2011年2月1日火曜日

三軒茶屋とがっちゃんこや



佐野邦彦

タモリが東京の町を散策するNHKの「ブラタモリ」という番組を見た。その第3回は二子玉川。第1回が早稲田、そして二子玉川だからセレクトが素晴らしい。浅草や渋谷あたりからスタートしていたら興ざめだったが、さすがタモリである。そして二子玉川だから案の定、玉電が出てきた。そう、電車の玉電である。



まだ首都高速がなかった時代の広々とした国道246号。三軒茶屋交差点から三宿方面を望む。昭和30年代から一挙に道幅が2.5倍になり、あまりの広さに当時「100m道路」と呼んでいた。撮影時期は昭和40年代前半ではないか。左の太陽銀行は、太陽神戸→太陽神戸三井→さくら→三井住友と目まぐるしく変わったが、子供の頃は夕方5時に「からすの子」のメロディが流れ、それを聞いたら帰るというのが、三軒茶屋に住む子供の約束事だった。確か「愛の鐘」という名で、画面の端にその文字の一部が見える。この写真の左側の三井銀行と先に見える歩道橋(今でもある)の中間くらいが実家の場所。(246には面していない)

 私の実家は三軒茶屋にあり、職場も三軒茶屋にある。私が今住んでいるのは上町で、三軒茶屋と上町は、「玉電」の一支線だった現在の世田谷線で一本に結ばれている。玉電はいつもそばにあったので、体の一部のような感覚がある。普段はまったく意識していないが、こうやって取り上げられると色めきたってしまうから不思議だ。そんなことで、今回は沖縄ではなく、地元の三軒茶屋と玉電について、書いてみたくなった。徒然なるままに書かせてもらうので話は色々と飛ぶが、今から40年前はこうだったのかと思っていただければ幸いだ。
私のような地元民は、今でも世田谷線とはいわずに玉電と呼ぶ。
 玉電は子供の頃、目の前を走っていた。渋谷から二子玉川まで走る路面電車が玉川線こと「玉電」だった。私の家の前には「東太子堂」という駅があったそうだが、もの心ついた時には廃止されていた。通っていた小学校が深沢にあったため、今の国道246号を走る「等々力行」のバスに乗って通学していた。バス停で待つその目の前を、ガタゴトと玉電が走り去っていく。バス停の目の前には歩道橋があるのだが、玉電がその下を通過する時に、パンタグラフから火花が飛ぶのを見るのが楽しみで、退屈なバス待ちの時間を少し潤してくれていた。
 バス停留所の名前は「昭和女子大学前」。三軒茶屋とは一駅違いだが、私は「どこに住んでいるの?」と聞かれた時はいつも「昭和女子大学!」と答えていた。三軒茶屋とは答えたくなかったのだ。毎日の買い物は歩いて2、3分にある三軒茶屋へ行くわけだが、当時の三軒茶屋は少しもオシャレな町ではなかった。特にイメージが悪かったのが、「文華マーケット」と呼ばれた穴倉のような商店街である。しばしば母親に連れられてその文華マーケットで買い物をしたのだが、一応アーケードにはなっているのだが昼でもいつも薄暗く、床は土で常に水溜りがどこかにあり、そして漬物のようなすえたにおいが商店街全体を覆っていた。私が苦手なカマドウマがいつ出てきても不思議ではない文華マーケットが大嫌いで、この文華マーケットが町の中心にあった三軒茶屋は、恥ずべき地名だったのである。だからあえてバス停の昭和女子大学を名乗っていた。だから今、住みたい町で三軒茶屋が常にトップ10内にランクされていると聞くと、この頃を知っているだけに、隔世の感を禁じえない。こそばゆい感じがしてしまう。
 この文華マーケットは、二度に渡る不審火により焼け野原になり、これがきっかけになって三軒茶屋は大きく変わっていくことになる。そう、中学生の時だった。大好きだった深夜放送の谷村新司のセイヤングを聞いていた時に、三軒茶屋の文華マーケットが火災で炎上中という臨時ニュースが入った。隣の部屋で同じ番組を聞いていた弟と、「聞いたか?」「おう、見に行こう」と夜中にもうもうと白煙が上がる現場を見に行ったことを思い出す。汚い文華マーケットが焼けることは嬉しいことだった。その焼け野原に真っ先に出来たのが、当時としては最先端の存在だったマクドナルドだった。くすんだ印象の三軒茶屋の街中に、目に鮮やかなマクドナルドの赤色は眩しいほどで、それはあきらかな変化を感じさせてくれた。
 話は少し前に戻る。私の家から三軒茶屋の方角の先に富士山があるのだが、小学生の頃、平屋の実家の屋根に上ると富士山が見えていた。その富士山は、現在の西友の前に建っていた「緑屋」という3階建て程度のデパートが出来て見えなくなってしまったのだが、それほど三軒茶屋に高い建物など存在していなかったのである。家の周りには空き地がけっこうあり、銀玉鉄砲を使った戦争ごっこにはもってこい、そして歩いて30メートル程先には、電話を持っていない人が消防車を呼ぶための赤い電信柱が立っていた。そこには透明なプラスチックの覆いの下に大きなボタンがあり、子供心にそれを押したくてしようがなかった。その赤い電信柱の横の空き地には防空壕の跡が残っていて、その地の底へ繋がっているような地下へと続く真っ暗な階段は、子供にとっては恐怖そのものであり、誰一人その階段を下りようとはしなかった。三軒茶屋で最も洒落た場所のひとつは駅前の不二家で、大きなペコちゃんが置いてあるその二階のレストランで、チョコレートパフェなどを食べさせてもらうことが楽しみだった。その不二家の先にはウナギを焼いている店があり、道路端で大きなまな板の上に生きているウナギを乗せて目玉に目打ちを刺して固定、バタバタ暴れるウナギを包丁で半分に裂いていくのを見るのは、興味半分、怖さ半分でドキドキしながら見ていたものだ。小学校に入るか入らないかの頃なので、昭和39年頃の三軒茶屋とはそういう場所だったのである。
 小学生になると茶沢通りにある塾に通うようになった。その茶沢通りは定期的に縁日があってその日には出店があの狭い通りにずらりと並ぶので、それを見ながら帰るのが楽しみだった。月に3回くらいあったように思う。ハッカパイプ、重りが入ったうずら程度の楕円形のタマを木で作った滑り台状の通路を転がりながら落とすオモチャなど、今もまだあるのだろうか。電球の黄色い灯りに照らされた縁日の光景は、その温もりと一緒に脳裏に残っている。
 ある日のことだ。その不二家の先の道路端に身をこごめた老婆が七味とうがらしを売っていた。その老婆は声を出すこともなくただ座っているだけで、前には折りたたみの小さな机を置き、七味を入れた容器がいくつか置いてあった。こしかけて休んでいるかのようなその老婆の存在は、行きかう人の目には入らない。私はその先にある駄菓子屋で、通称「がっちゃんこや」に行くため、毎日のようにその前を通るのだが、誰一人、その老婆から七味とうがらしを買う人はいない。子供心には老婆は無視されているように思えた。見るたびに老婆が哀れに見え、心が痛む毎日が続く。毎日のように顔を出す近所のおばさんにこの老婆の話をすると、「ああ、知ってるよ。こういう人に限ってお金を持っているんだよ。」とにべも無い。知ってるんだ。それならいつか自分が買ってあげよう。でも小学生の自分にとって七味とうがらしなど余りに縁遠い存在であり、老婆は金額を書いたものを出していないので、いくら用意していいかも分からない。少しずつお金を貯め、ある日、思い切って老婆の前に立って「これ、ください」といった。勇気が必要だった。幾らかは覚えていないが、手持ちギリギリだったような覚えがある。老婆はゆっくりと七味とうがらしが詰まった円形の容器のふたを開け、スプーンでひとかきひとかき、持ち帰り用の容器に七味を移していく。受け取ると、逃げるように走って我が家へ戻った。小学生の男子にとって、この七味のことを親に話すのは気恥ずかしく、台所の隅にそっと置いておいた。もともと辛いものはあまり食べない家だったのでその七味唐辛子を使った様子は一度も見ることがなく、数年たったある日、空けてみたら蛆がわいていた。
その老婆はいつしか姿を見せなくなった。いなければもう見なくて済む。亡くなってしまったのかな。いや、どこかで元気にしているかも。でももうここに現れないで。そういう考え方をしてしまう自分の情けなさとの葛藤もあり、しばらくはその思いは澱のように心の中に残っていた。
 
がっちゃんこや
その店は、玉電の三軒茶屋駅の線路際にあった。今のキャロットタワーが立っているその場所だ。駄菓子とパチンコなどのオモチャを売っているいわゆる駄菓子屋で、私を含めみな「がっちゃんこや」と呼んでいた。しかし本当の店の名前は確か「オモチャの丸高」だったように思う。誰が、いつ、そう呼び出したのか分からないし、また私と弟はどちらもバス通学で地元の区立小学校に通っていなかったので、三軒茶屋に住む友達というのが二人とも無く、周りから聞いたということもなかった。でもこの店は「がっちゃんこや」、この名前しかなかった。
 私の実家は三軒茶屋にあり、職場も三軒茶屋にある。私が今住んでいるのは上町で、三軒茶屋と上町は、「玉電」の一支線だった現在の世田谷線で一本に結ばれている。玉電はいつもそばにあったので、体の一部のような感覚がある。普段はまったく意識していないが、こうやって取り上げられると色めきたってしまうから不思議だ。そんなことで、今回は沖縄ではなく、地元の三軒茶屋と玉電について、書いてみたくなった。徒然なるままに書かせてもらうので話は色々と飛ぶが、今から40年前はこうだったのかと思っていただければ幸いだ。
私のような地元民は、今でも世田谷線とはいわずに玉電と呼ぶ。
 玉電は子供の頃、目の前を走っていた。渋谷から二子玉川まで走る路面電車が玉川線こと「玉電」だった。私の家の前には「東太子堂」という駅があったそうだが、もの心ついた時には廃止されていた。通っていた小学校が深沢にあったため、今の国道246号を走る「等々力行」のバスに乗って通学していた。バス停で待つその目の前を、ガタゴトと玉電が走り去っていく。バス停の目の前には歩道橋があるのだが、玉電がその下を通過する時に、パンタグラフから火花が飛ぶのを見るのが楽しみで、退屈なバス待ちの時間を少し潤してくれていた。
 バス停留所の名前は「昭和女子大学前」。三軒茶屋とは一駅違いだが、私は「どこに住んでいるの?」と聞かれた時はいつも「昭和女子大学!」と答えていた。三軒茶屋とは答えたくなかったのだ。毎日の買い物は歩いて2、3分にある三軒茶屋へ行くわけだが、当時の三軒茶屋は少しもオシャレな町ではなかった。特にイメージが悪かったのが、「文華マーケット」と呼ばれた穴倉のような商店街である。しばしば母親に連れられてその文華マーケットで買い物をしたのだが、一応アーケードにはなっているのだが昼でもいつも薄暗く、床は土で常に水溜りがどこかにあり、そして漬物のようなすえたにおいが商店街全体を覆っていた。私が苦手なカマドウマがいつ出てきても不思議ではない文華マーケットが大嫌いで、この文華マーケットが町の中心にあった三軒茶屋は、恥ずべき地名だったのである。だからあえてバス停の昭和女子大学を名乗っていた。だから今、住みたい町で三軒茶屋が常にトップ10内にランクされていると聞くと、この頃を知っているだけに、隔世の感を禁じえない。こそばゆい感じがしてしまう。
 この文華マーケットは、二度に渡る不審火により焼け野原になり、これがきっかけになって三軒茶屋は大きく変わっていくことになる。そう、中学生の時だった。大好きだった深夜放送の谷村新司のセイヤングを聞いていた時に、三軒茶屋の文華マーケットが火災で炎上中という臨時ニュースが入った。隣の部屋で同じ番組を聞いていた弟と、「聞いたか?」「おう、見に行こう」と夜中にもうもうと白煙が上がる現場を見に行ったことを思い出す。汚い文華マーケットが焼けることは嬉しいことだった。その焼け野原に真っ先に出来たのが、当時としては最先端の存在だったマクドナルドだった。くすんだ印象の三軒茶屋の街中に、目に鮮やかなマクドナルドの赤色は眩しいほどで、それはあきらかな変化を感じさせてくれた。
 話は少し前に戻る。私の家から三軒茶屋の方角の先に富士山があるのだが、小学生の頃、平屋の実家の屋根に上ると富士山が見えていた。その富士山は、現在の西友の前に建っていた「緑屋」という3階建て程度のデパートが出来て見えなくなってしまったのだが、それほど三軒茶屋に高い建物など存在していなかったのである。家の周りには空き地がけっこうあり、銀玉鉄砲を使った戦争ごっこにはもってこい、そして歩いて30メートル程先には、電話を持っていない人が消防車を呼ぶための赤い電信柱が立っていた。そこには透明なプラスチックの覆いの下に大きなボタンがあり、子供心にそれを押したくてしようがなかった。その赤い電信柱の横の空き地には防空壕の跡が残っていて、その地の底へ繋がっているような地下へと続く真っ暗な階段は、子供にとっては恐怖そのものであり、誰一人その階段を下りようとはしなかった。三軒茶屋で最も洒落た場所のひとつは駅前の不二家で、大きなペコちゃんが置いてあるその二階のレストランで、チョコレートパフェなどを食べさせてもらうことが楽しみだった。その不二家の先にはウナギを焼いている店があり、道路端で大きなまな板の上に生きているウナギを乗せて目玉に目打ちを刺して固定、バタバタ暴れるウナギを包丁で半分に裂いていくのを見るのは、興味半分、怖さ半分でドキドキしながら見ていたものだ。小学校に入るか入らないかの頃なので、昭和39年頃の三軒茶屋とはそういう場所だったのである。
 小学生になると茶沢通りにある塾に通うようになった。その茶沢通りは定期的に縁日があってその日には出店があの狭い通りにずらりと並ぶので、それを見ながら帰るのが楽しみだった。月に3回くらいあったように思う。ハッカパイプ、重りが入ったうずら程度の楕円形のタマを木で作った滑り台状の通路を転がりながら落とすオモチャなど、今もまだあるのだろうか。電球の黄色い灯りに照らされた縁日の光景は、その温もりと一緒に脳裏に残っている。
 ある日のことだ。その不二家の先の道路端に身をこごめた老婆が七味とうがらしを売っていた。その老婆は声を出すこともなくただ座っているだけで、前には折りたたみの小さな机を置き、七味を入れた容器がいくつか置いてあった。こしかけて休んでいるかのようなその老婆の存在は、行きかう人の目には入らない。私はその先にある駄菓子屋で、通称「がっちゃんこや」に行くため、毎日のようにその前を通るのだが、誰一人、その老婆から七味とうがらしを買う人はいない。子供心には老婆は無視されているように思えた。見るたびに老婆が哀れに見え、心が痛む毎日が続く。毎日のように顔を出す近所のおばさんにこの老婆の話をすると、「ああ、知ってるよ。こういう人に限ってお金を持っているんだよ。」とにべも無い。知ってるんだ。それならいつか自分が買ってあげよう。でも小学生の自分にとって七味とうがらしなど余りに縁遠い存在であり、老婆は金額を書いたものを出していないので、いくら用意していいかも分からない。少しずつお金を貯め、ある日、思い切って老婆の前に立って「これ、ください」といった。勇気が必要だった。幾らかは覚えていないが、手持ちギリギリだったような覚えがある。老婆はゆっくりと七味とうがらしが詰まった円形の容器のふたを開け、スプーンでひとかきひとかき、持ち帰り用の容器に七味を移していく。受け取ると、逃げるように走って我が家へ戻った。小学生の男子にとって、この七味のことを親に話すのは気恥ずかしく、台所の隅にそっと置いておいた。もともと辛いものはあまり食べない家だったのでその七味唐辛子を使った様子は一度も見ることがなく、数年たったある日、空けてみたら蛆がわいていた。
その老婆はいつしか姿を見せなくなった。いなければもう見なくて済む。亡くなってしまったのかな。いや、どこかで元気にしているかも。でももうここに現れないで。そういう考え方をしてしまう自分の情けなさとの葛藤もあり、しばらくはその思いは澱のように心の中に残っていた。
 
がっちゃんこや
その店は、玉電の三軒茶屋駅の線路際にあった。今のキャロットタワーが立っているその場所だ。駄菓子とパチンコなどのオモチャを売っているいわゆる駄菓子屋で、私を含めみな「がっちゃんこや」と呼んでいた。しかし本当の店の名前は確か「オモチャの丸高」だったように思う。誰が、いつ、そう呼び出したのか分からないし、また私と弟はどちらもバス通学で地元の区立小学校に通っていなかったので、三軒茶屋に住む友達というのが二人とも無く、周りから聞いたということもなかった。でもこの店は「がっちゃんこや」、この名前しかなかった。
 私の実家は三軒茶屋にあり、職場も三軒茶屋にある。私が今住んでいるのは上町で、三軒茶屋と上町は、「玉電」の一支線だった現在の世田谷線で一本に結ばれている。玉電はいつもそばにあったので、体の一部のような感覚がある。普段はまったく意識していないが、こうやって取り上げられると色めきたってしまうから不思議だ。そんなことで、今回は沖縄ではなく、地元の三軒茶屋と玉電について、書いてみたくなった。徒然なるままに書かせてもらうので話は色々と飛ぶが、今から40年前はこうだったのかと思っていただければ幸いだ。
私のような地元民は、今でも世田谷線とはいわずに玉電と呼ぶ。
 玉電は子供の頃、目の前を走っていた。渋谷から二子玉川まで走る路面電車が玉川線こと「玉電」だった。私の家の前には「東太子堂」という駅があったそうだが、もの心ついた時には廃止されていた。通っていた小学校が深沢にあったため、今の国道246号を走る「等々力行」のバスに乗って通学していた。バス停で待つその目の前を、ガタゴトと玉電が走り去っていく。バス停の目の前には歩道橋があるのだが、玉電がその下を通過する時に、パンタグラフから火花が飛ぶのを見るのが楽しみで、退屈なバス待ちの時間を少し潤してくれていた。
 バス停留所の名前は「昭和女子大学前」。三軒茶屋とは一駅違いだが、私は「どこに住んでいるの?」と聞かれた時はいつも「昭和女子大学!」と答えていた。三軒茶屋とは答えたくなかったのだ。毎日の買い物は歩いて2、3分にある三軒茶屋へ行くわけだが、当時の三軒茶屋は少しもオシャレな町ではなかった。特にイメージが悪かったのが、「文華マーケット」と呼ばれた穴倉のような商店街である。しばしば母親に連れられてその文華マーケットで買い物をしたのだが、一応アーケードにはなっているのだが昼でもいつも薄暗く、床は土で常に水溜りがどこかにあり、そして漬物のようなすえたにおいが商店街全体を覆っていた。私が苦手なカマドウマがいつ出てきても不思議ではない文華マーケットが大嫌いで、この文華マーケットが町の中心にあった三軒茶屋は、恥ずべき地名だったのである。だからあえてバス停の昭和女子大学を名乗っていた。だから今、住みたい町で三軒茶屋が常にトップ10内にランクされていると聞くと、この頃を知っているだけに、隔世の感を禁じえない。こそばゆい感じがしてしまう。
 この文華マーケットは、二度に渡る不審火により焼け野原になり、これがきっかけになって三軒茶屋は大きく変わっていくことになる。そう、中学生の時だった。大好きだった深夜放送の谷村新司のセイヤングを聞いていた時に、三軒茶屋の文華マーケットが火災で炎上中という臨時ニュースが入った。隣の部屋で同じ番組を聞いていた弟と、「聞いたか?」「おう、見に行こう」と夜中にもうもうと白煙が上がる現場を見に行ったことを思い出す。汚い文華マーケットが焼けることは嬉しいことだった。その焼け野原に真っ先に出来たのが、当時としては最先端の存在だったマクドナルドだった。くすんだ印象の三軒茶屋の街中に、目に鮮やかなマクドナルドの赤色は眩しいほどで、それはあきらかな変化を感じさせてくれた。
 話は少し前に戻る。私の家から三軒茶屋の方角の先に富士山があるのだが、小学生の頃、平屋の実家の屋根に上ると富士山が見えていた。その富士山は、現在の西友の前に建っていた「緑屋」という3階建て程度のデパートが出来て見えなくなってしまったのだが、それほど三軒茶屋に高い建物など存在していなかったのである。家の周りには空き地がけっこうあり、銀玉鉄砲を使った戦争ごっこにはもってこい、そして歩いて30メートル程先には、電話を持っていない人が消防車を呼ぶための赤い電信柱が立っていた。そこには透明なプラスチックの覆いの下に大きなボタンがあり、子供心にそれを押したくてしようがなかった。その赤い電信柱の横の空き地には防空壕の跡が残っていて、その地の底へ繋がっているような地下へと続く真っ暗な階段は、子供にとっては恐怖そのものであり、誰一人その階段を下りようとはしなかった。三軒茶屋で最も洒落た場所のひとつは駅前の不二家で、大きなペコちゃんが置いてあるその二階のレストランで、チョコレートパフェなどを食べさせてもらうことが楽しみだった。その不二家の先にはウナギを焼いている店があり、道路端で大きなまな板の上に生きているウナギを乗せて目玉に目打ちを刺して固定、バタバタ暴れるウナギを包丁で半分に裂いていくのを見るのは、興味半分、怖さ半分でドキドキしながら見ていたものだ。小学校に入るか入らないかの頃なので、昭和39年頃の三軒茶屋とはそういう場所だったのである。
 小学生になると茶沢通りにある塾に通うようになった。その茶沢通りは定期的に縁日があってその日には出店があの狭い通りにずらりと並ぶので、それを見ながら帰るのが楽しみだった。月に3回くらいあったように思う。ハッカパイプ、重りが入ったうずら程度の楕円形のタマを木で作った滑り台状の通路を転がりながら落とすオモチャなど、今もまだあるのだろうか。電球の黄色い灯りに照らされた縁日の光景は、その温もりと一緒に脳裏に残っている。
 ある日のことだ。その不二家の先の道路端に身をこごめた老婆が七味とうがらしを売っていた。その老婆は声を出すこともなくただ座っているだけで、前には折りたたみの小さな机を置き、七味を入れた容器がいくつか置いてあった。こしかけて休んでいるかのようなその老婆の存在は、行きかう人の目には入らない。私はその先にある駄菓子屋で、通称「がっちゃんこや」に行くため、毎日のようにその前を通るのだが、誰一人、その老婆から七味とうがらしを買う人はいない。子供心には老婆は無視されているように思えた。見るたびに老婆が哀れに見え、心が痛む毎日が続く。毎日のように顔を出す近所のおばさんにこの老婆の話をすると、「ああ、知ってるよ。こういう人に限ってお金を持っているんだよ。」とにべも無い。知ってるんだ。それならいつか自分が買ってあげよう。でも小学生の自分にとって七味とうがらしなど余りに縁遠い存在であり、老婆は金額を書いたものを出していないので、いくら用意していいかも分からない。少しずつお金を貯め、ある日、思い切って老婆の前に立って「これ、ください」といった。勇気が必要だった。幾らかは覚えていないが、手持ちギリギリだったような覚えがある。老婆はゆっくりと七味とうがらしが詰まった円形の容器のふたを開け、スプーンでひとかきひとかき、持ち帰り用の容器に七味を移していく。受け取ると、逃げるように走って我が家へ戻った。小学生の男子にとって、この七味のことを親に話すのは気恥ずかしく、台所の隅にそっと置いておいた。もともと辛いものはあまり食べない家だったのでその七味唐辛子を使った様子は一度も見ることがなく、数年たったある日、空けてみたら蛆がわいていた。
その老婆はいつしか姿を見せなくなった。いなければもう見なくて済む。亡くなってしまったのかな。いや、どこかで元気にしているかも。でももうここに現れないで。そういう考え方をしてしまう自分の情けなさとの葛藤もあり、しばらくはその思いは澱のように心の中に残っていた。
 
がっちゃんこや
その店は、玉電の三軒茶屋駅の線路際にあった。今のキャロットタワーが立っているその場所だ。駄菓子とパチンコなどのオモチャを売っているいわゆる駄菓子屋で、私を含めみな「がっちゃんこや」と呼んでいた。しかし本当の店の名前は確か「オモチャの丸高」だったように思う。誰が、いつ、そう呼び出したのか分からないし、また私と弟はどちらもバス通学で地元の区立小学校に通っていなかったので、三軒茶屋に住む友達というのが二人とも無く、周りから聞いたということもなかった。でもこの店は「がっちゃんこや」、この名前しかなかった。


三軒茶屋交差点で左の協和銀行(今のビッグエコー)と信号機の間が世田谷通り。玉電が走っているのは246の方。玉電のちょうど後ろに不二家の看板が見える。がっちゃんこやは、三井信託銀行の少し先(左)を右に曲がったところにあった。この写真も昭和40年代前半と思われる。

 がっちゃんこやでいつも買っていたのは、駄菓子だった。試験管のような容器に入っていた原色のゼリー状のものとか、印象に残る駄菓子はあるが、自分がしょっちゅう買っていたのは、甘酸っぱい梅だった。ビニール袋の中にその梅は入れられていて、1個単位で売ってくれる。大きさは2種類あり、確か3円と5円とか、とにかく10円以内で買えたのだ。そしてその梅は、小さく切った新聞紙に挟んで渡された。

 10円で複数のものが買えるというのは子供にとって大きい。親からもらった硬貨を握り締め、店先であれこれ悩みながら、何を買うか考える。
 店にはおばあさんとおじいさんが二人いて、多く立っているのはおばあさんだった。
 寡黙なおじいさんに比べおばあさんはうるさい。「これ幾ら?」「これは?」と何度も聞いていると、その内に「早く決めとくれ」と怒られてしまう。でも子供にとっては簡単に決められない。だから店に入るとき、おばあさんが立っていると、心構えが違った。早く決めないとまずい。ちょっとした人生勉強でもあった。
 しかしもう小学校高学年にもなると行く回数が減りはじめ、中学生になってからはがっちゃんこやへ行くことが無くなった。
 確か高校生になってからのことだ。プラモデルか、パチンコだったか忘れたが、がっちゃんこやなら売っているかもしれないと思い出し、久々に店へ訪れた。
 ガラガラと引き戸を開けると、あの怖いおばあさんが出てきた。
「いらっしゃい」と穏やかに声をかけられる。顔も柔和だ。驚いた。あの頃から身長が大きく伸び、おばあさんを見下ろしている自分は、おばあさんにとってはもう子供の客ではないのだ。
欲しいものを探している間に目に飛び込んだのは、この老夫婦の質素な生活だった。身長が伸びたから初めて店の奥の居間の中の様子が見えた。丸いちゃぶだいと、ステレオくらいの大きなラジオ。全てが長く使い込まれたものばかりで、贅沢なものは何一つなかった。裸電球が照明だったのでその黄色の光は全てをモノトーンに染め、清貧さを際立たせた。子供達がにぎりしめた、汗のしみこんだような10円ばかりを集めてこの二人は暮らしてきたのだ。裕福な暮らしなどできるはずがなかった。その時にこの老夫婦がとても身近な人に思え、おばあさんはあのとうがらし売りの老婆と重なって見えた。
 それからしばらくして、母親から「がっちゃんこやのおじいさんが死んだ」と聞かされた。あのやさしいおじいさんは天国へ旅立ったのか。年だからな。仕方が無い。
 さらに1ヶ月を経た頃、残されたおばあさんが角の第一勧業銀行近くの歩道の段差に腰掛けて身をこごめ、丸くなって休んでいた。おばあさんを店の外で見るのは初めてで、その疲れた姿は、自分の記憶の中のこわいおばあさんのイメージとはまったく違う年老いた老婆の姿だった。おばあさん、大丈夫かな。
 それから1週間ほどしておばあさんも亡くなったと聞いた。おじいさんの跡を追うようにすぐに旅立ったのだ。よかったな。これでいいんだ。これでいい。
 なぜかとても幸せな気持ちになった。
 そしてがっちゃんこやは、私にとって大切な、暖かい、記憶になった。







☆三軒茶屋ギャラリー
〇首都高のない国道246号(カラー編)

〇実家により近い昭和女子大バス停に近い246号(カラー)
〇がっちゃんこ屋に行く世田谷通り方面の世田谷線
〇実家に直近の246号と、商店街、遠くに長崎屋

〇今はない三軒茶屋歩道橋より

〇三軒茶屋歩道橋付近
〇246三軒茶屋交差点の先、中里手前の信号
〇玉電は中里専用軌道を走る。穏やかに見えるが、246号は車で大渋滞に
〇茶沢通り。今は無いケーキの名店ヒサモトや、移転した河野スポーツなど















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