2015年6月24日水曜日

★与論島ツアー 2015

与論島ツアー 2015


佐野邦彦






今年になってスタートした土日限定の12日ミニ旅行の第4回は、ヨロン(与論島)になった。沖縄離島を20廻った私だが、コアなファンの間でどこのビーチがベストか?などという話になった時、「ヨロンは行ったか?ヨロンは凄いぞ」と何人にも言われていた。そのため八重山・宮古全島制覇の後は、もうヨロンしか頭になかった。ただ実はヨロンは沖縄県ではない。沖縄本島北端から南東22kmに位置しているが、奄美群島の最南端という扱いで鹿児島県である。ただ奄美でも奄美方言ではなく、ヨロン語は沖縄北部とヨロン、その隣の沖永良部島で話される国頭方言の一部であり、琉球文化圏と言えよう。島の大きさは約21k㎡と港区くらいの大きさの島で、人口6千人とこの手の離島にしてはけっこう人口がある。港区といってもピンのこない人は多良間島よりちょっと大きいぐらい。もっと分からないか(笑)




日本語は大きくヤマト方言以外に奄美方言、国頭方言、沖縄方言、宮古方言、八重山方言、与那国方言があり、それぞれヤマト方言(津軽弁でも薩摩弁でも全てヤマト方言の一部)と奈良時代の日本古語から分かれたものでそのルーツは一緒とはいうものの、現在ではそれぞれ英語とドイツ語、フランス語とイタリア語ほどの差があるので、何を話しているのかさっぱり分からない。ユネスコでは方言ではなく別言語としてカテゴライズされている。というのも、似ているスペイン語とポルトガル語が別言語扱いなのに、それよりずっと違うのだから方言じゃないだろうということらしい。
話がそれた。ただもうちょっと脱線を。私は今58歳だが、この年代の人にとって「ヨロン」には何か特別な記憶があるはずだ。そう、昔テレビで「ヨロンに行こう!」というCMが流れていたり、雑誌の裏面広告がヨロンだったりとてもメジャーなリゾート地だったからだ。調べたところによるとヨロンを含む奄美群島は1953年に返還され、70年代から80年代にかけて観光ブームとなり1979年に頂点を迎えたという。沖縄返還は1972年だったが、まだインフラが整わず1978年になってようやく左側通行に変更されるような状態だったので、沖縄に一番近いヨロンだけがこぞって開発された。1979年の来島者数は15万。しかし沖縄のインフラが整っていくにつれて観光客は減っていき、1995年には半減の7万、しかし現在でも約6万人と、ヨロンはヨロンマラソンや様々な催しを行って観光客をつなぎとめているという。6万というのは島の規模からいって健闘している数字で、島はずっと小さいがキラーコンテンツを持つ日本最南端の波照間島、日本最西端の与那国島でも3万に届かない。でも周囲でヨロンに行ったという人は非常に少ない。普通は沖縄、続いてその先の石垣、宮古に行ってしまうからだ。じゃあヨロンは誰が行くのか?どうも一度行った人が熱心なリピーターになって何度も来島するらしい。ずいぶん前置きが長くなったが、さっそくそのヨロンの魅力を探しにいってみよう。

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最近は天気予報を見ないようにしている。台風以外、飛行機は飛ぶわけで、一喜一憂なんてバカらしいからだ。特に自分は島に行くことが大半なので、島の天気は天気予報というものを根底から覆してくれる。だいだい島の人自体、天気予報を鼻から当たらないものを決めつけている。降水確率80%なんて出ていても、一瞬降った後は青空になったなんてことは日常茶飯事。
実際に金曜日に天気予報を見たら沖縄は土日とも曇りと雨のマークで降水確率は80%。ようし上等だ。だいたい先月の対馬も全く同じ天気予報が出ていて、日曜は見事な晴れだった。ヨロンは羽田からの乗り継ぎが遅い時間なので羽田発は755分。フライト中のアナウンスで「那覇空港の天気は雨」と追い打ちが。でも今降っているだけで、おそらく回復するに違いない。沖縄に近づく間、雲が切れてかなりの面積で海が見えていたので、これはいけそうだとヨロン便を待った。那覇からヨロンへの便は13時と1時間半あるので昼食を取ることに。ゲートを出ると再入場が面倒なので出発ロビーで探すが軽食類しかない。そこで久々に沖縄ソバを頼んでみた。沖縄ソバはかつて月1ペースくらいでわしたショップで買った生麺を冷凍しておいて食べていたのだが、2年前の5月に自宅で沖縄ソバを食べた後に激しく嘔吐、これはイレウスではと、一番近い国立病院東京医療センターに行ったら案の上イレウスですぐにマーゲンチューブを入れられ造影。そのあとにイレウス菅を入れようにも奥に入らず、集まった医者たちが険しい顔で「これは良くない。壊死してしまうかもしれない。生死に関わるかも」など患者を目の前にして言っていた。(専門医も少ないし、この病院には2度と行きたくない)こっちは苦しいばかりで何でもいいから早くやれ、早く腹をかっさばけともう顔面蒼白。1日おいて手術、腸がすだれのようになっていてひどい有様だったらしい。その後もイレウス気味が続き、思い出すのも嫌だ。それ以来、沖縄ソバがトラウマだったので、これはここで克服しようと食べてみた。
久々だがなかなか美味しい。よかった、これで克服だ。しかしソバとはいうが小麦の麺でかんすいも入れるし「蕎麦」じゃない。どちらかといえば麺はラーメン。出汁はカツオとブタのブレンドだ。話はまたそれるが、私はソバが好きなので、入院中は食欲がなくなるためごはんをソバに変えてもらってそれだけを食べている。ソバはつけ汁につけて食べるのだが、関東風のしょうゆ出汁、関西風の透明な出汁が隔日で出るのだが、東京生まれの私はしょうゆ出しが大好きで、あの濃い色でないと食欲がわかない。透明の出汁の時は仕方がないので流し込むように飲み込んでいる。子供の頃からの味覚って大きいね。ということで脱線はおしまい。
与論行きの飛行機は那覇空港の1階に集合で、隣は北大東行きだ。そう、ここは琉球エアコミューター(RAC)専用の待合で、予定では9月にここから南大東へ行くんだろうなあと考えていたら、ヨロン行きが呼ばれる。飛行機は多良間便より少し大きい50人乗りのプロペラ機。那覇空港は広いのでバスに乗って異動、最後はタラップを上がる。今は手すりがあれば階段は問題ないので難なく乗り込めた。フライトは40分。足下に沖縄の水納島や伊江島など見ながら実質30分程度で与論空港へ到着した。船便もあるがなんと片道5時間もかかるそうでこれは現実的ではない。
予約していた南国レンタカーの人の車に乗り込み茶花にある事務所へ。妻が手続きしたが、さすが離島、一切の傷の確認もせず、迎えに来ていたレンタカーがそのまま貸すレンタカーで、荷物を下ろすことなく出発できる。いいねえ、無駄が無くて。すぐにめざす百合ヶ浜への渡し船が出る大金久海岸のグラスボート総合案内所へ向かう。こういう小さな離島のレンタカーにはカーナビがないので、もらった地図が全て。妻は嫌がっているが、私はカーナビのない時代の人間なので地図を見て走るのは慣れている。
約15分で到着。時間は14時30分でまさに予定通り。これから行く「百合ヶ浜」は干潮時に姿を見せる沖の砂地で、ヨロン一の名所と言って間違いない。小潮の時は砂地がはっきり現れず水浸しなので、大潮の近辺を選んでいかないといけない。この日の干潮は15時11分で月齢は大潮から4日後、飛行機の乗り継ぎ時間と合わせてこの日程がほぼパーフェクト。だからこの今日にしたのだ。入院の週の土日はまだ辛いし、入院前の土日は気分的に行きたくない。すると4週の内で選択肢は2週。その中でこの条件がピタリとあったのが奇跡的に今日だったわけで、意外と奥が深いのだよ、明智君。
ただ渡し船は船の前に付いている梯子を4段上がって乗り込まなくてはいけないのだが、やってみるとおお登れる、登れる。訪問リハビリで筋力が付いたおかげだなあ。船は15分で沖に出現した百合ヶ浜に到着。まだ先客は10人ほどしかいない。リーフに向かって右側は、引き波が作っていったものなのだろう、まるで砂漠の風紋のような幾何学的な模様が見渡すばかりに広がって美しい。



すると雲間からはじめて太陽が現れ、日差しによって幾何学模様をうっすらと覆う海水が光り、見事な美しさだ。ここはグラビアアイドルなどもよく撮影に使うそうで、納得だ。反対側はある程度の深さがあり、海の色に碧さがある。シュノーケリングをやっている人もいる。私は長時間立つのが辛いので、カメラやビデオを15分ほど回したあとは、持ってきた折りたたみの小さな椅子に腰かけて干潮で広がっていく砂地を眺めていた。すると続々「海中公園」なるグラスボートのオプションコースを選んだ人たちが上陸してきて一気に人が3倍くらいに膨れ上がった。そこで待機していた船に声をかけもう帰りたいと告げると、我々夫婦を乗せ、優しい船のおじさんは大きな声で「一人で来ているお嬢さん、一緒に帰りませんか。帰りたかったら手を上げて」とアナウンス。すっと手を挙げたその若い女性もピックアップして3人で浜辺に戻った。空が青空だったらもっときれいだっただろうが、着いたときだけ陽が射してくれたことに感謝しないと。浜から見るとはるか沖に人の山が見え、なんとも不思議な景色。
そのあと、今日の宿泊のプリシラリゾート・ヨロンへ向かう。1泊2日で離島というプランは当然ほとんどの旅行会社はやっていないが、全て組立型のJTBサン&サンなら可能ということで、最近のマイルで行ったケチな宿泊施設ではなく、2LDK+キッチンという1軒1棟の施設だったので超豪華。私が障害者ということで、サービスでグレードアップもしてくれたようだ。夜はギリシャ風の洒落た白を基調の石造りの建物に青のアクセントが入った、プリシラリゾートのプライベートビーチ(兼母海岸)を見下ろす絶景の広場に出る。
イタリア料理と郷土料理、普通ならイタリア料理が好きなので迷わずそっちへいくが、ここは奄美なのだ。そう鶏飯(ケイハン)がある。東京でも鶏飯が食べられる店が出てきているが、やはり奄美の鶏飯は絶品である。ご飯の上にささ身、錦糸卵、紅ショウガ、味付きのシイタケ、万能ネギ、刻んだ海苔を乗せ、熱々の鶏の出汁をかけて食べるのだから実に美味しい。昔、昭和天皇が奄美にお越しになられた時にこの鶏飯を食べ、おかわりを所望したしたことで有名になった。おかわりを所望するという事は異例中の異例で、よほど気に入られたということ。今から6年前、会社を休んで1泊2日の皆既日食観測弾丸ツアーに入って奄美大島に上陸、初日はオフだったので鶏飯を食べにいって感動、それ以来、鶏飯の伝道師となってそのおいしさを伝えている。しいたけではなくパパイアの漬物(もちろん甘くない)の方が個人的にはお気に入り。ただし琉球文化圏のヨロン、沖縄の大食文化を見事に引き継ぎ、おひつのご飯がどう見ても3杯分はありそうな量で、本当に腹いっぱいになった。一緒に頼んだ紅イモ(紅イモってどうしていつでもこんなに美味しいのかな)のコロッケも美味しかったが、ちょっと多すぎたか。

☆6月21日

夜になってもの凄い豪雨。雷もずっと鳴り続けていた。朝になると雨は止んでいたが、陽は射してこない。天候が回復しないと、今日の目的であるビーチ巡りは、その意義の大半を失ってしまう。どんな美しいビーチも曇天では、薄い翡翠色にしかならないからだ。ホテルでの朝食は7時半からと遅い。ヨロンには24時間開いているコンビニはないし、ホテル内にはコンビニとお土産店があるが夜8時に閉まる。時間はゆっくり流れているのだ。いつもせかせか動き回る自分にとって、この静けさと合わせ、癒される感覚がある。
食事のあとは、昨日のプライベート・ビーチへ向かう。ギリシャ風に作られた真っ白な広場に腰掛けていると雲間から陽が射した。これは期待できそうだ。プライベート・ビーチである兼母海岸は曇天でも十分に美しい。海は翡翠色で水平線には7つの島影が並ぶ。聞くと、沖縄本島の北にある伊平屋島だという。山がちのこの島はヨロンから見ると7つに見える。島の人は「あそこはハブが一杯だから人も少ない。ヨロンにはハブがいないから安全」とどこか嬉しそうに話していた。そういえばこのヨロンも平たい島だ。宮古島、多良間島、波照間島もいないが同じく平たい島。ただ平たくても竹富島や黒島にはいるし、山がちでも与那国島にはいない。「平たい島は海水面が上昇して時に水没し、その時にハブは死に絶えた」という説があるが...。まあ少なくともこのヨロンにはいないというのは大きなメリットだ。
10時までこのリゾートでのんびり過ごしたあとはまずは空港近くのパラダイス・ビーチへ向かう。パラダイス・ビーチは「青い珊瑚礁」という軽食店の駐車場からが入り口だ。勝手に止めさせていただき、店の横へいくと崖の下に素晴らしい翡翠色のビーチが広がっていた。ふと気づくと空は晴れわたり、空の青と強い日差しが、南国特有の海に色彩と輝きを与えている。浜辺はかなりの急坂を降りるのでそれは諦め、この上からの景色だけで満足と写真などを取っていると、いつしか後ろにいた「青い珊瑚礁」の御主人が説明をしてくれる。「ほら、見てごらん。浜辺のあの4本の線は昨晩、ウミガメが産卵で登ってきた線と帰っていった線だよ」、見るとくっきりと浜辺に2本の足で作られた4本の線がくっきりと残っている。しかしご主人が教えてくれなければ決して気づかない程度のコントラストだ。そして沖に見える大きな島影を尋ねると、やはり沖縄本島だった。



空港側からの海からは沖縄は見えるはずと思っていたので、やっと見つけたという感じ。ご主人、顔だちはすっかり沖縄だが、出身は茨城だと言う。移住したら顔まで似てきちゃったかなと笑う。帰りの飛行機は2時5分で1時までにはレンタカーを返却しないといけないので、申し訳ないがお店には寄らずに次の目指すビーチへ向かう。そこは島全体で60のビーチがあるというヨロンの中でも最も美しいと書かれていたウドノス・ビーチだ。
ここは与論町役場の近くにあるはずだが、「ウドノス・ビーチ」と小さく書かれた看板はあるがその道はとても車で入っていけない狭さ。周遊道路の先の方にも入り口があるだろうと探してみたが見つからず、最初に見つけた狭い道の少し上にある「むらなかや」という洋服店に道を聞いてもらうよう、妻に頼む。分からない時は人に聞くのが最も時間の短縮だ。こちらのお店の方はとても親切で、わざわざ下まで降りて来てくれ、この先は車で行かず、歩いていくように言われる。かなりの急坂をあがり、さらに下っていくと、目にも鮮やかな翡翠と群青のグラデーションが目に飛び込んできた。ウドノス・ビーチだ。この色合いの見事さは波照間島のニシハマ、多良間島のウカバに勝るとも劣らないレベル。そのビーチが集落のすく近くにあるなんてそれも凄いことだが、誰も泳いではいないという贅沢。まさにプライベート・ビーチ。



しばらくその美しさを目に焼きつけておくべく呆けたようにぼうっと眺めていたが、立ってばかりでまたあのアップダウンを歩いて行かないといけないので、戻ることにした。しかしこんな坂を上り下りできるなんて先に書いたように週2回の訪問リハビリの成果。さっそく帰ったらPTさんに報告しよう。坂の下まで戻り、妻に「むらなかや」の方に挨拶をして車を取ってきてもらうように頼むが、車が10分待っても15分待っても姿が現れない。20分待ったところで業を煮やして様子を見に行くと店から妻が出てきた。聞くと、挨拶に行くと休んでいきなさいと言われたもののそれは主人が待っているからと丁重に断り、手ぶらでは悪いとヨロンの名の入ったTシャツを購入、するとこの方の息子さん2人は「川畑兄弟」の名前で今年ビクターからメジャー・デビュー、『与論島慕情』というミニアルバムを出したばかりというのでそれも購入したという。それじゃ時間がかかるはずだ...。ちなみにこのミニアルバム、タイトル曲は与論港で昔からかけられている島のスタンダード・ナンバーだそうで、曲想やアレンジも一瞬加山雄三が感じられちょっとビックリ。しかし2曲目のオリジナルの「Yoron Blood」はファンキーなR&B、3曲目の「与論のサンゴ祭り」は三線を使ったビギンのオモトタケオ風のナンバーとバラエティに富んでいてなかなか楽しめる。もっとコテコテの島唄と思っていたがそうではない。4~6曲目のオリジナルには「ヨロン」は歌詞になく、穏やかで爽やかなナンバーが並びこれが本来の姿なのだろう。
さて、そんなことで1時まであと30分余り、もう1か所しか行けない。こんなに晴れるんだったらもっと早くホテルを出ていれば良かったが、早朝は曇っていたからな。ネットで調べて二重丸を付けていたビーチで残るはシーマンズ・ビーチ。昨日の百合ヶ浜へ出発した長く続く白浜のる大金久海岸の南側部分だ。きなみに北側はクリスタル・ビーチと呼ばれかなり遠浅のよう、さらに上にある黒花海岸、寺崎海岸も遠浅とあったので、それらは干潮時は砂地が見えてきれいではなくなるため、今回泣く泣くパス。そうして着いたシーマンズ・ビーチはアクセントのように少し岩があるものの道路にある駐車スペースから見ても、白浜に下りて見ても翡翠に輝き実にきれい。弧を描くビーチの先の方にある船で昨日は百合ヶ浜に渡ったようだ。沖に大きく見るのは奄美群島の沖永良部島。



今日見た、4つのビーチはどれも五つ星で、こんな島は他にはない。各離島に、ビーチ好きなら感涙のビーチが一つか二つはあるものの、今回の旅行で見たのは百合ヶ浜も入れれば5か所、時間的に行けなかった上記のビーチに含めめれば最上級のビーチは軽く10を超えるだろう。冒頭に書いたように、離島好きの間で言われた「ヨロンへ行った?ヨロンは凄いよ」を本当に実感できた。ビーチの美しさ、観光客が少ないのでそのプライベート感の心地よさ、島の人は非常にフレンドリーだし、プリシラリゾート・ヨロンは快適だし、これはまた行かないといけない。特徴的なのは若い女性だけのグループが多い事。女性のリピーターが多いのかもしれない。我々は行き残したビーチをみな散策しないといけない。再来島を珍しく妻も同意していた。よほど気に入ったようだ。


最後にオマケ情報だが、琉球エアコミューターのCAさんは、飛び切りの美人が多い。JALANACAとレベルが違う。妻もその点はいつも言っていて、今日のCAさんもきれいだねとよく言う。プロペラ機でもったいない気もするが、是非RACを使う人は観察?してほしい。ホントよ。





2015年6月22日月曜日

PIZZICATO ONE:『わたくしの二十世紀』(UNIVERSAL MUSIC/UCCJ-2125)



嘗てピチカート・ファイヴを率いたという例えが最早不要になった感のあるクリエイター小西康陽が、11年の『11のとても悲しい歌』以来、4年ぶりにPIZZICATO ONE名義でセカンド・アルバム『わたくしの二十世紀』を6月24日にリリースする。
今作は彼がピチカート時代に発表した楽曲を中心に、ゲスト・ヴォーカリストを迎え挑んだセルフ・カバー作品集である。ヴォーカリストとして参加したのは、市川実和子、UA、enaha、おおたえみり、小泉今日子、甲田益也子、西寺郷太、ミズノマリ、ムッシュかまやつ、YOU、吉川智子という多彩な男女11名。
前作やコロムビア*レディメイド時代のオムニバス・アルバム『うたとギター。ピアノ。ことば。』(08年)を彷彿とさせる、最低限のバッキングにより演奏される良質なヴォーカル・アルバムとしてお薦めしたい。

前作『11のとても悲しい歌』では、マリーナ・ション、ウーター・ヘメル、ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ、グウィネス・ハーバート、マルコス・ヴァーリ等やはり11組のヴォーカリスト(グループ)が迎えられた全編英語詞の洋楽カバーとなっていた。
ゲスト・ヴォーカリストと楽曲のセレクションには、これぞ小西康陽というべきセンスが貫かれ唯一無二なプロダクションとして高く評価された。今作でもその思想は当然踏襲されており、更に嘗てのピチカート・ナンバーがビビッドに蘇るこということで魅力溢れる作品集になったことは言うまでも無い。
では主な紹介しよう。『うたとギター。ピアノ。ことば。』収録でこの作品集の中でも最近作となる「東京の街に雪が降る日、ふたりの恋は終わった」はオリジナル同様にミズノマリの歌唱で、トランペッターをフューチャーしたジャズ・コンボ・アレンジからハモンドB3オルガンのみのバッキングにアダプトしているが、これが凄くいいのだ。窓からの雪景色が目に浮かぶ情景をB3の温かいトーンがミズノの歌声を包み込んでいる。
『Playboy & Playgirl』(98年)収録でロジャニコの「Love So Fine」やフィフス・ディメンションの「Up, Up And Away」等をモチーフにしたダンス・ナンバー「華麗なる招待」が、ここでは「ゴンドラの歌」と改題され、カントリー・ブルースのパートとニュー・ソウル香るシンガー・ソングライター風サウンドのパートで構成されている。前者は斎藤誠のギターと山本拓夫のブルース・ハープをバックにムッシュかまやつのナレーション(つまり「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」風だ)で進行し、後者は小西自身がヴォーカルを取り、ストリング・セクションを従え往年のアル・クーパー・サウンドのように味わい深い。この対比は非常に面白く聴き応えがある。
全編を通してひっそりと日曜の午後に聴きたい今作の中でも、一聴して筆者が気に入ったのは、ノーナ・リーヴスの西寺郷太がピアノの伴奏のみで歌う、ピチカート・ファイヴ時代の楽曲メドレーというべき「日曜日」だ。
「日曜日の印象」(『ベリッシマ』収録・88年)、「おかしな恋人・その他の恋人」(『カップルズ』収録・87年)、「新しい歌」(『Playboy & Playgirl』収録・98年)がシームレスに進行していくので、パズルのピースのように最初から計算されてソングライティングされていたのではと深読みさえしてしまった。今では遠く遙か大人になってしまったピチカート・マニアは、この一曲のためだけに入手すべきである。
続く「きみになりたい」(『女性上位時代』収録・91年)は、オリジナルはTom Scott & The L. A. Expressの「Sneakin' In The Back」をモチーフにした(モーマスも「Enlightenment」(『Timelord』収録・93年)で同様に使っている)クールなグルーヴで不毛の愛を綴っていた。
今作ではストリング・セクションのみをバックに、『うたとギター。ピアノ。ことば。』にも参加した吉川智子が凜とした歌声を聴かせており、生々しい弦の響きはコリン・ブランストーンの「Though You Are Far Away」(『One Year』収録・71年)を彷彿とさせる美しさだ。
繰り返しになるが、良質なヴォーカル・アルバムとしての側面もあるので渋谷系を通過していないポップス・ファンにも強くお薦めしたい。
(ウチタカヒデ)


2015年6月18日木曜日

☆『The Who Live At Shea Stadium 1982』(ヤマハ/10593)DVD

フーほどの個性的でテクニカルなメンバーが揃ったバンドは他にはなかった。ストロークの名手で手を風車のように回して正確にピッキングできるピート、リード・ギターのようなベース・ランニングで圧巻のフレーズを叩き出せるジョン、そしてまさに縦横無尽、手数足数の多さ、自由さで他のドラマーを寄せ付けないキースと、フーは最高のパフォーマーでもあった。特にキース・ムーン。デビュー時から可愛らしいマスクながら群を抜くドラミングをみせてくれたので、デビューの「I Can't Explain」のテレビ映像を見ると、リード・ヴォーカル並みにキースのカットがインサートされ、ドラムへの注目度が他のどのグループとも違っていた。キースのドラミングはスタジオでも十分発揮され、『Tommy』『Who's Next』『Quadrophenia』など、ああキースのドラムだとすぐに分かり、フーのサウンドはキースのドラムが核という部分が実に多かった。しかし破天荒なキースは1978年に突然この世を去る。ピートは旧交があった元スモール・フェイセスのケニー・ジョーンズを新メンバーとして受け入れ、1979年にツアー参加、スタジオ・アルバムでは1981年に『Face Dances』、1982年に『It's Hard』を出すが1983年にフーはいったん解散する。1982年のツアーの模様は1984年に『Who's Last』としてリリースされた。その後1985年のLIVE AIDなどのイベントライブがあり1988年まではドラマーとして参加したが、1989年の結成25周年記念コンサート(『Join Together』としてリリース)以降は参加していない。(ゲストでセッション参加はあったが)その後、ドラマーの座はサイモン・フィリップスを挟みながら現在はザック・スターキーが多く担っており、ザックは手数足数が多いし多彩に繰り出せるのでフーのファンの間でも人気は上々で、キースの時代、そして昨今はキースのDNAをついだようなザックがいるので、その間のケニー・ジョーンズの時代は忘却の彼方に行ってしまっていた。正直に言おう。自分もあまり評価していなかった。「You Better You Bet」は大好きだがアルバム『Face Dances』『It's Hard』は、『Who Are You』よりもずっと前の『The Who Sell Out』から比べてしまって、下に見ていたのは事実。ケニー時代の解散記念ライブ『The Who Live From Toronto』はリアルタイムで買ったLDを長い間隅の方に置いたままにしていた。そして今、温故知新というべき同時期のライブの『The Who Live At Shea Stadium 1982』が出た。2時間半を超える長尺の本作をじっくり見たら、昔のケニー時代の「違和感」がすっかりなくなっていた。それは「キースと比べても遜色ないじゃないか」という技術的なものではない。その違うスタイルのドラミングがとても心地いいことに気付いたのだ。ケニーのドラムはキースよりも正確無比、そのかわりトリッキーな部分は少ない。フーのライブは、キースのその何が飛び出すか分からないトリッキーさと、暴走気味のドラミングにフーの持つロックンロールのパワーをより多く感じとっていた訳だが、ケニーのドラミングは重戦車のような安定感でライブ全体を支えていて、円熟期に入ったピートとジョンは逆に演奏しやすいようだ。ロジャーのヴォーカルも絶好調であり、歌いやすさが伝わってくる。この時の4人のコンビネーションはとても良かったに違いない。それは画面からも伝わってくる。本作は先のトロントのライブとは違って妙なカメラ操作をしないので、カメラワークが安定していてその時のライブがリアルに感じされる。19821013日のシェイ・スタディアムのライブを丸ごと収録してある点もいい。ボーナス映像では1012日からの5曲が入りその中で「My Generation」(!)と「A Man Is A Man」「5:15」は本編には入っていないものだ。この後、1217日に行われたカナダのメープル・リーフ・ガーデンのライブがお馴染みのトロント・ライブとして1980年代にビデオ・ソフト化されLDになり今はDVDで購入できる。音だけでも2006年にCDとして『Live From Toronto』としてリリースされたが、そのどれにも「Behind Blue Eyes」「Dr.Jimmy」「Cry If You Want」の3曲はカットされてしまい22曲仕様。それに比べて本作は25曲がフルで入り、曲目が異なることから「Substitute」「I'm One」「The Punk And The Godfather」「Tattoo」「I Saw Her Standing There」「Summertime Blues」と「Behind Blue Eyes」「Cry If You Want」はトロントの方では聴けない。ジョンが歌うビートルズ・ナンバーの「I Saw Her Standing There」なんてこのDVDでしか聴けない珍しい選曲だ。逆に「Boris The Spider」「Love Ain't For Keepin'」「Squeeze Box」と「My Generation」「5:15」はトロントのみ(後の2曲はボーナス映像で聴けるが)となっている。どちらも見ておくべくライブだが、トロントを持っている人は特に「I'm One」「The Punk And The Godfather」をオススメしておこう。見ないともったいない名演。なんだか『Quadrophenia』関係の曲は調整用に使われるので悲しいが、こうやって集めて聴いて欲しいもの。フーの伝道師である犬伏功さんの解説を読みながら、ケニー・ジョーンズ時代のフーのライブの凄さを堪能しよう。(佐野邦彦)


2015年6月13日土曜日

☆Rolling Stones: 『Sticky Fingers(Super Deluxe Edition)』(ユニヴァーサル/UICY77211)☆Rolling Stones: 『From The Vault:The Marquee Club Live In 1971/The Brussels Affair 1973』(Ward/GQXS90009-12)

さて、病院から退院してきたら凄い事になっていた。分かってはいたけど、ストーンズの中でも最も好きな時代である1971年の貴重な音源と映像がてんこ盛りで届いていたからだ。この2枚のリリースが一致したのは偶然ではないだろう。そしてどちらもローリング・ストーンズの伝道師、寺田正典さんが、いつものように、例をみない長文の解説で楽しませてくれる。その背景を詳しく語るだけでなく、音源ひとつひとつに、比類なき知識で分析してくれるので、読んでいて楽しい限りだ。あの有名なエリック・クラプトンが参加した未発表の「Brown Sugar」の分析だけで5000字を軽く超えていたのだから。ではまずはArchiveシリーズの『Sticky Fingers(Super Deluxe Edition)』から紹介しよう。この盤はSuper Deluxe Edition以外は買ってはダメだ。というのもSuper...だけにディスク3として『Get Yer Leeds Lungs Out』と題された1971年のリーズ大学でのライブ13曲が入っているからだ。この中で最後に演奏された「Let It Rock」だけは当時の「Brown Sugar」の英国盤シングルに入るなど知られた音源だが、残りの12曲は初登場だ。そしてそのライブのクオリティが極めて高い!オリジナルのアルバムについては当然知っているものとして省略、ディスク2のボーナス・ディスクから。まずは冒頭に書いたエリック・クラプトンがスライドギターで参加した「Brown Sugar」だ。このイントロのリフはちょっと弾き方が違っていて、この頃のライブではこのリフが多い。ミックのヴォーカルも演奏も激しく、これはこれで非常に魅力的なテイクだ。ボビー・キーズがこのセッションに参加して吹いたサックスが気に入られ、本テイクも始め、ストーンズのセッション・マン、ライブ・メンバーとして必要欠くべからない人間になっていく。なお、米盤『Hot Rocks 1962-1971』のごく初期プレスに入っていた別ヴァージョンは、このセッションのさらに前の、ボビー・キーズの言葉のとおり、サックスが入っていないとても荒っぽいテイクだった。次の「Wild Horses(Acoustic Version)」はその名のとおりアコギとミックの歌という極めてベーシックなトラックでこれはこれで味わいがある。これまた米盤『Hot Rocks 1962-1971』のごく初期プレスに入っていたが、寺田さんの指摘どおり、間奏のピアノが僅かにしか聴こえないミックスだった。「Can't Hear Me KnockingAlternate Version)」は、オリジナル曲のパーカッション以降の長いアドリブパート(別の録音を継ぎ足したもの)がない、初期ヴァージョンだが、ミックだけの歌のあとに2分のキースのアドリブギターが聴けるのでなかなかよい。「Bitch(Extended Version)」はカッコいい。2分も長くこの名曲を楽しめるだけでなく、ミックのヴォーカルもワイルドだし、キースはアドリブを自由に弾きまくる。最後のHey Hey Heyのコーラスはまだ作られていない。「Dead Flowers(Alternate Version)」はこの時期のライヴ・ヴァージョンを彷彿とするミック・テイラーのカントリー・ギターが光る。(レコードではコード弾き)そして次の5曲が素晴らしい。同じく1971年、ストーンズが最高98%という当時のイギリスの超高額納税を避けるためにフランスに移住するGoodbye Britainツアーの最終日のラウンドハウスでのライブから5曲セレクト。素晴らしい音質で、スタジオ・ライブを聴いているかのよう。選曲が「Live With Me」「Stray Cat Blues」「Love In Vain」「Midnight Rambler」「Honky Tonk Women」の5曲が収められたが、ボビー・キーズ&ジム・プライスのホーン・セクション、ニッキ―・ホプキンスのキーボード、そして何と言ってもミック・テイラーのギターが入ったストーンズのサウンドは最強だ。個人的にはこのメンバーのサンサンブルが一番好きだ。ついでに見た目もカッコいい。特にキースとミック・テイラーのギター・アンサンブルが最高で、そこにさらにホーン・セクションが強力なエンジンとなって補強するんだからため息をつくしかない。ミックのヴォーカルもよりワイルドになって迫力を増している。チャーリーとビルのリズム隊は鉄壁で、そこにニッキ―・ホプキンスとイアン・スチュワートのキーボードが支えているのだから。ディスク3の『Get Yer Leeds Lungs Out』はディスク2のラウンドハウスでのラスト・ギグの前日にリーズ大学でのライブである。Live At Leeds...といえばあのザ・フーのライブの名盤中の名盤だが、ストーンズも意識していてフーの上回るライブを狙っていたようだ。事実こうやって全13曲聴いて見ると、ザ・フーを上回るとは言わないが決して劣ることもない、まさに匹敵するライブの熱演だ。ミック・テイラーが初めてライブに参加した14か月前の『Get Yer Ya-Ya's Out』を遥かに上回る充実したライブで、その時とは「Live With Me」「Stray Cat Blues」「Midnight Rambler」「Little Queenie」「Street Fighting Man」などアレンジを変えアタックが強くなっていて魅力的なライブになっている。「Satisfaction」に至ってはあのリフもほぼ封印するというファンクな仕上がりでビックリだ。なおお馴染みのオリジナル盤の解説は犬伏巧さんの再掲である。加えて日本盤のみのオマケのアナログ・シングルだが、「Brown Sugar」は残念ながらalrightではなくyeahで終わるいつもの奴だった。さてここで1971年の超貴重映像に話を移そう。ディスクも変わる。『From The Vault:The Marquee Club Live In 1971/The Brussels Affair 1973』である。このアルバムもミック・テイラー在籍時の最強のライブと言われる19731017日にベルギーのブリュッセルで行われたライブを完全収録でカップリングにしたこの日本のみの仕様のディスクを買わないと意味がない。(ブラッセルズ・アフェアが許可されたのは日本のみ)マーキーの方は1971326日にテレビスペシャル用に録音された伝説のマーキークラブで行われたライブで、先のラウンドハウスが314日、リーズ大学が313日のライブなので全て同じ月の収録なのである!このマーキーではひともんちゃくあり、キースがトラブルを抱え収録に4時間遅れ、観客で込み合う開演直前に現れ、ここでマーキーの看板が動いて見えないと文句を付けるマーキーのオーナーに対して、キースは初期ストーンズが昔辛く当たられていた積年の恨みとばかりにそこをどかないと殴るぞとギターを振り下ろしたが当たらなかった...というような凄みのある当時の様子が寺田さんの解説で読める。まだまだあるが、なにしろこのマーキーだけで36千字を超えているのだから私ごときが書く必要などない。解説を読みながらまだ20代後半から30代に入ったばかりの若く美しいストーンズのライブをブルーレイの高画質で見て欲しい。ただカメラワークであまりにミック・テイラーが抜かれないのは残念。ボビー・キーズの方がはるかに抜かれている。最後の「Brown Sugar」あたりにやっとミック・テイラーのギターソロに気づいてカメラで追い出したって感じがした。面白いのは、収録用ということで気にいらないテイクがあると2回演奏していて、これがライブの初演だと言う「I Got The Blues」はエンディングが気に入らずもう1回、「Bitch」は最後でキースがピックを落としてしまい一瞬キースのギターが消えためこれも2回撮られていてが、放送版(前者はつなぎ合わせた)の他に、ボーナス映像でその失敗したものもそのまま全部収録されている。もっとも「Bitch」はミック・テイラーがリフを正確に刻み、キースは自由に弾いていたので最後のミスも刺して目立たず、そのまま乗りのいいテイク1がそのまま放送されている。「Brown Sugar」はここでもエリック・クラプトンが参加した時と同じ、上に跳ね上がるリフで始まる。間奏はホーンではなく、ミック・テイラーのソロ、これはこの時期のものなので楽しめる。そしてやはり「Midnight Rambler」、キースとミック・テイラーのギターの応答にミックのブルース・ハーブが切り込むこの曲はいつもハイライトになる。放送は8曲で、取り直しのボーナスの4曲(2テイクずつなので実質2曲)が入り、最後にボーナスで、BBCで放送された「Brown Sugar」のスタジオ・ライブが収められている。このテイクは演奏がオケでミックの歌だけがライブだった。そして最後はミック・テイラー最後のツアーと言ってもかまわない19731017日にフランス人のためにフランス語圏であり、フランス近郊のベルギーのブラッセルズ・アフェアで開催されたコンサートの模様を収録した『The Brussels Affair 1973』だ。移住したフランスなのにフランスでコンサートができないのはキースに麻薬の逮捕状が出ていたからで、まあご存じのとおり、この頃はトラブル続き。ボビー・キーズもドラッグに溺れ大きな交通事故を起こすなどライブから外れ、ニッキ―・ホプキンスは麻薬から逃れられないキースについての舌禍をおこしてビリー・プレストンにその座をとって変わられた。しかしこの頃人気者だったビリーはコンサートでバッキングより目立つボリュームで演奏してキースに脅されたり...とまあ枚挙にいとまがない。「キング・ビスケット・フラワーアワー」とのいきさつなどたくさん話題はあるのだが、このあたりのいきさつは寺田さんの3万3千字超えのライナーに全て書いてあるのでおわりにする。肝心なライブはCD2枚に全15曲。ミック・テイラーのギター・ワークはさらに進化していて、「無情の世界」の後半のギターソロとか聴きどころ満載。しかしなんといってもスピード全開、演奏時間12分超えながらあまりのスリリングさにあっという間に終わってしまう感覚を埋める「Midnight Rambler」は、今回の音源で最も充実したライブであることは間違いない。キースとミック・テイラーのギター同士のレスポンスは本当に凄いの一語。こんな上手いギタリストがあと1年で去ってしまうのだからもったいないが、キースとの関係でやはりロン・ウッドの方が合ったのは確か。在籍はブライアン・ジョーンズ9年、ミック・テイラー5年、そしてロン・ウッドは40年だ。最後の怒涛のようにプレイされる「Street Fighting Man」を聴いて、ああ、このライブは本当だったら日本で見られたかもしれないのに...と頭をよぎった。ストーンズの日本公演はこの1973年に予定されていたものの過去の逮捕歴でビザが下りずにキャンセルされた。自分は高校1年だったので必ず見に行った。そうしたらこの目でミック・テイラーのいたストーンズを見られたんだ...なんて夢想をしたが、これだけの音源と映像があれば今はもう十分だ。このストーンズの「ミック・テイラー祭り」。必ず両方セットで買うしかない。(佐野邦彦)