしかなかった。原因は撮影時間のミス(干潮時及びここは午後の撮影は色が出ない。人を入れたくないと朝一の船が来る9時前を撮影時間をしても干潮だったらその前後の日もOUT)、カメラ位置のミス、さらに誰でも知っているそのビーチの漢字表記をパッケージだけでなくメニューまで間違っているなど、これはひどいとレビューで一つ星を付けた。ところが自分のソフトのマイナス評価に対して損害賠償だ、発信者情報を開示しろとamazonに請求、こういう法律は初めて知ったが、amazonの対応にも驚いた。さっそくamazonに自分でそのビーチに行った時の写真を送り、これが多くの人にNo1ビーチと言わせた美しい色だからその会社とパッケージと見比べてみて欲しい、さらに他のそのビーチを長く映した別ソフトを明示し、その映像と見比べてもらえれば違いは一目瞭然だと。さらに私はホームページやFBでビーチのソフトをほとんど購入して比較レビューしているが、そのクレイマー会社のソフトも他のソフトは褒めており、貶めようという意図は一切なく、正しい評価の結果であると、理由を書いた。そして一番大事なこと、それはamazonのレビューでマイナス評価を付けられたらその会社の要求に応じてこうして発信者情報の開示か拒否かなどという事をレビューした人間に言ってくることは、amazonのレビューを萎縮させ、その意味を会社自らが否定することであり、自分で自分の首を締めているのに気づかないのかと、amazon自体の姿勢も批判した。実際、自分は中南米の危険地帯取材の本が好きでその本をamazonで買っているが、書いている著者は常にマイナス評価の嵐で、一つ星が5つ並び、文章が下手、買う価値なしなどとボロクソに書かれているが、別にその評価はそのまま(出版社は当然受け入れている)であり、私はその評価であろうが読みたいので買っている、よくこんな危険地帯に行くのものだと高評価付ける人も少数はいて、こういうのがクロスレビューの意味だというメールも送った。それから一週間後に「発信者情報の開示をしないと決定しました」と、良識ある返事をamazonからいただいた。それにしてもこういうamazonのレビューのマイナス評価で、損害賠償を画策する会社があることを初めて知ったし、こういう法律があることも初めて知った。こういう事が現実に起きるので、萎縮してはいけないが、マイナス評価は理論武装しておくべき、と皆さんにお知らせしておきたい。amazonから来たメールは下記のとおり。裁判で資料とか、まあ不愉快になる、脅しのようにも思われる文だ。そのためこちらは数多くの資料を作って送る労力が強いられた形だ。向こうは出品者の会社からクレームが来ると、社内コンプライアンスにのっとって、同じ文を誰にでも送っているのだろうが、私のレビューの過去履歴も立場上読めるのだから、営業妨害を狙った人間でないことは明らかで、amazon側で事前にそういう判断を出来ないのだろうか。こういう会社は私以外でもマイナス評価には同じクレームを付けているはずで、amazonが一番大事にしないといけないユーザーに対してそのマイナス評価の申し開きを書けというのはどう考えても納得いかない。下記の文を読んでみなさん、どうお考えだろうか。

 

この請求を受けて、当サイトでは同法42項に基づき、かかる開示の是非について、本メールをもって該当するお客様に意見聴取を行わせていただきます。つきましては、大変お手数ではございますが、以下の点について本メール受信後14日以内に当サイトまでご返信くださいますようお願いいたします。なお、ご意見については、裁判で資料として使用されるほか、請求者にも開示される可能性がございます。また、14日以内にご回答いただけない事情がございましたら、その理由を当サイトまでお知らせください。

1.
 当サイトが同法41項に規定の発信者情報の開示を行っても良いとお考えか、それとも行うべきではないと判断されているか

2.
 発信者情報の開示を行うべきではないと判断される場合にはその根拠等


当サイトではお客様からいただいたご意見を最大限考慮させていただき、発信者情報の開示の是非について判断させていただきます。なお、誠に恐れ入りますが、14日以内に上記点についてお客様からのご返信を確認できない場合、もしくは、開示を行うべきではない旨ご回答いただいた場合でも、当該発信者情報の開示請求が同法41項の条件を満足するものである場合は、当サイトが有するお客様に関する発信者情報を請求者に開示させていただく可能性がございますことを予めご了承下さい。


2017年5月24日水曜日

☆『Silver And Sunshine Soft Rock Nuggets Vol.1』(ワーナー/WPCR17621)☆『It’s A Happening World Soft Rock Nuggets Vol.2』(ワーナー/WPCR17622)☆『Birthday Morning Soft Rock Nuggets Vol.3』(ワーナー/WPCR17623)☆『Listen To Me Soft Rock Nuggets Vol.4』(ワーナー/WPCR17624)


ワーナーから『Soft Rock Nuggets』と副題が付いた、1960年代のソフト・ロック・ナンバーを96曲集めたコンピレーションCDVol.1からVol.4まで4枚、531日にリリースされる。コンピレーターはワーナーの宮治淳一さんだ。曲目解説は全部私が担当している。7割はよく知っていてそのまま書ける曲だったが、3割はあまり聴かなかったCDに入っていた曲に加え、ノーマークだった曲もあり大いに勉強になった。素晴らしい曲が揃っているので是非購入しよう。ちなみにリクエストも数多く出したが、レーベルを超えたコンピは難しく、許諾は1曲のみでこのお仕事の大変さを痛感した。宮治さんとは1996年に私が音楽之友社から『Soft Rock A to Z』を刊行し、有名・無名に関わらず高揚感のあるメロディ、洗練されたハーモニーの音楽を「ソフト・ロック」と呼んだ時に、ワーナーから宮治さんからの依頼でソフト・ロックのコンピレーション『Feelin’ Groovy』と『Windy』の2枚の解説を書いたのだが、21年ぶりのソフト・ロックの解説は楽しかった。1996年の時は本に載せたレコードの大半が知られてなく、確か巻頭に「ソフト・ロック・ベスト63」として内容のいい63枚のアルバムを紹介したがCD化されていたのは56枚。その後、日本はもちろん、特にイギリスを中心にアメリカも含めどんどんリイシューされ、60枚ぐらいCD化されたのは隔世の感がある。それでも本CDのようにシングルを追うとまだ残された「宝」があるし、トニー・マコウレイ、テディ・ランダッツォなどの大物から知る人ぞ知る才人ロッド・マクブライエンのワークスなどはレーベルがまちまちのため未CD化のものが多く、まとめた作品集が出ることを期待したい。

さてではさっそく『Silver And Sunshine Soft Rock Nuggets Vol.1』から紹介しよう。冒頭はカート・ベッチャーが自らグループのメンバーだった最古のグループ、ゴールド・ブライヤーズのシングルのみの愛らしい曲からスタート、続いて今や誰も知らない者がいなくなったブライアン・ウィルソンが作曲・プロデュースをしたグレン・キャンベル初期のシングル「Guess I’m Dumb」。説明不要だが、ブライアンが進み過ぎていたことがよく分かる。グレン・キャンベルは翌年にジミー・ウェッブと出会ったことから「By The Time I Get To Phoenix」でグラミー賞を獲得、「Wichita Lineman」「Galveston」というスタンダードに世界的な大スターになっていく。冒頭のカート・ベッチャーがどれだけ優れたミュージシャンか思い知るのが、カートがプロデュースとヴォーカル・アレンジを担当したアソシエイション初の大ヒットの「Along Comes Mary」で、斬新なヴォーカル・アレンジは今も衝撃だ。続いてアンダース&ポンシアが作ったトレードウィンズは、さらにサウンドが進化したカーマストラでの愛らしい「Mind Excursion」。そしてVol.1のタイトル曲のルッキング・グラスの「Silver And Sunshine」は初めて聴いた方が多いと思うが、このアドリシ兄弟が書いた曲は、記念すべきヴァリアント・レーベルの初期の曲で、マイナーにチェンジする構成など見事なソフト・ロック・ナンバーでだった。プロデュースはレーベルの創始者のヴァリー・デヴォーソン、宮治さんは彼へのインタビューをVANDA30号に掲載してくれたのでアメリカ音楽の歴史の貴重な証言を得ることが出来た。ジミー・ウィズナーのアレンジで持たせたサイドキックスの「Fifi The Flea」、フォークロック・テイストのプアーの「Once Again」は無名だったがメンバーに後のイーグルスのランディ・マイズナーがいたので今は知られている。ヴィジョンズは興味深いバンドだ。ワーナーからこの牧歌的で爽やかな「Black And White Rainbow」など2枚シングルを出した後、ユニからプライス&ワルシュ作のシングル、続いてゲイリー・ゼクリー作のシングルをリリース、どちらも見事なソフト・ロック・ナンバーだったがヒットしなかった。しかしこの両方のコンポーザーは後にグラス・ルーツで「Temptation Eyes」「Sooner Or Later」の大ヒットを書いている。ここからはソフト・ロックの定番で、中間の山下達郎の「クリスマス・イブ」を彷彿とさせるコーラス・ワークが秀逸なトーケンズの「Portrait Of My Love」、ハーパース・ビザールがワーナー移籍第1作でヒットしたヴァン・ダイク・パークス作の「Come To The Sunshine」、大物22人がメンバーのディノ・デシ&ビリーのシングルで、ゲイリー・ボナー&アラン・ゴードンの書いた夢見るようなソフト・ロック・ナンバー「Kitty Doyle」は初めて聴く方も多いかもしれない。ブラス・ロックの先駆的存在のバンドのバッキンガムスは、シングルは見事なソフト・ロック・ナンバーに仕上げ、多くのヒットを生み出した。曲はジム・ホルヴェイ、プロデュースはジェームス・ウィリアムス・ガルシオが軽快なホーン・アレンジを付け、5曲連続の大ヒットがこの「Susan」で、流麗なメロディと甘いヴォーカル、ホーンは抑え目にアレンジされ、キャッチーで見事な仕上がりだった。1990年代前半に宮治さんと濱田高志さん、そして私で、日本初のロジャー・ニコルス作品リストを作り、コンポーザーとして一押ししたロジャー・ニコルスの最初期の作品、哀調を帯びたヴォーグスの「Just What I’ve Been Looking For」、もう何も言うまでもないラスカルズの大ヒット「A Beautiful Morning」、トーケンズがバックアップしながらトーケンズ以上の成功を収めたハプニングスは、転換期に生まれたフォー・シーズンズそのものの快作「Randy」、ロジャー・ニコルス&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズのシングル曲の傑作「Let’s Ride」、サビの高揚感が素晴らしいアニタ・カー&アニタ・カー・シンガースの「Happiness」、ディック・グラッサーの兄弟のパット・シャノンは1958年以来10年後のシングル「Candy Apple Cotton Candy」をリリース、作曲は「Windy」のルーサン・フリードマン、プロデュースはディック・グラッサー、アレンジはアル・キャップスという実力者が付き、ポップで親しみやすいリフレインの佳曲に仕上げた。ロジャー・ニコルス&ポール・ウィリアムス作の「To Put Up With You」はポール・ウィリアムスが歌うホーリー・マッケラルと、コーラス・グループのサンドパイパースの2ヴァージョンが収録されたが、前者がポールのソロ・アルバム『Someday Man』でも取り上げられいつものポール節だが、後者はハイトーンのユニゾン、後半のオーケストラはまさにロジャー・ニコルス&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズでこれはおススメだ。コロナドスはシルヴァーバードというグループの前身。そのシルヴァーバードはニューメキシコ出身のファミリー・グループで、父親のレーベン・オーティズを中心に母親と息子、従姉妹の大所帯のメンバーで1972年にコロンビアから『Getting Together』という傑作ソフトロック・アルバムをリリースしていた。コロナドスはその兄弟姉妹のグループで「Good Morning New Day」と「Don’t Start Something」が収録されたが、サンシャイン・カンパニー風の前者に比べ、バーンスタイン&ミルローズの後者は高揚感のある快作で、曲の良さと、プロデュースとアレンジを担当したジミー・ウィズナーのセンスも見事に発揮されていた。60年代のバリー・マンはソロで、年1枚ペースでシングルを出していたが1967年の「She Is Today」はより壮大でロック色を消したヴォーグスのヴァージョンで。トミー・ジェイムス&ザ・ションデルスの『Crimson And Clover』からのカットされた「Crystal Blue Persuasion」はエディ・グレイ、マイク・ヴェイルとトミーの共作、プロデュースはリッチー・コーデルとトミーで、印象的なギター・リフに載せて最もオシャレなこのナンバーは全米2位となり、トミー・ジェイムス&ザ・ションデルスは2度目の黄金期を迎えている。

It’s A Happening World Soft Rock Nuggets Vol.2』はまずブルース&テリーの最高作で、山下達郎がオマージュで「Only With You」を作った事で知られる傑作「Don’t Run Away」からスタートする。ブルース・ジョンストンはこの曲を書いた後にビーチ・ボーイズに加入している。サークルはこのグループ名になった最初のシングルがポール・サイモンが書き下ろしてくれた「Red Rubber Ball」だったのでいきなり大ヒット、続くシングルがジャック・ケラーらが書いたこの「Turn Down Day」で、少し哀愁を帯びたこの曲も大ヒットになる。カート・ベッチャーがプロデュースを担当しながら後のミレニウムなどのメンバーのリー・マロリーのシングル「Many Are The Times」をレコーディングしていると、あまりの斬新なハーモニーに隣のスタジオのブライアン・ウィルソンが飛び込んできたというエピソードは有名。あのSFテレビシリーズ『タイム・トンネル』の時を放浪する2人のうちのタートルネックの科学者トニー・ニューマン役がジェームス・ダーレン。「All」は1967年にリリースしたシングルで、レオン・ラッセルのアレンジが心地よく、快調なポップ・ナンバーに仕上がった。続いてカーマストラ時代のセカンド・シングルのB面の「I Believe In Her」はコンサート用のメンバー3人が書いた曲だが、ファルセットを生かした流麗なメロディの快作でA面よりはるかに出来が良かった。ハーパース・ビザールの最初のシングルでS&Gのカバー「The 59th Bridge Street Song」はレオン・ラッセルが木管を使うなどオールドタイミーなアレンジに仕上げていた。ジャック・ニッチェのプロデュースでサウンドを劇的に変えたドン&ザ・グッドタイムスは「I Could Be Good To You」をフィル・スペクター・タッチのソフト・ロックに仕上げグループ初のヒットになる。アソシエイションはセカンド・アルバムが華のない出来だったのでボーンズ・ハウをプロデューサーに招き、ドラムにハル・ブレインを招くなどサウンドを強化して2曲目の全米1位になった「Windy」を生み出す。サジタリアスの原型はカート・ベッチャーらのボールルームで、20曲近い曲を録音したもののリリースはシングル1枚のみ。そのデモ・テープを聴いたゲイリー・アッシャーはすっかり惚れ込み5曲はそのまま、1曲はバック・トラックをそのまま生かし、ここに6曲を追加してソフト・ロックの名盤として知られる『Present Tense』を発表する。第1弾シングル「My World Fell Down」は、新たに録音した、分厚いコーラス・ワークと、作者のジョン・カーターらしい哀調のあるメロディを歌う天使の歌声を持つカートのリード・ヴォーカルが見事に組み合わさり全米70位にランキングされた。次のポップ・サイケのモーニング・グローリーズの「Love-In」はシングル1枚のみだがアレンジャーにアル・キャップス、プロデューサーにディック・グラッサーという実力が付いた。ブレイズ・オブ・グラスはアメリカの4人組のポップ・バンドでジュビリーから「Happy」でデビュー、ゴージャスなハーモニーと流麗なストリングスで最高の出来となり、ヒットしたサンシャイン・カンパニーより遥かに出来が良かった。以降シングル4枚、アルバム1枚をリリースしている。従来のサウンドを一変させたトミー・ジェイムス&ザ・ションデルスの6枚目のシングル「I Like The Way」のB面が「(BabyBaby I Can’t Take It No More」で作曲はリッチー・コーデル&トミー、プロデュースはリッチー&ボー・ジェントリー、アレンジはジミー・ウィズナーでA面よりメロディが美しく、サウンドもハーモニーも非常に洗練されていた。ハープシコードのバックで、ハーモニー全開で歌うガス・カンパニーの「If You Know What I Mean」だが、シングル4枚全てをジャック・ニッチェがプロデュース、最後のシングルのB面曲だった。「Mr. Dieingly Sad」などのヒットで知られるクリッターズだが、このメンバーのジム・ライアン作の「Don't Let The Rain Fall Down On Me」は物憂げな歌いだしがメジャーに変わると転調をしながら一気に盛り上がっていくまさにソフト・ロックという快作でスマッシュ・ヒットになっている。第1集にも登場したトーケンズ。バリー・マン作の「It’s A Happening World」は、見事なファルセットのリード・ヴォーカルにしっかりと低いコーラスを入れ、展開に合わせてコーラス・パターンを変えていくので高度なテクニックでこの曲もスマッシュ・ヒットになっている。ゲイツ・オブ・イーデンはワーナーからこのポップ・サイケのシングル「No One Was There1枚のリリースだが、作曲はあのクラウス・オガーマン&スコット・イングリッシュだった。アザー・ヴォイシズもシングル1枚のリリースでA面はダニー・ランデル&サンディ・リンツァ―による「May My Heart Be Cast Into Stone」で快作だったが、こちらはメンバー作のB面の「Hung Up On Love」で、牧歌的な歌いだしから「My World Fell Down」のようなコーラスに変わるかなり複雑な構成をしている。イギリスでトップ20ヒットを25曲も書いたロジャー・クック&ロジャー・グリーナウェイ作の「I’ve Got You On My Mind」は、ホワイト・プレインズのセカンド・シングルで最高の仕上がりだったが、本CDでは珍しいヴォーグスのヴァージョンを収録した。プロデュースのディック・グラッサー、アル・キャップスのアレンジは同じドラム・ビートに乗せて淡々と歌い、曲の一部で突然、ア・カペラにするアレンジが面白い。アンクル・サウンドは後にシールズ&クロフツを結成し、一世を風靡したポップ・デュオのジミー・シールズのアーリー・ワークだ。ポツリポツリと4枚のシングルをリリースし、最後のシングル「Beverly Hills」は、ハンド・クラップも交えながら軽快なビートに乗せたポップ・チューン、バックにはヘヴィなギターが鳴り、シールズ&クロフツのサウンドとは違う。第1集にも入ったディノ・デシ&ビリーはディーン・マーティンの息子のディノ・マーティン、デシ・アーネツの息子のデシ・アーネツJr.という人気者の二世2人に、アジア系のビリー・ヒンチの3人で作ったグループで、1968年になってオリジナル曲で挑戦、ビリーが書いた「Tell Someone You Love Them」は、、ラテン・パーカッションを効果的に使ったボサ・ノヴァの影響を受けた軽快な仕上がりになり全米92位と僅かにランキングした。謎のグループのコングリゲイションだがこの「It's A Natural Thing」は、作曲がピーター・アデル&ゲイリー・ゲルドの名コンビ、プロデュースはスナッフ・ギャレット、アレンジはアル・キャップスというゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの鉄壁のコンビという最強布陣。高揚感に満ちたなかなかの快作である。次のペパーミント・レインボウの「Will You Be Staying After Sunday」は、今やソフト・ロックを代表する名曲で、アル・カーシャが書いた、高揚感に満ち収束しそうで収束しないメロディと、ポール・レカのプロデュースのサウンドにより見事な傑作となり全米32位のヒットになっている。どのディスクにも入っているハーパース・ビザールだが、この「Me Japanese Boy」は3枚目のアルバム収録曲で、一瞬よくある勘違いの中華風かと思いきやさすが作曲がバート・バカラック、アレンジはニック・デ・カロで郷愁を覚えるメロディ、巧みな転調で、アルバムの収録曲の中でも最高作のひとつになった。1964年のオリジナルのボビー・ゴーズボロより出来がいい。ラストのアドリシ・ブラザースの「Time To Love」は、作曲はもちろんアドリシ兄弟、プロデュースはレニー・ワロンカー、そしてアレンジにはボブ・アルシヴァーとレイ・ポールマンという実力者が付いた。ユニゾンから幾重にもハーモニーが付き、そして転調を繰り返していく快作で、後半になればハーモニーがさらに複雑になるところなどまさにアソシエイションだった。

Birthday Morning Soft Rock Nuggets Vol.3』は、第2集に並んでソフト・ロックの定番曲がタイトルに選ばれた。冒頭はジェリー・ロスのプロデュース、アレンジはジョー・レンゼッティというジェリー・ロス組黄金のコンビで作られたキースの「Ain’t Gonna Lie」で、お洒落なメロディとシャッフル・ビートのアレンジでスマッシュ・ヒットを記録した。作曲はトニー・パワーズ&ジョージ・フィショフ。もう1曲も同じジェリー・ロス組の組み合わせで作ったのがジェイ&ザ・テクニクスの大ヒット「Apples.Peaches,Pumpkin Pie」。このグループは黒人シンガー2人と白人のバックバンドが合体したバンドで、モーリス・アービイの書いたこの曲は、ボビー・ヘブ用の曲だったがパスされ回ってきたもの。バンドはこの曲に乗り気ではなかったそうだが、キラキラ輝くようなポップなサウンドになりいきなり全米6位の大ヒットになった。プロデュースにレニー・ワロンカー、アレンジャーにヴァン・ダイク・パークスを起用したモジョ・メンのシングル「Sit Down I Think I Love You」は、バッファロー・スプリングフィールドのステファン・スティルス作のこの曲をカバー、キーボードとアコーディオン、マンドリンらによってキラキラ輝くバーバンク・サウンドに変貌させた。続いてレジェンドの登場だ。フェリックス・キャバリエとエディ・ブリガティという最もソウルフルなヴォーカリストを2人擁するラスカルズは、デビュー4作目のアルバムまでのヤング・ラスカルズ時代のヒット曲「Lonely Too Long」を収録した。どの曲を収録しても十分だが、本作ではこの曲を入れたというところ。キャバリエのソウルフルな粘っこいヴォーカルが、バッキングのオルガンとホルンにより美しく彩られていた。第2集にも収録したリー・マロリーはシングル2枚のみのリリースだがこの「Take My Hand」はセカンド・シングル、カート・ベッチャー・プロデュースのためCDが出るまで超レア盤だった。1枚目が斬新過ぎたため、サイケデリック色を廃してアドリシ兄弟作の曲に合わせてサウンドもコーラスもオーソドックスでポップに作られた。トミー・ジェイムス&ザ・ションデルスの6枚目のシングルの「I Like The Way」は、1966年の大ヒット「Hanky Panky」から前作の「Mirage」までバブルガム・タッチのアップ・テンポのベースがビンビンなるナンバーだったが、このシングルから曲想が一転する。作曲・プロデュースがリッチー・コーデル、アレンジはジミー・ウィズナーというお馴染みのスタッフの制作だが、トランペットが印象的なミディアム・テンポの牧歌的なナンバーになり、連続ヒットは途切れなかった。第1集に入っているハプニングスはソフト・ロックで重要なグループである。トーケンズに見いだされトーケンズ自身が作ったレーベルB.T.パピーからトーケンズのプロデュースでデビューさせると1966年のセカンド・シングル「See You In September」が全米3位、「I Got Rhythm3位、「Go Away Little Girl12位、「My Mammy13位と大ヒットを連発した。これらの曲を収録しても十分だが、ここではセカンド・アルバム『Psycle』からトーケンズが書き下ろした「When The Summer Is Through」を収録、ユニゾンから見事なオープン・ハーモニーに展開するのが心地いい、ノスタルジックな快作だった。1979年の全米1位「Sad Eyes」、1971年の全米3位「The Lion Sleeps Tonight」などの大ヒットで知られるロバート・ジョンだが、ソロ活動を始めたのは1968年のコロンビアのこの「If You Don’t Want My Love」からで、アレンジャーはチャーリー・カレロのセンスもあって、ノザーン・ソウル・タッチで歌ってスマッシュ・ヒットになった。女性1人のリード・ヴォーカルに男性4人のバック・コーラスというサンシャイン・カンパニーは、ママス&パパス、スパンキー&アワ・ギャング、ラブ・ジェネレーションというこの60年代のフラワー・ムーヴメントを体現するグループのひとつで、プロデュースはジョー・サラセーノが担当する。この「It’s Sunday」は、レス・バクスターが書いたサビでアップテンポになってメジャーに展開する構成で聴かせる佳曲だったがヒットには至らなかった。アニタ・カーの作品数は膨大で、とても追い切れる量ではないが、ソフト・ロック・ファンの人気を集めた洗練されたサウンド、ハーモニーで作られたのは「Happiness」収録の1968年の『Sounds』と、バート・バカラックのナンバーを集めた1969年の『The Anita Kerr Singers Reflection The Hits Of Burt Bacharach & Hal David』の2枚だがこの「All ThisHe Does To Me)」は1968年のシングルオンリーのアルバム未収録曲だ。アニカ・カーはアレンジに回り、プロデュースはディック・グラッサー、作曲はビル・クリフォードで、シャッフル・ビートのキャッチーな快作となった。ソフト・ロックの代名詞というべきアソシエイションは数多くの傑作があるが、音楽的頂点は間違いなく1968年の4枚目のアルバム『Birthday』で、プロデュースのボーンズ・ハウのもとヴォーカル・アレンジャーにボブ・アルシヴァーを起用、最も洗練されたメロディ・サウンド・ハーモニーに彩られた曲が次々生み出された。「Birthday Morning」はアルバムの最後を飾るジム・イエスター他のオリジナルで、静かな歌いだしから後半は厚いコーラスに変わりアルバムを締めくくっていた。その『Birthday』の冒頭を飾ったのが次の「Come On In」。快調なベースのリフからギターのコード、そしてピアノが順番に入って期待たっぷりのイントロからアップテンポのアソシエイションのコーラスが幾重にも重なり、至福の時間を迎える。エンディングのどこまでも上昇していくようなハーモニー、ブリッジのロックビート溢れるベースランニングとハーモニーのからみは完璧でまさに傑作。、今やソフト・ロック・ファンの間で知らない人はいないのでは思えるほど人気の高いソルト・ウォーター・タフィーだが、私が1994年に初めてこの『Salt Water Taffy』というアルバムに出会った時に、バラエティに富んだ曲の数々と、ビジュアルの良さにすぐに夢中になった。アルバムは2曲を除きロッド・マクブラエンのオリジナルであり、この無名のロッドのワークスを追うとVal-RaysSageSpurrlowsなどの素晴らしい作品に出合い、その中でGogglesAstral ProjectionStark & McBrienPebbles & Shellsの曲はCD化されたが、ロッドのワークスはまだまだ未CD化が大半だ。VANDAではロッド自身に唯一生前にインタビューが取れWeb VANDAに全文アップしているので興味のある方は是非。このアルバム・タイトル曲にもなった「Salt Water Taffy」はバブルガム・タッチのポップでハッピーなナンバーで一番最初にシングル・カットされている。そして第3集のハーパース・ビザールはシングルのみの「Small Talk」。A面は「Both Sides Now」で、B面が「Happy Together」の作曲で知られるゲイリー・ボナー=アラン・ゴードン作のこの曲で、ニック・デ・カロのアレンジで白昼夢を見ているようで、最高傑作のサード・アルバムに収録のレベルにまで仕上がっていた。もう1曲はそのサードの『The Secret Life Of Harprs Bizarre』収録曲のメンバーの共作の「Mad」。新しいプロダクションと、アメリカ音楽の源流であるジャズ、カントリー、フォークと言ったスタンダードな音楽への憧憬、この融合こそハーパース・ビザールだろう。ヴォーグスのリプリーズ移籍後の1枚目がノン・チャートだったため、プロデューサーのディック・グラッサーはサウンドをイージーリスリング寄りにチェンジ、アレンジャーはジョー・サラセーノのコンビに変わる。再ブレイクした1968年の大ヒット「Turn Around Look At Me」のB面が、このジミー・ウェッブの曲だった。穏やかな歌いだしからサビで盛り上がっていく感動的なナンバーだ。なお同年にマーク・リチャードソンという歌手がカート・ベッチャーのプロデュースでこの曲のシングルをリリースしていた。第3集のロジャー・ニコルスのナンバーはまずホーリー・マッケラルの「Bitter Honey」。ポール・ウィリアムスが在籍していて詞もポールなのでリード・ヴォーカルも担当している。暖かくキャッチーなメロディの傑作で、ピアノとストリングス、ホーンのアレンジが素晴らしい。そしてロジャーとポールの共作で、この2人の共作曲だけで作ったポール・ウィリアムス初のソロ・アルバム『Someday Man』からタイトル曲の「Someday Man」が収録された。弾けるベースに乗ったAメロと、アーティー・バトラーのアレンジのサビのオーケストラ、コーラスの抒情的な変化が抜群で、アルバムのハイライトに仕上がった。そしてこれもソフト・ロックの代名詞のカート・ベッチャーの最高作がミレニウムのアルバム『Begin』。名曲で満ちたアルバムの中でも最もドラマティックで高揚感のある曲が「There Is Nothing More To Say」でいいチョイスだ。ソフト・ロックを探していた時代、ほぼ無名なアルバムを聴いていた中で、最も強いインパクトがあった1枚は、スパイラル・ステアケースの『More Today Than Yesterday』だった。ここに収録された「More Today Than Yesterday」はリード・ヴォーカルのパット・アップトンのオリジナルで、ハイトーンでかつ声量のあるパットの声は伸びやかで開放感があり、高揚感のあるメロディに載せて全米12位と大きなヒットになった。アルバムでも、ハイライトになる曲はみなパットのオリジナルで、このアルバムを入手した時にはその才能に驚いたものだ。ネオン・フィルハーモニックはグループではなく、このプロジェクトのソングライター、アレンジャー、キーボードプレイヤーのタッパー・ソーシーが、一流のセッション・ミュージシャンを集め、オーケストラをフィーチャーし、「レコードのオペラ」を作ろうとしたプロジェクトだ。ヴォーカリストのドン・ガントと出会ってプロジェクトは始動、デビュー・シングルの「Morning Girl」は軽いビートに乗った歌いだしが途中からストリングスが入ってくると一気に曲に広がりが出て奥行きが生まれヒットになっている。女性リード・ヴォーカル1人と男性コーラス4人による黒人ヴォーカル・グループのルビー&ザ・ロマンティックスは、1963年に「Our Day Will Come」が全米1位の大ヒットとなるが1965年以降は100位にも入れないほどヒットが途絶えたため、1969年にA&Mへ移籍してこの奇跡の傑作シングルを残した。作曲はブライアン・ハイランドの「Sealed With A Kiss」や隠れた名曲ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの「We’ll Work It Out」で知られるピーター・アデル&ゲイリー・ゲルド。ニック・デ・カロのアレンジも素晴らしく、冒頭はボサ・タッチの軽く洒落た歌いだしが、一気に壮大に盛り上がっていくソフト・ロックの傑作になった。コングリゲイションのジュビリーからリリースされたユーフォリアで知られる「Sitting In A Rockin’ Chair」のシングルのB面が「Sun Shines On My Street」。この曲はコーラス部を頭に持ってくる曲で、その後にユニゾンのキャッチーで高揚感のあるAメロが印象に残る佳曲に仕上がった。最後はディノ・デシ&ビリーの「Lady Love」。メンバーのビリー・ヒンチの姉がビーチ・ボーイズのカール・ウィルソンと付き合い、後に結婚したことからビリーはビーチ・ボーイズのレコーディングに呼ばれるようになり、この曲は、ビリーとブライアン・ウィルソンの共作だった。軽快で爽やかなソフト・ロック・ナンバーだったが、チャートインは果たさなかった。

Listen To Me Soft Rock Nuggets Vol.4』は、アイヴィ・リーグの「That’s Why I’m Crying」からスタートする。このグループは、イギリスを代表するソングライターのジョン・カーターとケン・ルイスがメンバーで「Funny How Love Can Be」や「Tossing And Turning」は得意のファルセットのハーモニーを生かしたポップなチューンで順調にヒットが生まれていった。この曲も同じコンビ作のシングルで、洗練されたサウンドと美しいハーモニー、メロディが一体となったベスト・ナンバーで全英22位を記録している。ブリティッシュ・ロック好きなら誰でも好きな、リバプール出身のビート・バンドのスウィンギング・ブルー・ジーンズは、サウンドと歌い方がビートルズの初期そのもので「Hippy Hippy Shake」、「Good Golly Miss Molly」、「You’re No Good」と3連続大ヒットを放つが以降ヒットは途絶え、その後5枚置いたシングルがこの「Sandy」で、アメリカでロニー&ザ・デイトナスがヒットさせたバッキー・ウィルキン作のカバーで、アコースティック色を生かした甘く爽やかなバラードだった。次のギャルス&パルスは、男性3人女性3人がフォーマルな服装でハーモニーを響かせる典型的なジャズ系のコーラス・グループ。歌はまさにイージーリスニングで、メンバーはスウェーデン人、この「My Little Red Book」は変拍子に転調を駆使するバート・バカラックならでは難曲だが、実に軽快に、そしてお洒落に仕上げてくれた。グループのリード・ヴォーカルのピーター・ヌーンのアイドル的ルックスで、英米で大人気を博したハーマンズ・ハーミッツは、アメリカでは196468年、イギリスでは70年までヒットを放っていた。このシングルの「No Milk Today」は1966年のリリースで、作曲はグラハム・グールドマン、プロデュースはミッキー・ポストが担当、マイナー調の歌い出しがコーラス・パートでメジャー展開する曲で全英7位のヒットになった。1962年にビートルズと一緒にデッカのオーディションを受け、ビートルズの方が落ちてトレメローズが合格、これで担当が後にクビになったというエピソードが有名だ。最初は「Twist And Shout」「Do You Love Me」などR&B系のヴォーカルでヒットを出したが、その後ヒットは途絶え、CBSへ移籍する。CBS移籍第3弾がフォー・シーズンズの1964年の全米1位「Rag Doll」のB面曲をチョイス、ファルセットと華やかなコーラスというフォー・シーズンズのスタイルでカバーすると、全英1位に止まらず全米11位とトレメローズ最大のヒットになった。作曲はボブ・ゴーディオ&ボブ・クリューの黄金コンビだ。イギリスのポップ・ミュージックを作り出したコンポーザー兼プロデューサーでトニー・ハッチは有名だ。ペトラ・クラークとの多くの洒落たヒット・ソングの数々がまず浮かぶが、このサンズ・オブ・タイムも3枚のシングルを担当、3枚目のシングルが「Love Found A Way To My Heart」でこの中間のゴージャス感なメロディとハーモニーの展開は、さすがトニー・ハッチ。なおトニー・ハッチだけ他のコンポーザーと共作がないのは、昔、『ソフト・ロックA to Z』でトニー・マコウレイにインタビューした時に、「嫌な奴だった」とバッサリ。もう1曲のトニー・ハッチのワークスが、イギリスで1964年にデビューしたモンタナス。1967年にプロデューサーにトニー・ハッチが付き、一気にサウンドが洗練、3枚目はスコット・イングリッシュ、4枚目はアドリシ兄弟の曲で制作するものの、出来はいいのにヒットに結びつかない。そこでいよいよ曲もトニー・ハッチ自身が書いたのが「You’ve Got Be Loved」である。めくるめく転調、高度なハーモニー、爽快なサウンドと全てが素晴らしい傑作だったが、全英58位止まりだった。ャッキー・トレントと言えば、トニー・ハッチと結婚し、おしどり夫婦として有名だった。彼女は1962年にデビュー、1965年に「Where Are You Now」が全英1位になってようやく成功をつかみ1967年になって2人は結婚するが、この「7.10 From Suburbia」は1968年のシングル「Hollywood」のB面曲である。両面ともこのコンビの曲でA面も十分楽しめるナンバーだが、このB面の方がマイナーの洒落たメロディがブリッジで一気に盛り上がりメジャーに展開するよりトニー・ハッチのセンスが発揮された作品だった。男女2人ずつ4人のコーラス・グループのトゥー・オブ・イーチ。1968年にデッカから2枚のシングルを出すがヒットせず、1969年にトニー・ハッチ&ジャッキー・トレントのプロジェクトに移る。パイ移籍後第1弾はトニー&ジャッキー作、続くシングルのA面はロジャー・ニコルス作の「Trust」をカバー。そしてこのシングルのB面がトニー&ジャッキー作、ジャッキープロデュースの「Trinity Street」である。快活なメロディがサビでスローにチェンジする面白い構成の曲だ。ヴィッキーことヴィッキー・ヴァシリキ・レアンドロス・パパサナシューは1964年にデビューし、1967年にユーロビジョン・ソング・コンテストであの「恋は水色」を歌って4位と大ヒット。6か国語を話せて歌えるのでヨーロッパとアメリカ、カナダで活躍、主に歌うのはフランス語だが、この1967年のシングル「Sunshine Boy」は英語で歌いフィリップスからリリースした。パレードの「Sunshine Girl」のアンサー版で、パレード版よりぐっと華やかなで、見事なソフト・ロック・ナンバーに仕上がっている。ロッキン・ベリーズは、キャロル・キング作の「He’s In Town」をカバーし、ファルセットのハーモニーを生かして大ヒットになってからは、ファルセットやコーラスを使ったポップなシングルをリリースして路線を変える。しかし1966年以降のヒットは途絶えてしまう。この曲は1967年にフォー・シーズンズの名曲をカバーした「Dawn」のB面で、メンバーのゲオフ・タートンのオリジナルだ。このB面の方が、美しいメロディとためを効かせて最もソフト・ロック・テイストの仕上がりになった。1968年にロッキン・ベリーズを脱退したゲオフ・タートンは、ジェファーソンと名乗ってソロ活動を始めた。最初のシングルはバート・バカラック、2枚目はジミー・ウェッブのカバーだったが、ヒットしない。そこで1969年にはバリー・ライアン作の「The Colour Of My Love」を取り上げ、プロデューサーのジョン・シュローダーは、ジェファーソン持ち前の伸びやかで声量のあるヴォーカルを生かし、高揚感に満ちた傑作に仕上げ、全英22位のスマッシュ・ヒットになった。そして4枚目のシングル「Baby Take Me In Your Arms」はトニー・マコウレイが書いたナンバーで、ファウンデーションズやトニー・バロウズも吹き込んでいたが、冒頭の雷鳴のようなドラムから歯切れのいいリズムと、わくわくさせられるトニー・マコウレイ・サウンドに仕上げて全米23位にランクされている。ベルギーの男性4人組のギブソンズ。1966年に2枚のシングルをリリース、1967年にメジャー・マイナー移籍第1弾がこの「She’s Not Like Any Girl」だった。作曲はゲオフ・タートンとあるので、ジェファーソンだ。ミディアム・テンポの美しい曲でファルセットを生かしたリード・ヴォーカルとハーモニーはロッキン・ベリーズより洗練されていてフラワー・ポット・メンなどに近い、北アイルランド出身の女性1人男性5人のコーラス・グループ、マーゴ&ザ・マーヴェツ。デビュー期はシェル・タルミーのプロデュースで2枚シングルを出すが印象に残らない作品だった。そして1967年、パイからリリースされたのがこの「When Love Slips Away」。作曲はジェリー・ロス、スコット・イングリッシュ、ビクター・ミルローズの共作で、シャッフル・ビートにマーゴの伸びやかなヴォーカルが心地よい傑作になり、ジェリー・ロス風のノザーン・ソウル・タッチに仕上げたプロデューサーのジョン・シュローダーの腕も見事な傑作だ。ラブ・アフェアーほどシングルとアルバムでサウンドが違うグループは珍しい。ソウルフルな声を持つスティーブ・エリスを売り出すためにメンバーが集められたが、演奏力には疑問符が付けられていて、レコードはレコード会社主導で制作された。1968年の2枚目のシングルはソウル・シンガーのソニー・ナイトのカバー曲の「Everlasting Love」で、トニー・マコウレイ風のビートとストリングリスでメリハリを付けたサウンドにスティーヴの力強いヴォーカルが映え、全英1位の大ヒットとなった。ダニー・ストリートの詳細は不明だが、イギリスのフィリップスから1963年~1965年に年1枚のシングルをリリース、その後CBSへ移籍して19661968年に3枚シングルをリリースしたのがこの「Everyday」だ。この曲の作曲はR.ウェッブ、プロデュースがトム・スプリングフィールド、アレンジはロバート・リチャーズが担当した。全編ストリングスのバッキングによる流麗なメロディ、ソフトなヴォーカルの傑作で、何かの映画のサウンド・トラックの主題歌という風情である。ガリバース・ピープルの詳細も不明だが1966年にパーロフォンからデビュー、同年にセカンド、1年置いた1968年にノーマン・スミスのプロデュースでこの「On A Day Like This」をリリースした。ヒットはなかったが本作が注目されるのはプロデュース、アレンジ、コンダクトがノーマン・スミスであることで、彼はビートルズの『Rubber Soul』『Revolver』のエンジニアの後にピンク・フロイドのプロデューサーとして活躍、1972年にはジョン・レノンの勧めでハリケーン・スミスの名前でソロ作「Don’t Let It Die」が全米3位に輝くなど、なかなかの才人だった。本作もアップテンポの高揚感のあるブリティッシュ・ポップらしい佳作に仕上がっている。後にAORで成功するピーター・アレンと、クリス・ベルの2人が組んだデュオがクリス&ピーター・アレンだ。オーストラリア出身の2人はアメリカに渡りABCパラマウントと契約し2枚のシングルをリリースするがヒットしないままで終わる。そこで1968年にマーキュリーに移籍、アレンジャーにジミー・ウィズナー、プロデューサーにアル・カーシャという実力者が付き、唯一のアルバム『Chris & Peter Allen’s Album1』がリリースされた。アルバムにはアル・カーシャの書いた浮き浮きするような「Ten Below」があり、他にトニー・パワーズ&ジョージ・フィショフの書いたこの「A Baby’s Coming」がアルバムのハイライトの1曲だった。愛らしいメロディと華やかなサウンド、まさにソフト・ロックである。メンバーにグラハム・ナッシュ、アラン・クラーク、トニー・ヒックスという3人のコンポーザーを配し、この3人が在籍した196368年に、イギリスでトップ10ヒット14曲、アメリカでもトップ103曲とイギリスを代表するロック・グループがホリーズだった。ナッシュを中心とした完璧なハーモニーと、ポップ・センス溢れる曲によって1967年のアルバム『Evolution』と『Butterfly』はソフト・ロックの名盤としても知られている。この「Listen To Me」は1968年、ナッシュ脱退直前のシングルで、作曲はオリジナルではなくトニー・ハザードの作品だった。得意の3パートのハーモニーを生かしたポップなナンバーで全英11位のヒットになっている。エンディングのハーモニーがホリーズらしい。トニー・マコウレイはなんと43曲の全英トップ20ヒットを生んだ、イギリス最高のポップ・コンポーザー兼プロデューサーだ。最初の成功はこのファウンデーションズで、メンバーは黒人・白人5か国の混成グループ、こういう黒いヴォーカルをポップ・ソウルに仕上げるのはマコウレイの得意とするところで、1967年にキャッチーで高揚感に溢れた「Baby Now That I’ve Found You」を全英1位、全米11位のビッグ・ヒット、翌年に2枚シングルもスマッシュ・ヒットになったが、4枚目の「Build Mu Up Buttercup」は、弾むリズムに乗せたキャッチーなポップ・ソウル・ナンバーに仕上がり全英2位、全米3位と再びビッグ・ヒットになった。フライング・マシーンは1965年にピンカートンズ・アソ―ト・カラーズとしてデビュー、「Mirror Mirror」は全英9位のヒットになったが続く2枚のシングルはヒットしないまま終わる。ここで再建に乗り出したのが、イギリス最大のヒット・メイカーのトニー・マコウレイとジョン・マクレオド。1969年にグループ名をフライング・マシーンに変え、第1弾シングル「Smile A Little Smile For Me」はトニー・マコウレイとゲオフ・ステファンズの共作で、パワフルさを抑えメロディアスに作られた。イギリスではヒットしなかったが、アメリカでは全米5位と大ヒットし、ポップ・ヒストリーに名を刻んだ。マーマレードはイギリスでベスト10ヒットを8曲も持つ実力派グループだ。1966年の大ヒット、「Lovin’ Things」は既にトニー・マコウレイにつながる高揚感のあるサウンドで作られていた。そして1967年にトニー・マコウレイが書いたこの「Baby Make It Soon」がシングルリリースされ全英8位にランクされた。マコウレイは甘く優しいメロディを書くのも得意であり、かつキャッチーなのはさすがマコウレイ。フライング・マシーンのカバーでも知られている。ジロイス・ウィルキンソンとアンドレア・シンプソンのイギリスの女性デュオのカラヴェルズは、1963年のシングル「You Don’t Have To Be A Baby To Cry」がいきなり全米3位、全英6位という大ヒットとなるが、1968年のラストシングル「The Other Side Of Love」までヒットは無いまま終わる。この最後のシングルは、力強いベース・ラインに乗せ、ポップでかつパワフルなコーラスも心地よく、曲としてはベストな出来だったが、惜しいかな旬は過ぎ去ってしまった。イギリスのハーモニー・シーンをリードし続けたのがトニー・リヴァースだ。ハーモニー・グラスの前身のトニー・リヴァース&ザ・キャスタウェイズは1962年に結成。ケニー・ロウの加入によりファルセットのハーモニーを前面に押し出したサウンドになり、1968年に1枚シングルを出したあとは、ハーモニー・グラスの名前でRCAと契約、1969年の第1弾シングルがアーノルド・キャピタネリ&ロバート・オコナー作のこの「Move In A Little Closer Baby」で、ドラマティックなサウンドとハーモニーで高揚感溢れる快作となり全英22位にランクされた。同年リリースのアルバム『This Is Us』はトニーのオリジナルが7曲入り、ブリティシュ・ハーモニー・ロックの最高峰のアルバムになった。この曲は同年のキャス・エリオットのカバーも出来がいい。

最後にこの4枚のジャケット・デザインは「ナゲッツ・シリーズ」のデザインを一手に受け持ち、VANDA27号~30号のデザインを担当していただいた奥山和典さんである。(佐野邦彦)

2017年5月23日火曜日

桶田知道:『丁酉目録』(UWAN-002) 桶田知道インタビュー



 先月第一報で紹介したが、ウワノソラのメンバーである桶田知道が5月31日にファースト・ソロ・アルバム『丁酉目録(ていゆうもくろく) 』を自主制作盤としてリリースする。
 バンド同僚のいえもとめぐみと角谷博栄によるウワノソラ'67のサウンドと対極ともいえる、ワンマンの打ち込みサウンドは、ヒューマンで有機的な80年代エレポップに通じるが、当時リアルタイムでそのサウンドを聴き込んでいた筆者には懐かしくもある。とにかくジャンルの細分化が進み、明確なトレンド意識が瓦解した昨今では新鮮に聴けるだろう。
 なお映像的な詩とシーケンス・ミュージック特有のグルーヴの融合が顕著に現れているリードトラックの「チャンネルNo.1」をはじめとする、全曲のソングライティングとアレンジから演奏はすべて桶田一人によるものだ。
 9曲中6曲にはいえもとがヴォ-カリストとして参加し、「チャンネルNo.1」を含む3曲で桶田自身がヴォーカルを取っている。その他にこれまでのウワノソラ関連作のクレジットでは見掛けなかった中垣和之とウラアツシがコーラスとして「チャンネルNo.1」に参加している。
 ここではリリースを間近に控えた、桶田へのインタビューを掲載する。


   

 ●まずはウワノソラとしての活動が、角谷君といえもとさんのウワノソラ'67と、今回のソロプロジェクトに別れた経緯を桶田君の視点から聞かせ下さい。

桶田(以下O):「ウワノソラ’67」のリリース時に角谷君が言っていた通り、各々の趣向の違いです。
ウワノソラ1stが出て直後くらいに次作について話していたら、角谷君が「ウワノソラ’67」の企画について話してくれました。
面白いと思いましたが、それを次作のサウンドコンセプトとして持っていくのは段階が早いね、ということになり、僕はその頃ロジャー・ニコルズをはじめA&M系を愛聴していたので、「いえもとさんをヴォーカルに立てて各々違うアプローチのものを作れたら面白いね」ということになりました。
結局僕が当初考えていたコンセプトは破綻してしまったのですが、そもそも「ウワノソラ’67」自体、あくまで本隊のサイドプロジェクトという位置付けなので、サウンドコンセプトの整合性よりも、各々が違う趣向のものを作るということで、この一連のサイドプロジェクトの流れに帰結させることが先ず念頭にありました。

●ロジャー・ニコルズやA&M系の曲調やサウンドでアプローチしたのも聴きたかったですよ。一応VANDAのサイトなので、その頃聴いていたアルバムを記憶の範囲で挙げて下さい。

0:68年作の『Roger Nichols & The Small Circle of Friends』は勿論、Paul Williamsの70年作のソロ『Someday Man』や両氏のデモ集『愛のプレリュード』は今でも愛聴しています。
その他The Parade『Sunshine Girl』 、Harpers Bizarre『The Secret Life』、The Match『A New Light』などはほぼほぼ不可抗力で行き着き、Free Designの『Kites Are Fun』『You Could Be Born Again』『Heaven/Earth』も同時期に買いました。あとは少し趣向が異なるかもしれませんが、Margo Guryan『Take a Picture』、The Millennium『Begin』をよく聴いていました。
邦楽ではピチカートファイヴの『Couples』、コーネリアスの『THE FIRST QUESTION AWARD』など、平たく言うところの「渋谷系」の中でも特にロジャー・ニコルズの影響を感じられる作品を聴いていました。日本語詞なので当初はある意味手引きのような作品でした。

●名だたるソフトロック名盤が並んでいますが、昨年リリースされたロジャー・ニコルズの未発表デモ及びCM・主題歌集の『Treasury』は聴きましたか?
曲作りのヒントが隠されているので、桶田君をはじめ若きソングライターは必聴ですよ。

0:『Treasury』は発売日に購入しました。これは本当に貴重なアルバムですね。ロジャー・ニコルズはもちろんですが、これは濱田高志さんの功績も大きいですよね。
職業作家の作品に興味を持ったらとことん追求したくなるので、特にDISC2にCM提供曲が収録されるという情報を得てからは発売日までずっとソワソワしていました(笑)。

●気が早いかも知れませんが、それぞれのサイドプロジェクト(ソロプロジェクト)の作品を発表したことで、ウワノソラ本体のセカンド・アルバムの制作にも着手していると考えていいですか?
また具体的にそちらのレコーディング状況はどうなっていますか?

0:ウワノソラ本体については非常にマイペースで進行しています。一進一退に近いので、現状特筆してお知らせすべき事がなく残念ですが、こちらも出来るだけ早くお知らせできるよう頑張ります。

●ウワノソラのセカンド・アルバムも首を長くして待っていますからね。

0:ありがとうございます。是非とも楽しみにお待ちいただけますと幸いです。

●今回のソロプロジェクトではこれまでのウワノソラや、当然ですがウワノソラ'67とサウンド・アプローチが全く異なりますね。 そもそも桶田君の音楽趣向は、本作のようなワンマンの打ち込みで構築していくサウンドだったんですか?

0:打ち込みモノも好きですが、もちろんそうじゃないのも好きです。 ウワノソラ1stの時の僕の曲や「Umbrella Walking」のように70s的なものも好きですし、今回趣向したもののように80s〜90sも好きで、個人的に一貫して趣向しているスタイルというのは特にありません。
音楽趣向というよりは、作業スタイルという点で打ち込みを選びました。ただ単純に一人で音を重ねていく作業が好きで、せっかくのソロ名義だし出来る限り一人でやりたいとも思っていたので。

●作業スタイルでの選択ということですが、例えばリードトラックの「チャンネルNo.1」は、分解能が低い頃特有のシーケンサーのグルーヴの曲ですから、打ち込みありきでの曲といえますよね?
よろしければ打ち込みで使用したシーケンサーやソフトを教えて下さい。

0:確かにそうかもしれませんね。「チャンネルNo.1」もそうですが、本作の中でも比較的生っぽいアプローチをしている「陸の孤島」なんかでも後ろの方でリズムボックスのような打ち込みをしています。
作業は全てLogic Pro Xで行いました。 今後は本物のCR-78や808も使ってみたいですけどね…。

●ウワノソラの1stでは「摩天楼」と「マーガレット」が桶田君のソングライティングで、「さよなら麦わら帽子」と「恋するドレス」は曲のみ角谷君と共作でしたね。
ウワノソラ・ファンを代表して質問しますが、「摩天楼」のアレンジで「Jolie」風のオルガン・ソロやオブリは角谷君のアイディアだと聞いたことがあるけど、許せる範囲でバンドならではのヘッド・アレンジや共作の種明かしをして下さい、ここは桶田君でここは角谷君とかね(笑)。

0:「摩天楼」は高校時代に作った曲で、アレンジは角谷くんのアイディアが多くを占めています。尺と間奏部のブレイクする部分は原曲を反映していますね。
アルバム未収録ですが「Umbrella Walking」も同様で、僕が自らくすぶらせていた曲を角谷君が上手く仕上げてくれた感じです。
「マーガレット」は僕の編曲であると同時に唯一自分でギターを弾いている曲です…(笑)。
「さよなら麦わら帽子」では、Aメロは僕、Bメロ(サビ)は角谷君です。最初は超バラードだったんですけど気づいたらこういう仕上がりになっていました(笑)。
 そして「恋するドレス」なんですが、あれ実はクレジット表記ミスなんですよね(笑)、実際は全て角谷君によるものです。この場をお借りして訂正させていただきます(笑)。


   

●「摩天楼」や「Umbrella Walking」のエピソードは興味深いです。
年長メンバーである角谷君がサポートしてくれたという感じですね。
そして「マーガレット」での儚さは本作の収録曲でも行かされていると思いますよ。
また「さよなら麦わら帽子」がバラードだったとは意外です!
アルバム収録曲中最もクロスオーバーな展開だったからね。僕の古い知人でもあるヤマカミヒトミのサックスもそっちのテイストで吹いていますよ。

0:実際のレコーディングは角谷君主導でしたが、結果的に僕が作った当時指向していたサウンドとなり、自分主導では出来なかった部分などが分かったという点でも勉強になりました。
アルバムにアップテンポで軽快な曲が欲しいね、と言っていた時に僕がバラードを作っちゃったので(笑)。ヤマカミさんにも素晴らしい演奏をしていただいてとても感謝しています。

●アルバム・タイトルの『丁酉目録(ていゆうもくろく) 』には、古きよき文学の薫りがしますが、この影響はどこから?

0:特筆すべき影響はありませんが、ソロ名義で作品を出すということに大きな意味を感じ始めた頃、2017年に出るべくして出たという意味合いをこめて「丁酉」を冠したかったというのがあります。
十干十二支は60年周期なので、まぁこのタイトルは今年以外ありえないだろうなと(笑)。今年付けそびれると次は86歳になるまでこのタイトルは付けられないので(笑)。

●更に長寿命社会が進むわけですから、86歳でアルバムをリリース出来るかも知れませんよ (笑)。

0:そうなるといいですね(笑)。そのための第一歩として先ずこのアルバムを皆さん手に取っていただいて次作も作れるようにしなければいけません。何卒よろしくお願いいたします(笑)。

●曲作り中に特に影響を受けたアーティストやそのアルバム、曲があれば教えて下さい。

0:曲作り中に主に聴いていたのは、ムーンライダーズの『マニア・マニエラ』『青空百景』『ANIMAL INDEX』『最後の晩餐』や、平沢進さんの『時空の水』『サイエンスの幽霊』、ピチカートファイヴの『ピチカートマニア!』、そこから派生して、戸川京子さんの『涙』などです。
サウンド面でもそうですが、歌詞も印象的なアルバムだと思います。

●なるほど、特に「チャンネルNo.1」には『NOUVELLES VAGUES』(78年)から『マニア・マニエラ』(82年)の影響を強く感じました。
余談ですが、以前とあるバーで角谷君と明け方まで音楽談義した際、ライダーズの話にもなって最も好きな曲ということで、彼の趣味性から「週末の恋人」(『イスタンブール・マンボ』収録 77年)を当てたことがありましたが、ハース・マルチネス風の曲調にポルタメントが効いた退廃的な弦アレンジを施した芳醇なサウンドは時代を超越していますよね。
本作の話題に戻りますが、「お砂糖を少し」のサウンドにはやはりライダーズの「さよならは夜明けの夢に」(『イスタンブール・マンボ』収録 77年)の構築方を踏襲していて、いえもとさんのヴォーカルは大貫妙子風だし非常に感動的でした。挙げられたアルバム以外にも、坂本龍一が手掛けていた頃の大貫さんのアルバムを感じさせる瞬間がありましたが、いえもとさんのヴォーカルのカラーもあるかも知れませんね。

0:そうですね。ムーンライダーズの「さよならは夜明けの前に」や「スタジオ・ミュージシャン」(『NOUVELLES VAGUES』収録 78年)のようなバラードは作りたいなと思っていましたし、アルバムとして成立させるには必要なことだと、あくまで私感ですがそう思っています。
大貫妙子さんでいえば『cliché』(82年)をよく聴いていました。
シュガーベイブまで遡っても、大貫さん作の曲には影響を受けていると思っています。上述のウワノソラ1stの時の「マーガレット」はそのつもりで作った部分もありますし、いえもとさんの声の良さが一番伝わりやすいのはこういうバラードなのかとは思っています。そういった意味でも「お砂糖を少し」は一番安心して聴いて頂けるのではないでしょうか。

●『cliché』は名盤ですね。特に「色彩都市」は後生に残る曲だと思います。今年復活したあの小沢健二も「指さえも」(97年)でオマージュしていますよ。

0:「色彩都市」は大貫さんの作品の中でもっとも好きな曲です。
本家と並んで88年の薬師丸ひろ子さんのヴァージョンも愛聴しています。「指さえも」はオマージュだったとは知らなかったです。あらためて聴くととても新鮮な印象ですね。

●曲作りからレコーディングの期間は?またレコーディング中の苦労話や面白いエピソードはありますか?

0:だいたい2016年6月〜翌3月ぐらいです。打ち込み主体だったので作曲と同時に編曲、レコーディングも進めていました。比較的長いほうだと思うのですが、ワンマンスタイルは良くも悪くもスケジュールに左右されないので、今思うともっと長く、あるいは短くなった可能性もあります。
苦労話…になるかどうか分かりませんが、冬のとある晩、バイトから帰宅して自室に入った時、股の下を野良猫が駆け抜けていったんですよね。どうやら家の中に忍び込んでいたらしく、僕の部屋のドアだけ開けっ放しにしていたのでそこに落ち着いたようです(笑)。
家の中を逃げ回るので追い出すのに1時間以上かかり、その間自室に何度も出入りしてその度に荒らすもんですから「頼むからパソコンだけには触れてくれるな!今は制作中なんだ!」と説得しました(笑)。

●なんか都心では考えられない長閑な話ですが、今後は戸締まりをしっかりして下さい。 大事な機材も置いている訳ですから(笑)。

0:ご忠告ありがとうございます(笑)。 僕は別に猫嫌いとかそういうのではないので、あの時力ずくで追い出してしまった猫へのせめてもの気持ちを「お砂糖を少し」の歌詞の最後に記しています(笑)。
あまり歌詞について明言するのはちょっとアレですが、こればっかりはあの猫ちゃん無しでは思いつかなかったと思うので(笑)。

●なるほど「お砂糖を少し」の最終節「迷い猫おいで ミルクをあげよう」はそこからね(笑)。

0:詞を考えるのもすごく時間がかかってしまうのですが、こういったある意味貴重な体験っていうのはやはり良い刺激になるということをあらためて感じました(笑)。

●最後にこのアルバムの自己ピーアールをお願いします。

0:とりあえず、無事リリースの運びとなったことに安堵しています(笑)。生音が主だったウワノソラ1stやウワノソラ’67とはまた違う側面としてお聴き分けの上、お楽しみいただけたら幸いです。


 インタビューは本題の『丁酉目録』はもとより、筆者が愛してやまないウワノソラのファースト・アルバムにも触れながら多少脱線したが、彼等のファンには楽しんでもらえたと思う。
 ではインタビュー中触れていない曲も含め解説しておこう。
 冒頭の「philia」は、坂本龍一が手掛けた、大貫妙子の「CARNAVAL」(『ROMANTIQUE』収録 80年)に通じるヨーロピアンなテクノAORで、複数のシーケンス音とパッドから構築されるクールなサウンドにいえもとのフラットなヴォーカルが非常にマッチしている。
 続く「陸の孤島」は、トルコ民謡風変拍子のリズム・トラックとフレットレス・ベースが醸し出すサウンドと、かしぶち哲郎直系といえる懐古浪漫な歌詞の世界観が絶妙に溶け込んで完成度が極めて高い。
 桶田がヴォーカルを取る「モーニング」は、80年代後期に流行ったラテン寄りのニュージャックスイング系の落ち着いたビートをバックに、一人称のネガティヴながらユーモラスな歌詞とのギャップが面白い。
 余談だが筆者と交流のあるシンセサイザープログラマー、エンジニア、サウンド・プロデューサーの森達彦氏が本作中最も気に入った曲でもある。
 「チャンネルNo.1」は、多くのリスナーがベスト・トラックに挙げそうだが、なにより曲構成の見事さには目を見張る。
 ライダーズの「いとこ同士」(『NOUVELLES VAGUES』収録 78年)やバグルスの「Elstree」(『The Age of Plastic』収録 80年)に通じる泣きのメロディ、アクセントになっている男性コーラス(中垣和之とウラアツシ)がリフレインするパートは、「花咲く乙女よ穴を掘れ」(82年)のそれを彷彿させるし、エレメントを例えたら枚挙に暇がない程だ。

 インタビューでは同じくライダーズの「さよならは夜明けの前に」(77年)のサウンドを引き合いに出した「お砂糖を少し」は、何より曲そのものが普遍的に素晴らしい。褒めすぎかも知れないが、宇野誠一郎氏を思わせる時空を超える幻想的なメロディーラインはただただ聴き惚れてしまう。
 「有給九夏」からラストの「歳晩」への流れは本作のハイライトの一つでもあり、前者は小気味いいキュートなヴァースのサウンドが特徴的だが、意外な転回パートを内包していて聴き飽きないように工夫されている。
 後者は以前ライブ会場限定で手売りされていたCD-R『あそび vol.1』にプロトタイプが収録されていたが、そちらのヴァージョンではいえもとがヴォーカルを取っていた。ここでのヴォーカルは桶田自身によるヴァージョンなので入手可能なら聴き比べて欲しい。間奏のシンセ・ソロが、デイブ・スチュワート&バーバラ・ガスキンの「I'm in a Different World」(84年 ドリフターズのカバー)を彷彿とさせて、多幸感に包まれながら本作を締めくくれるのだ。

 以上のように極めて濃い内容ながら本作『丁酉目録』は、自主制作アルバムなので初回プレスは数に限りがあるため、インタビューとレビューを読んで興味を持った読者は下記リンクからいち早く予約して欲しい。
ウワノソラ・オンラインストアでは5/31発売開始で、全国流通は6月14日を予定している。
ウワノソラ・オンラインストア

(設問作成/文:ウチタカヒデ)





2017年5月21日日曜日

諸星大二郎が93P 加筆した「暗黒神話」(集英社)から40年ぶりに刊行された。加筆が大半だが、書き直されたコマも多いので、旧版も必ず手放さず、よく見比べて読んで欲しい。


あさってから入院だが、病気がまた進行して足が動かなくなってしまった。これで4回目だ。厳しい状況だが、なんとか今回も進行をストップするようがんばる。先の事は考えず過ごす事が大事だ。さて本題。諸星大二郎の「暗黒神話」の単行本を初めて読んだのはジャンプコミックスが出たばかりの頃で、電車の中で読みだしたらあまりの面白さに興奮してしまい、「すげえ、本当にすげえ」とぶつぶつ呟き、数日この本の事で頭がいっぱいになってしまった。連載は1976年なので1970年代後半の事だ。これだけの興奮を与えてくれたマンガは、手塚治虫の「W3」以来。マンガ家が1000人かかっても、考え付かない、天才のみが生み出せるこの精緻なストーリーに、今もなお誰も到達できていない。日本神話、仏教、歴史、星座など全ての歴史的な伏線が、SFとして一気にパズルが組みあがってしまうのに驚愕するしかない。平凡な少年・武(たける)が封印されていた古代の神に聖痕を付けられた事でアートマンに選ばれ、本人は望んでいないのに8つの聖痕が全て付けられアートマンになる。ずっと武を見守り続ける、古代に唯一完成したコールドスリープの瓶で数百年ぶりに現れた武内宿禰、武がアートマンに選ばれたことに納得がいかず、殺人もいとわないクマソの子孫の菊池彦。その他にも数多くの登場人物が日本の多くの古墳や寺院に訪れ、スサノオ、ヤマトタケル、邪馬台国、金印、クマソ、施餓鬼寺、比叡山の阿闍梨、曼荼羅、馬頭観音、オリオンの三ツ星、馬の首暗黒星雲など数多くの伏線が、最後に一本につながっていくのだ。武はアートマンになり、全世界を支配する転輪聖王になるか、人々を救う仏陀になるかブラフマンに迫られる。本人は成りたくて成ったのではないと叫ぶが、ブラフマンはヤマトタケルだった武にもう後戻りはできない、もう宇宙の歯車のひとつだ。地球というちっぽけな星の支配者でおさまるか、地球を遠く離れて宇宙の秘密をのぞいてみるか、さらに偉大でさらに恐ろしい運命におもむくかお前の意思一つだと迫る。武は地球に帰りたい、でもそうしたら地球は?分からない…と意識を失い、目の前に赤色巨星となった太陽の下で、餓鬼しか動くもののいない地球にひとりでたたずむ。目の前には武の思うままに動かせる巨大な力を持った馬の首暗黒星雲が東の空から登ってくる。漫画の最後は「武は567千万年後の世界で弥勒になったのかもしれない」で終わる。たった一人で永遠の時間を生きなければいけない武の孤独と辛さに胸が潰れそうになった。「暗黒神話」は諸星大二郎を代表するマンガとして不動の人気を誇り、諸星のファンは手塚治虫から漫画界の名だたる一流マンガ家がみなファンと公言、あの宮崎駿も自分には絶対書けない絵と世界を持っていると大ファンであることを語っている。諸星ほどマンガ家の中で人気のあるマンガ家を他に知らない。「暗黒神話」は185Pの作品だったが、発表から39年後の2014年から2015年にかけて「画楽.mag」という雑誌に再掲され、その際に282P93P も加筆された。そして今年の3月にようやくその加筆された「暗黒神話」が集英社からA5の箱入りの約3500円という豪華本仕様で刊行された。加筆は原本では説明不足と諸星が思っていた部分、そして一番ページが多く加筆された武を追う菊池彦ら菊池一族の追跡劇があるが、重要なのはこのアートマンの出現に気付き、自分たちでできることとしてこの世に現れてしまった餓鬼を調伏する比叡山の阿闍梨の存在である。原作では阿闍梨が旅をしている間に武に偶然出会う形になっているが、改訂版ではその役は慈海という比叡山の僧が担っていて、武がアートマンかもしれないこと、餓鬼が現れしまったことを見てから、後にその阿闍梨に告げるが、阿闍梨は千日回峰行の真っ只中にもかかわらず、修行を中断(千日回峰行の中断は命と引き換えになるほど)して、餓鬼の調伏や曼荼羅を使ってアートマンとなった武をオリオンまで追っていくという原作と同じ役割を担うことになる。他は加筆だが、この部分は違う僧を登場させることから書き直しのコマが多い。そのため、昔のジャンプコミックスも手放してはならない。加筆部分は絵の違いでも分かる。(佐野邦彦)

2017年5月20日土曜日

小学館の名編集長の井川浩のマンガ週刊誌創刊、学年誌全盛の裏話などが存分に楽しめる「井川浩の壮絶編集者人生」(中島紳介著・トイズプレス刊)がおススメだ。


本書は小学館に1957年に入社、立大学時代から長嶋がプロ野球を支える選手になると確信して長嶋に新聞配達をして信頼を勝ち取り、「少年マガジン」と同日に創刊した「少年サンデー」は長嶋で、朝潮のマガジンを圧倒、そして「小学〇年生」になどの編集長として打倒講談社でライバル誌を廃刊に追い込み、「ドラえもん」を押して大成功、しかし小学館の労働組合との軋轢で異動を命じられ、小学館から角川書店へ転職して「ザ・テレビジョン」で成功、徳間書店の「アニメージュ」に対抗して「ニュータイプ」を刊行するなど、この小学館の編集者の井川浩は、私のようなマンガやアニメーションが好きな人間には、黎明期の努力と工夫に満ちた編集者の仕事ぶりは本当にワクワクして読んでしまう。そして何よりも嬉しいのは著者が中島紳介氏であること。中島氏とは80年代に私が「漫画の手帖」というミニコミを作っていた頃に何度か書いていただき、その文章の上手さと、資料性の高さに感服していた。その中島さんの著書だから文句なしの出来だと保障しよう。

まず井川の小学館入社のエピソードが凄い。その頃、講談社との競争で危機感を持っていた小学館は数千人の応募者から内定候補の30人ぐらいの学生を集め、「わが社は今、ネコの手も借りたい状況です。1月から学校の許可をもらって来られる人は手を上げてください」との総務部役員の問いかけにおずおずと手を上げた6人が採用されたという。その中に東京教育大出身の井川もいた。最初に配属されたのは「中学生の友」で副編集長に鍛えられたそうだが、その時に「自分ではこれはというものを見つけて、この事柄や人物に関しては誰にも負けない、俺が日本一だという専門の対象を3つ作れ」と言われ、そこで井川が住んでいた家の近くが立教大学のグラウンドで、まだ学生だった長嶋茂雄に目を付け、巨人に入団して10年後にはきっと立派なプロ野球選手になるだろうと思い、上北沢の下宿に住んでいた長嶋の自宅に取材に行くことになった。まだ入社2年目の新人にも関わらず、偶然一緒にいた川上哲治が長嶋に「この人は小学館で子供の為の雑誌を作っている偉い人だ。子供を大事にすれば、親御さんも君の事を応援してくれる。だからこの人と仲良くしなさい」と、そんな有り難い事を言ってくれた。ただまだ新人の自分の顔を覚えてもらわないといけないと、その上北沢の長嶋の下宿が広い下宿で長嶋の部屋から新聞受けまで遠いので、出社前に自主的に上北沢に降りて、新聞を長嶋の部屋まで届けて、それから出勤するという事を、長嶋が自宅を建てるまでの2年間、日曜日も休まず毎日続けたというから驚きだ。そういう努力もあって、昭和34年の同じ日に創刊された「少年マガジン」の表紙は朝潮だったが、「少年サンデー」の表紙は長嶋で、どちらにインパクトがあったかは歴然だろう。その後、長嶋は小学館の誌面に多く登場してくれてたが、長嶋は一緒に出演してくれる子供達を待たせる時に夏は家の中の涼しい場所、冬はこたつに入れて、分け隔てなく相手をしてくれたそうで、撮影はスムーズで、長嶋は気配りの人だったという。そして長嶋は井川の撮影や取材の依頼を断ったことは一度もなかったとのこと、律儀な人だ。ただ長嶋らしいエピソードもあり、小学館での作文コンクールの来賓は長嶋と王の交代で挨拶してもらっていたが、長嶋は井川に「井川さんは書くのが得意なんだから僕のスピーチも書いてよ」頼むのでいつも原稿を書いて渡していたのだが、自分で書いてきた王の方が井川のより上手なのには参ったの事()「少年サンデー」時代の思い出は、赤塚不二夫が凄くまじめな勉強家で、アシスタントの人達の会話を自分は2階で寝たふりをしながらテープレコーダーに録音しておいて後で聞き直して今の若者たちが何に興味があるのか研究していたそう。井川も最初は「おそ松くん」を変な漫画だなと思ったそうだが、そういう努力を見てああいうぶっ飛んだ漫画が描けたのだと理解したそうだ。ちなみに私はずっと「おそ松くん」が大好きで、子供が小学生の時は昔買った曙書房の全集で、1962年~1969年の連載なので子供達が読んだときは38年くらい前の漫画だった。おそ松達は10円の小遣いで大喜び、イヤミ達が100円で色々頼むと目を輝かせてバイトをするのに、そんな貨幣価値の違いなど一度も言わなかった。つまりそんなものはどうでもいいパワーがあるのだ。「おそ松くん」に夢中になっている子供達を見て、自分は心の中で密かにガッツポーズをしていた。劇画は当時読んだ人のノスタルジアの世界にしかいないが、赤塚は「天才バカボン」の前半まで(自分は「ウナギイヌ」や「レッツラゴン」がネタ切れとしか思えずダメ)は絶対、時代で錆びつかないと確信していたからだ。

さて話がそれたので藤子不二雄の「オバケのQ太郎」のエピソードも面白い。昔の学年誌や幼年誌、月間誌は付録が重要な「売り」であり、各社で競って子供の心を掴むよう考えていた。その頃「小学一年生」にいた井川は、学力テストの商品にQちゃんの特製消しゴムを作るようにしたが、その頃のQちゃんはまだ髪の毛がもじゃもじゃ頭で立体物として収まりが良くないので、自分が大学で習ったフロイトの「奇数は男性、偶数は女性を表す」の学説を思い出して、「毛は3本でどうでしょう?」と提案、それ以来Qちゃんの髪の毛は3本で決まったという。それ以降しばらく井川と藤子不二雄の仕事はなかったが、1970年頃「小学二年生」の編集長をやっていた頃、藤本、安孫子、マネージャーだった安孫子の姉がやってきて、「小学館の原稿料は世界一安いと思います。これではアシスタントの若手も育てられないし事務所も維持できない」と訴えられ、確かに少年誌のベテランと学年誌の子供向けマンガ家は銀座の高級バーとガード下の居酒屋で飲むくらいの差があったそうで、その訴えは十分理解できたものの会社の基準を勝手に変える訳にはいかないし…ということで、「小学館のサザエさんを作りましょう」と提案する。設定やキャラクターが変わらなければアイデア次第でいくらでも長く続けられるという考えだ。そこで藤子不二雄が描いてきたのが「ドラえもん」だった。井川は何度も「ドザエモン?」と聞き返したそうで、藤子は「これだけ漫画が溢れている時代に、一度聞いたら忘れられないタイトルにしたかった。井川さんが何度も聞き返してくれたんでこのタイトルで良かった」と見事な洞察力を見せる。単行本化の話の際に、少年サンデーの編集部は「21エモン」の方が上とプッシュ、社長は「ドラえもん」の単行本化に消極的だったので、「少年マガジンが「巨人の星」や「あしたのジョー」というストーリーマンガをヒットさせているので小学館の編集はギャグマンガを読まずそのままでは小学館の特性が失われてしまう」と訴え、今までの作品の中でのベスト作品集ということで社長は6巻だけ、単行本を許可してくれる。結果はみなさんもご存知のとおり、「ドラえもん」は超ベストセラーで45巻出たが、その内6巻までは最初の井川の編集のままだという。これ以上書くとキリがないので、是非購入してお読みいただきたいが、あのウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」が永久欠番になってしまったのは、1970年の「小学二年生」の中の怪獣カードが、出版された時でなく後に反核団体、被爆者団体から問題視され抗議を受け、小学館にとどまらず円谷プロが作品自体を封印してしまう事態になってしまった。確か自分の記憶では人間を血を必要とするスペル星人に「被爆星人」と小さく副題が付いていたのが問題視されたのだと思う。井川らは円谷プロの資料に基づいて作ったこと、小学館では原爆の悲惨さを描いた作品を掲載していたこと、他出版社でも数多く載っていることなどを訴えても、一切これらの団体は耳を貸してくれずにこういう残念な結果になってしまったのそうだ。この時代はこういう問題以外でも反安保など組合がともかく強く、従業員の待遇改善に土曜休業を認めてもらうなど尽力してきた。しかし組合の力にものをいわせた団体交渉が嫌いで、新入社員に組合に入らないよう話したことが組合の耳に入って社長より編集部から離れて別の部署に移って欲しいと言われ、小学館プロダクションに異動、そして2年後には小学館を辞めて角川書店へ転職するのだが、紹介はここまで。ちなみに自分も労働組合に入っていたが、自身の職場の待遇改善だけでなく、まったく関係ない組合の「動員」が数多くあり、自分は思想信条が合わない部分があるので一切参加しなかった。組合は政党の下部組織になっていて、それが嫌なのは井川氏も自分も同じだなあと思った次第。(佐野邦彦)

2017年5月19日金曜日

☆八重山126万、宮古70万と10数年で倍、680万の人でごった返す沖縄本島にならないかと危惧している。鹿児島県のため冷遇されている奄美群島と、宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島が残された聖域。観光客がほとんど来ない多良間島を90分特集した「島の恋文-沖縄県多良間島」がNHKで放送。出生率日本一はなんと多良間島だった。


八重山(石垣島を中心とした10の島々)の入域観光客数と宮古入域観光客数(伊良部島も含め橋で結ばれた5つの島々)の平成28年度の最終結果がやっと公表された。八重山1267千人、宮古703千人と、 自分が初めて八重山へ行った1999年の2.08倍、初めて宮古へ行った2002年の2.19倍も観光客が増えていて、昔の知る人ぞ知る人だけが集まる、日本で一番美しい静かな海が損なわれていくようで、心配だ。まあ沖縄本島も増えていて680万人、こんな人でごった返す島ではないのでまだ救われているが…。こうなると不便な島が隠れ家的存在になるので、宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島と、どの対岸に見える人口3人の島、(宮古)水納島には極上のビーチがあり残された聖域だ。また本土資本が投資し、国が補助金をつぎ込む沖縄県に比べ、その南端の与論島は22㎞しか離れてなく、同じ琉球弧ながら鹿児島県であることで可哀そうなほど観光客が少ない奄美群島も狙い目だろう。特に与論島は百合が浜を含め奇跡のビーチに囲まれた島なのでここは八重山・宮古を凌ぐかもしれないのに惜しい。

自分が最初に八重山に行ったのが1999年、宮古は2002年、家族4人で長男が小5の時から(2歳差)長男が大4で就職するまで年1回ずつ八重山6回、宮古6回の12回行った。ビルが立ち並びビーチも人が多い沖縄本島は魅力が無くゼロ。本島から250㎞南の宮古、450㎞南の八重山は、海の美しさが比較にならないほど綺麗でそして人が少ない。誰もいないビーチなんてザラだし、人気がある場所もmax50人くらい。どちらも琉球王国に占領された別々の国々なんで言葉も文化も違う。美しいビーチだけでなく安全なリーフ内に信じられないほどの熱帯魚に溢れたビーチがあって全て車で回れてしまう宮古、ビーチのレベルでは宮古に劣るが、日本一美しいビーチのニシハマがある波照間、ジャングルをカヌーとトレッキングで幻の滝まで走破する西表、海底遺跡と今も完璧な形で保存されているDr.コトー診療所が見られる与那国など10の島が全て日帰りできる八重山はまったく別の魅力に溢れているので、片方行っただけではお話にならない。家族4人で八重山・宮古の全有人島19に全部行くのが個人的目標で、最後の年にようやく達成し、心から満足したが、しかしその後も妻と2人で八重山2回、宮古に1回、後半は車椅子で行って、子供達とは行けなかった八重山の秘祭、西表島のジャングルに朽ちた炭鉱跡、日本最長の無料橋の伊良部大橋へ行けたので、行き残した場所がなく、今は思い出だけで十分。これ以上は贅沢。島別の魅力を語るのはキリがないので、興味のある方はWeb VANDAの簡易にまとめた抜粋版があるのでご覧いただきたい。(文末に掲載)本屋に売っている数多くの「石垣・宮古…」というガイド本は通り一遍で肝心な場所が載っていないがこちらは実踏済なので自信あり(笑)それとは別に各回ごとの旅行記も個別にアップしたので、南大東島や与論島など含め25回分ある。有給休暇は20日、夏休み5日は、毎年、旅行とVANDA制作・営業、Radio VANDA収録で完全消化していたので、最近よくアンケートになる「給料か休日か」の選択肢はもちろん自分は休日だが、休みの8割はVANDA関連なんで逆に仕事より忙しかったのだが…。下記は八重山・宮古の入域観光客数の推移。どちらもここ15年で倍以上と急増している。その原因ははっきりしていて八重山は2013年に新石垣空港ができ、その前は滑走路が1500mで東京からの直行便はJAL傘下のJTAの中型機のみだったが、今は2000mと並みの大きさになり通常の旅客機が就航できるようになりANAも直行便を就航、この年から年々急増している。またここ2年ほど主に台湾などからクルーズ船が就航し、2016年は193727人が外国人であり、なんと6人に1人と知って驚愕。宮古はこれも2015年の無料では日本最長(3540m)の伊良部大橋の開通で、一気に人気となり、驚くべき急増を遂げた。宮古島市のホームページでは外国人の数が分からないが、やはりクルーズ船が100回来ているという記事もあるので、相当数の外国人が来ていると思われる。

☆八重山入域観光客数              ☆宮古入域観光客数

H11年度(1999)   609,222      -

H12年度(2000)   584,677      -

H13年度(2001)   604,656     320,807

H14年度(2002)   626,442     340,992

H15年度(2003)   711,966     368,982

H16年度(2004)   718,737     383,363

H17年度(2005)   763,858     412,447

H18年度(2006)   780,091     389,358

H19年度(2007)   764,514     372,690

H20年度(2008)   773,546     373,440

H21年度(2009)   722,536     337,356

H22年度(2010)   707,811     404,144

H23年度(2011)   672,933     332,473

H24年度(2012)   742,098     413,654

H25年度(2013)   984,1861   400,391

H26年度(2014)   1,130,537     430,528

H27年度(2015)  1,180,192     513,601 ※2

H28年度(2016)   1,266,788     703,054

注;H23年度は東日本大震災のため少ない。

※1…2013/3/7 新石垣空港開港。

※2…2015/1/31 伊良部大橋開通。

(宮古の公表が歴代「年度」なので、「八重山」も「年度」に計算しなおし直して合わせてある。)

こうしてみると冒頭に書いたとおり自分が初めて八重山・宮古へ行った時の倍以上観光客が増えていて、昔を知っている私や友人達の間では残念な思いが強い。八重山のベスト1ビーチの波照間島のニシハマは多くても40人ぐらい、宮古のベスト1ビーチの吉野海岸も同程度、これはmaxの人数で、日本最高のビーチがほぼプライベートビーチなのが、人が溢れる沖縄本島にはない最高の魅力だった。今は倍だからな…。ただ最近行った人の話では、便数が少なく、外洋に出るので欠航もしばしばある波照間は運べる人数が決まっているので大きな変化がないというのが安心なところ。しかしみなみに「日本の美しいビーチ」は1位から3位が波照間島ニシハマ、宮古島・与那覇前浜、竹富島コンドイビーチで、他に3か所入ってベスト10の内6を八重山・宮古で3つずつ分け合い、順当な結果になったが、個人的には「他の3つ」は同意できず、もっといいビーチがある。観光客の数では昨年を除き八重山の半分しかない宮古だが、ビーチの美しさ・楽しさという一点で見たら、5つの島を3つの大橋で渡れる宮古の方が圧倒している。ただし八重山は石垣島の離島桟橋から驚くほど頻繁に出発する高速船で、一番近い竹富島で10分、一番遠い波照間島が60分で、毎日好きな島に渡って遊べる特別な楽しみがある。(通常、飛行機で30分の与那国島は船だと4時間もかかるので別にした。ただし日帰りは十分可能)竹富島を入れれば12島も可能だ。石垣島自体は栄えているが宮古島のような見どころはないので、石垣島は宿泊地で、毎日、さらなる離島へ行くのが定番だ。その中には、島の9割がジャングルで、カヌーとトレッキングでビーチにまったく頼らないで楽しめる西表島の存在は貴重で、宮古にはこういう場所はない。雨天でも楽しめる貴重な島だ。さてその八重山の平成28年(年度ではない)の島別の来島数は下記のとおり。石垣島はここへ来ないと他へいけないので群を抜いて多い。

H28年八重山島別入域観光客数

石垣島   1239244

竹富島    481832

西表島    329917

小浜島    190269

与那国島   39276

波照間島   35921

黒島     23770

鳩間島     4363

新城島     2924

嘉弥真島    2679

この中でおススメは波照間島、西表島、与那国島、黒島、竹富島の5つ。下位3つの鳩間島、嘉弥真島は小さすぎるし(ただし嘉弥真島は野生のウサギ天国)、新城島はの上地島は立入禁止の聖地だらけ、下地島は個人所有の牧場がほとんどでビーチのみ滞在可と制限が多い。大型リゾートがのさばる小浜島は文句なしで選外となった。

ちなみに沖縄本島の入域観光客数は、沖縄全体で発表されていたので八重山・宮古分を単純に引いただけでも680万人と圧倒的な数字だ。どおりであんなに人だらけな訳で、個人的では1日見ただけだがもう行きたいとは思わなかった。ちなみにその中の外国人観光客数は宮古分が公表されていないので推定だが最低でも183万と急増していて、台湾、韓国、中国、香港などが主流。九州も2010年から4回行ったが、主要観光地には中国語、韓国語が常に飛び交っていた。しかし自分が行った20142015年の八重山・宮古では、外国語は聞こえなかったが、今年行った人の話では、石垣島と宮古島で中国語がよく聞こえていたとか。勝手な思いだが、日本人も増えて欲しくないのにプラス外国人は辛い。八重山・宮古のビーチでは波の音だけがBGM、音楽は一切不要でビーチ・ボーイズも山下達郎も大滝詠一も聴いたことがない。音楽を聴くのは本土の海に遊びに行く時だ。人間の声は子供の声が聞こえるぐらいがベストで、人が増えるのは静けさを求めて来ているのにマイナス要因にしかならない。今、急増しているのは主にクルーズ船やLCCの団体客なので、案内はベタな場所と決まっているので避けることと、当たってもバスでの短時間の滞在なので去るのを待てばいい。

ちなみに八重山と宮古には米軍基地はない。最西端の与那国島に自衛隊基地が完成、石垣島と宮古島も自衛隊基地誘致が具体化していて、ここ12年の間に実現するだろう。台風でとんでもない災害が起きるこれらの先島には自衛隊の存在は災害復旧にも貢献するからメリットが大きい。ちなみに奄美群島にも米軍基地はなく、鳩山は一時、普天間の移転先は県外と言ってすぐ撤回したが、それは徳之島への移転で根回しもしなかったためにすぐに地元に拒否され頓挫した。地元への説得前に言ってしまったのだからアホとしかいいようがなく、だいたい県外といっても奄美群島は薩摩に散々搾取された過去があるので、はい、じゃあお受けしますなど言う訳がないのに歴史を知らないのは困ったものだった。一方安倍政権は辺野古のバーターにディズニーランド、UFJ誘致を持ちかけるが、企業側から採算が取れないと袖にされ、カジノという沖縄に不要なものも知事に拒否された。あまりに幼稚なアメだったが、そのアメに飛びつき、万博+カジノという自治体が出てきた。こちらは政権と結託しているから困ったものだ。

沖縄は米軍基地負担のバーター扱いで国の補助金も多く、観光県として伸びる一方だが、かわいそうなのが奄美群島である。奄美群島は鹿児島県であることから奄美群島の振興法は定められているものの年々減らされている。言語的には琉球言語圏だが、琉球王国の奄美支配には常に反抗していて、薩摩の1609年からの琉球支配の時に、琉球王国は奄美群島をすぐに薩摩に割譲した。奄美大島は鹿児島から387㎞と遠く離れていて、南東の喜界島は並びから少し離れているが、順に西に徳之島、沖永良部島、与論島と並んで沖縄本島への「琉球弧」の一部になっている。与論島と沖縄本島とは22㎞しか離れてなく、与論島のビーチの美しさは八重山を凌ぎ、宮古に匹敵、もしかするとそれ以上の美しさで最高の島なのだが、訪れる観光客は少ない。平成28年は過去最高の入域観光客数だったそうだが、沖縄と違って国の補助も僅かで、沖縄本島の680万、石垣島の126万、宮古島の70万に比べて可哀そうな数字だ。

H28年奄美群島入域観光客数

奄美大島   353315

喜界島     25833

徳之島     86418

沖永良部島   58312

与論島     54636

与論島へ2015年、奄美大島へは2009年の皆既日食騒動の時に行ったが、奄美大島では阪急交通社の激高価格ツアーなのに用意されたのは小学校の校庭のみで自分でテントを持っうのてきてそこで宿泊、食事はかなり歩いてコンビニのような店へ行っての自主調達というトンデモないプランだったのでよく覚えているが、自販機に並んでいたのが沖縄はさんぴん茶のみだが、奄美は緑茶の方が多く、明らかな違いを感じた。よりヤマト文化圏に近く、名物の鶏飯はとても洗練された逸品だが、その店で購入した弁当は安くかつ巨大で、これは沖縄並みだった(笑)

さて、最後に紹介する、冒頭に書いた宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島は、25分で到着する飛行機は39人乗りのプロペラ機が宮古島出発のみ12便、2時間かかるフェリーも宮古島から11便でなんと日曜運休。そのため観光客はほとんどいない。

☆多良間島入域観光客数(年度失念。多良間村として行政が別なので公表なし)

9900

この数字は、多良間で唯一取材される国の重要無名文化財の8月踊りと、多良間島マラソンに来る人が大半で、自分が八重山・宮古のビーチでもベスト5に入れるウカバには3回行って3時間遊んで計9時間いたが、観光客を見たのは1人だけだった。もうひとつのシャワーがあるふるさと海浜公園のビーチも、シャワーを使ってしばらくのんびりする間、他の観光客に出会うのはここも3年で11組ペース。これだけのプライベートビーチはちょっとない。そしてそのふるさと海浜公園の目の前に見えるのが(宮古)水納島だ。宮国さん一家が島全体を牧場にしているが、電話でお願いすると自分の船で往復してくれ、非常に設備の整って快適な空き家を貸してくれる。ただし食べ物、飲み物は多良間島の生協で買い込んでの自炊となる。貸家は1軒のみなので、島を半周する広大な白浜のビーチと美しい海は完璧なプライベートビーチとなる。本当の贅沢はこの両島にある。ただし(宮古)水納島へ行くのは、多良間と水納島の間の海流が速いので荒れやすく、少し熱帯低気圧が近づいただけで欠航と言われてしまい、自分も3回多良間へ渡ったのに2回は海が荒れているからと断られ、3回目にやっと渡れたという高いハードルがあるので留意する必要があるが、苦労した甲斐がある素晴らしい島だ。このようにまだまだ人が訪れないビーチがあるので、きちんとチョイスすると、特別な思いを味わえる。

この文を書いたばかりのタイミングでNHKBSプレミアムで「島の恋文-沖縄県多良間島」が放送された。島の半年の暮らしを追いかけた素晴らしい番組だ。冬中心なので天気が良くないのがちょっと残念だが、多良間島単独で90分の放送は今まで無かった。この島がTVで特集されたのは国の重要無形文化財の「八月踊り」だけで、「まっぷる」「るるぶ」で申し訳程度に多良間を1P取り上げるが、その写真は「八月踊り」、ビーチが写っても極小サイズ。しかしこの島の子供の出生率は3.14で日本一だ。島民の収入は低い。地方に行けば行くほど公務員の給料は高給とされるのだが、多良間村は日本の自治体最下位の1722位で366万円。1位の目黒区の半分以下だ。普通の村民の多くはサトウキビと漁業だけで子供を育てる。島には高校がないので、中学1年の娘に来客はあと3年だなと親に言う。親は微笑むだけだが、悲壮感はない。みな同じだからだ。親たちは「高校に出して、大学へとか幾らかかるかなんて考えていたら育てられないよ。」島では島民みんなで子供を見守り、協力して育てている。一方出生率最下位は渋谷区だそうだ。日本で最も高級な住宅街「松濤」を抱え、多良間とは比較にならない富裕層が住んでいるのに、子供は生まない。極端な言い方だが、渋谷は日本で一番子育てしづらい場所なのだ。よくTVや雑誌で「子供1人を大学まで卒業させるのは〇千万必要です」「老後資金は年金以外に〇千万必要」などとファイナンシャルプランナーかなんだか知らないが、最も金のかかるパターンを選択して、不安を煽っているあいつらはクズだ。信用してはならない。多良間島を見れば、「子供?今、アリゾナにいるよ」など、みんな島外に出していて、「この深夜の漁で4人育てたよ」というお父さんは、本土の船のような漁船はひとつもなくボートに網やモリで釣った魚で育てたのだ。そのやっと釣った中で最も大きなタコを、浜辺で何かの神事で飲んでいる友達(島民はみな友達)に、「これ持ってって」とポンと上げてしまう。飲んでいる人たちは「宝がきた」と喜ぶ。そして「みんなで何かやっていればあげたりもらったり。多良間の常識です。」とニッコリ笑う。島の言葉は難解な沖縄の言葉でも格別に難しい多良間語で、独特の鼻に抜ける音を使うので日本語では表示が出来ず、「リ」「イ」「ム」「ギィ」「ピィ」「ビィ」に「パ」のような〇が右上に付き、島の地名もそう表示されていて驚くはず。だからこの番組の90分、島の人同士の話には全て字幕が付く。字幕なしではカケラも分からない。実は宮古も八重山も同じだが、地元の人同士の話は外国語としか思えず、こっちを見てパッと日本語で話すのを見て、いつもみんなバイリンガルだなあと感心してしまうほど。島には毎月、旧暦による神事があって、冒頭では火の神様への祈願だった。たくさんの食べ物と泡盛を備え、いつもどうぞ召し上がってくださいと言ってから祈る。NHKのスタッフが「火の神様っているんですか?」と尋ねるとおばあは「いるよ。ヤマトにはいないのかい?」と笑う。沖縄全土に見られる大きな亀甲墓は、家族みんなで集まってお供えとお祈りとあとに一緒に飲食をする広いスペースがあるのが特徴だが、そこで天国で使うお金として、お金の形にへこんだ紙を燃やして祈っていたが、これは中華圏でよく見られる習慣だ。でも純日本の部分もある。これは素晴らしい習慣だと思ったのは旧暦正月に、その年の年男・年女がみな集まって食事会をしてみんなで公民館で盛大に祝う「トゥイ会」だ。赤ちゃんから80代を過ぎた老人まで一堂に介して交流を深めるのは素晴らしい事で、島を出て行った人も帰ってくる。これは他の自治体でも導入したらどうだろうか。八重山・宮古では他に実施しているところがあるらしい。ここに集まる時は女性は着物、男性はスーツか羽織袴で、これはヤマトだ。琉球風の服を着ている人はなく、あの服は本島観光用なのだろう。床屋さんは子供達に凧揚げを教えるためしばしば不在にしていて島民に「3回来たのに2回いなくて。今日も帰ろうと思ったらおーいと声をかけられた。凧揚げばかりでなくていてよ」と苦笑い。でも終わるとすぐに凧揚げに行き、自分よりかなり年上の足が不自由な老人に「〇兄。凧揚げ見に行こう」と声をかけ、その〇兄は子供達の後ろで嬉しそうに見ている。その他、サトウキビを植えた後は、雨が降るようにとみんなで集まって泡盛を飲んで祝い、島最大の製糖工場はなんと100日間24時間操業をするが、みんなの生活を守る金庫を前に祈る。一番、素敵だなと思ったのは害虫を袋に入れて集め、木の船を作ってからそこに害虫をつぶして大きな葉に包み、木の船に乗せて海に離して「島に害虫が来ない」ように祈る。色々な思いがこもった祈りがいい。それは島の人がみな集まって行うので、孤立する人などはありえず、みな友人、先輩、後輩で深くつながる。島唯一の有償運送の運転手(知っているオヤジだった)は、「多良間島が一番。島から出ようなど思わない」ときっぱり。しかし本土から来た若い嫁に多良間はどう?と聞くと「退屈!だって何にもない!」とはっきり言うのもおかしい。都会から来たら、このゆったりしたした暮らしはそう思えるだろう。100歳近いおばあは、道路を行き交う人に声をかけなから日がな宮古上布の原料になる植物の繊維を毎日、毎日ほぐしていて、本当に時間はそれぞれの人の中にある。(佐野邦彦)

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