2017年2月20日月曜日

知れば知るほど面白い、飛鳥時代から日本語が作られていく過程。タイムマシンで江戸時代では普通に会話できるが、平安時代以前はほぼ不可能だ。


自分が学生に戻れたら、絶対に日本語を研究する学科に入りたい。特に昔の日本語がどのように話されていたか、その事を知りたくてしようがなく、稀にTVでそういう特集があると録画して何度も何度も見ているほどだ。先日のNHK『探検バクモン』の「お宝本の宝庫・東洋文庫」の回の中で、一度もカメラが入った事がない貴重本エリアの中でさらにTVカメラの温度もNGという書庫の中から、世界で1冊しかない1592年出版の「ドチリーナ・キリシタン天草版」の日本語辞書の部分だ。日本に来た宣教師が布教のために作ったローマ字での日本語の問答集、そして日本語を日本語・ラテン語で解説したミニ辞典で、例えば「Aisuru」(愛する)が「Mote Asobu coto(もてあそぶこと=この当時は大切にするの意味)と書かれている。豊臣政権時代の日本人がどういう言葉をしゃべっていたか分かる超一級の資料で、これには興奮した。興奮のあまり高額な「東洋文庫善本叢書」でコピー本を買ってしまったほど。

このシリーズは東洋文庫所蔵の国宝・重要文化財の12冊の本を写真に撮って復刻したもので「説明付」と書いてあったので購入したが、本の作られた背景の簡単な説明で、こういう言葉の説明ではなく、ましてやラテン語は分からないので、今のところ眺めているだけ(笑)

さてこういう現在の日本語が成立するまでの流れは2012年に放送した「たけしの教科書に載らない日本人の謎」が最高のテキストだった。ここで放送された内容を中心に流れを紹介したい。

    縄文・弥生時代は日本には文字がなく、どういう言葉だったのかは分からない。

    1世紀に「後漢書」でも記載されている「漢委奴国王金印」(江戸時代に田んぼ耕作中に出てきた)で、中国から福岡あたりを支配者に冊封の証の金印を下賜したものとされる。漢字が日本に伝わった最初のものだ。

    日本の知識層は中国に留学し、文字を学んでいく。飛鳥時代の遣隋使の小野妹子が有名。604年には聖徳太子が十七条憲法を作るなどしたが、みな漢文で作られた。しかし607年の国宝・薬師如来像の後ろに書かれた漢文は「薬師像作」と、既に日本語の語順で書かれていた。

    奈良時代になると、日本語を漢字で表現する方法を考える。暴走族のような一音一音を当て字にすると手間がかかる。それで中国語の「山(サン)」を当て字の「也麻」ではなく日本語の「やま」と呼ぶことを編み出す。そう「訓」である。そして漢字の「音」と「訓」を組み合わせたのが「万葉仮名」だった。「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む」は原文では「難見飽 吉野河之 常滑 絶事無 複還見」でアンダーラインが音、他が訓だった。この万葉仮名で「古事記」や「日本書記」も書かれた。そして例えば今の「キ」には、万葉仮名では漢字が2種類あって区別してあり、発音が別と分かることから、奈良時代の人がしゃべっていた音の体系が復元できた。今の日本語の母音は5つだが、当時は8つだったことも分かっている。「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」、「サシスセソ」は「ツァツィツゥツェツォ」で、また名詞も違っていて蝶々は「ディェップディェップ」というように。これで話すと「母上様、蝶々が飛んでいますよ」は「パパウエツァマ ディェップディェップンガチョンデウィマツゥィヨ」なのだから、タイムマシンで聖徳太子と話すのは難しいだろう。また日本語はヤマト方言と琉球方言に大別されるが、この分岐は奈良時代頃とされる。沖縄では「ハ」行が「パ」行に転化していて、また妻の「トゥジ」はこの時代の「刀自」、トンボの「アーケージュ」はこの時代の「秋津」と、奈良時代の言葉が残っている。

    平安時代になると、漢字を一つ一つ書かないといけない万葉仮名は手間だと、漢字の一部を崩したり端折って作った「草仮名」をさらに簡略化した表音文字の「ひながな」が作られる。さらに同時期、漢字の一部を使って素早く書ける「タカタナ」が、仏門の僧の間で生み出された。ひらがなに飛びついたのは宮中の女性達。昔から女性は新しく便利でかわいいものが大好き。あの「源氏物語」もひらがなで書かれた。しかし宮中の男性は、こんな軟弱なものはダメ、男は漢字だぜと漢字を使う。しかし日本語は漢字、ひながな、カタカナで表現できるようになった。平安時代の日本語は、平安時代の末期に作られた「類聚名義抄」という辞書があり全ての和語にアクセントが添えられていた。また鎌倉時代の発音に関する書物、万葉仮名の発音で平安時代の言葉が導き出せた。TVではその朗読が流れるが、非常に不気味な雰囲気があり、発音が難しかったので当時は非常にゆっくりとしゃべっていたそうだ。

    鎌倉時代になって武士の時代になる。漢字はシャープなので武士に好まれ、当時和語で話されていた言葉を漢字に直して、音読みで発音した日本独自の漢字が作られていく。ひらがなの「かへりごと」は「返事」、「おおいにせまる(=かけがえのない)」は「大切」、「ひのこと」は「火事」という漢字を作り、従来のゆったりとした言葉から、力強くスピーディーでコンパクトな漢字が使われて、日本語は新しいステージに移る。

    室町時代は、足利尊氏が京都に幕府を開く。全国から田舎侍が集まり、京都の公家は荘園を奪われ生活が困窮するが、かわりに都言葉、立ち居振る舞いを武士に教える家庭教師として生計を立てた。武士も征夷大将軍や関白などの位があがるのは天皇の認可が必要で、都言葉が話せることが必要不可欠であり、武士の間に雅な都言葉が浸透していった。室町時代の日本語は、狂言で聞くことができる。

    戦国時代の主役は織田信長や豊臣秀吉という田舎の大名でなまりが抜けなかった。織田信長が明智光秀を重用したのは、京都出身で最上級の都言葉が話せたからだという。

    徳川家康が江戸に幕府を開いて260年の天下泰平の時代が訪れた。徳川幕府は藩政をしき、日本は細かい藩に分けられ、それぞれ独立採算でお互いの交流はなくなる。そのため、現在の「方言」は江戸時代に深まった。そして世界でも最高の人口となった大都市の江戸では武士は「山の手言葉」、これは都言葉で、山の手の大名屋敷に集まった武士の間で話された。時代劇で聞くあの言葉である。一方、庶民の間で話されたのは落語で聞けるべらんめえ調の「下町言葉」。新しい江戸というまちに全国から新しい人が集まり、噂好き、話好きの庶民の間で室町時代の言葉は、せっかちで早口な言葉に変えられていく。江戸時代の庶民の会話は、江戸時代後期の「浮世風呂」に書かれているが、そこに書かれた少女の会話は、そのまま現代の会話である。この時代にタイムマシンに行けたとすれば普通に会話が通じるだろう。

    明治維新によって、天皇も東京へ移り、政治・経済の中心は東京になる。明治維新の中心は各藩の下級武士なので方言のまま、最初の議会で、全国の議員が方言で話すので意思疎通ができず大いに困ったそうだ。徳川慶喜も回想録「昔夢会筆記」で、徳川将軍時代に薩摩の武士が来たが何を話しているかさっぱり分からずいいとも悪いとも言えずに非常に困ったと言っている。日本は中央集権国家となり軍隊も作る中、教育を統一するため共通語が必要だった。そのベースとなったのはやはり洗練された「山の手言葉」。しかし当時花魁が使っていた「です」という言葉が、武士の「ござる」や商人の「ございます」、農民の「だ」よりも簡潔で上品だと、採用されるなど例外もあった。平安時代にあった200ものひながなは現在の50音(当初は48音)にまとめられ、学びやすいものになる。また長州藩士が「下僕」を「僕」、「主君」を「君」と言っていた表現も定着していった。しかし海外に門戸を開いた日本には今までにはない海外の言葉が一気に流入する。最初はそのままの外国語が使われたが、このままではいけないと文学者達が、必死に新しい漢字で造語していく。西洋の思想や科学技術を日本人が理解できる漢字に置き換えたのは非常に重要だった。「自由」「民主主義」「人民」「演説」「電話」「交響曲」「聴診器」などの言葉は明治時代に作られた言葉。この和製英語は本家の中国に多く逆輸入され、中国の国名の中華人民共和国の「人民」「共和」はなんと和製英語なのである。ただ外国人にとって「超人的」と悩ませたのは、文章にした時に話し言葉と違う「文語体」の存在だった。そこで二葉亭四迷や尾崎紅葉などによって「言文一致運動」がおこり、口語体の夏目漱石の「吾輩は猫である」はベストセラーになった。

    昭和になってラジオが普及、ラジオではそれまでの漢文訓読調から座談会のような平易なアナウンスが推奨された。そしてラジオにより共通語の正しい発音やアクセントが全国に普及する。

    戦後に文語体はなくなり、また漢字の次にあったカタカナは、ひながな優先に改められ、日本国憲法も誰でも分かりやすい漢字とひながなで作られた。本来、危険である意味で用いられた「やば」が、形容詞としての「やばい」になり、さらに「凄い」という意味でも用いられるようになるなど、日本語は常に変わっている。最近の若者の言葉は…というのは前述のように平安時代も同じ。日本語の変遷は知れば知るほど面白い。

(佐野邦彦)




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