2015年2月22日日曜日

☆『スウィーター!ルーツ・オブ・ジャパニーズ・パワー・ポップ1971-1986』(ポップトラックス【クリンク】/DIRP1001)

脱帽という言葉があるが、高木龍太さんがセレクトから解説まで担当したこのCDにまさに脱帽、勉強させていただきましたと感謝・感謝のコンピレーションだった。私が日本の音楽事情に疎いので、知識をお持ちの方なら知られたものもあるのだろうが、少なくとも私にはバッド・ボーイズ以外まったくお初、楽しむことができた。ではアルバム順ではなく、アーティスト順で紹介しよう。ザ・ジャネットは1973年から75年にシングル4枚、アルバム1枚を残したビート・バンドだが、解散後にヴォーカル&ギターの松尾ジュンとドラムの大間ジローがオフコースのメンバーになっているので、実力は当時から高く評価されていたようだ。しかし、東芝EMIからデビューした彼らはプロ作曲家の歌を歌わされ、演奏も外部ミュージシャンで歌入れのみという悔しい状況にいた。会社はネオGSで売り出したかったようで19歳と若くルックスもよくアイドル路線で行きたかったのだろう。そのジャネットで数少ないオリジナル曲を3曲収録、プラス井上忠夫作の1曲をセレクトしている。ラズベリーズやパイロット、バッドフィンガーを彷彿とさせるパワー・ポップで、演奏もハーモニーも素晴らしい。オリジナルで勝負させてあげればよかったにと改めて惜しまれる。さて、そのオフコースに加入したもう一人がバッド・ボーイズのヴォーカル&ギターの清水仁で、バッド・ボーイズの75年の日本語によるセカンド・シングルが収録された。A面はオリジナル、B面は小田和正の作曲だ。あのビートルズの完コピの名盤「Meet The Bad Boys」によしだたくろう作のファースト・シングルを入れたCDは、今でも超高額プレミアの人気盤で私も持っているが、セカンド・シングルは知らなかった。ビートに漂う哀調、ハーモニーも巧みで実力派だったということが伝わってくる。リンドンは博多出身の音のラウドさで知られたビート・バンドで、74年のデビュー・シングルは両面オリジナル、A面はストリングスをフィーチャーしたトニー・マコウレイを少し意識したようなサウンド、B面は牧歌的な曲想にストリングスとハープシコード風のキーボードのバッキングがよく合う。合わせて収録したのもオリジナルで、セカンド・シングルのB面と75年のサード・シングルA面。前者はファーストの延長にあるキャッチーでポップなチューリップ風のナンバーだったが、後者はニール・セダカのリバイバル・ブレイクを踏まえたアメリカン・オールディーズ・タッチになっていたのが面白い。全てオリジナル曲だったので所属に恵まれたか。ザ・ビーツは81年に東芝EMIからアロワナ名でデビュー・シングルを1枚リリース、この2曲は本CD収録予定のところ、マスタリング後に権利関係で外されたというあまりに惜しい事実がライナーで語られている。そのため収録されたのはビーツに改名し82年リリースの1枚目のシングルA面と、2枚目のシングルA面だ。前者はハーモニーのからみが絶妙なビートルズ風ナンバーでオリジナル、B面はラズベリーズの日本語カバーだった。後者はアレンジャーの伊藤銀次のセンスが感じされる軽快なバッキングが聴きものだ。さて個人的に大喜びなのがロッキーズの「夏のラブ・ソング」。78年リリースのデビュー。シングルのB面だが、作曲がガロのトミーこと日高富明の書き下ろしなのだ!キャッチーでビートの効いたギターが入るまさしくトミーのスタイルなのが嬉しい。曲だけ聴くとベイ・シティ・ローラーズ来日(2回目の)便乗商法シングルというベイ・シティ・フェローズなる覆面バンドの78年のシングル、まさにベイ・シティ・ローラーズそのもののサウンドで作られた英語のナンバーで、おお良く出来てるな、で終わってしまうが、解説を読むとメンバーはなんと先のオフコースに加入したジャネットとバッド・ボーイズの3人と東芝のプロデューサーなどで活躍した重実博なのだ。それがわかるともう1回聴きなおしてしまうだろう。他は85年から89年に7枚のシングルを出したグラム・ロック・シンガーのちわきまゆみだが、ファンの楽しみであるB面の英語カバーからベイ・シティのナンバーが選ばれ、パンキッシュなアレンジが冴えわたる。ルージュは75年にデビューするが加藤和彦のプロデュースで、メンバーの意向など一切反映させずに加藤主導で作られた。そのアルバムの中から最もシンプルでバンドのカラーが出た「ラブ・イン・フローラ」が収録された。ギターのカッコいいリフやミック・ジャガーを彷彿とさせる攻撃的なヴォーカルなどこのCDで最もハイセンスで、その群を抜くセンスの良さは加藤のセンスの賜物ではなくバンドの個性らしいが、とにかく最大のインパクトを受けたのは事実。最後はザ・レッド・ブラッズなるバンドの71年のバッドフィンガーのリアル・タイムのカバー曲。しかしてその実態は?私はまったく知らないが東芝のザ・マミローズ、ハロー・ハピーというバンドを経てマギー・メイで活躍した実川俊晴の初期ワークスだったのだ。高木さんの膨大な解説と、当時のジャケットが数多くカラーで掲載され資料価値だけでも十分。大好きな番組に「マツコの知らない世界」があるが、本当に「知らない世界」。山下達郎や大滝詠一のようなポップ・ミュージックのパイオニアではなく、はっぴいえんどのようなロックの草分けでもなく、本格的ロックバンドのブルーハーツ、またコレクターズが出てくる前のあだ花のようなミュージシャン達だが、こうやってまとめて聴ける意義は極めて大きい。18曲中11曲が初CD化で、3曲は廃盤状態と、レア度も満点である。インディーズレーベルなので、amazonでは送料別の中古盤扱いなので、送料無料のタワーレコードやHMV、そしてクリンクの芽瑠璃堂がベストだ。(佐野邦彦)
スウィーター! ルーツ・オブ・ジャパニーズ・パワーポップ 1971-1986

2015年2月14日土曜日

☆全作品が単行本未収録・未発表・多作家への描き下ろしで構成された究極の吾妻ひでお本『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド』遂に発売!

復刊ドットコムから今月発売される吾妻ひでおの『ワンダー・AZUMA HIEDO・ランド』は、40年来の吾妻ひでおフリークを自認する自分の中でも最も作りたかった夢の1冊だ。全ページ単行本未収録が基本。そうでないものは、他の作家の単行本に寄稿した後書き用原稿などのマニアックなものを集めてある。私の方で単行本未収録作品をリストアップし、その中で原則として原稿が見つかったものを集めてきた。中には、未発表原稿や未知の原稿という嬉しい発見も。では注目点だけ簡単に。全て章立てしたのでその順に紹介しよう。(章立てのセンスに社長からお褒めの手紙をもらった(笑)。実際上手く出来た。)カラーは32Pあり、アニパロ全開の1981年の「吾妻ひでお版眠れぬ夜のために」や「メタモルフォーゼ」が入ったが、一番驚いたのは1979年にBOMB用の「多目的せーせーかつ入門」が2色原稿(掲載時は単色)だった事。過激すぎでボツになったものと一緒に収録した。単行本ではモノクロだった「吾妻ひでおの幻魔大戦」(1980年)も当時のフルカラーで。さらに私が1982年に超売れっ子だった吾妻先生にずうずうしくも自分のミニコミの原稿依頼(下記の小冊子の「めぞんギガント」」した時のご返事が、最高にかわいいラナのフルカラーハガキ2枚で、家宝にと思っていたが、この際、フルカラーで掲載することにしたので是非ご注目を。『同人誌』に関しては、「シベール0号・1号」の収録が大事件!プロの人気マンガ家による同人誌作成という驚くべき伝説の同人誌「シベール」は6号まで出て、2号~6号の作品はその後各種単行本の中心となったが、50部しか作らなかった0号(1978年の「日ヘンの美子ちゃん官能編」)は見たことすらなく、1号(1979年の「赤ずきん・いん・わんだあらんど」)はコピーをホチキスで閉じただけでどちらも単行本未収録のままだった。絵が最高に可愛く、これは凶悪だ。自分もこの頃は「漫画の手帖」で出店していたので、まだ晴海の前の川崎市民プラザ時代だったと思うが、開場の合図がなったと共に、机の下から飛び出してまずは「シベール」に並んでいたことを思い出す。他に「鏡」という同人誌に描いたものなど集めたが、流れとして気に入っているのが、「シベール」の計画から大ブームになっていくまでの過程がはっきりわかる蛭子神建と沖由佳雄、一本木蛮の本の後書きを並べたもの。あと当時の空気が蘇ってくるだろう。『ギャグ』では1980年の「プランコくん」と「トラウマがゆく!」はなんと未発表原稿。1986年の「でんじゃらすももちゃん」は原稿紛失部分が入り、ボツ原稿まで収録。『ドキュメンタリー&エッセイ』ではあの「失踪日記」の単行本未収録部分である「失踪日記・落穂拾い」(2005年)の存在にまず驚かされた。アル中治療時代の話で重複する部分があるので落としたのだそうだ。インパクトという店では、マンガ界の編集者の恐ろしさを描いた衝撃作「夢見る玉石」(2009)に大注目。使い捨て、使い潰し、目利きのない大手出版社の愚かな編集者達の実態にこれまで迫った作品はいままでなかったのでは?その他、入手不可能の断酒会の会誌「こぶし」掲載の「断酒会と私」(2008年)や「大阪古書月報 第283号」掲載の「古本屋さんと私」(2005年)などが超貴重だ。その他、失踪・スランプ時代の他本の後書きが面白く、さらに「失踪日記・落穂拾い」で出てくる吾妻先生の飼っていたハムスターのことをマンガにした「お嬢様の日々」はつなげてあるので、楽しめるはず。『SF・不条理』ではSFマガジン掲載の作品の中心にセレクト。『フレンズ』では吾妻先生と親交が深い方用に、後書きマンガなどで描いたものを集めた。とり・みき、新井素子、いしかわじゅんなどだが、その中でも奇譚に載った「ミャア官」にひっかけた「新井素子官能写真集」(1983年)は貴重かも。帯を書いていただいた高橋葉介、そして諸星大二郎などの特集本にも寄稿しているのだが、残念ながら新刊としてまだカタログが生きているので、泣く泣く断念している。『エロ・美少女』は単行本未収録の小品集。『ホームページ』は20042006年に吾妻ひでおのサイトでのみ閲覧できた「ホームページ日記」などのインターネットのみの原稿を一挙収録。最後の『その他』ではまず東京三世社から1981年にイラスト中心の単行本で出ていた「Paper Night」に収録されていた「My Animation」というパラパラマンガの原画集(3コマに付き1コマ)を発見したので初収録。他ではジュブナイルと言っていいか分からない短編「基地がいっぱい」(1984年)や、高千穂遥の文にイラストを書いた「変態の方程式」(1981年)などひねったものを集めてきた。全208P、冒頭にも書いたが40年来の吾妻ひでおファンの夢をこの本で実現でき、先月出版した『東映名作アニメ絵本・全5巻セット』と昨年の『ぬいぐるみ殺人事件』に並ぶ、最も満足できる1冊なので、是非ともファンの方は入手していただきたい。幸い、事前の予約も非常にいいそうで、苦労した甲斐がありそうだ。なお復刊ドットコムのホームページから購入するとさらなる8Pの小冊子、これには私が「漫画の手帖」で描いていただいた「めぞんギガント」と、VANDAで描いていただいた「きりがくれ」、さらに後になって分かったのだが、先生の1回目の失踪直前に録ったインタビュー、「漫画の手帖」の宮崎駿インタビューの号に描いていただいたミミちゃん、そして表1と表4JUNE用のものから先生がセレクトしたイラストで構成されたものがもらえるのでお得である。(初収録はインタビューとミミちゃんイラスト)なお、余談だが、カラーページは当初倍予定されていたが、アイドルネタのイラスト集だったので、掲載している出版社より「雑誌はお目こぼしされているけど、単行本はやめるべき。怖い人がくるかもよ」と言われ泣く泣く断念した。ボツイラストも受け取って是非収録したかったんだけど、芸能界は怖い...。(佐野邦彦)
ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド

2015年2月10日火曜日

★第7回 宮古諸島ツアー2015

Journey To Miyako Islands 2015


佐野邦彦






障害者手帳もらった頃は、飛行機での旅行など考えられず、宮古も八重山もう14回も行って見ていない場所なんてほとんどないから行かなくていいやと言い聞かせてきたら、ついに宮古島と伊良部島を結ぶ日本最長の無料の橋、伊良部大橋が開通すると言うニュースが入ってきた。なんと長さは3540m。フェリーではレンタカーを「もっとつめて!」と言われるので少し緊張して乗船していたのに、これからはあっという間に橋で渡れちゃうんだ。宮古島に最初に来たのは2003年。工事は2007年から始まった。過去6回行った宮古でずっと出来ていく様を見ていただけに、この橋を渡りたくて、行こう!と決心する。

27日(土)

ネコがいるから社会人の子供が休みの土日しか行けず、宮古12日というもったいないプラン。でも伊良部大橋さえ渡ればいいのだ。もう泳げないしね。131日に開通、それから間もない2月7日の土曜日に出発した。天気予報は2日とも曇り時々雨。冬の沖縄はずっと天気が悪いのは有名で、12月から3月は、晴れを期待していてはいけない。
宮古で直行便はJALグループのJTAだけで、145人乗りボーイング737-400と小さいが、2月なのに満席である。朝の655分発なので、車椅子のこともあり、早めに出るつもりが少し遅くなり、環八走行中、首都高の指示が出たので思わず乗ってしまった。(障害者なので高速は半額で使いやすい)すると嫌な予感。大橋ジャンクション?これって霞が関近くまで行ってC1で回って羽田に行かせるつもりじゃあ...。予想は的中、これじゃ超大回り、ブーメランだ!とブツクサ文句を言うが、もうこれで行くしかない。おそらく環八を走ったのと同じ時間くらいで羽田空港へ着いた。羽田空港の駐車場は11500円と超ディスカウントしたので、2月、それも6時台なのに、空港までの通路がある4階はもう満車だ。

3階の障害者スペースに停めて4階へ上がると4階の障害者スペースは空いている...。引き返すのもめんどうなので南ウィングへ。車椅子のことを尋ねると「JALスマイルサポート」へ案内される。するとそこで車椅子を預かってくれ、空港内で使う小さい車椅子を貸してくれる。普通の荷物も預かってくれるようだったが、1泊2日なので預けるのは車椅子だけだ。
6時30分頃に今まで無縁だと思っていた「車椅子の方や妊娠中の方の優先搭乗を開始します」のアナウンスで、すぐに「佐野様ですね?」とCAさんが車椅子を飛行機の入口まで押してくれる。そこからは「少し歩けます」と言ってあったので、歩いて席へ向かうが、出入口近くの席が用意されていた。宮古空港には1010分に到着。乗客が全員出ると、もう車椅子が飛行機の出口に待っている。そして手荷物を受け取るカウンターへ行くと、別のCAさんが自分の車椅子の前で、笑顔で待っていてくれた。素晴らしい連携で感激だ。
;空港で宮古ではずっと使っているフジレンタカーという会社のレンタカーを使う。免責保障に休業補償のオプションを入れてもリッターカーで2日間7300円。同じ条件でトヨタレンタカーだと15000円、2割くらい登録すれば引いてくれるようだがまあ圧倒的に高いので、旅行会社で進められるレンタカーには絶対申し込まない。高いだけ。いつでもどこでも自分でネットを調べて予約する。だいたい小さい会社は、「傷の確認お願いします」とかうるさいことを一切言わない。大手はウザいので嫌い。
宮古空港が緩かった時は、返却は空港に適当に停めて鍵はダッシュボードに置いて鍵をかけずに帰ってよしという離島ならではの「乗り捨て」が出来て最高だったのだが、今は空港がうるさいそうでダメになった。(新石垣空港もダメになった)外へ出ると日差しが強く青空。お店の人に「昨日までずっと雨だったんですけど、こんないい天気は久しぶり」と言われ思わずにんまり。ここ何年かの闘病生活の神様のご褒美かな。
気温は20度を越え、陽射しが強く、上着なんて着ていられない。でも翌日は降水確率80%という予報、今日中に回らないと後悔するので、まずはすぐさま伊良部大橋へ向かう。昼食なんて後回しだ。
レンタカーに手動運転車などあるわけないので、宮古島でのドライバーはまだ初心者マークの妻に代わる。宮古に来て1年目という受付のお姉さんはまだ伊良部大橋に行ってないそうで、「久松のあたりから入れるけどカーナビにはまだ反映されてので、標識があるだろうからそれを見てください」とまあ、頼りない返事。パイナガマビーチなどがある宮古のメイン通りの390号線を進み、久松方面へ行く「久貝(北)」という交差点を曲がると久松地区へ。
標識は...と探していたらもう目の前に伊良部大橋が!橋へ行く一本道が出来ていたのだ。さっそく橋を渡る前に駐車して写真やビデオを撮影する。橋のたもとから遠く伊良部まで続く伊良部大橋を見ると直線ではなくかなりカーブしていて、さらに大きなアーチが2か所ある。伊良部島へつながる部分は遠すぎてよく分からない。頭の中に描いていた橋のイメージよりはるかに大きく、そして優美でもあり、圧倒された。
そして橋の下の海の美しい。珊瑚礁特有の翡翠色の海が左右に広がっている。フェリーで渡っていた時は碧い海だった。イメージがあまりに違ったが、考えてみれば橋は浅い海の部分を選んで作ったのだろうから、こういう珊瑚の海があることを知らなかっただけだったのだ。さっそく車で走り始める。アーチの部分はそそり立つように高く見えたが、車がカーブに入っていくと、特にアクセルを感じることがなく自然に上がっていく。


下がる時は平たんな場所ではガードレールで遮られていた視界が一気に開け、翡翠の海が目に飛び込んでくる。時間にして6分ほどだったが、よくこんな凄い橋を作ったものだ。伊良部島へ入るとさっそく、伊良部島とほぼ地続きの下地島にある下地島空港へ向かう。その下地島空港沖の突端の道路に入るには巨石がゴロゴロと海にころがっている奇観で知られる佐和田の浜の道を進んでいけば空港フェンスが見え、周遊道路へ入っていく。そして突端へ。八重山・宮古の美しいビーチでも3本の指(他は多良間島のウカバと波照間島のニシハマ)に入る見渡す限り広がる輝く翡翠色の海は、いつ見ても本当に素晴らしい。


車を降りてしばらく眺めていたが、今まではJALANAの訓練飛行が行われ、巨大旅客機が轟音を上げてこの海の沖から我々の真上をかすめてタッチ&ゴーを繰り返す勇壮な光景が見られたのだ。DVDが何枚も出たほどの人気だった下地島空港。
しかし経費削減でフライトシュミレーターへ移行という理由でまずJALが撤退、そしてANAも撤退して、この海からジェット機が消え去ってしまった。たまに海保やRACのプロペラ機の訓練が行われることがあるそうだが、いつまで待っても一機も機影がなく、かつての賑わいを知っていただけに淋しさがつのる。
下地島空港は3000mもの滑走路を持ち、宮古空港、新石垣空港の2000mに比べはるかに大きく、那覇空港と同じで大型ジェットも使える。しかし伊良部大橋ができて宮古空港と車で30分ほど。人口5万の島に大きな空港2つ必要なはずもなく、島では物流拠点にと企画をあげるが応募などあるはずもなく、空港維持費の6億円の負担だけが重くのしかかる。中国軍への牽制のため、那覇より250㎞も国境に近い下地島空港に自衛隊配備の声が強いが、沖縄返還前の覚書で下地島空港は軍用では使わないとされていることがネックになって、今後の利用方法はまったく決まっていない。もったいない。
その後は今まで「魚が見られない」という理由で行っていなかった渡口の浜へ行ってみる。


きめ細かい白砂に囲まれたきれいなアーチ型のビーチで、駐車場から歩いて100mちょっとだったので、歩いて波打ち際まで行ってみた。白砂の上もなんとか歩け、1年前では夢だったビーチを歩いている自分に我ながら信じられない思い。これも定期的な化学療法と、週2回のリハビリの賜物、泳ぐことは考えられないが、海を目の前で見られるだけで十分だった。次に伊良部島側から伊良部大橋がよく見える絶景のスポットを道路際で見つけ、アダンの木をフレームに入れながら記念撮影。



残る目的は前にも紹介した「うずまきパン」だ。このうずまきパンは、ロールケーキのように中心にクリームが渦をまいたように入っているが、バタークリームにグラニュー糖がたっぷり入っているのが特徴だ。元祖の伊良部島の「まるそう」のうずまきパンは、クリームの量も圧倒的に多いし、なによりもグラニュー糖のジャリジャリ感が半端ない。このジャリジャリがなきゃうずまきパンじゃない!と一度食べると多くの人ははまってしまい、今や大人気になっている。値段は一個125円、見た目は袋入りのただの大きな菓子パンだ。いつも買っていたCOOPには1個もなく、聞くとファンがごっそり買っていってしまうのだとか。やられた!コンビニにもまるそう以外のものしかなく、これ以上探しても無駄なので、昔から置いてあった宮古空港の売店に賭けることにして伊良部島を後にする。
反対側から見る伊良部大橋の景色も趣が違い、これは明日も渡らないと。宮古島では昼食用にコンビニ弁当を買って車中で食べ時間短縮、さっそくうずまきパン探しを再開する。参考にするのはネットで見つけた「元祖うずまきパン名鑑」というサイトだ。宮古・八重山でのコンビニといえばココストアだが、そこの松原南店にはあるという。さっそく向かうと3個のまるそうのうずまきパンが。もちろん全部買うがこれではまったく足らない。東京では何人ものうずまきパンファンが待っているのだ。


新しく出来た宮古島の特産品を集めた大きな「道の駅みやこ」というスーパーのような店では、まるそうのうずまきパンのコーナーだけひとつもない。うーむ、これは手強いぞ。祈る思いで宮古空港へ行くと大量に置いてある店があり、自分が食べる分も欲しいので12個購入、これでやっと目的が達成できた。
もう日帰りしてもいいくらいの気分。(まるそうのうずまきパンは日持ちしないのでネット販売はないし、東京のわしたショップでも売られていない。宮古島でしか入手できない)未だ16時頃だったが、もういいやと宿泊するホテルサザンコースト宮古島へ向かった。
途中、油断してビデオのバッテリーチャージャーを忘れたためバッテリーの充電のため、ベスト電器へ寄って充電してもらう。たったの500円で充電してくれ、石垣島のベスト電器でも同じサービスがあるので、もし同じような場合があったら是非諦めずにここでチャージして欲しい。

28日(日)

翌日、朝食のバイキングを食べてロビーにあるパソコンでネットを見ていると、後ろにオリックス・バファローズのユニフォームを着た人が座っているではないか。レプリカ?と一瞬思ったがこれはどうみても本物のユニフォーム。よく見たら、ホテルの前に大きな「ようこそ!オリックス・バファローズ」の幕が張られている。そう、ここはオリックスの2軍の宿泊所だったのだ。このホテルは明らかなビジネスホテルで、1軍は宮崎。2軍だからこのホテルなんだ...とまあ納得。
自分はリゾートホテルなんて高いだけで繁華街から遠く、無駄という理由で一切チョイスしないようにしている。このホテルも宮古一の繁華街、西里へタクシーでワンメーターの距離で、好きな店で自由に食事や買い物ができる。何万も払って不便なリゾートホテルに泊まる人の気がしれない。深夜は大雨だったが、朝になると雨は止んでいた。しかし曇天。さらにかなりの強風。でも昨日に撮影は終了しているので、もう時間つぶしで1日過ごすだけだ。
まずは「紅いも餅」という絶品の餅が食べられる池間島のたもとにある「海美来」という店へ向かう。宮古島と池間島を結ぶ池間大橋も1425mあり、最高に美しい翡翠色の海を切り裂いて進んでいく。今日は曇りでいつもの色ではないが、それでもきれいだからたいしたもの。紅イモ餅はこの店の手作りで、その場で食べるしかない。紅イモの餅の表面にゴマがびっしりとまぶしてあり、アンコなど入らず、紅イモ本来の優しい甘さが味わえる。1200円だが十分に大きく、絶対にお勧めの一品である。お口直しにサザエのつぼ焼きを食べるが1150円と安い。
食べたらすぐに宮古島へ戻り、西里のA&Wへ。ここのルートビアは、東京で缶を買って飲んでもさしておいしくないのに、宮古でジョッキで飲むと美味しい。その後は再び伊良部大橋へ。この日は風速15m以上の強風で、ハンドルが取られるそうだ。この強風の中、宮古島内もそうだが、多くの完全装備のトライアスロン用のコスチュームに身を包んだ自転車乗りが数多く走っている。車に乗っていると実に邪魔。宮古島はトライアスロンのレースで有名で、今年からはコースに伊良部大橋も入るので訓練しているのだろうが、この強風、そして急坂、途中でこっちへ倒れてこないかとヒヤヒヤする。トライアスロンとか興味がまったくないので、こういう「チャリダー」は嫌いだ。
伊良部に着いたら牧山展望台へ行ってみるが、せっかく着いたのに工事中で入れず、表示が実に不親切。まだ沿道で桜が咲いていたので、それが見られただけ良しとするか。



最後に宮古島と来間島を結ぶ来間大橋で〆だ。この橋も1690mもあり、特に来間島へ渡って展望台から見るとこの橋がかかる海の美しさに息を飲むほど。翡翠色から群青色に変わっていく色だ。ただし今日は曇りだから魅力は半減以下。何度もきれいな景色を見ているので、一瞬見てすぐに宮古島へ戻る。
来間島には小さい店はあるが池間島みたいに駐車場付の大きな店が無く、また宮古島の店の多くは日曜日が休みで、さらに冬季休業とか、雨天休業とか、ゆるいというかやる気がないのだ。まあそこが魅力なんだけど、行こうと思っていた店は案の定休みだったのですぐにとんぼ帰りする。
最後は西里にある、島では珍しい24時間営業の喫茶店レオンでのステーキ定食で夕食だ。ステーキとライス、スープ、サラダがセットで1250円。2003年の時は1000円だったが、それにしても安い。もちろん霜降り肉ではないが、霜降りとか大トロとかしつこいだけで好きではないので赤味の肉の方が美味しい。何よりも肉にかけるタレが絶品なのだ。毎回行くたびに食べているのでこれで7回目だが相変わらず美味しいのでおすすめである。

空港へ着く頃にわずかに雨がフロントガラスに付いたが、降水確率80%と書いてあったのに雨はなし。宮古島のタクシーの運転手に昔、「天気予報なんて当たらないから誰も信じていないさー」という言葉を思い出す。島の空は予報などできないようだった。羽田行の直行便は1955分発だったが、羽田で昼ごろ落雷があって機種を変更したとかで1時間の遅延となる。
2055分に出発となり、羽田には2325分と遅い到着となった。帰りは飛行機から荷物を受け取るゲートまで遠いが、15分くらいの道のりを、空港の男の係員さんがずっと車椅子を押して行ってくれる。こんな遠い距離なのに本当に親切だ。やはり到着すると車椅子がちゃんと用意されていて、すぐに乗り移ることができた。日本の障害者サービスも相当のレベルに来たなと、感謝と嬉しい気分。また飛行機でどこか12日で行って見ようと思えたサービスだった。
翌月曜は、私は体力的に職場に休暇を出していたので、帰りの運転は自分が担当する。相変わらず環八への入り方が分からずにカーナビの指示もメチャクチャで空港を3週してようやく環八に入ることができた。木曜からはまたいつもの定期入院。今度はマイルがたまっているのでマイルで予約できるような場所を探していきたい。予算もないしね。宮古・石垣の直行便は空きがなく、マイルでの予約は不可能に近いので、どこか他の場所になると思うけど...。足が悪いから山坂がダメだし、なかなか候補が難しい。でも今回の旅行で自信が付いたので、また行ってみよう。(佐野邦彦)